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権現山 光成院
浄土宗 浅草浄念寺末寺
開山:清存和尚
本尊:阿弥陀三尊
縁起によれば光城院の開創は元和元年(1615年)となっており、開山は清存和尚と伝えられている。明治32年(1899年)、東京・浅草区の浄念寺境内にあった「光成院」を現在地に移転した。その付記には「明治三十二年五月二十日、東京府知事ヨリ移転ノ許可ヲ得、明治三十八年四月二十八日、県知事殿ヨリ本堂庫裏改築ノ指令ヲ受ケ、同年七月三十一日全部落成ヲツゲ以テ今日二及ブ(本堂木造四十三坪、庫裏三十六坪、境内地二百一坪)」と書かれている。
明治中ごろのことであるが、下前きっての富豪だった磯野金六郎が、小泊の寺院まで山越えをしなければならない祖母の難儀を見かねて、寺院設置を所望したといわれている。「播磨屋」という屋号を持っていたというが、そもそも兵庫県地方の出身と伝えられ、海路関西方面へ盛んに行き来した豪商。縁あって火災で焼失、廃寺同様になっていた「光成院」の存在を知り、村の有志らと力を合わせ寺号、本尊ほかそっくり下前に移転した。いうまでもないが、小泊地区には四ヵ寺が軒を連ねていたのをみてもわかる通り、寺院の設置は当時の下前住民の悲願だったといえる―と野崎励信住職。したがって中興された「光成院」ということになるが、開創以来、360年の歩みを持つ寺院には変わりない。
明治38年(1905年)、中興時点からの三世正蓮社堯山和尚のとき本堂を新築したが、大正2年(1913年)、38歳の若さで死去した。東郡蟹田町専念寺へ師匠の病気見舞いに行き、山越えの帰路、寒さからカゼをひいてしまったのが原因とか。
四世の精蓮社智鎧和尚は五所川原市の 大泉寺 から入寺、兼務住職となったが、法然の直弟子で東奥念仏の始祖と称される「金光上人」を書物にした努力の人でもある。地元にいち早く消防団を組織、自ら団長になったバイタリティーあふれる人格の持ち主だったと語り継がれている。
ともあれ、人の交流など大泉寺とはかかわりが深かった。野崎現住職は、先の専念寺で修行を積み、昭和24年(1949年)に光成院住職となった。布教などのかたわら、地域の活動にも奔走し「下前老人クラブ」を組織するなどして、地域民の信望も厚い。
50年(1975年)、庫裏の新築を手がけたが、スペースの都合から全国的にも珍しい地下位牌堂を組み込むなど、発想はユニーク。その新築間もない庫裏からは十三潟から西郡鰺ヶ沢あたりまで広大な日本海を見渡すことができる。左手に目を移すと下前の玄関ともいうべき曲線道路の”七曲がり”。さらにその上は秋というのに紅葉の気配すら見せない”赤倉山”が切り立っている。強い浜風のため樹木は”色変わり”出来ずに葉を落としてしまう―と野崎住職。
本尊は阿弥陀如来で、什物には法然と善導大師の白木像、地蔵菩薩などがある。また身丈一尺五寸の竜神は、移転当時の明治32年(1899年)に有力檀家だった白岩八左衛門が寄進した。




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