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(▲長崎県/軍艦島)■九州旅行■10月に15日間で行った九州は、知らないことだらけで、面白かった。私たちの大阪ナンバーの車を見て「遠くからですね・・・。九州のどこが一番、よかったですか?」と聞かれたことがあった。違う所では、「大坂城は、ここよりも、大きくて見ごたえがあるでしょうね」と言われた。(▲長崎県/軍艦島)いやいやいや。どんな小さな町にもいいところがある。それを見抜けないのは、その町を知らないから。その町には、その町の歴史があり、人が住んでいる。行った人の興味の問題もある。地名に興味のある私は、ロンドンの地名に驚いて、今度機会があれば、それを確かめたいと思っているくらいだ。■ナイツブリッジ:地名に残るロンドンの川の跡■旅行中にお願いした、11名のガイドさんがいなかったら、こんなに興味深くなかったと思う。やっぱり知ることが、楽しむことだと思った。■11月に見た映画■*華氏119*赤毛のアン 卒業*聖(セイント)☆おにいさん*ぼけますから、よろしくお願いします。*ボヘミアン・ラプソディ*裸の島*アンナ・カレーニナ ヴロンスキーの物語■書き残したネタ■*コインランドリー「フレディ・レック・ウォッシュサロン」*九州ネタ*赤穂浪士ネタ*暖房ネタ*イルミネーション*大阪万博*プラスティックごみ。*白樺のかご*天蓋ベッド*葛井寺と藤井聡太*会話力*妄想古民家カフェ「くるり」*大阪市営地下鉄の民営化*森友学園問題*漆の木・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.11.30
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大阪万博が決まり、テレビでは、「おめでとうございます」と出演者が言っている。blogも言っている。本当に目出度いのか??反対のblogは、ないものかと調べてみたら、あった、内田樹氏の■大阪万博という幻想■■大阪万博という幻想■大阪府知事、大阪市長は世界に向けてのPR活動に熱心だが、国内では招致機運が盛り上がらない。間近に迫った2020年の東京五輪に対してさえ市民の間に熱い待望の気持は感じられないのだから、そのさらに5年後では気合が入らないのも当然だろう。五輪にしても万博にしても、半世紀前の1964年の東京五輪、1970年の大阪万博の時の国民的な高揚感とそれにドライブされた劇的な社会改造を記憶している世代から見ると、今の日本の冷え方はまるで別の国のようである。今回の万博に国民的関心が高まらない最大の理由は、にべもない言い方をすれば、大阪で万博を開く必然性がないからである。(略)大阪万博の招致の最大にしてほぼ唯一の目的は地域への経済波及効果である。国の試算で1兆9000億円、大阪府の試算は2兆3000億円。万博に合わせたイベント開催や観光客の増大などの間接的な誘発効果は大阪府の試算で4兆1000億円。まとめて6兆4000億円の経済効果がもたらされると言われている。しかし、こんな「取らぬ狸の皮算用」にぬか喜びしてよろしいのであろうか。思い出して欲しい。万博計画が最初に持ち上がったのは2014年のことである。言い出したのは、大阪府・市特別顧問であった堺屋太一氏である。 堺屋・橋下・松井という面々は大型プロジェクトで経済波及効果がざくざくという話がお好きである。しかし、同じような話を何度もされて大阪の府市民は「またかよ」とは思わないのだろうか。「道頓堀プール」のことをお忘れなのだろうか。 2015年の道頓堀完成400周年に合わせて、長さ2キロのプールを整備し、「世界遠泳大会」を開催すると大阪市特別顧問の堺屋氏が言い出したのは2012年のことである。これは彼の発案になる「大阪10大名物」の一つであった。「10大名物」、他に大阪城公園と天満を結ぶ大歩道橋、御堂筋のデザインストリート化、面積1万平方メートルの「ヘクタール・ヴィジョン」、驚愕展望台、空中カフェ、空中緑地など盛りだくさんだったけれど、いくつご記憶だろうか。その「10大名物」中の目玉だった道頓堀プールは最初から技術的な難問に悩まされ、当てにしていた地元企業からの経済的な支援もなく、当初の2キロが800メートルに、最後には80メートルにまで縮減されたが、結局2015年に計画放棄された。道頓堀プールの経済効果について、堺屋氏は2013年には「2020年までには東京オリンピックより大きな経済効果が確実に出る」と自信たっぷりに語っていたのであった。(略) 言い出しっぺの堺屋太一が、大阪万博の話をしていた時、私は、「何を時代錯誤的なことを言うねん!」と思っていた。かつては、国体に反対して、こんなチラシを作った経験があるが、■公園づくりの仲間になってください!■■こんな公園あったらいいな・・・。■大阪万博なんて、実現しないに決まってるわと思っていたから、反対をblogに書かなかったけど、書いとけばよかった・・・。_| ̄|○大阪万博なんて、誰が興味あんねん~!!(ヤナギブソン風)誰が得するねん~!!・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.11.29
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■アンナ・カレーニナ ヴロンスキーの物語■狂おしい程の愛 ――あなたは耐えられますか?――日露戦争が勃発した1904年の満州。軍医として戦地に赴いたセルゲイ・カレーニン(キリール・グレベンシチコフ)は、患者として運ばれてきたアレクセイ・ヴロンスキー(マクシム・マトヴェーエフ)と出会う。この男こそ、幼い自分と父から母を奪い、さらには母が自ら命を絶つ原因となった人物だった。一時は殺意を抱くほど憎んだ相手だが、年齢を重ねた今、母の真実を知りたいと願うセルゲイ。その問いに答え、ヴロンスキーは彼にとっての真実を語り始める。1872年の冬。母親を迎えるためにモスクワ駅を訪れたヴロンスキーは、政府高官アレクセイ・カレーニンの妻アンナ・カレーニナ(エリザヴェータ・ボヤルスカヤ)と出会う。後日、舞踏会で再会したアンナとヴロンスキーは、急速に親密になってゆく。2人の関係はたちまち世間の噂となり、アンナの夫カレーニン伯爵の耳にも届く。やがて、夫からヴロンスキーとの関係を問い詰められたアンナは、彼に対する愛を告白。さらに、アンナはヴロンスキーとの子を身籠っていた。 何度も映画化(8回)されている「アンナ・カレーニナ」だが、見るのは始めて。■原作の主題は■不倫という神の掟をやぶる行為に走ったアンナは不幸な結末を迎えざるをえない。しかし、自身の気持ちに誠実に生きたアンナを同じ罪人である人間が裁くことはできない。虚飾に満ちた都会の貴族社会で死に追いやられたアンナと、農村で実直に生きて信仰に目覚め、幸せをつかんだリョーヴィンとが対比され、人の生きるべき道が示されている。というものだが、映画では、「幸せをつかんだリョーヴィン」はとあるが、この映画ではそれが描かれていなかったので、原作を読んで確かめたい。■重要人物相関図■●アンナ・カレーニナ本編主人公。高慢で自尊心が強い。大変美しい女性。●ヴロンスキー アンナと不倫の関係に陥る青年。アンナを愛しているが、次第にその高慢さに我慢できなくなる。●アレクセイ・カレーニン アンナの夫。自尊心が高く、世間の目を気にして、アンナとなかなか離婚できない。アンナ・カレーニナ役のエリザヴェータ・ボヤルスカヤとアレクセイ・ヴロンスキー役マクシム・マトヴェーエフは、2017年、本作のTVシリーズでも主演で、実生活でも夫婦だそうだ。 日露戦争で、ロシアに分が悪いように描かれているが、本当は、日本も負けに等しい状態だった。明治9年生まれの祖父は、日露戦争に行っていた。私は、♪いちれつらんぱん破裂して日露戦争始まった~。 子どもの頃に、意味も知らずに歌っていた。そう考えると、日露戦争が急に近いものに思える。舞踏会のシーンやアンナの衣装が美しく、19世紀後半の貴族を描いたものは、眼福だ。ただし、その裏に農民の苦労があったことを忘れないでおきたいが・・・。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.11.28
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■裸の島■孤島に生きる。瀬戸内海に浮かぶ周囲約500メートルの小島。電気・ガス・水道が通じていないこの島に、中年の夫婦(乙羽信子、殿山泰司)が二人の子供と住んでいた。平地がほとんどない島の急斜面に春は麦を、夏はさつま芋を植えて暮らす自給自足の生活。だが、島には水がないため、遠くの隣島まで小舟を漕ぎ、そこで汲んだ水を持ち帰り、天秤棒を担いで畑まで運び上げるのだ。夫婦の毎日の仕事の大半は、この水を運ぶ作業に費やされていた。そんなある日―。 低予算で実験的な作品にもかかわらず、モスクワ映画祭グランプリ受賞の他、世界各国で絶賛された新藤兼人監督の代表作。瀬戸内海に浮かぶ小さな島に四人の一家が暮らしていた。島には水がなく、畑を耕すためには毎日船で別の島へ水を汲みに行かねばならなかった―。広島県三原市の佐木島(さぎしま)とその沖の宿禰島(すくねじま)で撮影された。 せりふが一切なく、登場人物も狭い島で働く夫婦(乙羽と殿山泰司が演じた)だけという実験的な映画であったが、そのリアリティーあふれる画面は大好評となり、第2回モスクワ国際映画祭でグランプリを受賞するなど、世界的に高い評価を受けた。 1960年(昭和35年)の僻地の暮らしがよく出ていて、面白かった。石臼で、豆を粉にする夫や、ドラム缶で、風呂を炊く様子。水が貴重だから、そんなにしょっちゅう、風呂を沸かすことはなかったのだろうし、残り湯は、畑にまくのだろう。 妻が履いている草履は、夫が作ったのだろうか、草履を作るシーンがあった。「イノコ」の行事をやっていたりして、子どもが生き生きとしている。ご飯を炊くのは、外で、石を組み合わせて、簡単なかまどを作る。料理に使う水は、水ガメが置いてあって、そこから使う。小学校2年生とまだ学校に行っていない男の子二人がご飯の手伝いをする。いや、手伝いという域を超えて、しっかりと働いていた。 妻を演じるのは、乙羽信子。まだ若々しく、美しい。乙羽信子といえば、「100慢ドルのえくぼ」といわれるくらいに、えくぼが有名。しかし、島の苦しい生活の中で、笑うシーンは、子どもが鯛をとった時とドラム缶の風呂に入っているシーンでの笑顔のみだった。 監督は新藤兼人。のちに乙羽の夫となる人だ。 「裸の島」は、乙羽信子の代表作として、彼女が1994年70歳で亡くなった時、骨の一部が、「裸の島」の舞台になった島に散骨されたという。■午前十時の映画祭■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.11.27
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■1■戦後まもなく、岡山県の田舎に生まれた私の家は、農家だった。山間の村だったので、棚田が多く、私の家も、なだらかな山頂近くに3~4枚の田があった。 小さな子どもの手を引いて、お茶や弁当を持って、田んぼまで行き、農作業をする父や母は大変だっただろうと今は思う。しかし、まだ学校に上がる前の私には、いい行楽だった。■2■田んぼで働く父や母の近くで、遊びながら、周りを眺めると、高い所にある棚田からは、遠くまでよく見えた。田んぼの畔を滑り降りたりして遊んだが、しかし、子どもはすぐに退屈する。そこで、田んぼから続く山への細い道を歩いて行った。私が歩いて山の奥に行くのを見た、叔父が、「何処へ、行きょうんじゃぁ。そっち行ったら、よーちゃんが出てくるぞ。」と言った。叔父の田んぼもうちの田んぼの隣にあって、よく一緒に仕事をしていた。叔父は、姪っ子の私がかわいくて仕方がない。 時々、ポケットから氷砂糖を出して、ひとつくれた。その叔父がいう「よーちゃん」とは、山にいる男のことで、私は見たことがなかったが、髭も髪の毛もボウボウで、汚い着物を着、荒縄で帯の代わりに着物を縛っているという話だ。子どもがなにか悪いことをすると、大人は、「ほら、よーちゃんが来るぞ」と脅した。叔父に、そっちに行ったら、よーちゃんが出ると言われた私は、慌てて、父母のいる田んぼに帰った。3~4枚の田んぼのうち、一番小さい田んぼは、畳2~3枚くらい。三角のその田んぼを、私たちの家では、「握り飯の田」とよんでいた。それでも、丁寧に田植えをし、田草を取り、稲を刈った。といっても、私は見ていただけで、父や母と一緒に弁当の握り飯を食べた。 この棚田は、私が小さい頃に売られたのだ。父や母は何も言わなかったけれど、長患いした祖母の為にお金が必要で売ったのではなかったかと思う。今では、村の過疎化が進み、便利な平地の田んぼが統合されて、大きな区画になり、全てが機械化されている。棚田を作る人はいない。■3■小さな三角の「握り飯の田」、見たことがないけれど、恐れていた、よーちゃん、叔父のくれる氷砂糖、田んぼで食べる弁当とお茶、棚田から見た村の風景・・・。そこに出てくる私は永遠に幼子だ。◎写真は、全て、九州旅行の時のもの。1■筑前の小京都・秋月■2■八女の棚田■3■黒木の川■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.11.26
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■2018.10月22日(月)~10月23日10月22日の朝、宿の国民休暇村・志賀島(しかのしま)をチェックアウトした後、周りを散策。休暇村の辺りはイノシシが出ると聞いていた。土を掘り返したところが沢山あったが、全てイノシシの仕業だと朝の散歩の時、休暇村の職員さんに教えてもらった。海からの風が強いのか、木の枝が一方に寄っている。季節外れの桜が咲いていた。■「2018年は台風が多く、■強風や塩害の影響で葉っぱが落ちてしまったことで、芽を眠らせる物質が供給されなくなって、その後も、気温の高い日が続いたため、季節外れの開花につながったとみられている。九州旅行の、お土産に買ったのは、■八女で買った■八女茶。■生月島(いきつきしま)■のオオバエ灯台へ近くの無人販売で、買ったサツマイモ5袋。お土産は、どちらも、食べたり飲んだりして、消えてなくなるもの。残るものは、いらない。焼き物で有名な有田に行ったが、食器は買わなかった。家に十分すぎるほどあるから・・・。■志賀島■をぐるっと一周し、金印公園や蒙古塚に寄った後、一路、新門司港へ。名門大洋フェリー「ふくおかⅡ」17:00出航。さよなら、九州、・・。(’-’;)/^^^ 船に乗って、夜ご飯は、バイキング。ひと眠りしたら、朝もバイキングで、あっという間に大阪に着いた。九州、大阪間は、飛行機でヨーロッパに行くのと同じくらいの時間だが、個室でお茶を飲んだり、テレビを見たり、食事をしたりで、楽だ。15日間のあっという間の旅行だった。■九州旅行2015.10.1~10.11■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.11.25
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■2018.10.20(土)~10月21日(日)■国民休暇村・志賀島(しかのしま)■に2泊した。志賀島(しかのしま)は、福岡県福岡市東区に所属する島である。博多湾の北部に位置し、海の中道と陸続きである。 砂州により本土と陸続きになった*陸繋島*。全国的にも非常に珍しい。規模は小さいが半島の定義を満たしている。 博多湾を望むように伸びる海の中道の先端にある志賀島。四方を白い海岸線に縁取られた緑の小島の趣です。海水浴場の目の前にある休暇村は、玄界灘に沈む美しい夕日が自慢で、全室オーシャンビュー。玄界灘を一望しながら、くつろげます。また、温泉館「金印の湯」で玄界灘に沈む夕日を眺めながら「源泉かけ流し」の温泉に入れば、日々の疲れがたちどころにとれていくようです。島の南部と西部は博多湾に接し、北部と東部は玄界灘に接する。北部から東部にかけての沿岸は岩場がある。(▲*陸繋島*の沖津島)北西部の60mほど沖合いには沖津島という小島があり陸繋島となっている。 (▲*陸繋島*の沖津島)■*陸繋島(りくけいとう)*とは■砂州によって大陸や大きな島と陸続きになった島のことである。 海岸近くに島があると沖からの波が島の裏側で打ち消しあい、波の静かな部分ができる。ここには沿岸流などで運ばれてきた砂が堆積しやすく、やがて海岸と島を結ぶ砂州が成長し陸続きとなる。この砂州のことは陸繋砂州(りくけいさす)あるいはトンボロ(tombolo)という。 ■万葉の歌■「 志賀の山いたくな伐りそ荒雄らが よすがの山と見つつ偲はむ 」 (巻16・3862)この歌碑は、志賀島の北端国民休暇村の南側に広がる玄界灘を望む丘の上に建てられている。 奈良時代に、大宰府が対馬に食料を送る船の舵取りとなった宗形部津麻呂に代わって出航し、途中の暴風雨により帰らぬ人となった志賀の荒雄にまつわる歌であり、荒雄を失った妻子の心の痛みを山上憶良が詠んだとも伝えられる。 志賀の山の木をひどく切ってくれるな。 荒雄ゆかりの山と、見ながら思い出しましょうとの解釈や、 荒雄はきっとかえって来るだろう。 志賀の山の木が切られて様子が変わっていたら、 荒雄は戸惑うに違いないから、ひどく木を伐らないでください、との解釈もある。 「大船に 小船引きそへ かづくとも 志賀の荒雄に かづきあはめやも」(巻16・3869) ☆歌意は《たとえ大小の船を出して大勢の人々が海中に潜ったとしても、志賀の海人の荒雄にめぐり会えるだろうか、おそらく会えないだろう。》■荒雄とは■?-? 奈良時代の漁師。筑前(ちくぜん)(福岡県)の人。神亀(じんき)年間(724-729)友人の宗形部津麻呂(むなかたべの-つまろ)にかわって,対馬(つしま)(長崎県)に防人(さきもり)の食糧をはこぶ船のかじ取りをし,暴風雨にあい遭難死した。これをかなしんで妻子ら(一説には山上憶良がよんだ歌10首が「万葉集」巻16におさめられている。 『志賀の浦に漁する海人明け来れば 浦廻漕ぐらし楫の音聞こゆ』しかのうらに いざりするあま あけくれば うらみこぐらし かじのおときこゆ この歌は、万葉集( 巻十五・三六六四 )で、博多湾の志賀の浦で漁 ( いざり ) をする海人 ( あま ) が、夜が明けてくると海岸沿いに舟を漕いで家に向かって急いでいるらしい、櫓の音が聞こえるという意味である。今の自分たちの境遇を思い、望郷の念を歌っているものである。この歌碑は、志賀島潮見公園の突端にある。万葉集で志賀島を歌ったものは、全部で16首になる。■首切塚(蒙古塚)■1274年(文永11年)、文永の役にて撤退する際に座礁した蒙古兵が志賀島で捕虜となり、うち220人ほどが首切塚(蒙古塚)で斬首されたとされる。1281年(弘安4年)、弘安の役では 志賀島の戦いの舞台となる。博多湾に現れた元軍は、石築地(元寇防塁)からの上陸を避け、陸繋島である志賀島を占領し軍の停泊地とした。これに対して、日本軍は海上と海の中道の陸路から元軍に総攻撃を行った。この志賀島の戦いで日本軍は大勝し、元軍は志賀島を放棄して壱岐島へと後退した。島内に残る火炎塚のある場所では高野山の僧侶によって敵軍退散の祈祷がおこなわれた。■金印公園■国宝にも指定されている「漢委奴国王((かんのわのなのこくおう)」の金印。この金印が志賀島で発見されたことを記念してつくられた公園です。展望広場には、金印をかたどった石のモニュメントと実物大の金印のレプリカを配置。 能古島や博多湾が一望できる志賀島の小高い丘の上にあり、海に沈む夕日などの美しい景色が楽しめます。■九州旅行2015.10.1~10.11■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.11.24
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■2018.10.21(日)観光ガイドさん(男)の案内で、■筑前の小京都 秋月 ■を歩いた。■筑前の小京都 秋月 ■城下町の景観が守られてきた「秋月(あきづき)」。福岡県朝倉市の中心地から北へ約7キロ、のどかな山間の盆地に秋月城の城下町があります。 約800年のさまざまな歴史と、山々の自然が調和した美しい景観はまさに“筑前の小京都”。国の重要伝統的建造物群保存地区にも選定され、城址や武家屋敷などが大切に残されています。76■眼鏡橋■江戸時代後期、月橋に架かる木橋が洪水によって何度も流失したことから、「流されない橋」を望む声が月島の人々の間に上がりました。そこで1805年に長崎の石工により、石橋を架ける工事が行われるも完成間近に崩壊。その後工事は慎重に再開され、ようやく1810年にオランダ風アーチ橋が完成しました。石橋はそのアーチ形の姿から眼鏡橋と名付けられます。現在では周囲の秋月の自然景観と見事に調和した秋月の人気観光スポットとして、多くの人々が見学に訪れる場所となっています。■臼井 六郎(うすい ろくろう、1857年頃 - 1917年11月)は、■江戸時代末期(幕末)から大正にかけての人物。元秋月藩の武士で、日本史上最後の仇討をしたことで知られる。明治に改元される幕末最後の年に、藩内の政治的対立から暗殺された両親の仇討ちを13年後に果たしたが、明治政府が発布した仇討禁止令により犯罪者となり、裁判で懲役刑を宣告された。江戸時代であれば武士の誉れと称えられたものが、時代の変化により断罪されるという、明治維新の渦に翻弄された事件として世間を大いに賑わせた。 「男はつらいよ 寅次郎紙風船」の舞台になっている秋月。この川の畔をを寅さんが歩いたそうだ。▲苔むした古い寺と石の仏。▼村のあちこちを流れる小川の音が心地よい。▲武士がこの道を通って登城したという。桜の頃は、大賑わいだそうだ。■秋月城:瓦坂■瓦坂は、かつて秋月城の前面のお堀に造られた大手門(表門)に続く坂道で、 当時はこの奥に 黒門 があったが、 現在は黒門は移築していて、瓦坂から少し離れた所にあります。 この瓦坂は、名前の通り瓦を縦に並べて坂を造ったもので、 土の流れを防ぐ為にこのように造られたものである。 秋月城に行く前に、ガイドさんが「うちで、お茶を飲んでいきましょう。」と言って自分の家に案内してくれた。80代の夫婦二人暮らしで、部屋にカフェを作って誰でも入れるようにしていた。 抹茶とお菓子と楽しい話で、思わぬおもてなしに感激!!筑前の小京都 秋月。秋の紅葉と春の桜が有名だそうだ。また行きたい、その時は、ガイドさんご夫婦にお礼を言いたい。■九州旅行2015.10.1~10.11■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.11.23
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■2018.10.20(土)■唐津■に行った。唐津という地名は、大昔から使われていたかと思えば、さにあらず。■松浦・唐津地名考■この「唐津」の地名は11世紀後半以前に「神集島」及び対岸の「唐坊」(唐津市湊)が1つの大きな中国人居留地並びに重要渡海拠点としての形を形成していたことにより、「唐人津(とうじんのつ)」的な「施設」を呼称する意味合いが「唐津」と呼称されるようになったと考えられています。この「唐津」という地名が施設的な呼称から「松浦」に代わる地名的な呼称へと転化するのは、あとの15、16世紀になってからのことです。■唐津城■唐津城は、豊臣秀吉の家臣、寺沢志摩守広高が、慶長7年 (1602年)から7か年の歳月を費やして同13年に完成したと言われています。築城には、九州諸大名の加勢を受け、名護屋城の解体資材を用いたともいわれています。城は、本丸、二の丸、三の丸、外曲輪に分かれており、現在の天守閣は、昭和41年に完成したもので、展示室、展望所等があり、展望所からは、松浦潟の全景が一望できます。また、唐津城は、別名舞鶴城ともいわれ、観光唐津のシンボルとして皆様に親しまれております。お城へは、有料のエレベーターを使用。■虹の松原■虹の松原は、国の特別名勝であり、日本三大松原のひとつにも数えられている景勝地です。もともとは唐津城を築城した寺沢広高が、防風や防潮のためにクロマツを植えたのが始まりと伝えられています。現在は約100万本のクロマツが群生しており、鏡山展望台から全体を見下ろすのが唐津観光の定番です。しかし、中を歩くのも良いですよ。市民ボランティアによって自然のままの姿が守られているため、神秘的な空間が広がります。この日の宿は、志賀島にある国民休暇村。■九州旅行2015.10.1~10.11■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.11.22
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■ボヘミアン・ラプソディ■伝説のバンド<クイーン>。その生きざまが世界を変えた感動の物語。レディ・ガガが“史上最高の天才エンターテイナー”と讃え、ケイティー・ペリーが“今も最も影響を受けている”と語るミュージシャン。それが伝説のバンド“クイーン”のリード・ヴォーカル、フレディ・マーキュリーだ。その名を知らずとも、『ボヘミアン・ラプソディ』、『伝説のチャンピオン』、『ウィ・ウィル・ロック・ユー』といった名曲をほんのワンフレーズ耳にしただけで、たちまち誰もが心浮き立ち、歌い出さずにはいられない。いかにしてフレディは、世間の常識や既成概念に逆らい、従来の音楽を打ち破り、世界中から愛されるエンターテイナーとなったのか?なぜ愛と孤独、プレッシャーに引き裂かれたのか?そして、崩壊寸前に陥ったバンドを立て直し、永遠のレガシーを確立できた理由とは……? 20 世紀最大のチャリティコンサート“ライブ・エイド”で、音楽史に残る史上最高のパフォーマンスを披露した彼らの華やかな活躍の裏には、誰も知らない物語があった……。 クイーンという名前を知っているし、『ウィ・ウィル・ロック・ユー』も聞いたことがあるが、あまりよく知らなかった。映画の評判がよくて、見たら、あまりによくて、感動!! どうして、これまで、好きでなかったのかと考えてみたのだが、それは、あまりに、ピタッとしたズボンや、フレディ・マーキュリーの濃い顔。「クセがすごいんじゃぁ~~!!!」フレディ・マーキュリーは、パキスタンとインドにルーツを持つ難民の子と聞いて顔のクセに納得。イギリスの飛行場で荷物を下ろす仕事をしている時、「パキ野郎」と差別されていた。彼は、それを気にして、フレディ・マーキュリーと名前を変えていた。また、フレディ・マーキュリーは、歯が人より多いので、顔にコンプレックスを持っていた。 また、ゲイで、それも気になっていたようだ。 有名な、『ウィ・ウィル・ロック・ユー』が生まれる瞬間を見たのがうれしかった。また、20 世紀最大のチャリティコンサート“ライブ・エイド”のシーンは、クイーンのライブを見ているようで、思わず涙が出た!(ノД‘)あんなに嫌だった、フレディ・マーキュリーの衣装、(若い頃の)も今や完全にツボ!!上映時間は2時間を超える超大作が、あっという間に感じた。見てよかった・・・。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.11.21
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■ぼけますから、よろしくお願いします。■広島県呉市。泣きながら撮った1200日の記録。広島県呉市で生まれ育った「私」(信友直子)は、ドキュメンタリー制作に携わるテレビディレクター。18歳で大学進学のために上京して以来、40年近く東京暮らしを続けている。一人っ子の娘が、故郷を離れ結婚もせず好きな仕事に没頭している姿を、両親は文句も言わずに遠くから見守っていた。だが45歳の時に「私」は乳がんを発症、母は上京して不安な「私」に寄り添いながら看病を続ける。めそめそしてばかりの娘を、母がユーモアたっぷりの愛情で支える姿は、セルフドキュメンタリー『おっぱいと東京タワー~私の乳がん日記』として放送され、大きな反響を呼ぶ。その頃から「私」は、故郷の両親との思い出作りのために“家族の記録”を撮り始めるが、2013年頃から、撮ったテープの中に少しずつ母のほころびが見え出してくる。2014年、母はアルツハイマー型認知症と診断され、90歳を超え耳の遠い父が80代後半の母の介護をするようになる。「私」は実家に帰ることも考えるが、「(介護は)わしがやる。あんたはあんたの仕事をせい」という父の言葉に思い留まる。そして「私」は、この両親の記録を撮ることが自分の使命だと思い始める……。 アルツハイマーは、誰でもかかる可能性のある病気。アルツハイマー以外にも、病気になると、病気にならなくても、年をとると体が動きにくくなったりする。だから、私は、その時のために心がけていることがある。映画を見ながら、年をとるのは絶対誰も通る道なんだから、もっと準備しておけばいいのにと思いながら見ていた。★■老前整理■だ!!夫婦の住む部屋には段ボールがいっぱい!!夫の趣味の切り抜きのスクラップブックや本が平積み。これはダメ!!!介護に行った人が困るのは、狭い部屋というか、モノがいっぱいの部屋だそうだ。アルツハイマーになってしまった妻と、95歳の夫では、もう片付けは無理。だから、老いる前の整理、老前整理なのだ。★補聴器。夫は、耳が遠い。これは、加齢では、誰でもなることで、仕方がない。でも、補聴器をしなきゃ!!子どもも、親になんで言わないのか・・・。★手すり。85際以上の二人が住む家なのに、なぜか手すりが無かった。私は、10年ほど前に、玄関、洗面所、トイレに手すりをつけた。背骨を骨折して、以来、気をつけるようにしたのだ。当時は、賛成ではなかった夫も、いつの間には、なくてはならなくなっているようだ。絶対に、つけて!!★洗濯機。妻が洗濯が出来なくなっていた。ボタンを押すだけなのにと思っていたが、妻はこだわりがあって、手ですすぐ。それも3回。それは、できないよ。私は、全自動を使っている。めまいがひどかった時は、乾燥機付きの洗濯機にしないといけないなと思った。今、めまいがないので、天日干しにしているが・・・。★ベッド。布団の上げ下ろしが大変そうだ。是非、ベッドに・・・。介護するようになっても、ベッドの方が便利。普通のベッドでもいいが、介護用のベッドは借りることが出来るので、便利。★買い物。何も持たなくても、歩くだけでも大変な90代の夫は、買い物の袋が重そう。ジャガイモ、玉ねぎ、リンゴ、ミカン、トイレット・ペーパーなど重いものやかさばるもの、日持ちのするものは、生協など宅配してくれるところに頼むべし。弁当などは、散歩がてら、運動がてらに行ってもいいけれど、あまり無理はしない。また、老人用の手押し車を使うといい。 壊れていく母、その母を一人で支えると決める父。 それぞれの心の動きは決して老いていない。 ぼけてなお、母はずっと母であり、弱ってなお、父はずっと夫なのである。阿川佐和子(作家・エッセイスト) 家族の思いやる心に打たれた。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.11.20
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■2018.10.20(土)波戸(はと)岬のホテルに泊まった翌日■名護屋城■に行った。 案内所で、「無料ガイドさんがいますけど、いかがですか?」と聞かれた。「無料???」このガイドさん(女性)は、研修を受けて、10月からガイドデビュー。ま2時間コースでお願いした。■名護屋城は、■佐賀県玄界灘に突き出した波戸岬にある城です。天正13年(1585年)に中国地方の毛利輝元、天正15年(1587年)に豊臣秀吉は九州平定(薩摩の島津義久)をすると、天正18年(1590年)には、奥州の伊達政宗、関東の北条氏を制し、織田信長も夢見た天下統一を成し遂げました。長く続いた戦国時代が終焉を迎え、秀吉は朝廷との関係を強め、内大臣、関白、太政大臣(太閤)までに昇進したのです。せっかく平和な世の中が訪れると思われたのもつかの間。秀吉は国内だけでは満足せず、7年にも及ぶ大陸への『文禄・慶長の役(壬辰・丁酉倭乱)』を起こそうと計画を練ったのです。その唐入りの為、朝鮮に渡る最前線の城として、適切な場所を探させていました。そして、出身の名古屋と同じ名称のこの名護屋にある小高い山が「勝男山」と言う事で縁起が良いと選ばれ、この地に城を築く事になったのです。ガイドさんは、1時間かけて、講習会に参加して、ガイド免許を習得したと言ってただけあって、熱心だった。私は、お礼に、「二の丸、三の丸、本丸などお城には丸がつくのは、なぜかというのが■日本人のお名前:丸■であるから、調べてみて」と教えてあげた。■佐賀県立名護屋城博物館■名護屋城跡と全国の大名の陣屋の広大な遺跡の保存整備事業の中核施設として、日本列島と朝鮮半島との交流の歴史を調査・研究・展示紹介しています。 名護屋城博物館の常設展示では、原始・古代から近現代にいたる日本列島と朝鮮半島との交流の歴史をメインテーマとした展示を行っています。名護屋城博物館前に立つトルハルバンは、 韓国済州道独特の伝統的な石人像です。朝鮮半島本土のチャンスンと同様に、邪悪なものを避ける一種の守護神として建てられていました。頭巾型の頭とユニークな顔立ち、上半身の腕と手以外が省略された姿は、石チャンスンなどの石像とよく関連付けられています。また、胸の前に手を置く様子は韓国本土の石仏と類似しており、その影響を受けたことが考えられます。「トルハルバン」の名称は、「石のおじいさん」という意味の済州道の方言であり、1970年代に付けられました。それ以前は「ウソンモク」「ポクスモリ」などと呼ばれていたそうです。(現地案内板より)前の日、浜辺で見たのも「トルハルバン」だったのだ。ここは、朝鮮半島に近いから、古くから行き来があったのを今に引き継いでいる。呼子大橋を渡って、加部島へ。この近くは、昔からクジラ漁が盛んで、クジラのオブジェが・・・。■松浦佐用姫■537年、新羅に出征するためこの地を訪れた大伴狭手彦と佐用姫は恋仲となったが、ついに出征のため別れる日が訪れた。佐用姫は鏡山の頂上から領巾(ひれ)を振りながら舟を見送っていたが、別離に耐えられなくなり舟を追って呼子まで行き、加部島で七日七晩泣きはらした末に石になってしまった、という言い伝えがある。 遠つ人 松浦佐用姫 夫恋に 領巾ふりしより 負へる山の名 万葉集には、大伴旅人が詠んだとされる歌がある。同様の伝説は大陸にもある。北部九州と大陸の交流をうかがわせる。■九州旅行2015.10.1~10.11■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・
2018.11.19
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■2018.10.19(金)平戸島から焼き物で有名な有田に向かう。有田観光協会で、ガイドさん(男性)と落ち合い、うちの車に3人乗って出発!有田といえば焼き物、焼き物といえば有田・・・。というわけで、あちらこちらに陶器が・・・。 佐賀県の有田町は、陶器市に100万人以上が訪ねる焼き物の町です。日本の磁器が生まれた地であり、江戸時代には、はるかヨーロッパでもブームとなりました。なぜ有田に、このような優れた磁器が生まれたのでしょうか?■ブラタモリ■■陶石の採掘場:泉山磁石場■有田焼の原料となる陶石の採掘場。およそ400年前の16世紀後半、秀吉が朝鮮に出兵した際、日本につれて帰って来た朝鮮の陶工たちが発見したのが泉山磁石場でした。江戸時代初期の1616年(元和2年)、朝鮮人陶工・李参平により発見され、日本で初めての陶磁器が誕生しました。現在、採掘はほとんど行われていませんが、掘り続けられた山の姿は奇観です。■泉山を見つけた李参平■〒844-0001 佐賀県西松浦郡有田町泉山1-5■佐賀県有田町の陶山神社(とうざんじんじゃ)は■陶祖の李参平(りさんぺい)を祀った神社で、大鳥居や、狛犬、大水瓶、灯篭、お守りなどが磁器でつくられています。陶山神社の参道には線路が通っていて、JR長崎本線・佐世保線の普通列車や特急列車が通過します。町のシンボルの陶山神社から有田の町が一望でき、桜や紅葉の名所としても親しまれています。また、境内を列車が走る珍百景の神社として知られ、遮断機のない踏切を渡って参拝するデンジャラスな体験ができます!★登り窯を作るためのちょうどいい傾斜地があった。★陶石を砕くための水車が必要でその川があったなど偶然、有田には、焼き物を作る条件が全て揃っていたということだ。■大公孫樹(オオイチョウ) (口屋番所跡)■泉山弁財天神社境内にあるおそらく日本一であろうと思われるのイチョウの巨木。樹齢約1000年、高さ40m、根回り12m、枝張り東西31m。11月中旬~下旬頃は巨木全体の葉が黄色に色づき、訪れた人を圧倒させます。1926年(大正15年)、国の天然記念物に指定されています。(▲町の木は、イチョウ。)また、大公孫樹下にある口屋番所跡では江戸時代に佐賀藩の役人が常駐し、陶石ややきものの持ち出しなどに対し、厳しい取締りを行っていました。 ■トンバイ塀■焼き物の町、有田を歩いていると、時折、赤茶色の壁に出会う。「トンバイ塀」だ。登窯の内壁に使われた耐火レンガ(トンバイ)の廃材を赤土で固めたもので、江戸時代から建てられている。今は少なくなってしまったが、町の中心部である内山地区の裏通り(泉山大公孫樹付近から大樽の有田陶磁美術館周辺)で見ることができる。現存する中で最も古いものは、17世紀はじめに創業した辻精磁社にあるもので、1830年頃に建てられたといわれている。かつては町並みを流れる川沿いに窯元が多く立ち並び、窯元を囲むようにトンバイ塀が築かれていた。塀を建てることで、陶工の技術の漏洩を防ぐ意味もあったと考えられている。焼き物の町、有田を象徴する風景である。道端の古い仏に、まちの歴史を感じた。 かつては、まちに活気があり、このまちにも芝居小屋や映画館があった。こうして、隆盛を極めた有田だが、今は、少し下火のようだ。(▲堂々たる店構え。)昔は、結婚式の引き出物など、食器が使われた。しかも、少なくても5枚がセット。結婚式や法事など、家で食事を出したりすることが多かったので、沢山の食器が必要だった。物のなかった時代も過ぎ、最近は、食器の好みも結構うるさい(私も。)みんな、食器を持っているし、家で結婚式や法事をしないし、食事も、和洋中などいろいろ。そんなわけで、有田の食器も昔よりは少なくなったとはいえ、今も多くの観光客が有田に来ているという。ガイドさんによる2時間の有田散策の後、車で今日のホテルまで移動。途中、美しい棚田で寄り道。この日は、この近くで泊まった。岬の店で、サザエのツボ焼きを食す。浜辺にたつ像は、韓国の人形。朝鮮半島に近いことが分かる。■九州旅行2015.10.1~10.11■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.11.18
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■2018.10.18(木)■生月(いきつき)島から■平戸島にある切支丹資料館、紐差教会の後、ガイドさん(男性)と落ち合った。このガイドさんは、3歳まで平戸島でその後は、大阪!!人生のほとんどは、大阪で暮らしている。■地名:平戸(ひらど)■古代はひら(庇羅・庇良)と呼ばれていた。地名の由来は,ひらの島と本土との門(と)から来た説や,島の形が伝説の鳥「鸞」らんの飛ぶ姿に似ており「ひらんど」に転訛した説などがある。遣唐使,松浦党,南蛮貿易,キリシタン等歴史豊かな町である。【ひらど】 平戸の■戸とは、■渡(わたし)という特定施設ではなく、船着場のある一つの集落を意味していたものと考えます。(私もこれに一票!!)室戸(むろと)など「戸」がつく地名には港が絡んでいる。「津」と同じように使われている。■寺院と教会の見える風景■平戸市の代表的な景観になっている寺院と教会の見える風景は、平戸市の市街地近くの高台にある「聖フランシスコ・ザビエル記念教会」と、周囲の寺院が織りなす西洋と東洋が融合した空間です。海岸通りから続く石畳の坂道を上ると、ザビエル記念教会の緑色の尖塔と十字架が望め、 その下に正宗寺・光明寺・瑞雲寺のかわら屋根が見えます。異国との交流があった平戸の歴史を感じさせるスポットです。■平戸ザビエル記念教会■長崎県の観光名所のひとつで、正式名称は"平戸ザビエル記念教会"です。末広設計事務所設計で1931年に竣工、建坪396平方メートル、鉄筋コンクリート造りで重層屋根構成の建築物です。中央の鋭く天に突き立てるような巨大な尖塔とそのまわりを囲む小尖塔はあたかもシンデレラ城のようなドイツ式ゴシックの特徴を持っています。内部は深い縦長の構造になっていて、アーケード型の柱の上部に白い装飾帯があり、ステンドグラスの柔らかな光が神聖な雰囲気を醸し出しています。教会は、左右対称に作られるものだが、この「平戸ザビエル記念教会」は、左右対称ではない。建設費が足りなくなったのだそうだ。歩いていると、ガードレールにオ人形が・・・。目についた立派なバナナの木。温暖化で実がなるようになったのだそうだ。古いまち並みを生かしたまちづくりに力を入れている。冷房の室外機には、木で囲いをし、看板なども昔風のものを使っている。コーラの自販機もまち並みにマッチしている。ふるさと納税で作ったという、まちなみにあうような色の、ホース格納庫。♪赤い花ならマンジュシャカ、オランダ屋敷に雨が降る、 濡れて泣いてるじゃがたらお春、未練な出船のあゝ鐘が鳴る。ララ、鐘が鳴るこの歌、昔聞いたことがあるけど、平戸の話とは・・・。イタリア人と日本人のハーフとして生まれ、日本にいられなかった、「じゃがたらお春」の故郷恋しという手紙が悲しい・・・。小さな島なのに、お城まである平戸島。まだまだ見ていない所がいっぱいだ。■九州旅行2015.10.1~10.11■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.11.17
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■2018.10.18(木)■生月(いきつき)島から■生月大橋を通って平戸島へ。平戸島にある切支丹資料館に行った。■平戸島:切支丹資料館■平戸島の中央、根獅子の浜に隣接する資料館。1550年(天文19)のザビエルによるキリスト教平戸布教以降、後続の宣教師による布教活動が行なわれ、根獅子では住民すべてが信者となったと伝えられています。しかし禁教と激しい弾圧の時代を迎え、人々はその信仰を守るために、秘密の組織をつくり、仏教や神道を隠れ蓑として、納戸に深くしまわれた聖画などを中心とする礼拝を行ないました。明治以降カトリック信者に戻る人々とこれまでの信仰を守る人々にわかれ、後者がかくれキリシタンと称されています。根獅子では長らくその信仰が守られて来ましたが1992年に終焉を迎えました。多くの殉教者を出した根獅子の浜や、その殉教者たちを祀る*おろくにん様*などの聖地に取り囲まれるかたちで資料館が建てられており、納戸神や紙の十字架マブリ(お守り)などが展示され、密やかに守り抜かれた信仰の歴史を伝えています。*■おろくにん様■*■カトリック紐差教会■大規模な天主堂で、旧浦上天主堂が原爆によって倒壊した後は、日本最大の天主堂といわれた。外部はロマネスク様式で、内部にはアーチと美しいステンドグラスがはめ込まれ、鉄川与助(設計者)の特徴である花柄の模様が豊かに飾られている。キリスト教の空間に日本の仏教的な空間が入り混じり、変化のある雰囲気を見せている。もちろん見学に行くことは構わないが、観光施設ではないのでちょっと気を使ってほしい。■九州旅行2015.10.1~10.11■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.11.16
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■2018.10.18(木)平戸大橋を渡り、平戸島へ。生月大橋を渡り、生月島へ。■生月(いきつき)島■荒海の中遣唐使船が「やっと行き着いた島」に由来するとの伝承もある。キリシタンの島として知られ江戸期からのオラショ(祈りの言葉)が残る。江戸期には捕鯨が盛んで当地出身力士が生月鯨太左衛門を名乗ったという。今は生月大橋により平戸島に繋がっている。【いきつき】平戸島は本土と生月(いきつき)島は、平戸島と橋でつながっているが橋が出来るまでは、大変だったのだろう。■生月(いきつき)島:塩俵の断崖■■「塩俵の断崖」は■玄海灘の荒波に洗われてできた、雄大な亀の甲模様の玄武岩の柱状節理であり、生月島西海岸を代表する景勝地です。この柱状節理は新第三紀(約2500万年前~500万年前)にできた溶岩台地です。柱状節理は溶岩流が厚い部分に発達する場合が多く、 玄武岩の柱はほぼ垂直で、さらに水平に亀裂が生じて蜂の巣状の俵を重ねた様になるようです。ここ「塩俵の断崖」の柱状節理は県内でも代表的なもので、南北に約500m の長さがあり、海面からの高さも20m もあります。■ 生月島の最北端にある大碆(大バエ)鼻と断崖の上に立つ大碆(大バエ)灯台■生月島の最北端部は高さ100mの断崖になっており、大碆(おおばえ)断崖といいます。その断崖の上に白亜の大碆(おおばえ)灯台が建っています。 この一帯は大碆(おおばえ)鼻と言いますが、地図などでは大バエ鼻と漢字でなくカタカナで表現しているようなので、以後カタカナで表現します。この大バエ灯台は展望台も兼ねている珍しい灯台です。灯台のプレートには「大碆鼻 北東方照射灯 初点平成14年3月」と書いてありましたが、 北東方照射灯がそうだと思います。この灯台そのものは昭和33年に初点灯しました。灯台の位置に立ち下の海を見ると目もくらむ高さです。この大バエ断崖の高さは100mもあり灯台からは壱岐、対馬を望むことができ、 視界いっぱいに水平線が広がる景色はすばらしいです。まさに360度の展望が楽しめます。灯台から岬の陸部分はなだらかな草原になっており8月には「はまゆう」の群生をみることもでがでるようです。 オオバエ灯台へ近くの無人販売で、サツマイモ5袋買う。ひとつ100円で安いし帰って食べたら美味しかった。生月島の景色を眺めながらドライブしていたら、棚田が・・・。▲そして、何?何?この石垣??▼どうやら、牛の放牧をしていて、石垣はその囲いと後で知った。■イギリスのダートムーアで出会った牛や馬■(▲生月大橋)橋が出来て便利になったとはいえ、生月大橋、歩く人は使えないのではないだろうか。ホテルから平戸大橋が見えた。■九州旅行2015.10.1~10.11■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.11.15
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■2018.10.17(水)日本本土最西端:神崎鼻県道から海に向かって5分ほど入ると小さな漁村に至る。漁村内を標識に従って複雑に進むと、トイレのある神崎鼻の駐車場に出る。防波堤の向こうは東シナ海である。この地は本土最西端の地で、岬の先の最西端地のモニュメントに向かって山沿い海沿いの遊歩道があり、モニュメントの場所で出会う。平戸島が沖合に見えるが、ここが本土最西端であると思えば感無量である。■地名考古学のすすめ:岬の種類■一般に、自然地名の「岬」と呼ばれる陸地の突出部は、5万分の1地形図では「崎:1659例、岬:241例、鼻:1055例、崎鼻:145例」と四種類の名をつけて区別されています。あまり知られていないこの区分は、命名年代の違いによったものです。様々な角度から検討すると、岬だけは命名年代、というより「崎から岬」に当て字を替えた時代を、近世から近代に想定したい地名ですので、とりあえず、ここでは除外します。四種類の名をふくむ広義の岬に、「鼻」がどの程度の割合で使われたかを、県別の百分率で表わすと、面白いデータが得られます。1.大分県 67.8% 2.愛媛県 61.9% 3.香川県 61.4% 4.広島県 60.5%5.岡山県 58.3% 6.島根県 58.0% 7.福岡県 46 % 8.宮崎県 43.6% 鼻の使用率が高い上位8県のうち、島根・宮崎県をのぞく6県が瀬戸内海に面している事実が浮上します。山口県は10位の42.1%です。 考古学上で、瀬戸内海が活気づくのは、弥生時代以降ですから、「鼻」地名群の命名年代は、「弥生時代」と考えられそうです。てっぺん好きなので、■ジョン・オ・グローツ(英: John o' Groats)■■イギリス本土最西端の地の果て「ランズ・エンド(Land's End)」■にも行った。■九州旅行2015.10.1~10.11■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.11.14
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■聖(セイント)☆おにいさん■神も仏もここにいる。無事世紀末を越えた目覚めた人・ブッダと神の子・イエスは、東京の立川にあるアパートでルームシェアリングをしながら、下界でのバカンスを楽しんでいる。お金に細かいブッダとつい衝動買いしてしまうイエスが立川で送る日常を綴る。「銀魂」シリーズの福田雄一が監督、山田孝之が製作総指揮として参加し、2009年手塚治虫文化賞短編賞を受賞した同名コメディ漫画を実写化。東京・立川にあるアパートでルームシェアリングしながら下界でのバカンスを楽しむブッダとイエスの日常を綴る。神の子・イエスを「聖の青春」の松山ケンイチが、 目覚めた人・ブッダを■「空海-KU-KAI- 美しき王妃の謎」■の染谷将太が演じる。動画配信サービス『ピッコマTV』にて配信のドラマを劇場でも上映。 バカンスのために下界に降臨し、東京・立川のアパートで共同生活をするブッダとイエスのおかしな日常を、宗教における逸話などを交えて描くコメディ。■前回はアニメ■で、大笑いし、この漫画が大好きになり立ち読みした。(ノД‘)今回は、実写版で、松山ケンイチのイエス、染谷将太のブッダ。いたるところに、「イエス」や「ブッダ」にまつわる諺が出てきて笑う。例えば、何度言っても、浪費がとまらないイエスに「仏の顔も三度」という。 私の好きな映画に■荒川アンダー ザ ブリッジ■がある。コミカルな内容で、シュールな映画。なんかいいなと思っていたら、なんと作者が中村光。「聖(セイント)☆おにいさん」と一緒!! (*´▽`*)・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.11.13
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■2018.10.17(水)九十九島クルーズに乗ろうとして、お土産屋さんで見つけた!!「九十九島せんぺい」!!!九州などでは煎餅を「せんべい」でなく「せんぺい」と半濁音で発音する人もいる。二○加煎餅、九十九島せんぺい、湯せんぺいといった例がある。場合によっては醤油味・塩味を「せんべい」、甘いものを「せんぺい」と呼び分ける例もある。 へえ~!へえ~!!■九十九島■クルーズに行った。佐世保港外から北へ、平戸までの約25kmの海域には、複雑に入り組んだリアス海岸と208の島々が織りなす美しい自然景観が広がっています。人が住む有人島は4島、他はすべて無人島で、ほぼ全域が1955年に西海国立公園に指定され、288.5kmに及ぶ海岸線の80%以上が自然海岸のまま保全されています。■九十九島の伝説■陸に近く島々が密集した九十九島は、古くから人々の生活の場でもあり、土地の人々の言い伝えが残っています。 昔、平戸の殿様が釣りのじゃまになった木を切ろうとして降りおろした「斧」を落としてしまったという由来をもつ「斧(よき)落とし」、神功皇后ご愛用の木枕が嵐で船から投げ出され流れついたと言い伝えられる「枕(まくら)島(じま)」、七郎神社の祭典日にたくさんの神々が集められ、松の木に次々と馬の鞍を掛けられたという「鞍(くら)掛(かけ)島(しま)」、平家の落人伝説が残る「松浦(まつら)島(じま)」など、島のひとつひとつに名前があり、今も語り継がれるその由来や伝説、また、日本地図を著した伊能忠敬の測量や勝海舟による海軍演習などの史実に、この地域の長い歴史や風土が感じられます。★珍しい名前の島★★グァタグァン島★干潮時の「潟が干上がる」様を「潟が干」(ガタガカン)と呼ぶうちに、なまってついた名前と言われています。★御飯島(おっぱんじま)★「御飯」と書いて「ごはん」ではなく「おっぱん」と読むと、仏壇に供える御飯のことになります。炊きあがった御飯を金色の器に山盛りにし、まずは一番に仏前に供えます。「おっぱん」で通じる地方も多いようですが、「御仏飯(おぶっぱん)」が一般的な言い方でしょう。「おっぱん」勤めていた会社でよく聞いた。★長南風(ながはえ)島★■はえ(南風)■ 山陰、西九州地方でよく用いられ、南風のこと。 南風(はえ)が吹くと雨が降り海が荒れ出航不能となり、南風の時化が治まる迄風待ちして待機するとのことです。 北原白秋が「思ひ出」の中のTONKA JHONの悲哀として「南風(ハエ)が吹けば菜の花畑のあかるい空に」と歌っていますし、 俳句にも、「川がりは先凉みとれはへの風」(毛吹草-五・夏) とあるそうです。(白秋は九州の人)南風(はえ) - 沖縄県島尻郡南風原町の地名。南風(はえ) - 長崎県佐世保市の地名。南風崎(はえのさき)など。南西諸島(沖縄)では南のことを〈ハエ〉という。■また、それの関連で「南の島」を「南(ぱい)ぬ島」という。■沖縄の言葉だと思っていた「南風(はえ)」が九州でふつうに使われているのにびっくりした。■九州旅行2015.10.1~10.11■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.11.12
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■2018.10.16(火)■神ノ島教会■の後、「軍艦島」へ。軍艦島に行くとき、神ノ島教会が見える。今や、廃墟として有名な軍艦島は、今回の九州旅行の目玉だった。しかし、今年の台風で上陸が無理となり、海から見るだけのツアーとなった。(小学生と同じ船になって賑やかな船旅。)■軍艦島■小さな海底炭坑の島は、岸壁が島全体を囲い、高層鉄筋コンクリートが立ち並ぶその外観が軍艦「土佐」に似ているところから「軍艦島」と呼ばれるようになりました。最盛期の昭和35年(1960)年には約5300人もの人が住み、当時の東京都区部の9倍もの人口密度に達し、島内には小中学校や病院など生活は全て島内で賄えるようになり、映画館やパチンコホールなどの娯楽施設もそろっていました。端島炭坑の石炭はとても良質で、隣接する高島炭坑とともに日本の近代化を支えましたが、主要エネルギーが石炭から石油へと移行したことにより昭和49(1974)年に閉山、島は無人となりました。平成21(2009)年4月には一般の方の上陸が可能となり、現在では多くの方が軍艦島上陸ツアーに参加して、軍艦島を訪れています。上陸ツアーでは、主力坑だった第2竪坑跡や、端島炭坑の中枢であったレンガ造りの総合事務所、大正5(1916)年に建てられた日本最古の鉄筋コンクリート造の7階建て30号アパートなどを見学通路からご覧いただけます。(▲高島に上陸して、軍艦島の模型を見ながら話を聞いた。上の写真には、プールがうつっている。)平成27(2015)年7月5日世界文化遺産「明治日本の産業革命遺産 ~製鉄・製鋼、造船、石炭産業~」として正式登録されました。※ 軍艦島へ上陸するには各船会社が運航している軍艦島上陸ツアーに参加する必要があります。ただし、天候等により上陸できない場合があります。乗船に関する予約・お問い合わせ等は、各船会社までお問い合わせください。病院、学校、映画館となんでもある軍艦島だが、火葬場がなく、近くの無人島まで行っていた。■九州旅行2015.10.1~10.11■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.11.11
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■2018.10.16(火)■カトリック神ノ島教会■長崎港の入口にあたる神ノ島は1960年代に海面埋め立てで九州本土と繋がるまでは離島であった。 (▲崖の上の神ノ島教会。)幕末のプティジャン神父による「隠れキリシタンの発見」の後、神の島で水方を務めていた西政吉が大浦のプティジャン神父を訪ね、神の島にも潜伏キリシタンが多くいることを打ち明け、その後神の島の隠れキリシタンはカトリック教会に復帰していく。当時、全島民が潜伏キリシタンであったとする説もある。 1876年(明治9年)に、パリ外国宣教会のブレール神父が神ノ島に着任し、仮教会が設けられ、1881年(明治14年)に、後任のラゲ神父により現在地に木造の教会堂が建築された。現存の煉瓦造りの教会堂は、1892年(明治25年)に当地に来住したデュラン神父が私財を投じ設計・建築したもので、1897年(明治30年)に竣工した。当初は漆喰塗りであったが、のち石灰・セメント塗りに改装され、現在の白い外観になっている。 長崎港を発着する船から教会の姿を見ることができるため、長崎港のランドマークの1つとなっている。 「神ノ島教会」の向かいにある■「岬のマリア像」。■昭和24年に聖フランシスコ・ザビエル渡来400周年を記念し、世界平和と航海安全を祈って建てられました。その後、風雨による傷みが激しく、現在のマリア像は昭和58年に再建されたものです。▲マリア像のあるところから「神ノ島教会」を見る。■九州旅行2015.10.1~10.11■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.11.10
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■2018.10.15(月)この日も、ガイドさんと一緒に長崎をさるく。まず、「グラバー園」へ。「グラバー邸ではないんですか?」■そもそも「グラバー園」とは、■(▲グラバー園へは、エスカレーターで。)「長崎市に点在していた外国人居住邸宅を一堂に会した施設」のことで、<元々この土地にあった建物>に<ほかの場所から移築した建物>を加え、昭和49(1974)年に開園しました。<元々この土地にあった建物>▲旧グラバー住宅(世界遺産・国指定重要文化財)・旧リンガー住宅(国指定重要文化財)・旧オルト住宅(国指定重要文化財)▲リンガーが、人力車で通るために整備した道のだとか。ちょこっとアスファルトが残っています!日本最古級のアスファルト道路。白い大きな船が見える。■大浦天主堂は■長崎県長崎市にあるカトリックの教会堂である。江戸時代幕末の開国後、1865年(元治2年)に建立された。日本に現存するキリスト教建築物としては最古である。正式名は日本二十六聖殉教者天守堂。その名のとおり日本二十六聖人に捧げられた教会堂で、殉教地である長崎市西坂に向けて建てられている。■二十六聖人■信仰の場であるとともに観光地でもあり、拝観は有料である。 大人600円、2018年4月1日からは「キリシタン博物館」開設に伴い1000円となる。▲旧羅典神学校(きゅうらてんしんがっこう)は、長崎県長崎市にある歴史的建造物。国の重要文化財。 キリスト教(カトリック)のパリ外国宣教会宣教師ベルナール・プティジャン(Bernard-Thadée Petitjean)により日本人司祭育成を目的として設立された長崎公教神学校の校舎兼宿舎として、1875年(明治8年)に大浦天主堂敷地内に建設された西洋館である。 ▲この石の流しのようなもので、学生たちは、朝、顔を洗った。 ▲蝶々夫人を演じる三浦環の像。「蝶々夫人」は、長崎を舞台に、没落藩士令嬢の蝶々さんとアメリカ海軍士官ピンカートンとの恋愛の悲劇を描く。三浦環の代名詞のように言われている。▲ガイドさん(女性)は活水高校出身だった。▼▲電車の通る道は、かつて川だったところ。▼名残りに「石橋」という停留所が!この後、出島へ。ここでもガイドさんに案内してもらい2時間まわった。この日は、6時間のガイドさんつきのさるく。■九州旅行2015.10.1~10.11■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.11.09
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■赤毛のアン 卒業■曲がり角の先にもきっと素敵なことが待っている。アン(エラ・バレンタイン)は教師を目指して、ギルバート(ドゥルー・ヘイタオグルー)ら数人とクイーン学院を受験し合格。しかし、親友のダイアナ(ジュリア・ラロンド)は親に進学を許されず地元に残ることに。初めての下宿生活でホームシックになりながらも、悲願の大学奨学金を獲得して卒業するアン。だが、家には老いて弱ったマシュウ(マーティン・シーン)とマリラ(サラ・ボッツフォード)の姿があった。やがてアンは悲しい試練を経て、人生の大きな決断をするが……。 彼女は、生まれつきの明るさと利発さをすこやかに開花させ、最後には、愛情深く、賢く、そして独特の魅力を持った美しい娘へと成長していくのである。そのすこやかな成長の軌跡が、何よりもすがすがしく、心洗われる印象を与えてくれる。アンの変わりようと同時に、マシューとマリラもまた、変わっていく。アンが来るまでは、世間を避けるように兄妹だけで陰気に暮らしてきた気むずかしい変わり者だった二人が、アンという生き生きとした少女を一人前に育てあげることによって、人を愛する喜び、愛される幸福を深く心に刻んでいく。つまり彼らもまた成長し、暖かみのある人物へと変貌しながら、世界に心を開いていくのだ。■赤毛のアンの魅力■ 私が予想するアンは、「明けの明星」のように大きく燃えるように美しい目を持ち、誰もが美しいと認める鼻を持ち、「チチアン色の豊かな髪」を持っている。首がすっと長く、背が高いその姿は、水仙を思わせる。豪華なバラではなく、清楚で品のある水仙だ。何回も「赤毛のアン」を読んだ私のアン像と映画のアンが違うので悲しかった。(ノД‘)■モンゴメリーがアンの容貌のモデルとしたイヴリン・ネスビット。■当時アメリカで人気だったコーラスガールで絵のモデル。 映画の最後の方で、マシューが死にアンは、大学への奨学金を手にした後、育ててくれたマリラが独りになり、健康を害して農場を手放すことを知る。すると、進学を断念して、村に残る。しかし、学問への夢は捨てない。教師として働きながら学問も続け、将来の抱負を忘れずに生きようと決意する。そんなアンの前に、志を同じくするギルバートがたち現れ、二人の新しい未来が薔薇色に開けていくことを予感させながら物語は終わるのである。 アンは、私たちにメッセージを伝えている。 それは、いつも小さな喜びを大切にすること。日々の暮らしの中のちょっとした愉しいこと、嬉しいことを喜び、未来の幸福につなげていくことだ。 彼女は、もともとは、不幸な子どもだった。親兄弟はなく、友人もいなかった。身なりは貧しく、教育は受けさせてもらえず、誰にも大切にされず、愛情に飢えた孤独な日々を送っていた。決して恵まれた境遇ではない。しかし、いつも明るく物ごとを考え、未来に夢を描き、それにむかって生きようとする。そして、人に優しく接しようと、善良な気持ちを心がけている。そうした態度に、私は改めて、人の幸せの真実を見る思いがする。★カナダは、アメリカの共に移民の国。アンの近くに住む人たちは、どこの国から来たのだろう?と思っていたら、スコットランドだった。マシューの葬式のさい、タータンをはいた人がバグパイプを吹いていた。★★作者のモンゴメリーは、36歳の時に結婚するが、相手がユーアン・マクドナルドという名前。マクドナルド(ドナルドの息子)という意味で■スコットランド発祥の名前だ。■ 映画の最後の方で、アンが郵便を取りに行くと郵便局の女性がいた。「私もなにか(本を)書いてみようかしら・・・」という。彼女こそ、作者のモンゴメリーだ。作者、モンゴメリーは、1902年に島に戻ると、祖父の亡き後、祖母が開いていた小さな郵便局を手伝いながら、1904年から『赤毛のアン』を書き始め、1905年に完成、五つの出版社に送った。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.11.08
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■2018.10.14(日)■この日の続き■■平和の像■1955年(昭和30年)の被爆10周年に向けた記念行事の一貫として長崎市が建設を計画し、1951年(昭和26年)に着工、1955年の8月8日に完成した。■ひとりごと■そんな中で、何も彼も いやになりました。原子野に きつ立する 巨大な平和像それはいい それはいいけどそのお金で 何とかならなかったのかしら“石の像は食えぬし、腹の足しにならぬ”さもしいと いって下さいますな原爆後十年を ぎりぎりに生きる被災者の 偽わらぬ心境です。8月8日、自宅にいると、平和祈念像除幕式の拡声機の音がお祭り騒ぎのように聞こえた。自殺を考えていた須磨子さんは原稿用紙に詩を一気に書き付けた。それがこの投稿だった。反響は大きく、詩人として世に出るきっかけとなった。戦後10年たった昭和30年に完成した平和の像。戦後は終わったように考えるなというおもいなのだろう。▲防空壕が残っている。▼ここは、囚人の鑑別所跡で、この中の囚人たちはすべて亡くなった。70年以上たった今も、昨日のことにように語り継がれるのはいいことだ。ここがかつて、何万の生き物が住む海だったことは、忘れ去られえている。■大漁■ 排水機のスイッチが入れられ、万歳の声やら喜びの声が機械場をゆるがせたる時、 今、干拓されんとす、湖の底にいる魚や貝を思う。 私たちの食べる米を得るために、数多くの魚や貝が死んでいった。「さるく」とは、まちをぶらぶら歩くという意味の長崎弁。このウエットティッシュは、郵便局でもらった。(^▽^)/■眼鏡橋■眼鏡橋は、長崎市の中島川に架かる石造二連アーチ橋である。架橋時、琉球王国だった天女橋を除くと、日本初の石造りアーチ橋である。1960年(昭和35年)に国の重要文化財に指定された。水面に映しだされた姿が眼鏡のように見えるところからこの名がある。1634年(寛永11年)、中国から来日して興福寺の2代目住職となった黙子如定によって架けられた。黙子は中島川の氾濫のたびに橋が流失されるのを見かねて、中国から石工を呼び寄せて眼鏡橋を建造させたといわれている。1648年(慶安元年)の洪水で損壊するが、平戸好夢が修復している。その他は高欄が破損して修復したと見られる形跡があるものの、流失することなく度重なる水害に耐えてきた。「PONTE」フランス語で「橋」という名のカフェがすぐそばにあった。■九州旅行2015.10.1~10.11■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.11.06
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■2018.10.14(日)■カトリック浦上教会(浦上天主堂)■■現在の天主堂は昭和34(1959)年に再建されました。■旧天主堂は、明治28(1895)年に起工し、大正14(1925)年に完成するまで、30年の歳月をかけて建てられました。当時は赤レンガ造りの、東洋一といわれた大きな教会でした。原爆の日、一瞬のうちに爆風で崩壊、火災で屋根と床の可燃物は焼失しました。聖堂、司祭館などは堂壁の一部を残して敷地内にあった聖人像などの石像もほとんどが大破しました。■拷問石■境内の一角には、浦上四番崩れの際に山口県萩市に配流された信徒らが正座させられて棄教を迫られた「拷問石」が置かれている。花崗岩の庭の飛び石で、十字架が刻まれている。拷問石の上には太めの茎で編んだ葦簀(よしず)が敷かれ、その上に信徒が座らせられて拷問、説諭を受けた。 拷問石は牢番長だった寺本源七が供養のため自宅に持ち帰り、その子孫が保管していたが、1990年にカトリック萩教会に譲渡された。天主堂の遺壁の一部は原爆落下中心地に移設されています。また、長崎原爆資料館に被爆当時の南側入口の再現造型や被爆した像など(実物)が展示されています。原爆落下中心地の碑は、その上空約500メートルで原子爆弾が炸裂したことを示しています。一瞬の光と共に建物は焼き尽くされ、約15万人の人が被爆しました。後に浦上を訪れた俳人、水原秋桜子は、被爆した天主堂の惨状を見て『麦秋の 中なるが悲し 聖廃墟』と詠んでいる。■日本二十六聖人殉教地(西坂公園)■豊臣秀吉によるキリシタン禁止令により、1597年2月5日京阪地方へ伝導していたフランシスコ会宣教師6人と日本人信徒20人が処刑された丘です。キリストが十字架に架けられたゴルゴタの丘に似ていることから、信者達がこの地を処刑の場に願い出たのだといわれており、二十六聖人の殉教以降も多くの人々が“火あぶり”“水責め”“穴吊り”といったむごい手段でもってこの地で処刑されました。戦後、原爆の破壊から立ち上がった長崎は殉教地であった小高い丘を公園にかえ、昭和31年、長崎県はこの丘を史跡に指定。26人の殉教者が列聖して100年目の昭和37年に二十六聖人等身大のブロンズ像嵌込(はめこみ)記念碑と記念館が建てられた西坂公園ができました。また、昭和25年(1950)には、ローマ教皇・ピオ十二世がこの地をカトリック教徒の公式巡礼地と定めています。 私が思うのは、なぜキリスト教信者は、棄教しなかったのか?ということ。キリスト教、捨てればすむ話なのに・・・。「キリスト教を信じているのか?」聞かれれば、「めっそうもないことでございます、お代官様m(_ _"m)」と言い「この踏み絵踏め!」と言われれば、さっさと踏む。それだけの柔軟さがないとこの時代は無理でしよう。 殺されるのにキリスト教を辞めないのは、狂信的で、反対だったらオーム。■九州旅行2015.10.1~10.11■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.11.05
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■華氏119■♪音が出ます!!トランプのからくり、全部見せます。大統領選さなかの2016年7月、マイケル・ムーアは『大統領選でトランプが勝利する5つの理由』というエッセイを書き、変人扱いを受けながらもその予測を的中させた。彼がトランプ大統領を取材するうちに、「トランプは‘悪の天才’。感心するほどの狡猾さでトランプを笑っている私たちでさえ彼の術中にはめられている」という驚愕の事実が分かってきた。どんなスキャンダルが起こっても大統領の座から降りなくて済むように、アメリカの国民はもちろん、ジャーナリストやメディア、憲法や司法システム、さらには他国の政治や国民すら利用して仕組んでいるというのだ。ムーアはすべてに歯止めをかけようと、本作でトランプ・ファミリーが崩壊必至のネタを大暴露し、トランプを当選させたアメリカ社会に鋭く切り込みを入れ、この暗黒時代をどう抜け出すかを示す。 華氏119の「119」とは、トランプが大統領になった11月9日のこと。それまで誰もが、「100%、大統領になるのは、ヒラリー・クリントンだ」と思っていた。ヒラリー・クリントンが「女性初の大統領」になると・・・。映画の中で、腹立たしいことは、沢山あったが、特に腹が立つのが「毒の入った水事件」。犯人は、トランプの友人で大金持ち。時は2010年にさかのぼる。トランプの古くからの友人であるスナイダーという大富豪が、ムーアの故郷であるミシガン州の知事に就任した。さらにスナイダーは金儲けのために、黒人が多く住むフリントという街に民営の水道を開設するが、この水に鉛が混じっていた。だが、知事は頑として問題ないと主張し続ける。カメラは一転、腐敗した権力と闘うために、立ち上がった人たちを追いかける。フリントの汚染水問題に抗議する地域住民、「誰もやらないなら私がやろう」と下院に立候補した、1年前まではレストランで働いていたアレクサンドリア・オカシオ=コルテス、ウエストバージニア州で教師の低賃金に抗議するために決行されたスト、フロリダ州パークランドの高校銃乱射事件で生き残った高校生エマ・ゴンザレスの銃規制への訴え──。激しくなる一方の抗議に追いつめられたスナイダー知事は、当時の大統領オバマに助けを求める。オバマとの対話集会が開かれ、市民は“私たちのヒーロー”が助けてくれると歓喜するが、あろうことか彼は壇上で水を飲むパフォーマンスを行い、人々を心底ガッカリさせる。再びカメラがトランプに戻り、ムーアはヒトラーが暴走する前のドイツと今のアメリカとの共通点を挙げる。そしてヒトラーは、“ドイツ・ファースト”を掲げて人気を博した。トランプは今、2期目への選挙運動を始めている。「4年、8年、16年だっていい」などと口走りながら。もはや民主主義はそこにあるものではなく、守らなければならないものに変わったのだ。 字幕の解釈は、池上彰が担当。池上彰さん:「中間選挙までちょうどあと2週間に迫った中で、アメリカで何が起きているのか、これからどうなるんだろう、どういう動きをしていくのか、特に若い人たちがどのような行動をしようとしているのか、をマイケル・ムーア監督が活き活きとあくまでも一断面ですが描いているな、と思います。日本でも多くの方に見ていただきたいです。」・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.11.05
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■2018.10.13(土)■塩田津■嬉野市塩田(しおた)町は佐賀県南西部に位置し、多良岳(たらだけ)山系のすそ野に広がるまち。三方を山に囲まれ、まちの中央部を塩田川が流れています。有明海へ注ぐこの川は干満の差を利用して船が行き来し、川港となったまちは「塩田津」と呼ばれて発展していきます。(▲ここに船をつなぐ。)天草からの陶石がここで荷揚げされて有田町や伊万里市、波佐見町(長崎県)へ、帰りの船には米や やきものなどが積まれ、大川市を経て大阪などへ運ばれていったといいます。「塩田津」には廻船問屋や商家が立ち並び、周辺には和紙や鍛冶、石工の職人たちが住み、まちは大変賑わいました。■タナジ■川に面する家々の裏側に「タナジ」と呼ばれる階段がついています。昔は水が綺麗で、川で野菜などを洗ったそうです。「川と生きたまち」らしさ、「石工職人のまち」らしさを感じさせます。◎ガイド氏は、「「タナジ」とは、棚路と書くのではないかと思っています」とのことだが、なるほどと思った。「町並み交流集会所」の裏は御蔵浜と呼ばれ、荷揚げ場でした。建物は昭和20年代初期の旧検量所です。建物脇に計量器があり、船から荷を積みかえた車が荷を積んだまま計量できるようになっていました。昔ながらの道という風情を感じさせますが、ここ塩田津を通る長崎街道は大変広いのです。なぜ、こんなに広いのでしょう?明治時代、もともとは狭い道だったのですが、家々を後方に引き下げて道を拡張したからです。祐徳稲荷神社付近から武雄市まで線路をつくり、荷台に車をつけて馬に引かせた馬鉄が通り、その後、軽便鉄道が走っていました。また、大正4年に県下で最初の電車が塩田から嬉野まで開通しました。やがて車の時代になり、船による運搬や軽便鉄道の運行もだんだん減っていきました。塩田川の氾濫で水びたしにならないように、最近の家は地面を少し高くするそうだ。塩田津の後、車で宿に向かっていると、突然、海が見えた。有明海だ!!■ラムサール条約■2015年5月29日、ウルグアイで開催された「ラムサール条約」の第12回締約国会議で、九州有明海にある2カ所の干潟を含む国内の4カ所の湿地が、条約登録湿地として認められました。有明海は、日本の干潟の約4割に相当する広大な干潟を擁した、多くの渡り鳥が飛来する自然豊かな場所です。また、ノリ養殖やムツゴロウ、ワラスボなどの特産種の漁業も盛んで、身近な海として人々の生活を支えてきました。(▲干潟用の足袋、ガタ足袋を干してある。)干潟を身近なものに感じ、目を向けてもらうための鹿島市での取り組みの一つ「ガタリンピック」。観光とは縁遠いと思われていた干潟を巧みに利用した干潟を丸ごと体感する運動会。今や海外でも同様のイベントが行なわれている。泥んこになった後は、ここで体を洗う。 ■九州旅行2015.10.1~10.11■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.11.03
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■2018.10.13(土)■古賀政男(作曲家)1904年、福岡県生まれ。明治大学在学中に「明治大学マンドリン倶楽部」創設に携わる。在学中に音楽家を目指し、1931年、マンドリン倶楽部の定期演奏会にて「影を慕いて」を発表。その後、藤山一郎と出会い、「酒は涙か溜息か」「丘を越えて」「東京ラプソディ」など数々のヒット曲を生み出す。1958年に日本作曲家協会を立ち上げ初代会長に就任。 日本レコード大賞を制定するなど、音楽界の発展に尽力した。1964年、「柔」で第7回日本レコード大賞・大賞を受賞。1974年JASRAC会長に就任。1978年に73歳で死去。同年、国民栄誉賞を受賞。そんな古賀政男の記念館、古賀政男記念館・生家が福岡県にあるので行ってきた。調べてみたら、流石、大物・古賀政男、大物作詞家・西城八十と組んだものが多数あった。♪西城八十とのコンビ作品♪♪サーカスの唄♪(1933年)♪誰か故郷を想わざる♪(1940年)♪ゲイシャ・ワルツ♪(1952年)♪りんどう峠♪(1955年)などなど・・・。生まれる前の曲もあるが、知っている。また代表作の「影を慕いて」は作詞も古賀政男!!古賀政男記念館の後、肥前浜宿という重要伝統的建造物群保存地区(略して重伝建)に行き、ガイドさん(男性)の案内で2時間コースで廻った。(▲家の軒を飾るもの。火事がありませんようにと水の模様だそうだ。)■継場(つぎば)■江戸時代の肥前浜宿は、多良海道(たらかいどう:佐賀県と長崎県を結ぶ交通ルート)の宿場町として栄えていました。継場では、人馬の継立て(つぎたて:宿ごとに飛脚や馬を新しく変えること)や、宿場から宿場まで荷物や物資の輸送を行っていました。そのため、馬をつないだ鉄の輪や帳場(ちょうば:宿場で勘定をする場所)、人足の控え場などが残されています。現在は修復されて、肥前浜宿の観光案内所として活用されています。場所は重要伝統的建造物群保存地区に選定されている酒蔵通り(浜中町八本木宿)の入り口にあり、肥前浜宿を観光する際の拠点になっています。継場の建物は国の登録有形文化財に指定されています。■肥前浜宿・茅葺の町並み■浜川右岸に広がる町並みです。江戸時代から商人や船乗り、鍛冶屋や大工などが暮らし、とてもにぎわっていました。有明海に近いために現在も多くの漁師が生活しており、細い路地沿いには茅葺きの民家が密集していることが特徴です。すぐ近くの「肥前浜宿・酒蔵通り」と共に、歴史的に価値のある地域として国の「重要伝統的建造物群保存地区」に選定されています。浜川の右岸に大きな木が残っていた。この木を残してという活動が実ったのだそうだ。左の木は「エノキ」で右の木が「ムク」!!エノキの実も、ムクの実も私が私が小さい頃食べていたのだが、もう50年以上食べていない。食べたい、食べたいと私が言うので、ガイドさんがムクの実を採ってくれた。甘ーーーーい!!!■少年に枇杷熟れ桑熟れ椋熟れてとどめにムベの熟れゐし昭和■ 大野展男ビワは毎年、よく食べるが、ムクは50年以上ぶり。なんでこんなに美味しい実のなる木をもっと植えないのだろう・・・。■肥前浜宿■■九州旅行2015.10.1~10.11■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.11.02
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■2018.10.12(金)■上陽の石橋■上陽町地区には13の石橋が現存しています。これらは建築技術や機材、資材が現在よりも恵まれていなかった明治から大正時代にかけて建築されたもので、周囲の豊かな自然と溶けこみ、美しい景観を作り出しています。中でも有名なのは、アーチが1連から4連までの石橋群。特に「1連の洗玉橋」、「2連の寄口橋」、「3連の大瀬橋」、「4連の宮ヶ原橋」の4つの橋は、あわせて「ひふみよ橋」の名称で親しまれています。■洗玉橋 (せんぎょくばし)■ -名匠「橋本勘五郎」により造られた石橋-上陽町の「ひふみよ橋」の中で最初にかけられた一連式アーチ型の眼鏡橋。明治23(1890)年、上陽町を襲った3度の大洪水により星野川に架かった木造りの橋は全て流されてしまいました。「大洪水でも流されない石造りの橋を造ってほしい」との住民からの強い要望と222名の寄付があり、「橋本勘五郎」や彼の息子、「萩本卯作」といった弟子達により明治26(1893)年に建築されました。「橋本勘五郎」は当時のアーチ型石橋作りの名匠であり、熊本県の国指定無形文化財である「通潤橋」や「万世橋」、「浅草橋」、「江戸橋」、「京橋」などをてがけました。■■寄口橋 (よりぐちばし)■■ -桜・清流・石橋の共演-上陽町の「ひふみよ橋」の一つである二連式アーチ型の眼鏡橋。八女市長野地区の石工「山下佐太郎」、上陽町北川内藤木の大工「小川弥四郎」によって大正9(1920)年に建築され、当時のアーチ型石橋作りの名匠「橋本勘五郎」がてがけたとされる「皇居の奥二重橋」を再現しようとしたものと伝えられています。■■■大瀬橋 (だいぜばし)■■■-橋本勘五郎の弟子がてがけた石橋-上陽町の「ひふみよ橋」の一つである三連式アーチ型の眼鏡橋。大正6(1917)年に架設されたと伝えられ、「荻本卯作」「川口竹次郎」などの建築に携わった大工・石工達の名前がアーチの頂上真ん中付近に刻銘されています。 「荻元卯作」は、当時のアーチ型石橋作りの名匠「橋本勘五郎」の弟子であり、大瀬橋から北300mにある「鮎帰橋(あゆがえりばし)」や、寄口橋から北300mにある「枕橋(まくらばし)」といった様々な石橋の建築に携わっています。■■■■宮ケ原橋 (みやがはるばし) ■■■■-上陽町・旧八女地域の境にある橋- 上陽町の「ひふみよ橋」の一つである四連式アーチ型の眼鏡橋。大正11(1922)年に「豊島虎次郎」により建築され、旧八女地域から上陽町に入る際、清流星野川の風景とともに、最初に目に映ってくる眼鏡橋です。「ひふみよ橋」コンプリート!!!!八女の中心から少し離れたところに、黒木地区があり、そこをガイドしてもらいながら廻った。ガイドをしてくださったのは、熱心に町作りを考えている方で、感心した。忙しいのに、感謝m(_ _"m)▲八女の郊外にある黒木の大藤は、樹齢600年!!▼▲黒木の町に水を取り込むところにも案内してもらった。▲ここに木製の古い橋が架かっていたが台風で流されたそうだ。▲軒下の材を縄で巻いている家があった。▼▲黒木の町のあちこちに、外壁の下の部分に石をまいている家があった。壁の保護だそうだ。▼棚田もきれいだ。もちろん、棚田も石を積んで出来ている。流石、茶所、茶畑が!!八女では町のあちこちに石の文化を見ることが出来る。■九州旅行2015.10.1~10.11■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.11.01
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