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三級山 龍源寺
曹洞宗 貴福山對泉院 末寺
中興開山:對泉院二世 活厳円龍和尚
本尊:釈迦三尊
光龍寺の三年坂を下りて、市内のバイパスであるゆりの木通りを西に向かう。平中町内を過ぎると、急な下り坂となる。この一帯は水はけが悪く、雨が降ると、すぐに床下浸水となってしまう場所である。それもそのはず、もとは「沢里堤」と呼び、豊かな水を湛えていた。明治のころまで水車が動いていたり、藩政時代には、夏の暑い盛りに、日影の水を切って藩主に献上したという記録も残っているほど、規模の大きい堤であった(『致力』)。
その沢里堤の北側には、道を挟んで、売市堤もあった。売市堤とは現在の桜木町がグラウンド一帯で、間の道は現在の国道104号である(『文政年間八戸城下絵図』)。昭和初期ころまで堤はあったが、それ以降、埋め立てられ、根城地区の区画整理によって、今はその姿を変えている。
龍源寺は、もともとは、現在地にあったのではなく、この両堤の西側(新組町)三差路の三軒屋に鎮座していた。 ここは、その名の通り、人家は三戸ほどしかなく、堤守(管理人)もいたということである。ここに鎮座していたのは、根城南部時代ころまでで、「柳元寺」と称していた(『沼舘愛三氏遺稿』)。
そして、根城城の東の構えとしての要素も含んでいた。それが寛永4年(1627年)の根城南部氏遠野国替により、柳元寺も遠野へ遷座し、ここは廃寺となってしまった。
その後、寛永10年(1633年)対泉院二世の活厳円龍和尚が中興開山し、現在地へ再建して、対泉院の末寺となった(『新撰陸奥国誌』)。山号は、中国の碧厳録七言絶句の「三級波高くして魚龍と化す」という鯉の滝登りからとっている(『龍源寺由来記』)。沢里堤との関係も深く、龍神を祀っていた。
区画整理が済み、すっきりした境内に入って、最初に目につくのが、左側の積み重ねられた無縁仏のとなりには当時八戸の学者 家文先生(伊右衛門)の石碑。その横には、文化11年(1814年)建立の上野家文碑がある。彼は、天明の大肌極の悲惨さを記した『天明卯辰築』の著者としても名高い。正面には、昭和55年に新築された白壁の本堂が構えている。本堂中央には本尊の釈迦如来座像。脇侍に普賢・文殊両菩薩が安置されている。従って曹洞宗であるが、傍らに阿弥陀如来像も安置されているところをみると、根城南部時代は浄土宗だったのかもしれない。
本堂奥の院には、歴代住職の位牌堂があり、その右側に由緒ありそうな仏像が安置されている。その中でひと際目立つのが、木彫聖観音立像である。
明治初期の『新撰陸奥国誌』によると、観音堂は本堂東側、西向きに建てられ、一間四方の小さな祠であったという。それが本堂新築の際、管理上の問題もあり、廃棄され、観音像はこの場所に移安された。観音像は、右手が上品施無畏印。左手は蓮華を持っていたようだが、欠損し、茎の部分だけが残っている。宝髻は全体に比べて細長く、髪が緑色で、ふっくらした面相をしている。眉は切れ長で、白毫が白く彩られており、いかにも慈悲深さを感じさせる。
しかし、真肌の金箔がはがれ、宝冠・胸飾・瓔珞などが、はげ落ちているのは残念である。岩座の上に反蓮があるが、岩座が欠け、右足の甲や左足の親指が欠損し痛々しい。雲文舟形光背の頭光・身光は朱色で、裏に少しひびが入っているが、小振りながらも像容はすこぶる端正で、天衣は切れが鮮やかで、みずみずしさを感じさせる。一説によると、この観音像は工藤祐経の子孫が明治初期に奉納したと伝えられている。
本堂を出て、アスファルト敷きの境内に立つと、西側に根城小学校校庭が見える。明治末期から大正にかけては、競馬場としてにぎわったこの一帯も、今は子供たちが走りまわる教育的環境となっている。
また、龍源寺は、文化10年(1813年)岩井重良兵衛愛秀御城下巡礼第二十一番札所に定められており、御詠歌は次の通りである。
よき程に 陸奥のちまたを逃れ来て 影澄む月を 拝む澤里









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