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1967(S42)年2月11日(土)雨 ★漸く新調した背広への思い… 初の建国記念日。 賛否両論あれども、我々にとっては一日休日が増えたのが嬉しい。 念願のパパの背広を買いに行く。何しろ限られた懐(フトコロ)なので、良いものは変えないけれど、適当な値段で体にピッタリとフィットしたものが有って良かった。 それに例の如きネバリで、ネクタイ一本をサービスさせたのは天晴(アッパ)れ。 この日記を付けているそばで、その手腕をもって範とすべし等と、誰かさんは息巻いている最中。 とにかく、如何に安物とは言え、大事にして欲しい。 今度は肥満体用だから、安心して太れる事も、念の為つけ加えておくこととする。(妻・幸筆) *************************************************************************《付記》2003年12月31日の誠、日記再読所感☆漸く新調した背広への思い… この建国記念日の新設に当っては、賛否両論交々あって、実のところ私達共々余り好ましい決め方とは思えなかったものであった。 だってソウだろう。この新しい日本は敗戦で一度滅んでしまったんだ。 その反省もなく、戦前の紀元節をソノママ看板を張り替えるようにして「建国記念日」だなんて何故するんだろう。 強いて建国記念日を設けるなら、ソレは国民あげて「二度と戦争は致しません」と、一銭五厘の葉書一枚で犬死させられた幾多先人たちに誓うべき日。即ち8月15日の終戦記念日にすべきだと思ったものだ。 結局、強引にコノ時コノ記念日を決めたような反省のない連中に引きずられ、日本は今イラクへ憲法違反を承知で派兵せざるを得ない破目に立ち至ったって感じもする「今・誠」だ。 所詮、戦争の悲惨さを身を持って味わった者でない世代の首相の選択で、良かれ悪しかれ実際に戦火を潜り抜け直接大なる被害を受けた我々とは、物の考え方や処し方が基本的に異なる人々なのだ。 今コノ国を操っている人々が出した結論に対する創造主の判断は、多分私達が彼岸に旅立った後となろう。しかしこれだけは、裏切られ続けた感じの自民党への意地を棄てても、二世三世達の為に破局の時は迎えさせたくないものだ。 サテ、斯く身中の蟠(ワダカマ)りの一端を披瀝したところで、話を本筋に戻す事としよう。 まあコノ建国記念日の問題は、ソノ妥当性は兎も角として予定外の休日が増えた事で、コウして心行くまで背広も選ぶことが出来たし値切れたのだから、単に有給休暇が増えたとでも思い嬉しい事にしておこう。 それにしても、相変わらずウチの幸さんの口の悪さには、「ワシャカナワンよ !!」である。 「今度は肥満体用だから、安心して太れる事も、念の為つけ加えておくこととする。」とは、何とも皮肉たっぷりだよなぁ。 思えはコノ頃から中年太りが始まっていたのかと、ツクヅク回想させられた「今・誠」であった。※参考事項(ウェブ検索文)「建国記念日」 建国記念日(2月11日)は、戦前は紀元節と言いまして、明治5年(1872)に政府が定めた神武天皇即位の日です。歴史的根拠は全くないんですが、天皇国家の正当性を示す祝日として定着…。
2003年12月31日
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1967(S42)年2月10日(金)雨 ★「成田・潮来水郷案」VS「雪の日光の朝を楽しむ案」 何となく気だるい宿直(トマリ)明けの一日であった。昨日からの雨は今日もまだ降り続いている。 朝、テレビのニュース・ショーが東京の雪景色を伝えていたが、一菜(カズナ)も今日は幼稚園の遠足で、赤門のオジイチャンが付き添ってのスキー場行だった。 初めて雪に覆われた山野を見て凄い興奮を示していたと言う。 お菓子やお弁当を食べる時間も惜しがって、ひたすら橇(ソリ)遊びに興じていた姿が目に見えるようである。 ところで「雪」と言えば、今日はもう一つの話題がある。 それは庶務部の旅行についてだが、「雪の日光の朝を楽しむ案」と言うのが「成田・潮来水郷案」を圧し、部内回覧板に捺印された数で第1位となった。 尤も、「成田・潮来水郷案」の支持者の中心が、近ごろ相次いでマイカーを初入手した課長連で、愛車に付ける成田山のお守り欲しさが半分らしいというのが平部員間での定評。 これに対する「雪の日光の朝を楽しむ案」は逆に若い人達、特に女性が多く、この対照性が些か気になる。 と言うのは、この力関係の強弱を良い事に、例の如く課長連が自分達の職権を悪用。投票の結果を無視して強引に「日光案」を押し潰そうという動きがあるからだ。 現に夕方になって、その筆頭と目される通信課長のM氏が私の所へ現れ、暗に握り潰しを仄(ホノ)めかしていった。 理由は、計画に無理があると言うのだが、「成田・水郷案」だって五十歩百歩。 それに何より、旅行積立金は一人三千円しかないと言うのに、倍の六千円近く掛かる成田一泊案は、予算を余りに無視しすぎているのではなかろうか…。 これに比べ「日光案」は、土曜日に各自が一旦帰宅後、十分に家で休んでから、夜汽車に揺られ日光へ向かう。現地ではタップリ8時間ほど観光でき、結構な日光の御来光や雪景色が味わえる。帰路は直通の座席指定急行で夕刻6時過ぎには沼津着と言うのが骨子。 とにかく、宿泊代が節約できるので、各自が追加徴収される出費は千円程度で済むというのがミソだ。 私としては、日光へ行きたいと言う女子行員の要望を是非実現させてやりたいと思うが、この車中泊修正案を自分が発案した関係から、これ以上とやかくは言わないつもりだ。 しかし、ヨリ多くの部員がコノ案の詳細を知った上で賛同したという事実を、一握りの課長達の独断で簡単に一蹴したり、各自に圧力を加え初志を変更させようなどといった事は勿論有ってはなるまい。 誇り高きS銀行の役職者なら、その程度の良識は持っていて当然だろうし…。 とにかく、ここは相手の出方をジッと待とう。 そして万一、彼らが常々悪用している多数決制を無視するような態度に出たら、以後の旅行会費は不払いと言うことにしよう。 当部では課長連だからと言って会費を多く払ってくれている訳でもなし、全部員が同等の権利を主張すべきだと思う。 それでなくても今まで権力をチラつかせ多数決制を手玉に取り、自分達の思うがままに牛耳って、旅行の度に不参加者から千円以上の金を巻上げていた課長連だ。 行きたくなければ、今度は自分達が千円を罰金としてアッサリ棄て、不参加者側に立つのも、良き反省の機会と思うが如何なものか。 まあ、余り憤慨して、折角の美しい雪への夢が溶け出してはいけないので、この辺で打ち切ろう。(夫・誠筆)*************************************************************************《付記》2003年12月30日の誠、日記再読所感☆「成田・潮来水郷案」VS「雪の日光の朝を楽しむ案」 今日復刻したコノ古い日記の中で「今・誠」が特に興味深く感じたのは、以下の三点だった。 (1) 一菜が初めて雪の山野へ遠足。 一菜にとって生まれて始めての雪山。その興奮ぶりに懐旧の情一入の「今・誠」である。 でもコノ気持、雪は降っても年数回。それも僅か数センチの積雪が精々といった暖国・沼津育ちの私達一家ゆえ…。 生まれながらの雪国の方々には、多分この気持は実感として判らないかもね。 (2) マイカー・ブームの到来を感じさせられた成田案。 確かコノ「日光案」の提案者の一人だった私に、それが部内で一番希望者が多かったからと言って、わざわざ嫌味を言いに来たM課長の大人気なさを改めて思い出しながら読み返した。 それにしても私は、何だカンだ頭に来ることも多かったが、予想外にマイカーが早く手に入った事だけは、一点豪華主義と陰口を叩かれながらも幸いだったと今も思う。 二女の股関節脱臼で、遠い駅北の病院通いに難渋していた折も折。走行距離が五千キロ程で当時まだ珍しかった冷房・トルコン付でメタリック・グリーンの「コロナ」を、ライバル社の東海日産が下取り。これを販売政策上から新車の半値程の破格値で売りに出している事を、カーマニアの親友Tちゃんが見つけ教えてくれた事がキッカケだった。 聞けば、西伊豆・堂ヶ島の料亭の女将がパトロンにオネダリして買わせた車だそうだ。だが、半年程で物足りなくなり、またオネダリを重ねてコレを下取りさせ、日産のセドリックに乗り換えたのだとか…。 まあ、そんな車歴はともあれ、中古車市場が今のように確立していなかった当時なればこそ、ライバル社の中古車価格を撹乱(カクラン)しようとの意図見え見えの、こうしたバカ値が付けられたものと言えよう。 そこでコレは買物。そう思い、配達用の車が足りない実家と購入費は折半、維持費は実家負担とする相乗り購入案を兄に提示。親父さんを説得してもらい漸く買う事が出来たコノ車が、曲がりなりにも我家のマイカー事始めとなった。 尤も、平行員の私がマイカー通勤しているとあって、このM課長を初めとする部課長連が色々ヤッカミ半分の蔭口を言い合っていた事は知っていた。でもソンナ事を余り気にせずにいられたのも、あれほどウマが有った前頭取の嗣子ながら、なんとしてもソリの合わない新頭取との確執を自覚。出世街道なんてクソ喰らえ。いざとなったら兄の片腕になって稼業に励もうと割り切っていた者の強みだった。 ともあれ、成田山のお札欲しさに職場の旅行まで我が意に合わさせようなんて、マイカーブームもココまできていたのかと改めて当時が偲ばれたものだ。 そう言えば、あの初めてのマイカー「コロナ」を手に入れた頃は、やたらと飾りたくなり、暇さえあれば磨きこんでいたものだった。だから、成田山のお札欲しさも分からないではない。でも、ソレとコレは別にしないと傍迷惑だしアンフェア過ぎる話。「昔・誠」が憤慨して何時もの倍も日記に殴り書きしている気持が伝わってきた。 (3) 次第に行員が楽しめなくなった職場旅行 前頭取が在世中だった入行の頃は、行員同士の意思疎通の為とあって、年二回の職場旅行は全額銀行持ち。上得意先の社長さんたちも同行し、旅行中は原則として無礼講。豪華な雰囲気の中、夫々隠し芸を披露しあったりして和気藹々そのものだった。それゆえ平行員も、皆、毎期の職場旅行を楽しみにしていて、喜んで参加したものである。 それが、前頭取急逝後ほどなく各部室店毎に職場旅行の為の旅行会名義の口座が設けられ、毎月一定額の積立を行員に強制、以後の懇親旅行はコノ積立金で賄われる事になった。 それでも確か始めは半額程度が銀行負担だったと記憶する。それが何時の間にかズルズルと全額負担となってしまった。 これは全て、「職場旅行は行員相互の親睦旅行なのだから、銀行が経費を負担するのはおかしい」。ソウ主張する I 副頭取の提唱で、彼氏が営業部長当時からの持論でもあった。 もとより従業員組合がコレに意義を唱えない筈はなかったが、何しろS土建社長の異名をもって仲間の経営者各位からも呼ばれる新頭取と、海千山千を持って知られる副頭取の甥叔父コンビだ。 組合幹部を脅したり賺したりして手懐け、組合員の手前もあり反対の格好ばかりさせて、力関係で止む無く呑まざるを得なかったような形にされてしまったようだ。 この事は後に、この新頭取が遣りたい放題をやリすぎ大蔵省に注意され弟さんや息子さんに頭取職を譲って後。何時の間にか素知らぬ顔して経営者側に寝返っていた元組合幹部の多くが束になり、人事部の傀儡(カイライ)としての第二組合を立ち上げ第一組合の解体を始めた事で、長きに亘った労使のイカサマ劇の舞台裏が私には判然としてきた。 時は丁度、国鉄労組の解体劇が始まる少し前であった。このため、今でも私は中央政界のボス達と親交を結んでいた新頭取が、この解体劇の筋書きを事前に察知。既に我が国の三権分立は建て前のみ。司法そのものが内部崩壊してきていて労働法など有って無きが如きものと悟った上で、強引に第二組合を立ち上げ実質的な労組解体を実行し始めたもの。そう理解できた。 オヤオヤ、職員旅行の変遷を語ろうとするうちに、話が何時か又々大きく脱線してしまった感じである。 話を原点に戻そう。 何れにせよ、全額自己負担となった職場旅行は急速に人気が落ちた。まして旅の目的地まで上層部の恣意に左右されがちとなり、不参加者が増えると、罰金まで取られるようなったが、それでも毎回不参加者が多く出た。昔は病気等でもなければ欠席する者なんか皆無に等しかったのにだ…。 大体私に言わせれば、こうした旅行は本来全額職場負担でも、一般行員にとって本心では不愉快な場合が多いもの。いかに無礼講が原則と言われても、実体は上司の御機嫌とり競争のようになりやすい。男子行員は、トックリやビールを抱えてペコペコ歩き回り、女子行員は女子行員で、コンパニオン代わりに注がされたりダンスのお相手をされたり、酷い時にはHも辞さずといった札付きの上司もいて、最後は乱痴気騒ぎとなる事もあった。 そんな強制された不愉快な旅のために、自分達の積立金を使われた上、不足分を更に倍も足し払いさせられるとあって、私も罰金を取られる方がまだ出費が助かると欠席したものだった。今考えても、何か割り切れない話だ。 尤も、この話の結果がどうなったかは今思い出せない私だ。 いずれ後日の日記の中で何か書かれているかもしれないが、職場の旅行としては、日光も水郷も行った覚えがない。 しかし何事も強引なM課長の事だ。多分最後まで無反省で押し切られ、罰金として積立金没収は余儀なくされただろう。 まあ仕事も超繁忙の折とて、実のところ旅行どころではなく、不参加の良い口実にもなる筈。 この不愉快極まる「成田・潮来旅行」をオミットしたのではなかったかとも思う。(トホホ)
2003年12月30日
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1967(S42)年2月9日(木)雨 ★切り詰めた晩のオカズに思い交々 駿河湾上に低気圧があるとかで、夜明け近くから小雨。冷たい春雨。一雨毎の温かさという事になってほしい。 一昨日も書いたことであるが、大分きつい家計状態になってしまったので、当分の間、食事を切り詰める事にして、銀行から支給された券で缶詰類を買い込んだ。 そこで今夜の献立は、鮭の缶詰と、春雨・ハム・胡瓜・卵等の中華風和え物、納豆という結果になったのであるが、ババには何か物足りなかったようだ。 昨日、自分のポケット・マネーで求めてきた焼豚を少し出してくれと言われたが、もう少し食事を切り詰めろと普段口にする人にしては、おかしいと思う。 外で働いてきてくれるた人にオカズの事で文句を付けるのは悪いが、一寸淋しい気がした。 他の費用を切り詰めていて、こんなに苦しい食費に皺寄せする以外ないのに、これは一寸無理かも知れない。 尤も、現在以上に食事を切り詰める事は健康上良くないのかも知れない。人間食べる楽しみが無くなったら誠に寂しい。(妻・幸筆) *************************************************************************《付記》2003年12月29日の誠、日記再読所感☆切り詰めた晩のオカズに思い交々 話の本題である所感を記す前に、本文の下記部分が原文の侭では些か分かりにくい部分もあろうと、一寸書き加えてみた。「食事を切り詰める事にして、銀行から支給された指定食料品店専用の金券で缶詰類を買い込んだ。」 これは、昼食費の一部を銀行が補填する制度があり、給食の際の食券として使うほか、各営業店と親密な指定食品店での買物券としても利用でき、確か毎月数千円程の食券を現物支給手当として当時受け取っていたように思う。 勤務先によって給食設備のある所とない所があったし、また給食があっても私のように弁当持参を選ぶ者もあると言う事から始まった制度のように記憶する。「銀行から支給された券」というのは、アアそういう物だったのかと読み替えてご理解いただければと思う。 さて、本題に入ろう。 実は、妻が心を込め仕度した食事には一切文句を言わないのが私の主義だ。しかし、幸の家計費赤字の皺寄せが、早速コンナ形で食卓に現れるとは思っても見なかった事。何せ自分のポケットマネーで箸休めの副食にと買ってきた好物の焼豚まで取り上げられ、出すのにイチャモンまで付けられては正に晴天の霹靂。心中かなりヤルセナイ思いをしたものと思う。 幸が、書き上げた献立は確かに色々の食材が使われているし、栄養のバランスは整っているのだろう。だが、それが実際に食卓に並んだところを文章を整理して想像すると、一缶の鮭缶を親子4人で突っ付き、これに中華風酢の物と納豆だけといった些か淋しい構図となる。 仕事終って出来れば晩酌でも嗜みたかった筈の「昔・誠」が、冷蔵庫に買ってきて入れておいた焼豚をツマミにと思って立ち上がったものの、好物はトンビに攫われた後の祭とあっては、如何に波風立てまいと悟りきった亭主でも、「少し出してくれよ」と言いたくもなろうと言うもの。 この日記を読み終わった「昔・誠」は、多分「あのねオッサン、わしゃカナワンよ !!」と絶句したのではなかったろうか。 世の中の女達は、多分結婚すると何れ二つのタイプに分化するもののようだ。 即ち、 「亭主の好きな赤烏帽子に徹しようとするタイプ。 そしてソレ以外は、亭主を徹底的に自分の好きな青烏帽子に飼育しなおそうとするタイプ」。 そんな事を思った今日の「今・誠」である。
2003年12月29日
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1967(S42)年2月7日(火)晴 ★家計費の赤字をヘソクリで穴埋め 二月に入って1週間足らずと言うのに、我家の経済状態がおかしくなってきた。今年に入ってから、細かに家計簿を付けてきて未だ少々のユトリがある筈なのに、実際の財布の中身は既に掻き消すように無い。 私の付け具合が悪いのか、つまり付け忘れ…? 無駄遣い…? 盗難…? なんだか良く分からないが。前途暗澹(アンタン)たる気持。 まさか今から足りないと言う訳にもゆかず、とっておきのヘソクリを下ろす事にする。 二月後半分を引き締めて、穴埋めするより仕方あるまい。 貯金魔になる事、なかなか難しい次第である。(妻・幸筆) 1967(S42)年2月8日(水)晴 ★「物価政策の矛盾を暗に比喩する各紙」と幸女史が第一評 ママの日記には相変わらず家計費の赤字の話題が絶えないと言うのに、大蔵省は又々9月に消費者米価を15パーセント近く値上げするつもりだと言う。 先頃の選挙に際して、向う二年間位は値上げしないつもりと公約したのは、確か政府自民党ではなかったか…。国民を愚弄するにも程がある。 いくら内閣に物価安定会議を設けたとて、これではウラハラもいいところだ。 そんな腹の立つ庶民の心を気持なりと代弁するかの如く、コノ二つの記事のソラゾラしさを対照的に扱って、特に意味有り気に浮き彫りとした今朝の新聞各紙。それぞれ趣向を凝らした紙面の競り合いが何とも面白い。 勿論、我家の批評家・幸女史の筆も、この点を先ず題材に取りあげ比較して、見事な俎(マナイタ)さばきを示していた事も、付け加えておかねばなるまい。(夫・誠筆) *************************************************************************《付記》2003年12月28日の誠、日記再読所感☆家計費の赤字をヘソクリで穴埋め☆「物価政策の矛盾を暗に比喩する各紙」、と幸女史が第一評 物価高に庶民が苦しめられていたコノ頃。新年から今年こそはと心新たに家計簿を付け始め、その赤字になった原因が判らないと嘆いているところが未だ青畳の香りも残る幸らしく、「今・誠」としては、何故かイジらしく思えた。 と思うのは、コチトラが日々一円でも出納帳と現金の残高が合わないと、出納全員が原因が判るまで徹夜で再調査をさせられた昔気質の銀行員だからかも…。 ところで、先の選挙での公約も何処へやら…。早くも米価大幅値上げのアドバルーンを大蔵省に揚げさせた政府自民党を、内閣への物価安定会議設立と同じ紙面にデカデカと並べて皮肉る各紙。その見事に揃った足並みや良し。 でもその足並みの一致の後で、いつも決まって新聞の値上げも続いたものでもあった。 あの怒涛の如きインフレ昂進を、サモ庶民側に立つかの如く常に反対の立場で書きまくっていたのに、米価や公共料金の値上げが決まれば、常に諸物価値上げの先陣を切っていたのも新聞だった。この事実も又「今・誠」には忘れない口惜しさの一つだ。 しかも、その更に先頭を切るのが、決まって日本のインテリ層を代弁するとされる『朝日新聞』だった事も実に遺憾な事として記憶に残る。 これって庶民の批判をかわそうとする一種の談合と言えないだろうか。一度ぐらい他の物価値上げの殿(シンガリ)に従ってみたらどうか…、と良く思ったものだ。 ともあれ「巧言令色、少なし仁」とは孔子様も良く見抜いていたものだ。 それにしても、コノ程度の物価下落を「デフレ・デフレ」と政財界が庶民まで巻き込んで大騒ぎする様が、何とも奇妙に感じる私だ。 だって当時のインフレの物価変動率は今とは桁違い。この程度の物価変動は微動と言うべきで、後の学者は物価安定期と定義するのではなかろうか。 政府にとってインフレ期ほど税の自然増収が常に転がり込み、安易な財政投融資を企図しやすくなる。このため、自らの長く野放図な失政と巨額なツマミ喰いから発生した財政の大赤字を、この程度のデフレの為だとして庶民を又々インフレの奈落へ落とす魂胆とも思える。 与党の政治家は、アワ良くば「我が世の春よ、モウ一度…」と策謀しているのではなかろうか? マアそんな風に見えるのは、私の僻目だろうか…。
2003年12月28日
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1967(S42)年2月5日(日)晴 ★落ち着いて物事を処理し、ペンを持つチャンス到来 !! パパは日直のため、いつもの通り出勤。 久しぶりに日曜日に早起き。その上、やっと風邪の鬼も退散のキザシを見せ、気分も良いので和服を脱ぎ、一気に、スラックスとなる。 広告にあった安い油を買うためホテイ屋へ。 市価より百円近く安いのは何よりも有りがたい。 安いものを手に入れた良い気分で帰宅してみると、かねてより希望していたサンケイ新聞の社外モニター当選の通知が来ていた。 誰にも内緒で応募したものの、期日の5日になっても何の音沙汰もないので諦めていた。 新聞に試しに投書したことから始まって、いささか少し気張り過ぎた感もあるけれど、これからの3ヶ月間、マイ・ペースでやってみることにしよう。 卒業以来忘れていた落ち着いて物事を処理し、ペンを持つというチャンスが蘇ったことは嬉しい。 正直言って一ヶ月三千円也の思いがけぬ報酬も楽しいものである。今後共、ご主人様のご協力を、お願いする次第である。(妻・幸筆) 1967(S42)年2月6日(月)晴 ★おめでとうママ。316人中の20人に選ばれた者らしい所感を期待 !! ママ、モニター採用お芽出とう !! 先ずコウ記して今日の日記をスタートしよう。 例え一日百円の報酬でも、316分の20と言う難関を突破して選抜されたと言う事は、取りも直さずママの文才が買われた事であるからだ。 コノ上は、その誇りを胸に、ヨリ良い批評を、ヨリ早く、ヨリ確実に送付して、316分の20の評を、いや今迄の数多いモニターの中で一番と言った評を、同社の連中にさせるよう頑張ってもらいたい。 勿論、パパだってママが必要とあれば、何時だって可能な限りの助言・協力は惜しまない心算(ツモリ)だ。 これを機会に二人で大いに見識を広め、文才を磨き上げようではないか。(夫・誠筆) *************************************************************************《付記》2003年12月27日の誠、日記再読所感☆落ち着いて物事を処理し、ペンを持つチャンス到来 !!☆おめでとうママ。316人中の20人に選ばれた者らしい所感を期待 !! この当時の新聞は、若かった我々夫婦に何かと良い影響を与えてくれたものだったと改めて感じた。 夫婦生活もソロソロ7年目に近く、お互い猫の皮も剥がれ、エクボに見えていた相手のアバタが気になりだす頃。過去の日記でも既に再々述べた通り、夫婦日記は互いに言いたい事を書き合い常に風通しをよくして、そのマンネリ化を避けようというのも眼目の一つ。 また、学生時代と違い社会人となり、家庭を築くうちに、文屋さんなどを除き誰もが陥りやすい筆不精者化からの脱却という企図も、このカミさんの意気込みや、コレを大いに囃す「昔・誠」の言葉を読めば、どうやら目論見どおり順調に推移していたと感じられた。 まあ予想外だったのは、風通しの良さを余りに反映しすぎてか、共に遠慮せずに何かと云っては紙上論争を展開し始めた事だ。 往時の公開文の凄まじさは、コレを楽天上で読んだ友が気を揉んで、「オイ、こんな事を公開しちゃって、お前たち大丈夫か?」と一再ならず電話をくれた事もあった程…。 でも、そんな紙上論争の形を取った一種の夫婦喧嘩も、当時の当事者間では、売り言葉に買い言葉も加わりソレナリにカッカとなったようだが、今読み直している「今・誠」にとってはソレなりに味わい深く、「妻よ良く思い切って書き残してくれた」と、感謝したくなる程の貴重ささえ感じる。 云わばコレは、若さゆえの暴言であると共に、その暴言がその儘の形で長い年月という琥珀の中に閉じ込められた珍重されべき宝石のようなもの。そう思えるのだ。 そればかりか、案外「昔・誠」も「昔・幸」も、無意識の中で結構この無礼講の書き合いにより退屈が紛らわされ、決定的な破局を免れていたのかも知れないとも思った。 だって、瞬間的には結構エキサイトしている割には、未だもって幸が本気で別れたいと言い出した事、無いものなぁ…。 ハハハ、尤もソノうち纏めて、三行半(ミクダリハン)の束を突きつけられるかもしれんけどもね…。 とにかくドチラもズバズバと書きも書いたりと、思わず噴き出しそうになる事もシバシバで、今度の喧嘩の種は何だったかなぁ…と、老いの日の退屈しのぎにも結構役立っている昨今である。 希(ネガ)わくば、この「古い日記…♪」シリーズの公開が、「今・誠」から「今・幸ちゃん」に対する良い意味での刺激となり、コノ楽天日記上に数十年ぶりに『老いらくの夫婦日記』として復活の日を迎えられれば、真に万々歳と言う訳だ。 果たして「今・誠」の「今・幸ちゃん」へのコノ謎かけの結果や如何に…。 それには先ず、「今・幸ちゃん」が自称する機械音痴を返上し、パソコン学習へ挑戦する事が何としても必要となろう。 もし幸いにして「今・幸ちゃん」がソノ気になったなら、今日の日記の「昔・誠」の言葉同様に、何時だって可能な限りの助言・協力は惜しまない心算(ツモリ)。 叶うものなら我等が人生を共に有終の美で飾り、来るべき銀河鉄道の旅に向かいたい「今・誠」なのである。
2003年12月27日
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1967(S42)年2月3日(金)曇 ★節分の夜の、映画『S銀行創立七十周年』発表会雑感 今夜は本行創業の地であるA地区の公民館で映写会があり、頭取命で動員されてしまったので、節分だと言うのにスッカリ帰りが遅くなってしまった。 家に戻ったら既にママも子供達も夢の中だったから、豆撒きもする事もない節分となってしまった。イヤハヤ、宮仕えは儘ならぬもの…。 上映した映画は『S銀行創立七十周年』。 岩波映画社に製作を依頼したカラー作品だけに、何だカンだと頭取が思い付く全てを屋台店の貝杓子のようにテンコ盛りした七十周年記念行事の催物を、なかなか手際よく纏め上げた秀作と云えよう。 尤も、それだけに製作費も抜群で、16㎜フィルムの半時間物が、競合他社の見積もりと比べ倍以上と、岩波映画社ならではの独壇場だった。 勿論、内容もソレなりの質の良さを感じさせていて、ダテに高い見積もりをしてきた訳でない事が、十分納得できた。 例えば、航空機まで動員したカメラ・アングル等、贅を凝らしたソノ編集ぶりは、現頭取を大いに喜ばせた事であろう。 9時過ぎ、同行の秘書室関係者、TK・KN・K I の三氏をソレゾレ自宅まで送り届けて仕事を終える。何か映写技師兼運転手と云った感じの一晩だった。 それでは最後に、節分も満足に出来なかった縁起を担ぎ、次の一行だけはサインペン書きで、「鬼は外、福は内。鬼は外、福は内。鬼は外、福は内…」と、特に目立つように黒々と太文字で書き込んでおこう。 鬼さんも、福の神さんも、この屋の亭主は詮無き事情で豆は撒けなかったが、良く見といてや。 今年も「家内安全」と「ラッキー・カムカム」を強く希って、心中深く念じている事を…。(夫・誠筆) 1967(S42)年2月4日(土)曇★今年の節分は一菜が豆撒き。でも「私は五ツでママは三十なんてズルイ!?」と苦情も…。 昨夜はパパが仕事の都合で帰宅が遅くなったため、一菜が豆撒きする。 かわいい声で、「オニは外、フクは内」を繰り返されては、赤鬼も青鬼も退散せざるを得なかろう。「私はタッタの五ツで、ママは三十も食べるなんてズルイ!?」というので少し分けてやる。 親は歳をとった事を嘆いているのに、子供に羨ましがられるなんて、本当に可笑しなもの…。 今日は立春。 さすがに暖かいと思いながら起きたらば、テレビで東京地方に2㎝ばかり雪が積もった事を知らされる。 低気圧の通過の際、降ったものだソウだけれど、全く分からぬ近頃の陽気である。(妻・幸筆) *************************************************************************《付記》2003年12月26日の誠、日記再読所感☆節分の夜の、映画『S銀行創立七十周年』発表会雑感 この映画の製作に当たり、ロケ班の世話一切を私が命じられたため。常時一行と付き合って1週間ほどを過ごした想い出が今も脳裏を過ぎる。 なにしろ、秘書室等と違い行内で力のない追悼録編纂などという仕事に付いているコチトラとあって、常識外の接待費用を押し付けられた。 挙句の果てに当てにしていた銀行の寮も何だカンだと使わせて貰えず、かといって一般旅館に泊めるだけの予算もなしとあって、仕方なく市内の安宿をアチコチ探し歩かざるを得なくなった。 だが、それでも予算内で引き受けてくれる所がなく難渋。 窮余の結果、少し大きめな銭湯の二階を客間にして旅館を兼営していた所を見付け、漸くココを予算内で確保する事が出来た。 又、主なロケ地であるS平での昼食も、行員食堂で行員と同じ物を食べてもらった。 これが、本来接客すべき秘書室扱いとなれば、予算は殆ど事後承諾も同然。何の苦労も無くスラスラと気後れない接客が出来たであろうと、今も羽田さん一行には気の毒な事をしたと思っている。 勿論、その羽田さんを初めとする岩波のスタッフとしては、口先では気にしないと言ってはくれていた。…が、様々な一流企業から同じような製作依頼を受けていた筈の一行だ。当然、そんな各社の待遇も比較していた筈。そう思うと、これが我々S銀行の接客かと蔭で話していたのではなかったかと、とにかく肩身が狭かった。 幸い、そんな私の気持ちを知ってか知らずか、一行は常に機嫌よくテキパキと仕事を進めてくれ、そのマナーの良さにはサスガ岩波映画社の社員だと感心させられた事が、今も記憶に残っている。 そして更に嬉しかったのは、この『S銀行創立七十周年』は、その完成後に、確か「日本産業映画賞」というPR映画のグランプリとも言うべき栄冠をも獲得。単に裏方仕事をさせてもらったのみの私も受賞に招かれたり、行内でも社内報に掲載されたりして予想外の面目を施させてもらったものであった。 なお余談ながら、この映画の監督に当たった記録映画作家・羽田澄子さんについては、その代表作として、広く世の話題となった「早池峰の賦」「痴呆性老人の世界」「元始、女性は太陽であった―平塚らいてうの生涯」…等の受賞作も多いので、ご存知の方も多いのではなかろうか。☆今年の節分は一菜が豆撒き。でも「私は五ツでママは三十なんて…」と苦情も。 それにしても、最近は歳の数だけ福豆を食べるのも一苦労。「昔・幸」のセリフじゃないが、「今・誠」も、一菜に半分ほど助けてもらいたいところだ。(ウフフ) でもそんなこと言ったら、それこそ一菜は、「パパ、ずる~い。それでは私のほうがパパよりオバアチャンに成っちゃうじゃない…。それこそ本当に、"ずる~い"だわ」。と、怒るに決まってるよなぁ。 だって今や彼女も早42歳だ。それを古希を去年過ぎたコチトラの豆を半分助けて食べてもらうとするると、一菜が72.5歳となる一方。私は40.5歳となる訳だものなぁ。 ハハハ、こんな想像してみるだけでも節分の故事は面白いよね。 尤も、現実問題としては、どうにもならない加齢というものの予想以上に酷な宿命。 まあコウ科学技術の進歩が加速度的に進む世の中だけに、いずれ不老長寿の薬も発売されるかもしれない。 でも、有り余る金を手にした者のほかは無縁の薬だろうね。 とにかく、とても始めは高価で手が届かんだろうし、第一近頃の世の中はオヤジ狩りまで横行。貧乏人が長生きしたって鼻も引っ掛けないどころか、虐め殺されるのがオチだものなぁ。(トホホ)
2003年12月26日
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**************************************************************************※この25日の古い日記…は、往時の記録だけ只今書き終わったので一応掲出します。尚、《付記》の「誠、再読所感」も後刻執筆の予定につき、ご再訪ご笑覧願えれば幸甚です。************************************************************************** 1967(S42)年2月2日(木)晴 ★そのうち、JISマーク付き人間が歩き回るかも… ついにママの耳までイカレてきたらしい。 中耳カタルとやらで、風邪から来たらしい。 全く、今年の冬は初めから終りまで付いていない。早く、一日でも早く、春の訪れを待つ気持である。 神奈川県で「期待されるパパ像」なる代物が今度出たそうだ。 内容は知らないけれど、近頃「期待される○○像」なるものが、やたらと目に付く。 時世と云えばソレまでだが、そんな期待すべきでない人間ばかりおおすぎると云うのだろうか…。 昔は「箱入り娘」と云う言葉ががあったけれど、今度は規格に填め込んだ人間誕生をと言う訳か? そのうち、JISマーク付き人間が歩き回るかも知れない。(妻・幸筆)*************************************************************************《付記》2003年12月25日の誠、日記再読所感☆そのうち、JISマーク付き人間が歩き回るかも… (以下、後刻執筆予定)
2003年12月25日
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1967(S42)年2月1日(水)晴 ★ペンは権(剣)よりも強し、されど黄金(カネ)よりも弱し とうとうママが風邪の神に完全にダウンされてしまったので、今朝は自分と若菜の朝食の仕度も出勤前の作業に加わってしまい、慌しく家を出る。 早くママの病気が良くなるようにと希(ネガ)うこと切なるものあり。 ところで一寸これは日がズレてしまった感もするが、今日はこの度の総選挙の結果について少し所感を記しておこう。 選挙の行われた前には、つまり27日の日記で「百年河清を待つに等しいのではなかろうか…」と、私はソノ予想を間接的に表現しておいたが、やはり私の思ったとおりの時の流れだったと云える。 その甚だしきは、あれ程に世間を騒がし騒がれた荒船運輸相や上林山防衛庁長官が、各地で最高位に等しい得票ぶりを示した事だ。これは日本の恥である。 もともと今回の選挙の発端は、大臣としての彼らの行動のあり方が元で、世論を代表するとしたジャーナリストが野党側に一枚加わったため、実現したものと言える。 その意味では、「ペンは権(剣)よりも強し」と、今回の選挙を私は大変好感をもって迎えたものであった。 しかしである。その結果が先日の日本拝ソサヤティ病説の立証とも言えるものでは、もう何をかいわんやと嘆息したくなってしまった。 正にコレでは、「ペンは黄金(カネ)よりも弱し」である。 そこで、この業病から脱する為の一つの手段として、こんな夢のような事をも、無理は承知で考えてみた。 即ち、国会議員のうち、特に在任中問題が有った人間については、自党を除く各党の議員が連署によって、次の総選挙の折、最高裁判事の例に倣って国民審査の対象にとする事が出来るようにするのである。 又もしソノ対象者が無所属の議員だった場合には、五大政党の中の四大政党議員の連署と言う事にでもしておいたら良いだろう。 ともあれ、そうした灰色政治家はコノ審査を通らなければ、例え地元で再選されても、その当選は認められないといったシステムに何とか出来ないものだろうか…。 日本人のよう浪花節的な国民では、こうでもしない限り、第二、第三の荒船を国民の総意に反して出現させ、この国を暴走させる危険大いにありと思うのである。又、それでなくては真の民主主義は日本に育たないのではないだろうか…。(夫・誠筆)*************************************************************************《付記》2003年12月24日の誠、日記再読所感☆ペンは権(剣)よりも強し、されど黄金(カネ)よりも弱し 我々の国が昭和22年5月3日に新憲法発布で民主主義化を目指してより、既に56年以上の月日が流れた。 「百年河清を待つに等しいのではなかろうか…」と愚痴をこぼし続けながらも、この国は相変わらずだ。否、むしろ戦前の社会より庶民が蔑ろにされ、今や民主主義は金主主義に変んじてしまった感じだ。 この国を動かす立場に立つ者の殆どが、オラの祖国(クニ)より、オラの懐(フトコロ)、オラの郷(サト)といった本心の持主。それゆえ、オラの票集めや金儲けの役にも立たない国家百年の計などドウともなれと彼らの心の声が聞こえるような昨今である。 自分の野望の実現のために理屈を弄び、今や良識人のような顔をした詭弁家で国家機能は麻痺してしまった感じだ。 国会も最高裁も警察も本来の機能が果せぬ末期症状と私の目には映る。これは一々例示せぬとも、コノ一年だけでも、内閣の決議・最高裁の判断・警視庁の行動を振り返り、公平に分析してみれば明らかな事。憲法の「戦争放棄」宣言も、「全国民は法の下に平等」とした公平さも、「最低限度の文化的な暮らしを維持する」権利保証も、何もかも反故にしておきながら、それでも未だに自らのウソを上塗りして誤魔化そうとする破廉恥漢揃い。 こんな連中が国民を牛耳って居る限り、俺たちに明日は無い。そう昨今の世相を見て痛感するばかりだ。 従って、この今日の古い日記で「昔・誠」が書いている夢は、今は尚々夢。 時代の流れは愈々もって濁り行くばかりなのが、何とも気懸かりな「今・誠」である。 しかしながら、何時の日か長い夜も明けようもの。 そんな日が巡ってきた時は、「昔・誠」がココで書いているような夢の選挙制度を加味し、全国の有権者の投票数の白黒がソノ侭に議員数に反映するよう、より公平で直接民主主義に近い選挙法の確立こそ先ず肝要と、与党第一党以外の議員を目覚めさせねばなるまい。 民主主義国家としての日本が再び蘇生するとしたら、その第一歩の選挙法を決める暫定的な選挙管理内閣を先ず発足させ、その上で政権に立った真に国民の総意による政党の代表者達によって如何に歩み出すかに掛かっていよう。 そして以後その選挙法を犯した者は、最高刑も辞さぬ重罪として処断されべきであろう。何となれば、これは国民に対する犯罪であり、如何なる罪より重くて当然だからである。このような不心得者は二度と蘇生を許してはならないからである。 次代を担う皆さん、どうかコンナ老骨の愚考をも是非参考として、非力な我々が遂に成し得なかったヨリ良い日本の明日を、粘り強く目指して貰いたいと切望して止みません。*************************************************************************※参考事項★1966(S41)年の大きな動き★ 国内…国債発行による景気上昇の反面、消費者物価問題が深刻化。(通年) 航空機事故相次ぐ。下記4事故死者計371人(通年) 全日空機東京湾墜落(2月) カナダ航空機羽田空港着陸失敗(3月) 英BOAC機富士山上空で空中分解(3月) 全日空YS11型機松山空港で墜落(11月) 戦後最大の交通スト、公労協・交運共闘統一スト突入。(4月) 新東京国際空港を千葉県成田に閣議決定(7月) 自民党代議士・田中彰治、恐喝・詐欺容疑で逮捕(8月) 山口衆議院議長が東京大証事件に関連して辞任(12月) 世界…英国のビートルズが音楽で世界の寵児に(通年) 中国で文化大革命(通年)★1967(S42)年の大きな動き★ 国内…新宿西口広場が完成(1月) 日航が世界一周線の営業開始(3月) 富山県の奇病イタイイタイ病は三井金属神岡鉱業所廃水が原因と学会発表(4月) ロータリーエンジン車を東洋工業が発表。自動車保有台数一千万台を突破(5月) ワンマン宰相・吉田茂が死去。(10月…’89に戦後初の国葬) 消え行く都電。銀座線を廃止(12月) 世界…インドネシアのスカルノ大統領失脚(2月) アラブ諸国とイスラエル間に戦争勃発。スエズ運河を閉鎖。(6月) 中国が初の水爆実験に成功。(6月) ボリビアでゲリラ闘争中の前キューバ工業相ゲバラが戦死。(10月) 清朝最後の皇帝溥儀が死去(10月) ベトナム戦激化。米首都で十万人反戦集会のデモ隊が座り込み。(10月) アラブ連合のアスワン・ハイ・ダムが発電開始。(11月)♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪
2003年12月24日
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**************************************************************************※この23日の古い日記…は、往時の記録だけ只今書き終わったので一応掲出します。尚、《付記》の「誠、再読所感」も後刻執筆の予定につき、ご再訪ご笑覧願えれば幸甚です。************************************************************************** 1967(S42)年1月31日(火)晴 ★「馬肉、転じて寿司となる」の話 夕刻、朱門の両親の家に立ち寄ったという幸から電話があり、「私達は実家で夕飯をご馳走になるつもりだから、貴方は外で何か食べては着てください」との事であった。 丁度、仕事も一段落して帰宅しようとして矢先であったので、何か足止めを喰ったような、一寸嫌な感じがした。 とにかく何処かで軽く済ませようと、車を置いてある私の実家に立ち寄った。ところが当のコロナに兄が乗って出かけ、未だ帰って来なかったので、母の言葉に甘え、これ幸いと夕飯をご馳走になってしまう。 オカズは《煮込みおでん》であったが、「これも良かったら食べてみては…」と出してくれた《馬肉の刺身》も、後学のためにご馳走になる。 昔、新平民の人達が喰べたと言う事は聞いていたが、案外サッパリしていて美味しかった。 又、見た目も比較的鯨肉と似た点があり、観念的な気色の悪さを別にすれば、生姜醤油を浸けたソノ味に惹き付けられる人が最近増えていると云うのも頷ける。 帰宅後、この話を幸にしたところ、 「余り、イカモノ喰いはしないで下さい !!」 と叱られちゃったが、お蔭で夕食代が助かり、奥さんへの手土産として寿司折に化けたのだから、まあ大目に見てくだしゃんせ 。(夫・誠筆)*************************************************************************《付記》2003年12月23日の誠、日記再読所感☆「馬肉、転じて寿司となる」の話 (以下、後刻執筆予定)
2003年12月23日
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1967(S42)年1月30日(月)晴 ★姉からの葉書一枚に心和み励まされた一夜 今日も我家の奥方の御機嫌は麗しからず。帰宅して台所まで行き「タダイマ ! 」と言うまで何の挨拶もなし。 ムクれられる何の理由も思い当たらないので、多分また気分が悪い為であろうと、夕飯の後片付けは選手交代と言う事にした。 単純な仕事ながら、働いて帰った後の皿洗いは正直いささか身体に堪えるが、こうした事でママのオーバー・ワークを些かでもカバー出来れば幸いである。(ハハハ、何だか涙ぐましいね !!) さて、仕事終わって机の前に座り、4日ぶりに今日こそママの名文にお目に掛かれる事ならんとコノ日記帳を開く。しかしソノ期待は見事に裏切られてしまって、予定紙面は空白だった。 この御機嫌ぶりでは無理なしとはとは言え、やはり空しい。 尤も、その気持は頁の間に挿まれていた一通の頼りによって、間もなく拭い払われたのは幸いであった。 というのは、奥沢の姉から別添のような朗報を得たからである。 テレビ出演の件は未だにハッキリと予測しがたい状態ではあるが、その為の私の上京が思わぬ面で反響を呼んでいるという事を知って、何だか心楽しい気持に変わる。 私達夫婦は必ずしも優等夫婦ではないが、物心両面に亘ってヨリ良い夫婦生活を送るため、日々反省し高めあって生きて行こうとする姿勢こそ大切な事だと思い、この夫婦日記という独特なスタイルを編み出した。 そして一年過ぎた。 その間には紙上夫婦論争華やかなりし日の記録も幾つか、生々しく残っている。 しかしソノ時。「口惜しくって、もうコノ日記帳を火にくべてしまおうとさえ思った」という家内の幸ですら、自身「続けていて本当に良かった」と新聞紙上に公表するようになった。 以来、一人また一人と共鳴者が増え始めた。 今日の姉の便りもソノ一つだが、この分で行けば、やがて「夫婦日記つけよう会」と云ったものも誕生し、日本の隅々、…いや世界各国の夫婦とも日記を書き続ける事を通じて交歓しあえる事になるかも知れない。 世界中の夫婦が、ヨリ円満で充実した日々を送り得る事。これが「バクさん」、即ちコノ私の夢である。(夫・誠筆)※来信記事追記(1967.1.30の日記貼付、「Y子姉さんよりの葉書(S42.1.29発信文)」内容)《姉の伝えた夫婦日記の波紋》寒い東京も、ここ数日ポカポカとした小春日和が続いて、とても楽です。先日は お二人からご丁寧な御便り有難う存じました。御返事をと思い乍(ナガ)ら、風邪を引いたり葉書を切らしたりで、その内ずるずると筆不精して失礼致しました。何卒御許し下さいませ。あれからテレビ出演の方は如何なりましたか?若しご上京の節はお構いできませんが何卒お待ち致しております。夫婦日記、本当に良く続けましたね。我が家でも始めましたが、どうも三日坊主になりそうです。どうも家族日記となりますと、大人の日記とは違って書けない事も有るし、子供は仲々書かないしで上手く参りませんが、お隣の碓井さんでは早速始めて、ずっと続いてるそうです。この間は色々と話を致し、誠も随分変わって大人になったと(失礼)感心致しました。矢張り三十過ぎると違うと思います。色々と苦労の多い世の中ですが、家族の為にも頑張ってください。豆撒きも近付きました。沼津の節分風景が懐かしく思い出されます。では乱筆乱文乍(ナガ)らご返事まで。かしこ (Y子)*************************************************************************《付記》2003年12月22日の誠、日記再読所感☆姉からの葉書一枚に心和み励まされた一夜 先の上京時、私が話した「夫婦日記の勧め」に関するテレビ出演話から、ご近所にも姉が早速勧めたらしいコノ一件。話が立ち消えとなって幾十年も経た今になってみれば、何か騒ぎが大仰となり、穴があったら入りたいような気もしないではない。 でも、日本でテレビ放送が始まったのが昭和28(1953)年初春。民放発足の日とされる日本テレビ放送網(NTV)開局が 昭和29(1954)年。それから漸く干支が一巡したばかりで、テレビ放送が私達の実生活の中に深く浸透し始めていた当時の日記の話だ。 如何に所が東京でも、一般のテレビ出演は未だ珍しかったのではないか…とも思いつつ、読み返した今日の「古い日記シリーズ」だった。 また「夫婦日記」の発想も、昨今ではインターネットの普及で、こうした楽天の公開日記のような便利この上ないシステムまで出来た今日である。したがって、今は早テレビのワイドショーで取り立てて見せるほどの新味は無かろう。 でも、既に見向きもされなくなった英文タイプライターでさえ、高価な貴重品だった当時なのだ。そんな時代の日記は、唯々自身の筆力と気力で書き続ける他なかったものなのである。 それゆえ齢三十を過ぎるまで、何度日記を書き残そうと思いながらも、挫折を重ねていた私だった。 もし、この夫婦交互に書き続ける「夫婦日記」と言う形式に思い至らなかったら、恐らく生涯日記を書き続ける事も出来ない人間で終わっていたことであろう。 従ってコノ書き通せた一年は、ソレはソレなりに周囲の者にも勧め得る示唆を感じさせるものだったとも云えるモノだったに違いない。その熱意が、姉やソノ隣人達をも動かして僅かづつでも世の中に影響を与え始めていたとも感じた。 云ってみれば、夫婦交互に日記を付け合い、二人の支え合う心を利用して三日坊主を脱出しようなどと言う程度の発想は、ソレまででも誰かがやっていた事かもしれない。 でも、それはコロンブスの卵のようなもの。誰かが思いついても、その方法を公表し、その利用法や実行する事の利益を勧める者が居なければ、何の応用も進歩も期し得ない。 そう考えれば、今は些か軽はずみだったようにも思える「昔・誠」の行動は、たとえ実を結ばなかったにせよ正しかったとも思う。 それに、その初心を忘れなかったからこそ、今この『古い日記シリーズ』として、日々の貴重で有意義な楽天日記のネタ種として、書けども尽きぬ話題を提供しつづけてくれている。 また、それ以外にも、コノ日記の効用を挙げれば枚挙に遑(イトマ)がない程と云っても過言でないと、自信を持って言い得る「今・誠」なのである。※《参考》 以前から続けてご愛読の方々には申すまでもない事ながら、コレは去年12月5日の、コノ楽天日記として書いた下記標題記事の後日談である。「5日の日記 古い日記…♪第245回「夢見るバクさん上京(1967.1.9《♂34♀31》)」として掲出してあるので、出来れば併読をお勧めしておきたい。
2003年12月22日
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1967(S42)年1月28日(土)曇のち雨 ★親がノタれば子もノタる。娘達バッタバタで寝坊助パパ大恐慌 我家の子供達は相変わらずの風邪っぴきで二人とも医者通い。 特に二美(ツグミ)は両耳化膿と言う重症中耳炎となってしまって昨夜は遂に夜半医師を起こす結果となってしまった。 幸い一夜明けた今日は、昨夜あれほど泣いた事も忘れたような元気さで一安心したものの、疫病神は一向に我家から立ち去らず些かウンザリ。 とにかく今朝も治療を続けてもらおうと、ママと子供達を出勤前にK先生の所まで送り届ける。 このところ職場の仕事も、連荘出張や何やらと慌しい朝が続く中、朝寝坊で定評のあるパパは、その都度ママに何だカンだと叱られどうしで大恐慌を来たしている。 (夫・誠筆)1967(S42)年1月29日(日)雨 ★今日は選挙。我が清き一票は、「選良」の名に恥じざるA氏に… 今日は選挙。「雨に祟られて投票所は多分すいているのでは…」と思ったが、案外出足が良いらしい。 拝ソサヤティ病の日本の政治に多くを期待する事は愚かしいが、投票は国民の権利義務。 たとえ結果が見え透いていようと、自分の清き一票は悪しき者たちの誘惑などに惑わされず、シッカリと意思表示しなければと思う。 こんな時代だから、自分1人ぐらいと思う人も多いだろうが、私は私。自分ひとりだけでもと言う気持ちに徹し、「選良」の名に恥じざるA氏に投票した。(夫・誠筆)※欄外追記(1967.1.29の日記余白、「昔・誠」書き込み記事)《静岡二区・総選挙得票順位》PS…定数&得票数の記載なく当落結果不明 *衆議院選(1) 遠藤 三郎 …………自民前(2) 斉藤 寿夫 …………無新(3) 勝間田 ? …………社元(4) 木部 ? …………自前(5) 渡辺 芳郎 …………社新(6) ? ? …………公新(7) 山田 弥一 …………自前(8) 渡辺 朗 …………民社新(9) 奥田 ? …………無新(10)大田慶太郎 …………共新*知事選(1) 竹山祐太郎 ……………?(2) 遠山 虎松 ……………?(3) ? ? ……………?* 選挙を済ませ買物に… 選挙は、午前中に幸と一緒に済ませた。 その足で朱門のオバアチャン(幸の母)も誘い、二美だけ連れて富士急へ買い物に行く。 一菜(カズナ)だけはオジイチャンと二人お留守番。 とても、オトナシカッタ(?)とか…。 * ママの天気が又も暗転 午後になってママ御機嫌悪し。 原因はっきりせず。 多分、また風邪が悪化。気分が優れなくなった為ならん。 *************************************************************************《付記》2003年12月21日の誠、日記再読所感☆親がノタれば子もノタる。娘達バッタバタで寝坊助パパ大恐慌☆今日は選挙。我が清き一票は、「選良」の名に恥じざるA氏に… 遥かなる我等が若き日々。 今にして思えば、大した事でもない騒ぎに来る日も来る日も身を窶(ヤツ)し。 アーだコーだと理屈こねこね、何とも早アタフタと過ぎてしまったもの…。 でも、子供達の泣き笑いに満ち満ちた家庭って良かったよなぁ !!
2003年12月21日
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1967(S42)年1月27日(金)晴 ★混ぜ合わせて中和させたい今の日中両国 このごろ我家は又々病人続発で、ママさんは文字通り御身多忙な毎日である。 その為か昨日のママの手記には、コノ日記のトレード・マークともいえる文末のサインが書き漏らされていて私が代筆しておく。 だが将来この(妻・幸筆)という数文字が、新しい時代の良妻賢母の代名詞となるようにと言うのがバクさんの希(ネガ)いなのだから、その日の到来を期する意味からも出来るだけシッカリと、誇りを持って記入してもらいたい。 さて、黒い霧と云われた政界の腐敗にメスを加える為の今回の総選挙も、いよいよ残り二日後と迫った。 しかし果たして、利権屋のような政治家(屋?)共を再び国会へ送ってはならないと云う、良民の心からなる希いが活かされる結果を見る事が出来るだろうか…。 先日、「日本の社会は、今や『拝ソサヤティ病』に罹って重態だ !!」と、在豪の某氏が新聞紙上で皮肉っていた。 金持や権力者の前では、正論も臆して語り得なくなった小賢しい戦後の日本人根性。これこそが病気の根源だと指摘するのがコノ意見である。 読後私は、何か自らの気持ちを代弁してもらったような喜びを感じた次第であった。 事ある毎に選挙で内閣が信を世に問うのも結構だが、その選挙に一候補何千万円も費用が掛かると半ば昂然と囁かれているようでは、百年河清を待つに等しいのではなかろうか…。 時あたかも中共では、反金・反権権力思想に根ざす紅衛兵旋風が吹き荒れている。ところが逆に同じ一つの海を隔てた日本では拝金・拝権力思想に根ざす黒い霧が立ち込めた感じだ。 何れも「過ぎたるは及ばざるが如し」との諺その侭に格好な類型。 まあコレが傍目なら面白い取り合わせと見て見ぬふりも出来よう。ところが事は我々隣国同士で、なんと病状相反した重態ぶりと来たもんだ。とても高見の見物なんて許されまい。 この際一層の事、薬のように「両方混ぜ合わせて中和させる」と云った妙案は、何か無いものだろうか…。(夫・誠筆)※欄外追記(1967.1.の日記余白、「昔・誠」書き込み記事)* 部長に値切られた東京出張旅費雑感 昨日の東京出張の旅費の立替分請求書を提出したところ、往復急行代金のうち、座席指定料および特急と急行料金の差額計300円を部長に値切られる。 この二日目の出張目的は、東京支店の新築披露パーティへの招待者名簿作製が間に合わないので応援をと、本部長が東京事務所から頼まれて始まった事。 ところが仕事は夕方までに大方一段落したのに、何時までも引き止めて帰そうとせず、止む無く新幹線を利用したらコノ騒ぎ。本当に呆れた管理機構で「恐れ入り屋の鬼子母神」と言いたいところである。 K課長が私の苦情に対し、「部長や我々でさえ時々そうした事があるのだから我慢してくれ」と云っていた気持ちは判る。 でも役職手当を別途支給されている彼等と我々一般行員とでは、立場も考え方も違って当然。 何せ、平行員の出張手当はタッタ350円也。 だから値切られた額もタッタ300円くらいと思われがちである。 だが、逆に考えれば今回の出張手当は昼飯代にも事欠く50円で我慢しろと言う事。 つまり、我々平行員なればこそ酷な事なのである。 この辺が、両者の思考の断層と云えよう。 尤も、請求書を見ただけヤカン頭から湯気を出して怒り出す先のH部長なら、「あんた何を寝言いってるの !!」と言いたいところ。 しかし、今の部長は自分の無理は承知で部下の私に頼んむ形をとってくれている。 そう思うと、高々三百円程度で事を荒立ててはと思い我慢。※欄外追記(1967.1.21の日記余白、「昔・誠」書き込み記事)* 病人続出にアタフタする中、親切な老医師に救われる 二美(ツグミ)の病状ますます悪く、遂に両耳が化膿してしまった。 手遅れになる事を怖れ、八方手を尽して漸く吉田町の岩田医院を夜半叩き起こさせてもらい手当てを受けた。なかなか親切な老先生で、深夜申し訳ありませんでしたと心から頭が下がる。 お蔭で二美は泣きべそかいた事も忘れて元気回復。帰宅する間も無くスヤスヤと眠りに就いてくれた。*************************************************************************《付記》2003年12月20日の誠、日記再読所感☆混ぜ合わせて中和させたい今の日中両国 正直なところ、この日記を書いた当時の紅衛兵全盛時代の中国には、彼らの行動の問答無用的な行き過ぎが余りに目立ち、この侭行くと中国は国力を自ら疲弊させるばかりではないかと思われた。 即ち、その第二の革命と主張する文化大革命の是非は兎も角としても、極端な思想の統制や行動の束縛によって、人々は神経を擦り減らし生産活動は逓減の一途を辿るだろう。 しかし、彼らは逸早くコレに気付き自らの手で文化大革命の実質的な推進者だった毛沢東首席の後妻・江青夫人を中心とする五人組を排除。 国交を回復した隆盛期の日本からの技術と資本の移転に力を注ぎ、今では我が国を凌ぐ勢いにまでなってきた。 一方、当時「21世紀は日本の世紀」とまで米国の未来学者が予測していた日本の今の衰退は何故だろう。 (1)先ず、国の未来より自己の未来を優先し、米国に追従する事で自己保身と権力維持を図った首脳たちの失政。 (2)次に、バブルに踊った成金や権力者達による海外でのコレ見よがしの行動が顰蹙を買い、米国の政策を親日から親中へ一転させてしまった事。 (3)更に、コノ国の政治経済活動の中枢から末端に至るまで、余りにも破廉恥で非常識な汚職や横領が大手を振って横行。国民の税金や国有資産が次々と大鼠小鼠達によって食い荒らされ、今や日本丸は水浸しだ。 まあ、全世紀末から始まった日本の衰運は、他にも多々原因として挙げられよう。 だが今この日本丸の沈没を防ぐ為、何よりも先にやるべき事は、これら大鼠小鼠を炙り出し、厳罰に処する事こそ肝要だ。 収賄や横領やツマミ食いなど全ての汚職には厳罰を持って臨み、国民に対する犯罪は最大の罪とする事。また事が露見すれば嫌疑が晴れるまで一時全収入と資産は凍結。家計は必要最低限の生活費だけ給与や預金等の支払いを認める程度にするべきだろう。 勿論、犯罪が立証されればソレ等凍結されたものは、全て没収される場合もあると覚悟させるべきだろう。 つまり国民に対する犯罪は絶対に引き合わない事を、公務に関係する者全員の念頭に叩き込み、汚職の根絶を先ず期すべきであろう。 尤も、国民に対する犯罪には最高死刑を適用する場合もある厳罰主義の中国だが、それでも浜の真砂は尽きない様子。 でも、それまでしている政府の姿勢を国民に示すなら、様々な無理を強いられがちな国民の心も、大方納得させられる筈。 政府への信頼や協力は、先ず施政者自身が襟を糺し範を垂れる事こそ大切にすべきで、見せ掛けの格好良さや、事実を糊塗する情報戦略での人気は、長い間に何時かボロが出やすいものだ。 今の日本政府も、こうした中国の良い点を少しは見習うべきだろう。せめて汚職に対する姿勢なりと先ず改善しないと、日本丸は間も無く鼠(チュー)毒で沈没を余儀なくされるかも…。 まあ多分そうなったところで、本来主人であるべき庶民の大半がアップアップする中。非情な大鼠小鼠だけは貯めこんだ物全てを抱え、ブッシュ牧場の避難小屋にでも逃げ延びる心算でいるんだろうけどね。 ああ、全く世の中、何時になったらマトモになるんだろうなぁ…。(トホホ)
2003年12月20日
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1967(S42)年1月25日(水)晴 ★出張の帰途、富士テレビへ。小川宏ショー編成担当Y氏との面談所感など『故会長追悼録』の口絵が足りず写真借用の為、高輪プリンスホテル、地銀協、細川活版の計三ヶ所から資料を借り集めて歩く。その結果、大体予定通り口絵頁を埋められる見通しがつき、まずまずと云ったところ。 ところで今日の東京出張の帰途。その後、TV出演の話はドウなったかを知ると共に、提出した資料を一先ず返却して貰おうと仲介者のKさんに連絡を取ったところ、富士テレビまで来てくれとの事。「面倒な…」とも思ったが、予定の仕事も順調に片付いたし、このまま真っ直ぐ帰ったところで沼津に着くのは六時近くなってしまうから、この機会に現代マスコミの牙城とも言えるテレビ局の雰囲気を知っておいても損はないと足を延ばす事とした。 さて、四ツ谷の高台にある同所に赴いた私は、想像していた通りの大きな外観で、中もサゾカシ立派ならんと思ったのだが、ソレはトンダ見当はずれで、中は案外薄暗い感じだった。 しかし、こうした考えが一瞬なりと私の頭を過(ヨ)ぎったと言う事は、京都での学生時代・撮影所の内情など良く見知っている私としては、何とも愚考であったと直ぐに気付く。それだけ私がコウシタ世界から縁遠くなっているものと云えよう。 ところでTV出演の話だが、もう大分日数も経った事だし、てっきりボツにされたのだろうと思っていた。 だが今日会った小川宏ショーの編集スタッフY氏の話では、ソンナ空気どころか、むしろ相変わらず私達の話にネタとしての魅力を感じているものの如くであった。 とにかく私達二人の夢の企画を世に問い、世に送り出すチャンスは未だ生きているのだと実感。それを直接の番組制作者の口から聞き知っただけでも、富士テレビまで足を運んだ甲斐があったと云うものだ。(夫・誠筆) 1967(S42)年1月26日(木)晴 ★タンゴの名曲で目覚めても、早起きの辛さは一入 !! 昨夕突然、銀行の所用で東京に出かけていたパパからの連絡で、今日も再び東京へ出張する事になったとの連絡を受ける。 朝7時の列車に乗るので、5時半には遅くとも起きねばならないのだが、その辛い事。 いくらタンゴの名曲を聴かされても睡魔には勝てない。 昨夜のカレーで朝食を我慢してもらい、何とか間に合わす。 昔は目覚まし時計より早く起きたものであるが、まことに朝起きの辛い今日この頃である。(妻・幸筆) *************************************************************************《付記》2003年12月19日の誠、日記再読所感☆出張の帰途、富士テレビへ。小川宏ショー編成担当Y氏との面談所感など 実は、富士テレビまで行った事すら忘れてしまっていた私だった。 だからコノ古い日記を読み直し、ああソウだったっけなぁ、あの殺風景なロビーで待たされ、「ここは昔よく接していた芝居の世界の延長線上にある所。外見だけ立派なら、裏はハリボテで結構なのだ…」と、今更ながら演劇部時代の舞台裏や、下賀茂や太秦の撮影所の埃っぽいスタジオを思い出していた。 学業二の次に芝居づくりに精出したり、エキストラのアルバイトをしていた時の昔懐かしい世界だ…。 ところでこのテレビ出演の話は、余りにタイミング良く持ち上がり過ぎた感じが今も残る。 だが年も明けてしまい、話がズルズルと先延ばしとなるにつれ、仲介者であったKさんやS君のみしか未だ顔を見せないママとあっては、何か彼等に担がれているのではといった気もしないではなかった。 それゆえ、この日に富士テレビで会った小川宏ショーの編成担当Y氏と直々面談しえた事は、出演の成否は別としても、話の現状を担当者自身から確認できただけでも良かったと思う。なにせ、旧友知己の誠意をも疑問視しはじめていた時だったから…。 尤も、日記ネタはタイミングが肝心。一年の区切り時期である年末か新春の話題にと言うのがマスコミ界の常識。それゆえ、多少の色気を先方が初めに見せたとしても、既に一月も下旬とあっては大方立ち消えたと思って当然だった。 それゆえ話は未だ続いていると云われ、些か心時めいたらしい「昔・誠」。でも、一年後ならイザ知らず、季節外れでは仮に実現しても反響は余り期待薄と考えられた筈。だから日記の文面とは逆に、心の中の熱は大分冷めかかっていたのでは…。 そんな風にも「今・誠」は思った。 唯、当時の私の脳裏にフト閃いたこんな「バクさんの夢」を、何とか実現させてやろうと直ぐ行動に移してくれた頼もしき友が存在した「昔・誠」が何か羨ましくもあった。 何せ、今は心許せる友とて数えるばかりだ。 往時の親友も、死別したり、喧嘩別れしたり、無言で距離を置くようになったり…と云った具合。 マアそんな風に、時の流れの儚さを実感しながら今を生きる誠ながら、一方でソンナ儚く流れ去った時の空しさを実感。夫々に残された時間の中で、心ならずも一度は壊れた夢の修復を試みる再会も無い訳ではない。 又、失われてしまった友情も有れば。新たな星を発見したような心楽しい出会いもあって、この歳にして人生まだまだ生き甲斐も多い。 折から年末も近く、今は年賀状作製に追われる毎日。こうして日々、「古い日記」をめくり、葉書に宛名を書きながら、ソンナそこはかとない思いが又々去来する今日の「今・誠」である。 ☆タンゴの名曲で目覚めても、早起きの辛さは一入 !! あの頃は毎朝、アルゼンチンタンゴの名描写曲「エル・アマネセル」で目覚めていた私達だった。 スペイン語での原題は『EL AMANECER』、邦訳では『夜明け』と云う名のコノ曲。 タイムスイッチを入れて目覚まし時計代わりにしていたのは、その作曲者であるロベルト・フィルポの四重奏団が自作自演する名曲名盤だった。 亭主の好きな赤烏帽子とは生きかねた幸の場合はイザ知らず。素直に自然な描写曲を愛される方なら、多分、本当に良い朝の目覚めが約束されそうな名曲として、是非ご試聴をお勧めしたいもの。 モシその曲名も忘れても、当時流行った音楽喫茶などなら、「あの小鳥の鳴き声が入った清々しい朝のタンゴ」とリクエストすれば事足りた程の名曲だ。 しかもソノ曲中で聞こえてくる小鳥の声が、ヴァイオリンを使い本物ソックリに啼き聞かせる部分がある。曲そのものの美しさは勿論ながら、この小鳥の囀りも聴きどころの一つとあって、お聴き漏らしのなきよう…。
2003年12月19日
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1967(S42)年1月23日(月)晴 ★夫婦共倒れした昨日曜日の事など 昨日の日曜日は、とうとう風邪のため「寝テヨウ日」になってしまった。 夫婦枕を並べて討死(ウチジニ)かと一時は憂慮されたが、幸いママの病状は幾らか快方に向かったようで、辛うじてそのピンチを脱した。 昨日の日記なども、元気を取り戻したママの毒舌の程が、いかにもソノ様を象徴しているかの如くで微笑ましい。 いや、こんな冗談を書くと又々誰かさんにマゼッ反されそうだから、これ以上の脱線は避けよう。 まあ、何はともあれ回復お芽出とう !! さて、そこで愈々今日の日記だ。 尤も、そう気負ってみたものの、如何に頭捻(ヒネ)れどコレと言った良い発想が生まれてこない。 何しろ、今朝も未だ風邪っ気の抜けやらぬ身体を押して出勤した為か、アレやコレや考えるとイライラが余計に激化。何とか治まり掛けた痛みが再発しかねないように思われる。 折角ハッスリしているママには申し訳ないが、とにかく今夜はコレで「おやすみなさい」と言う事にしよう。 また明後日、ゆっくり構想を練って筆を進めます。 (夫・誠筆)1967(S42)年1月24日(火)晴 ★寝て曜日を決めこめれるパパが羨ましい ハッスルしていると見えるかもしれないけれど、身体を労(イタ)わってグズグズしていられないのが女の立場。一日ゆっくり寝ていられるパパが羨ましい。 どうも胃の調子が悪くて、時々吐気さえ感じる。多分、風邪薬のためとも思われるが、食欲が無いわけではなく、箸を取ればチャンと何時ものように口に入るのだが、ソノ後、一層苦しい。 したがって、このところママ好みの淡白なオカズになってしまって申し訳ない。 冷たいザルソバが頭をかすめる今日このごろの胃の調子である。(妻・幸筆)*************************************************************************《付記》2003年12月18日の誠、日記再読所感☆夫婦共倒れした昨日曜日の事など☆寝て曜日を決めこめれるパパが羨ましい 越年に向けての雑用に追われる侭、今日の日記は少し短編だが1967年1月23日だけを掲出して済まそうと思った。だが、この再読所感を書くに当たって読み直してみると、何ともネタ不足の感じ…。 それで、翌1月24日も併載する事に変更して書き進めたと言う訳だが、両日ともに風邪に翻弄される私達の戯言ばかりが目立ち、ハテサテ何をココに書くべきかと思案投げ首。 それでもマア、幸の24日の手記は、ご不快著しく大分八つ当たり気味な前回22日の記事と較べると、先ずは妻らしき心遣いも戻って「昔・誠」もホッと一安堵した事ならん。まずは「重畳 重畳(チョウジョウ チョウジョウ) !!」。
2003年12月18日
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1967(S42)年1月22日(日)晴 ★私の風邪を承知なのに遅くなるなんて…。 昨日あたりから、大分気温が高め。寒の入り、大寒と、暦の上では寒くて当たり前という日に限って、実際上はポカポカしていて、まことに皮肉そのもの。 しかしソノ後、風邪の方は一向に良くならず、昨夜からパパが一役受け持つなど、御念の入った今日この頃である。 ママが風邪を引き込んで休んでいる事を承知で三島まで友達に会いに行き、電話一本架けてきてくれず。やっと帰ってきて、どうしたのと聞くと、「一寸そこまで…」等と誤魔化す。 4時間も消息不明で、「一寸そこまで…」なんていうセリフが通用すると思ったら大間違い。 尤も、少しは悪かったと思って誤魔化そうとした点は少しはカワイイけれど…。 ともあれ、身体の悪い時は、真っ直ぐ一度は戻ってきて欲しかった。(妻・幸筆) *************************************************************************《付記》2003年12月17日の誠、日記再読所感☆私の風邪を承知なのに遅くなるなんて…。 風邪っぴきは気の毒だったが、男にゃ男の付き合いもあるって事を幾つになっても判ろうとせず、ホンに幸の亭主は草臥れます。 特に、身体の調子が悪いと、文字通り「郵便ポストが赤いのも、電信柱が長いのも、皆々アナタが悪いのよ」式に詰(ナジ)られちゃうんだから、全く「アノネおっさん、わしゃ、か~なわんヨッ !!」だ。 それにしても、今は携帯電話の時代。当時これがあったら「昔・誠」は息つく暇もなかったんじゃないかなぁ。(ハハハ) アレは、戦災で田舎へ引っ込んで以来別れ別れとなった幼馴染の友K君が、両親の居た昔の屋敷の焼け跡に素敵な家を再建して戻ってきた時の事。十数年ぶりかの再会とあって、新築祝いの麻雀大会に誘われた。 ゲームが佳境に入ってきた頃になって幸が電話を掛けてきた。すると彼の奥さんが客間に戻ってきて、「何か、お宅の奥さん大分具合が悪いようだから、今日はコレで帰られた方が…」てな事を云われたものだった。 これから家も近くなった事だし、お互い昔のように楽しく家族同士の付き合いをしたいものだと思っていた矢先だっただけに、何となく坐が白けちゃったっけ…。 まあ、他にも何か私の思い当たらぬ原因が有ったかも知れないが、以来、近隣に住まいながらも、何か疎遠のまま過ぎてしまった。 勿論、幸には幸の言い分は有ったとは思うけど、男には男同士の付き合いや考え方もある。何で我慢してもらえなかったかと、今も折に触れては思う「今・誠」ではある。 ともあれ、そんなアレコレの事を考えても、科学技術が進歩し様々な文明の利器が生まれて便利にはなった反面。ソレが無かった昔の方が良かったなぁとツクヅク思う時も多いよなぁ。
2003年12月17日
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*************************************************************************※この日記は未だ校正前です。誤字や脱字など、お見苦しさが懸念されますが、この点ご寛容のうえ何卒ご笑覧の程を…。 ************************************************************************* 1967(S42)年1月20日(金)曇 ★全日空機が片足着陸 !! 整備面で日航との合併促進検討を… 大阪空港で全日空機が車輪の故障で片足着陸 !! 先日、四国の松山沖で悲惨な事故を起こした国産旅客機YS11型機であるだけに、ニュース速報を見た時は「又か !!」と一瞬ヒヤリとさせられた。 しかし三時間余も同空港付近を旋回し、燃料を空にしてから強行着陸するといった沈着さと、操縦士の腕の冴えがモノを言ってか、大事に立ち至らず済んだ。 乗っていた人達や関係者は、それこそ生死の判決を待つ被告達といった心境だったこととは思うが、何はともあれ無事で良かったと他人事ながら胸をなでおろす。 それにしても、日航機の事故は余り聞かないのに、全日空機ばかり何故こうも立て続けに問題が発生するのだろう。 勿論、離着陸回数が断然多い国内線だけがサービス・エリアだからと云いたい事は分かるが、 それにしても多過ぎるのではないか。 私の思う事は所詮素人考えとは云うものの、何か全日空の点検整備制度に、利潤を追求する余りの機構的な甘さと言ったものが有るのではないだろうか。それで無ければ、同じ国内線をも持つ日航機だけが無事故を誇るという事は、理屈の上では有り得ない。 この際、一つの政治的な力で整備面だけでも両社の合併を促進してみては如何なものだろう…。(夫・誠筆) 1967(S42)年1月21日(土)晴ときどき曇 ★各紙カメラマン競演の感を受けた全日空機事故 昨日の全日空機事故の写真が今朝の各紙を賑わす。 故障が発見され強行着陸するまで三時間余も有ったのだから、各社のカメラマンは充分な準備が出来た事であろう。してみれば。コレは一種の技能コンテストである。 まず第1位だが、私は文句無く、後方からコレを追った「サンケイ」を挙げたい。 第二位の「朝日」は、横位置からミス・ファイアーの瞬間を捉えている点が見事だが、迫力の点で第 1 位の「サンケイ」に及ばない。 「サンケイ」のソレは阪神工業地帯の煙突が林立する風景をバックに、右に傾斜して砂煙を上げ滑走路を突き進む凄まじさを実に見事に捕らえている。 一寸考えると、横位置からの方が動感その他に優れているように思われるが、画面としては誰もが考える構図だけに平凡だ。 その上、横位置からの撮影は、動きの速いものだけに写し難い。 その他の各紙に至っては、その欠点が如実に出たものだけに、画面のブレが目立ちすぎて余りイタダケないと言うのが、私の所感であった。 ところで、今日は2週間ぶりに旧友S君から連絡があり、三島に来ているというので、楽寿園前の「水泉園」と云う鰻屋で落ち合った。 例によって彼の話は頗(スコブ)る愉快で、飽きる暇もない。思わず時を過ごし6時過ぎに帰宅。ママから苦情を聞かされる破目となった。 尤も途中、先の週末に新築祝いに招かれた先輩A氏から、格安と勧められていた土地の実地検分に行き、時間を費やさざるを得なかった事も遅くなった一因ではあったが…。(夫・誠筆)※欄外追記(1967.1.21の日記余白、「昔・誠」書き込み記事)*下見せる土地…(三島市大社町)日当たり良好・坪26000 *************************************************************************《付記》2003年12月16日の誠、日記再読所感☆全日空機が片足着陸 !! 整備面の日航との合併促進検討を… 後年1988年8月12日の御巣鷹山事故について、山崎豊子さんが『沈まぬ太陽』で描いたように、その後の日航は又一段と酷かった。 それだけに、コンナ全日空機ばかりに事故が連続して起こっていた時代が有った事、いつか忘れてしまっていたっけ。とにかく、航空機事故と言うのは、起こり始めると、何か連鎖反応を起こしたように集中するから怖い。本当にナンデヤロウ !! ともあれソロソロ又気をつけねばなるまい。☆各紙カメラマン競演の感を受けた全日空機事故 「昔・誠」の奴、ロクに満足な写真も撮れない癖して、何か、いっぱしの批評家ぶった感じでコノ記事を書いていて、何か噴き出しそうだつた。 尤も、肝心の写真掲載紙がスクラップ保存されてないのでは、「今・誠」としては、それが妥当なものだったか改めて確かめようも無い。 ただ、説明文は結構その写真の構図の特徴を良く描写しているようで、「サンケイ」「朝日」「その他各紙」の画面が、どれも脳裏にソレらしく蘇ってきた。 それゆえ、いずれ上京の折にでも国会図書館へ行き、当時の古新聞を確認してみたくなった。 写真の批評の出来具合は勿論ながら、脳裏に蘇った画面と実物との差を確認すれば、当時の自分の描写的な作文力が改めて判ろうと思えるからである。 ※欄外追記所感(1967.1.21の日記余白記事に関する「今・誠」付記)《下見せる土地について》確か三島大社より東北方約1.5km、西側に幅二間弱の小川の流れあり。子供を育てるには、日当たりの良好な点は良いが、川が些か危険のように思えて踏み切れなかった。 でも、今になって考えると未だ列島改造前で安かったものだ。坪26000円と書いてあるが、同地付近は当時ゆえに市街地から少し外れてはいたが、三島駅にも徒歩で半時間足らずだろうし、バブルが弾けた今でも坪30万円以上はしているだろう。 投資として銀行から借り入れしても、坪数が確か70坪程だったように記憶するし、買っておけば良かったと思う。 度胸が無かったと言うか、先見の明が無かったと言うか…。 まあ、それだけ明日に希望が見出せなくなっていた時だったからこそ、なけなしの貯金には手をつけたくなかったし、借金もしたくなかったと見るべきかもね。(トホホ)************************************************************************* ※参考事項★1966(S41)年の大きな動き★ 国内…国債発行による景気上昇の反面、消費者物価問題が深刻化。(通年) 航空機事故相次ぐ。下記4事故死者計371人(通年) 全日空機東京湾墜落(2月) カナダ航空機羽田空港着陸失敗(3月) 英BOAC機富士山上空で空中分解(3月) 全日空YS11型機松山空港で墜落(11月) 戦後最大の交通スト、公労協・交運共闘統一スト突入。(4月) 新東京国際空港を千葉県成田に閣議決定(7月) 自民党代議士・田中彰治、恐喝・詐欺容疑で逮捕(8月) 山口衆議院議長が東京大証事件に関連して辞任(12月) 世界…英国のビートルズが音楽で世界の寵児に(通年) 中国で文化大革命(通年)★1967(S42)年の大きな動き★ 国内…新宿西口広場が完成(1月) 日航が世界一周線の営業開始(3月) 富山県の奇病イタイイタイ病は三井金属神岡鉱業所廃水が原因と学会発表(4月) ロータリーエンジン車を東洋工業が発表。自動車保有台数一千万台を突破(5月) ワンマン宰相・吉田茂が死去。(10月…’89に戦後初の国葬) 消え行く都電。銀座線を廃止(12月) 世界…インドネシアのスカルノ大統領失脚(2月) アラブ諸国とイスラエル間に戦争勃発。スエズ運河を閉鎖。(6月) 中国が初の水爆実験に成功。(6月) ボリビアでゲリラ闘争中の前キューバ工業相ゲバラが戦死。(10月) 清朝最後の皇帝溥儀が死去(10月) ベトナム戦激化。米首都で十万人反戦集会のデモ隊が座り込み。(10月) アラブ連合のアスワン・ハイ・ダムが発電開始。(11月) *************************************************************************
2003年12月16日
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1967(S42)年1月19日(木)晴 やや暖かな冬日和★関係先の約束違反を道義の頽廃(タイハイ)と嘆く 1週間にわたる私の一人相撲が終わった事を知って、先ずホッと一安心。 それと共に、もしコレがソレゾレ独立した日記形式であったら…と、夫婦日記ゆえに保ちえたとの思いと心強さを愈々実感。 テレビ番組出演の話は、あれ以来プッツリ音沙汰なしとは言うものの、こう言う良き慣習を一人でも多くの人に勧めたいと希(ネガ)う気持は年初来ますます膨らむばかりだ。 やはり話の火付け人である旧友S君の言うとおり、現代マスコミは、お色気専門でなければ魅力を感じなくなっているのであろうか。 それにしても、わざわざ上京までさせたのだから、何とか挨拶の仕様も有ろうものを…と、道義の頽廃を嘆く…。 ところで話の舞台は変るが、道義の頽廃と言えば、今日のT印刷・O課長の態度も昨今の同様な悪しき風潮の一つと見て差し支えなかろう。 同社推薦のデザイナー・NK氏が今日11時に東京から来行するから…、という連絡を昨夕受けていたので、こちらはソノつもりで副頭取にも時間を差し繰ってもらい、準備万態整えていた。 ところが、約束どうり顔を見せられたNK氏を尻目に、自分は何の音沙汰も無く、午後1時半頃になって漸く顔を現わし平気な顔だ。紹介役がコレで務まるつもりなのだろうか…。 時間の観念の無い人間は、全てに対して信頼できないと言われるが、これでは以後の作業の進行が思いやられる。 註文を取る時だけ低姿勢で、いざ受註が決まると、発注時の約束を無視して自分達の物指(モノサシ)に相手を填め込もうとする。それどころか、人前で客を舐めきった口を聞く。 T印刷では課長さんかドウかは知らないが、一歩外へ出て客に対すれば、相手が誰であろうと客は客である筈だ。 こんな礼儀知らずの奴を相手と思うと些か気が重いが、まあ、出来上がるまではジッと舐められていてやろう。 だが、覚えていたまえ。ソノ後は此方のペースで参りますよ。 こんな課長さんに高い給料払っているT印刷さんには、お気の毒とは思うがね…。(夫・誠筆)※欄外追記(1967.1.19の日記余白、「昔・誠」書き込み記事) 《一期一会》 ★好感が持てた商業デザイナー・NK氏 地元のデザイナー・OS氏と共に、東京より来行。『故会長O氏の追想』の口絵デザインについて構想を話し合う。 なかなか個性豊かな人で好感が持てた。今年36歳と聞くも、その実力は年齢以上と見た。 御幸町のS社社長の実弟だそうで、夕方資料引渡しの為、同社長宅へNK氏に同行して訪問。 『前頭取追悼録』編纂で苦渋を舐めた、上部からの無理難題に出来るだけ柔軟に対処できるようにと考えた私独自のレイアウト法を、間接的な言い回しで激賞され、些か気を強くする。 勿論この方法は、当行ならばこそ必要な一つの便法であり、他に推奨するようなものではないが、私なりに悩みぬいて考え付いた方法であっただけに、嬉しかった。 また、写真資料の整理法も、これまでにない上手い資料整理法だと注目。 その激賞ぶりに些か照れると共に、同氏の褒め上手ぶりにも感心。 やはり中央で活躍する人だけに、他人との接し方も堂に入ったもの…。見習うべきだと思う。(夫・誠筆)*************************************************************************《付記》2003年12月15日の誠、日記再読所感☆関係先の約束違反を道義の頽廃と嘆く 振り回されるだけで何の音沙汰も無いモーニング・ショー関係者への不愉快さ。 副頭取のアポイントを取らしておきながら、自分が推薦した商業デザイナー・NK氏だけを直接来行させ、紹介もせぬまま自分の来行は二時間半も遅れ、悪びれるでもないT印刷・O課長の態度の厚かましさ。 久々の幸の筆跡が夫婦日記に戻ったばかりと言うのに、誠のこの手記は何とも大荒れ。予定を狂わせられた事で副頭取に後で何か嫌味を言われたのかしらとも思う。 まあ、その誠の恨み言がマグレ当たりした訳ではあるまいが、その後、何かと接触する事が多かった大会社T印刷は倒産。ライバル社のP社に名前はその侭ながら吸収されてしまった。 思えば人の盛衰さながら、会社も盛衰様々。特に昨今は大会社も大銀行もマサカマサカのバッタバタとあって、何もかも明日知れぬ世との感をも深めるばかりの「今・誠」である。☆好感が持てた商業デザイナー・NK氏 前記の大荒れ記事に比べ、これは又NK氏をベタ褒めにした記事で、何か同じ日に書いたものとは思えないほどの両極端。 欄外のメモ的記事とあって、或いは翌日でも書いたのかとも思う。 それにしても、NK氏。なかなかの好人物だったが、その後、どのような人生行路を歩まれたものか…。 その後を何も知らないだけに、何となく懐かしさが募る。 好人物ではあったが、文字通り人生でフト行き交った「一期一会」の人であったかと…。 松尾芭蕉のアノ名文句、「月日は百代の貨客にして行き交う人は皆旅人なり」とか言った。例の『奥の細道』の冒頭の一節が脳裏を過ぎった。
2003年12月15日
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1967(S42)年1月18日(水)晴 ★モーニングショーの教育論に感じて 今朝は些か寒気も緩んだ感じ。しかし朝起きは依然として辛い。 モーニングショーで新入学児童として、必要とする条件について取り上げていた。 知識としては字を全く知らないことを条件として教えてはいる。 けれど、近頃では殆どの子が多少は読める。 だから、知らなくても良いのだけれど、中には劣等感を感じて卑屈になり、泣きべそをかく子も時にはある。 でも、自分の名前の読み書きだけ出来れば充分だ。 数は、口で一・ニ・三と数えて百まで言えるということが良いことではない。 それより、物体を前にして一つ、二つと数えて五つまで出来た方がドレだけ優れているか分からない。 一年生では、五つまでの数量を基本に教えている。 また、これらの知識の習得ばかり熱中しないで、躾(シツケ)の方にヨリ目を向けて欲しい。 洋服を始め、身の回りの事は自分で出来る。 自分の意見を他人に伝える。 お友達と仲良く遊べる。 直ぐ泣かない。 玩具(オモチャ)が無くても上手に遊べる。 こんな点に注意して欲しいと言うことであった 中でも、 現代の子は、余りにも玩具に恵まれ過ぎている。 石ころ一つ、 棒切れ一つでも、 それから遊びのイメージを引き出せる子になって欲しい。 そういう意見に考えさせられた。 そう言えば、私が子供の頃に、石蹴りをしながら、学校から家までの道を退屈せず、楽しく帰ってきた記憶がある。 けれど、今では自動車が多過ぎて、コンナささやかな気晴らしすら出来ないのは、真に可哀そうである。(妻・幸筆)*************************************************************************《付記》2003年12月14日の誠、日記再読所感☆モーニングショーの教育論に感じて 久方ぶりの幸の筆跡である。 多分、天の岩戸から天照大神(アマテラスオオミカミ)がお出ましになったように、「昔・誠」はホッとしたのでは…。(ニヤニヤ) でも、その話題が子供の教育論とは、これまた如何に…。 でも、オカッパ頭にランドセル背負(ショ)って、 石蹴りしながら、半時間程も掛けて家路を辿る幸の姿が脳裏に浮かび、 そのノンビリとした時の流れが何とも楽しかったナァ !! 尤も、何だか逸(ハグ)らかされたような、恍(トボ)けられているような、チョット妙な感じだが…。 まぁ、いいか。
2003年12月14日
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1967(S42)年1月17日(火)晴 ★独身日記と化しつつある夫婦日記 朝、出勤してきた部長が、「今朝は寒かったねぇ~。マイナス9.5℃だとか言っているのを聞いたよ…」と手を擦(コス)り擦り席に着いた。 まあ、マイナス9.5℃の真偽は兎も角として、今冬一・ニを争う寒さであった事は先ず間違いなかろう。 このところ、山の神様の御不快が続き、我家のお宝『夫婦日記』も、専ら『独身日記』と成り果てて変り映えしない。こっちも自棄(ヤケ)のヤンパチで筆をとるのを止めてやろうかとも思うこと屡(シバシバ)だが、「ならぬ堪忍するが堪忍」と我が心に言い聞かせる。 たとえ永久にママがヘソを曲げようと、はたまた横着を決め込もうと、私は挫けまいぞ ! 何時かきっと、ママ自身、自分の間違いに気付く日もあろう。 私は唯黙って、来る日も来る日も、ママの筆跡がコノ日記に蘇る日を待つ心算(ツモリ)である。(夫・誠筆)*************************************************************************《付記》2003年12月13日の誠、日記再読所感☆独身日記と化しつつある夫婦日記 そもそも『夫婦日記』の企画は、毎日家で子育てに追われる幸との上滑りでない会話を促進しようと始めたものであった。そしてマタ幸も、それに両手(モロテ)を上げて当初は歓迎し、共々に喜んでいたものだった。 ところが、実際に書き始めてみると、嬉しくなる記事より、気の滅入る記事の方が何か多くなりがちだ。 それに甘い事ばかり書いていたのでは、書き合う事で夫婦が切磋琢磨しながら理解を深め向上していこうというのが、夫婦日記本来の目的。 それゆえ、まさか私が書き込む内容が気に喰わないと言うのがキッカケかもしれないが、こう再々子供みたいに拗ねまくるとは思わなかったよん。(トホホ) 今日も、ソンナ風に呆れながら読み直すうちに、いやコレは幸という女の持って生まれた性格なのかも? 何かと早飽きしがちな己の短所を糊塗するため、些細な相手の言葉尻を捉えて言い訳にしたがる…。テナ事をも考えたくもなった。 なぜなら、長続き出来ないのはコノ日記だけでなく家計簿だって同様の事。ソンナコンナから、本人の希望で我家の家計は今も、私が管理する総合勘定と、その一部を幸が管理する台所勘定との二段構えの侭で終始してきた。 「主婦の経済観念を養わせる為には、幸さんに家計を全て任さねばいけない」。 そう姉からも再々アドバイスされたものだった。 それゆえ結婚当初は、台所勘定の出入りだけでも明細を記すよう家計簿を毎年渡したものだが、使い切ったのを見せられた事は無い。 この家計簿なしでは困るのが、掛け買い品の照合や、冠婚葬祭等の受贈金品の記録の閲覧が出来なくなることである。 それに昨今はクレジットカード時代とあって、カードを上手に使いこなすか否かで家計にも相当の影響が出がちだ。でも毎月の決済勘定の照合管理が出来なくては、カードは「百害有って一利なし」ともなりかねない。 それゆえソノ基本となるのが家計簿や日記であるとの認識を幸にも新たにしてもらい、私に万一の事があっても困らないよう、幸にパソコンのイロハなりと教え込みたい私なのだが…。 まあソンナ訳で、今に至るも全面的な家計の遣り繰りは私が管理せざるを得ないのが実情の我家だ。 勿論、主婦が自分の家の資産状態を知らないでは済まされないとあって、折々に細々と現状を説明理解はさせてはいるのだが、やはりイザと言う時に必要な情報をディスプレイ上で確認して行動できるようにしたい。 つまり、生身の人間同士、何時如何なる事になるかも知れないのだから、主婦の日常の家事も含めて互いの守備範囲のイロハだけでも教えあい、不完全であろうと何時でも何とか代行できるようにせねばと痛感する昨今である。 オヤオヤ、何時もながら今日もまた話が大分脇道に逸れた感じだ。 そこで、ソンナコンナは兎も角として、そろそろ天岩戸(アメノイワト)にドロンした侭のウチの山の神様にも御機嫌を直して登場いただき、共にゴールを目指して二人三脚に精出してもらいたいものだ。 それではソノ御機嫌直しとして、結びの一番とも云える昔懐かしい我が心の一曲を岩戸の前で紹介し、日の巫女様お出ましの誘い水としよう。「君待てども♪」(東 辰三 作詞 作曲. 唄 平野 愛子.)1.君待てども 君待てども 未だ来ぬ宵 侘(ワビ)しき宵♪ 窓辺の花 一つの花 蒼白きバラ♪ 愛(イト)しソノ面影 香り今は失せぬ♪ 諦めましょう 諦めましょう 私は一人♪ 2. 君待てども 君待てども 未だ来ぬ宵 朧の宵♪ ...♪ (フフフ…。どうやら、岩戸がチョイと開き始めた様子。どうぞ明日の日記にご期待を…)
2003年12月13日
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1967(S42)年1月16日(月)晴 ★凍(イ)てつく夜の揚水ポンプ修理と入浴雑感 先日来、直ぐモーターが空回りするので、ご機嫌とりとり使っていた自家用揚水ポンプが、この凍てつく今夜、とうとう自制不能となってしまった。このまま放置しておけばモーターが焼けてしまう事は火を見るよりも明らか…。 冬の夜寒を衝いての修理は身に堪えるが、これは男の役目。何を置いてもやらずばなるまいと、悴(カジカ)む指先に息を吹きかけ吹きかけ漸くの事でナットを緩め、コントロール・タンクの中の余剰水の排水に努める。何だか指先の感覚がなくなってしまいそうな冷たさだった。 でも、約半時間程して正常に戻ったポンプを使用して早速風呂を沸かし入浴。暖かな湯船に浸かり、カチカチに凍てついた身体が、次第次第に解(ホグ)れてゆく感じは悪くない。 こんな調子で他の難問も片付いてくれれば、本当に苦労の仕甲斐もあろうものを…と、余りの心地よさにフト思った。(夫・誠筆)*************************************************************************《付記》2003年12月12日の誠、日記再読所感☆凍(イ)てつく夜の揚水ポンプ修理と入浴雑感 文末に《参考》として再度掲げておくが、今年正月早々のトイレ修理等を記した日記に続く、バクさん版の『男は辛いぜ』の主題に相応しい内容だと、往時をマザマザと思い浮べながら興味深く読んだ。 当時は未だ両親が自分達の隠居場所として造ったままの我家だったが、その主棟北側前半部分がウォーター・ゾーンになっていた。表側から風呂場と勝手口兼焚き口があり、その奥が台所だった。そしてその奥の外壁を利用する形でポンプ置場兼物置小屋を造ったのは私達だった。 台所に使う飲料用の水は、独身時代から既に市水を利用していたが、戦災まで使われていた井戸も有ったので、風呂や庭の水撒き等にはこの水をポンプアップして使っていた。 でも相当深い井戸だったので揚力に無理がくるのか、結婚直後に取り替えたポンプも何かと故障がちで、再々こうした騒ぎをした事が思い出される。 でも、この建物が出来たばかりの頃に較べれば、時タマの故障ぐらいはマダ極楽のうち。 捻るとジャーの水道が四六時中使えるだけで有り難かったものだ。何しろ、未だ市水もポンプアップした水道もなく、全てコノ古い井戸の水を手漕ぎのテコ式ポンプをギコギコ漕いでバケツに汲み出し、それを大汗かいて台所の大甕や五右衛門風呂の浴槽まで、何度も何度も往復して蓄えて使っていたものだ。 そんな昔の苦労話も、今コウも時が過ぎると、何とも懐かしい思い出である。思えば、遥々来つるもの哉って心境である。 *************************************************************************《参考》2003年3月19日掲載「古い日記⑪」一部抜粋 1966(S41)年1月14日(金)晴★“男は辛いぜ”第一話「臭~いお仕事を先ず…(夫)」 明日から今年初めての連休。…と言ってもタッタの二日間だが、やはり何となくユッタリした気分になるから妙なものた。 学生時代には、一年のうち半分が休日のような計算だったが、銀行員になってからは、例え一日の休みでも疎かにしたくないという、実に世知辛い立場に追いやられた為だろう。 ところで明日先ず片付けなければならない事は、元日以来そのままにしてある、腐って落ちかけたトイレの床の修理だ。 頼んである大工を待っていても埒が開かないから、上手く出来るか甚だ不安だし面倒臭くも有るが、自分以外に男は居ない我が家とあっては詮無きこと。鼻を洗濯鋏で摘んででも臭~い仕事に挑戦しなければなるまい。全く「男は辛い」と涙もチョチョ切れそうだ。 さて、臭~い話のしついでに、更に一つ臭い話を加えよう。 それは我が家の二の姫「二美(つぐみ)」の事だが、このところ大分お通じに困難を来たしている様子だ。 何でも一日三本毎食後にバナナを食べないと、どうもお通じに支障を来たすという妙なクセが二美姫には有るらしい。 マアそんな訳で、これからサラリン錠ならぬバナナを買いに街まで一走りしてくるところなのである。「では、行ってまいりま~す !」。《誠》
2003年12月12日
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1967(S42)年1月15日(日)晴 ★恒例の日の丸行進中止に反撥 例年なら日の丸の掲揚運動を熱心に展開された亡き頭取の遺志を継いで、ボーイスカウトが市中を行進する筈の今日「成人の日」である。だが今年は、交通が渋滞する怖れありとして警察の許可が下りず中止になった由。真に残念である。 思想的には中立のつもりだが、日の丸を日本人の心に蘇らせようと言う事には、諸手を上げて賛成である。 これは思想の問題ではなく、日本人としての良心の問題なのだ。 日本の明るい未来をとを考えるなら、多少の難点を克服しても、日の丸行進は官民一体となって毎年この日に実行し続けべきだと思う。(夫・誠筆)*************************************************************************《付記》2003年12月11日の誠、日記再読所感☆恒例の日の丸行進中止に反撥「これほど国旗が人々に疎外されている国は他にない。これでは日本の未来は真っ暗だ !!」、 そう慨嘆。オーナー頭取としてS銀行の社会奉仕活動の眼目に組み込み、国旗セットを隣組や希望者に無料で配り始めたのが前頭取だった。 以来、自分が創設した当地のロータリークラブを始め、ボーイスカウトや各自治会長の協力も得て、日の丸掲揚運動を実に熱心に推進された。 勿論、県東部の経済界の筆頭とも言える人物だったから、運動は鶴の一声で広がり、敗戦後は半ば忘れ去られて久しかった日の丸の旗が、祝祭日の沼津市や近隣市町村の軒先を賑々しく彩ったものである。 ところが御本人が急逝されて数年にして又、元の木阿弥。 率先して行進に参加協力していた市や警察の幹部、そして各団体の有力者達の姿が思い出されてならない。 皆々単なる茶坊主。心からの共鳴者は殆ど居なかったようだ。 余りにも手の裏を返したような人の世の流れを思い、何だか「カタリ~♪ カタリ~♪」と唄い出したくなっちゃったなぁ~。 ちなみに、「カタリ~」は、即ち「薄情(ウスナサケ)」。 あのイタリーの個性派女優、ジーナ・ロロブリジーダだったと思うが、確か同名の映画の中で唄っていたカンツォーネを思い出しての事。 なお、この「カタリ~」を確か「薄情(ウスナサケ)」と訳していた邦題名については、相手方主人公名の意訳では…とする説もある。 実は掲出直後に、この古い日記を愛読してくれてる旧友U君から電話があり、伊・仏・西・英等の辞書を引いてみたが「カタリ~」を「薄情(ウスナサケ)」または「薄情者」と訳す国語が見当たらない由。 何分にもコノ古希過ぎ爺の記憶ゆえ、そう言われると余計自身がなくなってきた。唯、心変わりした男を恨み、悲劇のヒロインが、そう繰り返し歌うシーンがあった事は確かだ。で結局、マア当時よくあったドラマの主人公名を意訳して、邦題や歌詞に用いたものならんとの結論に落ち着いたと言う訳だ。 ハハハ、まあ、そんな嬉しい友情の電話の話も書き加えたので、余計に「閑話休題」部分が長くなってしまった感じだが、問題は日の丸掲揚運動のソノ後の儚さだ。 日の丸には戦時中の日本軍の象徴とされ印象付けられた過去の暗いイメージが付き纏(マト)う。 しかし、そうした経緯(イキサツ)からくる難点もあろうが、本来は生命の根源であり太陽を象(カタド)ったもの。赤は燃える太陽とか躍動する血潮を、白は清廉潔白(セイレンケッパク)を意味するとも聞く。 これほど日本人の心にピッタリとして、国民生活を鼓舞し、清々しさを感じさせるデザインが他に考えられようか。 しかも単純明解にシンボル化され、子供でも即席で描いて使うことが出来る。正に「グッドデザイン賞」ものと言えよう。 オット、そう言いながらも、我家とて何時の間にやら祝祭日に国旗を掲げる習慣なんて「今、何処?」といった現状…。(ニヤニヤ) まあ、次の祝日「天皇誕生日」の掲揚には、天皇の名で長兄を沖縄で犬死させられ、生家まで焼かれた私ゆえ、正直なところチョイ抵抗がある。それに今も尚、ソノ股肱の臣とやらヌカス亡霊達が横行し、不愉快な思いをさせられ続ける世の中とあっては、前頭取亡き今、どうもソノ気になれないのが何か残念。 だが、せめて元日ぐらいは門前に日の丸を久々に掲げたいもの。そして亡き前頭取の愛国の熱情を再思再考してみよう。 でも、日の丸の旗、何処に在ったっけかなぁ…?(トホホ)
2003年12月11日
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1967(S42)年1月14日(土) ★女子行員へのG部長の教訓「一銭にもならない仕事をして、夜遅くまで起きているんだったら、朝早く起きたらドウなのよぉ… !!」と言うママの不協和音に今朝も明ける。 基礎体温を測る習慣を付けなさいと、私が何度注意しても三日坊主(?)に終わってしまう事と、就寝する際の着衣の整理用にと私が買い揃えてきた積み重ね式の脱衣篭が、何時まで経っても計画通り利用されていないという事の二点を、前夜に私が注意した事へのお返しと見たは僻目(ヒガメ)か…。 ところで、これは今日銀行の先輩A氏の家の新築祝いに招かれた折のG部長の話であるが、同席した女子行員への教訓にと、こんな事を言っていた。「皆は将来、良い奥さんになろうと思って居るだろうが、結婚して安心してしまうのか、とかく初心を忘れがちだ。だからご主人が外で人に言えないような面白くない事があったのも知らず、お酒臭いわ~とか、コンナに遅く帰ってとか、電話ぐらい架けれないの? 気が利かない…」などと言って怒り散らす事になる。 だが男にしてみれば、そういう時にこそ、優しい妻の心遣いが必要なのであって、ここで夫を暖かく迎え抱擁できる人こそ、賢夫人であり、夫の心を独占できる人だと言いたい。 どうか貴女方が結婚したら、こういう奥さんになるよう心掛けていただきたい。そうする事によって、男は安心して仕事に精を出す結果となり、生活も物心両面に亘ってより豊かになる。つまり、これこそ家庭円満の秘訣だよ」 と、話してた。 まあ、良く聞く内容の話ではあるが、今の幸に落ち着いて味わって貰いたい言葉だとも思う。〔追記〕お互いにより理解し合おうという善意で、この記事を読んでもらいたい。決してお前が憎くて書いたのではない。否、むしろ、お前にヨリ惚れこみたいと思って書いたのだ。(夫・誠筆)*************************************************************************《付記》2003年12月10日の誠、日記再読所感☆女子行員へのG部長の教訓 何時まで経っても計画通り利用されていないと、幸への反論としていた二つの事を、「昔・誠」が何故口を酸っぱくして実行させようとしていたかは、言わずもがなとは思う。 だがソノ頃、私達の間で特に問題とされていた個人的な事情もあっての事だけに、些か理解しにくい面もあろうかと、念のため一応説明しておこう。 即ち、 (1)「基礎体温を測る習慣」 未だ男優位の社会だったし、安心して若水家を任せられる男の子が欲しかった。 だが上も下も娘だったし、前頭取急逝と云う急変もあって家計の見通しも暗転。 止む無く以後の出産を諦めさせ、受胎調節に入っていた為である。 (2)「着衣整理用脱衣篭の利用」 当時既に予告喧伝されていた駿河湾大地震への対処用だ。 あれから早くも半世紀近い時が流れてしまった。 そして今も尚、日々明日にでも起こりそうに伝え続けられているこの問題だ。 余りに長く同じ事を言い続けられ、何だか耳にタコが出来ちゃった感じである。 良く「風が吹けば桶屋が儲かる」と云うが、 火災保険料は他地域より割高となり、防災用品も常に更新整備が必要となる。 そして何より、夜も枕を高くして眠れぬ侭なのだ。 何か狼少年に脅かされどうし…って気さえしてくる。 まあ、そんな事を云っては叱られそうだが、直接繁盛しだしたのは、講演引っ張りダコの地震学者さん。 そして桶屋に当たるのは防災設備に関係した、土建屋さんとか資材屋さん、さらに倉庫業者等々。 さらに昨今見逃してならないのは、この受注を巡って暗躍する政財官関係者の悪鼠族の暗躍だ。 なに、下衆の勘ぐりかも知れんけど、余りに長い警戒警報に、嫌味の一つも言いたくなるのが庶民感情。 まあ、老いぼれの戯言と許してやっておくんなんせ。 そして(2)の脱衣篭は、就寝後の地震対策としてであった。 つまり、夜中に地震があった場合、寝ぼけて起きても直ぐ着たり持って逃げれるよう、子供達も見習うよう私も妻も率先して実行。地震教育と整理整頓の躾教育を併せて実行したかったからだった。 ともあれソンナコンナの朝の一幕があった事や、相変わらず夫婦の約束事である日記をサボリたがる幸に、内心で相当イラ立っていた気持ちが、残りの全文を書き連ねさせた訳だと思う。「先輩A氏の家の新築祝いに招かれた折のG部長の話」という、お誂え向きの教訓がソレである。 前任のHハゲ部長が空威張りばかりして人気がなかったのと比べ、私のような反骨行員の心も上手く掴んでいたG部長だけに、「昔・誠」は良い時に良い事を言ってくれたと早速この古い日記に引用して己の女房教育にと思った気持ち、分かるよナァ。*************************************************************************※1967.1.14の日記余白、「昔・誠」書き込み記事(一部)*発信 ・委員長序文の代筆を依頼され、要望事項を大体取り纏め高林先生宅へ届ける。*行動 ・影山城式バーナー購入(新機種定価6000円-旧機種下取額3000=実支払額3000) ・庶務部調査役A氏宅新築祝(3:00pm~8:00pm)に出席のため三島へ。 なかなかの文化住宅。共稼ぎなればこそと感心する。 祝儀(出席者合算10000) ・帰途、T用度課長とMさんが沼津まで同乗。 途中、沼津駅北の駿河ビル「王城」に誘われ、Tさんに御馳走になる。 ※コーヒー&フルーツポンチ ・9時帰宅。購入した風呂バーナーの石油タンク接続作業実施。 テストを兼ね風呂を沸かし入浴後、午前1時に就寝。 *************************************************************************
2003年12月10日
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1967(S42)年1月13日(金)曇りのち晴★日本一会長退職金お手盛り支給の蔭で行員が思う事 昼食後、この正月に愛鷹山麓にある頭取宅で撮ったと言う、一連のカラー写真を届けに写真屋が来た。 玄関から裏の物置小屋のあった方まで以前の面影は全く無い。 その見事さを見て、同じ机を並べるT君は、「恐らく庭の造作を造り直すだけで数千万円は掛かっただろう」と想像していた。私も多分そうだろうと思うし、又、事実なかなかの出来だ。 だが、素直にソレを口に出して褒める気がしないのは、私の心が理不尽に歪んでいるからだろうか…。 今日もアレから私は、『故会長追悼録』編纂委員長であるI 副頭取の命によって人事部から重要書類の役員名簿を借り出し、当行に於ける「故会長」の経歴書を掲載すべくリライトしたのだが、最終行の「弔慰金三億円支給」という文字が、正直のところ何とも目障りでならなかった。 何故ならば、我々一般行員の退職金の現状がコレとは余りに対照的に過ぎるからである。つまり、最近定年退職された支店長級ですら高々三百万円台がヤッとと云った実情を思うと、余りに唖然(アゼン)とさせられる金額と言わざるを得ないからである。 以前もコノ日記の中で少し述べたと思うが、弔慰金三億円と言うのは、今迄日本の如何なる大企業の役員にも一寸ソノ例を見ない数字だそうだ。 それゆえ、先期の大蔵省検査でも此の点が問題となり、精々二億円が認めうる限度だと言われたと聞く。それは極々当然の事、誰が考えても驚くに決まっている。 しかし裏で如何なる工作がされたのか、どうやらコンナ滅茶苦茶な我田引水が、行員の知らぬ間に罷り通ってしまっていたようだ。 それも、そうして銀行から支払われた弔慰金の行方が、創業者の親族に公平に分配されるのなら兎も角。前回の故頭取弔慰金一億円の相続法同様、頭取の三人居る息子の一人をチャッカリ養子に据え、これを受け取ると云った厚かましさだ。 言うなれば、自分だけに銀行から日本一高額な弔慰金を相次いで支給させる一方。部下達には、退職して喰えなくなったら一家心中でもせよとでも云うに等しい、同業中で日本一低額な退職金を強いている事になる。 今度の政府の目論見によると五百万円迄の退職金には税を掛けない事にしようという話だが、これから推しても私の思いが邪(ヨコシマ)だと云えるだろうか…。 とにかくコンナ状態が続き、コウシタ矛盾を毎日の如く見せ付けられているのだ。果たしてソノ下に忠誠を誓い、頭取親子の繁栄を素直に喜ぶような御目出度い部下が育つだろうか…。 自分は幸に内心で笑われても、この首枷(クビカセ)を断ち切る事にも繋がる有意義な「バクさんの夢」を、是が非でも育て賭けてみたい。 そうする事で、新たに頭取となって私に君臨。理不尽ばかり押し付けるOという我利我利亡者との悪縁から逃れたい。 そう思う気持ちにさせられるのも、実は彼等と日々接せざるを得ず、コンナ不愉快さを愈々(イヨイヨ)痛感させられるからなのである。(夫・誠筆)*************************************************************************《付記》2003年12月9日の誠、日記再読所感☆日本一会長退職金お手盛り支給の蔭で行員が思う事 折からサラ金の帝王と言われ「武富士」のワンマンとして知られる武井保雄会長が、マスコミ関係者や社員の自宅まで盗聴させていた容疑で逮捕され、全国の話題の種となっている。 その社員イビリの様子を内部告発した記録テープなども放映される旅に、かつての勤務先だったS銀行に父・頭取の急逝で君臨する事となったO家三代目の傍若無人ぶりが連想されてならない私だ。 それも、この武井保雄会長は敗戦直後に闇米の運び屋から身を起こし長者番付日本一にまで成ったという。そのやり方は強引過ぎて批判されて当然だが、自分の才覚一つでココまで築き上げたとの事。云わば身一つでコレだけの事業を成し遂げた創業者だ。それゆえ、ワンマンを押し通しても皆が一目置かざるを得なかったのだろう。 さりながら、父・頭取の急逝以前のO家三代目が、頭取就任以前に私達が直接接し感じていたその人柄は、とても、その若さのままS銀行を率いて行くには未熟すぎると思えたものだ。 何しろ、自らの個人的な大名旅行や夜遊びのご乱行費用まで、部下の茶坊主達により尤もらしい理屈を付けさせ全て東京事務所の公用として支出させていた。この為、その余りの巨額さや厚かましさが良く本店の秘書室でも話題となっていた程であった。 だが困った事に、そうした人柄の人間ほど一旦権力を手にすると、部下の誰もが自分同様の品性下劣なものばかりと考えるものらしく、やる事も強引となるようだ。 だから頭取就任から一年と経たぬ間に、やはり噂さながら暴君ネロと化し、生殺与奪の権を握る立場に物を言わせ屁理屈を付けて我田引水の限りを尽し始めた。 思えば齢いまだ若くして権力の座についた者が、一番安易で組みし易い自己の保身策と考えたのだろう。 自分の過去の行動を棚に上げ、先ず公私混同をお経のように唱え始めたと思ったら、前頭取夫人(義母)が時々利用していた行用車の使用を禁止したのを手始めに、細々した事務用品の使用までアレコレ重箱の隅を突っつくような事ばかり言い始めた。 また営業場のみならず行内殆ど全室に、売り出されて間もないソニーの監視用テレビカメラを取り付け、行員の一挙手一投足まで見逃さずといった有様となった。 まあ異常な犯罪が日常茶飯事となった昨今なら致し方もあるまいが、未だお互いが信用し合う事で世の中の調和が成り立っていた頃の当時。これは我々行員にとって何とも許しがたい人権侵害と思えたものであった。 だから、こうした頭取の性格ゆえ、武富士と同様に組合の事務所や幹部の盗聴なども敢えて辞さなかったのではなかろうか。 とにかく、後に当時の従組委員長を懐柔して第二組合まで立ち上げ、最後まで組しなかった残りの従組と旧最高裁まで争って敗れるといった強引さを考えると、そんなことも平然と行われたのではと類推したくなった「今・誠」である。
2003年12月09日
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1967(S42)年1月12日(木)降ったり止んだり ★ナンデヤネン!? ホンマ、たのんまっせ奥さん !! 何が気に入らぬのか、このところ我家の奥方はイヤに愛想が悪い。 この日記の順番も、よもや忘れている訳でもあるまいが、自分からこの夫婦日記の事を世間に公表し、幾多の共鳴者さえ得た今である。 間違っても、擱筆(カクヒツ)などといった恥ずかしい事態は絶対に招きたくない。 また、それと同時に夫婦喧嘩もしたくない。 そんな、馬鹿なバクさんの気持ちも少しは察してほしいと思う。 ホンマ、たのんまっせ奥さん !! …………………………………………………………………… 書かぬなら 書くまで待とう 不如帰 (夫・誠筆)*************************************************************************《付記》2003年11月8日の誠、日記再読所感☆ナンデヤネン!? ホンマ、たのんまっせ奥さん !! 家康の 心になって 不如帰 とでも、下手な句を更に重ね詠みしたくなったであろう「昔・誠」の心。 何か、ジ~ンと伝わってくるような気分でした。
2003年12月08日
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1967(S42)年1月11日(水)曇 ★大荒れの中国・紅衛兵運動は、第二の革命ではなく権力闘争だ 昨日・今日とかかって月曜日の冬期休暇で集積した仕事を片付けようと努力する。手馴れたアシスタント・N嬢がいてくれるので助かる。 ところで久しぶりに今日は中国問題・紅衛兵運動に目を向けて見よう。 前にコノ問題に触れたのは確か半年ほど前(1966年8月27日《文末に抜粋掲載》)だったと思うが、今年に入って又これが一段と騒がしさを増している。 大体一国の中核たる人物が、どんな失敗があったかは兎も角として、問答無用的に失脚させられると言う事があって良い筈がない。 まあ、彼等に言わせれば、だからこそ第二の革命と宣言しているのだと言うだろうが、中共という国体に変化はないのだから国際的には単なる秩序不在の国のような印象を与える。 言ってみれば、革命は革命でも、イデオロギー革命ではなく、最も汚い権力革命だ。 それを前者と見せかける為、一部の指導者が思想的に未熟で劇し易い未成年者を嗾(ケシカ)けて暴徒化させ、いかにも自分たちだけが愛国者の如く振舞っているかに見えると言う訳。 今日は遂に劉少奇国家主席夫人までニセ電話で紅衛兵に呼び出され、強制的に自己批判を約束されたと言う。 尤もコレにはサスガの毛沢東も後難を懼(オソ)れてか、周恩来声明として、行き過ぎにブレーキを掛けようとしている模様だ。 折角、世界がソノ革命の成果に注目してきた時、こんな愚かしい事で躓(ツマズ)いてはならぬと、内心歯軋(ハギシ)りしている知識人も多かろう。「過ぎたるは猶(ナオ)及ばざるが如し」と言うのは『論語』の中の言葉だが、中国人は既に孔子を忘れたか、或いはまた民族の誇りとしなくなってしまったのだろうか…。 丁度現在のK大学が、校祖・FY先生の本来人は皆平等といった遺訓の真髄を忘れ、やたらと他人を見下し、気位の高いばかりのインテリ量産工場となっているに似た、些か空疎で皮肉な現象を感じる。(夫・誠筆)※(日記余白、?昔・誠」書き込み記事)*発信…誠よりY&T両姉さんと旧友S君へ礼状*************************************************************************《付記》2003年12月7日の誠、上記「古い日記」再読所感☆大荒れの中国・紅衛兵運動は、第二の革命ではなく権力闘争だ 今、かつての日本のように活況を呈する中国を見ると、何かコノ「文化大革命」の名を冠し、紅衛兵達が全土で暴れまわった事など嘘のような気がする。 だが、一日本市民である「昔・誠」が此処に書き残した隣国の動静所感は、その異常さや将来を案じる気持ちで満ち満ちている。 この後の余白に、「※備考」として掲げた以前の所感文抜粋や、「※参考事項」として掲げた年表記事とも併せ、往時を偲びつつ大きな歴史のウネリを体感。改めて中国と言う国の余りにも大陸的な変動の様が、戦前からを知る私なりに走馬灯のように去来する思いだった。♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪ ※備考〔2003年9月2日の『古い日記…』No.153「夏期休暇・続編(1966.8.27《♂34》)」抜粋〕★中国・文革批判 ところで中共では今、第二の革命さわぎと見られる紅衛兵旋風が吹き荒れている。「文化大革命」も「整風運動」もソノ理屈は程々理解出来ない訳ではないが、報道ソノママだとすると、正に行き過ぎだと思わざるを得ない。 一番残念に思うことは、彼ら若者が本当は自分自身で守らねばならない筈の、文化遺産に対する破壊活動である。 それが仮に帝国主義の遺物であっても、それを克服して彼らが誇る現在の中国を作り上げたという足跡を示す、良き証左である筈だ。又そうした過程で作られた演劇や美術などの芸術作品であっも、優れた作品はヤハリ優れた作品に違いない。ソノ中から明日への教訓だけを噛み分けて鑑賞できる聡明な若者を育てる事こそ大切な筈だ。 私は米国が余り好きではないが、戦時中に両国民が死に物狂いだった中で、敵国の古都を戦火から救ったと言う事実に対しては、無条件で脱帽せざるを得ない気持ちだ。 中国の歳若い連中も、何れソノ非を悔いる日がある事だろうが、失われた遺産の数々は再び人々の目に触れる事を得ない。唯々残念な事である。(夫・誠筆)*************************************************************************※参考事項★1966(S41)年の大きな動き★ 国内…国債発行による景気上昇の反面、消費者物価問題が深刻化。(通年) 航空機事故相次ぐ。下記4事故死者計371人(通年) 全日空機東京湾墜落(2月) カナダ航空機羽田空港着陸失敗(3月) 英BOAC機富士山上空で空中分解(3月) 全日空YS11型機松山空港で墜落(11月) 戦後最大の交通スト、公労協・交運共闘統一スト突入。(4月) 新東京国際空港を千葉県成田に閣議決定(7月) 自民党代議士・田中彰治、恐喝?詐欺容疑で逮捕(8月) 山口衆議院議長が東京大証事件に関連して辞任(12月) 世界…英国のビートルズが音楽で世界の寵児に(通年) 中国で文化大革命(通年)★1967(S42)年の大きな動き★ 国内…新宿西口広場が完成(1月) 日航が世界一周線の営業開始(3月) 富山県の奇病イタイイタイ病は三井金属神岡鉱業所廃水が原因と学会発表(4月) ロータリーエンジン車を東洋工業が発表。自動車保有台数一千万台を突破(5月) ワンマン宰相・吉田茂が死去。(10月…’89に戦後初の国葬) 消え行く都電。銀座線を廃止(12月) 世界…インドネシアのスカルノ大統領失脚(2月) アラブ諸国とイスラエル間に戦争勃発。スエズ運河を閉鎖。(6月) 中国が初の水爆実験に成功。(6月) ボリビアでゲリラ闘争中の前キューバ工業相ゲバラが戦死。(10月) 清朝最後の皇帝溥儀が死去(10月) ベトナム戦激化。米首都で十万人反戦集会のデモ隊が座り込み。(10月) アラブ連合のアスワン・ハイ・ダムが発電開始。(11月)♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪
2003年12月07日
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1967(S42)年1月10日(火)晴 ★草臥(クタビ)れ儲(モウ)けで餅もなし§1. 骨折り損の草臥れ儲け 昨日よりはやや暖かいとは申せ、今朝の寒さはやはり骨身に応えた。布団の中のヌク味が有難い毎日である。 寒さを衝いて駅北のK先生の所に通院したのであるが、工事の為の停電で、半時間余りも待たされた上で治療不可能と言われ止む無く帰宅。 いつも親身になってくださる先生なので、「いいえ、どういたしまして」と笑顔で病院を出てきたものの、やはり腹が立つ。 アレだけの大病院で、しかも外科・耳鼻科を中心としているのに、自家発電装置を持っていないとは馬鹿げていると思う。(妻・幸筆)§2. 七草も過ぎぬのに「オウチにはモウお餅無いの…」に赤面 !! 午後から朱門のオバアサン(幸の母)と、平田屋まで態々オモチャを買いに行く。先日、S医院の院長先生が一菜(カズナ)に、「オモチを沢山食べているかね。オモチは太るから食べなさいよ」と言われた時、「オウチにはモウ無いから、食べてないの」と返答されて赤面したことを思い出す。 いくら正月用品を節約したとは言え、七草も過ぎぬうちから、オモチがなくなる家も、そう有るものでは無いからである。(妻・幸筆)※(日記余白、「昔・誠」書き込み記事)*発信…幸よりY&T両姉さんへ礼状*************************************************************************《付記》2003年12月6日の誠、上記「古い日記」再読所感☆骨折り損の草臥れ儲け 自宅から歩くと片道約1時間ほどあるK先生の所への通院。 多分、往路は出勤前の私が送り届けたとは思うが、帰りは多分バスを二度も乗り継いで帰ったか、その行程の一部だけか又は全部を歩いたのだろう。 いずれにせよ、表立って不満を口に出来ずに疲れて帰宅した「昔・幸」の、何とも腹立つ気持ちが良く判った。 それにつけても思うのは、昨今の日本の地方都市のバス代の高さだ。 ハワイでは、オアフ島を市民の足《ザ・バス》で一日かけて一周しても、たったの85¢だったものなぁ。 それも昼食のため途中下車し、別の後続バスに乗り換えても、乗り換え切符が使えるので追加料金は不要だった。 実は昨日、毎日通院してマッサージ治療を受けている国立病院へ行くのに、丁度車で来訪した娘に送ってもらった。 いつもは自分で車を運転して行くので知らなかったが、バス代が何と往復だと1020円も掛かる事を知った。 つまり片道でも、国立東静病院と沼津駅間が320円。沼津駅と自宅付近バス停間が190円と計510円かかる。 だから毎日通院の場合、週末の休診日を除く毎月を22日とした月間バス代の合計は22440円にもなる訳だ。 距離はマイカーなら5km程だし、余りにも高すぎよう。 次は、今日の通院の帰途のバス車中での話。 途中から乗った年配の女性が五千円札しか持ち合わさず、運転手も千円以外は釣銭は出ませんと言ったきり知らぬ顔。 困惑を見るに見かね丁度5枚あった千円札と交換してやったが、降りる時に腹立ち紛れもあってか、料金が余りに高いと文句を付けて去った。 彼女の話では、東京ならコノくらいの距離なら百円台とか…。 これに対し、運転手は「客が少ないんだから仕方ないでしょう…」。 ハテサテ、近頃の田舎は住みにくくなったものだ。 昔は東京のサラーリーマンには、物価高で特別手当が付いたものだ。 今でも公務員にはソノ名残の手当てが残っていると先日も新聞が問題にしていたっけなぁ。 何時の間に、こんな現実離れした国になってしまったものかと、ホントに溜息が出てきそう…。 働き手を根こそぎ都会に掻っ攫って行かれた地方では、バスも電車も便数減と運賃高が悪循環を起こして久しい。 他の諸物価も、大都会ならピンキリ選択可能で切り詰めようもある。でも地方の庶民生活はソレも出来ない…。 一方で、議員定数は一票の格差縮小と減らされるので、過疎化を辿る地方の声は一段と無視されがち…。 何もかも、都会人の身勝手と屁理屈が生んだ日本の悪循環が原因ではないだろうか。 尚、これは話が脱線しついでの余談だが、静岡県知事が、県都まで素通りする新幹線の多さに腹を立て、県内に停車しない列車には通行税を…とまで敢えて言い出した気持ちも、理解できる。但し、如何に実行するつもりなのかは別としてだが…。 尤も、それにしては県都偏重の施設投資が多すぎるようだし、文化施設も西高東低。目糞が鼻糞に腹を立ててるようにも思え、東部に住むコチトラゆえ一寸片腹痛い感じもするけどね。 ともあれ、住民が気軽に利用できる便数と料金を呈示できないバス会社など、公共交通を担う資格は無い。 採算の良い路線も含めて独占的な営業権は取り上げ、二種免許のある個人業者も含めて新規業者を自由に公募参入させたら如何なものか。 例えば、乗り合いタクシー的なデマンド・バスのような、もっとユニークで小回りのきくシステムとし、皆が便利で利用したくなる公共の足が誕生すれば、乗客も増え自ずから採算も取れよう。そうすれば空洞化した中心街にも客足が戻って街も活性化できるのではないだろうか。 何も地方自治体が貴重な税金まで使って補助したりせずとも、そんな自由競争を促すことで、予想外の好結果が得られるのではないかとも思う。 何せ今の時代、銀行は信用できず金利は無きに等しいから有り余る資金も活用できぬ人も多かろう。一方、失職した二種免許者も多い事だろう。 そんな人々に小規模でも出来るデマンド・バス事業を認め、企業意欲と働く意欲を刺激すれば、利用者にも喜ばれる新方式の交通手段も考え出されるのでは…。 勿論、営業時の事故にも対応する新種保険を工夫させ、これに加入した車両での営業参加を前提条件としての話だが…。 ☆七草も過ぎぬのに「オウチにはモウお餅無いの…」に赤面 !!「オウチにはモウお餅無いの…」とは、思わぬ事を思わぬところで言われちゃったね。 子供は正直だから、何だかだと言わなくてもよい事をペラペラ話してしまい、時々赤面させられたものだったなぁ。 そんな一菜も二美(ツグミ)も、早その頃の私達の歳をトウに越え、その子供達である私達の外孫5人も、既に高校一年を頭に小学校一年迄と成長。同じような思いを散々経験してきた事だろう。 でも、そんな珍談が多発する就学前の子供達って、今考えると何とも無邪気で可愛いかった。 大方の親達にとって、一番子育ての楽しい時期なんだと、改めて回想させられている今日の「今・誠」である。
2003年12月06日
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1967(S42)年1月9日(月)晴 ★「陽光の中、粉雪舞うは吉兆 !!」と夢膨らませての上京談 ニュース・ショー出演の打ち合わせのため、昨8日正午の電車で上京。 途中、真鶴付近を通過する際、眩しいばかりの陽光の中を美しい粉雪が降り注ぐという、真に稀有な光景を目の当たりにした。 ソレでなくとも、コノ辺りは海の青と蜜柑畑のコントラストが実に美しい場所だ。 思わず私は読書を忘れて、この車窓の美観に見惚れた。 私が大いなる理想に燃えたコノの年の門出に、まことに吉兆と喜ぶ。 ところで、新橋駅に降り立った私は、コノ話を持ち込んだ直接の仲介者・S君と落ち合い、「バクさんの夢」を肴に酒を酌み交わす。二人だけで、色気抜きとは云え、真に愉快な一刻だった。 夜は奥沢のY姉宅に落ち着き、また「夫婦日記」の話を肴に義兄さんと酒を酌み交わす。 始めはナカナカ私の真意を汲み取りにくいかのようだった義兄も、やがて諸手を上げてコノ企てに賛成。ここでも「バクさんの夢」は果てしなく拡がり、楽しい夜が午前零時過ぎまで続いた。 さて、あけて今日9日は、CXのプロデューサーと会う予定の日。しかし架かってくる筈がのS君かKNさんからの連絡電話が一向になく、一時は彼等二人に誑(タブラ)かされたかとさえ疑いたくなった程である。 待つほどに東中野に住む下のK姉も出かけてきて、姉たち二人から色々結構なお土産まで貰ったが、どうも架かってくる約束の電話が来ないと落ち着かない。そんな訳で、姉達とは積もる話も半分ほどしか出ない有様だった。 だが午後3時、やっとKNさんから連絡が来てホッとする。 尤も、「CXのご本尊は高崎まで急用ででかけてしまったので、私が資料だけ預かりたい」との事。 誤解の無いよう、慎重には慎重を期すべき事情を良く呑み込んでおいてもらわねばと、先方の指定する日時に冬期休暇までとり、何千円もの費用を使って上京したのにと腹も立ったが、ソコをグッと堪えて、マスコミの無礼を許す。 KNさんとは、ホテル・ニュー・ジャパンのロビーで4時に会った。実に久しぶりの再会である。 NH高校演劇部時代の恩師とも言える人だが、今は「P・R・S」と言う広告・宣伝等を業とする会社を営んでいる。業務上の事で各政党や公共機関とも関係が有るらしく、ナカナカそうした話題も豊富だ。私が座興半分と云った気持ちで話した夫婦日記の事を、イケルと太鼓判を押してマスコミと渡りをつけたのはコノ人だった。 先方が今日約束をスッポかしたのも、実はモウ殆ど取り上げる事に決め込んでいるらしく、私共の事も殆ど一方的に調べが済んだ状態だからと言った気持ちがソウさせたらしい。 だが、そんな事はドウでも良かった。KNさんと会って、やはり私は無理しても上京した意味があったと喜んだ。 と言うのは、KNさんの現在の仕事は、一口に広告・宣伝業と言うよりも、「夢を売る商売」と云ったところらしい。 夢を喰って生きると自称するコチトラ「バクさん」と、「夢を売って生きる」と自称するコノKNさんが、今日こうして会ったと言う事は、将来、歴史に残る快事をも生み出しかねないからだ。 それからモウ一つ耳寄りな話がある。 他でもない、そのKNさんが昨年暮に私達の「夫婦日記」の事を聞き、取引先である佐藤首相へのお歳暮に早速そのアイデアを引用。金箔で佐藤夫妻の氏名を箔押しした革表紙の特上製日記帳を贈ったところ、大変喜ばれて更に一冊造ってくれと懇望されたそうだ。 私の発案実行しはじめた夫婦日記が、人を介してとは云え一国の首相に喜ばれたとなれば、それだけでも、もって幸いと言うもの…。 ちなみに、佐藤さんも永年日記をつけているとの事である。 さあ、バクさんの夢も愈々大きくなってきたぞ !! (夫・誠筆)※(日記余白、「昔・誠」書き込み記事)*天候…晴・寒さ厳し*外泊…東京・奥沢Y姉宅 *備考…帰途の列車で幼友達だったSTさんと会う。熱海の青木館(親戚筋)で働いている由。*************************************************************************《付記》2003年12月5日の誠、上記「古い日記」再読所感☆「陽光の中、粉雪舞うは吉兆 !!」と夢膨らませての上京談 お天気雨の事を「狐の嫁入り」と言うが、「お天気雪」の事は何て言うんやろう? 誰か知っていたら教えてくれへんか…。 それにしても、当地沼津から東京までの東海道本線で一番の景勝地と言って過言で無いのは、この丹那トンネルを出てから小田原の手前までの断崖絶壁を行く海岸路線だと思う。何故か『紅い靴』のヒロインが馬車で逢引していたモンテカルロ海岸の風景を、いつも連想させられる場所でもある。そんな際立つビュー・ポイントを通過中に起こったコノ絶景。「眩しいばかりの陽光の中を美しい粉雪が降り注ぐという、真に稀有な光景を目の当たりに…」と書き、思わず「吉兆」と声を上げたくなった程の美観が今また瞼に甦る。 常にビデオカメラを手放さない事を生活信条としている「今・誠」だけに、当時、こうした便利な機会がなく、記録に残して再現して見られないことを何とも残念に思いながら、先ず読み始めた。 久々に再会した二人の姉たちとの積もる会話も。ジレジレさせられ話半分。半日以上も待ちぼうけを食わされた挙句、ご本尊であるテレビショー側のスタッフにスッポカされ、何とも不愉快だっただろうなぁ。 先方の希望に合わせ、気乗り薄な幸のソレとない反対ムードもある中を万障繰り合わせ上京させておきながら、このマスコミの尊大な無礼さは何だ。 齢七十余歳に至るまで、その後も再々感じさられた事ながら、彼らの無責任さは、彼ら自身非難して止まない悪質な政財界人以上だと感じる手合いの、何と多かった事か…。 まあ、各界共に人それぞれ、玉石混交は此の世の常。…大事の前の小事と腹を撫で撫で待ったに違いない。 尤も、ホテル・ニュー・ジャパンのロビーで久々に再会したNH高校演劇部時代の恩師、KNさんとの出会いはマズマズだった様子。 特に、「それからモウ一つ耳寄りな話がある。他でもない、そのKNさんが昨年暮に私達の夫婦日記の事を聞き、取引先である佐藤首相へのお歳暮に早速そのアイデアを引用。金箔で佐藤夫妻の氏名を箔押しした革表紙の特上製日記帳を贈ったところ、大変喜ばれて更に一冊造ってくれと懇望された…」とある部分は、「昔・誠」ことバクさんの夢を大いに鼓舞した事だったろう。 そして、《夢を喰って生きると自称するコチトラ「バクさん」と、「夢を売って生きる」と自称するコノKNさんが、今日こうして会ったと言う事は、将来、歴史に残る快事をも生み出しかねないからだ。》と、すっかり舞い上がっちゃって、《さあ、バクさんの夢も愈々大きくなってきたぞ !!》と結んでいるコノ部分は、「今・誠」にさえ何とも滑稽。 だが、多分その時の「昔・誠」の心は、何か、新興宗教の教祖を目指していたのかも…と思えば、少しマトモに理解できなくもない。 つまり、「書きたくない事は書かなくても良いが、自分の良心に反するような嘘や、読ませようとするためのフィクションは決して書かない日記をつける」という、自分の心に住む神との約束事。 これを守る「日記友の会」会員を増やす事で、元来は善良だった日本人の心の精神復興を目指す。 そんな、一種の新興宗教的な企てだったのではなかろうか。 いずれにせよ、夢見る男「バクさん」らしい、些か何かに酔っ払ってたような、見果てぬ夢の筆跡といったところか…。(トホホ)
2003年12月05日
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1967(S42)年1月7日(土)晴 ★一菜(カズナ)と二美(ツグミ)に書き伝えたかった往時の七草粥 昨日のママの日記は簡潔でヨロシイと言いたいところだが、私が今日から東京へ行くと言い出した事でオヘソが曲がっているため、こういう次第に相成った事。やっぱりイタダケナイと正直に感想を述べておこう。記事の真実性を曲げては、子や孫達と言う大切な将来の読者を裏切る事になろうから…。 さて今日は7日、「七草粥」の日である。 この日本ならではの行事も、多分一菜と二美達が大きくなる頃には、スッカリ忘れ去られてしまうのかも…。 パパが幼い頃は、よく正月6日晩、お店のオジイチャンやソノまたオジイチャン(祖父の祖父と言う意味ではなく、祖父の父の意。つまり若水勝と力を指す)が、店頭に続く帳場があった階下の中の間に家族を集め、全員の無病息災を祈りつつ七草粥の行事を古式に則って行っていた。 先ず、明々と灯明がともり山海の供物が並ぶ北側前面頭上の神棚下に、木の香匂う新しい大きな俎板が置かれる。 その上には色鮮やかな春の七草〔芹(セリ)・薺(ナズナ)・御形(ゴギョウ)・繁縷(ハコベラ)・仏座(ホトケノザ)・菘(スズナ)・蘿蔔(スズシロ)〕が山盛りされ、先頭に座った勝(カツ)と力(リキ)が両手に持った菜っ切り包丁と擂粉木(スリコギ)で、拍子と音頭を取って始まる。「七草なずな 唐都(?)の鳥と 日本の鳥が 合わせてバッタバタ ♪」とリズム良くコレに従い、皆で何度も繰り返し合唱しながら用意された七草が瞬く間に叩きあがり切り刻まれていった。 絣の着物を着せられ未だ幼稚園児だったパパは、お店のオバアチャンの膝の上でコンナ光景を見ていたんだろう。 傍には、沖縄で戦死したK伯父さん、お店のY伯父さん、そして奥沢や東中野の伯母さん達。そして未だお嫁に行かなかったお店のオジイチャンの末の妹であるH大叔母さんも居た筈だった。市井の家庭は何処も同様だったとは思うが、大家族ゆえの悩みを色々抱えた私達家族だったが、こんな時は皆々好奇の目を輝かせ、力お祖父さんや勝お父さんの仕草を見守っていた事と思う。 尚こうして仕上がった芳しい春の七草は、一晩中明々と蝋燭が灯り続ける神棚に供えられた。そして翌朝パパのお母さんたちの手で美味しく調理され、馥郁(フクイク)たる匂いと湯気をたてる「七草粥」として食卓に現れた。 ちょっぴり塩味が効き、お餅も混じった真っ白いお粥の中に、春の七草の緑がトテモ鮮やかで印象的だった。 まあ未だ子供だった私にとっては、見た目ほど美味しいものではなかったようにも思うが、こうした家族揃ってのお祭騒ぎには何かワクワクさせられるものを感じていた私だった。 何しろ、三世代十数人と住み込みの従業員数人が、額を寄せ合うように生活していたのが当時の若水本家だった。奥の茶の間でフーフー音を立てて賑々しく味わい合った楽しさは、多々批判も残る大家族主義時代の良き一断面として記憶に残る。 今日の日記は、こうしたパパの幼い日の思い出が、何時か一菜と二美やソノ子供達に読まれる日を夢見て綴ってみました。(夫・誠筆)※(日記余白、「昔・誠」書き込み記事)*西風強く、ことのほか寒い一日。*出初式…例年の如く狩野川西岸に市内の消防車が全て勢揃いし、七色の水を放水。 ソノ美しさを家族の者にも見せてやりたかった。1967(S42)年1月8日(日)晴 ★この物価高が続けば、やがて七草粥の風流も…?「ホーレン草1把40円也」に目が飛び出す。 掛り付けの小児科医S先生が仰るには、「子供に高い栄養剤を飲ませるより、ホーレン草のバター炒めやマヨネーズ和えを、タップリ食べさせた方が価値がある」との事。でも、コウ高くては目ばかり出て、手が出ない。 七草粥を味合う風流な習慣も、この野菜高ではマスマス消え行くばかりと言う感を深めた次第。 ババは上京。 例の件でテレビ関係の人と会うと言うけど、パパの鼻息が妙に荒くて、後を付いて行くのに骨が折れる。(妻・幸筆)※(日記余白、「昔・誠」書き込み記事)*ことのほかの寒さ、今日も続く。*************************************************************************《付記》2003年12月4日の誠、上記「古い日記」再読所感☆一菜(カズナ)と二美(ツグミ)に書き伝えたかった往時の七草粥「この日本ならではの行事も、多分一菜と二美達が大きくなる頃には、スッカリ忘れ去られてしまうのかも…。」 そう書いて「昔・誠」は、その幼い頃は何処の家々も行っていたであろう七草粥の行事を懐かしみ、消え行く日本の伝統に名残惜しさを滲ませている。 一般の商家や家庭で、今も前夜からコンナ風な古式に則って家族共々仕度をし、七草粥を食べるしきたりが今も受け継がれている家は、今もあるのだろうか。 確か七草の日のニュースショーか何かで、これに似た昔ながらの七草粥の仕来りを見た事はあった。 でも、よほどの豪商か旧家ならともかく、昨今では七草等の全ての材料を鍋に入れて煮るだけの、所謂インスタント物で誤魔化す家さえ珍しくないのではなかろうか…。勿論、我家もその類なのだが…。(ニヤニヤ)☆この物価高が続けば、やがて七草粥の風流も…? ところで、1月8日(日)の「昔・誠」の上京は、幸奥様どうも気が進まなかった様子。 そんな雲行きを尻目に、敢えて上京に踏み切ったソノ模様は、明日の日記で紹介される。 ハテサテ、「鼻息が妙に荒くて、後を付いて行くのに骨…」とまで幸に書かれた「昔・誠」こと「バクさん」の夢の行方や如何?
2003年12月04日
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1967(S42)年1月5日(木)晴 ★北国から豪雪の第一報&幸のハッスルに思う ニュースが東北・北陸方面の豪雪の模様を伝える。 新年の休みを利用してスキーを楽しみに出かけた人々の多くが、足を取られて帰れない状態だと言う。 でも、まだ列車は9時間ほどの遅れで動いているようだ。完全にストップなんて事にならぬようにと他事ながら案じられる。 ところで昨日、私の書いた日記を幸ちゃんが直ぐ見て、クスクス笑っていた。 コノ調子なら、奥さん角を出さずに済みそうだ。やはり吾輩の筆も満更でなかったと、一人悦に入っていたところ、これは又どうだ。 その日の内にすっかりハッスルしちゃって、2ページにギッシリと亭主野郎の悪口が並んでいようとは…。 原子力ではないが、この馬力を平和利用したらと思わずには居られない。(夫・誠筆)※(日記余白、「昔・誠」書き込み記事)*何十日ぶりかで、一菜(カズナ)を風呂に入れる。「アカツキの君」と悪口を言われないよう、シッカリ磨いてやりましょう。*年賀状(1/1~5) 受 信 数 計92通 追加発信数 計13通1967(S42)年1月6日(金)曇★寒の入り 比較的暖かい寒の入りでした。(妻・幸筆)※(日記余白、「昔・誠」書き込み記事)*S君より夜10時頃、CX出演の件で電話連絡あり*************************************************************************《付記》2003年12月3日の誠、上記「古い日記」再読所感☆北国から豪雪の第一報&幸のハッスルに思う☆寒の入り 正月早々の北国豪雪は、その後どうなったのだろう。 陸路・空路・海路共に目を瞠る程に進歩した今でも、雪に足をとられて悩む事の多い北国。 だがこの古い日記を書いた当時は、交通ストと共に年中行事だったような感じがする。 つまり、角を削がれ弱体化した労組運動や地球温暖化を連想させる記事でもあった。 さて、新春早々から始まった紙上夫婦喧嘩直後の誠の手記を読んで、何か仲良しすぎる子供同士が、時々相手をオチャラカスつもりで書きあった事が、アレアレ何時かエスカレート。本気で心にも無い罵耳憎言を投げ返されちゃった。…てな感じにも思えた。 幸も、その愚に気付いてか、次の日記は季節の挨拶みたいな唯一行で終わっている。まあ「黙殺」、或いは良くって「沈黙は金」って意思表示だったろうがね。 ところで元旦以後、原稿罫の自由日記ページ上の余白にメモ的記事が書かれて居るのを見落としていた。「※(日記余白、「昔・誠」書き込み記事)」の小見出しを付し、出来るだけ書き写しておこう。 つまり、そんなメモ的なものでも本文を補完し、当時を偲ぶ何らかの意義ありと思っての事。勿論、内容によって公開・非公開に仕分けして書き残すべきとは思うが…。 ※参考事項★1966(S41)年の大きな動き★ 国内…国債発行による景気上昇の反面、消費者物価問題が深刻化。(通年) 航空機事故相次ぐ。下記4事故死者計371人(通年) 全日空機東京湾墜落(2月) カナダ航空機羽田空港着陸失敗(3月) 英BOAC機富士山上空で空中分解(3月) 全日空YS11型機松山空港で墜落(11月) 戦後最大の交通スト、公労協・交運共闘統一スト突入。(4月) 新東京国際空港を千葉県成田に閣議決定(7月) 自民党代議士・田中彰治、恐喝・詐欺容疑で逮捕(8月) 山口衆議院議長が東京大証事件に関連して辞任(12月) 世界…英国のビートルズが音楽で世界の寵児に(通年) 中国で文化大革命(通年)★1967(S42)年の大きな動き★ 国内…新宿西口広場が完成(1月) 日航が世界一周線の営業開始(3月) 富山県の奇病イタイイタイ病は三井金属神岡鉱業所廃水が原因と学会発表(4月) ロータリーエンジン車を東洋工業が発表。自動車保有台数一千万台を突破(5月) ワンマン宰相・吉田茂が死去。(10月…’89に戦後初の国葬) 消え行く都電。銀座線を廃止(12月) 世界…インドネシアのスカルノ大統領失脚(2月) アラブ諸国とイスラエル間に戦争勃発。スエズ運河を閉鎖。(6月) 中国が初の水爆実験に成功。(6月) ボリビアでゲリラ闘争中の前キューバ工業相ゲバラが戦死。(10月) 清朝最後の皇帝溥儀が死去(10月) ベトナム戦激化。米首都で十万人反戦集会のデモ隊が座り込み。(10月) アラブ連合のアスワン・ハイ・ダムが発電開始。(11月)
2003年12月03日
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1967(S42)年1月4日(水)晴 ★「夫婦喧嘩日記」事始め§1. 里帰り 妻は亭主を 思い出し 幸の筆になる昨日の日記を見て先ず思った事は、婚約時代の幸が如何に愛らしかったかといった感慨であった。 デートの後など、よく両親の許へ送り届けたものだったが、別れ際、私に甘え「泊まっていってくれ」と駄々を捏ねられた事もあった。 勿論そんな訳にはいかない事は百も承知でありながら、そういってみせる子供っぽさに何か魅かれるものを感じた私だった。 それが、どうだろう。僅か六・七年で、昨日の里帰りが如何に久しぶりだとは言え、「亭主の朝ご飯まで心配しなくちゃいけないの…」と言ってのけている。 勿論、「宿六(ヤドロク)」と言われようが「糞爺(クソジジイ)」と言われようが、コチトラは一向に構わないが、この調子で何十年も変貌を続けたら、ソレこそ『女を叱る』で名を馳せた悪舌家・楠本憲吉氏(俳人) の言葉ではないが、「鬼婆(ババア)」がここにも一匹出現するのではないかと気にかかるのである。 頼みまっせ奥さん。貴女の亭主は、何時までも貴女が新鮮で可愛い女であれと希(ネガ)っているんですから…。 とにかく昨日の日記は微笑ましき限りでした。 そこで、こんな川柳どうかしら…。 里帰り 妻は亭主を 思い出し 幸に、この句の心、判るかな…。ニヤニヤ。(夫・誠筆)§2. 男とは、斯くも心の狭いものなのか… とにかく男とは、こんな勝手な者か改めて思った。 女は毎日の食事を、如何に決められた額の中で夫の気に入ったもの、栄養のあるものを作ろうかと頭を悩ます。 これはほんの一例で、全て夫中心に妻の頭の中は動いていると言って差し支えないだろう。 それが、多寡が三年の里帰りに、そういう考えから解放された。それも、ホンの瞬時に頭に過ぎったのであるが…。 その事を率直に書いただけなのに、女は直ぐに変化する。この先、コノ調子では先が思いやられるように取られるのは心外だ。 男とは、かくも心の狭いものなのか。「微笑ましき日記」だなどと後で言い繕ってみても始まらない。 女房にだけ、何時までも若くて、可愛らしくあって欲しいなんて勝手きわまりない。 自分の顔や姿をとくと御覧になって、自分と女房の釣り合いが、程よくとれているものだと、自然の働きを感心すべきだと思う。 女房ばかり生き生きしていて、くたびれた亭主では話になりませんものね。亭主が元気溌剌であれば、女房もそれにつれて自然と若くなるものだと思います。(妻・幸筆)*************************************************************************《付記》2003年12月2日の誠、上記「古い日記」再読所感☆「夫婦喧嘩日記」事始め§1. 里帰り 妻は亭主を 思い出し§2. 男とは、斯くも心の狭いものなのか… 正直なところコノ日記、又々公開の是非に戸惑っちゃった。 実は先日、見るに見かねた親友のU君から、読了直後にアドバイスも戴いた。「こんな事、公開しちゃって奥さん大丈夫か?」「いや判らん。でもモウ時効だろ。それにご本人、パソコン習いたがらんし知らぬが仏や…」てな会話があったばかり…。 ソンナコンナで、「to be, or not to be…」といった感じだった「今・誠」の結論は、やはり御覧通りであった。 その訳は、こんな内容の日記を書き合っていた私達だが、それでも尚同じ屋根の下で今も暮らす我々夫婦だし、私の善意は「今・幸ちゃん」なら理解してもらえる筈だと確信しているからだ。 何せ、アアだコウだ言い合いながらも互いに相手の健康を気遣いつつ生きている我々だ。 その壊れそうで壊れなかった事実こそ、先日この日記に幸が書いていた「物言わざれば腹ふくるる」の道理そのまま、吾等夫婦がソノ時ソノ時に思った事を互いに包まず言い合ったからこそ…と理解したかった。 そして私達がその度に、言いたい放題の思いの丈を日記に吐き出した筆跡こそ、これから何があろうと初志を忘れず長い人生を共に生きようと願う人々にとって、味わい方次第だが大切な示唆を含むもの。 つまり、克己の心を養い、見せかけではなく究極的な夫婦円満を目指す為、多くの人々に夫婦日記を勧めたい私ゆえの選択だったと、読者にも我が愛妻である幸ちゃんにも是非ご理解いただきたいもの。 そして副次的には、こんな事を如何に仮名でも書かれては…と幸が発奮し、未だ拒絶したままのパソコン学習に着手。ウェブ上で久方ぶりにヨリ有意義で刺激的な「夫婦喧嘩日記」が始められたなら、誠は夫冥利に燃え尽きて悔いなしといったところなのだが…。(ハハハ) 折から昨日、テレビも地上デジタル放送が始まった。 テレビ放送開始以来、カラー化に次ぐ画期的な技術革新だとか…。 そしてソノ特徴の一つは双方向通信が可能になると言う事だそうな。 本当にコノ新しい技術の特性を一人一人がヨリ良く活かしてほしいもの。 施政者と住民、組織と所属員、夫婦や親子など、従来ともすれば本来あるべき理想に反し、上意下達式で意思疎通が一方的になりやすかったもの。 だから、こうした文明の利器と誰もが大いに親しむ事は良い事だと思う。 そうした考えから、私達夫婦も是非共パソコンや携帯電話を使いこなしたいもの。 又、程なく地方都市の当地にも及ぶであろう地上デジタル放送の機器にも慣れ、お互いの心を腹蔵なく通い合わせたい。大いに思うところを議論しあって後、適正な理解を深められたら…と、そんな事を夢に見る今日の誠である。 ※参考事項★1966(S41)年の大きな動き★ 国内…新宿西口広場が完成(1月) 日航が世界一周線の営業開始(3月) 富山県の奇病イタイイタイ病は三井金属神岡鉱業所廃水が原因と学会発表(4月) ロータリーエンジン車を東洋工業が発表。自動車保有台数一千万台を突破(5月) ワンマン宰相・吉田茂が死去。(10月…’89に戦後初の国葬) 消え行く都電。銀座線を廃止(12月) 世界…インドネシアのスカルノ大統領失脚(2月) アラブ諸国とイスラエル間に戦争勃発。スエズ運河を閉鎖。(6月) 中国が初の水爆実験に成功。(6月) ボリビアでゲリラ闘争中の前キューバ工業相ゲバラが戦死。(10月) 清朝最後の皇帝溥儀が死去(10月) ベトナム戦激化。米首都で十万人反戦集会のデモ隊が座り込み。(10月) アラブ連合のアスワン・ハイ・ダムが発電開始。(11月)
2003年12月02日
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1967(S42)年1月3日(火) ★幸の初ボヤキ とんだ事から、お里帰り。 二美(ツグミ)のお産の時以来初めてで、その上、世田谷のK姉ちゃんたちとも一緒になったので、昨夜は一時近くまで、オバアサン(幸の母)の愚痴を聞いたりして過ごす。 朝起きると、オジイサン(幸の父)は早く帰れと促すけれど、「久しぶりの里帰りに何で亭主(失礼)の朝御飯まで心配しなくちゃいけないの…」と言ってオミコシを据える。 こういう時は、実家が近いと損だと思う。 冬休み、夏休みには、大きな荷物を持って汽車に乗り、里に帰れるという姉さん達の楽しげな話を、常々羨ましく思っている私だ。(妻・幸筆)*************************************************************************《付記》2003年12月1日の誠、上記「古い日記」再読所感☆幸の初ボヤキ「こういう時は、実家が近いと損だと思う。」と当時の日記に書き残した幸の所感。「今・誠」にとっても、真に実感だなぁ。 ナニセ、幸の御里は歩いても5分一寸程の目と鼻の先。 ソシテ、私の御里は歩いて15分ソコソコ。 ダカラ結婚後、冬休みも夏休みも、両親の下に里帰りして一泊…てな事は殆どなし。 ソレニヒキカエ、親元から遠くへ家庭を築いた兄姉達は、毎年夏冬一家総出で里帰り。 ソコデ我家も、一挙ご帰郷のお姉さま方一家のご接待に両親と共に大童(オオワラワ)するのが恒例行事。 当然不足する寝具だ座布団等の客用品補充から、お遊びのお付き合いまで、何時も車で右往左往。 当時、親と子がスープの冷めない距離に住める事って理想だと良く言われたものだった。 でも、それは親にとっての話じゃないかしら…。 特に末っ子夫婦だった我々は、一家を構えた後までも年上風に悩まされ、幸は知らぬが私はウンザリ。 なにせ、『リヤ王』の「ゴナリル」「リーガン」の如き、狡猾な年長者揃いだったなぁ…。 親に身近な末娘「コーデリア」に面倒な事は総て頼む頼むと押し付けて、肝心な時は知らぬ顔。 結局「コーデリア」に何かモノの哀れを感じさせる終幕だったが、さて「エピローグ」や如何? まあコレ、今こうした日記だから書ける、半ばウップン晴らしとも言えるピエロの独白だがね…。(トホホ)
2003年12月01日
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