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この説明に出てくる専念寺が、当に今回見ていく専念寺です。小川原湖伝説に関わる寺院ということで、すごく楽しみです。では、見ていきましょう谷地頭神社の前身は専念寺という寺院 だそうで、祭神である橘尼ノ君による創建です。橘尼は橘中納言道忠公の奥方で、道忠公と二人の娘を追って小川原湖畔へたどり着いたといいます。道忠公はすでに亡くなり、娘二人も後を追うように入水、彼らの供養のため橘尼によって専念寺が建立されました。
専念寺は後に賊によって放火され、炎上。 本尊は僧によって運び出され、近くの沼に隠されました。後から村人たちによって本尊は拾い出されるも、専念寺は五戸に移ります。 本尊が拾われた沼は”仏沼”と名付けられます。また、娘の内妹が入水した湖は小川原湖(妹沼)、姉が入水した湖を姉沼、橘尼が亡くなった場所を天ヶ森(尼ヶ森)というようです。












一向山 無量院 専念寺
開山:嘆蓮社岌誉上人旦応大和尚
専念寺の歴史
・・・。当寺は三浦千大夫が嘆蓮社岌誉上人旦応大和尚を招き、1570年に開山したと言われている。当初、上北郡小川原に開かれたが谷地頭、百石町、轟木など数度移転を繰り返し元禄3年(1690年)には十二代目誠蓮社諦誉上人路源大和尚が現在の位置に初めて寺らしい本堂、山門を建立したため、その功績を買われ中興開山を授与されている。寺の移転に際し、寺の呼称も海光山専念寺、市川山専念寺などと変わっている。元禄12年(1696年)には鐘楼が、文化10年(1813年)には御本尊である阿弥陀如来像が奉納されている。その鐘楼は境内の銀杏の木の脇に大きなやぐらがあって昭和17年(1942年)2月中旬まで用いられていたが、戦時中に軍需物資として搬出された。
・・・。
大正2年(1913年)の火災により末寺だった円重寺が焼失し、本尊阿弥陀如来像が新調されたが、その後その寺が廃寺となった為、昭和27年(1952年)に専念寺に移されている。大正10年(1921年)、二十八代目随蓮社向誉上人念阿林堂雄善大和尚が本堂を一新し、平成元年には二十九代目の現住職が庫裡を新築して現在に至っている。
谷地頭神社の説明書きと同一のエピソードですが、今回は更にその先、観音像がいかにしてこの寺に戻ってきたかも知ることが出来ました。道忠公が彫ったとされる千手観音像は、専念寺本尊阿弥陀如来像右手の厨子内に保管されているとされます。説明通りなら次の御開帳は2039年。15年後となっています。うーん、見てみたいなぁ
白雉年間(650~654年)、橘中納言道忠という人物が世を儚んで出家し、関東から東北を巡り、今の小川原湖のほとりに庵を結び、自ら観世音菩薩の像を彫り、日々を送ったという。道忠には姉を玉代姫、妹は勝世姫の二人の娘があって、父を恋したう情に耐えかねて父道忠の行方を捜すため、家来二人を従え、東北の地、古間木まで辿り着いたが、「道忠は既に病死した」と聞き、悲しみのあまり夜密かに湖岸をさまよい、姉妹別れ別れに入水して果てたという。
一方、京都では、二人の娘が帰らなかったので、道忠の奥方と弟の二人は家来と共に道忠の庵を訪ね、ここに小寺を建て、道忠の菩提を弔ったという。
南北朝時代の戦乱の中、盗賊が境内に侵入した際、当時の住職が道忠の彫った本尊を背負い寺を離れたが、追い付かれそうになったため、近くにあった沼(後の仏沼)に本尊を投げ入れた。その後、仏像が二体岸にあがったので村民が拾いあげたという。
そのうち一体の千手観音像を奉置し寺を再興したが、凶作続きで人は減り、寺の維持が難しくなったので、この観音像を根岸に移した。当時は今の百石は無く、根岸、藤ケ森などの部落民によって守られていたが、その後の凶作によって轟木に移転、鈴木与兵衛の先祖によって新たに庵を建て崇敬の的となった。その後五戸村には、代官所が出来て栄えたので、そこに観音像を移し、寺を建てて浄土宗とし、寺号はそのまま専念寺としたが、山号は一向山と改めたとある。
この秘仏は50年に一度、開帳し参拝者に公開される。この行事は昭和14年(1939年)6月25日、平成元年(1989年)6月14日に行われている。


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