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1967(S42)年1月2日(月)晴 ★スライド作品『貴方と巡る世界の旅』売り込みの夢 昨日の元日は、若水本家に挨拶に行き、そのまま日中を過ごす。 久しぶりに百人一首をやったが、中学時代の親友N君一家に鍛えられ夢中になっただけに、20年ぶりでも未だ幾らかは覚えているものだと、些か衰えかけた自分の記憶力に自信をとりもどす。 勿論、娘達へのご愛嬌にトランプや坊主めくり等もやったから、一菜(カズナ)もご機嫌であった。唯、二美(ツグミ)だけ皆が如何に御機嫌を取り結ぼうと思っても一向にモッコに乗らず手こずらされた。サモアラン・サモアラン。 さて、小雨模様に暮れた元日も、一夜明ければ日本晴の快晴。しかも気温が平年より8℃程も高いといった絶好の日和。折から商店街は二日の初売りとあって、街には着飾った若い女性の姿が溢れるほど目に付く。 お年始まわりを終り午後3時すぎに家へ戻ると、T・S両君から電話。これから行くとの連絡を受け、近くに住まうM君も誘ってコレを待つ。 しかし、この時刻からでは恐らく今日は彼等二人とも沼津泊りのつもりだろう。 そこで、「丁度、実家へ東京世田谷のK姉さん親子が里帰りしているから、私も…」という幸の希望があり、布団の数その他を考えて、"アズ・ユー・ライク・イット"と一日里帰りを実現させてやる。 S君とは先日会ったばかりだったが、この夫婦日記の話題を知ってフジテレビの小川宏ショーが色気を見せ、私の上京を要請しているという年末の電話連絡につき打ち合わせをする。その結果、出る出ないは兎もあれ、一日お江戸の空気を吸いに上京しようと言う事になった。 それから、コレはむしろ昔の演劇部時代の仲間である彼等ゆえ、最近の私の苦心作と云える『貴方と巡る世界の旅』を座興に視聴してもらう。これは、I 副頭取が撮影してきた世界周遊カラー・スライド記録の編集を押し付けられ、イヤとも言えず引き受けたもの。何でも、同行した視察団仲間の無事帰国を祝う新年会が近く伊豆長岡の三養荘で開催されるので、その時の座興に間に合うよう作ってくれとの事であった。 するとこれを見終わった例のS君が、「ウン、コレはいける !!」と膝を叩き、自分の知ってるプロダクションにコレを売り込みたいからテープを貸せと云う。 正に瓢箪から駒。 しかも、成功すれば十万から十五万のナレーター料は引き出せそうだという彼。 その言葉の真偽は兎も角としても、このまま依頼されたI 副頭取家の秘蔵品として多分お蔵入りしそうな私の苦心作を、とにかく陽に当てようと言う友の好意が嬉しかった。 勿論、公開するという話になれば写真の撮影したI 副頭取の承諾が先ず必要だ。また挿入したBGMや補助的に使ったプロのスライド写真などの版権利用問題も克服しなければなるまい。 だが、それは話の結果次第。先ずは「門を叩け、されば開かん」といった気持ちである。(夫・誠筆)*************************************************************************《付記》2003年11月30日の誠、日記再読所感☆スライド作品『貴方と巡る世界の旅』売り込みの夢 この『貴方と巡る世界の旅』のスライドは、亡くなられた前頭取の世界周遊記録を纏めた同様な私の作品と、姉妹編とも言えるものだった。 回転式の機関銃の弾倉のようなマガジンに原版を入れ次々と映し出す、コダックの自動スライドプロジェクターに合わせたテープ解説付の作品である。 この新型スライド映写機は当時でも確か十数万円程した非常に高価な物で、勿論、銀行の備品として亡き前頭取が購入されたものを再度活用。確か姉妹編共々各八百駒程の作品で、かなりの大作だったように思う。 ソレを十箱近いマガジンに映写順に並べ収納。マガジンを回転させるリモコン・スイッチを手で押しながら、録音しておいた私の解説に合わせて大スクリーンに映写する仕組みである。 勿論、写真選択から解説の原稿書き、そしてナレーターからBGM挿入まで総て私。 つまり撮影以外はチャップリンの作品同様に殆ど他人の手を借りず、最後の録音は雑音が入らぬよう真夜中に幾夜も徹夜して作り上げた。 まあコレもS君の瓢駒話だけに、どこまで本当に具体性のある話だったか、今はご本人の記憶に頼るほか知る由も無い。 唯、この日記を再読する機会がなければ、そんな苦労して作り上げた姉妹作があった事すらも、忘れ去っていた私だ。 多分、亡き前頭取の世界周遊記録は今もS銀行の何処かの倉庫深く…。そしてこのI 副頭取の世界周遊記録の方は、I 家がその後に耐火設備を加えて増築していた貴重品庫の中だろう。 既にホームビデオ時代になって久しいし、世界旅行も当時の数十分の一の費用で出来る今日である。従って作品自体、他人が見ても退屈そのものだろうが、私にとっては、懐かしい思い出の品。 あの高価な機械も、今は単なる骨董品。作品にしても蔵の中で年一度の虫干しもされずカビが生えているのかも…。 何だか、手塩に掛けた箱入り娘が、陽も当てられず放置されているかと思うと何か辛い気持ちになってきた。(トホホ) それにしても、今は御両人共に彼岸の人となられて久しい。だが何とかもう一度、命ある間に再視聴してみたいものである。
2003年11月30日
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1967(S42)年1月1日(日)曇時々小雨、のち雨 ★今年の初夫婦日記§1. 海も山も爽快だった元旦の朝 実は昨夜、除夜の鐘が鳴り終ったら夫婦共々初詣に行く予定だった。しかし、湯冷めをして正月から風邪を引き直してもと取り止めた。 その代わりと言っては何だが、私一人5時起きして初日の出を拝もうと浜辺へ出る。 防波堤に沿った波打際に焚火が一つだけ光っていた。 何だろうと思って近付くと、「オメデトウ ゴザイマス !!」と若々しい声で挨拶された。 聞けば川崎の高校生だそうで、この千本浜で夜を明かし新年を迎えようと遥々やってきたのだそうだ。 傍には天幕が張られ、トランジスタラジオが軽やかな音楽を奏でている。実に健康的で元気溌剌とした若者達だ。 その上、私が写真を撮ろうとすると、三脚を貸してくれたり、進んで協力してくれると言った有様。 お蔭で、天気芳しからず滅入りがちだった元旦の気分が、カラリと晴れ上がったような爽快さに変った。 近頃、なんとも骨の無い、暗澹たる未来を感じさせられがちな若者が目立つ中で、こうした青年達の姿を見るのは本当に頼もしい。 しかし、まだ夜明けには間がある。そこで一層の事、これから香貫山へ登って明け行く沼津の姿を見下ろそうと思い立ち、車を駆って一気に山上へ…。 こんな天気では、恐らく誰も居まいと思っていた香陵台や天文台のある山頂には、どうしてどうして、数百人の人達がソレゾレの思いで日の出を待っていた。 やがて遥か東、伊豆スカイラインが通る山脈の辺りの上空が白みだし、低く垂れ込めた雲の切れ目が僅かに薔薇色に染まる。 曇空で時折小雨のパラつく天気ではあったが、新しい年の朝が今明け初めたのだと、人々の瞳は意外に明るかった。「アナタが珍しく早起きするものだから、見なさい、雨が降り出した事…」。と、この後の手記で幸に冷やかされそうだが、その甲斐あって、真に海も山も気持ちの良い元朝であった。 この気分を忘れず、一年間、浩然の気を持して行きたいと希いながら山を下り、まだ家族の寝静まる我家に帰った。(夫・誠筆) §2.思わず、 郵便屋さんにニッコリ「オメデトウ !!」 元日早々、産経新聞社より書留が届く。先日掲載された私の投稿の原稿料だ。 すこぶる縁起ヨシ !! 思わず、郵便屋さんにニッコリ「「オメデトウ !!」の声が…。 雨の日の結婚式の祝辞では無いけれど、「雨降って地固まる」と言うからには、末広がりの年にしたいもの…。 私も今年はセッセとヘソ繰りに専念しよう。 怪獣ブームに乗る訳ではないけれど、貯金のオバケになりましょう。(妻・幸筆)*************************************************************************《付記》2003年11月29日の誠、日記再読所感☆§1. 海も山も爽快だった元旦の朝 越年と共に行く予定だった初詣に変え、まだ明けやらぬ浜辺へ山へと一人で初日の出を拝もうと出かけた「昔・誠」の志やヨシ !! それに、人々の新しい年に寄せる清々しい思いを直接肌に感じられただけでも、やはり「早起きは三文の得」だったね。 ☆§2. 郵便屋さんに思わず「オメデトウ !!」 元日早々に書留を届ける郵便屋さんて、文字通り「福の神」だよね。 美しい若妻(ニヤニヤ?)だった幸奥様の実感篭った微笑みと挨拶に、サゾ郵便屋さんも元旦勤務のヤリ甲斐を感じたんじゃなかったかしら…。(ホホホ) 「貯金のオバケ」は冗談としても、程々の三欠主義とツモリ貯金の心がけだけは、人生常に忘れず励むべきと今も思うな…。 なお、「三欠主義とツモリ貯金」についての説明は、いずれリンクさせるつもりだけれど、当面は、「《付記》2003年11月25日の誠、日記再読所感」欄の記事参照としておく。 さて、日記の記述も年改まっての1967(S42)年とあって、文末に時々掲出してきた日記の背景となった時の動きを記す「※参考事項」も、「コンサイス歴史年表」等から恣意選択して衣替えさせた。 併せてご覧いただき、ヨリ深い推理と理解に役立てて欲しい。 ************************************************************************** ※参考事項★1967(S42)年の大きな動き★ 国内…新宿西口広場が完成(1月) 日航が世界一周線の営業開始(3月) 富山県の奇病イタイイタイ病は三井金属神岡鉱業所廃水が原因と学会発表(4月) ロータリーエンジン車を東洋工業が発表。自動車保有台数一千万台を突破(5月) ワンマン宰相・吉田茂が死去。(10月…’89に戦後初の国葬) 消え行く都電。銀座線を廃止(12月) 世界…インドネシアのスカルノ大統領失脚(2月) アラブ諸国とイスラエル間に戦争勃発。スエズ運河を閉鎖。(6月) 中国が初の水爆実験に成功。(6月) ボリビアでゲリラ闘争中の前キューバ工業相ゲバラが戦死。(10月) 清朝最後の皇帝溥儀が死去(10月) ベトナム戦激化。米首都で十万人反戦集会のデモ隊が座り込み。(10月) アラブ連合のアスワン・ハイ・ダムが発電開始。(11月)
2003年11月29日
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1966(S41)年12月31日(土)晴 ★さらば1966年 !! & 来る年は明るい日記を…§1. さらば1966年 !! 一昨年夏の前頭取急逝以来、突然私を襲った不運は、今年も尚も続いた。従ってソノ暗さから何とか脱却しようと思い、考え付いたのがコノ夫婦日記であった訳だが、戯曲「商船テナシティー」の有名な科白ではないが、運命の潮流には抗しきれぬ面もある。余り希望的な予測は禁物のようにも思う。 それに今年は又、社会的にも暗い出来事が多かった。相次ぐ飛行機事故や汚職事件に明け暮れた感じであった。 だが、そうした事を、例え悲しい出来事であっても書き残し、反省への拠りどころとしようというのが日記本来の姿であろう。又そうする事で、何時の日か輝かしい喜びの記事が綴れるなら、もって幸いとすべきであろう。 特にコレは夫婦日記だ。やがては家族日記に発展させようと言う遠い将来に続く長期構想なのだから、反って苦難を如何に相扶(アイタス)け合って切り抜けたかと云った事の方が、我が子に残すヨリ益多いものと思う。 しかし勿論、だからと云ってコレ以上、守勢に立たされては堪らない。そこで、より明るい未来を招来させる為に、私はコノ暮れ、三つの仕掛け花火を用意した。しかし、いざ点火するとなると、なかなか思うように運ばない点があって計画通りいくかどうか、いささか心許なくもある。 だが臆していては人生は拓けるものも拓けない。男が一旦コウと思って外に出れば七人の敵に出会うのは覚悟の上。当初は多少蔭で強引過ぎるとの批判を受けようとも、それが自他共に益する事と自信が持てる事ならば、「千万人といえども吾れ行かん」の意気で新年を迎えようと思う。幸よヨロシク !! (夫・誠筆)§2. 来る年は明るい日記を… 今年の正月にはワザワザ三島の大社に初詣をし、その上、鈴川の毘沙門天にもお参りをしたというのに、この30日まで医者通いを余儀なくさせられたのは心外であった。 お賽銭をケチったせいかも知れぬ。そう思って神を呪う事は止めましょう。 徒然(ツレヅレ)なる侭に日記帳を紐解いてみたが、全く良く喧嘩をしたものである。表向きに「夫婦日記」などと偉そうな事を云っているが、さしずめ「夫婦喧嘩日記」と言った方が正しいかも知れない。 しかし、この日記をつけた分だけ、もし発散せず。ただ一人気持ちの中にしまい込んでいたとしたら、腹ふくるるは何とやらで、毎日、ジメジメした日を送らなければならなかっただろう。二人とも陽性だからこそ衝突もし、後もサッパリするのかもしれない。 喧嘩をしないのは兄弟ではないと言うけれど、喧嘩の出来ないのも夫婦ではないという論法も成立できるのではないかと思う。 とにかく読み返してみると、各所に見られるように、物質的には相も変らず苦しい年であったけれど、後悔すべき年ではなかったと、はっきり言える。 私の拙(ツタナ)い文章が三回にわたって採用され、結婚後長いこと忘れていた、文章を綴るという喜び、幸せ、大切さを教えてくれた。 これは、日記をつけることにも通じる事である。 充分なお正月の準備も出来なかったけれど、間違いなく後1時間足らずでお正月が来る。 来年は、もっと充実した明るい日記がつけられるような社会になりますように…。(妻・幸筆)*************************************************************************《付記》2003年11月28日の誠、日記再読所感☆§1. さらば1966年 !! 「千万人といえども吾れ行かん」の意気で新年を迎えようと思う。幸よヨロシク !! と「昔・誠」が書き込めば、 来年は、もっと充実した明るい日記がつけられるような社会になりますように…。と「昔・幸」が応える。 まあ、多少の温度差は感じるが、つい先日まで喧嘩が絶えなかった夫婦としては、マズマズ上出来な越年挨拶かもね。(ホホホ) それにしても今年で日記歴37年目の「今・誠」としては、たった一年間だけ日記が付けられたからといって、こんなに舞い上がっちゃってる「昔・誠」が何とも滑稽。 だってコレを裏返せば、それまで何とも意思薄弱で長続きが出来ない男だったって事の証明でもあるんだものねぇ。 でもその時の「昔・誠」としてはコレは大真面目。それまで何としても克服できなかった自分の弱さを制御できたのは、一重にコノ「夫婦日記」形式の日記だ。そう思い込んでいたのに違いない。 そうした思い込みの激しさが、何かと誤解を受けやすいと時々思うオイラだが、逆に「思い込んだら命懸け」といった気持ちあればこそ、これまで仕事も結婚も初志を貫徹できたんだとも思う。 マア正直なところ、外れ籤引いちゃったかと、脇目も時々したくなったけれどね…。(ニヤニヤ)☆§2. 来る年は明るい日記を… 別に、初詣のお賽銭をケチったせいでもあるまいが、本当にこの頃の娘達は入れ代わり立ち代わり病気をしていたもんだった。 おまけに『前頭取追悼録』の上梓も終わり、これで漸く本来のバンカーに復帰できるかと思った職場の仕事。なのに、後を追うように他界したソノ親父さんの『会長追悼録』の編纂まで、続いて押し付けられちゃったのだから遣る瀬無い。 こうも長く現業から遠ざけられたんでは、この機械化が進み始めた金融界で大成する夢は遠くなるばかり…。 ソンナコンナで滅入るばかりだった、この年の瀬の幸と私であった。 なにせ3年前までは何かと順風満帆と思われた吾等が人生。 それがアノ夏の夕べ以来一転逆風が吹き荒び、如何に努力しても報われないストレスが腹に溜まる一方…。 マアこうした時は適当に夫婦喧嘩して発散させるのも一法か…と論じる幸の気持ちも分からんでもない「今・誠」だ。 でも余り再々派手にやられては、幸のサンドバック役にされる「昔・誠」も、時に本気で反撃したくなろうってもの…。 だからコノ大晦日(オオツゴモリ)の夜も、「来年は精々幸の投稿文が各紙面を飾り、我家の平和が保たれますように…」。そう、ひたすら祈りつつ越年したんじゃなかったかなぁ。※参考事項★1966(S41)年の大きな動き★ 国内…国債発行による景気上昇の反面、消費者物価問題が深刻化。(通年) 航空機事故相次ぐ。下記4事故死者計371人(通年) 全日空機東京湾墜落(2月) カナダ航空機羽田空港着陸失敗(3月) 英BOAC機富士山上空で空中分解(3月) 全日空YS11型機松山空港で墜落(11月) 戦後最大の交通スト、公労協・交運共闘統一スト突入。(4月) 新東京国際空港を千葉県成田に閣議決定(7月) 自民党代議士・田中彰治、恐喝・詐欺容疑で逮捕(8月) 山口衆議院議長が東京大証事件に関連して辞任(12月) 世界…英国のビートルズが音楽で世界の寵児に(通年) 中国で文化大革命(通年)★1967(S42)年の大きな動き★ 国内…新宿西口広場が完成(1月) 日航が世界一周線の営業開始(3月) 富山県の奇病イタイイタイ病は三井金属神岡鉱業所廃水が原因と学会発表(4月) ロータリーエンジン車を東洋工業が発表。自動車保有台数一千万台を突破(5月) ワンマン宰相・吉田茂が死去。(10月…’89に戦後初の国葬) 消え行く都電。銀座線を廃止(12月) 世界…インドネシアのスカルノ大統領失脚(2月) アラブ諸国とイスラエル間に戦争勃発。スエズ運河を閉鎖。(6月) 中国が初の水爆実験に成功。(6月) ボリビアでゲリラ闘争中の前キューバ工業相ゲバラが戦死。(10月) 清朝最後の皇帝溥儀が死去(10月) ベトナム戦激化。米首都で十万人反戦集会のデモ隊が座り込み。(10月) アラブ連合のアスワン・ハイ・ダムが発電開始。(11月)
2003年11月28日
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1966(S41)年12月30日(金) 晴★娘二人で980円、高額な医者代にガックリ !! あと一日だと思い、元気をふりしぼって医者通い。 ところが、娘二人の休み中を含めて4日分の薬を貰ったところ、合計980円と聞いてガックリする。 毎年毎月、有り余ったお金で暮らしている訳ではない。 だが遂に今月は、例年同様にパパから越年資金として別に貰った年末の特別金を加えても、ヤリクリできなかったのは今年だけである。 足りないから…と言えば、また余分に貯金口座から下ろしてきてはくれる。けれど私の気持ちとしては、そんなルーズな遣り方では生計をたてていきたくない。そうかといって実家に頼る事も出来ず、アレコレと考え込むと憂鬱この上ない。(妻・幸筆)**************************************************************************《付記》2003年11月30日の誠、日記再読所感☆娘二人で980円、高額な医者代にガックリ !! この日も又、娘二人の医者通いを嘆く幸の溜息。 従って所感も、これと同様。 常連の読者以外の方々には、下記の一昨25日の日記を目次でクリックし、よろしくご参照を…。 特に、その後半に「今・誠」が書き足した再読所感をお読みいただくと、当時の企業組合健保の実情が分かり、その医療費のキックバックが薄給だった私達夫婦のツモリ貯金の源資の一つとなっていたカラクリが理解いただけよう。 それにしても、忘れたままの「三欠主義」の一つ、何だったけかなぁ?《参考記事の掲載場所》※主題…25日の日記 古い日記…♪第235回「何とも気が滅入る歳末の一日(1966.12.28《♂34♀31》) 副題…★我家で貯まるのは煤(スス)ばかり…※参考事項★1966(S41)年の大きな動き★ 国内…国債発行による景気上昇の反面、消費者物価問題が深刻化。(通年) 航空機事故相次ぐ。下記4事故死者計371人(通年) 全日空機東京湾墜落(2月) カナダ航空機羽田空港着陸失敗(3月) 英BOAC機富士山上空で空中分解(3月) 全日空YS11型機松山空港で墜落(11月) 世界…英国のビートルズが音楽で世界の寵児に(通年) 中国で文化大革命(通年)★1967(S42)年の大きな動き★ 国内…新宿西口広場が完成(1月) 日航が世界一周線の営業開始(3月) 富山県の奇病イタイイタイ病は三井金属神岡鉱業所廃水が原因と学会発表(4月) ロータリーエンジン車を東洋工業が発表。自動車保有台数一千万台を突破(5月) ワンマン宰相・吉田茂が死去。(10月…’89に戦後初の国葬) 消え行く都電。銀座線を廃止(12月) 世界…インドネシアのスカルノ大統領失脚(2月) アラブ諸国とイスラエル間に戦争勃発。スエズ運河を閉鎖。(6月) 中国が初の水爆実験に成功。(6月) ボリビアでゲリラ闘争中の前キューバ工業相ゲバラが戦死。(10月) 清朝最後の皇帝溥儀が死去(10月) ベトナム戦激化。米首都で十万人反戦集会のデモ隊が座り込み。(10月) アラブ連合のアスワン・ハイ・ダムが発電開始。(11月)
2003年11月27日
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1966(S41)年12月29日(木)晴 ★「日記友の会」の夢ふくらむ 財界研究所所長・三鬼陽之助氏の原稿が今朝届いた。これで一応「序文」「あとがき」を除いて全部の原稿が整った事になる。早速ページの割付にかかり、遅くも来月15日迄には納稿したい。 ところで、夜遅くなって東京のS君から電話があった。 先日帰京後に早速私の話をKNさん(NH高校演劇部時代のコーチ役・YK氏の芸名)にしたところ、氏の関係している「小川宏ショー」で丁度新春向けに、そのようなネタを探していると言う。具体的な話をしたいので1月9日から11日までの都合の良い日に一度東京へ出て来てくれないかと云う事だ。ウイークデーというのが難物だが、とにかく応諾して詳しくは来月6日迄に何らかの方法で連絡すると答える。 可笑しなもので、先夜S君とN君が盛んに慎重論をブツので、こちらは酒の勢いも手伝って些かオーバー気味で、己が理想を語ると云う結果となった。 だが、いざ話が具体化しそうになってくると、今度は此方が些か慎重となる。勿論あの翌日の幸の日記や、昨日のNHKテレビの番組「生活の知恵・日記をつける」で、些か水を注された格好となっている事もあってだが…。 特に昨年発足して、今百数十名の会員を擁すると云う「日本日記クラブ」という会が既に現存すると言う事だ。 これを聞いて、私は自分の寡聞を恥じると共に、その人達の20年30年と言う長い日記歴に、何か自分のような青二才が…といった気持がしないでもない。 しかしながら、だからと言って私の主張がアナガチ全部色褪せたと言う訳ではない筈だ。 あの番組から思うに、夫婦日記とか家族日記とか云った形のものは、多分まだ誰も居ないのではないだろうか? 様々な独創性に感心させられたものはあったが、いずれも筆者は一人。これが筆者が複数となり、それぞれ紙面を通じて切磋琢磨する事によって、互いに理解と向上を図る事が可能となる。 また同時に、これまで続けにくいと言われ、その為とかく敬遠されがちだった日記が、それぞれの負担が軽くなると言う事から、比較的気楽に続けられるようになる。 それから本来、夫婦とか家族とかは良い意味での一体化こそ理想とすべきもの。それは国家だって企業だって同様だろう。それを実現する手段として、日記を共々につけ合うと言う事の意義は大きく、また独自なものだと思う。 …とマアそうした訳で、先程のS君から伝えられた電話の用件は応諾する事に一応の腹を決めたと言う訳だ。 尤も、この話は弾みようでヒョッとすると瓢箪から駒が飛び出し、我家に一大転機を迎えさせるキッカケともなり得よう。従って、幸とヨリ慎重に相談の上、最終決定をしたいと思う。(夫・誠筆)**************************************************************************《付記》2003年11月26日の誠、日記再読所感☆「日記友の会」の夢ふくらむ 先夜は、私の脳裏にフト浮かんで燃え広がったコノ「日記友の会」構想に些か消極的と思えたS君だった筈。それがまさかコンナ話を早速持ち込んで来ようとは、「昔・誠」も常連の読者も全く予想外だったのでは…。 それにしても、昔、NH高校の演劇部時代に指導役だったバレーダンサーが本職のKNさんと彼が、以後も入魂だったとは知らなんだ。…と言うより、この時に初めて知って懐かしく思ったものだった。 日本の新劇運動のメッカだった築地小劇場時代の事から、バレエの基礎的レッスンなどまで、今と違って戦後間も無くで参考文献も少なかった頃に、KNさんからは貴重な様々な知識を伝えられた。 そうそうコレは余談ながら、そんな当時のKNさんがバレー団で踊っていた頃。勢い良く跳ね上がったプリマバレリーナを受け止め顔先で高く支えてポーズする際、しばしば彼女たちに放屁されたものだとか…。 この話は、ポンと飛び上がった拍子に美女達だって体中の力を振り絞るだろうし、当然そうした予期せぬ生理現象に襲われやすいだろうから、単に我々の受けを狙った創作ではなく、多分体験に基く彼氏の実話だろう。 それにしても、先頃ロシアで太りすぎたプリマが相手役の男性ダンサーから敬遠され、失職したといったニュースが話題を呼んだもの。この鼻を摘みたくても摘む訳にもいかない悲喜劇も、彼ら男性ダンサー達にとっては日常茶飯事の職業的公害なのかも知れないなどと、KNさんの懐かしい顔と共に連想させられた。 ところで、突然このKNさんからS君を通じ齎された「小川宏ショー」への出演話は、折からの「日記友の会」構想を展開するには又と無い好機と思った筈の「昔・誠」だ。 だが、本来なら手放しで大乗り気になるべき折も折。 前日のNHKテレビ番組で「日本日記クラブ」という日記愛好者グループが前年に発足している事を知ったというのも、皮肉な事だったと思う。 何故って、こうした同種の企ては、やはり後発となると、いくら企画がヨリ優れていようと展開しにくいもの。日記を書く者の会という事では似たり寄ったりの会とあって、会員獲得で相争う事の愚より、自らその先発の「日本日記クラブ」に身を投じ、内部から夫婦日記推奨運動を促進するように努めた方が良策では…とも、当然考えた筈。 まあ、ソンナコンナの裏事情も絡んで、先夜は勢い込んでいた「昔・誠」自身。何か慎重にならざるを得なかったのは当然の事。折角のS君からの上京要請に、「とにかく応諾」なんて書いているが、仮に出演の話が徒労に終わっても、久々のKNさんとの出会いに上京の一半の目的を見出しての事であったかもしれない。※参考事項★1966(S41)年の大きな動き★ 国内…国債発行による景気上昇の反面、消費者物価問題が深刻化。(通年) 航空機事故相次ぐ。下記4事故死者計371人(通年) 全日空機東京湾墜落(2月) カナダ航空機羽田空港着陸失敗(3月) 英BOAC機富士山上空で空中分解(3月) 全日空YS11型機松山空港で墜落(11月) 世界…英国のビートルズが音楽で世界の寵児に(通年) 中国で文化大革命(通年)★1967(S42)年の大きな動き★ 国内…新宿西口広場が完成(1月) 日航が世界一周線の営業開始(3月) 富山県の奇病イタイイタイ病は三井金属神岡鉱業所廃水が原因と学会発表(4月) ロータリーエンジン車を東洋工業が発表。自動車保有台数一千万台を突破(5月) ワンマン宰相・吉田茂が死去。(10月…’89に戦後初の国葬) 消え行く都電。銀座線を廃止(12月) 世界…インドネシアのスカルノ大統領失脚(2月) アラブ諸国とイスラエル間に戦争勃発。スエズ運河を閉鎖。(6月) 中国が初の水爆実験に成功。(6月) ボリビアでゲリラ闘争中の前キューバ工業相ゲバラが戦死。(10月) 清朝最後の皇帝溥儀が死去(10月) ベトナム戦激化。米首都で十万人反戦集会のデモ隊が座り込み。(10月) アラブ連合のアスワン・ハイ・ダムが発電開始。(11月)
2003年11月26日
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1966(S41)年9月28日(水)晴 ★我家で貯まるのは煤(スス)ばかり… 今冬最高の寒さ。各地でマイナス温度を記録し、しかもそれが、気象台開設以来最低といった所が殆ど。いつまでも暖かい布団に入っていたいところだが。K医院参りに行かなければならず、グズグズしている訳にもいかない。 一菜(カズナ)の風邪がどうもすっきりしないので、ついでに先生に診ていただくと、急性蓄膿症を起こしているとの事。当分また通院し、一ヶ月くらい高価薬を服用しなければいけない。 全く何という暮れでしょう。少しでもヘソ繰ろうと思っているのに、またしても赤字。テレビ料金も取りに来るし、まだお正月用の食料品も少し買い込まねばならないし、気は滅入るばかり。 懐は寂しいし、仕事は一杯あるし、少しも後二・三日で正月だ何て気分になれない。 でも周囲の家で一生懸命、家の周りをお掃除しているのを見ると、やらない訳にもいかず、天井の煤払いをする。我家では、黙っていても貯まるのは煤だけといったところ。(妻・幸筆)**************************************************************************《付記》2003年11月25日の誠、日記再読所感☆我家で貯まるのは煤(スス)ばかり… 遂に二人の娘共々、大晦日まで医者通いとなった様子。これでは幸のヘソクリは一向に増えそうも無いどころか、取り崩しだそうだ。 でもご安心あれ、以前何時だったか書いた如く当時のS銀行健康保険組合は、今と違って使い切れないほどの大黒字。医者の窓口で一旦支払った自己負担金も、後日私の給与口座に全額戻ってきたから、この分は無かったつもりで総てツモリ貯金していたって訳。 程度の差は大であれ、子育てや老後の不安は、今も昔も薄給の若い夫婦にとっては付き物。 まして親譲りの資産も無い末っ子夫婦の私達だったから、当面はグッと歯を食いしばって、当時の安給料取りの蓄財訓「見栄欠く、?欠く、義理も欠く」の三欠(カク)主義を合言葉に節約節約。将来の生活安定を当面期さざるを得なかったと言う舞台裏だった。 オッと、三欠主義のモウ一つは何だっけかなぁ。 後で思い出して書き加えようと思っていたのだが、耄碌したのか何としても思い出せんとあって、堪忍ドッセ !!(トホホ)
2003年11月25日
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1966(S41)年12月25日(日)晴 ★年賀状発信完了&久々夫婦で買物に… 一日延ばしにしていた年賀状の宛名書きを漸く終わり、本日発信を済ませた。正直なところ何かホットする。 また夕方、仲人のSJ様へのお歳暮を買いに富士急デパートへ。 一菜(カズナ)と二美(ツグミ)は朱門のオジイチャン(幸の父)とお留守番。二人だけで外出したのは実に久方ぶり。 何か信州蕎麦を売り物とする新しい店が仲見世通りに出来た由。それならばコノ機会を逃してはと、一番味見しやすい掛け蕎麦を食べて帰った。 オジイチャン遅くなってゴメンナサイ !! (夫・誠筆) 1966(S41)年12月26日(月)晴 ★年の瀬、不意の来客&「日記友の会」計画実行への幸の危惧 パパからの電話で、急にお友達を夕食に招待するとのこと。 ここ当分、医者代とクリスマスと続いて出費が嵩んでいるので、今日はチャーハンで軽く済ませようとユックリ構えていたので、大慌てで買い物に行く。 寒いし、鍋物が豪華に見えるので、寄せ鍋にする。 Nさんもお見えになり、3人の旧友の話は尽きることなく12時近くまで弾む。 パパの「日記友の会」に託す夢の大きさは良く判るけれど、第三者の立場で色々と検討してくださる皆さんの意見の方がモット分かるような気がする。 出鼻を挫くつもりは無いけれど、趣味あるいは事業に力を尽す前に、先ず自らの生活を今よりもっと軌道に乗せる方が今は大事だと思う。「日記友の会」を作る事によって、今の生活さえも脅かされるようになってしまっては元も子も無いのではなかろうか。 銀行(特にS銀行)の狭い器の中で納まっているべき性格の持主でないパパであることは良く分かるけれど、ある程度の基礎と見通しが無ければ、危ない橋は渡りたくない。…と云うよりも渡ってもらいたくないと思う。 せめて二美がママの手を離れ、幼稚園に入ったら、何らかの形で協力したいと思う。(妻・幸筆)1966(S41)年12月27日(火)晴 ★昨夜来訪の友Sは神の使い? でも、「日記友の会」計画は道険しの感も… 昨夜は思わぬ珍客・旧友Sの来遊にスッカリ気を良くしてメートルを上げてしまう。何故か彼が私の夢を実現させる為に齎(モタ)された神の使いのようにも思われた。 学生時代、理想に燃えていた彼。そしてソノ理想を実現するために茨の道と知りながら演劇界に入り、やがて危険思想の持主として追われる身となった彼。 私は彼と必ずしも思想を同じくする者ではないが、彼が悪人だ何てトテモ考えられない。 …何はともあれ、追われる窮鳥となって懐に逃げ込んできた彼を、我が身の事は二の次に幾度か匿くまったのは、そんな気持ちからであった。既に十数年前の事である。 以来、永いこと音信普通となった彼ではあるが、この夏8月14日に行われた伊東での旧友会に、その永い逃亡生活で日焼けしたらしい黒い顔を、我々の懐かしさを誘いつつ現わした。 そんな忽然と消えたり現れたりする彼の無事を、私は心から喜んだものだった。しかし私の知らないソノ空白時代について、何処でドウ過ごしていたものかは全く語らずじまいだった彼。多分私のように匿っていた先に万一にも迷惑を掛けたくないといった配慮からの沈黙か…。そう思っていた私だが、その久々の彼からは、以前満ち溢れていた世の矛盾や社会悪に抗しようとする積極性は消え、精気を奪い去られてしまったようだったのが何か寂しかった。 そう些か失望を感じさせられ気味な昨今の彼なのだが、今「日記友の会」の普及拡大を通じて偽りを憎み嫌う良心的な日本人を増やそうという、精神復興を願う大きな夢を描く私の前に再び現れたのである。 そこで、打てば響く筈の昔の彼を知るがゆえに、思い切って自分の胸の内を打ち明けて相談した。或いは消えそうになった彼の心の火が再び燃え上がるかもしれないと云った淡い期待からだった。 しかし話すうちに、彼が何事にもスッカリ臆病になってしまっているように思えてきた。 何故なら、私としては今反響を呼びつつある夫婦日記の共同執筆者であるカミサンの心をソノ気にさせるべく、彼からの声援を期待していたのだった。 そこで私は、途中から期せずして我家を訪れた同じ級友で私の親友の一人N君と共に、自分の「日記友の会」計画に対する思いを熱く語って二人に協力を求めた。 だが、二人とも或る程度理解はしてくれたようだが、残念な事に積極的な賛同は得られなかったと云った方が概ね妥当と思われる反応だった。否、逆に幸の云うように、スッカリのぼせ上がった感じの私を鎮静しようと、何か水を注されたかの印象も無しとしない彼等だった。 しかし私は挫けまい。彼等の心配してくれる気持ちは分かるし、それはそれで、友なればこそと有り難く受けよう。 でも私は別の何らかの機会を捉え、この計画へのヨリ深い理解者やヨリ積極的な賛同者を増やし、戦後荒廃するばかりの日本人の心に新たな息吹を吹き込む手段として、この思いついた夢を実現したいと思う。(夫・誠筆) *************************************************************************《付記》2003年11月24日の誠、日記再読所感☆年賀状発信完了&久々夫婦で買物に… クリスマスも過ぎて漸く書き上げ発信した年賀状…といった記事を再読。仕事に、子育てに交友に日々多忙だった頃を、改めて垣間見る思いがする。 仲人のSJさんへのお歳暮もコンナに押し詰まってから買いに行ってたんだ。何か暢気すぎるようにも思えるけど、当時の銀行員の年末は今とは比べ物にならないほど忙しかったし、本部要員も現場に助っ人に回されて居た筈だから、多分残業続きで二人で品選びして買物する時間もなかったんだろう。 尤も、この一年の日記で倦怠期的な症状も多々見受けられる「昔・誠」&「昔・幸」である。こんな連れ合い紹介してくれて…と、お互い仲人さんに含む所でもあって、買物に行く気になれなかったり…。フフフ勿論、これは冗談。 でも「七年目の浮気」ってマリリン・モンローの映画じゃないけれど、コノこの翌春がソノ7年目。時々雲行きが怪しくなったり雷さんが鳴ったりしても、何処の夫婦も同じ自然な成り行きだったかもね。 唯、娘達を預けた久々デートでの信州蕎麦の味、どうだったか一言も書いてないなぁ。…て事は、案外「信州信濃の新蕎麦よりも、ワタシャあなたのソバが好い」なんて満更でもなく。せっかく新しく出来た信州蕎麦専門店の品定め、スッカリ忘れてたって事かもしれないよなぁ。(ニヤニヤ) ☆年の瀬、不意の来客&「日記友の会」計画実行への幸の危惧☆昨夜来訪の友Sは神の使い? でも、「日記友の会」計画は道険しの感も… 不意の来客として書かれている旧友S君の事については、今年2月28日(金)の日記〔胃カメラが見つけた「オナラの塊」…〕中の文末に近く、サブタイトルを〔★後事を託そうとした友の助言〕として既に触れたとおりである。 当時、私には何人かの親友と呼べる友が居た。 中でも、このシーサンことS君、CチャンことN君、そして今日の話には登場しないがTチャンことY君などは、そのころ最も親しく付き合っていた間柄であった。 S君とは、意外にも事後この「日記友の会」構想が更なる縁ともなってか、彼の方から実にシバシバ我家へ顔を見せるようになった。それも何時も泊りがけだったから、娘達からも「のらくろの小父さん」と愛称を付けられ、呼ばれ親しまれるようになった程だった。 またS君との話の途中で来訪したN君は、前述のY君と共に地元だったし家も近くだったから、それこそ何だかんだと顔を合わせて家族同士の付き合いをしていた仲であった。 ご両人とも地元有数の資産家の子息だったし、それに較べて小商人の味噌っ粕三男坊だった私は、彼ら二人に何だかだと我侭を言わせて貰っていた。 それについては、今月16日の日記 〔友よアリガトウ !!(1966.12.15) 〕の中で、サブタイトルを〔★二人の親友宅を歴訪〕として、これまた既に触れたとおりである。 特に丁度このS君と時を同じくして来訪したN君は、中規模印刷会社を経営していた一家の御曹子。それも御尊父が病気になられたので20歳頃から社長をされていて、私の勤務先S行の大株主でもあった。 そんな特殊性と若者同士の気安さもあって、S銀行への就職が決まってから確か定年退職まで、父、母方の伯父に次ぐ第三順位の保証人となってもらっていた。だから当時は何でも彼には良く相談し、知恵を借りたり我侭を言ったりしていた。 今になって考えると多少厚かましくもあったが、いずれ男として大を成し得たら彼の好意に報いる事も出来よう…。そう常に思っていたのだが、遂々甘えるばかりで花実も咲かず。その後の無粋な時の流れの中で疎遠となり、出世払いの借金を返せずじまいとなってしまったような感じだ。 話が些か逸れた感じだが、そんな親友の二人だったから、「昔・誠」としては、彼らにも是非一枚加わって賛同と協力を求めたかったに違いない。 またそうする事で、自分の投書から発した反響を利用して大きな国民的な波に…と目論む夫の構想なのに、どうも余り乗り気を感じさせない幸を、何とかソノ気にさせたいとの意図もあった筈。 何れにせよ当時、当行を相次いで襲った頭取・会長の他界という不幸の後始末役ばかり押し付けられていた私だ。それゆえ、こんな事にも直ぐ夢を描き突破口を見つけて、広い世間に飛び出しヨリ生甲斐のある仕事がしたいとの強い思いが、心中で常に沸々としていたように思う。 そう言えば、夢を喰うと言う仮想動物として知られるバクの名に因み、自分のペンネームを「獏さん」とし、好んで使っていたのも確かコノ頃だった。 尚この後、帰京した旧友S君から電話があり、この自称・獏さんの夢は更に膨むこととなる。それについては、次々回に掲載予定の12月29日の日記以降を「乞う御期待 !!」。
2003年11月24日
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1966(S41)年12月24日(土)晴 ★二美(ツグミ)急病のため、店屋物で済ませたクリスマス・イヴ 昨夕、急に二美が耳が痛いと言い出したので、夕飯もソコソコにK医院へ連れて行く。 とにかく二美の言う事なので、果たして本当かどうか分からず、ただのカユミだけであってほしいと思っていたのであるが、右耳が中耳炎で既に膿み始めているとの事。 あまり大泣きさせられたので、帰りの車中、一言も口をきかず、家に着くと直ぐ蒲団にもぐり込んでしまったほどなので、余程痛かったのだろう。 といった事情で、今朝から当分またK医院参りと言う訳。 その皺寄せから、落ち着いて食事も摂れずに私の実家に送り届けられる一菜(カズナ)も気の毒だけど、大晦日まで医者通いとは、まったく何の因果でしょう。風邪が抜け切れていない私にとっても、はなはだ苦しいこと。 クリスマス・イヴ。 今年は本家の皆さんを招待する。 招待と言っても、何しろ分家の我家は病人ばかり。そこで店屋物で済ませてもらう。 でも一菜はお姉ちゃん達とカルタや双六をしてもらい、ソノ上プレゼントまで戴いて大喜び。二美は飾ってあるケーキが気が気でなく、せっかくのチラシ寿司も三分の一程度で諦め、ママの目を盗んでは、ケーキのチョコレートや生クリームに指を突っ込んでは毒見をする。9時過ぎ、お開き。ささやかなイブのパーティーでした。(妻・幸筆)*************************************************************************《付記》2003年11月23日の誠、日記再読所感☆二美(ツグミ)急病のため、店屋物で済ませたクリスマス・イヴ この日記で先ず気になった二美の中耳炎の治療で、大晦日まで通院って言ってたけど、当時の医者はそんなギリギリまで営業していたのかと思われた読者も多いのではなかろうか? その点をココで明らかにしておきたいが、多分K医院は特別だったと思う。一般の医者は殆どお役所と同じか、年末の数日前までには休診になっていた筈である。 しかしK医院の院長夫妻には特殊事情があった。その特殊事情あるがゆえに、以前私達も休日に発病した娘を危うい所で診療してもらえ、以来、場所は遠いが歯科以外の殆どの病気はK医院でお願いした。 それは、整形外科医の院長と耳鼻咽喉科医の奥さんが、私達が出会う少し前に酷い交通事故を起こしてしまわれ、当時としては巨額の賠償義務を背負うことになってしまった。 オマケに我家の娘達と同じ年頃の愛児二人も居たから、それこそ死んだ気で盆暮れの休みも無く働らかれていた様子。 その一方で夜でも休みでも機嫌よく親身になって患者に接してくれたから患者の評判も上々。 こうしたK氏夫妻の努力で未だ空き地が目立っていた新開地の小病院は、瞬く間に近隣の土地を買い取り、バラック建てで小じんまりしていた当時の病舎は、アレヨアレヨのうちに屋上屋を重ねるようにして当地有数の大病院と変身していった。 あれから彼是40年。その院長先生も今は彼岸の人となり、後を継がれたご子息は、斜陽化の兆しが見える当市の将来に早々と見切りをつけてか廃院。近郊の新興都市へ新病院を新設され移って行かれた。 その移り変わりの様を思うと、丁度それは日本の足跡とも酷似しているような気がして、何とも一抹の寂しさを禁じえない私だ。 さて、話を次のクリスマス・イヴの家族パーティーに転じよう。 この時の写真は今も我家のアルバムに貼られてあった筈。まだ日記への写真の載せ方に疎い私とあって、今は文字専門で書き進めるが、何れ折を見て加えられたらと思う。 で、その写真だが、勿論未だ健在だった私の今の年よりも若い両親を中心に、本家分家の二世三世計8人が取り囲んだもの。最年長者の私の父でも未だ60代だったと思うが、各世代交々計10人の一族郎党が嬉しそうな顔して未だ白黒主流だった時代のカラー写真に収まっていたっけなぁ。 唯、説明も無く貼ってあるだけだったので、何の時の写真だったかと良く思ったものだけど、この時の思い出写真だったんだ。 当時は今のようにカメラもストロボ付きではなかったし、夜間撮影には皆1カット1電球を使い棄てるフラッシュ電球をつけて撮影したものだった。それもカラー用は白黒の無色透明の電球でなく、青色透明タイプのフラッシュ電球を使う事が必要で、露出も今のようにカメラまかせなんて訳に行かず、丁度良い自然な発色を得るために随分気を使って撮ったように記憶する。 それが今ではカラーなんて当然。しかもプリントするにも白黒よりカラーの方が安く、撮ったものがその場で確認できたり、不要のものは消す事も可能等々。まるで夢のようなデジタル時代になっちゃった。 それを又みんな結構器用に使いこなしていて、この楽天のホームページでも、別に写真の専門学校を出ているようでもない人が、毎日惚れ惚れさせられる作品を撮って展示してくれていて、本当に目の保養になっている。 オヤオヤ、我が若水家のクリスマスの話をするつもりが何か写真の昔話になっちゃったなぁ。 ともあれ、店屋物並べただけのクリスマス・パーティーだったけど、結構子供達は楽しんでくれた様子。そして専ら一菜は遊びたい盛り、二美は食い気ざかりだった頃の可愛い姿がコノ日記で活き活きと脳裏に蘇り、心楽しく読み終えた記事だった。
2003年11月23日
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1966(S41)年12月22日(木)曇がち ★膀胱炎再発 昨日はとても気分が良かったので、母と久しぶりに外出する。一菜(カズナ)の本と靴、それにブーツまで買ってもらい、とても助かる。 でもやはり体に堪えたのか、夜になって膀胱炎が起こり気分悪し。 夏に東中野の義姉さん心尽くしのクコ茶を飲んで以来、すっかり起こらず、これで持病とも別れられてヤレ嬉しやと思っていたのに気が滅入る。 そこで今朝からまたクコ茶を精々飲むことにする。 こんな具合で思うように働けず、少しもクリスマス・年末・正月の気分になれない。でも三欠(カク)主義を通すには、こんなノンビリした暮であっても良い筈。 パパは忘年会で留守。親子3人で味気ない食事をとって、早々と床に就く。(妻・幸筆)1966(S41)年12月23日(金)? ★忘年会帰りの酔眼に久々幸の筆跡…&「日記友の会」結成の夢 まだ正確には12月22日であるが、忘年会の酒に酔い痴れて我家に辿り着き、この日記を拡げると、久しぶりにママの筆跡が並んでいる。とても嬉しい。 約1週間の事とは言え、ドンナに気を揉んだ事か…。"消えるかのような灯火(ともしび)を、背を屈めて風を避ける"。そんな自分の姿を連想しながら一生懸命日記を綴った1週間のようにも思える。 でもソノ間、一昨日の日記に詳述したようなSTさんからの心こもる励ましのお手紙をいただき、私には新たな希望が湧いてきた。 それは他でも無い。長年こうした機会の到来を夢見ていた私にとって、理想を実現するチャンスが巡り来たったようにも思える事柄である。 私が敬愛する母校・同志社の校祖・新島襄先生の理想は、「良心を手腕に運用する人を植える」と言う事であったと思う。 今迄、私は混濁した現世を批判するばかりで、何も成す術も無く唯々慨嘆するばかりであった。 ところが、良き妻・幸の寄稿文のお蔭で、ここに再び、S銀行を取り巻く広い世界を眺め、その中にはヨリ多くの善意の人々が居る事を再認識する事が出来た。 ここに到って私は、そうしたヨリ多くの同志と相携えて、日本の隅々まで広く、「夫婦日記友の会」と云った組織を作り上げたいと思い到ったのである。 前述した私の希望とは、即ちコノ事であるが、これを発展させて行けば、多くの人々の心は自ら啓発され、身の回りの狭い仲間意識の枠の中ばかりに囚われない、ヨリ賢く良心的な人々に生まれ変る事が出来るのではないだろうか。 『国富論』はソレまでの経済書と違って、共存共栄で経済を発展させて行ける事を示し、克つソレでこそ人間の道であると訓えている。 私達は二十世紀の人間ではあるが、まだまだコノ書に学ぶところが多い。 日記を人々に勧める事は、ココに至って我々に与えられた神の啓示とも云える。出来れば私達は今後その不朽に人生を賭けて見たいと思う。見ようによっては戯言とも思われる過去3冊の日記も、今では私達夫婦の宝である。これまで日記を書き続けたいと思いつつ三日坊主で終わっていた人達でも、夫婦で協力しあえば誰でも続けられると言う事が立証できた事の意義は大きい。 一人でも多くの人が、これから夫婦日記を書き出すことによって、何千何万という夫婦の危機を救う事も可能であろう。「夫婦日記友の会(仮称)」が出来て先ずやる事は機関誌の発行であり、次に会員の増強のためのPRであろう。そのためには、私の尊敬する恩師、同志社総長・住谷悦治氏も引っ張り出さずにはおかない覚悟である。幸も又、私共の善意を持ってして鳩山薫子氏を説得せんとの情熱を燃やして欲しい。 まあ、年忘れの酒の勢いも加わって夢は限りなく大きく拡がるばかりだが、この夢は実現の仕甲斐があるものと思う。これが実現すれば、私達を縛るエセ資本主義奴隷の鎖も自ら千切れ去ろうし、多くの人々を現況から飛躍的に向上させ得る事であろう。(夫・誠筆) *************************************************************************《付記》2003年11月22日の誠、日記再読所感☆膀胱炎再発・忘年会帰りの酔眼に久々幸の筆跡…&「日記友の会」結成の夢《膀胱炎再発》 この文末に参考としてソノ一部分を抜粋しておくが、去る17日の「我家の歳末狂想曲」と18日の「ツリーも飾り、鳴り物入りの大騒動」に書いたような、些か駄々っ子的な幸の過激な行動の真因は、この時もヤッパリ膀胱炎再発という体の不調に有ったんだよね。 それならそうと私に云えば、あの良く飲んでた即効性のある抗生物質の薬でも直ぐ買ってきてやったものを、コンナ形で夫に八つ当たりして気分晴らしを始めるんだから女の心は今も不可解だよなぁ。 それにしても何時の間にか持病の膀胱炎体質を脱したと思っていたら、義姉が勧めてくれたクコ茶が効いていたとか…。そんな内容の日記を書いてあったんだから私も知ってた筈なのに、長い時の流れの中でトント忘れてしまってた。 それどころか、その即効薬の名前も書き記しておこうと傍に居る幸に今尋ねたところ、即効薬どころか自分が義姉に勧められ常用し卓効があったクコの事さえ覚えてないとの事。 …と言う事は、クコで完全に体質改善が出来たからこそ、以来、膀胱炎の発作が次第に無くなったとも云えよう。まあ、メデタシ・メデタシだったよね。※参考 1 (17日の日記「我家の歳末狂想曲★"ならぬ堪忍するが堪忍 !!"」本文&付記一部抜粋) (昔・誠筆) 皆、風邪気味な上に、一菜(カズナ)が自家中毒とあって、ママも私もテンテコ舞い状態。勢い些細な事から衝突と言う事になりやすい。 そんな中で、まあ一番元気なのは私と言う事で、二美(ツグミ)のオシリの始末までコチトラの責任のような言われようである。(今・誠筆) フフフ…、また幸の八つ当たりが始まったようだ。お互いイライラしがちなのは判るけれど、自分の体の調子が悪いと、いつも亭主を下男扱いしたくなるらしいんだよね。※参考 2 (18日の日記「ツリーも飾り、鳴り物入りの大騒動誠、日記再読所感文末抜粋) (今・誠筆) ともあれ、過ぎ去った遥かなる時の彼方に舌打ちしながら再読した今日の「今・誠」だった。 でもそういう一方で、幸のために一言付け加えておくと、こうして体調が悪い時は箸にも棒にも掛からなくなるほどの荒れようを見せる。だが体調さえ回復すれば、またソレナリに我がこよなきベターハーフだった事を明記しておこう。 まあ、夫婦円満のコツは、片方が荒れた時は別の片方が程々で引く。またある時は、その逆で…、と互いに心掛ける事こそ肝要と言うべきか?それだからこそ若水丸は今漸く、静かな天の港に共々無事近付きつつある事を実感。こうして古い航海日誌を読みふけり、公開向きにリライトを進める事も出来るという訳である。 《忘年会帰りの酔眼に久々幸の筆跡…》 何時もながら、幸の体調の悪さからくる気分晴らしの八つ当たり薄々感じながらも、久々に復活した幸の筆跡にホッとする思いだった「昔・誠」の良き夫ぶりに我ながら感心。(ニヤニヤ・フフフ) 《「日記友の会」結成の夢》 この「日記友の会」結成の夢については既に、去る20日の日記「嬉しい便りの往還」の付記の中で、《幸の投書に又も激励状》と云うサブタイトルで書き記した本文に対する所感で、既に語ったとおり。 従って、改めて書き加えべき事も少ないが、その中に書いた下記抜粋文にある「日本日記クラブ」は、私が夢見た「日記友の会」と次の点で些か意図するところが異なっていた。「日本日記クラブ」 どちらかというと"日記ファンクラブ"的な感じで、既に日記を書き続けている者の懇親会的な会。 私が入会した1990年頃に聞いた話では、私達がこの夫婦日記を書き始めた前年の1965年に元教員の小谷信子現会長を初めとする方々が呼びかけ手となり創設された会と聞いている。 「日記友の会(仮称)」の夢 未だ、国内に同種の会が発足していなかった頃とあって、成るべくKNさんのような東京在住で時間的に余裕がある方を会長に推し、当面その方の住まいを事務所にさせてもらい、発起人が共々協力してマスコミなどに働きかけパブリシティーとしてのPR活動を展開する。 日記を書き続けている人々が相互の懇親を深めながら、一人でも多く新たに日記に親しもうとする人々を増やすべく努力する事を第一義とする。 即ち、「夫婦日記」を初め「家族日記」「恋人日記」等々、成るべくペアまたは小人数の親しい間柄で組み、ネタを探し書くという負担を出来るだけ軽減する一方で、楽しく書き続けられる方策を勧奨する。 つまり交互または順次回覧を原則として書き始める事で、三日坊主になりやすい日々書く事の負担が軽減。書き忘れれば互いに督促したり代行執筆も出来る融通性が日記記載を永続させ、いつか必ず書かなければ何か大切な事を仕残したような気持ちにさせられるもの。 そうなればモウ、単独日記になっても大方大丈夫。日記をつける習慣が板に付いたものと思われる。 但し、会員同志の約束事として、1.日付・曜日・天候の他に、疲れた時や気分が乗らない時でも何か必ず書き続ける事。 例えば「疲れた。もう寝る」と、仮に一行でも良いから…。2.日記はフィクションであってはならない。 成るべく事実を在りのままに書き、言いたく無い事は書かなくても良いが、ウソは絶対に書かない。3.毎月随意の日記一日分以上を選び、機関誌掲載用として所定の日までに事務局へ送付する。4.会員は、発足時に総会で決める毎月一定額の会費を拠出し、会の運営費に当てる。などであった。 そして特に大切なのは、会員の増え具合に合わせた独自の機関誌の発行である。 未だパソコンは勿論ワープロも無かった時代だが、会員の発表意欲をそそる為、発足後出来るだけ早い機会に季刊から月刊に、ガリ版刷りから写植刷りへとヨリ整った態勢と体裁を整え、会員から送られた寄稿文を中心記事として掲載する。 まあそうした相違点が、私の究極的に目指そうとしていたものと何か相容れない物足りなさを感じ。私は五年間ほどで「日本日記クラブ」を退会した訳だった。※参考 (20日の日記「嬉しい便りの往還《幸の投書に又も激励状》」付記一部抜粋) 結局この思いが具体化しなかったのは、自身纏め役を引き受ける時間的余裕がなかったからだと思う。 それで、定年後に「日本日記クラブ」の存在を知り、一もニもなく入会。多くの日記ファンと知り合う事が出来た。
2003年11月22日
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1966(S41)年12月21日(水)晴 ★ドタキャン知事に手を焼く&久々の銭湯で下駄盗難 T印刷のカメラマンであるS君と共に、7時2分発の列車で静岡へ向かう。 過日、知事をインタビューした折、お話の中に出てきた羽織の撮影をとお願いしてあった件での訪問取材であった。既にY静岡事務所長を通じ内諾を得てあったので、指定された9時に行けば大して待たされずに撮影できるものと思っていた。しかし生憎と知事の御機嫌よろしからず、又の日にしてくれとスゲなく断られる。 勿論、案内してくれたY事務所長をはじめ、我々一同すっかり困惑してしまった。だが、このまま大の男二人が遥々沼津から出張してきたと言うのに、ハイそうですかと手ぶらで帰る訳には行かない。 そこで一旦知事の自宅から引き上げた上で、県庁の秘書を通じ「遺品を着用して…と言う知事ご希望のポーズは、又お暇な折という事にさせていただき、とりあえず遺品だけでも…」とお願いしてもらい、待つこと延々5・6時間。漸く希いが聞き入れられて撮影に移る。 それも羽織と聞かされていた遺品が、実は普通の着物と袴(ハカマ)であったため、予想外にアングルが問題となって、たった1カットの撮影に丸一日を費やしてしまった。 知事は今度、私共の県東部をバックに衆議院選に打って出るそうだが、「こうした約束事も守れぬようでは、清き一票をと思っていた気持ちもグラつきますよ」と言いたい気持ちである。 ところで、そんなこんなの末に家へ帰ると、一日仕事らしい仕事もしなかったくせに妙に疲れたような感じで、何故か無性に風呂に入りたくなった。しかし私を除く家族3人は、未だ風邪の神と仲良しの間柄で入浴できない。私一人のために風呂を沸かすのも物の妙理が悪いと思い、久々に昔懐かしい銭湯へ行く。それに今日は鼻持ちならない知事の事もあって、なにかしら庶民的なものが恋しかったのも事実だ。 終戦以来、殆どソノママと云ったバラックの中で、些か垢染た感じの湯船に浸かっていると、十数年前、京都の下宿で過ごした学生時代の事が懐かしくなった。 遅くなって酔っ払って帰り、寮友達と終い風呂の垢を掻き分けるようにして入った大成寮の白いタイル風呂。 その後、転々とした下宿生活の殆どは、同宿の仲間達とカランコロン下駄の音を立てて、近くの銭湯まで通ったものだった。何処も京都らしさの感じられる田舎の歌舞伎小屋にも似た建物が多かったなぁ。 そんな下宿生活の中で、最後に腰を落ち着けた小山上初音町のUさん宅だけは内湯を使わせてくれ、家族の一員に加えてもらったようで嬉しかったなぁ。建物も映画のセットで良く見かけるような典型的な京風住宅で、湯殿は2階建ての母屋から突き出た水屋の突き当たりで長州風呂だった。それも出世前の男衆は先に入らねばいけないと、奥さんやお嬢さん方は何時も我々が入ってからだったし、そんなことには無頓着だった私に京都人気質を一番感じさせてくれたものだった。 僅か一年半にも満たない間だったが、不況の最中に就職も順調に決まり無事卒業して明日帰郷という夜。親父さんが直々腕を振るって並べてくれた尾頭付きの鯛や、京料理の数々。ご夫妻の優しい姿と共に今夜は何故か思い出されて心楽しかった。 だが、そんな夢見心地も、27円の風呂賃では矢張り何時までも良い気分にさせておいてはくれなかった。 と言うのは、帰宅しようと下駄箱を見たら、何と私の足(即ち下駄)が見事掻っ攫われてしまっていた。 湯上り気分の意表を突かれた余りの幕切れに、思わずヤレヤレと溜息をもらす。 黒い松蔭の彼方、冬の星空が冴え渡る中を帰宅。 *************************************************************************《付記》2003年11月1日の誠、日記再読所感☆ドタキャン知事に手を焼く&久々の銭湯で下駄盗難《ドタキャン知事に手を焼く》 ワンマン頭取の度外れた気紛れと我侭に明け暮れていた「昔・誠」も、このS知事のワンマンぶりには心中怒り心頭だったようだ。 この件の記事を締め括るように書き込まれたている、 『知事は今度、私共の県東部をバックに衆議院選に打って出るそうだが、「こうした約束事も守れぬようでは、清き一票をと思っていた気持ちもグラつきますよ」と言いたい気持ちである。』は、何か反骨精神旺盛な「昔・誠」らしい皮肉な一語と感じた。 《久々の銭湯で下駄盗難》 当時も戦災後数年にして建てられた侭だったらしい久々の○○湯。浴槽は垢染みていても、広々したタイルの浴槽に浸かって思い出した寮や京都の銭湯風景。なかなか楽しく読み直した。また、京都生活を締め括ったU家での思い出話は、ここに書かれなかった様々な思い出とともに今も脳裏に鮮やかで、ツクヅク良い下宿に行き着いたものだったと回想させられた。 それにしても、下足泥棒のオマケまでついて、この日の日記はモチーフとしてはナカナカなもの。尤も、書き手がその素材を描ききれたかは保証の限りではない。(フフフ)
2003年11月21日
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1966(S41)年12月20日(火)晴 ★M君の愛車損傷事件&幸の投書に又も激励状 何かと小生意気な行動が目立ち、どうも非常識すぎる店員を兄は雇ってしまったもの…と思っていた私。その問題の若者M君が、兄と共用する約束で私が代金を半分負担して買い入れた愛車「コロナ」を事故して傷めてしまったと言う。 したがって名義上は父が店主となった実家の店用車だが、閉店後と週末は原則として私の大事な愛車だ。傷つけられれば些か腹も立つ。 だがつい先日までは、「俺が使っている店の車だが、主人の弟だし仕方が無いから貸してやる」といった態度だった従来の彼に似合わず神妙そのもの。正直に「迷惑を掛けて済みません」と詫びる今日の彼の態度は、素直でナカナカ好感が持てる。 何しろ私に先日強く叱られたばかりの彼だったし、未だ相当頭にきているだろうに、事故のショックもあっての事とは思うが、血気盛りの若さを良く抑えたと感心する程であった。 それゆえ、その礼節ある物腰を前に私の怒りも霧散。かえって彼の体に怪我の無かった事を喜び家に帰る。 又、先日の幸の新聞寄稿に対して反響の便りが届く。 今度は、《埼玉県秩父郡野上町大字中の上○○○に済む、STさん》と言う人からである。 内容は前のKNさんと変らないが、今度は便箋3枚にギッシリとお互いの日記について触れていて、一層、嬉しい便りであった。 以下、コレに対する礼状原案を下書きのつもりでココに記そう。 なお出来れば、幸自身の返事も明日の日付でココに下書きとして残しておいて欲しい。良い記念になろうから。《礼状原案》拝復 この度は家内・幸がサンケイ新聞に寄稿いたしました拙文に対し、お心こもるご激励状をいただき厚く御礼申し上げます。実は、先日も東京都大田区大森町西6丁目○番地○号にお住まいのKM様と仰る方からも、暖かいご激励をいただき、家内と喜んでいたところでした。それが又こうして更に遠方のSTさんからもお便りをいただき、何か急に大勢の先輩諸兄から手を差し伸べられたような、幸福感を味わっております。 伺えば、ST様は小学生の頃から夢に描いていた鉄道の仕事に就くことが出来た喜びを機に、日記をつけ始めたとか…。私達の場合は逆に、恰も慈父の如き存在であった某氏に他界された悲しみからと言うべきでありましょう。 いや、その悲しみから立ち上がり、これからもその某氏の遺訓「和」の言葉どおり、夫婦手を携えて進むため、ヨリ深い理解がヨリ必要と思われたからと言うほうが正しいかもしれません。 そして一年経ってみて更に思う事は、この日記が、何十年か後、私共の可愛い二人の娘、一菜(カズナ4歳)と二美(ツグミ2歳)の家庭にまで引き継がれ、折々に私達夫婦の微笑や涙や怒りの跡を追読してもらえたら…、なんて遥かな先の事までも考え始めています。 まあ、そんな期待が叶えば、この日記の底流となっている筈のものを子々孫々まで良く理解し、上手く自分達の人生に活用してもらいたいもの。 とにかく、感情の起伏が比較的大きいのが私ども夫婦。それゆえ、共々に一番必要な要件と自覚している「和」の精神の大切さを、大人になった娘達以下我等が血を受け継ぐ者総てが遺訓として汲み取り、血脈の特性を長所として活かすべく努力して受け継いでいってもらいたい。 また気持ちが荒んだ時などにコノ日記を読めば、両親である私達が自分達娘二人を良識ある人間に育てるため、如何に苦労し耐えて生きたかも判る筈。人生の危機に遭遇しても、ソンナ私達の姿を思い出し何とか乗り切って行ってくれるのでは…。まあソンナ風に考え書き始めたものでした。 尤も、ソノ時の子供達の所感は、「パパやママは一生、夫婦喧嘩のしどうしだったみたい」。なんて言われるかもしれませんが、それはそれで詮無き事。 まあ、お互いが命果てるまで共々努力を重ね続けた事さえ判ってもらえれば、悔いなしです。 このように、ともかく私達はST様やKM様と較べ、未だ一年坊主のくせに、一寸欲張りでもあります。ですから始めは些か自信なく、私共だけの秘め事としておきたかったこの夫婦日記も、今や家内の寄稿で世間の皆様の知るところとなりました。でも、その結果こうして良き先輩方ともお知り合いになれ、楽しみは倍加したかの感がいたしてまいりました。 できれば、これを機会に全国の同志を繋ぐ組織でも作り、日記をつける誠実なヨリ多くの人々を生み出して行けたら、さぞ有意義で楽しいものに発展しないだろうかとも思います。 お蔭様で私共も、先輩方のように八周年、十八周年記念と言った日も無事迎えられるという自信が何だか付いて参りました。 何卒何時までも良き先輩としてご指導ご鞭撻くださるようお願い申し上げます。 尚、このあと続いて私共「夫婦日記」スタイルどおり家内・幸にバトンタッチいたすつもりでございますが、生憎、只今風邪気味で、或いは簡単なご挨拶に終わるかもしれませんが、その点どうぞ悪しからずご了承ください。先ずは乱文乱筆にて 敬具 昭和四十一年十二月二十日夜 若水 誠(夫・誠筆)*************************************************************************《付記》2003年11月20日の誠、日記再読所感☆車を損傷、神妙になったM君来訪・幸の投書に又も激励状 《車を損傷、神妙になったM君来訪》 暫らく愛車を使えなくされ不便だったろうが、M君も事故処理と言う現実問題に直面。この「コロナ」が実質的には兄と私の共同所有車である事を、率直に認めざるを得ない事に漸く気付いた様子。 まあ、お互いの蟠(ワダカマ)りを「雨降って地固まる」式に好転させるチャンス。M君来訪と言うんで先ず身構えて接するかとも思った未だ青かった「昔・誠」だが、ともあれ円満第一と応対したようで、先ずはホッとしたよ。 《幸の投書に又も激励状》 STさん宛の礼状下書き原案文末に近く、次のような文節があるのが特に目を引いた。《できれば、これを機会に全国の同志を繋ぐ組織でも作り、日記をつける誠実なヨリ多くの人々を生み出して行けたら、さぞ有意義で楽しいものに発展するのでは…とも思います。》 結局この思いが具体化しなかったのは、自身纏め役を引き受ける時間的余裕がなかったからだと思う。 それで、定年後に「日本日記クラブ」の存在を知り、一もニもなく入会。多くの日記ファンと知り合う事が出来た。 毎夏一度、東京で開催された総会は勿論。各地での懇親会などにも出席して全国の日記ファンと語らえた事は、大いに得るところがあった。 また、会長から一度我家を会場として指名され、20人ほどの会員が沼津へ来られ近隣をご案内した日の事も思い出の一つだ。 ただ地方会員の私からすると、些かの不便さや物足りなさも感じられてきて、今は退会した。 しかしソノ頃に同会を通じて知り合い、今も年々賀状で近況を伝え合っている同好の友も多い。 それに今はこの楽天の公開日記で親交を深めあった仲間も増えた。そして、早残り40日程に迫った元旦の年賀状が一段と楽しみにもなってきた。 そう言えば、郵便局へ頼んであった年賀葉書も先程届いた。 今年も例年同様、少し多めに三百枚を買ったが、そろそろ御身腰を本気で上げ準備にかからないと、間に合わないかもね…。(ハハハ)
2003年11月20日
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1966(S41)年12月19日(月)晴のち小雨 ★話せる試験監督・残業・お返し添えてお歳暮受領 ウチの奥方のご機嫌は今日も快方に向かわない。よって昼食は何時もの愛妻弁当に代え「天春」で済ませた。 4時半より又々事務規定試験。 新任のI部長は、皆さん勝手に要領よくおやりなさいといいたげに席を度々外してくれる。するとソノ都度、役席者を筆頭に皆ガヤガヤと答案を見せあったり、カンニング・ペーパーを取り出して回覧しあうといった光景に早変わりする珍風景が繰り返し現出。今思い出しても可笑しくなってしまう。「頭取は中学時代同級で、成績は何時も最下位だった」と昔話を時々語るI部長にしてみれば、その出来の悪い劣等生だった昔の同僚が、こうした現状に会わぬ試験問題を自分の部下に強制して良い気になっているようで、何かアホ臭いに違いない。 事実、「アイツは学生時代に出来なかったから、こんな事でソノ時の鬱憤(ウップン)晴らしをしている」と公言して憚らない。私も内心同感の思いである。 退社時間である5時過ぎになって、その噂の主の頭取が、「前頭取追悼録10冊を、自宅と東京事務所の個室用に取り揃え、至急送るように…」と言い出した。 お蔭で帰宅が一時間ほど送れる。無論、サービス労働である。 舌打ちしたいような気持ちで帰宅。我家の車庫の扉を開けていると、T印刷のOさんとNさんが車で乗りつける。 コンナ遅く何の急用かと些か不審に思いながら応対すると、お歳暮を配りに来てくれたらしい。勿論、こんなことで恩を売られては困るので硬く辞退したが、向うも社用。それでは困ると押し問答。結局、ラチがあかないので、代わりに此方も旧友N君の所で貰った蜜柑一箱を皆さんで召し上がれとお返しさせてもらい手を打つ。 なお後で先方持参の品物と引き比べ、どうやらチョンチョンの品と確認し先ずは一安心。別にこの程度の品ならとも思うが、黒い霧のご本尊・I副頭取という男は、部下に疑念を向けさせて自分の悪臭を誤魔化そうという寝技師とか…。 収支決算をココに書き止め、処理方法を明確にしておこう。(夫・誠筆) *************************************************************************《付記》2003年11月19日の誠、日記再読所感☆話せる試験監督・残業・お返し添えてお歳暮受領 西郷さんじゃないけれど、I 部長というのは、今考えるとナカナカにユニークで面白い男だったナァ。 マアあのワンマン頭取の悪口を、部下でも誰でも平気で酷評して憚らなかったのは、彼氏一人だったじゃぁないかしらん。 彼氏は頭取と子供の時から家も近くだったし、小学生当時は結構のガキ大将だったから、金持の息子だが弱虫で良く苛められて泣いてた頭取を助けてやったものだとか。中学時代にも同窓の御学友で、喧嘩やカンニングも良く助けてやったらしい。 とにかく学生時代はボクシングが強く、当地のボクシング界で知らない人は居ないと聞くほどの存在だったが、そんな豪傑顔はサラサラ感じさせない、温厚な人柄だった。 そんな彼氏と初めて私が出会ったのは、初出勤の日だった事を今この所感として綴ろうと、記憶の糸を手繰り寄せ久々に思い出した。 初出勤の数日前、当時支店長総代だった遠縁のSG伯父から入行式後に紹介されたH人事部長に、初出勤時の服装と持参品について尋ねた所、「まあ始めのうち暫らくは、学生服のままでも良いでしょう。持参品も算盤の他は銀行で準備します。何れ算盤は自分のものを用意してもらわねばと思いますが、入行式当日はお弁当だけ持ってきてください」。そう指示され、ソノ通りの服装と弁当を風呂敷包みに包んで初出勤したものだった。 ところが、配属された本店営業部の出納主任だったのが、このI部長だった。そして、「アンタは未だ学生気分が抜けきっていないようだが、今日から銀行員になったのだし、そんな格好で来ては拙い。ちゃんと背広を着て来なさい」。そう、先ず一発注意されてしまった。 私としては、人事部長から指示されたとおりにしてきたつもりなのに、何でやねん…。と、内心で思いながらも恥ずかしく赤面してしまった事を懐かしく思い出す。あの最初の一撃は、ご本人にとってはホンの軽いジョブぐらいのつもりだったろうが、緊張して一番乗りで初出勤した私だけに、今も忘れられないアッパーカットの一撃のように脳裏に残った。 そのほか、入行当時は本当に学生気分丸出しだった我々は、大先輩である彼氏から結構厳しく躾けられたように記憶する。でもそれは、先輩が早く仕事に慣れさせようとする兄貴のような感じで純粋に好意的なもの。むしろ今は、大変清々しい思い出となっている。 だから、その入行早々一発喰らった感じだった I 部長が、初めての社員旅行の宴席で私が歌った「祇園小唄」を大層褒めてくれ、以後、宴会と言うと唄わせられるようになった事も心嬉しかった思い出の一つだ。 ところで、話は I 部長の事から少し逸れるが、この入行当日、出納へ配属される前。行内で確か№3のポジションだった常務取締役営業部長だったAさんへ挨拶に連れて行かれた時は、一層の大荒れだった。 母校の卒業式の関係で、初出勤の日は各自コレに従った出来るだけ早い日から…と言うように指示された。このため、私は高校同級生だったR大卒のM君とN大卒のA君と示し合わせ、大卒の入行者で本店に配属された七人の中で先陣をきって出勤することにしたのだったが…。 先ず三人ともA営業部長の前に立たされるや否や、オハヨウございますも言ったか言わないか今は覚えてないが、「今年の新入行員はナットラン !!」と始まった。 それから延々1時間以上も立たされどうしで、よくも並べたものと思えるほどアーだコーだと文句を一杯並べられたが、今はっきり覚えている事はとにかく、「戦場に出てくるというのに、鉄砲も持たず丸裸で来る奴があるか。君等は今日から銀行員だ。ペンも算盤も持ってこないとは何事か!!」といった言葉のみである。 ところが隣に立っていた、3人の中で一番の虚弱体質だったR大卒のM君が急に脳貧血を起こしてぶっ倒れてしまった。余りの長時間、直立不動でお説教を聴かされていたためであることは明らかだったから、今度はA営業部長自身が、漸く度が過ぎたと気付き大慌て。すぐさま部下の行員を呼んで彼を裏の和室へ運ばせて行った。 ソンナ突発事件のお蔭で、私とN大卒のA君も漸く立ちん棒から解放され、身柄をW庶務主任に預けられた。そして、これでも読んでいろと分厚い内規を渡され、中の意味は殆どチンプンカンプンな銀行の決まり事を覚えるように言われて、そのまま2時間近くが経つ。昼近くになり漸くM君の容態も落ち着いたらしく席に戻ったA営業部長から、当面の配属先として当時まだ出納主任だった昔のI部長の許に連れて行かれた。 …まあ、大体ソンナようだったなぁと、何とか初出勤の日の思い出の殆どが繋がった。 いずれにせよ、そんなユニークにして良い意味での強烈な個性の持主であった I 部長との出会いは、斯くして始まった。だがソノ後、直属の部下として接したりのは、それから大分後のコノ庶務部長時代のみだった。 そして、その頃には I 部長の生い立ちや、スマートな体躯ながら新頭取も一目置く豪傑だとの評判は、概ね理解できていた。 あの意地悪い前任のHハゲ部長の後で着任しただけに、我々は諸手を挙げて歓迎し大いに自由を謳歌した事は云うまでも無い。
2003年11月19日
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1966(S41)年12月17日(土)晴 ★Xmasを前に、姪のY子とツリーを飾る クリスマスも近いので、実家から姪のY子も連れてきて、ツリーの飾り付けをする。 今年は、去年買ったものばかりで間に合わせ、新たな飾り小物も買わずに済ませた。 でも子供達は二人とも、「わぁ~、キレイ・キレイ !!」と大喜びしてハシャいでくれ、飾り甲斐があったと言うもの…。(夫・誠筆) 1966(S41)年12月18日(日)晴 ★遂に始まっちゃった鳴り物入りの大騒動 "もう二度と幸と喧嘩はすまい"と、何時も争いごとの後に思うのであるが、又、やってしまった。後悔が残る。 堪えに堪え、言いなりになっていたつもりだが、子供達二人を車で病院へ連れて行って帰宅。新聞に目をやって朝食のパンに手をやった途端。いきなり、ロール・パンや、佃煮の入ったプラスチックの容器が飛んで来て、テーブルの上に砕け散った。 口で私にイライラを当り散らすだけなら、女の浅はかさと思って見過ごせるが、食物を投げたり、形あるものを破壊するに至ってはモウ許せない。 又、子供達の前で父親の尊厳を犯すに至っては、これからの示しが付かなくなる。斯くして男女同権・平和第一主義者の私も、止む無く受けて立たざるを得なくなった。 夫婦日記も、このところ専ら私だけの一方通行が続いている。 私がピンチヒッターを続けなければ、せっかく一年間灯し続けた愛を培う灯火も消えてしまいそう。 長い人生航路には明暗は付きものではあるが、お互い心を一つにしてこそ可愛い二人を乗せたコノ船を、安全に目指す港へ導くことが出来るという事を忘れてはならない。 文句があったら、お互いこの日記の上で論争しあいましょう。 それが理解への為のものであるなら、子供達に何時か読まれたって決して恥ずかしい事ではないと思う。 そして、ケンケンゴウゴウ・ガタンピシャンと言った鳴り物入りは、これでモウ最後としようではないか。幸も協力を頼みますよ。(夫・誠筆) *************************************************************************《付記》2003年11月18日の誠、日記再読所感☆Xmasを前に、姪のY子とツリーを飾る☆遂に始まっちゃった鳴り物入りの大騒動 折角、姪と一緒にツリーも美しく飾り上げたというのに、機関長役の幸のご機嫌が斯く荒れ模様では、サンタの小父さんも門前で驚き呆れ、引き返してしまいそう。 女の慎みも何のその、余りの派手な実力行使に我が若水丸もアワヤこれまで…。遂に難破かとハラハラしながらも、説いたり頼んだりと些か「昔・誠」の行動に手ぬるさを感じさせられ何かイライラ。 ハハハ、それは今日の昼間、また「今・幸」と「今・誠」の一寸した角突き合いがあったから。 「ハドマー」という空気マッサージを受けて今朝も国立病院から帰宅した私。 そこへ、向かいの家の庭に住み付いているノラ猫一族の一匹である通称「シロ」が纏わり付いてきた。 「ニャ~・ニャ~」とエサ欲しさに煩く繰り返す彼女をフト見ると、首根っこを噛まれて痛々しい。 恐らく、一匹の雄シャムネコを筆頭とする数世代十数匹程のハレム内での序列争い? 否、餌の奪い合い? それにしても酷い傷だ。フサフサした白い毛が五百円玉大に毟り取られ、厚い内皮の下の紅い肉も見える。 それで、モノの哀れを感じた私が薬を塗ってやろうとしたところ、例によって幸がガナリ立てた。「余計な事しなさんな !! 皆、近所隣で猫が増えて困っているので、エサも与えない事にしているって言うのに…」。と、まあコウした訳。 それで、「お前さん近頃、亭主を下男と間違えてるんじゃないのか? 如何に何でもソノ言葉づかいは何だ…」。と抗議する。 どうも、猫がゴミを食い散らかすからと近所のカミサンたちが申し合わせて、エサをやらないようにしているとの事。 だが、人にはソレゾレ生活信条がある。 自分達だけの考えを、十把一絡げに"坊主憎けりゃ袈裟まで憎し"と他人まで強要するのは不届き千万。 日本は思想言論の自由が認められた国。犬猫だって生きる権利があると思う者も居て良い筈だ。 …なのに私の買ってある猫の餌を断りも無く棄てたり、傷の手当てもするななんて事を平気でしたり言ったり…。 全く、弱者を慈しむ心が涸れ果ててしまったのかと、最近頻発している事件を見ながら批評する割には、身の回りの同じような矛盾に気付かない無神経さが何とも気に懸かる。 まあソンナコンナから 猫がゴミを食い散らかすからと、近所のカミサンたちが申し合わせて、エサをやらないようにしているとの事の是非をも、敢えて異議申したての必要性を感じた私だ。 ともあれ、過ぎ去った遥かなる時の彼方に舌打ちしながら再読した今日の「今・誠」だった。 でもそういう一方で、幸のために一言付け加えておくと、こうして体調が悪い時は箸にも棒にも掛からなくなるほどの荒れようを見せる。 だが体調さえ回復すれば、またソレナリに我がこよなきベターハーフだった事を明記しておこう。 まあ、夫婦円満のコツは、片方が荒れた時は別の片方が程々で引く。またある時は、その逆で…、と互いに心掛ける事こそ肝要と言うべきか? それだからこそ若水丸は今漸く、静かな天の港に共々無事近付きつつある事を実感。こうして古い航海日誌を読みふけり、公開向きにリライトを進める事も出来るという訳である。
2003年11月18日
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1966(S41)年12月16日(金)晴 ★"ならぬ堪忍するが堪忍 !!" このところ、家中揃って病人だらけだ。 皆、風邪気味な上に、一菜(カズナ)が自家中毒とあって、ママも私もテンテコ舞い状態。勢い些細な事から衝突と言う事になりやすい。 そんな中で、まあ一番元気なのは私と言う事で、二美(ツグミ)のオシリの始末までコチトラの責任のような言われようである。 勿論やってくれと頼まれるのなら、私としても何も文句言う筋合いは無いのだが、"亭主の奴、何をボヤボヤしてるのさ。私が具合が悪い時ぐらい、そのぐらい言われなくっても気をきかせたら…。とっととオシメでも取り換えてよ !!" とでも言いたげなママの口調である。 ソノ物言い節の悪さには、思わず"何を生意気な!! " と言い返したくもなり些かウンザリ。 しかし、何事も我家の平和のため、グッと堪えて、"ならぬ堪忍するが堪忍"と我が心に言い聞かせて遣り過ごす。(夫・誠筆) *************************************************************************《付記》2003年11月17日の誠、日記再読所感☆"ならぬ堪忍するが堪忍 !!" フフフ…、また幸の八つ当たりが始まったようだ。お互いイライラしがちなのは判るけれど、自分の体の調子が悪いと、いつも亭主を下男扱いしたくなるらしいんだよね。 ハハハ、やっぱり先輩諸氏が結婚当初アドバイスしてくれていたように、早いうちに一発バチンと示しをつけずに甘やかし過ぎたのがアカンかったかなぁ?(フフフ) 幸だけは、ソンナ手荒な事をしなくても、夫と下男の区別ぐらい如何に体調が悪かろうと出来る筈。そう思っていたんだがねぇ…。 ハハハ、恋は盲目って言うけれど、少し買いかぶり過ぎていたようだ。 それにしても、今頃になって気付いても後の祭。まあ、お互い残り暫らくの我慢、我慢 !! (トホホ)
2003年11月17日
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1966(S41)年12月15日(木)晴 ★二人の親友宅を歴訪 昨夜は保証人でもあり親友でもあるN兄の処へ御歳暮を届けに外出する。 今夏、御中元を持参しそびれてしまったので、ソノ分とあわせた金額程の物をと、幸の提案でスツール兼用の物入れにした。といっても、ザッと2千円程で、親譲りとは言え曲がりなりにも社長と名の付く地位にある彼にとっては、まことに取るに足りない品物ではあろう。 まあ、貧者の一灯と思って私達の感謝の心を汲んでくれればと希(ネガ)う。幸い、彼も奥さんも、その心が以心伝心してか大層喜んでくれたのでホッとする。 帰路、「スーパー・M」へ寄って机代わりとするデコラ貼りの板を買って来ようと思ったが、生憎と既に閉店後であった。で、同店の店長でありコレ又親友のTちゃんの自宅へ回り、求める寸法の出来合いがあるか尋ねる事とする。 尤も彼氏、丁度もう就寝せんとするところであった様子。また日を改めて…とも思ったが快く迎えてくれ、「希望寸法を測ってくれば、それなりのものを注文してくれるとの事であった。 丁度、テレビでスパニッシュ・ダンスの番組を放映中で、丁度良いから見ていくようにと勧められるまま、彼氏ご自慢の高級ブランデー「レミーマルタン」入りの紅茶等をご馳走になる。すっかり目と舌の保養をさせてもらって十時半過ぎに帰宅。 友とは、有り難いものである。 でも前頭取他界この方、一向にツキに見放された感じの私。この友情に応える機会が、何時になって巡ってくるものやら…。(夫・誠筆) *************************************************************************《付記》2003年11月16日の誠、日記再読所感☆二人の親友宅を歴訪 この頃は、N兄ともTちゃんとも、家族ぐるみ始終仲良く顔をあわせていたものだったよなぁ。 でも今では何となく疎遠になっちゃって、時に街で顔を合わせても「ヤア」「ヤア」ぐらいの間柄。 その訳は、以前何かに触れて大分具体的に書いた覚えがあり、一部ご愛読の皆さんは既にご承知の筈。 ただ最近お友達になった方やランダム読みの来訪者の事を考え、一応その掲載日だけでも書いておきたいとも思った。ところが容易に見つからず、何れ探し直して此処に書き加えるかリンクする事として、今日は省略しておく。 まあ、一口に言えば、この日本の二・三十年間の時の流れが、如何に一般のバンカーやサラリーマンの地位を押し下げ、一定規模以上の自営業者との階級差を広げ、その利害関係から共生を許さなくなってきたかと言う事かとも思う。 ともあれ、若い頃に培った美しき友情を、生涯に亘って保ち続けるという事は、ソレゾレの人生が順風満帆なら問題なかろうが、長い間には何かと面白からざる感情も芽生えやすいもの。また、そうした友情を態々ブチ壊そうとデマゴギーを撒き散らし、その分断によって選挙やら商売やらで我田引水を企むハイエナのような無粋な輩も結構あった。 しかし如何なる時でもコチトラは、そんなデマに対する弁解や打消しなど一際しなかった。所詮、そんなデマに煽られる友はタダの友。口に出さずとも私という男の人間的価値を認めていないとも受け取れる態度を感じた相手とは、私の方からも次第に距離を置く事としている。 でも良くしたもので、さうした私でも「人生いたるところ青山あり」との言葉は真実だと思う。その後に出会った友に又、心魅せられる方々が次々と現れ、別に心寂しさを感じる暇も無く生きてきた。 尤も人生幾許といった昨今になり、こうした記事を改めて読み直す折などは、共々心穏やかなりし昔が何となく懐かしく、共に楽しんだ旅の想い出などがソゾロ脳裏を過ぎる。 然しながら勿論こうした無粋な時の動きは、それらの友情が単に功利的な目算によるものであったか、それとも人格的に魅かれ合っての仲だったかを知る、良い機会でもあったとの思いを新たにもさせた。 そう言う意味で、今も残る数少ない旧友は、それだけアノ太宰の描く『走れメロス』の主人公に近い、心の友とも思える訳でもある。 尤も、人心いよいよ荒廃を余儀なくされる昨今。まだまだ命尽きざる限り、今後も誰と何処でドンナ出会いや別れがあるやも知れない。そして、それがまた人生の妙味と言う事のようにも思える昨今である。
2003年11月16日
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1966(S41)年12月13日(火)晴 ★又々載りました三度目の幸の投書 夜来の雨が上がって今度は寒波襲来。何時にも増して床を離れがたい朝の一時…。 と、その時である。 ガラリと玄関の戸が開いたかと思うとママが外から駆け上がってきて、私を叩き起こして曰く、「又、出たわよ出たわよ。千円儲けちゃった !!」。 そう。ママの産経新聞家庭欄寄稿文が又々掲載されたのである。これで三度目。重ね重ねオメデトウ !! しかも今度の投書の題材はこの日記の事。『一年続いた"夫婦日記"』とある。 そう言えば、コノ日記も間も無く一周年を迎える訳だ。真に感慨無量である。 始めは「何時まで続く事やら…」といった不安もあった。だが、お互い怠け心を制し、励ましあって今日まできた。もう、どんな事があっても続けて行けるという自信のようなもが湧いてきた。 私達だけの秘密として今しばらくしまって置きたいとも思ったが、公にした以上、もっと多くの人達に夫婦日記の効用を逆宣伝してやろう。(夫・誠筆) 1966(S41)年12月14日(水)晴 ★昨日の幸の投書に嬉しい激励 今朝の寒かったこと。京都方面では20センチも積もる初雪。新幹線も今年初のラッセル車まで出動。富士山は零下30℃を記録。 昨日の「くらしの声」を読んで、東京都大田区大森町西6丁目4番地○○番地・○○号KNさんという方から早速お葉書を頂戴した。 いわゆる夫婦日記を書き始めて8年も続いているというベテランだそうだ。一年生を激励してくださった訳でるが、私達も五年十年と続けて、我家の宝としたいものである。(妻・幸筆) *************************************************************************《付記》2003年11月15日の誠、日記再読所感☆又々載りました三度目の幸の投書 何よりも先ず、掲載された当日の《くらしの声》本文を、以下参考までに原文そのままで紹介しておこう。『一年続いた"夫婦日記"』 年末を迎えて、本屋の店頭には各種の日記帳がうず高く重ねられている。 わたしたちもこどものころから正月を迎えるたびに"ことしこそは日記をつけよう"と決意して、何冊もの日記帳を買い込んだものだが、どれも完全にページを埋めることはできず、みずからの「三日坊主」にあきれはてたものだ。 結婚して五年、去年の暮れに突然夫が「正月から二人で日記をつけよう」と言い出した。一人でできなくても二人で交代に書けば、かならず長続きするというのだ。 今年の一月からさっそくはじめたわけだが、二人とも忙しさにまぎれて三日も四日も書かず、思い出すのにひと苦労したこともあった。 また夫婦喧嘩が尾を引いて、日記の中でけんかをしたり、腹がたって夫の留守中、燃やしてしまおうかと思ったことも幾度かあった。それでも、やがて一年になろうとしている。 日記とは、あくまでも個人的なものかも知れないが、こんな方法も案外気づかないおたがいの心を掴んだりできるいい面もあるようだ。 現在は、さしずめ「夫婦日記」であるが、娘たちが小学校に入学するようになったら「親子日記」に発展させたいと、いまから楽しみにしている。(静岡県沼津市○○町○○番地 若水 幸 31歳 主婦)と、まあこういった一文であった。 ☆昨日の幸の投書に嬉しい激励 この前日掲載の投書に対し、東京・大森のKNさんという方から早くも斯くなる反響があった。又その後も、全国各地の方々から嬉しい所感や激励の書状が何通も舞い込み、スッカリ気を良くした我々だった。 KNさんを始め、そうした方々は皆さすがに筆まめで、その後も良く便りを下さり、以来、毎年届く年賀状も楽しみの一つとなった。 又それらの方々は、殆どが数十年も日記を書き続けているベテランだったが、当時の我々としては、その一人一人の克己心が実に驚異的なものに思えたものだ。 そんな方々からの良き刺激を心の糧とさせてもらい、私の日記も早37年間もの記録が積もり積もる程となった。 時の流れに影を落とした自分達の行動や心の動きを今こうして辿れるのも、この日記をつけ続けられたからに他ならず、ツクヅク良い習慣を身につけたものだと思う。 また己の怠惰心や眠気と日々対決。たとえ一文字でも一行でも必ず書こうと日記に向かった事を振り返り、よく頑張ったナァともツクヅク思う。 もし日記をつけぬ侭だったら、日々の反省もケジメも無いまま、のんべんだらりと生きるうちにフト良からぬことでも考え、しでかしていたかも…なんて事も考える事も有る。 そんな私なので、やはり日記を長く書き続けている人に出会うと、人間的にも自ずから畏敬の念が沸く。後年、私が一時「日本日記クラブ」に入会したのもそんな思いからだった。 ソンナコンナを思い合わせ、この楽天の公開日記は何と便利なシステムかと、スッカリ惚れ込んでしまっている私だ。 何せ、夕方になると楽天の事務所から「今日の日記はモウ書きましたか? さあ忘れぬうちに日記を書きましょう」といった感じの督促メールまで寄こしてくれる親切さ。こんなこと、パソコン時代ならではだし、それも無料とは何ともありがたく、怠けてなんかいられない気持ちにさせられる。 お蔭で今日まで、半ば行動録的内容となった古くからの日記『わが星霜』をワープロで、この楽天日記をパソコンでと使い分け、日々Wヘッダーで書き続けている。 勿論、そんなバカバカしい事…と思われる人も多かろう。だが、私としては、これまで修理を重ね愛用を続けてきたワープロも、何れ交換部品も無くなり使えなくなる日が来よう。 だから基本的なパソコンでの作文機能だけは完全に使いこなし、キーボードに慣れ親しんで置く事こそ自分にとっては最も大切な事。そのための学習運動だし、老化防止の一助とも考えている訳なのだ。 しかし今は、この楽天日記に余り惚れ込みすぎて書く事だけに夢中。このため様々なパソコンのテクニックを覚える時間的な余裕が無くなってしまっている事が、何とも気になりだした昨今である。やはり、心身のバランスある維持育成をと願うなら、適当に気を抜く事も極めて大切なようだ。
2003年11月15日
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*************************************************************************※この14日の「古い日記…」は、往時の記録だけ只今書き終わったので一応掲出します。尚、《付記》の「誠、再読所感」も後刻執筆の予定につき、ご再訪ご笑覧願えれば幸甚です。**************************************************************************1966(S41)年12月10日(土)晴 ★土曜の夜はTV観賞優先 年賀状の宛名書きと補筆事項記入作業を夜なべに始めたが、二十枚程仕上て止めてしまう。 どうも土曜の夜はテレビ番組に面白いものが多く、一向に能率が上がらない。 (夫・誠筆) 1966(S41)年11月11日(日)晴 ★兄に誘われ、西伊豆・戸田へ山芋掘りに…「今日こそは夫婦揃って年賀状を書き上げ、クリスマス・ツリーも飾り付けを済ませてしまおう」。そう思っていたコノ日曜日であった。 ところが、朝まだ早いうちに実家の兄から電話があり、戸田へ山芋を掘りに行こうと誘われる。 よって計画は一応棚上げ、9時ごろ兄とソノ友人OZさんの知人という人と沼津を出発する。その同乗者が何と言う人なのか、紹介もされぬまま遂に聞かずじまいだったが、戸田の山手に住む農家の主で気の良さそうな男性だった。兄と同年配といったところか…。 ともあれ、同人所有の蜜柑山で生まれて始めての蜜柑狩を楽しみ、午後から2時間程その向かい側にある山へ入って山芋掘りをした。 実は先月、兄が既に一度同行して体験談を聞かされていたので、私でも簡単に掘れそうに思って付いて行ったのだが、聞くと見るとは大違いで、とても我々素人の出る幕ではなく、唯々急な斜面を、その兄の知人の後を追い縋って行くのがやっとと言う有様だった。 しかし、お蔭で大きな山芋を3本も掘って貰い、これで家を出る時「晩のオカズは要らない」と豪語してきた甲斐があったと大喜びして帰途に着く。 まあ、これについてはソノ後にエピローグがまだあって、それまで書かねば今日の日記の筆を置くわけには行きかねるのであるが、それは「折詰で誤魔化された…」と口惜しがっている幸奥様より、明日の日記で紹介してもらう事としよう。(夫・誠筆) 1966(S41)年11月12日(月) 曇のち雨★「当分、オカズは山芋続きよ !!」「魚釣りに行って、目刺しを買って帰ってくる」と言う話よりは気は利いているが、親は本当に有り難いもの。 先を見越して、チャンと用意してくれてあるんですから。 お蔭でココ当分、山芋続きで、余り栄養分が付き過ぎてニキビが出ないかと心配。 朝、山芋をご馳走になったからではないけれど、家中のガラス拭きをする。 少々肩が張って来てしまった。(妻・幸筆) *************************************************************************《付記》2003年11月14日の誠、日記再読所感☆土曜の夜はTV観賞優先☆兄に誘われ、西伊豆・戸田へ山芋掘りへ…☆「当分、オカズは山芋続きよ !!」 (以下、後刻執筆予定)
2003年11月14日
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*************************************************************************※この13日の「古い日記…」は、往時の記録だけ只今書き終わったので一応掲出します。尚、《付記》の「誠、再読所感」も後刻執筆の予定につき、ご再訪ご笑覧願えれば幸甚です。**************************************************************************1966(S41)年12月9日(金)晴 ★御好意で思いがけず見れた縫い包み劇『三匹の子豚』と一菜 昨日、一菜(カズナ)は向かいのSさんの奥さんと、産業会館で開かれた縫い包み劇の『三匹の子豚』を見に行った。 思いがけず御好意で見られた上、とにかく初めての経験であり、又々帰りに沼津軒でお寿司までご馳走になって、すっかり上機嫌で6時近く帰宅。 縫い包みの子豚さんと一緒に舞台に上がって福笑いをしたり、歌を唄ったり、親が付いて行かなくても、結構一人で気後れする事もなく何でも掏るようであり、現代っ子らしくてナカナカ頼もしいと安心する。 疲れたのか、今朝は8時近くになって漸く目を覚ます。 赤門のオバアサン(幸の母)は、又もやお呼びで上京。 寒くて東京はイヤだと口にしながらも、満更でもない様子。 当分オジイサンの食事の面倒を見る事になる。(妻・幸筆) *************************************************************************《付記》2003年11月13日の誠、日記再読所感☆御好意で思いがけず見れた縫い包み劇『三匹の子豚』と一菜 (以下、後刻執筆予定)
2003年11月13日
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*************************************************************************※本日の日記は掲出した主題で只今執筆中。昨日以前の日記のみ、ご高覧下さい。**************************************************************************1966(S41)年11月8日(晴) ★『誰かが…』 いつものように、又々発案だけに終わってしまうかも知れないが、もし出来たら『誰かが…』という題でコンナ小説を書いてみたいと思う。 〔※内容的にヨリ慎重な処理が必要なため、残り部分の執筆は後日とします〕 (夫・誠筆) *************************************************************************《付記》2003年11月12日の誠、日記再読所感☆『誰かが…』 (以下、後日執筆予定)
2003年11月12日
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1966(S41)年11月7日(水)晴 ★妻の溜息 オジイサンにオネダリして買ってもらった一菜のスカートが、少し丈が一杯なので取り換えてもらうため街へ行く。 もうすっかり歳末気分。今年は例年になく好景気で、何処も昨年を上回るボーナスが見込まれているとかで、売らんかな商法も目に見えて派手を極めている。 モーニング・ショーでダイヤモンド社々長が、結婚後10年で夫の年収だけ貯金が無いのは、家計のヤリクリが下手な家だと言うのを聞いたけれど、何か腑に落ちない感じ。 婦人雑誌を見ても、3年間で200万円貯めたとか、結婚後5年で、車・家・ピアノを手にした家庭とかの記事がヤタラ目に付くけれど、相当無理をしている努力は買うけれど、やはりシッカリとした土台が既にあって、ソノ上に積み重ねるのは比較的易しい。…が、土台から築くのは困難だ。何か責任を感じる今日この頃。 三笠宮やす子さんに2791万円のお金が結婚に際して出されるとか…。 一寸違った星の下に生まれると、こんなにも丁重な扱いを受けるのかと、僻みたくもなる昨今である。(妻・幸筆)*************************************************************************《付記》2003年11月11日の誠、日記再読所感☆妻の溜息 好況下、まるで「コレデモカ、コレデモカ」と、スカンピン所帯のヤリクリに日夜励む幸の神経を逆なでするように、わが世の春を謳歌する羨ましい報道が続々。…てな感じのコノ日の日記。 コチトラ夫婦は、折から啄木じゃないけれど「働けど働けど、わが暮らし楽にはならず。ジッと手を見る」といった思いで、長~い冷や飯食わされてる最中だったんだもん。 わが幸奥さんだって僻み言葉の一つも書きたくもなろうもの。まるで、わが妻の深い溜息を聞くようでもありました。(トホホ) まあ、何はともあれ、長い間の奮闘努力。ホントにホントに、ご苦労さん !!
2003年11月11日
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1966(S41)年12月6日(火)晴 ★古文書解説&年賀状準備考 一日中、故会長がN銀行会議用にあたって書いた式辞の解読に費やす。「承乏(ショウボウ?)」だとか「騫駑(ケンド)の才」だとか言った難解な熟語を諸所に使っている上に相当に癖のある草書で手を焼く。だが、それでもまだ一箇所どうしても判読できないままで日没を迎えてしまった。誠に根のいる作業で本当に気持がイライラしてきて参った参った。 ところで年賀状の受付けは10日からだと言う。このところ、何となく慌しく日がくれてしまって一日送りにしてしまっているが、そろそろ本文の書き込みや宛名書きに移らねばと思い発信先の整理を行った。 合計121通となる計算だが、毎年のお勤めとは言え、これも骨折り仕事である。 本来なら版画だけにしたいのだが、中野の姉のように版画の持つ芸術的な意味合いを解せない人たちにまで喜ばれようとする為には、折衷も致し方あるまい。(夫・誠筆) *************************************************************************《付記》2003年11月10日の誠、日記再読所感☆古文書解説&年賀状準備考§1.古文書解説 それにしても、「騫駑(ケンド)の才」だの「承乏(ショウボウ?)」だのと、読みも意味も、ありふれた漢和辞典を引いてもチンプンカンプンの文章をよく解読したものだ。 そンな事を思いながら、この所感を書き加えるため、せめて振り仮名だけでも確認し「?」マークを何れも外せたら…と、改めて故会長の追悼録を久々に取り出してソノ掲載ページを覗いてみた。 するとどうだ、僅か25字詰30行の開業式典式辞だが、難解文字のオンパレードって感じなんだよね。その殆どに振り仮名を付けてあったので、多分当時は完全に解読できたはず。でも今では、通読しても大分意味が判りづらい熟語も多かつた。 それで、漢字の試験の問題にもなりそうだからと、「昔・誠」が苦労して読み解いたであろう、その他のルビーを付した難解文字を総てココに披露して話の種にとも思った次第。 でも改めて考えてみたら、ソノ漢字の幾つかは初めから、私のパソコンの文字一覧を探しても有りそうもないものばかり。時間をかけるだけ骨折り損と諦めた。 ソンナコンナから、一日がかりで誰一人相談相手もなく解読に苦しんでいた「昔・誠」の若い姿が、時空を越えて想起されてならなかった。 §2.年賀状準備考 この頃と比べ、年賀状の発信先数も倍以上になったと言うのに、今年は未だ何の企画案も頭の中になく、住所録の整理も手付かずの侭。 でも、そろそろ始めねばとは思うのだが、後から後から野暮用は増えるし、この楽天日記の記入率百%も維持したいし、カキコ応答も欠かしたくないしといった具合。 ああ、千手観音様の御手でも拝借したいナァ…。
2003年11月10日
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*************************************************************************※この9日の「古い日記…」は、往時の記録だけ只今書き終わったので一応掲出します。尚、《付記》の「誠、再読所感」も後刻執筆の予定につき、ご再訪ご笑覧願えれば幸甚です。**************************************************************************1966(S41)年12月5日(月)曇のち雨 ★『子供の遊びについて』 とても寒い日。朝9時半から幼稚園で静大心理学教授兼付属幼稚園々長の、『子供の遊びについて』と言うお話があった。 特別変った、為になったお話とは思えないが、卒業以来「講演」と名の付くものを聞いたことがなかったので、少々くたびれた。快い緊張をしていたせいかも知れない。 とにかく子供は大人の真似が上手で、直ぐに○○ごっこを始める。 大人の目からみれば、危険なものであったり、嫌らしいものであったとしても、大人に隠れてやらない限り、止めさせる必要は無い。 幼児時代から「女らしくしなさい、男らしくしなさい」と要求するのは、大人の勝手だ。 男の兄弟の仲の女の子、女の子ばかりの仲の男の子の性格は、それぞれ親の目から見ると不満に違いない。 しかし人間、ソレゾレ男女の差は生じてくる。強要して反って性格を歪めさせる場合の方が怖い。 と、マアこういった内容。 (妻・幸筆) *************************************************************************《付記》2003年11月9日の誠、日記再読所感☆『子供の遊びについて』 子供の頃の遊びって、確かに大人になって考えると、別に罪悪感など無くやってたものでも、大人に見つかると叱られるからと、隠れてコソコソやった遊びもあったっけなぁ。 まあ、私なんかは兄二人も姉二人もドチラかと言うと大分年が離れ過ぎていて子供扱いされてたし、遊び相手としての影響は近所のやや年上のお兄さんやお姉さんたち、そして同級生など。また時々来る略同年配の従弟や従妹たちの影響もあったような気がするナァ。 それと、これは一寸恥ずかしい一人遊びの思い出だけど、当時の学校には何処にもあった確か「登攀木(トハンボク)」とかいう名の、竹竿を攀じ登る運道具あった。 (以下、後刻執筆予定) ※参考事項★1966(S41)年の大きな動き★ 国内…国債発行による景気上昇の反面、消費者物価問題が深刻化。(通年) 航空機事故相次ぐ。下記4事故死者計371人(通年) 全日空機東京湾墜落(2月) カナダ航空機羽田空港着陸失敗(3月) 英BOAC機富士山上空で空中分解(3月) 全日空YS11型機松山空港で墜落(11月) 世界…英国のビートルズが音楽で世界の寵児に(通年) 中国で文化大革命(通年)(通年) 中国で文化大革命(通年)*************************************************************************《付記》2003年11月9日の誠、今日の随想★浮世(憂き世?)風呂での世間話余話今日☆北のあかり☆さんから、こんなカキコが有った。>37年前、昔・誠さんの毎日に大きく係わっていた方々、本当ですね、今は何をされ、どんなことを思っていらっしゃるのでしょうか。それで『ReRe:6日の日記 古い日記…第216回「魚ごこ(11/6) 』の一部として書き始めたんだけど、字数がオーバーする感じだし、後半はコノ表題を付けて他のご来訪者にも読んでいただいても…と、以下の部分はコチトラの日記の一部に加えておく事とした次第。昨日、孫のピアノの発表会があり幸と散歩がてら近くにある市営の多目的プラザへ行った時。汗をかいたので、孫の発表まで施設内の太陽熱温泉に入りに行った。以下の話はそのサウナ内で偶々出合った同年配入浴客3人との一寸エキサイトした会話。A「此処の風呂はお役所仕事。一週間に一度土曜日しか掃除せんし、循環式だから週の後半はモウサルモネラ菌がウヨウヨの筈。間違っても首から上を濡らすと危ないですよ」。B「全く、市は何を考えてるんだろう。折角の高価な施設も、掃除はロクにしないし、四時半になれば営業終了。オマケに駅からのバスは日に数本。唯一の高齢者福祉として年一度配る入浴券(@500×3)も、本人以外使わせない。別に減る訳でもあるまいに…」。私「そやそや、今も番台の職員の態度たるや、読んでた新聞を置きながらサモ入れてやると言いたげに面倒そう。それで、入口脇の小枠のロッカーへ脱いだ靴を入れようとしたら、"其処は貴重品入れ。靴箱は奥…"との事。"でも、何か位置が逆みたいだね"って言ったら、"目の前に書いてある…"って言われた。なるほど、小さな文字で入浴規則みたいな注意書きがゴタゴタ並べてあった。でも、ソンナの一々読んで入浴する客は何人いるだろね。一層の事コンナ施設の経営は民営にすれば良い。そうすりゃ、掃除も毎日するだろうし、営業時間も観光施設らしく夜も8時9時まで延長して頑張るなど、本気になって客寄せに励むだろうものな…」 〔以下つづく(後刻執筆予定)〕
2003年11月09日
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*************************************************************************※この8日の「古い日記…」は、往時の記録だけ只今書き終わったので一応掲出します。尚、《付記》の「誠、再読所感」も後刻執筆の予定につき、ご再訪ご笑覧願えれば幸甚です。**************************************************************************1950(S)年?月?日(?)? ★大根役者の回想※〔NH高校校内誌「K」1950年第3号(1951年3月卒業生送別記念号)記事抜粋〕 「署長さんはお人好し」で初めてK会館のスポットを浴びた時は、今迄のちっぽけな舞台と違い、僕もすっかりドギマギしてしまったが、あれから、もう三年もたつ。 あの時だったと思う。ジャガ芋ことKJ君があの団子鼻を高くしようとしてパテの付鼻を作ったが、余りの熱演の為(もっともドーランと五千ワットの照明の洗礼にもよるが)。滴る汗で柔らかくなり口の辺りまで垂れ下ってきて悲鳴を上げたのは……。 付鼻と云えば、僕も今年シャイロックを演じた時には、大分悩まされたものだった。僕はKJの例があるので、柔らかいパテを避けて、木炭画の消しゴムを使ってみた。始めは調子良かったが、いよいよ舞台稽古の日にライトを当てて通したら今度はポッカリはなが落ちてしまった。そこで致し方なしに絆創膏で鼻を止め上からドーランで塗り隠す事とした。然し、やはり演技に熱が加わるに従って汗が鼻の間に流れ込み、わずかに絆創膏で落ちるのを防いでいた有様だった。全くハラハラさせる鼻である。だから舞台人にとって、汗は大敵だ。鼻ばかりではない。文字通り炊きの様な汗なのだが顔に手をやれない。ドーランが落ちるのが怖いのだ。流れる汗が額を伝って目の中に浸る。これが我々にとって一番辛い。殆ど目を開いてはいられない。 所で演劇部の全盛期は何と云っても昨年の学校祭に於ける『リリオム』上演の時だったろう。あの時は文化部でありながら合宿までやって練習したが、実際夜11時に練習終わって宿舎に引き上げとこにつくと猛烈に腹が吠える。夜中。黒い影が二ッ三ッ合宿を抜け出す。変だと思ったら近くの畑で黒い影が泥の付いた生生姜を齧っていた。然し此れは自分が余り腹が減っていた為、見た夢であった様だ。 此れもやっぱりKJ君の話だが『リリオム』の第二幕にリリオム(KJ)の機嫌を取ろうとして、ムズカットのおかみさんが、彼の額に垂れ下がっているリリオムの髪の毛を「髪をお上げよ」と云って上げてやる科白があった。だが生憎とその時KJは髪を乱すのを忘れていた。とぼけ屋のKJは、すかさず「嘘をつけ」とやらかした。舞台裏で見ていた我々は今にも客席から「八百長 !」「嘘をつけ !」と野次が入らないかと小さな胸を痛めた。 また『リリオム』の時には此んな思い出もある。第三幕の鉄道線路の場だったと思うが、リリオムが追剥ぎに失敗して線路の上に追い詰められ、望郷の「ギャビー !!」ならずして、「ユリー !!」を絶叫。悲壮なる大みえを切って3・4メートル下へ転落する件。舞台裏には沢山マットが敷いてあって、いつもはそこへ落ちるのだが、ジャガ芋はいつも寝相が悪いせいか的をはずれてマットの外へイヤと言うほど背中をぶっつけてしまい、うなっていた。幕が下りて或る皮肉屋の云うに、「これでこそ真のリアリズム。真に悲壮そのものだ」とは。俳優稼業は辛いものと痛感した。話は変わるが、今年の正月だったろう。「ドモ又の死」という劇をやった時の話だ。もう公園まで二・三日しかないある日の夕方、我々は図画室でラブシーンのカットを練習していた。今は二人とも本校には居ないが、ドモ又がTR君。相手役のトモ子がUK子君という顔合わせだった。他のカットは大部分出来上がったが、どうしてもこのラブシーンのカットだけうまくない。ご両人共その道にかけては未だ初心者らしく、すっかりテレてしまっているのだ。そこで演出のND君は我々空いている者全部に言いたい放題の野次を入れる事を命じた。「此の位の野次は当然入るものと覚悟せねばなるまい」と言うのだ。そうなると皆黙っていない。野次にかけては舌に覚えのある奴ばかり。入れるも入れるなもあったものではない。お蔭で二人とも見る実哀れなる姿二なってしまった。然し彼らも大分不安だったらしく、こっそり二人で幕が開く日まで幾度か練習したそうな……。 然し、僕にとって一番やりがいがあったのは、『ベニスの商人』時である。人手が足りなくて、パンフレットの広告とりから、アクター、舞台装置等々色々手を出さざるを得なくなり、MT・TZ・KT君その他全員がテンテコ舞いして方々を随分かけずり廻ったものだ。しかし上演の日にはもう無我夢中で、そんな事は何処かへ消し飛んでしまった。 演劇部から身を引いた今日、唯一つ残念に思う事は、もう一度、より純粋化した『夕鶴』を作り得なかった事であった。(高校3年時代の夫・誠筆)*************************************************************************《付記》2003年11月8日の誠、日記再読所感☆大根役者の回想 (以下、後刻執筆予定) ※参考事項★1950(S25)年の大きな動き★ 国内…朝鮮戦争勃発で産業界は特需景気で潤う(通年) 国鉄初の湘南型電車が東京・沼津間に登場。通勤圏加入の静岡県東部に脚光(3月) 金閣寺が修行僧の放火により焼失(7月) マッカーサーが警察予備隊の創設と海上保安庁の増員を指令(7月) 報道機関で、共産主義者追放のレッドパージ始まる(7月) 世界…米国内で、共産主義者を締め出す通称「マッカーシー旋風」が荒れる(通年) 北朝鮮軍が38度線を突破、朝鮮戦争始まる(6月)★1951(S26)年の大きな動き★ 国内…米屋の民営や、銀座の街灯106本が復活(4月) 桜木町駅で国電が出火。死者106人を出す(4月) 政府が財閥解体完了を発表(7月) 繊維相場が暴落(7月) 日本航空の設立(7月) サンフランシスコ対日平和条約・日米安保条約に調印(9月) 世界…英国が鉄鋼業の国有化を実施(2月) インドのネール首相が国内の外国植民地返還を要求(10月) イギリス・エジプト両軍がスエズで衝突(10月) 欧州の戦後復興を支えたマーシャルプランが援助総額120億㌦で終了(12月)
2003年11月08日
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1966(S41)年12月4日(日)曇のち晴 ★預金勧誘余話&愛鷹山麓家族ドライブ 日曜日ながら、今朝も又『スーパーM』へ行き親父さん(オーナー社長)と会う。 用件は、昨日の日記に書いた問題の満期預金の移し変え話。これで6回目の再勧誘訪問だった。 親父さんは、連日顔を見せながら良い返事が出せない私に、気の毒そうな顔をしながら、「君のようにネバリのある男を私は使ってみたい。どうだ、『スーパーM』で働かないか? SG 銀行では君のような積極性のある男は出る釘のように打たれてしまい、思うように伸びれんだろうが…。その点、ウチのような商売では、君のソウシタ性格こそ必要だ」。と、お世辞半分とも取れる誘い話をして私を持ち上げてくれる。 でもコレ、確か残り半分ぐらいは本気だったかな? まあ仮にそうだとしても、コチトラとしてみれば昔と違い女房・子供も居ることだし、それなりの転職メリットがある確たる条件や所得の保証がなければ、左から右に軽々しく移る訳にもいかないよなぁ…。 勿論、私も自分の能力をフルに生かすには、『スーパーM』の方が良いと心が動いたし、三島進出にしても大いに興味があり勝算もある事は確かだ。 でも、だからと言って今までSG 銀行での11年というキャリアを、総てフイにしなければならないと言う事は容易ではないだよね。ハイ !! さて、ソンナコンナの野暮用でコノ日曜日も半日が半公用で消えちゃったんだけど、午後から幸の両親共々家中三世代揃って、愛鷹山の須津渓谷へ家族ドライブに出かけた。 大棚の滝の眺めの何と見事だった事。流れの畔でオニギリを頬張り喜ぶ子供達。こうした一時こそ、親となって一段と責任を感じる今日この頃の私達にとって、何物にも換えがたい幸福感と言うべきであろう。 途中から、運動の為にと愛車を乗り捨てて更に上流へ登ったが、一菜(カズナ)も二美(ツグミ)も実に良く歩いた。 帰路、丁度沿道で蜜柑狩をしていた土地のお百姓さんから、採りたての蜜柑を買って食べた。甘酸っぱい秋の味覚がサッと口一杯に広がる。 午後4時過ぎ、山麓の本行創業の地近くにあるO家の墓地に立ち寄り、亡き前頭取の墓前に香華を捧げ帰宅する。 (夫・誠筆) *************************************************************************《付記》2003年11月7日の誠、日記再読所感☆預金勧誘余話&愛鷹山麓家族ドライブ 仲間達の多くが在職中に悩まされ続けた預金勧誘や職場試験に纏わる裏話は、時効解禁との思いで昨日の日記に紹介した通りだ。 また、そのオマケの転職話については、それほど別に分かりにくい話でもないので改めて解説は必要なかろう。 唯、そんな話もあったっけなぁとコチトラも昔懐かしく読み直した次第。 そして、あの時、もし『スーパーM』に転職していたらどうだったろう等と空想もしてみた。 今では、県下でも業界トップクラスにまで成長した『スーパーM』だ。しかしやはりここに至るまでは同族企業の典型の一つ。決して良い結果になったとばかりは思えなかった。 なぜなら、あの親父さんも社長から会長に祭り上げられて後、長い闘病生活を経て他界。更に後を継いで社長となった私より二年上のご長男も、後を追うようにして他界。今は、末娘と結婚した婿養子さんが社長となっていると聞く。 本当は、親父さんの次男で私の親友だったYさんが社長になっても可笑しくないと思われたのに、大分前に傍系会社の社長を定年退職。今彼はオーディオに凝って悠々自適の身とか…。 ともあれ、その後の社会情勢の変化は、夫婦揃って生涯の親友と思って付き合っていたソノYさん一家との間にも、何となく冷風が吹き今は時折顔を合わせて挨拶を交わす程度だ。 実は先日、傍系会社である家電スーパー『Y電機』のK支店の店頭で支店長をしていた彼の長男のMちゃんと久々に出会った。 子供の頃に良く我家に来て娘たちと仲良く遊んでいた事も良く覚えていたが、容貌がスッカリ変り名刺を貰うまで判らず驚いた。 このY電機は、当初彼の父親であり私の親友だったYさんが創めた会社なので、サゾ居心地が良いだろうと思ったが、話を聞いてみると会社が大きくなり過ぎて、そうした縁故人事は通用しなくなっている様子。 同族経営銀行の中枢に仕えた事で、実に後味の悪い辛酸を舐めさせられた私だ。 それゆえ、それはそれで良い変化なのかなぁと思いながらも、そうした世の中の移り変わりを目の当たりにすると、改めて人の運命の侭ならなさを感じさせられる「今・誠」である。 そうそう、うっかり書き忘れるところだったけど、須津渓谷へのドライブ。大分昔で既に記憶も朧だが、良かったようだなぁ。 そろそろ紅葉も見頃。昨日は私が病院通いをしていた留守に一菜が幸を誘い出し、箱根の小湧園まで昼飯を食べながらドライブして来たそうだが、紅葉が実に見事だったとか。 須津渓谷の紅葉は多分これからだろうし、久々幸と出かけてみようかなぁ…。 ※参考事項★1966(S41)年の大きな動き★ 国内…国債発行による景気上昇の反面、消費者物価問題が深刻化。(通年) 航空機事故相次ぐ。下記4事故死者計371人(通年) 全日空機東京湾墜落(2月) カナダ航空機羽田空港着陸失敗(3月) 英BOAC機富士山上空で空中分解(3月) 全日空YS11型機松山空港で墜落(11月) 世界…英国のビートルズが音楽で世界の寵児に(通年) 中国で文化大革命(通年)(通年) 中国で文化大革命(通年) (以下、後刻執筆予定) ※参考事項★1966(S41)年の大きな動き★ 国内…国債発行による景気上昇の反面、消費者物価問題が深刻化。(通年) 航空機事故相次ぐ。下記4事故死者計371人(通年) 全日空機東京湾墜落(2月) カナダ航空機羽田空港着陸失敗(3月) 英BOAC機富士山上空で空中分解(3月) 全日空YS11型機松山空港で墜落(11月) 世界…英国のビートルズが音楽で世界の寵児に(通年) 中国で文化大革命(通年)(通年) 中国で文化大革命(通年)
2003年11月07日
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1966(S41)年12月3日(土)晴 ★H支店長とのバーター取引に問題発生 預金勧誘のため、今日で5回目の『スーパーM』訪問。 土曜日だから夜8時頃に出かけて、親父さん(オーナー社長)をつかまえる。 実は、文屋に原子物理学のテストを強制するような理不尽な事務規定試験の問題を、毎月ソッと教えて貰う交換条件として、入行当時一緒に机を並べていた仲間である市内K支店のH支店長と、『スーパーM』から預金を導入してやるバーター取引的な暗黙の盟約を交わした為である。 ところが今回の当行の役職者異動で頭取の弟さんであるKさんが営業部長となった為、チョット弱った事になってしまった。 つまり、元々『スーパーM』の主取引先である営業部の預金を同じ市内のK支店に移すと言うだけでも、新部長がKさんとなって事が面倒となった。 それが更に、ライバルであるSZ銀行から世話された土地を買って進出する筈だった『スーパーM』の三島支店用地を、Kさんの世話でヨリ立地条件が理想的な当行所有の土地と変更(交換?)するいうヤヤコシイ経緯が生じたのである。 また勿論そのために必要となる『スーパーM』への融資も、これから新営業部長のKさんに頼もうと言うヨリ複雑な事情も絡んでいると言う訳だ。 元より新営業部長のKさんには何の恨みも無い私だ。いやそれ以上に故H前頭取に相似た人柄の親しみさえ感じる弟君のKさんでもある。 しかし、だからと言って私自身としても今更H支店長との密約をスッポカシタのでは男が廃(スタ)れる。又、試験問題の入手も以後スムースに行かなくなろう。 とにかく頭の痛い問題が発生したものだ。 まあ他を当たってアテも無い訳でもない。だが、私に対する新頭取の仕打ちが如何にせん我慢ならないので、できる事なら実質預金の増加にならない当行取引先の預金の移しかえという彌縫(ビホウ)策を選びたいのである。 私にも意地がある。これだけ道に逆らった事をされれば、誰が本気で銀行の利益に結びつくような勧誘をするものか。 私の給与分の働きは、私の人生計画の中で思わぬ道草を食わざるを得なくなった、故頭取・故会長と相次ぐ追悼録編纂の実務を一人でやらされている事だけで、既に十分と言えよう。 魚ごころあれば水ごころ(前頭取と私) 目には目を、歯には歯を(現頭取と私) まあ、何れにせよH支店長との約束だけは守らねばなるまい。 今後の事よりも、コレマデの好意に対してもと言う意味で、何とか既定の方針で実現したい。(夫・誠筆)*************************************************************************《付記》2003年11月6日の誠、日記再読所感☆H支店長とのバーター取引に問題発生 こういう裏話的なヤヤコシイ話は 同時代の同僚同士ならツーカーだが、時代を越えた一般の方々にも分かるような説明となると何とも解説が厄介だ。したがって支店長(H)と私(W)の間のバーター取引的盟約は、各自の素養に任せ適当に理解いただく事として、より以上の説明は避けよう。 しかし、H支店長と私との間に何故こうした奇妙な盟約がされる事になったかという背景だけは説明しておくべきだろう。 確かK支店を所用で訪れた折、久々に顔を会わせたH支店長と別室でこんな近況を打ち明け合ったものだったと思う。W「何だか偉くなっちゃって、声を掛けるのも遠慮したくなっちゃうなぁ。ハハハ」。H「いやぁ、あんたの方が余程イイじぁない。 何せ本部勤めで預金のノルマが無いんだから…」。W「まあ、他所の芝生は緑に見えるのが常。 そうでもないよ、何せ近頃は勝手に文屋にしたオイラまで、試験・試験なんだから…」。H「ああ、あんたの様な人にまで、朝礼暮改の業務問題を押し付けるのは無理だ。 分かる分かる」。W「本当に近頃は、お互い酷な事ばかり押し付けられ困るよねぇ。 出来るものなら、無理な試験やノルマのない所へ鞍替えしたいなぁ」。H「全くそうだ。 こちらも毎々の無茶な預金割当を何とか無理して消化してきたが、モウうんざりだよ !!」 どうだ若水さん。困った者同士でバーター取引しないかね」。W「え、なにか妙案があるのはてな?」H「うん、余り褒められた話じゃないが、我々だけの盟約として腹芸ができるなら無くはない」。W「私で出できる事なら何なりと…。ギブ&テイクで行きましょう。 話してみてよ、仮に私で無理だとしても、此処で話した事は秘密って約束でどうぞ…」。W「うん、実はソノ事務規定試験の問題を作る委員の一人にされちゃってるんさ。 だから、その問題を事前にソッと渡す事にしようじゃない。 その代わりあんたが営業部時代から一手引き受けみたいな得意先だった『スーパーM』。 アソコの預金の一部でもウチの支店に回してくれるよう頼んでくれないかね。 確か、社長の次男がアンタの親友だったよね。 この期末前に満期になる纏った定期預金があれば、それを一旦解約。 現金で預け変えれば、本支店間でも新規預金として計上できるものね」 …とまあ、こんな具合な取引が裏で進んだように思う。 あれから早くも37年。確かW大出で私より二年ほど先輩だったが、打ち明けて話せる数少ない仲間って感じだった。 定年退職後に会計事務所を開こうとして努力している由のHさんだったが、今、どうされているのかなぁ…。
2003年11月06日
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1966(S41)年12月2日(金)晴 ★「質より量の時代」 今日は、また寒いこと。 さして強い風ではないのに、その冷たさといったら身を切るほど。 どこか近くで雪が降って、それで風が冷やされたように冷たい。 富士山は真っ白だ。 一菜(カズナ)のタイツを求めるため、少し大袈裟な言い方だけど、目ぼしい店を5、6軒も歩き回る。 これはと思うと900円。最低2足はほしいところ、こんな高い値段では買い切れない。とうとう、以前から目をつけていたホテイヤの380円の物にした。 メーカー品でないところが少々気になるが、来春まで長期にわたって取り扱うと言うことなので、そんなに悪い品なら長く売り出す事は出来ないと思う。 それに丁度そばにいたお年寄りが、「前に買ったのだけれど、具合が良いのでまた買いに来た」と言うのを聞いて決めた。 どうせ、幼稚園でのお遊びが激しいので、たとえ一冬しか持たなくても380円なら腹も立たないだろう。 とにかく「質よりも量の時代」なんだから…。 (妻・幸筆)*************************************************************************《付記》2003年11月5日の誠、日記再読所感☆「質より量の時代」「質より量の時代」か。 そう言えば、アノ頃に良くやってたチョコレートか何かのCMに、「大きい事は好い事だ !!」と言うのが有ったっけなぁ。 とにかく自己主張の強い指揮者で、山本直純とかいったモサイ姿の髭親父だった。 …が、近ごろ久しく見んナァと思って先ほど幸に話したら、「何言ってんの、とっくにモウ亡くなったじゃない」、てな話…。 でも、とにかくアクの強いアノ男の事。まあ彼岸に旅立っても、存在感示しに時々顔を見せそうな感じだなぁ。(ハハハ) ところで、相変わらずウチの幸ちゃんは小まめに比較買いして、堅実な若奥様ぶりを発揮していたらしい。 900円のブランド品のタイツは、380円の安物と比べ2.37倍もしてたんだ。仮に半分しか持たなくても、2足あったほうが交互に洗濯して清潔なものを着せてやれるし、その方が賢明だったとオイラも思うよ。 まあ「安物買いの銭失い」って諺もあるけど、その点も丁度近くに居たお年寄りの体験談が聞け、躊躇いもフッ消せ良かったじゃない。 でもコンナ話。今の借金しまくってまでブランド物を買い漁る現代女性達には、馬鹿みたいに聞こえるだろう。 唯そういう人こそ本当は、人生の冬の時代に備えて勤倹貯蓄の習慣を身に付けんとアカンのかもね…???
2003年11月05日
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♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪《前書き》「古い日記のページには…♪」と題し、今年3月3日の桃の節句から書き始めた本シリーズの連載も、早二百余回となりました。 若い頃に文字通り乱文乱筆で書き殴ったコノ日記。今読み直すと、自分自身でさえ読み難く意味不明な部分が多い事に呆れる。 それゆえ、コノ「楽天HR」の日記ネタにしながら少しづつでも分かりやすくリライトを進めておけば、自分が彼岸に旅立ってのち誰か興味を示す縁者や知己等が出現するやも知れずと、一石二鳥を考えた訳だ。 まあ、ソンナ風に極めて私的な目的で開始したのが本シリーズだった。ところが予想外に多数の方々にご愛読いただき、未だ些かの戸惑いを感じながらも、何はともあれ心より感謝申し上げたい。《整理番号訂正のお知らせ》 実は、この「古い日記」シリーズの首題に付した整理番号に大分前から何箇所も誤記があったものの、それに気付かず今日になってしまいました。その誤りは、次の如くです。《誤記部分一覧》 楽天日記記載日 古い日記記載日 旧記番号→新記番号〔誤記数⇒-1〕 自 2003年 5月24日 1966年 3月17日 No. 68 → 第 67回至 2003年 8月05日 1966年 7月 6日 No.124 → 第123回〔誤記数⇒-3〕 自 2003年 5月24日 1966年 7月 7日 No.127 → 第124回至 2003年 5月24日 1966年 7月24日 No.136 → 第133回〔誤記数⇒-2〕 自 2003年 5月24日 1966年 7月25日 No.136 → 第134回至 2003年 5月24日 1966年11月30日 No.215 → 第213回 (以 上) 尚、上記の既掲出分訂正は後日作業とし、先ずは本日分より正しい番号で表示する事とします。 又その結果、既掲出分と今後の掲出分とで一部番号が重複し索引が紛らわしくなる為、以後は記番号の表示法を従来の《♪No.216》から、今後《第216回》とする下記例示の如く変更表示して区別したい。よろしくご了承の程を…。〔例〕☆正規表示首題(整理番号修正後分)4日の日記 古い日記…第216回「幼児対象に私塾経営でも…(1966.12.1《♂34♀31》)」 ↑ ↑ ↑ ↑ ↑ ★誤記表示首題(整理番号未修正分)4日の日記 古い日記…♪No.216「幼児対象に私塾経営でも…(1966.12.1《♂34♀31》)」♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪ 1966(S41)年12月1日(木)晴 ★「瓢箪から駒」、又々パパのカッポレ構想 サテサテ幸ちゃん、またパパのカッポレ構想と笑われるかもしれないが、今日の夕餉の話題の延長として聞いてもらえればと思う。 そもそも話の発端は向かいのSさんの奥さんから、一菜(カズナ)と二美(ツグミ)の遊び友達でもある愛娘のKちゃんとNちゃんに、英語その他を教えてもらえないかと頼まれた事に始まる。 で、私も大賛成。我家の子供たちの教育にも仲間があればプラスになろうと言うものだし、外で幸が働くとなれば子供たちが犠牲になりやすいのだから一石二鳥以上の得策と言うべきである。 そこで一歩進んだ考えとして、「千本英育塾」という名で組織的な事業としてやってみてはどうだろう。 英語・国語・算数等々…、適宜織り交ぜて年少者教育を目的とした熟を開くのである。 勿論そのためには、将来適当な先生を外から引っ張ってくる必要もあろうかと思う。 私達夫婦がカバーできない点は理数科関係だが、まあ幼児教育程度なら共々教職課程である程度のコツは分かっているのだから、親たちの期待にも応えられるのではなかろうか。 但し、この言葉は私が決して幼児教育を軽くみての発言ではない事だけは知っておいてほしい。 否むしろ、私のこうした構想は、幼児教育の如何に大切かを思えばこそなのだと言いたいのである。 たのんまっせ、我家の、おはなはん !! (夫・誠筆)*************************************************************************《付記》2003年11月4日の誠、日記再読所感☆「瓢箪から駒」」、又々パパのカッポレ構想 この問題は下記表題で先日も触れたばかりとあって、重ねての所感は必要あるまい。 お手数ながら、「日記一覧」をクリックして下記の一文を併読され、ヨリご理解を…と期待したい。◎10月30日(木)『30日の日記 古い日記…♪No.211「我が子の英語教育について(1966.11.25&26《♂34♀31》)」』 ※1.この部分は何れリンクで飛ばせるよう表示し直したい部分だ。不勉強で横着者の筆者とあって暫時お見逃しを…(トホホ)※2.文末の「たのんまっせ、我家の、おはなはん !!」の《おはなはん》は、当時人気のNHK朝の連続大河ドラマ『おはなはん』に事寄せたもの。 *************************************************************************
2003年11月04日
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1966(S41)年11月30日(水)雨のち曇 ★出発早々車がパンク !! 家族揃ってテンテコ舞い 雨のため気温はヤヤ高め。 出かける早々、パンクしてしまい、慌ててパパは歩いて出勤。 その為、二美(サグミ)を背負い、一菜(イチナ)を見送りに行く。 ウムを言わせず、途中の赤門宅(幸の実家)に置いてけぼりを食わされた二美は、 オヘソを曲げてオバアサンを困らせる。 今朝のテンテコ舞いの一席。 (妻・幸筆)*************************************************************************《付記》2003年11月30日の誠、日記再読所感☆出発早々車がパンク !! 家族揃ってテンテコ舞い こんなドタバタ喜劇みたいな朝も有ったんだ。 何が何だか判らずに「ポイッ !!」とママにオイテキボリを喰らい、大泣きしている二美の顔が何だか見えるようだなぁ…。 それにしても、この日の記録は短文過ぎて扱いにくかった。 余程、次の日の記録と併載しようかと思ったが、月改まっての記録だし、内容的にも単独で紹介したいので止めた。 まあ、ランダム読みの方々には丁度良い長さかも知れないし、時にはコンナ記録もあって良いのかもね…。
2003年11月03日
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1966(S41)年11月29日(火)晴ときどき小雨 ★静岡出張ほか(県知事取材、発注先はT印刷に…、旧友Hとの再会)§1.県知事取材 昨日はS静岡県知事から当行故会長OK翁の追悼談を伺い代筆するようにとの下命で、県庁へ出張した。 Y静岡事務所長と同次長共々に知事と面談したが、お二方ともスッカリ上がってしまって、私が準備して渡しておいた資料に基き質問するのがヤット。こんな紋切り型の応答だけでは些かなりと読み応えのある記事にしたいと思っても、何処をドウに膨らませたものかと思うこと頻り。 取材が終わって銀行に帰りついても、お二方共々未だ頬が朱に染まって冷めやらぬ有様。 こんな肝っ玉の小さい人たちが対外折衝の要職にあるとはと、正直言って当行の成績が振るわないのも無理ないワイと思った。 尤も、ご両人とも人間的にはゴク気の良い人達。一息ついたら、ホッとしたらしく、頭取の気狂い経営振りをサンザン酷評。「とにかく、やりにくい事やりにくい事…」とコボす頻りだった。 まあソンナ訳で、今日は一日中ソノ取材記事の取り纏め作業に追われる。§2.発注先はT印刷に… ところで、『前頭取追悼録』の発注先は東京のD印刷だったが、続く『会長追悼録』の発注先は地元のT印刷に決まった。 これに伴い、『前頭取追悼録』に使うため特漉きさせたが、その後に頭取から部数削減を指示され大量に余った印刷用紙を、コノ『会長追悼録』の一部に転用する事となる。 だが、その用紙は、続いて『会長追悼録』の発注も自社に…との期待からD印刷で保管中なので、T印刷への託送を横浜のS運送と契約する。 そこで頭が痛いのは、その引渡し依頼をD印刷へ指示する電話を架けなければならないと言う事である。 なにせD印刷としては、随分と『前頭取追悼録』の仕事で犠牲を払わされたと思っているであろう。なのに、見積もり参加も許されなかったと知ったらサゾや立腹する事だろう。 私としては、入札だけでも参加させてやりたい気持ちだが、敢えてソレを主張すれば、人を信じる事を知らない頭取・副頭取だ。コチラが無い腹を探られるだけだからヤメタ。 本当は、東京支店とD印刷はギブ&テイクの取引先の筈。銀行の経営政策上から考えたら、こんな木に鼻を括るような事をするのは、如何に金融優位の時代とは言えマイナス面も大きいだろうに…。D印刷側にだって業界一のプライドがあろうし、カチンと来るに違いない。 まあ、コチトラは一兵卆。物言えば唇寒き昨今であるから、ひたすら沈黙を守る事としよう。§3.旧友Hとの再会 大学時代の親友・HK君と昨日静岡で久しぶりに会う。 C音響メーカーに就職している彼だが、転勤して約1ケ月程になろうか…。まだ西も東も分からぬ程だが、小田原時代の方が暢気で良かったと彼氏は頻りにコボしていた。 ゆっくり夕食でも共にしたいと思ったが、自動車の運転免許取得のために目下通学中との事であった。 そんな訳で、再会を約して私も早々に引き上げてきた。(夫・誠筆)*************************************************************************《付記》2003年11月日の誠、日記再読所感☆静岡出張ほか(県知事取材、発注先はT印刷に…、旧友Hとの再会)§1.県知事取材 その折に取材しS静岡県知事名で取り纏めた故会長追悼文を37年ぶりに取り出し読み直してみた。 その中に、こんな一節があった。 それからもう一つ、翁が偉かったところは人をよくみる人であったと言う事である。とかく現代では余りにも組織に頼りすぎて機械的にのみ人間を判断しがちであるが、これではあたら有意な人を没にしてしまうこともある。その点翁はこの人は大丈夫だと思うと、たとえそれまでの成績が悪くても思い切って拾い上げた。これによってその事業や人が活きかえってくる。まあそれだけ翁のカンが冴えていたというか、経験が豊かだったと言う事にもなろう。とにかく自分に訴えてくる人たちを翁はよく援けられた。窮鳥懐(フトコロ)に入るのたとえのごとく人を信頼して事業を興させたのである。例えば富士郡ありの製紙などの今日あるは、こうした翁の力添えによるものが多いと思われるが、換言すればS銀行自体もこれによってその地盤を築いたとも言いうるのではないだろうか。 まあ、こう言ったクダリである。 私は当時こんな纏め方しかできなかったのかとも思うが、その内容は今こそ噛み締めべき金言とも思う。 §2.発注先はT印刷に… この意表を突いたドンデン返しとも言える発注先決定の裏側で何がどう動いた結果か、凡その見当は付く。だが時過ぎた今、それを語ってみても人の世の浅ましさが胸に染みるばかり。 唯、せめて形だけでも見積もりにD印刷を参加させることができていたら、こんな寝覚めの悪そうな書き方はしなかっただろうにと思う「今・誠」だ。§3.旧友Hとの再会 旧友Hとは卒業後、C音響メーカーの小田原営業所時代には時々家族共々遊んだ事が二三度あった。 だが静岡に移ってからは、このあと会ったのは確か一度だけだったと思う。 その時に彼は既にサラリーマン生活に半ば見切りをつけていたようであった。 と言うのは、飲み友達数人と語らって、夜は水商売の共同経営に励んでいるようであったから…。 その後、ボヤイテいたC音響メーカーをサッサと中途退職。 東京で仲間と起こしたビル管理会社を軌道に乗せ、いつかその社長に納まったというナカナカのヤリ手に成長していった。 しかし最近サスガに寄る歳波を感じたのか、たしか子息に後を任せ引退したとの挨拶状が届いた。 企業や組織の大小に関りなく、人はトップの座に付くと椅子を手放しがたく思えてくるのが通例。 中曽根元総理や道路公団の藤井前総裁の、職を辞するまでの大騒ぎを見苦しく思う「今・誠」だけに、古稀を迎えての彼の辞任決断に心密かに拍手を贈りたい私だ。
2003年11月02日
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1966(S41)年11月28日(月)晴 ★母と出掛けた安売食用油の買物所感など… 宇宙中継の放送があるというので、珍しくパパが目を覚ます。 一回目の宇宙中継の時には、思いがけずケネディー大統領の暗殺事件が電波に乗り、驚かされた事を思い出すが、その時より一段と鮮明になった画像に、科学時代の有りがたさを感じた。 市価350円のテンプラ油が、ホテイヤで260円で安売りしていると言うので買いに行く。しかし往復バスに乗ったのでは300円になってしまうから、往きは歩くことにした。 二美を連れて行くのでラチが明かず、その上オバアサンに二つも一升缶を持ってもらうのだから大変。「全く、安いものを手に入れるのには苦労するわね」と大笑い。 でも、何だかスゴ~ク節約できた感じ。ソノ上、母と一緒に久々の散歩も出来たのだから、疲れたけれど何だかトッテモ好い気分。 パパは静岡に出張。 お友達と会ってくるというので、多分9時過ぎに帰宅するだろうと思っていたところ、7時半には御帰館。 パパのオミヤゲの安倍川餅に二美(ツグミ)は大喜び。 一菜(カズナ)姉ちゃんは余程疲れたのか、7時前にオヤスミ。(妻・幸筆)*************************************************************************《付記》2003年11月1日の誠、日記再読所感☆母と出掛けた安売食用油の買物所感など… 近頃は『NHKのど自慢』も世界各地で開催され、恰も当然の事として衛星で同時中継されている。 それどころか、アポロが成し遂げた人類の月世界到着の瞬間や、更に遠い惑星の裏側やソノ衛星の模様まで瞬時に放映される時代となった。思えば人間達が、愚劣で醜い争いに新たな科学技術を開発駆使しようと狂奔している間に、人類はソノ新技術を転用して宇宙開発や電子工学など未だ夢と思われていた壮大なロマンを次々と結実させるに至った。 それゆえ「昔・幸」同様に、その後の推移をも知る「今・誠」もソノ有難味を痛感している次第。 だが、そうは言っても所詮、人間と言う動物はアダムとイヴの昔から、そんな相矛盾した二面性を持って生まれてきたものかもしれない。 最近の内外の荒々しい動きを思う時、そのマイナス面を強く持つ者たちが今、内外の指導者達の中で主流を成しつつあるように見える。 だが、その流れが行き着く先は、人類の歴史が繰り返してきた愚かな争いを限りなく繰り返すだけの事。 もうソロソロそれを克服し、共に譲り合い相携えあって生きる以外、真の人類の繁栄への道はないと言う事に目覚めべきではないだろうか。 さて、そんな人類の壮大なロマンを話題として入った今日の日記だが、話は一転、バーゲンのテンプラ油を買いに行き百円足らずの差額を節約しようという、これはマタ何とも世知辛い話題となっている。 でも、それこそがコチトラを初めとするヨリ多くの庶民が直面している切実なる現実。この涙ぐましき、我がカミサンの努力を、徒(アダ)やおろかに聞き流しては罰が当たろうというもの…。 ソレなればこそ今ここに何とか安らぎの老後を得ているものと、襟を正して再読させてもらいましたです。ハイ !! それにしても、食い気盛りの二美と、眠気盛りの一菜の可愛い姿で締め括るとは、筆者の今日の記事は又なかなか上手い纏めだなぁ…。
2003年11月01日
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