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延暦20年(801年)
弘仁元年(810年)
国家の崇敬厚く、嵯峨天皇より宸筆の八幡宮寳印をたまわりました。
嘉祥3年(850年)
当宮別当職円仁(慈覚大師)は宮と宮附属の安国寺にて最勝王経を講じ、修正会、修二会、放生会、八講等の諸祭をおこない、これを恒例としました。
天慶3年(941年)藤原秀郷は平将門征討のおり、当宮に神領ならび神剣を奉納し戦勝を祈願しました。
康平5年(1063年)
源頼義また源義家は鎮守府将軍として当宮に戦勝を祈願しました。
治承元年(1177年)
奥州平泉藤原氏は当宮を尊崇し十六羅漢像をはじめ社殿の造営、広大な神領、数多くの神宝を奉納し厚く崇敬しました。
文治5年(1189年)
源頼朝は殊に欽仰し当宮を第ニ殿と号し全神事ことごとく鎌倉幕府の御願とし、陸奥出羽両国の所済物(税)をもって盛儀諸祭を執行しこれを恒例としました。中世には奥州伊澤八幡宮とも称され奥州総奉行の葛西氏や葛西氏の重臣、柏山氏の崇敬をうけました。
建武3年(1336年)
北畠顕家は鎮守府将軍として祈願参拝しました。
延元2年(1337年)
南北朝騒乱の兵火に遇い壮麗を極めた社殿群や多数の神宝什物はことごとく廃塵に帰しました。
貞和4年(1348年)
北朝奥州探題吉良貞家は胆沢、江刺、和賀、気仙、斯波の五郡の棟別銭をもって南北朝騒乱期に焼失した社殿群を新に造営再建しました。
明徳元年(1390年)天台宗 我等山 安国寺を修験道に改めました。
天正19年(1591年)
豊臣秀吉も厚く崇敬し浅野弾正長政をして社殿の造営と多数の境内社の修造をおこない広大な境内地の神領を安堵しました。
寛永6年(1629年)・寛文2年(1662年)・貞享2年(1685年)・元禄7年(1694年)・宝永6年(1709年)・享保2年(1717年)
江戸時代には仙台藩伊達氏の厚い保護を受け仙台藩筆頭の八幡神として崇敬せられ、藩費をもって社殿の造営修復をしました。
寛永14年(1637年)
伊達政宗の正室愛姫は慶長洪水のため決潰した社地の修造と社殿を現在地に遷座しました。
文化8年(1811年)
藩主、藩士、仙台城以北奥七郡406ヶ村の大肝入、肝入、検断、村々の総勧化(寄付)をもって現社殿を造営しました。
当宮は奥州街道沿いに鎮座することもあって、街道を往く幕府巡見使や仙台藩主、盛岡藩主さらに幕末には函館奉行所へ赴任する幕府役人を始め近藤重蔵など歴史に名を残している者が多数参詣しています。
明治9年(1876年)
明治天皇は東北御巡幸のみぎり、右大臣岩倉具視、宮内卿徳大寺實則、内閣顧問木戸孝允を遣わして御代拝あらせられました。
大正11年(1922年)
県社に列しました。数ある神宝のなかで特に嵯峨天皇宸筆の八幡宮寳印、坂上田村麻呂奉納の宝剣と鏑矢、源義家奉納の御弓、伊達氏奉納の太刀などがあります。
江戸時代の紀行家菅江真澄も当宮を参詣し最霊石や宝剣と鏑矢を拝し、その絵を残しています。
岩手の山
天明8年(1788年)6月21日
天明8年(1788年)6月22日
雨はやんだが朝の空はなおくもっているので、どうしようかとためらっているうち、またふりだしてきた。きょうは岩谷堂(江刺市)という村までわたろうと思ったが、この北上川の水がたいそうふかく、舟は出すまいと人が言うので、しかたなく、どのようにして江刺郡に行こうかと、ひとり空ばかりあおいで考えていた。
八幡神社に詣で、この由緒ぶかい祭神の神秘な霊力に接し奉りたいと、これから御社に行こうと思ったとき、大声で渡船をしらせる声がきこえた。「これで北上川の往来はあるでしょう、お急ぎなさい」と人々が言うので、不本意ながら八幡神社詣ではやめて、舟のほうに出むいた。もっとも、昨年、一昨年とこの神社には幣を奉っている。
主人に別れて八幡村を離れて川辺に行くと、「お急ぎなさい、舟が出る」とばかり、さかまく波に舟棹を何人もの力でついた。




















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