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☆前口上☆例のごとく今日もリンク先を訪ね歩いていたら、ミサママ@KWさんの日記の下記一文に目が止まる。(引用文) ◆USA雑記◆ 胃カメラ 2月27日(木) 今日は検査の結果を聞きに病院へ。残念ながら細菌検査は陰性だった。ちっ! ってことは、神経性胃炎か?いや、最悪は潰瘍???何でもいいや、痛みから開放されるなら・・・で、結局胃カメラを飲むことになりました。うぅぅ、嫌だなぁ。憂鬱・・・ってことで、胃カメラの経験の有る方、体験談を聞かせてもらえれば嬉しいっす。 (以下後略)…という訳で、その昔に体験した一騒動の顛末を、掻い摘んで思い出してみよう。★☆胃カメラが見つけた「オナラの塊」☆★★フォトタイプグラファー誕生まであれは大阪万国博が終わって数年後の事だった。私は当時、某地銀の本部在勤中だった。土帰月來の生活だった東京本部勤務を解かれて数年、自宅勤務に戻り公私とも心気一転を期していた頃である。娘二人は、まだ共に小学生で幼かったが、妻は二重世帯の家計苦からか、近くの印刷会社に勤め始めていた。特に未だ低学年の末娘が、その犠牲になり鍵っ子となっていた事が共に気になった。その為、私達夫婦は鳩首相談して共に紙誌編集で慣れ親しみ深い関心もある写真植字を夫婦協業のバイトにと意見が一致した。折から印刷の主流は活字からオフセットに激流となって変化しつつあった。趣味と実益を兼ね、しかも私の職場の仕事にも大いに役立つ夫婦協業の副業はコレダと思った。だがそれには先ず技術を身につけねば始まらない。しかもその為の写植学校は近隣にはない。だから夫婦共に5時起きして、この難問を克服した。即ち私は出勤前後に毎日朝晩駅まで車で妻を送迎し、妻は往復5時間掛けての通学を半年間続け初志貫徹。これでソフト面の見通しはついた。後はハード面の機械設備が揃ば…と、早速見積もりを取り、これらも急ぎ発注した。…とは言うものの、当時確か50万円近かった写植機や、1書体10万円以上もした流行の特殊文字盤も多数揃えた。また自宅の一室を暗室や作業道具一式を揃えた工房に…といった投資も、一サラリーマンには相当な額だった。もちろん受注のための準備も並行して進めた。幸い知友に印刷関係など写植版下が必要な業者が多く、間もなくスタートさせた副業は順調に軌道に乗った。とは言え慣れるまでは予想以上の困難が続出だった。始めは何時間も掛けて原稿を印字した印画紙なのに、暗室で現像すると文字が重なりオシャカだった…。なんて事も一再ならず、都度目頭を熱くしたものだ。何しろ作業はミクロ単位の歯数計算を基に始まり、印字段階でも、今のワープロやパソコンのように、直接印字した文章を目で確認できる訳ではないのだ。印字位置だけが白板上に点で表示されるだけだから、誤字、脱字、二重印字、印画紙の挿入ミスなども、全て暗室で現像してからアッと驚く玉手箱という訳。だがそれ故に、巧く打ち上がり美しく仕上った版下は、フォトタイポグラファーと呼ばれる技術者の密かに誇る離れ技の賜物で芸術品とも言われる訳である。多種多様な文字を多くの文字盤から選び、文字の大小や書体の変化を自由自在に調節。各種のレンズを通し印画紙に植字する技術は、パソコンの技術が高度に発達し普及した今でこそ一寸蔭が薄くなったが、当時は写植の独壇場だった。まあ写植を知らぬ方も多いかと説明に手間取ったが、それだけ写植は私達の人生と関わり深いものだった。★胃ガンの恐怖そんな努力と投資が漸く実を結びかけたとは言え、二重生活後の不安が未だ私生活にも残る或る日、胃癌の検診で再診組に廻され不安が重なる中、上京して慶大病院の精密検査を受けた。例によって、白い不味いバリュウムの液を飲まされ、何か大きなレントゲンがついた寝台に固定されると、私の体は四方八方からレントゲンの集中照射を浴びた。撮影された写真は、何とカルテと共に本人に渡され、結果は後日知らせるので、これを受付へ提出し、そのまま帰宅するように言われた。でもワザワザ上京してまで再検査行かされた上、前記の如く新たな事業に家族の明暗を賭けていた私だ。結果は後日…等と言われても、カルテを直に渡されては、まるで「見てみろヨ」と唆されているようなものだった。こうして私は受付までの長い廊下の途中で立ち止まり、封もされていない、茶色い大きな袋の中を覗き込んだ。中にはフィルムと共に私の名前の入ったカルテがあり、ラフに描かれた胃の上部付近に×印が付けられていた。そして×印から伸びた線の先に、病状を示すと思えるウムラルト付の欧文が並んでいた。それは、恐らくドイツ語の医学用語に違いなかった。そう思った私は、カルテの要点らしき部分を写しとり、帰りに紀伊国屋に立ち寄り辞書を引いてみた。どうやら「胃の入り口近くに潰瘍」と言う意味らしい。医学辞典も調べた。すると《若年の胃癌は進行が早い、余命は長くて一年内外、早いと数ヶ月と言う事もある》。そんな風に確か書いてあり、途端に私はガックリした。帰宅した私は、ひたすら検査の結果の無事を祈り待った。職場に在っても家に帰っても常に心配が付いて回った。★後事を託そうとしたとした友の助言だが検査結果は、来る日も来る日も来なかった。そんな時、フト親友S君の事が脳裏に浮かんだ。学生時代にクラブ活動を共にした仲の彼だけに、労働問題で隠遁の頃、良く我が家で翼を休めた。為に三十路越えても独身で職を転々していた彼。職を変える都度、失業保険と失対法を活用し、ロハで特殊車輛や写植機などの操作法を学んだ。まあそんな風に私に近況を話していた彼である。また独身の気軽さから再々我が家に来訪していて、「色黒の笑顔が素敵 !」と妻や娘達の人気も上々。そんな間柄だった彼だけに「後事を託すなら彼」、そう私は直感し、新横浜駅で急ぎ彼と落ち合った。「突然だが、コレコレシカジカの事情なんだ。 もう余命幾許かも知れないので、もしもの時、 何とか妻子と始めたばかりの写植事業の面倒、 引き受けて貰えないだろうか?」と滑り出した事業の現状や必要資料も持参し、ザックバランに相談してみた。 しかし相談の内容が余りに唐突すぎたようで、彼は、なおも説得しようとした私の言葉を遮り、 「若サンよー、まだそうと決まった訳じゃなし、 アンタの思い過ごしってこともあると思うな。 落ち着いていられない気持ちはよく判るけど、 そんな唐突な事を言われても即答できないよ。 こんな俺だが結構今の生活気にいってるんだ。 それに今は先ず本当に癌か確かめる事が先決。 誤診て事も考え誰か他の名医にも診て貰えよ」。 そう勧めた。 だがその時は、藁にも縋りたい思いの私は、「何だ、いつも調子良いこと言っている癖に、 イザとなると知らん顔かよ…。冷たい奴 !」そう思い、傷心を深め帰路に就いた私だった。★「オナラの塊」そんな悶々たる帰宅後の或る日、私は街で竹馬の友Hさんと会った。彼は医者の息子だが医療器具屋になっていた。「誠さん、何だかアンタ顔色悪いね」と言われ、幼馴染の気安さから、実は…と打ち明け話をしたところ、「それなら私の末弟が今C大で医者してるよ。 それも専門が胃癌だから頼んでやるよ。 確か月に何回か市内のI病院へ出張診療に 来ていたから…」 そう言ってくれた。 そんな訳で、早々に弟さんと連絡が取れ、 数日後にI病院で弟さんの診察を受けた。 様々な検診を経て最後が胃カメラだった。 以前私は胃潰瘍で胃カメラを呑んだが、 その時の苦しさが忘れられず怯えた私に、 「心配しなくても今は昔の様な事ないし、 気楽にしてください。」 と言いながら検査が始まる。 以前は親指程もあった太い管が、今回は、 小指程の管だ。また医師も手馴れていて、 スルスルと苦もなく口の奥に入り込んだ。 以前経験した痛みが全く嘘の様だった。 そして、レントゲン写真と見比べながら Hさんの弟さんは、こう言うのだった。 「若水さん、貴方が引っかかったのは、 この胃の入り口にあるこの影ですよ。 これはガス、つまりオナラの塊です。 普通の人は、此処が弛みが無いから ガスは溜らないだけ。心配ないです」 と言われた。 だが、なお怪訝気だった私に、 「まあ再診に廻されカルテに怯えた 貴方としては、そう言っても俄かに 信じがたいでしょうね。ですから、 私が保証しましょう。これを機会に、 ガン保険でも掛けてみますか?」 とも言ってくれた。 かくて漸く私は疑念から解放された。 そして私は思い出した。 戦後間もなくだった頃見た映画を…。 『象を喰らった連中』という題名で、 本土空襲直前の動物園での話だった。 爆撃され猛獣達が逃げ出す事を恐れ 危険な動物達が多く殺されていった。 滅多に肉など食べれなかった当時だ。 職員は象の肉の特配を受け大喜びし、 皆で舌鼓を打った。 だが、一夜明けて殺された象が実は コレラに罹っていたと判りサア大変 ! 泣いたり喚いたり遺書を書いたりと もう大変な騒ぎになっての結末が、 何と、すき焼にしたためコレラ菌は 死滅していた事を知り皆ホッとする。 まあ、そんなストーリーだったが、 この主人公達と同様の泣き笑いを 演じてしまったのが丁度今の自分だ。 そう思えてならなかった。 ともあれ、あの時自分は一度死んだ。 それを神に助けられたのだ。 そう思い、心気一転を期した。 (完結)
2003年02月28日
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☆前口上☆ これは何年か前に実際に見た夢の話で、フィクションではない。 眠りから覚めた時の、何とも言えない心地よさが今も忘れられない。 直後に書き留めておいた原稿が漸く探し出せたので、 楽天の先輩各位に、ご感想伺えればと書き直してみた。 以下ご笑覧を !★☆夢の国からの宅急便☆★ 誰だったか思い出せない知人から、一包みの宅急便が届く。 私の居ない間だったので妻が開けた。 見事な松茸と共に、添えられていた一通の手紙が目に入る。 だが不思議なことに、なぜかその手紙だけひどく濡れていて、 文面も差出人名も殆んどが判読困難だった。 ただ、何処かの航空会社の機長らしく、 「エアーライン」「キャプテン」と言う二語。 そして、 「旅先で松茸狩りをしたので、貴方の好物だったのを思い出し…」 と言う短文だけが判読できた。 いったい何処の何方だったかと、 心当たりの人の顔を思い出そうとする。 そのうちに、 「これは夢の中の出来事らしい」。そう朧気に意識され、 ウトウトと眠りに入る。 だが、また同じ夢を見る…という繰り返しが幾度も続き、 何度目かで漸く本当に目覚めた。 それにしても、私の松茸好きを知ってくれていた嬉しさ。 でも、それを心に留めていてくれる人など、 母亡き今、妻子のほかには誰も居ないだろうに…。 その優しい人の名前を思い出せないなんてと、イライラする。 フト、妙な思いが脳裏をよぎった。 「もしかしたら、 他界して久しい母を乗せて飛ぶ 冥土航空の機長さんかも…」。 そう、昨日は彼岸の中日だった。 霊魂不滅を信じるチベット仏教の、 テレビ特集を見て眠りについた為か…。 そう言えば、今年は近年稀な松茸の豊作。 先日も、千円足らずで見事な松茸が一本買えた。 定年後の夫婦の食卓には、 それでもまだ一寸高価な感じもするが、 夢に乗せ転送してくれた、 何処かの機長氏の好意に思いを馳せながら、 今夜あたり、また松茸三昧に浸ろうか…。 この不思議な日記の話を忘れずに日記に書きとめたら、 早速、松茸を買いに行こう ! そして、 優しかった母が大好物だった「平井の西瓜」も !! 《付記》 このところ書き出した二つ三つのシリーズ物は、一章づつにしても、書き出すと手間取りやすい。 だが、かといって短編ネタも適当なものが見つからないので、これに決めた。
2003年02月27日
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《前文》 未熟さと大作続きで書ききれず、 ※《只今執筆休憩中。続きは後刻執筆の予定。乞うご再訪!》の看板を掲げた未完成日記が、前日、前々日と二日分も残ったままだ。 これでまた今日も未完成日記になったら三日続きの連荘となり、本当に息切れしちゃいそう。 そんな訳で、また今日のカキコの中から引用した編集文紹介とした。 「うるとびー」さんゴメンネ !《本文》※(若水 誠→「うるとびーず」さんへ)『今日の日記、色々考えさせられました』 年老いてしまった私ゆえに、あのケネディーの演説に感銘した日の事を今改めて思い出します。そして、そのケネディーの暗殺されたニュースが丁度TVの宇宙中継初放送日と奇しくも重なり、世界を震撼させたアノ朝の事も…。丁度、日本は祝日でしたが、多くの人が、掲げた日の丸を半旗にして彼の死を悲しんでいましたっけ。思えば、あの日から、米国も、日本も、そして全世界が、テロが平然と行われるような時代に変わったような気がしますね。ハイジャックだって、シージャックだって、そして正義の仮面をかぶった国家テロだって…。いゃぁ、うるとびーずさんの 名文に刺激され、今日のビール、たった一杯なのに実に良く利いたなぁ!ウィ~ッ!(2月26日20時7分) …付録… ※参考①《うるとびーずさんの日記(2/26)抜粋》☆ボケの気配、ストレス、それでも待てませんか? テーマ「戦争反対(64)」 今日は午前中からお仕事!と、張り切って出かけたのですが......何とレッスン日を変更したのを忘れていました。(泣)春の気配に緩んだ空気と共に、私の頭のねじも緩んできたみたい? ※( 中 略 )さて、本日のネットニュースで、イラク側が生物兵器の存在証拠を提出したとありました。査察に対して今までより少しは積極的になってきているという。それでもアメリカは待てないのかな?時間がないというのかな?アメリカには過去にこんな大統領もいたこと、忘れたくないね。彼が今、生きていたらなんと言うだろうか?Mankind must put an end to war orwar will put an end to mankind.John F. Kennedy人類は戦争を絶滅させなければならない、さもないと戦争が人類を絶滅させるだろう。 ジョン F. ケネディ ※参考②《うるとびーずさんの掲示板(2/26)抜粋》Re:今日の日記、色々考えさせられました。※(うるとびーずさんから若水誠への返信)>年老いてしまった私ゆえに、あのケネディーの演説に感銘した日の事を今改めて思い出します。若水さんはリアルタイムでこの言葉を聞いていらしたんですね。スゴイです。>思えば、あの日から、米国も、日本も、そして全世界が、テロが平然と行われるような時代に変わったような気がしますね。ケネディやキング牧師、ガンジーなど、素晴らしい先人たちがたくさんのメッセージを残しているのに、どうしてそれが正しい形で伝わらないのでしょうね?今、本当に何が人として正しいことなのかを考えないと、この後の世界が不安です。>いゃぁ、うるとびーずさんの 名文に刺激され、今日のビール、たった一杯なのに実に良く利いたなぁ!ウィ~ッ!お褒めにあずかり、光栄です。私も一緒に飲んじゃおうかな、白ワイン!(2月26日20時44分)
2003年02月26日
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※《只今執筆休憩中。続きは後刻執筆の予定。乞うご再訪!》☆意外と不正確な財布の中身私の非公開日記『わが星霜』にはある項目は、恐らく私だけの独特なものだと思う。それを簡単に言うと、財布の中身の現金在高記入欄である。 金融関係者なら良くご存知の事だが、毎日銀行では金種別にした在庫表を付ける。 それを自分の手持ち現金の表示記録に応用したものだといえば、理解しやすいかもしれない。 ではその具体例として、今日只今の私の財布の中身を下記に公表(仮定額)してみよう。 防犯防災上の理由で幾つかに分散収納してあるものの内容である。 但し紙幣その他、即支払い可能な現金額で、数値は参考用の仮定額だある。 《財布A》‥日常支払用 (内訳)※2003年2月25日現在高 計57,000=万円券5枚+5千円券1枚+2千円券0枚+千円券2枚 註‥前払式カード類残高は省略(プリペイド、商品券等) 《財布B》‥予備携帯用 (内訳)2003年2月25日現在高(外為相場※1US$=118.20) 計50,000=万円券5枚+5千円券0枚+2千円券0枚+千円券0枚 但し下記外貨は計数外とし売却の場合の市場価格付記。 米$券(cash)計200$(23,040)+米$券(T/C)計200(23,240) ※米$券総額(cash+T/C)‥邦貨換算額46280 ※米$券(cash)金種別内訳 100米$券1枚+50米$券1枚+20米$券1枚 +10米$券2枚+5米$券1枚+2米$券1枚 +1米$券3枚 (売却手数料‥1US$につきcashは3を控除) ※米$券(T/C)金種別内訳 100米$券5枚+50米$券0枚+20米$券5枚 +10米$券5枚+5米$券2枚+2米$券5枚 +1米$券5枚 (売却手数料‥1US$につきT/Cは2を控除) 註‥大きな動きがあった時のみ記載変更 《財布C》‥外部保存災害準備金 (内訳)2003年2月25日現在高 計=?????????(預貯金類その他明細) 註‥‥大きな動きがあった時のみ記載変更 …と、まあこういった具合に毎日記録している訳だ。 勿論、一貧乏年金族の財布の中身なんて多寡が知れた額 には違いないのだが、普通の人間なら、年々記憶が不確かになりやすいのが世の常だ。 では試みに今貴方が財布を紛失したとして、警察に届出たとする。その場合必ず内容を聞かれるが、その質問に貴方は、財布の中にある紙幣別の枚数を正確に答えられるだろうか? 実は先年夏、私はJRの《青春18きっぷ》を利用して、その極限とも考えられた『日本列島縦断鈍行乗継旅行』に出かけた。 実質3週間程の長旅の最後は、ノサップ岬から遥か北方領土を眺め、感慨にしたっての帰途宿泊した釧路駅で掏りにやられ、届け出た警察で同じ質問をされた。※《つづく》
2003年02月25日
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※《只今執筆休憩中。続きは後刻執筆の予定。乞うご再訪!》☆公開日記と非公開日記の併用について この公開日記のほかに、以前からの非公開日記を書き続けている方も多いと思う。 私もその一人で、この楽天の公開日記と併記するようになって以来、毎日のダブルヘッダーゲームを如何に克服すべきかと聊か戸惑い気味だ。 とにかく自分は生来の遅筆。加えて構想も添削しつつ煮詰る蒸留式作文法(?)が流儀。 それゆえここ数日の日記は、何れも只今工事中の看板を出し、少しづつ書き足している現状だ。 もし奇特な読者が居たら、サゾ呆れて苦笑されていることだろう。 きっと楽天広場の先輩達の中にも、かつて同様な悩みに直面した方も多いと思う。誰か良い克服法をご存知だったら、ぜひアドバイスいただきたいものである。☆私の非公開日記『わが星霜』の生い立ち ★夫婦日記のスタート いつかの公開日記でも触れたと思うが、私の非公開日記『わが星霜』は1966年(昭和41年)の元旦からで、自由日記を使って始めた。 バソコンもワープロも未だ実用化前だったから勿論手書きだ。 それをワープロ日記にしたのは、1985年(昭和60年)の2月からだった。 始めから製本された自由日記では印刷が出来ないので、簡単安価な二穴式ファイリング表紙を常用する。 また記述内容も、私事と時事の二項目別に分類した、特記事項や随想を書き込む《要録欄》。 次に毎日の行動を想定した定型文を予め作文記憶させておき、これを事務的に添削して書き換え記録する《行動欄》。 更に、出納・食事・備考・家族・映像などに関した事を記録する《細目欄》。といった風に並列した横書き方式に改めた。 こうして、2003年現在の日記帳は計65冊目である。 うち2~16巻j迄は手書き自由日記。以後がワープロ仮綴日記となっている。 またこの中から除外した第1巻は、記載開始前迄の自分史を何れ書き纏めるつもりの予備巻で年表などの資料ファイルだ。 ところで途中、全体的から見れば短期間とも言える年月ながら、欠落が気になる期間がある。それは1977年春の頃から1988年の夏にかけてだった。 職場の仕事や、必要に迫られ始めた妻と協力しての副業、そして二人の娘が共に思春期に差し掛かった子育ての難しさ等々困難が山積。夫婦共に毎日日記を書き続ける時間も根気も尽きかけていたのかと思わせる部分だ。 しかしこの空白も、パラパラと僅かに書き残した日々の記録を読み直してみると、書かないと何か心に負い目を感じるようになっていた自分が垣間見えた。習慣性が身に付くまでの、怠惰との戦いを物語る期間だったとも言えよう。 それゆえ、1977年2月23日を最後に妻が綴る日記の筆は途絶え、以後の同年3月11日迄の記述が、点々と一部歯が抜けた如く私の筆で残り、夫婦日記部分は終わっていた。★単独日記としての再スタート だが、この夫婦日記は1978年1月5日まで12年間続けて一旦途切れ、約4年半後の1982年7月21日から今度は私だけの単独日記として復活させ、以後今日まで継続して書き続けてきた。 即ち、一旦挫折を見た夫婦日記に代わり、約9ヶ月間の無記録期間を残し、翌1978(S53)年の元旦から、夫である私の単独日記とした『わが星霜』は一応の再スタートを切ったのだった。 それは17冊目の夫婦日記として使い始めたばかりで挫折した、同じ自由日記の余白部分に続けて書き込む形をとって始まっていたが、この年は、僅か1日から5日までの何と5日間で又すぐ息切れしてしまった。 そして今度は約5年間もの空白を置き、何としても諦めきれなかった如く、心機一転を期し1982年7月21日という半端な日から改めて書き始め、遂に完全に立ち直って独歩しだし、以来2003年2月24日の今日只今まで延々と星霜20年に亘り、日々の記録を書き続けてきた。だからほぼ欠落した前記5年間を除いた実質記録年月は計約32年間という事になる。 だがその全記録全てが自由日記形式だから、一年一冊とは限らない訳だ。「忙しい。眠い、今日はモウ寝る」といったふうな短文もあれぱ、中には数ヶ月で一冊を使い切り書きまくった年もある。よほど公私共々暇だったのか、何か腹の中に不満でも充満していたのかなぁとも思う。 まあそんな風に書きためた非公開日記『わが星霜』も、今年で通巻№66号となった。…と言う事は、今後の予定として前述した記載始めた1966年以前の要録となる№1号と、まだ書き始めたばかりの今年分の2巻を除くと丁度今全部で44巻となり、年平均2冊を書いてきた事にもなる。 今、この手記を書こうと取り出した日記の山を見て、本当に我ながら良く頑張ったものだと改めて思う。 当初は手書きで、一日おきの夫婦日記として始まったこの『わが星霜』も、私の東京本部への単身赴任で、そうも行かなくなった。 それからはAB2冊の自由日記に変わって、一週間置きに帰宅する都度、互いの記録を交換して読み克つ書き残す事で、家族の一体感を維持しようと図った。 中断の原因と単独日記として復活した理由は、その間に仕事の繁閑が極端になった為と記憶する。しかし、それが原因で夫婦間の連帯が必ずしも理想どうりには行かず、かといって12年も続けた我が家の記録だ。 このまま何時までも中断させて置く事は、折角わが家の宝物のように思い育て上げてきた掌中の珠を放り出すようなもの。これからは毎日一人で書き続けよう。そう思ったのだ。 だが、単独日記としての記録再開は、実際に一人で書き始めてみると覚悟していた以上に、強い克己心が必要だった。 何しろ夫婦日記では隔日だったものが、毎日となると算術的に考えてみても二倍の時間と努力が要る。だから再開して暫らく経つと、忙しい時、疲れた時、眠い時など、書くのが辛くて幾度か放り出したくなった。 でもそんな時は、唯一言だけでもいい、書くように努めた。 だから今、折に触れ抜き読みしてみる文も字も、まるでミミズのタワゴトのような事を、ミミズがのたくったような字で書き綴っていて、思わず苦笑してしまう。 そんなふうだったアノ頃の私なのに、今では書かないでいると気になって気になって…。 でも、字が下手で遅筆という二重苦を抱える私にとっては、ワープロの出現こそ何と言っても大きな福音だった。 前節の始めでも触れたことだが、ワープロ日記に切り替えたのは、1985年(昭和60年)の2月からで、最初の機械はワープロが実用化されてから数年後の「シャープ書院WD500型」だった。値段は大分手頃になって来たと言われ ながらも、確か本体だけでも30万円程度した。 ディスプーは白黒一行表示の液晶で、フロッピーディスクの駆動装置などは未だ本体に組み込まれておらず、接続用コードと共に別売りだった。 これに印字リボン等の消耗品一式も必要だったから、必需品的オプション代金が更に5万円近く必要となり相当高価だった印象が残る。 あれから、使ったワープロはなんと4機種にもなる。そして今はパソコンの時代となって、この楽天の公開日記は勿論パソコンだが、非公開日記の方は今もなおワープロと使い分けている。それは、フロッピーディスクの互換が効かない事もあるが、何と言っても長年使い慣れた機器の方が、いくら古くなっても使い易いし、古女房のように思い出や愛着が染みこんでいて、手放しがたいからである。 ともあれ私も既に晩年。これから残り何年日記を書き続けられるかしれないが、既に生産中止されて久しく、修理もままならないワープロばかりだ。できるだけ長持ちしてくれよと、故障の都度、目玉が飛び出る程とられるのも厭わず、セッセと修理に出し続けている私である。
2003年02月24日
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☆花の名前は「シャガ」 一昨21日の(導入編)と昨日の(本文編)につづき、今日は(後日編)を書き「終」としたい。、 だが、その前に気になっていた『無名の蘭(1/3)』の副題、《誰か、この花の名知らないかなぁ?》の問いかけに、早くも同じ楽天のメル友からのお知らせがあり、この思い出の花の名が、「シャガ」と判った事を先ずお知らせし、題名も『無名の花』と訂正しておこう。なお念のため、その「シャガ」の詳しい資料を文末に掲げておくことにしたい。 なお、ご教示くださったのは、うるとびーずさんだ。 勿論、この楽天広場のメル友である。実はこの花、「蘭」ではなく「あやめ」だそうだ。 まことに汗顔の至り。先ずこの画面で厚く感謝の意をお伝えし、後日編を書き出そう。☆裏庭の笹薮刈払い着工まで 頼りにしていた若いA君の長期欠勤で、作業はすっかり遅れてしまった。挽回策として、一度断った他の応募者数人に電話を架けてみた。幸い皆まだ仕事が見つかっていないので、何時からでも働きたいとの事。 そこでA君に電話して病状を聞くと、彼も明日から出勤するとの返事だったので、「作業が遅れたので、君の意向によっては、他に応募してきた50歳のMさん。及び、65歳だが健康に支障がないし是非働きたいと言うSさんにも頼もうかと思う。どうだろ。どちらも君より大分年長だが、仲良くやれそうかね?」と聞いてみた。 すると「私の風邪の為に遅れたのだし、話し相手いたほうが気が紛れて良いと思う」と賛成してくれた。 こうして先ずSさんよりは若い50歳のMさんだけに、39歳のA君と組んで働いてもらうことに決め、7日ぶりの作業再開を待った。 だが翌朝になると、いくら待っても風邪が治ったA君が顔を見せないのだ。結局、昨日作業の説明を聞きに来て一番やる気満々だったMさんだけで作業を始めていてもらい、こうなったら仕方なしと、少し年齢的に無理なのではと採否を保留しておいた65歳のSさんに直ぐ電話して事情を説明。「ピンチヒッターとして、今日これから直ぐ出勤して働いてもらえるだろうか」と頼む。 だがその65歳のSさんに出かけてきてもらったのは良いが、自転車で約半時間以上の道を駆けつけてくれたらしく、着いた時はもう十時過ぎで、しかもフラフラだった。 その上、支障がないと言っていた体のほうにも何か問題がありそうで、失礼ながら外見は、古希を越えた私より老化しているように見受けられた。 このため思わず「大丈夫かねSさん。何か心配だな…、無理だったら遠慮なく断っていいんだぜ」と念を押してしまう。 しかし彼は、「な~に大丈夫、私はアンタと同じN小の後輩だよ。子供の頃のアンタも憶えてるし、アンタより大分若いんだから…」そう言われてしまった。☆頼りがいなき男達 まあこんな具合に、漸く滑り出した裏庭の笹薮刈払い作業だった。 勿論、俄か集めの人達に頼むのだから、私が率先して指図し動かない訳にはいかない。だから腰には特大版の湿布をベタベタと張り、医者に作ってもらったコルセットを巻いての完全武装で先頭に立った。 だからと言って、またあの「深部」静脈血栓症」に見舞われたら、今度こそ命取りだ。ちょっとした体調異変にも気を使わねばならないから、内心は何時もビクビクものだった。 アンタより若いと、ヤル気を誇示した65歳のSさんだが、余程慌てて出かけてきたらしく、仕事の内容は伝えてあるのに背広に革靴履きだ。 そのまま背広を脱ぎ共に作業に就こうとするので訊くと、全くの手ブラで来たとの事。仕方がないので、サイズは合うはずもないが、私の洗濯用の着替えやジョギングシューズを出して着用させ裏庭に向かう。 こんな風だったから、まだ若いM君が率先して草払機に丸鋸を付け、時にはエンジンソーに持ち替えて頑張ってくれホッとした。 見る見る庭に笹竹の山が出来始める。 そして65歳のSさんと私は、これをゴミとして処分場に持参できるよう、手鋸や鉈で短く断ち切り束ねる役目に回った。 だが十時過ぎにお茶にした時、「Sさん、手鋸じゃ捗らないでしょう。旦那さんの鉈を貸してもらったら?」 とAさんが勧めたので、「どうする?」と私が聞くと、Sさんも「それじゃぁ鉈にしてみるか?」との事だった。 やがて正午となった。 A君は弁当を持参したので、自分は車の中で食べるとの事。それで、お茶と箸休めになりそうな惣菜や果物だけを彼の所に持っ行かせるだけにした。 だが「Sさんはどうするの…」と訊くと、弁当を持ってこなかったと言うので、それなら近くのコンビニを教えてやろうとしたら、財布も持ってこなかったとの事。 まあ、そんなこんなで、昼食は私達夫婦の分を三等分して盛り付け、済ませてもらう。 午後の作業が始まると、私は鉈を買いに出かけた。 安売りの時に買った手持ちの鉈は、鋸とセットになったものだったが、さもない価格だった。イザ欲しいとなって買いに行くと単品でも相当な価格なのにおどろく。 でも、これから彼の使ってもらう鉈がなくても困ると買い求め、家に帰り着いてみると驚いた。何とSさんは気分が悪くなって帰宅したとの事。「おいおい、それなら健康だ何て柄にもない事、はじめから言いなさんな。彼の分の鉈なんて必要なかったじゃないの…」と、心の中で呟く私だった。☆会社員主婦Oさん大活躍! ともあれ、これでは明日からの彼に期待は出来ない。至急代わりを見つけなければと、応募者の履歴書ファイルを開いて電話を架ける。 残る候補は、隣接したF市との境界近くに住む会社員K氏の奥さんだった。 大学と高校在学中の娘さんと息子さんの二人の母でもあり、二世達の教育費が大変らしい。それに老後の備えも考えなければと、今までは時々近くに住む男ヤモメとなったご老人の世話をされていたとかであったが、小泉内閣の福祉切捨てからか、家計急迫を理由に断られてしまった由だ。 そして履歴書を見ると、実家は同じ市内ながら逆方向の郊外にある農家だった。学歴も我が家に程近い女子の名門N高校卒だから、娘Wの先輩だ。 そこで私は躊躇なく私は明日から働いてもらう事に決めた。力仕事は男のMさんに及ばないとしても、農家の出なら要領よく立ち働いてくれるだろうと思った。 明くる朝が来た。まずKさんは予定時刻前に早々顔を見せてくれた。だが今度は、Mさんが定刻過ぎても顔を見せなかった。電話すると、「夕べ、ダチ公と呑んで風邪引いちゃって…」との事。「何だ困ったなぁ、先刻から、頼んだ奥さんがアンタを待ってるのに…」と言って、電話を切ろうとすると、「一寸待って、それじゃ悪いから昼から出て行くョ」とケロッと言ってくれた。「オヤオヤこの大将、風邪引いたんじなくて二日酔いかよ」と苦笑。「本当は奥さんと聞き、顔だけでも拝んで見たくなったのかも…」何て気を廻したりしながら、Kさんと作業を続け彼の到着を待った。 こうして、その日の作業がフル稼働したのは午後からだった。遅れた仕事も気になり、私も一緒に加わり夕刻まで作業を進めたので、その夜は腰や足が痛んでならなかった。 その翌日は火曜日だったが雨だった。 降れば休みと決めてあったし、夕飯前に彼が突然訪ねてきたため、一体何だろうかと不審な顔で迎え入れる。 すると彼は、さも言いにくそうな顔で切り出した。「実は、またダチ公と呑むことになって…。スミマセン、給料四千円だけ前払してくれませんか」 そう頼むのだった。 で私は、「払うのは良いが、払うとアンタまた風邪ひいて来なくなるんじゃない?」 とカラカイながら渡してやったが、翌日は案の定の二日酔い。まあ、出勤はしたものの余程作業がキツかったのか、それとも本当に風邪を引いてしまったのか、その日また残りの給料を支払わせると、そのままMさんは顔を見せなくなってしまった。 幸い文字どうり藪をなしていた裏庭の笹は全て刈り払われ、その後も数日間通ってくれたKさんと共に、家内も加わった3人でボツボツ大半の後片付けを済ませる事が出来た。 それにしても、この不況の中を強く生きようとハローワーク通いされていたため巡り合った、Aさん・Mさん・Oさん・Kさんの4人の人達。 お互いに感じた事は様々だっただろうが、私の一番の感銘を受けたのは、一番最後に来てもらい唯一人の女性だったKさんが、結局 一番の粘り強さと勤勉さを発揮して見せてくれた事だった。☆エピローグ 斯くして一昨年の夏の帰国から気になっていた裏庭もサッパリとした。剪定だけして残した数本の庭木だけがポツンポツンと立つ、刈払後の庭は早々と晩秋の気配を感じさせ、花らしい花も見当らなかった。 後日、「シャガ」と判ったあの花も既に萎れ、母が植えた梅ノ木の下に戻してやった。「これで大体の作業は片付いた。あとは、寒くなるまでに夫婦二人で体調の良い時に、ボツボツ残ったゴミでも片付けよう」などと話していたそんな或る日、こんな電話も架かってきた。 何と灯台下暗しで同じ町内に住む、五十代後半で夫婦二人暮しだという奥さんからの、一足遅い求職要請であった。「先刻、ハローワークで見たんですが、お宅で庭仕事の働き口があると知りました。自分の家で何時も庭仕事は慣れてますし、お宅なら歩いて通えるから是非…」との事。 私達もソロソロ体力に限界が見えてきたし、懐具合に合う条件で、信頼して家事を任せられる人が居れば安心かな…」とも思う。唯「余り近すぎるのも良し悪し…」という家族の意見もあり、こうした調整が必要なので今回は見送らせてもらった。《終》 ………………………………………………………………《参考》※保土ヶ谷公園で撮影の写真2点は後日挿入の予定☆シャガ (左)2000年4月14日(金)、保土ヶ谷公園。(右)2002年3月23日(土)曇り、保土ヶ谷公園 晩春から初夏にかけて、胡蝶を思わせる白い優雅な花を開く。 Iris japonica/アヤメ科/常緑多年草 本来は林下の半日陰に群生し、剣状の葉に映えて咲くが、栽培もされる。 淡紫色の斑と黄色の突起があるこの花は直径約5cmで、高さ30~70cmに伸びた茎先に数個つく。一個の花は一日でしぼむが、日ごとに咲き変わる。花びらは2種類、外側の花びらには、黄色いでっぱりと紫色の斑点がある。その内側の花びらは、やや小さくうす紫色ががっている。内側で先が糸みたいになっているのは、1本の雌しべの先が3つに裂けたもの。受粉せず、従って種子は出来ない。(土の下の茎や根でふえる。) 類似種のヒメ(姫)シャガは小形で、高さ10~30cm。花は直径3~5cmでふつう淡紫色、まれに白もあり、5月に咲く。
2003年02月23日
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昨日21日の日記の題名に(導入編)と書き加え予告したので、今日は忘れないうちに、『無名の花(本文編)』のテーマ《撮影動機その他》について書く事とした。さて「この花の名、知りませんか?」と副題をつけたように、この無名の蘭を我が家の裏庭の片隅で見付けた時、私は何かハッとするような美しさと格別な愛着を感じた。一昨年夏、中欧三ヶ国の旅で発症した「深部静脈血栓症」は、帰国後の入院で一応克服したつもりだった。だが、以来次第に体力の衰えが加速して、それまで自分でポツボツこなせた庭仕事も殆んど出来なくなって、一年で百坪程の庭は笹薮化した。このため仕方なく知り合いの植木屋に依頼してみた。だが判りましたと言っておきながら、多忙らしく一向に顔を見せない。そんな折、ハローワークと同じビル内にある郵便局まで所用で出かけた。ついでに立ち寄って見ると、中は不況を絵に描いたようで就職先を探す人々でゴッタがえしていた。「臨時雇いの半端仕事だが…」と相談の末、求人票を書いて来た。賃金は、見せてくれた参考例より若干高めに確か時間九百円とした。しかし期間は当面は数週間だし、仕事も笹薮刈払などの庭仕事とあって、余り応募者があるとは思えなかった。だが帰宅した直後から応募者が殺到、その中の一人に先ず就労を依頼した。まだ39歳で、転職暦は多かったが親が近郊農家で庭仕事は得意と言うA君だった。そして何よりも身元が確かだと言う事で家内も一番気に入ったようだ。それは、臨時雇いでも身元知れずでは万一の犯罪に対処出来ないと言うのだ。そんな訳で、簡単な履歴書も持参してもらった。写真貼付のない人は応接の際、一応了解を得てVTRを撮らしてもらった。こうして11月1日に始まった刈払作業は、彼のお蔭で二日間で驚くほど捗った。だが翌日の昼下がりまで頑張った彼だったが、風邪気味だからと早退。それから風邪が抜けきれないからと毎朝欠勤の電話があり、7日朝になって漸く顔を見せてくれた。でもこの間、刈り倒したままの笹竹や刈草を、雨に濡らせば後が厄介と、手を拱いても居れず、妻と二人老いの体に鞭打って後片付けに励んだ。そんな作業の合間にフト裏庭の梅ノ木の下に目をやると、折り重なった笹竹の間に、凛とした姿で輝くような美しさを見せ、唯一輪の蘭のような花が、無傷で残っていた。花弁の直径が4~5歳の子供の掌程で、気品と白さが目立つ花だった。また蘭特有な三枚の大花弁には、花芯に向かう紫と黄色の花紋が印象的だった。そして私はフト、その時…。「そうだ! この梅は母が親友Eさんから贈られた木だ。 《美しい花と、大きくてオイシイ実が、一本で楽しめるんだから…》そう言って、土いじりしていた手を止め、姉さんかぶりの顔を上げ、息子の私に得意そうに語っていたっけ…」。そんな事を思い出した。そして更に、「もしかしたら、この蘭の花は、元気だった頃の母が植えたものかも…。」とも思ったりした。そんな訳で、この蘭の花は何か亡き母の懐かしい思い出も蘇らせてくれ、とても因縁深く感じられた。しかし残念ながら、よ~く見ると、可愛そうに根元が矢張り一寸傷付いていた。それで私は、何か大変申し訳ない事をしてしまったような気がしてきた。こんな可憐な花だもの、自分で草払機を扱っていたら多分避けられたものを…。そう思うと、私は花鋏で傷の上から花を切り取り、水揚げして花瓶に飾ると、一番目立ちそうな窓際に置き様々な角度から写真に撮った。それから暫らくして花は朽ちた。だがしかし、私はこの蘭の花を何時までも忘れない。こうして時々写真を見直しては、荒れた我が庭の片隅に人知れず咲いていた、孤高の気高さをも感じさせる唯一輪の花の姿を…。 《以下、次の「後日編」に続く》
2003年02月22日
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この公開日記を綴り始めて間もなく一ヶ月になる。今日は先輩の皆さんの立派なお部屋を参考に、ホームページの模様替えを試みる事とした。…といっても、HTMLの何たるかも良くは知らない私だ。文字の大小・色・配列等の自由を確保するには、何としても、この扉を開かない事には先に進めないようだ。そこで、HTMLの解説を先ず読み始めた。でも年寄りには一寸難解で、瞬く間に時間が過ぎて行く。まあ、そんなこんなでHTMLの理解は後回しとし、もう一つの模様替えの要素となる写真選びを昼から始めた。…だが、これにも相当手こずらされ、素直に画像の倉庫に入ったのは、何と15枚選んで4枚だけ。どうしてなのか…と、繰り返し首を傾げる。本当は、皆に是非お勧めしたい年賀状改革の見本として、1970年から30枚ほど残る自分史兼用となる私の年賀状を先ず画像の倉庫へ収納したかったのだが…。結局、今日は在庫4枚だけで模様替えに挑戦。戸惑いつつも何とかマアマアの飾り付けを終わる。トップページには『春よ来い(私の哲学の道・観音川桜堤)』 ※掲出法が良く判らなかったが、全ページの壁紙となる。日記ページには『飛行機雲(hikoukigumoさんより借用)』 ※夏の壁紙としても良さそうだ。でも文字入りではネ?掲示板ページには『無名の花(この花の名、知りませんか?)』 ※裏庭の竹薮の片隅にヒッソリ咲いていた可憐な花だ。以上3枚を使い、残る『小さい秋(観音川の紅葉)』は秋季用とした。また日記ページの写真は、昨日の日記「hikoukigumoさんへの返信、『飛行機雲の思い出』」に、挿入のネーム文までピッタリだと思い借用。なお、掲示板ページ掲出の『無名の花』は、付記した如く、裏庭の片隅にヒッソリと咲いていた可憐な花だ。しかし肝心の撮影動機を書くと、それだけで長文となる。よって題名は短く、呼びかけ気味な副題を添えるだけにした。即ち、稿を改め以後の日記の同名本文として動機を…と言う訳だ。従って題名も今回は『無名の花(導入編)』と書き加えて置く。ともあれ、模様替えが済んだら時刻は早くも夜9時過ぎ。『楽天の公開日記』の記載は明日にして、『わが星霜』だけ書き終え、11時に就寝。いくら眠くても、1966年から続く非公開日記だけは、仮に直ぐポックリ神に召されても、最後の最後まで出来る限り書き残したいからだ。なぜって、娘達が巣立ってしまった今。この日記だけが妻との生活にメリハリをつける何よりの生甲斐であり、宝物のように思えるからだ。まあ、何れは単なる紙屑として捨てられる確率は大だが、ヒョッとすると、あの江戸時代の下級役人『御畳奉行の日記』の如く、後世で珍重されるかも…。なーんちゃって、後世の苦笑の種になるのがオチかもネ!
2003年02月21日
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カキコの友「hikohkigumo」さんへ実は飛行機雲には色々思い出深い私です。今日は、このマコト爺さんの名刺代わりだと思って、その一つを先ずお聞き下さい。☆「あれ多分、友軍機の迎撃で煙を吹いてるんじゃ…?」初めて飛行機雲を見たのは1944年の初夏の頃だったか?それは米軍の本土空襲が始まる少し前のこと…。偵察に来たB29が富士山を目指して、奥駿河湾上空を高々度で北上する姿だった。キラキラと光る機体から白く長い長い尾を引いていた。丁度、hikohkigumo さんのイメージ写真そっくりだったな。最初にそれを見ていた見張台の監視員の一人が、「あれ多分、友軍機の迎撃で煙を吹いてるんじゃ…?」と叫ぶ声が防空壕にまで聞こえ、それまで隠れていた誰も彼もが、怖さも忘れ外に飛び出して空を見上げた。その余りの美しさは、今も忘れられない。これ本当の話だよ。だって、その頃の日本の飛行機は、成層圏を巡航飛行できるようなものはなく、飛行機雲なんて見た人は稀だった訳。監視員の言葉としては一寸不勉強ながら、皆その言葉を信じ、「アレじゃ、とてもマリアナの基地まで戻れまい」なんて、傍のオジイさんも真面目な顔して話してたっけ…。まだ日本の国が負けるなんて誰一人として考えなかった頃ながら、実はそれから一年ほどの後、わが家も、わが町も、そして日本の主要都市の殆んどが、このB29の大編隊により灰燼にされ、最後は何と、あのピカドンで、広島・長崎の街も人も一瞬に吹っ飛ばしてしまった。本当に、本当に、皮肉なもの…。----- Original Message ----- From: To:
2003年02月20日
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今日、足跡を辿り、図らずも拝見できたfuji♪さんのホームページ(HP)の何と素晴らしかった事か…。 これまで私は、楽天のHPというのは、本の表紙に当るトップページ以外の文字は、全て大きさも、書体も、色も、全て同じ細ゴジック体かと思っていた。なぜなら、これまでカキコし合った方々にせよ、ランダムで覗かせてもらった方々にせよ、いずれの方のHPも全てこの範疇内で纏められていたからである。でもFuji♪さんのホームページを開き、それが私の早合点だった事が判った。とにかく、文字が今ここで私達が使っている大きさより格段に大きく、しかも太ゴジック体だ。その上色も使い分けられているし、文字の大きさも自由自在に変化させた見事なレイアウトなので、もうビックリ。その思いを疑問とともに掲示板にカキコしはじめたところ、既に9時20分。だが今日は水曜日とあって、朝九時半には妻を文化講座の会場まで送る必要があった。それで心急くままの感想を連ね、そのまま《書き込む》のボタンを押して家を出た。すると夜、早くも私書箱へメッセージが届き、「HTMLタグを使えば、日記のページでも大きさも色も指定できます」と教えてくれた。で、こちらも早速fuji♪さん宛に、ほかに新たな質問も含めて感謝の返事を書き始めた。しかし、なかなか説明しなければならない内容が表現し難く、書いたり消したりするうちに、アレヨアレヨと夜が更けてしまい、また就寝は午前様となってしまった。まあともあれ、今日の往復文書も技術的な覚書としても必要だから、非公開日記として保存する事にした。その上で、改めてアタックを試みよう。勿論、私は早ロートルゆえ、とても歯が立たないかも知れないが…。
2003年02月19日
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★事件の概要朝の十時前に発生した韓国・大邱市での地下鉄大惨事を、私が最初に知ったのは昼のニュースでだった。その時点で確認された死者は未だ数名程度だったが、とにかく現場はモウモウたる煙で、多数の人が逃げられないまま地下に閉じ込められている様子だ。それも、たった一人の放火犯により惹き起こされたものらしい。やがて夜になり次第に事件の実情が明らかになってきた。タイミングが悪く、放火された列車がパッと燃え広がった所に、反対方向へ向かう列車も隣のホームへ入ってきて共に全焼、被害が倍加したらしい。確認された死者も120人以上を数え、負傷者も多数いると伝えられる。火傷を負った犯人も逮捕されたが、医療ミスで前途を悲観した56歳の元タクシー運転手で、乗客を死の道連れにしようと思ったとか…。被害の大きさに改めて驚かされた。★思い出す「地下鉄サリン」「日航ジャンボ機雄鷹山墜落」両事件性質は大分違うが、同じ地下鉄襲撃事件として先ず記憶に蘇るのが、あの恐怖の宗教団体《おうむ》による霞ヶ関での「地下鉄サリン」事件だ。彼等は他にも数々の凶悪事件を起こしながら、そろそろ一昔に近い今も張本人の裁判は結審しないままだし、彼の写真を平然と教祖として掲げる宗教団体が健在なのだから、この国の裁判のスローモーさとイイカゲンさには唯々呆れるばかりだ。これが韓国や北朝鮮や中国だったら結審まで半分も掛からないだろうに…。また日航ジャンボ機の雄鷹山墜落事件については、更に多くの犠牲者を出した交通事故として、今も思い新たなものがある。その悲惨さや隠されていた事故の必然性を私が知ったのは、事件後久しく話題となった、山崎豊子さんの小説「沈まぬ太陽」を読んだからであった。それは、日航という国策会社の裏面史的な小説だった。非人道的な経営と、その蔭で人生を狂わされた有意な労組員達。その蔭に隠れ、余りのイイカゲンな財務処理や、それを食い物にして栄耀栄華を極めていた人非人達の実態。それから、今も誰か特定も出来ないままの遺体も残っているらしい遺族達の苦悩や、無責任な事件処理に対する憤り…。etc.et.本当に良いドキュメンタリー小説と言うものは、読み始めたら、どんな長編でもアッと言う間に読み進み、忘れ得ぬ余韻を読者に残すものだ。久しぶりに発刊された山崎豊子さんの小説ながら、高齢を余り感じさせない社会派作家らしい題材選びの確かさと、鋭い筆の冴えに敬服したものだった。★強者よ奢るなかれ !あの事件を再考させたこの小説も話題になって早、幾星霜…。今、多くの企業が長い不況に苦悶する中、本来は自身が経営窮迫の責任を感じ、長期大幅減給や後進に道を譲る事を先ず考えべきであろう。…なのに、それにはノラリクラリと言葉をかわし、弱い立場の者達ばかりに犠牲を強いる首切役人的経営者がヤタラと目につく。裏で同じような大悲劇への火種が方々で燻ぶっている事には無頓着で、このような我利我利亡者たちの天下が何処まで続くのだろう。どうもこの世の中には、自分の天下様でなければ気に入らない連中が余りにも多すぎるようだ。みんなで程々に譲り合って生きれば、自爆テロも、道連れ自殺も治まり、働く人々の手抜きや、心身の疲労に起因する事故もグンと減るに違いない。強者が何処までも押し捲って進むピカドン時代の道の先は、何時か上手の手からも水が漏れ、共々に破滅の崖っぷちなのに…。あの「米同時テロ事件にしても」今回の 「韓国・大邱市で地下鉄大惨事 !」にしても、希望を見失った社会的弱者がヤケのヤンパチになっての犯行のようだ。どうか権力や武力で他国や他人を脅かせる立場の人達よ、時には良心を蘇らせて弱者の立場に戻り、己の身勝手を戒める事が必要ではないだろうか。----- Original Message -----From: To:
2003年02月18日
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★あきれ果てた人達… (『静岡新聞』2/16-朝3面「議員年金は『おいしい』」参照)一体この国の政治家や高級官吏達は、何てノー天気で脳なしが多い事だろう。 世界一の超赤字財政の国に成り下った一番の責任者だというのに、今なおバブル時代から積み重ねてきた世界一高いお手盛りの給与ベースにアグラをかき、居座って知らぬ顔の半兵衛だ。 その上、退職金にしても、年金にしても、利権にしても、取りたい放題、漁りたい放題と、真の一般国民の窮状や不安など全く見て見ぬフリなのだから、その面の皮の厚さに唯々呆れる。 ★腐臭ふんぷん静岡空港建設強行(『週間ダイヤモンド2/22号』参照) そんな腐敗した政治風土が生んだ仇花の一つに、不況や財政赤字の深刻化もお構いなしの地方空港建設強行の動きが、今も後を絶たないことである。しかもその殆んどが必要性や採算性が極めて低いものばかりだと、多くの専門家が指摘しているのだから、県の指導者達の良識を疑いたくなる。 現に私の住む静岡県でも、知事選直前に予想以上の反対署名が集まり、一度建設を断念するかの態度を示しながら、何とか再選が叶えば又々工事強行という豹変ぶりだ。 これでは既に舞台裏で引くに引けない程に巨額の悪銭が、利権を巡って動いたためだと、勘ぐらないほうが愚かしい。だから県民の直接投票を行えば、まず間違いなく反対票が過半となると思われる。 ああ、オラが県にも田中長野県知事のような、清廉にして良い面での実行力がある人が欲しいなぁ。一層のこと、今の地方自治体合併を推し進める波に乗って、隣同士なんだから合併してくれたらとまで夢見る。☆一石三鳥空港の夢 まあ、それは極論としても、今本当に空港が必要だとするなら、私ならそんな紋切り型で不経済な空港は造るまい。他に津波のための波防と潮力発電等を兼ねた、以下説明するような一石三鳥以上が期待できる多目的空港の実現を目指すだろう。 即ち、東海地震が予告されて久しい本県だけに、駿河湾では高さ10数mもの津波も部分的に予想されている。これを本気で防ごうとすればこれに倍する大規模堅固な防潮堤が必要だ。 したがって比較的人口が過密な市街地に近い海岸の危険地域の海岸線を選び、現在の防潮堤と離岸堤を嵩上げ利用して、大型飛行艇が離着陸するのに十二分な水面を持つ海水ダム湖を造る。高さは15m~20m程は必要だろう。発電は潮流と潮汐と夜間電力を適宜利用した自然流入揚水式ダムとも説明しておこう。また更に周囲の防潮堤を利用すれば風力発電も可能かと思う。 そしてこの計画をより有効に機能させるためには、海岸線に面した全国各地にも、同様の海水ダム湖を数多造って、都市間を定期空路で結ぶのだ。勿論、山間地でも、適当な湖水さえあれば定期空路で繋げるだろうし、全国を網羅した新たな交通網が期待できよう。 まあ、荒天時は船同様に欠航せざる得ないだろうが、陸上空港でも欠航はママあるのだから、在る程度稼働率が下がるのは止むおえないだろう。 なお使用機は、耐波性能の高さなど一時世界的名機とまで騒がれた、新明和工業製の海上自衛隊海難救助艇を基本に、目的に合わせて鋭意改良すれば、相当の荒天にも耐えられよう。国内の都市間を定期バス同様小まめに繋ぐには最適だろう。勿論、収納式車輪をつけ岸辺の格納庫まで自走できる工夫や施設も必要だろうし、量産化によるコストダウンも要件となろう。 いささか荒唐無稽の感も有り、恐らく素人考えと失笑する人も多かろう。しかし、その気になれば実現可能だと思う。また湖内を観光養殖など更に多目的に使えば、その経済効果も抜群だろうと、私が永年大真面目で夢想してきた一素案だ。
2003年02月17日
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やはりミアユーマさんのご主人は、私の母校の後輩だった。しかも学部まで同じ経済だったなんて…、ますます親近感が増してきた。転勤が多いとあったが、お勤め先は保険とか銀行かな…。今日の日記読ませてもらったら、丁度ご子息の高校受験だったらしく、ご主人の実家の義母さんが送ってくれた合格祈願のお礼返しに広島から高松へ行かれたとの内容。…てことは、ご主人は讃岐っ子で、今年やはり高校進学が決まった私の長女の長男である初孫と同じ年だ。するとミアユーマさんは、娘のWと同じぐらいの年頃かと思う。 まあ、そんな事はどうでもいいや。とにかく例によって例の如くだが、以下、彼女との今日の文通をネタに日記を書き送っておこう。①前文(ミアユーマさんから、昨日に続いての返信) (省 略)……《非公開保存》②本文(上のカキコへの私からミアユーマさん宛返信)『ワンツースリー・フーアーウィー・ラララ・D大 ! 』 まずパリパリ現役のご主人に、我等がエールを送って今朝のご返事書き始めたいと思います。よく今出川の母校正門脇にあったガレージで、古いオープンカー等をイジクリ回していた自動車野郎達の事を思い浮かべてます。岩倉が本拠だったんですか? 知らなんだなぁ。そうそう、話題になっていたT寮へは、前述の寮友会の時に皆で出かけ、鉄筋に変貌して昔の場所に今も在る事を確認してきました。その北東の隅に懐かしい木造の旧棟の一部が倉庫とされ残っていて、手で撫ぜ撫ぜした古い木肌の感触…。 《しなびた乳房には 色気がなくて 一人思えば悲しいのです》 と呟いていた旧友の言葉を何故か思い出し、何か息子が老いた母親に寄せる慕情のようなものを感じさせられました。オヤオヤ、まだ朝。感傷にしたっている時ではありませんよね。何しろ今は愚か者達の諍いで、人類すべてが最終戦争に巻き込まれかねない危機なんですものね。じゃ、今日も一日ご家族みんなのため頑張ってください。妻とともに子育てに追われていた昔をなつかしみながら… 草々(誠) (2月16日10時28分)
2003年02月16日
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誰が考えたか知らないが、このOutlook Expressにしても、楽天のホームページにしても、実に良く出来たシステムだと思う。幸か不幸か、このところ私はスッカリその虜になってしまったようだ。書き書きするうちに知らぬ間にお友達が増え、Re.Re.Re.Re.と途中で題名をかえるにしても、返信また返信と限りなくメッセージが行き交う。まるで卓球競技のようだなと思う。まあ私は今のところ食いっぱぐれない程度の貧乏隠居の身だからまだ良いが、仕事や子育てに追われていて共稼ぎの人など、いくら楽しいにしてもサゾ大変だろうなと思う。まあそのうち要領よく軽い短文で纏められるように慣れていくのだろうが、少し凝り性で几帳面な性格だと、体を壊すまで止められなくなりそうだ。ともあれそんな訳で、また今日もカキコからの一文を紹介する事で、お茶を濁させてもらおう。お相手の ミアユーマさんは昨日も紹介したと思うが、現在は広島にお住まいの主婦で、ご主人は転勤の多い会社のサラリーマンさん。子供さんは三人で中三と中一の息子さんと、小一のお嬢さんが居られるとの事。昨日の今日で連ちゃんだが、ご主人が私と同じ京都のD大卒だとかのカキコを見て、またまた世間は狭いものと、下記の如く所感一筆に及んだ次第だ。①前文☆ミアユーマさんからの返信 (要・14日の日記参照) (省 略)……《非公開保存》②本文☆「えっ! ご主人もD大卒? 」 (私から ミアユーマさんへの返信)バレンタインデーを前に一段と磨きがかかった誰かさん、D大卒のご主人さぞかし目をしばたかせた事でしょう。私達の頃は本部が烏丸今出川だったD大も、今は田辺に移って一寸そちらへの訪問は不便になりました。それでも、旧友達と車や貸切バスで既に三回も訪ねて行きました。現在の母校や後輩達の在り方をこの眼で確かめておくのも、天国へ行った時に先輩達への土産話になるでしょうからね。勿論、今出川校舎の方が何てったって我々の古巣って感じで、京都を訪れる度に立ち寄ってます。それに今では京都駅から地下鉄でアッと言う間。前回は丁度、ホーム・カミング・デーでキャンパス内は事のほかの賑わいでしたよ。学生時代、経済学部だったため余り中に入る機会がなかった神学館の一室で、ミッション校ゆえの必修科目だった宗教学で学んだA教授の真似をして、「それでは今日は『愛』について話しましょう。エー愛には…(間)…、アガペー、エピテミア、エロースと三つのタイプがあります。一つは神の愛、次は自他愛、そして自我愛。つまり性愛ですね。…」なんて、旧友達の前で教壇に上り一席演じてやったら、始め何をこの人始めるのかしらと心配げだった旧友の奥さん方も、やっと少々納得した様子。まあ、話がまた脱線しはじめ長くなりそうですので、今朝はこれまで。とにかくカキコありがとう… (2月15日9時39分)
2003年02月15日
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今日は、あの京都国際会議場が有る「宝ヶ池」の思い出を、下記の如く訊ねてくれた「ミアユーマ」さんへの返事を兼ねて、その昔にあった私達の「宝ヶ池事件」を中心に、今一度彫り直して見た。なおこの一文は去る1月27日に書いた「しげっと」さんへの記事を叩き台にして書き改めたものである。☆その1.ミアユーマさんからの来信文>はじめまして >書き込みありがとうございました>しげっとさんも、うちにはランダムで来てくださったようで・・・>若水さんも宝ヶ池の想い出がおありなんでしょうか?>京都にも住んでらしたのかしら? (2月14日1時6分) ☆その2.ミアユーマさんへの返信本文私の宝ヶ池の思い出は、皆さんのようなロマンチックなものではなく、実は本当に残念ながら、一寸苦々しい思い出の失敗談なんです。今でも旧友達と呑む時など良く酒の肴となり、その都度思い新たにアノ池を懐かしんでいます。そんな宝ヶ池の事を思い出の場所と書いていたのが福岡にお住まいのしげっとさんで、つい「あの京都の宝ヶ池かいな」とカキコして訊ねたくなったという訳です。そして貴女も又あの宝ヶ池が、ご主人との忘れ得ぬ思い出の場所だとか…。そうそう確か、つがいの白鳥の姿が、何か幸せの絶頂だったお二人の姿とも又々好一対…といったお話でしたっけね。ともあれ、そんな皆さんの素敵な思い出話の後で、私の失敗談を始めるのは何か不釣合いとも思われますが、お訊ねいただいた事でもあり、改めて以下一挙公開といたしましょう。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━それは1951(S26)年春4月、私が生まれて初めての長い一人旅をして、D大学に入学した当夜の事でした。岩倉の八幡前に有ったT寮に入寮、荷物を片付け終わって倒れるように深い眠りに就いた。その直後の寝付きを、「非常呼集!」の声で振鈴を掻き鳴らす響きと共に突然叩き起こされて行われたのが、何と宝ヶ池への「新入生歓迎試胆会」だったのです。こうして先輩達に命じられるまま、5分間隔で一人また一人と目的地の宝ヶ池に向かったわけですが、今と違い途中は殆んど幅1メートル程のウネウネとした田舎道で、民家の灯り一つ見えず、寒さと内心の怖さに震えながら進みました。ところが途中まで行くと幅5メートルほどの小川が有り、狭い土橋が架かっていました。どうやら通過証が置いてあるという墓地は、マダ先のようだと渡り始めたところが、突然、橋の下から何かがヌーッと突き出されてきました。 驚いた私は何が何だか判らず、宝ヶ池へ着いたら食べようと丁度コートのポケットに入れて握り締めていた夏蜜柑を、何かが突き出されてきた闇に向かって無意識のうちに投げつけていました。やがて、その夏蜜柑が何と橋の下に隠れコンニャクを竿の先に吊るし、私を脅そうと待ち構えていた先輩を直撃していたと判ったのは、翌朝帰寮後の事でした。その直後、何か悲鳴を聞いたようにも思いましたが、怖くて後ろを振り向くどころではなかった私は、飛ぶようにして橋を渡りきり、墓地にあった通過証を握り締めると、目的地に向かってモウ一目散でした。そして丁度夜が白々明け染める頃に何はともあれ私自身は無事、宝ヶ池に着きホッとしたものです。ところが、それも束の間。帰寮してみると何と私の投げた夏蜜柑が、先輩の顔に「バチン!!」 と的中していたと聞き、モウびっくり。とにかくオデコに大きなコブができて痛がっていて、先輩達の多くが「何と小癪な後輩が入ったものだ、そんな乱暴な後輩は我々の寮友として迎える事は出来ないと」もう寮内は大騒ぎ。結局、寮裁判と決まり。全寮生参加の中で吊るし上げられる事になってしまいました。結果は私の必至の抗弁に寮長が加勢してくれたため事なきを得て、ミアユーマさんと同じ広島から来た同じ新入生のK君と、年末近くまで二人相部屋で暮らしました。でも、そんな事があっては何となく寮生活も気まずさが残り、雪が時々深く積もり始めた頃から、寒さを口実に通学にも便利な下宿生活に切り替えました。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━以来時は流れ、卒業から半世紀近い先年。寮友会に出て来ないかとの声が掛かり、今は唯なつかしさばかりで再会を喜び合い、往時の四方山話に花を咲かせたものでした。これはそんな楽しい会の中で知りえたことですが、あの時に実は私の「宝ヶ池事件」以外の「宝が池事件」が、もう一つあった事が明らかになったのでした。それは、再会が叶った友の一人が「実はあの朝、僕はあの宝ヶ池に落ちてしまったんだよ。深い泥に足を取られ抜け出せずに藻掻いていたところ、帰寮者が一人足りないと探しに戻って来た先輩達が、漸く見付けて助け上げてもらったけど…」との事だった。参会の同期生の殆んどが、このもう一つの事件を知らなかったのも意外でした。ちなみに、私の寮裁判の時には触れらなかったあの恒例行事の試胆回は、翌年から取り敢えず実施されなくなったとの事だったが、そうした二重の事故が重なってのことではないかとも思われます。それは丁度、戦時中に一時高等専門学校の寮だった頃の慣わしが未だ残っていて、それを際立たせた最後の名残の出来事とも思えた。尤も、その表の事件の加害者兼被害者という妙な立場に置かれた自分なのに、今になって見ると、その古き蛮行の慣わしとして一時絶ち消えとなった「新入生歓迎試胆会」の行事が、何か懐かしく惜しまれてもくるのですから妙なもの…。本当に、時の流れの気まぐれさを改めて考えさせられます。(終)
2003年02月14日
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今日の日記は、標題の件で訪問先のlenzmanさんと 予想以上に共鳴したので、喜びの余り下記のごとく推移をたどり一覧記録として纏めておく。①「うるとビーさん」掲示板へのlenzmanさんのカキコ(引用文) Re:今日も考えちゃう......(2/11) lenzmanさん 多分、ここに書き込みをする人達のほとんどがうるとびさんと同じ意見だと思うので、あえて、僕は違う立場から書きます。不愉快だったら消してね。 まず、戦争に反対なのは当然です。罪のない人の命を奪うことの理不尽は許せません。では、戦争を防ぐためにはどうすればいいのか。今は国連の決議待ちですが、昔、イランやイラクに対する経済制裁の結果、一番の弱者である一般庶民が薬の不足や食料の不足で病死したり餓死したりということがありましたので、僕は経済制裁は反対です。一般庶民を殺す点では武力と変わりないですから。現に日本は今年も人道的支援は別といって北朝鮮に食料を送ってかなり物議をかもしたですよね。その支援もどうせお偉方だけに渡っていて、末端の庶民には届いていないだろうし(これは歴史が証明してます)。 では、話せばわかるのか。昔、日本で軍部が暴走したときには、殺された首相の「話せばわかる」という言葉に対して「問答無用」といって銃を撃った軍人がいました。イラクや北朝鮮の指導者が、その軍人と違うかどうかはわかりません。仮に相手に殺されても自分の信念を貫くか、それなりに抵抗するか、殺される前に殺すのかは、人それぞれ違うでしょう。ただ、一国の指導者として国民の生命や自由を守る立場にある人は、殺される前に相手を殺そうとするのではないでしょうか。僕はその立場になくてよかったと思います。そんな怖い決断はできませんから。ブッシュについても、テレビをみるだけで、その性格を判断することはできません。ただ、あるドキュメンタリーで、現アメリカ大統領の父親がイラクとクウェートの湾岸戦争を回想して、クウェートがイラクに攻められたときの悲惨さを思い出して涙している画面をみたとき、指導者って大変だなあと思いました。顔で怒って心で泣いてでしょうか。とりとめのない文章になりました。ただ今みっけが到着しましたので、ここまでにしておきます。これから録音です。 (2月11日12時12分) ②lenzmanさん掲示板から引用文 lenzmanさん、先程はご来訪毎度アリ… 若水 誠さん 「うるとびー」さんのHPへの貴兄の書き込みを見て、先程一度来てみました。だけど下記日記の執筆日を確かめに一度マイページに戻ったところ、何と以心伝心、来訪者欄に貴兄の足跡を発見。ご縁がありそうだなぁと思いながら再訪した私です。一寸ひねてますがお友達になっていただければ幸甚です。 さて私は、終戦の時まだ旧制中学一年生でしたが、あの年に生家を焼かれ、兄も沖縄戦で殺されたため、忘れようにも忘れられない戦禍を実体験させられました。 だから、若い世代の貴兄の書き込みを拝読し、もうすぐ命の火が消える自分達世代が実現できなかった反戦の志を、真剣に引き継いでくれそうな新しい星の一つを発見したような喜びを感じたのです。 古今東西絶え間なく一般庶民の人生を狂わせ続けた戦争を、本当に何とか根絶できないものでしょうか。…たとえ夢と笑われようと、そんな明るい未来への夢、この楽天で出会った仲間達を誘い、一緒にお話してみませんか。 まず誠ジイサンの今月1日の日記 「皆で実現しよう、こんな夢」①ミサイルブーメラン化計画」を読んでみてもらえないかな。 そしてまた出来たら、昨日あたりから日記に書き始めた、私の北朝鮮見聞録についてもご感想伺えたら嬉しいな。 ではまた、パソコン上でお会いしましょう。 (2月13日15時7分)③lenzmanさんから、小生掲示板へのカキコ(引用文) Re:1日の日記 「皆で実現しよう、こんな夢」(2/1) lenzmanさん 日記リンクありがとうございました。僕もリンクさせていただきますのでよろしく。僕は法学部時代に友人たちと政治なんかについて議論ばかりしていました。その頃は某テレビ局の「徹底討論」が月に一度の楽しみでして、次の日にはみんなで続きを議論しあいました。法律に興味があって憲法なんかもかなり深く学びました。そして、徹底討論に出てくる人たちが、その現実を教えてくれたりして、勉強になりました。 うるとびさんの所に書いたのも、一番言いたかったことは、少なくとも自由主義や民主主義を標榜している代表国である米国が、大統領の性格一つで、戦争にいたることがあってはならないと思っていたからです。もちろん、大統領には強大な権力が集中しています。でも、全くの議会無視とか世論無視みたいなことをしたら、ただでも最近ほころびの目立つ民主主義や自由主義が危機にさらされると思ったからです。何か明らかにできない戦争に至らざるを得ない事情があるとでも考えないとやりきれないからです。 湾岸戦争の頃、米国がパトリオットでイラクのミサイルを迎撃したことや、レーガン大統領の構想であるミサイル迎撃を思い出します。コンピューター制御により方向を定めているなら、それを発射地点に落ちるようにデータを書き換えるようなハッカーがいればできるかもね。あまり長くなると制限を今回はこの辺で。 (2月13日20時22分) [関連の日記へ](日記本文)④ lenzmanさんへの小生返信はじめエイプリルフールの「かたえくぼ」欄のネタにでもとも思った小生の途方もない夢、まともに受け止めてくれた貴兄に心からの友情と敬意を感じます。そこで思い出すのですが、私は高校卒業の時の後輩宛一言集に確か「ピカドンで終わって、ビカドンを待つ。その気持ち忘れまい?」って書き残してきたつもりです。だって、あの原爆が落ちなければ、多分玉音放送もなく、本土決戦で日本はカルタゴと同じ運命を辿っていたと思うんだね。少なくとも私より年長の方なら恐らく同意見だと思うな。でも、あの時はそう書いたものの、内心で毒ガスが第一次大戦で大被害をもたらし使用禁止兵器とされたように、原爆も必ず何時か禁止されるだろうとも思えたものです。なぜなら原爆は使い方一つで人類は滅亡しかねない事は誰もが承知だし、ケネディーの暗殺事件が起こるまでの米国は、実に紳士的で指導者達も実に賢明だと思えましたものね。だから初めの便りに書いたように、個人的にも相当な痛手を蒙った私でさえ、「日本は敗戦で実に手痛い犠牲を強いられたが、私達庶民にとっては負けて良かったのでは…とも思いました。またそんな米国が世界のリーダーとなれば遠からず、きっと全ての国の原爆は国連管理となり、夢の恒久平和が実現するのではと、若かった私は考えたものでした。ところが、その後の米国の指導者達は、あのカーター氏を別にして、昔のローマ帝国以上に国益ばかり優先させ、無理難題ばかり他国に押し付けて省みなくなってしまいました。今では、唯々原爆を初めとする圧倒的武力で世界征服を目指すかに見え、貴兄同様に私も真に寒心に堪えません。これでは子や孫達のお先が真っ暗です。さてあの原爆開発の歴史だって、初めは夢物語だった筈。それに較べればミサイル・ブーメラン化計画の方が貴兄もご指摘のように電子科学が特に発達中の今なら、月に人類を到達させた事よりは容易に手に届きそうな夢だと思いますよね。それにもし完成させれたら、防衛機器としてだけでなく、戦争と無縁な機器にも用途は無限に広がるでしょうし、ノーベル平和賞どころか、化学や物理学賞にも一挙推挙されること間違い無しでしょう。またこれは国内的な問題点である平和憲法の理念にも叶うものだし、北朝鮮がこうした国だと判った今、この開発に否を唱える日本人は余程のノー天気者でしょう。勿論今の情勢で国として動けば、核大国は必ず阻止に動くでしょう。したがって事が動くとすれば、天才的な頭脳を持つ個人や憂国の資本家たちによって、深く静かに進められる事でしよう。まあ、今はあくまでも夢ですが、明日に向かって生きる世界中の誰かがこの私の一文に触発され、内々で研究に励んでくれたらと期待したいものですね。もしも原爆を積みミサイルを発射した者の頭上に、それが舞い戻って爆発する有様を頭に想起してごらんなさい。世界中の人々がこの不心得者を、天に向かって唾した天罰だと拍手喝采するでしょう。以後、平和共存を何より優先させるようになるんじゃないですかね。勿論、もっと別の策も無きにしも非ずですが、即効薬は何よりもこれですね。では、今夜はこれまで。オヤスミナサイ!
2003年02月13日
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梨名さんへ>おこんにちは~。もう12日のお昼だけど、気にされていた就職活動は済みましたか。何だか自分のことのように気になっちゃって…。①>★格安ながら、準国賓待遇で巡った北鮮各地の旅貴重な体験ですね。じっくりと読ませていただきました☆ ☆アリガトウ、カムサハムニダ② >何処へ行くにもマンツーマンで隠れた目が光っていて>気が休まらない旅でもありました。一人が一人を見張るという感じですか…。怖いなぁ。 ☆それがね、また後日談で詳述するつもり ですが、帰途の新潟駅の蕎麦屋にまで、 ソレと思わしき男が現れ、隣に座って 話しかけてきたんですよ。 本当に、「オイオイ、ここはもう俺の国だぜ」 って言ってやりたかったですよ③>無事に帰れただけでもラッキーだったと思います。本当に…。 ☆ウィウィ、命あってこそですものね。④ところで、道中のコミュニケーションは何語だったんですか?まさか若水さん、ハングルがおできになるとか ^ ^ ☆その時は付け焼刃ながら必要最低限の会話くらい 勉強して出かけたけど、イザとなるとトテモトテモ…。 幸い監視役は日本語ペラペラで、兼、通訳さんとしても 利用できたから殆ど不自由しませんでした。 それに同行した者の中にマスコミ関係や教育関係の 北鮮専門家が多く、そうした人達からの情報も役立ち ましたね。 今、毎日のようにテレビに顔を出す宮塚利夫氏もその 一人でしたが、私が撮って来たビデオを帰国後に見て、 その中に偶然写っていた流線型の電気機関車が、彼 氏も初めて見たと珍しがっていました。まあ下手な鉄砲 も数打ちゃ当るって程度のものでしょうがね。 ところが、以来度々訪朝していた彼が、何があったか数 年前の年賀状で、入国禁止にされてしまったと書き加え てありました。だから今の情報は、一入苦労して集めて いるんだろうなと思いながら、思い出懐かしく彼の出演 映像に見入っています。 とは言え、普通の旅行者としてアノ国を仮に訪れたと すると、一般市民との会話は99%ハングルのみ。漢字も 英語も日本語も、全く通じないと思うべきでしょうね。 … 以下つづく(後日加筆予定)… -----
2003年02月12日
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リンクの友、梨名さんへ無料で簡単に始められるとの評判を聞き、本格的な有料HP開設へのトレーニングとして始めたのが、この楽天のHPでした。だが予想以上に困惑させられる場面が多く、アチラコチラの掲示板を汚して歩いてます。きっと、「あの、おじいちゃん、他人の御部屋へ来てオモラシばかりして、早く養老院へ行ってくれればよいのに…」なんて、井戸端会議の話題になっているんじゃないかな。まあ、無用の詮索はやめて閑話休題といたしましょう。さて、北海道の話、実に面白かったなぁ…。そして後日談で船酔いの描写が出てきたでしょ。それでまた思い出しちゃいましたよ。北朝鮮へ行ったときの日本海の荒天ぶりを…。★束の間の平和なりしも、日本海波高し それは、あの悪評高き金丸の爺さんが、国辱的約束をして帰国した1991年夏の事でした。朝日新聞に広告を出した旅行社から普通の観光と確かめ、百聞は一見に如かずと参加したツアーでしたが、いざフタを開けてみると、日教組の蒔枝元委員長等が団長となった日朝友好団体の中に組み込まれ、嫌応無しにサクラにされて新潟港を船出しました。船は確か「三池淵号」と言う名で、今話題の船と殆ど同型の姉妹船でした。だが新潟を出ると直ぐ荒れ始めて、移民船同様の蚕棚が並ぶ船内はモウ大変でした。相当大型なのに船は木の葉のようで、生まれて始めて目にした波高十数メートルもの大波の、頂きから波間に突き落とされたり持ち上げられたりで、数時間はもう奈落の底を彷徨う思いでした。このためツアーメイトの殆どが、例外なくゲロしてしまいましたが、吐き終わったら不思議なくらいスッキリして、佐渡沖で風待ちしながら夕食をとりました。朝鮮式のテンコ盛り御飯や、沢山のご馳走をオカワリして食べた事がウソのようです。あの頃は俺もマダマダ若かったなぁとの思いで、何だか胸が熱くなっちゃったなぁ!それはともあれ、船酔いは指突っ込んでも吐いてしまうに限りますね。勿論、個人差はあるでしょうから、保証の限りではありませんが…★格安ながら、準国賓待遇で巡った北鮮各地の旅まあ、そんなこんなの出港当日ではありましたが、翌朝からは快晴に恵まれ、文字どうり湖のように静けさを取り戻した一望千里の日本海を渡り、三日目の昼ころ元山に到着しました。約一週間の旅でしたが、格安だから仕方がないとも思われた往復の船室のお粗末さ以外、宿も食事も乗り物も、日教組のお墨付きの御蔭か、待遇だけは準国賓待遇でした。また極めて短時日の間に、首都平壌駅前にあるツインタワービル「高麗ホテル」をベースに、すべて特別仕立ての列車や飛行機等を使い、遥かな南北国境や日本海から黄海の磯辺まで探訪させてもらえたのも、彼等の企画に便乗させてもらった奇貨と考えべきかもしれません。だが、何処へ行くにもマンツーマンで隠れた目が光っていて気が休まらない旅でもありました。宿舎近くの民家に道を聞きに入っても、すぐそこの駅へ切符を買いに行っても、何処に居たのか必ず男が現れ、何をしようとしているのかと問いかけられるのです。また、彼等の都合に合わせ当初の旅程も一日短縮させられ、これにクレームを付けた一部の旅友は、帰国後に旅行者から違約金を払わせてやったとも聞きました。でも、拉致され袋詰めにされて泣く泣く日本海を渡り帰国できなかった人も数知れぬとの噂もあった国への旅です。格安な大名旅行が出来て、得がたい思い出や予期せぬ収穫も沢山あったのだから、無事に帰れただけでもラッキーだったと思います。だって、ああした旅だったからこそ、その後は逮捕抑留されてしまった旅行者まで出たアノ国で、連れて行かれた所だけではあっても、事細かにビデオでの記録が残せました。なお旅の終わりに近く行われた三十八度線見学の旅だけは、前日の白頭山行きで疲れた事を理由に不参加として平壌のホテルに残っ私達は、なんと翌日、当局差し回しのガイドと運転手つきベンツで大同江に沿って下り、黄海に面した南浦閘門の見学や地下鉄乗車等を、同行した仲間4人だけで実現したのでした。実は、国境行きを不参加とした十数人の殆どは、前夜行われた迎賓館での答礼晩餐会で「明日は旅の途中の開城で、南北統一と書いた襷を掛け太鼓を叩いて市街をデモ行進させられるらしい…」との情報が流れたことを知って平壌に残ったという訳。それでホテルで朝食の時に隣り合った京都のお寺の住職さんから「今日どうする?」と聞かれ、「出来たら、この国が人海作戦で大同江を堰き止めて作った南浦閘門を見て見たいんだ」と話しました。それで「それは私も是非行って見たい」と彼も意気投合して、直ぐ平壌駅へ向かいました。ところが切符買おうとしていたら又々例の人民服に金日成バッジの男が現れ「貴方がたでは切符は買えませんよ」と言う。「それならタクシーかレンタカーでも…」と言う私に、彼は「この国ではそんな事は無理です。でも、なぜそんなに行きたいのですか?」と彼が聞くので、「貴方の国がスエズ運河以上の難工事を克服したと宣伝しているでしょう。その鉄道とドライブウエイで広い河口の両岸を結ぶ長大な閘門橋こそ、これから観光立国を目指すと言う貴国の誇りでしょう。ぜひ見たいですよ」と煽てるように訴えてみました。すると暫し考えた彼は「十時半まで待てますか。車を私が何とか都合してみましょう。よろしければホテルのロビーで待っていてください」と言い出し、半信半疑で待った結果、約束どうり彼が現れ、この瓢箪から駒のドライブが正夢となったのでした。こうして南浦閘門に私達が着いて見学を終わった時、丁度サイレンが鳴って小さな船が人造湖の上流から閘門に近づき、黄海へと出て行きましたが、あれは昨年スパイ船として追跡され撃沈された船に一寸似ていたように思われます。なぜって最近のニュースで、あの船がこの港から出航したことが米国の衛星写真の軌跡で割り出し確認されたと確か聞いたからです。ともあれこうして陽光に美しく輝く黄海の畔で、私達だけが独自の至福の時を過ごしていた頃、韓国に近い開城の町では何と土砂降りのだったらしく、誇り高き日教組の先生方を始めとする数百人の一行は、雨を中を噂たがわぬ姿で威風堂々の市街行進をされたと後で聞き、何だか申し訳ないような気がしてきました。でも、この旅で親しくなった某学校の先生は、夏の盛りだったのに寒くて風邪をひきそうだったと内々こぼしておりましたっけ。……閑話休題……既に十数年も過ぎた昔の旅ながら、あの時の印象も今テレビなどで紹介される印象も、敗色濃くなった戦時下の日本の姿が、その侭この国に凝固してしまったような印象を受け、唯々気の毒に思えてならない私です。支配者が日本から当時は馬賊と呼ばれていた金一家を首領と仰ぐ、名前だけの「民主主義共和国」となっただけですからね。日本の敗戦から早くも六十年近い月日が経つのに、大半の民衆の生活は往時の侭どころか、更なる飢餓生活を余儀なくされ、思想・行動の自由まで無いとなれば、平和ボケした今の日本人には到底我慢できないだろうと思いますね。同じ民族の支配者なら、裏でどんなエゲツナイ非人道的政治が行われていようと、誇り高い彼等ゆえに我慢ができるし道徳的にも許せるとでも考えているのでしょうか?第一「民主主義共和国」にも、「共産主義」国家にも、その国の首長が世襲され、彼等が今も軽蔑してやまない昔の日本の姿そのままに神格化させた金親子の写真が、何処も彼処もベタベタ掲げられているなんて、どう考えても私には理解しかねますね。まあ旅の細々した思い出は、今日一日の制限字数内では到底語りつくせません。また折を見て続編・続々編と書き足すつもりですが、今日はここまで。なお先に記した記録ビデオを、確か「悲喜交々北鮮紀行」と名付けたものでした。パスポートサイズのカメラが出たばかりの頃で、機械も腕も現在とはクラブべきもなく、ロクに編集もしてないラッシュ版と言った感じですが、今でも珍しく貴重な場面が沢山収録されています。時間と機械さえあれば、ぜひご覧願いたいもの…と言いたいところですが、楽天のお友達は皆さん住所氏名不明とあって残念至極。では、よい夢路を…。〔誠〕
2003年02月11日
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今日は、上海在住の若奥様「しぇり吉」さんがランダム旅行でご来訪。こんな会話が残りました。★しぇり吉さんのプロフィール上海で学生&主婦しながらがんばってます☆彡初めての海外生活。本当に謎だらけです・・・。*年表&特徴 2002.10 めでたく結婚・:*:・゜★ 2003.1 旦那様の仕事の都合で上海にお引越し~☆彡 はまっている事…中国語覚えることっす。 性格・特徴…いつも笑顔がモットーです♪ 好きな食べ物…秋刀魚☆彡 はじめまして・:*:・゜★ しぇり吉さん(211.95.*.*) ランダムでこちらにたどり着きました♪ ちらっと見た日記を全部がんばって読みきってみましたぁ~(*・-・*) 今度、あたしのHPにもぜひぜひ遊びに来てくださいね♪ (2月10日9時51分)………………………★誠から→しぇり吉さんへまずカキコに感謝!日記読んで下さったとか? 年甲斐もなく恥ずかしいような嬉しいような気分です。奥駿河湾岸の小都市に住む若水誠です。名前負けした老骨ですが、お嫌でなかったら今後ともヨロシク!さて在・上海と聞き、旅の思い出懐かしく日記を遡らせていただくうちに、2月2日、外灘での盗難未遂事件の記事に目が留まりました。犯人は外ジャリらしかったとか。でも本当に被害がなくて良かったですね。あれはもう一昔も前の事ですが、北京で私もスリにやられちゃいましたよ。西域旅行の出発前に仲間達と市場で買物していた時の事。何気なく近寄ってきた身なりの良い中年の男性に、流暢な日本語で親しげに話しかけられ、「お土産ですか? 私、東京で去年まで働いてました。ほう、ローヤルゼリー、中国は安いでしょう…」。なんて馴れ馴れしく話しかけられたのですが、決して気を許したつもりはなかった私でした。ところが、品選びして支払いをとウエストバックに目をやったところ、何と確かに締めてあった筈のチャックが開いているのでビックリ。でも、財布も何もチャンと入っていたのでホッと安心したのもツカの間、何と宿を出る前に小分けしてきた万円券だけ5枚、チャッカリ抜き取られていました。その間、ものの5分と経っていなかったのに、何時どんな方法で掏られたのかと舌をまいたものでした。恐らく数人の仲間のリレー作業だったのでしょうが、カードやトラベラーズチェックは抜き取らず、財布はそのままという鮮やかさでした。その五年ほど前の桂林旅行では、ホテル内の郵便局へ置き忘れた電卓を、近の書店の服務員さんが探し探しして私に届けてくれた程でした。当時の中国は、敗戦直後の日本そっくりの貧しさでしたが泥棒だけは皆無と言う言葉を実感し、その旅で出会った数人と長い友情の絆が生まれたものです。上海で外灘クルーズを楽しんだのは、西域旅行の帰途でしたが、最近は経済発展で様変わりしているようですね。でも外見はともかく、中国人の心は年々狡賢さを増してきているように思えます。どうぞ、中国語の勉強と共に、反面、市民生活では世知辛くも変貌しつつある中国での処世術も身につけ、より有意義な海外生活をおすごしください。………………おや、初対面なのに、ついつい長居をしてしまいました。生来の乱文に加え、文章も色々と飛び飛びとなりましたが、何卒ご笑覧ください。
2003年02月10日
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梨名さんの事は、まず梨名さんに語らせるに限ると、プロフィール欄をソックリそのまま借用してきたが、ざっと下記の通りだ。なお、私へのリンクは、「リンクしてくれたササヤカナお返し…」とか。当然の事ながら別に深い興味があって指名された訳ではない。勿論、私だって似たり寄ったりでリンクした訳だが、今日改めて訪問させてもらい、何気なく特設ポストにあった「父親について」と言う一文をまず拝読させてもらう。するとどうだ、内容が興味津々なだけでなく、文章も乱文そのものの私などと違い、実に理解しやすかった。そんな訳で、下記の自己紹介に加え、その本文と、更に私は私なりの感想を付記しておこう。ニックネーム 梨名職業 / 学校(同じ人は?)主婦・子育系住んでいるところ(同じ人は?) 東京都性別 女性誕生日 非公開梨名さんの特徴・趣味・特技とにかくすごいよく眠れる。さっき寝てたのにまた寝てる!寝てばっか!とよく怒られマス。はまってること。かわいいもの大好き☆Qooとトロが最近特にスキです…。 生い立ち 197?年上半期 東京都某区にて誕生。 198?年4月 東京都某市立小学校入学。 199?年3月 東京都某市立中学校卒業。 199?年3月 東京都立某高等学校卒業。 1999年秋 入籍。人妻化。 2002年9月 某団体退職。梨名パパの変な話をご紹介♪梨名は、梨名パパが37歳の時の子供です。当然、周りの同級生のお父さんたちより年くってたはずだけど、母親と違って、父親の場合、出番が少ないせいか全然気になりませんでした。母は、父より10歳近く年が下なので、私は母が20代の時の子供です。母親の年齢は平均的ですが、父はそんななので現在もう60歳を越えております。父は典型的なB型で(よく血液型にこだわる人いますね。私は違うんだけど、うちの父と旦那はほんとーに典型的なのでさすがに思います)、マイペースで個性的。必要最低限の家族サービスはしてくれたけど、面倒見はあまり良くなかったです。割に放っとかれた方だと思うんだけど、兄も私も、不思議と父が好きでした。なぜかな?★少年時代・青年時代父はガキ大将だったそうです。今はガキ大将と言うと、ジャイアンみたいないじめっこを思い浮かべてしまいますが、昔のガキ大将というのは、いじめっこを懲らしめて退治するような、正義の味方的存在だったようで。梨名的にはちょっと恥ずかしいような、誇らしいような ^ ^;父の田舎は海が近いんです。ある日、津波警報が発令されて、津波というものを一度見てみたかった父は、友達数人を誘って見に行く約束をしました。ところが、待ち合わせ場所に現れたのは父一人。仕方なく一人で津波を見に行って後悔したそうです。半端じゃなく怖かったとか。もう二度と見に行かないと言っていました。…よく生きて帰って来れましたねぇ。修学旅行先の希望調査で、父は迷わず「東京」と書いたそうですが、そんな大胆なことを書いたのは父一人で、結局叶わなかったそうな。その後、父は、地元青森で某青年団の団長を務め、ローカル局の番組に出演したりしたそうです(本人談)。そういうわけで、「学校へ行こう!」の森田村の企画にはツボられまくりの梨名♪★結婚指輪父と母の結婚が決まった頃か、結婚したばかりの頃かはわかりませんが、父が母に「指輪買ってやる」と言って、新宿の某デパートへ連れ出したそうです。母は、「この人お金ないはずなのに、本気かしら…」とびくつきながらついて行ったとのこと。そして2人は、宝石売り場で、美しく輝くオパールの指輪に目が止まりました。そこには、同じもので、石の大きさが違うものが2種類。「これ、きれいねぇ」と母が言うと、「ん?これか?これがいいんだな?すいません、これください」と父はいきなり注文。「大きい方と小さい方、どちらになさいますか?」と店員さんに聞かれた父は、「大きい方!」と即答。母は度肝を抜かれて、目を疑いつつ値札を見つめて考えたそうです。あら、意外とお金持ってたのね…。ところが、店員さんがそちらですね。○万円でございます」と告げると父は、「何っ!?×万円じゃないのかっっ!?」と一桁少ない金額を叫びました。「いえ、○万円でございます…」と再び店員さんが、父の勘違いより一桁多い正しい金額を伝えると、父は小さくなって「じゃ、小さい方にしてください…」とあっけなく注文変更。威勢ばっかり良くて、実体のちっちゃいお父様です。やっぱりお金なかったんだね(母談)。★鯉のぼり父と母は結婚当初無一文に近く、大変な貧乏暮らしでした。そしてその貧乏暮らしは兄が就職するまで続くわけですが…。当時、東京都某市のボロアパートで新婚生活を営んでいて、兄がもうすぐ生まれそうになった時のこと。同じアパートの住人に、「女の子かしらね?」と言われて、どうしても男の子が欲しかった父は「絶対男ですよ!女じゃない。もし男の子が生まれたら、庭にでっかい鯉のぼりを立てまよ!!」と鼻息荒く言い返し、数ヵ月後、お望み通り男の子誕生♪兄は4月生まれなので、すぐに5月5日がやってきたわけですが、結局父が立てた鯉のぼりは、アパートの窓からちょこんと覗く程度のかわいいものだったそうです(母談)。★兄の誕生兄が生まれた病院では、すぐに新生児の血液検査をしてくれたようで、兄の血液型はO型と判明しました。そこで父は激怒!「俺の子じゃない!お前、浮気しただろ!俺はB型でお前はA型なのに、Oなんてどっから出てくるんだ!」。そんな父に、お医者様が「A型とB型からは、全部生まれるんですよ…」と説明をしたそうです。ううう無教養なお父様…。恐らくうちの両親は、AAでもBBでもなく、AOとBOだったってことなんでしょうね。★兄の命名兄の名前。待望の長男誕生に嬉々としていた父は、それはそれは拘って兄の名を考えました。それでもって、結局自分の名「○義」の「義」を取って「義○」と名付けたんだけど、それでは満足できなかったらしく、「義」に「ごんべん」をつけて「議○」にしてしまいました。母は「それじゃあ『よし』とは読まないわよ!」と止めたらしいんですが、「読むさぁ!この漢字には『義』って字が入ってるんだから!」と強引に役所に届を出してしまったそうです。数週間後。両親は家庭裁判所から呼び出しをくらいました。「お父さん、私たち何かした??」「いや…わかんねーなぁ…」と2人でびくつきながら出廷?すると、やっぱり兄の名前のことだったそうです。「この字では、『よし』とは登録できません」とのことで、泣く泣くごんべんを取った父でした。…なので、兄のへその緒の箱には「議○」と記されております。証拠証拠♪★ヤ○ザですか?待望の長男・兄を溺愛していた父は、兄が赤ちゃんの頃、よく兄を自分の腹巻きに入れてカンガルー状態で近所を徘徊していたそうです。しかも、その腹巻きは趣味の悪いカラフルなもので、加えてグラサンをかけており、割とコワモテということもあって、母は、近所のおばさんに「…お宅のご主人…ヤ○ザ?」とそっと尋ねられたそうです…。★梨名誕生兄の誕生から約3年が経過し、梨名が生まれた時のこと。「もう男は生まれたし、どっちでもいい。でもやっぱり男の方がいいけどな」と無関心だった父に対して母はどうしても女の子が欲しかったそうです。…いよいよお産。母が入院し、陣痛で苦しんでいると、父がようやくやってきて一言。「なに、まーだ産まれないのか。ま、せいぜい頑張ってください」。母はこのことを今でも深く根に持っており、何十回と聞かされました。ひどいよおとーさん! 最低!!★梨名の命名母のお望み通り、梨名は女の子として生まれてきてあげました。母は嬉々としてあれこれ名前を考えていたそうですが、そんな母に父は一言。「なーに、女か。俺は知らん」。父は女の子には全く興味を示さず、名前の候補も絞り込まれてきた頃の母に向かって「何、名前?ああ、もう田舎に頼んだから」と言い放ちました。こうして梨名のあまりかわいくない本名は、田舎の叔母によって命名されました。しかもこの名前、画数があまり良くないのです。反対に、うちの兄の画数は素晴らしい大吉数なのに!更に、結婚して旦那の苗字になったことによりさらに画数が悪くなりました (ToT)…母に、候補に上がっていた名前を尋ねると、本名よりずっとかわいい名前が挙げられて、更に父への恨み倍増!!「おとーさん、何てことしてくれたの!かわいくない上に画数が悪いよ!だからこんな人生なんだぁ」と父を責めると父はしゃあしゃあと「名前なんか関係ねーよ。どーだっていいんだぁ」。全然反省もせず謝ってもくれませんでした (- -+ところが、男の子である兄の誕生をこの上なく喜び、私に対しては最初「けっ、女なんか」と言っていた父ですが、この後無事に私の方をより可愛がってくれることとなりました。何故かしら。やっぱり、父親にとって娘って特別な存在なのかも知れませんね。…でも、二転三転。あんなに私のことを大切に可愛がってくれていた父も、今では私のことなんかどうでもいいみたい…。今は甥ちゃんに夢中で、「孫と子供(私と兄)、どっちが可愛い?」と尋ねたら「そりゃあ孫に決まってるさぁ。お前たちのことなんかもうどうでもいい」と即答。…おとーさん…。やっぱりひどい人…。〔梨名さんに伝える《誠》の感想〕今はもう他家に嫁いで夫婦二人きりだが、人並みに私も二人の娘の父。たとえ他人事でも梨名さんに「父親について」と題されれば、何を後にしても先ずこれから…、と読み始めた。良い意味でのガキ大将だった少年・青年時代。そんな豪放磊落さが、お母さんとの結婚生活で「結婚指輪」のエピソードを生んだのでしょうね。また、お子さん達の誕生・命名・子育ての中での一つバナシも、梨名さんのお父さんが豪放磊落さの反面、実に子煩悩な方。そして、我々の世代共通の事ながら、育った時代の世間体から、人前での愛情表現が照れくさくて実に不器用…などといった事から語り草にまでなったものでしょう。でも内面密かに妻子を思う心は、今の若い方以上だと思いますよ。兄も私も、不思議と父が好きでした。なぜかな?といわれていますが、そんなお父さんの微笑ましい性格を、あなた方は知らず知らずのうちに敬愛されているではないのですか?…それから、「母の浮気疑惑」のサブタイトルで読者の興味を一層掻き立てている、梨名さんの血液型の事。私も、かつて同様な疑問に悩まされたものでした。実は私、父はAB型、母はO型の間に生まれた5人兄弟の末っ子です。ところが兄姉は揃ってA型なのに何故か私一人B型だったものですから、家族から事ある毎に「お前は○○橋の下から拾ってきた子」だからと、からかわれたものでした。そんな事が頭の中にあったものですから、京都で下宿暮らしをしていた学生時代、母から実家の近隣に居る幼友達の父が他界した時、くどいほど何度も「帰宅できなかったら、お悔やみを…」と手紙を寄越したので、幼友達本人ならともかく…と、またまたその血液型の相違が訝かられ、フト貴女が書いたサブタイトルに似た事を想像した事が今思い出されます。…………………………………………………………………………………………なお、この梨名さんの「父親について」は、最後に「北海道」となっているので、続編を期待したいものだ。 ※この日記は、肝心要の「母の浮気疑惑」などの一部が、字数超過で割愛省略されてしまい残念。詳しくは本人のHPに…。
2003年02月09日
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いよいよネットサーフィンが面白くなる。今日は来訪者のみならず、ランダムで当方からも訪ねて行き、それなりに書き足した挨拶状を置いてまわる。この楽天町へ新居構築に当たっての引越し挨拶という訳だが、例によって、その主な幾つかを下記に一括記録しておく事としたい。コツコツと扉を叩かれた密かな音に誘われ来て見ました。遥かな昔、私の大学を卒業した昭和30年も不況の真っ盛りで、今も同窓会での話しとなると、就職の苦労話で花が咲きます。だから出席者の半数近くがアブレちゃったようですが、今では遅れて就職した学友のほうが成功者が多いように見受けます。まして女の方は、良い方と出会うことで人生ガラリとかわるもの。職業もベターハーフも、決して焦らずジックリ真贋を見定め、納得して決められるとよいでしょうね。コツコツと扉を叩かれた密かな音に誘われ来て見ました。プロフィール覗かせてもらい、今、お先真っ暗な日本を任せられる人が居るとすれば、このお人だけかもと思う、田中康夫氏の名前や、バイク好きなどといった幾つかの共通項に誘われ、日記や掲示板などもザッと読ませてもらいました。でも、今日拝見したページでは、そうした事に関する話題が見当たらず、一寸残念…。また来てみます。日記にでも、出来たら前記の話題お聞かせ願えれば嬉しいです。もっとも、お話し相手には少々歳の差がありすぎて向かないかもしれない私ですので、逆にご訪問を受けると多分ガッカリされるかもね。ただ、パソコンとHP作りだけは未だピッカピカの1年生。お嫌でなかったら「うるとびーず先輩」ヨロシクご指導の程を…。----------いらしていただいてありがとうございました。康夫ちゃんの追っかけ、最近はちょっと停滞気味なんです。でもまた今月20日からの県議会などにも出かける予定ですし、近隣の村長選挙のお手伝い、4月の県議選など、田中長野県政に絡むお話をいくつかお聞かせできると思いますので、楽しみにしていて下さいね。バイクの話は書こう書こうと思いながら、まだ手をつけていませんね。暖かくなったら少しずつ。(笑)それまでは過去の日記一覧から康夫ちゃんの話題を、それから左側のページ一覧で私のバイク紹介などを読んでみてくださいね。今後ともどうぞよろしくお願いいたします! (2月8日23時54分) ----------早速のご返事に、恐縮&感謝長野県にお住まいだったのですね。良い知事さんを持たれ羨ましいです。バイク、何か裸馬にまたがったようで素敵ですね。ただ歳とるとそうも行かなくって、一時はスクーターに変え、結構遠乗りしたものでした。これも又ウサギの耳に捉まって走っているようで、一味違う醍醐味でしたね。…でも今は、二三度の貰い事故で娘達が心配しだして家内が相乗り拒否。以来四つ輪だけです。本当に齢はとりたくないものです。おや、また今夜も午前様。明日の朝辺りはカミサンの口から嫌みが一杯飛び出しそうなので、これで電子の筆を置きます。まずは、とりあえず御礼まで。<誠> (2月9日1時23分)----------以上が、今日のメールサーフィンの主要記録だが、このほかに前日まで書き込みに対する返事が、「旅のつう」さん、「tomneko」さん、「梨名」さん、「TOMBO0727」さん等から来ていた。[関連の日記へ]----- Original Message -----From: To:
2003年02月08日
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昨日は、「ウマ2028」さんという方のHRを覗かせてもらったら、この楽天のHPを利用した多彩な展開の仕方を詳しく説明してくれていた。余り良く出来ているので、この有り難い先輩の労作の余徳を余すところなく吸収させてもらおうと、ビデオカメラでも記録して寝ながらでもジックリ読めるように準備した。まあそんなわけで、今日はまた立派な諸先輩に行き会う事を期待しながら、ランダムで各HPを渡り歩いてみた。その中で、鈍行の旅が好きだと言う「旅のつう」を名乗る若いOLらしき女性を発見。ドアを叩いて更に詳しく日記なども覗かせてもらった。すると、この不況風吹きまくるサラリーマン社会を、楽しそうに逞しく生きようとする若い人達の日常が垣間見られ、思わずまた下記の如く思い出話をしながら、共に頑張ろうと掲示板に書きこんできた。 ↓ランダムで飛び歩いていたら、鈍行旅行の楽しみを知っている「旅のつう」さんの日記が目に入りました。私も鈍行旅行が大好きで、「青春18きっぷ」ファンです。数年前、遂に鈍行乗り継ぎ日本縦断旅行をも実現させ、ついでに屋久島や利尻・礼文やノサップ岬までも足を伸ばして来ました。ところが何と旅の終わり近い網走駅で、財布や切符などが入ったショルダーを掏られサア大変!…幸い隠しボケットの数万円だけは助かったものの、カードや運転免許もヤラレ。急ぎ盗難届けをと空路帰宅を余儀なくされました。本当は小樽に出て日本海を船で舞鶴に戻り、城之崎温泉で約一ヶ月の旅の垢を流し、悠々帰宅の予定だっただけに残念至極。体調が回復したら是非やり直したいと思っています。でもそれから暫らくして、一寸癒されることもあったんです。なんと、釧路警察から駅のトイレに捨てられていたと、鋭利な刃物で紐が切られたショルダーバックが、中身もそのままで送られてきたのです。それで私は、あの前夜一緒の列車ホテルを利用し、車座で若者達と一杯やりながら歓談した中の一人の仕業かと思った訳です。丁度夏休みで、バイトで貯めたお金で北海道を旅してきたが、金を使い果たしたので現地で又バイトして帰るしかない等と言っていた若者が数人居たので、その中の誰かが出来心で掠め取ったのではと思えました。でも、仮にそうだとしても、こうして中身に手もつけず返されて見ると、決して憎めない若者達だったんだなと、その時撮ったビデオを懐かしく見直したものでした。きっと、中の青春切符や旅のメモ書きなどを見て前夜の記憶が蘇り、良心
2003年02月07日
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今日も、未だ骨組みだけの我が家に厭きれて帰ったらしい訪問者へ表敬のネットサーフィンをして、これと思う人にはメッセージを書き込んできた。その掲示板からマウスでコピーしてきて、手軽に日記のネタにしてしまうという智恵が最近つき、何か横着者になったような気もする。でも、長年続けてきた日記「わが星霜」と「楽天日記」とを毎日両方書きながら、来訪者への表敬訪問先でも出来るだけ書き込みを…となると、ツイツイこうなってしまう。とまあ、弁解の前置きが長くなったが、以下は標題の cacis さんの掲示板に書き残してきた 「宝くじ好きな cacis さんへの 思い出話」という訳だ。 コツコツと我が家の扉を叩く密かな音に誘われ来て見ました。私は古希を越えたピッカピカのパソコン1年生。これから時々覗かせてもらいますのでヨロシク。若い頃、私も宝くじに凝った経験があります。いつも余りに当たらないので、思いがけないボーナスに恵まれた時、増加分は無かったつもりで一度だけポンと二百枚買ったところ、そのうちの一枚が何と特賞と同一番号でした。丁度、伊東温泉で越年しようと家族四人が一緒だったので、途端にカミさんも娘達も小躍りしちゃって途端に大ハシャギの年末となりかけました。…ところが次の瞬間、それが組み違い賞だったと判り、皆ちょっとガッカリ!でも、他に小額の当り券も十枚程あって総額だと四十万円程になりました。ところが後の始末がこれまた大変でしたね。まだ少女だった娘達の口からでしょうか、尾鰭がついて噂が広まってしまったから、サア大変。四十万がウン百万、ウン千万なんて、否定すれば否定するほど風船の如くアドバルーンが舞い上がっちゃうんですよ。結局、職場や知友への振る舞いやら、家族や親類や親友の子供達などへのお年玉も大奮発てなことになり、手元に残ったのはゴク僅かでした。まあ、これまでの私の長い生涯でタッタ一度だけの出来事でしたが、矢張り当たるなら本当の特賞ですね。それでないと、後で何か隔靴掻痒の感が残ってしまいますからね。勿論、生涯ハズレ続きって方が大半でしょうから贅沢は言えませんがね。ワハハ…じゃ、これから夢が一杯の若いcacisさん。ダンダン良くなる法華の太鼓さながらに、HPも人生も、一杯一杯素敵な花で飾ってくださいね。期待しています。
2003年02月06日
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節分の晩の逆ネットサーフィンで訪問し、文末の参考文Aのような書き込みをさせてもらったtomnekoさんから、参考文Bのような返信が届く。 ご同業の娘との縁はあるにしても、専門外の私とは親子程の歳の差だ。それゆえ、もしかしたら敬遠されるかとも思っていたtomnekoさんだが、やはり真面目で律儀な人柄だったようで、何かホッとした。 夜勤明けでお疲れと思われるのに、多数書き込まれていたという掲示板の返事を一人一人にセッセと綴られている、ともこ先生の姿が目に見えるようだ。 ともあれ、tomnekoさん 本当に アリガトウ! なお娘に紹介をと言ってくださる ともこ先生への返信には、「今度娘が里帰りした時に見せようと、失礼ながら今日の日記の参考事項として貴女の掲示板からも下記の往復文をコピーさせてもらいました。ご了承ください。また今日の訪問者欄に度々無粋な足跡が連続して気になるかと存じますが、マウスを活用して同文を転記するための所業です。何卒ご寛容ください」 と、忘れずに付記せねばなるまい。〔参考文A 私からtomneko さんへの掲示板書き込み〕プロフィールを拝見し、ちょっと私の身内のような気がして一筆啓上。…というのは私の家内も、字は違うでしょうが発音だけはトモコ(朋子)。子供は娘二人いましたが、今は共に他家へ嫁ぎ、時にポチ・タマのニックネームで呼び合うジジババ二人暮しも早十数年となった私達です。だから家内は同様にtomneko族という訳。この訪問を機会にポチの我輩共々ヨロシクお見知りおきを…。それに親しみを感じる事がはマダマダあるんです。その第一が、次女が助産婦で同じ年頃の男の子二人の母だと言う事。写真を拝見して娘親子そっくりだなあとツイ見とれちゃいました。次に確かご出身が、Jリーグとの関係も深い東海地方のS市とか伺いましたが、その次女一家は今エスパルスのホームタウン清水市に暮らしています。そして下の子が保育園児となった先年から、静岡の産婦人科医院に再就職して、多忙な日々を送っております。tomnekoさんは産婦人科のせんせいだそうですので、一寸立場が違うかとも思いますが、父親の私から見ると、失礼かもしれませんが何か似たもの同士の様にも見えてきます。どうぞ、これを機会に娘のほうも良いお友達になっていただけたら…なんて思うのですが、貴女も娘も職業柄共に多忙と推察されますので、今日は一応ご紹介だけにしておきます。なお、お気が向かれましたら極楽トンボ親父のポチの日記のほうも、時々覗いて勝手なゴタク聞いてやっておくんなさい。以上、思い付くままの乱文ながら、一応表敬訪問のご挨拶のつもりです。失礼はお許しを…。(頓首敬白)(2月3日19時26分)〔参考文B tomneko さんから私の掲示板への返信〕若水 誠さんへはじめまして。ともこさんのいろんなところが誠さんのご家族に通じているようですね。拝見しながら、ふむふむ・・・光栄でございます!昨日の晩、当直室でTVをつけていたら同級生のJリーガーが司会をしていてビックリ。お嬢様をぜひご紹介くださいませ☆ローカルなお話が出来るかもしれません(笑) (2月5日13時9分)
2003年02月05日
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今日も公開日記の話の種を探しに楽天広場に出かけ、特に書き込みは無いが10件程あったHPの訪問者をネットサーフィンして歩く。しかしその殆どが年齢の差いかんとも成し難く、興味が湧かないまま「ハイ今日は,ハイさよなら」といった具合になってしまった。一寸ガッカリ! でもそんな中でタッタ1件、「××××」と言うペンネームの主のHPに目を惹かれた。確か昨年6月頃からの楽天会員らしいが、毎日セッセと書きためたらしいエッセイやらプチエッセイが次々と出てきて、とても短時間では読みきれないので、今日はキリの良いところまで拝読させてもらった。 なかなか内容も充実していて面白いが、特に考えさせられたのは会員の7割近くが中小学生と若い奥さん達であることに着目。最近の教育水準に合わせて漢字の混入率を極々少なくして、小学校低学年生でも読める程にまで抑えている事だ。 このため戦前の教育で基礎を学んだ我々には、正直なところ一寸読みにくい文章ながら、若い読者からの書き込みの多さが、この楽天広場の会員構成や性格を相当良く研究した上での深慮遠謀からだと良く分かった。 尤も、今の自分はHPもパソコンも未だピッカピカの一年生とあって、先ずは操作法を身に付けるのに精一杯で、直ぐこれに見習おうとは思わない。 なぜなら、その実力の有無は別としても、万一多くの書き込みに接した時、機器の操作スピードの点からも、到底一人一人噛み砕き納得行く文章に書き改めて送る自信が無いからだ。 山梨県の方だそうだが、おそらく筆者は私達と同年輩であり、かつ相当の教養を身に付けた方であろう。 そう、もしかしたら元の職業が教育関係者かマスコミ関係者かなとも思われた。
2003年02月04日
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家族も夫婦二人だけとあって、「鬼はソト、福はウチ」の掛け声も昔日のように子供達の思い出に残れと言った意識も無く、何となくオザナリになりがちだ。 と気を取り直しながら、夕食後の我が家の各戸口や窓を開けて、今年もまた大声を張り上げた。それにしても、高齢になるに従って厄除けの豆の数も増える。だが正直言って煎り大豆など余り沢山は食べたくないし、数えるのさえ面倒になる。でも、その程度の事で昔からの習慣に逆らうのも…と毎年欠かさずに続けている。しかし仮に孫の一人でも我が家に居たら、こんな事は考えもしないだろうにとフト寂しさが心に影を落とす。 話しを変えよう。他に何か今日の公開日記の話の種は無いかと楽天広場を開く。するとHPの訪問者芳名欄に,さんと言うペンネームが記されていた。書き込みの無い単なる訪問者ではあったが、一応先方のプロフィールを覗かせてもらう。 すると兵庫県在住の産婦人科医さんで、漢字名は判らないものの本名は家内と同じ「ともこ」さんと言うらしい。孫のケンイチとヒロムと同じ年頃の男の子二人のお母さんで、助産師として近年本業に復帰した娘のムツミ同様に子育ての最多忙期を脱し、パートとして本業に復帰して間もないらしいが、なんていうサイトを設けて意欲満々の様子だ。 それに,さんの実家はJリーグ熱が盛んな東海地方のS市とかで、次女のムツミ一家が住まう清水市もエスパルスのホームタウンだから、何か言い知れぬ縁のようなものを感じた。のつもりで訪問させてもらった私だったが、結局、そうした自分の所感を掲示板に長々と綴って辞去する事となった。これが、節分の福の神を呼び込む良き機縁にでもなれば、豆の撒き甲斐があったと言う訳なのだが、ハテサテこの老いぼれのコチトラが思うように事が運ぶやら…。案外、最近のクールなギャルさんたち同様に、「なーんだ、化石オジンか!」なんて、一顧だにされないのがオチかもとも思う。<終> ----- Original Message -----From: To:
2003年02月03日
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今年受信した約270通の年賀状の必要事項の照合も済んだ。残るは各人別の保存袋に組み入れて、五十音順の収納ケースに分納整理すれば作業完了である。 毎年の事ながら、この作業は結構手間を食い面倒だ。しかし殆ど滅多に会えない知己からの年1便だし、住所や電話番号など間違いないか確認しながら、その一人一人の近況や昔を懐かしみつつ進められるこの作業が、本当は実に待ちどうしい。 よく「年賀状なんて、無意味だ」とか、「年賀状なんて、面倒だ」と言う人も居る。だが、その年賀状を楽しみにしている私のような人間も居ることを、そうした方々も忘れないでほしいものだ。 たとえ生涯唯一度の出会いであっても、私はその出会いを大切にしたい。確か芭蕉の『奥の細道』の書き出しだったと思うが、「人生、行きかう人は皆旅人なり…」という一節がある。人間人生半ばを過ぎたと思う頃から、次第にこうした先人の残してくれた言葉が次第に重みを増して感じられてくるものだ。 限りある人生で単に行き会う人は星の数ほど居ても、その中で個人的な付き合いとして永く年賀状だけでも便りしあおういう知己となると、せいぜい数百人迄というのが普通の市井人だろう。だから私は、単なる行きずりの知己と思える場合でも、原則として出来るだけ年賀状での挨拶は欠かさないことにしている。 また忘れていた場合も、出来るだけ七日正月以前に届くよう、地位や老若男女区別無く答礼することにしているし、翌年からも先方から年賀状を戴ける間は元旦に届くよう出し続ける事にしている。 勿論、そう思うようになったのも人生半ばを過ぎた頃からで、茶道で言う「一期一会」の言葉の重みを感じ、生涯唯一度の出会いを大切にし、出来れば本当に得がたい友として育てたいためである。 さてこの楽天広場での奇遇を得て、今日の私の公開日記をご覧いただいた貴方! 貴方は、太宰治の小説「走れメロス」の主人公同士のように信じあえる友をお持ちですか…。 実は古希を迎えた私ながら、残念な事に正直そう確信持てる友に未だ出会えないままです。…でもそう思えばこそ、一期一会を大切にと毎年心を込め、オリジナル絵柄に私達夫婦の近況を細々盛り込んだ賀状を出し続けているのです。
2003年02月02日
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古代ローマ帝国が成し遂げ得なかった世界制覇の野望を、米国のブッシュ大統領は昨年末、第二次イラク攻撃を前に「既にルビコン川を渡った」との言葉に変え、遮二無二実現しようとする意思を明らかにした。世界各国は今、そうした米国の圧倒的武力を背景とした無理難題を回避する為の唯一の手段として、叶う事ならミサイルを運搬手段とする大量破壊兵器の保有と、これに併行した抑止手段の開発を極秘裏に進めている国が多いのではないだろうか。そうした情勢の中、敗戦への反省として平和憲法を定め、米国の植民地化政策の頚木断ちきれない侭の日本は、周辺諸国の一方的で理不尽な政治干渉にも「忍」の一字で唯やり過ごす以外に道なきの如しだ。まことに寒心に堪えない。そこで私は楽天広場のマイ・ホームページ「Toyohisa&Tomoko/徒然草」を利用し、シリーズ論壇「皆で実現しよう、こんな夢」と銘打ち、日頃から素人なりに考えていた数々の意見を叩き台として随時発表。夢のような話と笑われそうな話しも含めて、有志の方々と意見を交換できたらと思う。さて、その先ず第一回目としての論題は「ミサイルブーメラン化計画」だ。簡略に説明すると、地上から発射されたミサイルを、ブーメランの如く発射地点に逆戻りさせてしまう機器の開発計画に、皆で智恵を出し合って見ようと言う事である。多分大方の人は一読しただけで、「そんな荒唐無稽な…」と苦笑されるであろう。でも原子爆弾だってミサイルだって私が生まれた1930年代初頭には、それ以上に荒唐無稽な夢物語だったのだ。核や細菌や毒ガスなどの兵器の殆どは、高性能な電子機器で誘導されるミサイルで運搬され、始めて有効的確な恐怖兵器となる。だから、人工衛星などで常時地上からの発射を監視し、巡航状態に入るまでの進路をすべて記録した上で、自国に危険を及ぼす可能性があるか判断されたら、直ちに迎撃ミサイルで直接これを打ち落としてしまおうというのが、現在米国などが推進しようとしている戦略だ。でも仮に、これを打ち落とさずに発射地点に向かってブーメランの如く舞い戻らせれたらどうであろう。それは正に天に唾する行為同然、自らを攻撃者と限定して発射した大量破壊兵器が頭上から降ってくるのだ。もしこんな機器が現実に開発されたら如何なるエゴイスト達も晴天の霹靂である。飢えに瀕した国民を更に鞭打ってまでミサイルや核の開発を強行する小国も、一極支配を良い事にヤクザまがいの脅しを連発して世界制覇の野望を剥き出しにする大国も、すべて大量破壊兵器の開発保有など無意味な時代になったと自覚するに違いない。勿論、「そんな事が出来るだろうか…? また仮に出来るとして、平和憲法には触れないか…? 更に米国が黙って見ているだろうか?」といった疑念を抱かれる方が殆どであろう。実は私自身この計画は数年前にエイプリルフールの落とし噺として発案したものだった。でも、今現実問題として考え直して見ると、技術問題は世界の英知が揃えば、加速度的に科学技術が進歩する昨今とあって必ず解決可能なように思う。憲法の制約も専守防衛の為の機器だし国民的な理解も容易だろう。更に米国の出方にしても、対立する思想のカーター元大統領や、全くの無名人だった田中さんがノーベル賞を受賞したように、良識的な世論も一方で健在とも考えられ、望み無きにしも非ずといえよう。ともあれ、例え荒唐無稽と笑われようと、もし今人類を絶滅の危機から救い世界を恒久平和に導く手段があるとすれば、残る手段は唯一これしかないと私は確信する。----- Original Message -----From: To:
2003年02月01日
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