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2026年06月25日
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カテゴリ: 甲斐百八霊場
JR春日居町駅から山手の方を見やると、丘陵地帯の殆どが葡萄畑になっており、なんだか本当に南欧にでも来てしまったかの様な気持ちになります。この葡萄畑の連なりの更に奥には矢坪という部落があり、高低差のある所に家々が密集して村を形作っておりました。それ故に道はかなり細く、本当に昔ながらの集落といった風情が漂っています。
集落を奥へ奥へと進むと、瑞垣で境内を囲う大寺院が見えてきます。これが今回紹介する永昌院です。周辺地域に多数の末寺をもつ曹洞宗の大家で、甲斐曹洞宗の元締め的寺院 廣厳院の直末寺院となります。



2026.2.7
甲斐百八霊場四番札所:龍石山 永昌院


この日は天気が不安定で、参拝途中で雪がぱらついてきました。青森よりは温かいですが、まだまだ冬の気配が去り切らない、そんな寒空の下、瑞垣を伝って総門の前まで歩きます。
医薬門スタイルの総門は、雪で滲んでいるせいか、いつもより色合いが暗めです。白い雪と暗い総門とが良いコントラストになって得も言われぬ景観を生んでいます。
総門は江戸時代中期の建立で、数度の火災も凌ぎ切り、建立当初の姿を今に伝えます。市指定有形文化財に登録されているようです。



総門には扁額が懸かります。



総門の先はのぼりの参道。途中平坦地があるので、もしかすると以前は山門などもあったのかも知れません。参道をのぼりきりますと本堂がお出迎え。かなり大きな御堂でした。



参道右手を見やると鐘楼。こちらに懸かる梵鐘は永和2年(1376年)の銘がある古鐘中の古鐘で、幾たびかの変遷をへて当寺院にたどり着きました・・・という事なんですが、現在古鐘は観音堂に遷されているみたいです。今懸かるのは次代の梵鐘となります。







正面からも眺めてみましょう。甲斐武田氏所縁の寺院ということが一目でわかる装飾ですね。軒に四菱が光ります。丸味の有る輪郭をした向拝もなかなか風雅風雅(ご満悦)!



ご由緒です。
龍石山 永昌院

曹洞宗 ​ 妙亀山廣厳院 末寺
開山:廣厳院二世 神嶽通龍禅師(一華文英大和尚)
開基:甲斐武田十三代信昌公
本尊:釈迦如来

 寺記によると、この寺の前身は真言宗でした。
 曹洞宗、龍石山 永昌院としての開基は、甲斐守護職:武田信昌(文安4年・1447年〜永正2年・1505年)とされ、現山梨県笛吹市一宮町の中山 廣厳院開山 雲岫宗竜(うんしゅうそうりゅう)の高弟、同院二世一華文英(いっけぶんえい)を開山(初代住職)に迎え、開創されました。
 武田信昌は法名を「永昌院殿傑山勝公大禅定門」といい、この寺に位牌を安置し、境内の墓所にねむります。
 一華文英は存命中に天皇より「神嶽通龍禅師」の禅師号とともに「紫衣」を賜り、今に伝わっています。一華はその後武州にわたって、現東京都青梅市、天寧寺の開山となり、当山は弟子により相続されて行きます。「開山 一華文英」「2世 菊隠瑞譚」「3世 一樹存松」「4世 悟宗純嘉」「5世 敬翁性遵」「6世 謙室大益」と、名僧が相つぎました。

 その後、法灯は連綿として続き、門葉は甲州(山梨県)、武州(埼玉県)にわたり96ヶ寺を数えました。
 江戸時代中期の「18世 庭山祖門」「19世 大機天用」の時(1710〜1720年頃)には、曹洞宗常恒会地に昇格し、禅堂・衆寮等を増築、伽藍(がらん)は数10棟を数える禅林(修行所)でした。
 この時期、「22世 大晃越宗」「23世 天海董元」は、大本山永平寺の住職に就任しています。
 明治42年(1909年)不慮の火災に遭い、総門・鐘楼・経蔵の3棟を残してほとんどの建物を焼失しました。しかし、幸いにも仏像をはじめ過去帳、古文書等の重要な宝物は焼失を免れ、すべて現在に伝わっています。

 その後、現在の本堂・開山堂・書院・庫裏等を再建、焼失を免れた3棟とともに十数棟の伽藍が維持され、往時のたたずまいと、面影が保たれています。
 平成11年(1999年)には、時代の要請に従い駐車場も整備され、フルーツラインの開通も重なって交通事情は徐々に改善されつつあります。
 平成20年(2008年)は開山 一華文英大和尚の500回忌にあたり開山五百回大遠忌法要、開基 武田信昌公五百回忌法要などを修行致しました。開創500年を経過してもなお周囲の環境と自然の織り成す四季折々の姿は変わることなく、永昌院の静寂は今もなお守り伝えられています。

甲斐曹洞宗の教線拡大に帰依した寺院です。やはりというか、立地からも分かる通りかつては密教寺院だったようです。それを地域の有力者が再興して菩提寺とする、という流れは当地以外にも多く見られます。禅宗が浸透して間もない鎌倉や室町の頃、禅宗寺院を建てることは一種の威信財の示威的な意味合いもあったようですね。そうして再興された寺院は甲斐百八霊場の札所にも多く見られます。

さらに永昌院について他の書籍の記載も見てみましょう。
一華文英の開いた寺院 永昌院

 永昌院(山梨市)は、武田信昌によって開かれた曹洞宗の寺院です。広厳院二世であった一華文英(1425~1509年)を永昌院に招き、開山としました。なお、一華は甲斐守護であった武田信重の孫にあたり、同じく信重を祖父にもつ信昌とは、いとこの関係になります。
 一華は初め向嶽庵(現在の向嶽寺)の峻翁令山のもとで得度しますが、のちに広厳院の雲軸のもとに参じ、雲軸門下三傑とまで呼ばれるようになります。永正3年(1506年)には、 後柏原天皇から神嶽通龍禅師の号も賜りました。
 一華の弟子であり、永昌院二世の菊隱瑞潭(1447~1525年)は、「菊隠録」及び「菊潭集」を残したことで知られています。これは法語などをまとめたものになりますが、甲斐国の曹洞宗における数少ない語録として、大変貴重なものです。
 永昌院は菊隠のあとはその弟子である一樹存松へと引き継がれ、一華門派の中心的な拠点となりました。一華門派は甲斐の盆地地域のうち特に東部を中心に展開をしていくことになります。
山梨日日新聞社 「山梨県立博物館 開館20周年記念特別展 山梨の禅宗文化 おのれと向きあう」 74ページ より引用

なんと開山 一華文英は甲斐武田氏の出だったみたいですね。開山の武田信昌ともいとこだったとは・・・!何というつながりでしょうか。更に当初得度したのは臨済宗寺院だったんですね。同じ禅宗として深い交流があったものと思われます。

本堂の軒飾りにも四菱!懸魚にも四菱!



院号額です。まさに禅宗といった外観です。



それでは当寺院に収蔵された文化財を眺めてみましょう。一部は​ 公式サイト の方でもご覧になれますので、気になる方はチェックしてみてくださいね




文化財

●県指定有形文化財  絹本著色神嶽通龍禅師画像
平成2年2月7日指定

 禅宗では師僧の肖像を頂相と呼んで尊崇していました。本像図は永昌院開山禅師の頂相で、上部に賛文が記されています。それによると、禅師の肖像は、永正元年(1503年)に二世菊隠端潭によって一度描かれたものの、禅師の没後にあらためて新写され、禅師の著賛の書写に菊隠の自叙を加えて永正11年(1514年)に完成したと考えられます。
 本像図は、室町時代中期における本県曹洞宗頂相画の傾向を理解するうえで、また永昌院の草創期を明らかにし得る資料として極めて貴重なものです。



●県指定有形文化財  銅鐘
昭和34年2月9日指定

 この鐘は、「流転の名鐘」として知られ、その遍歴は三次にわたる刻銘に記されています。永和3年(1377年)に鋳造された鐘は、巨摩郡逸見筋香取郷大林寺(北杜市明野町)に納められ、応永27年(1420年)には甲府の東光寺へ、さらに永正元年(1504年)に永昌院へ移されました。その後、長い間遠州の地で流落していたところを徳川家康の配慮によって再び永昌院に戻されています。
 遠州で本鐘が発見された経緯については、寺伝によると武田勝頼が陣鐘として遠州に出立したことによると伝えられています。
 総高116.7m、口径64.2cm、厚さ6.4cm


●市指定有形文化財  永昌院経蔵
昭和62年3月20日指定

 永昌院保存の黄檗版一切経を所蔵するため、寛政3年(1791年)に建立された土蔵造の建造物です。内部には唐様の回転式書架(輪蔵)が設置され、1,344冊の一切経が収納されています。
 明治時代の本院火災の際にも厚い壁のため、類焼を免れました。内部は建築当時の姿をよく残しています。


●市指定有形文化財  木造十一面観音菩薩立像
平成15年6月1日指定


 永昌院は、開創以前、古い密教の道場であったとの伝承もあり、その当時の本尊として造られたものと考えられます。
 像高122.6cm


●市指定有形文化財  勅賜紫衣
昭和60年3月12日指定

 永昌院開山一華文英は、英明特に優れ、当時日本三蔵司の一人と称され、永正3年後柏原天皇から神嶽通龍禅師の称号とあわせて紫衣を賜りました。
品質
絽の半練り
法量:丈1.43m、袖幅0.78m、裄1.16m、肩幅0.37m、腰回り(前幅0.46m、後幅0.39m)、量目0.746kg


●市指定有形文化財  菊隠録
昭和52年3月10日指定

 菊院録は、永昌院第二世菊隠瑞潭の永正2年(1505年)から大永4年(1524年)にいたる間の法語集で、甲斐の中世史を研究するうえで欠くことのできない史料としてその価値が高いものです。


●市指定有形文化財  黄檗版一切経 附輪蔵
昭和62年3月20日指定

 この一切経は、別に鉄眼版一切経ともいわれ、江戸時代初期(寛文・延宝年間)鉄眼道光が宇治黄檗山万福寺において中国蔵書をもとに10余年間の歳月をついやし、延宝6年(1678年)に完成した日本版の代表的な一切経です。この一切経は経蔵・律蔵・論蔵・支那撰述・印度著集の5部門に分類し出版されています。
 現在の保存数は全体で1,344冊、その内訳は経蔵602冊、律蔵145冊、論蔵252冊、支那撰述321冊、印度著集24冊です。
 輪蔵は一切経収納のために造られた回転式書架です。石の土台の上に八角形のケヤキ材の輪軸が天井まで達し、その周囲に8個の書庫が付いています。回廊の高欄、内屋根の扇垂木その下の組木には繊細かつ精巧な彫刻がほどこされ全体が多彩に着色されたみごとな唐様の輪蔵です。
 なお、輪軸には「寛政三年辛亥稔十月二日建之」と書かれています。


●市指定有形文化財  永昌院典籍
昭和62年3月20日指定

 11点のうち「五灯会元」(五山版)は中国の宋代に禅僧の伝統系譜を収録したもの、「禅林類聚」(臨川寺版)は五灯会元をはじめ諸祖師の語録を分類編集したもので、ともに南北朝時代に輸入して日本で刊行されました。他の9点の中には室時代にかけて成立した上記書物の研究書や「正法眼蔵」の写し、永昌院開山からの法語集などがあります。


●市指定有形文化財  永昌院五人組帳
昭和52年3月10日指定

 五人組は、江戸時代に町人・百姓を統制するために設けられた隣保組織です。
 元和4年(1618年)に成立した永昌院五人組帳の条目は3ヶ条からなり、特に犯罪防止に重点をおいたところに特徴があります。江戸初期のものとして、全国的にも最古に属す貴重な資料です。


●市指定有形文化財  永昌院文書
昭和58年5月17日指定

 永昌院文書は、室町時代から安土桃山時代にかけての後奈良天皇徽号勅書、三条西公条頌書、武田晴信判物その他計12点で、勅書は後奈良天皇から四世梧宗純嘉に円明禅師の称号を勅諡されたときの文書です。判物は武田晴信が同寺の門前百姓に課せられた棟別銭を免除する文書などです。


●市指定有形文化財  武田信昌の墓
昭和54年3月3日指定

 武田信昌は、文安4年(1447年)甲斐の守護職 信守の子として生まれ、9歳で家督を相続し、晩年に家督を長子 信縄に譲って本市落合に隠居したとされます。永正2年(1505年)9月16日59歲で没してここに葬られました。
 五輪塔には四門の梵字を各輪にきざみ、最下段の地輪正面に、「前刑部大輔○○〇」、裏面に「○○○十六日」と彫られています。供養のための宝篋印塔には、基礎の正面に「奉為永昌院殿傑山勝公大禅定門神儀立焉永正二年九月十六日」とあります。
 五輪搭と宝篋印塔を揃えて造る例は16世紀以降甲斐国でもみられるようになりますが、この信昌の両塔はほぼ同時に造立されたと考えられ、石塔の信仰形態の変遷を知る上からも貴重です。



本堂左手には観音堂が置かれています。



観音堂とは言いますが、中には文化財指定を受けている古鐘が吊るしてあります。今では特に観音像などは無いみたいです。



観音堂から本堂裏手に歩いて行けます。この道の先に甲斐武田十三代信昌公の墓が置かれているのです。さっそく行ってみましょうか。



林の中の墓園の一画。ひっそりと宝形造の小堂が置かれてあり、この中に墓が収められています。



雪がまたいいアジ出してますよね!正面から見てもキレイな形をしています。



堂内です。
たしかに宝篋印塔と五輪塔とが並立しています。この手の墓は初めて見ました。参拝時は信昌公と共に正室か誰かが並葬されているのかと思っていましたが、これ1対で1人の墓なんですね。



もう1枚、斜めから。



本堂斜めから。
いかがでしたでしょうか。集落奥の禅林は幾たびかの焼失をも物ともせずに、力強い姿でそこに建っていました。体は大分冷えましたが、心は満足によってかなりほっこりしております。甲斐国曹洞宗の広がりを語る上で外せない古刹。是非とも足を運んでみてください



御詠歌


本尊:釈迦如来 शाक्यमुनि

今回貰った御朱印です。



公式サイトへのリンクです。
・龍石山 永昌院

以上です。

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最終更新日  2026年06月25日 21時30分37秒
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