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★楽天内外からのメールやカキコに刺激され、「古い日記…」暫時そのまま連載続行へ §1. U君のEメールやviafmさんのカキコを読み、暫時方針転換 この日記の休眠宣言を掲出し、空白続きが今日で早くも十日になる。 一昨夜、ソロソロ寝ようかと思って受信トレーをチェックしたら、コノ日記の外部からの筆頭愛読者である私の旧友U君から、次章にマルマル引用させて貰う事にしたメールが届いていた。 その文頭に、駄文並列の謗りを覚悟で始めたコノ日記ながら、今回の休載で「アラ探しが出来ず寂しい」とノタマウ彼氏の一言で、ここ数日の私の戸惑いに拍車が掛かった。 …と言うのは、休載に踏み切っては見たものの、この一年余も1日として欠かす事無く書き続けてきた日記とあって、空白が重なれば重なるほどに何とも落ち着けなくなってしまっていたというわけだ。 おまけに昨日はトウトウ、同じ楽天のリンク先であるviafmさんからも、「もしかして病気が悪化しましたか? 心配です。 若水 誠さんも無理しないで気をつけて下さいね!ciao.....♪ 」(2月9日0時29分)な~んていうメッセージも届いた。 まあ、この空白の十日間とて唯ノンビリ時を過ごしていた訳でもなかったが、これ以上に更新せずに過ごすと自他共に何か落ち着かない日々を重ねることになりそうだ。 それで今後の基本方針がシカと定まるまで、些か変り映えしないものの、明日から取り敢えず空白日を順次埋めていく形で「古い日記」第4巻目を暫時ランダムに書き込んで行きたい。 日々の日記の内容を吟味、セレクトして掲出するのが理想と分かってはいても、それには余りに時間が掛かり過ぎて今は不可能だ。また「今・誠」の読後感も当面は原則中止し、後日にでも気が向いたら書き加えよう。 なお、以下のU君とのメール交歓文は、その日記再開に向けての助走と、私が敬愛する旧友・U君との交友足跡を一端なりと此処に留めようとの思いを兼ねたもの。 尤も、登場人物は匿名だが、一応U君のの了解を得て引用することにしたい。§2. U君→誠宛Eメール(2004.2.8 16:24)ここのところ大兄のホームページが更新されぬので、アラ探しが出来ず寂しいことです。 (1) 昨日別便でINCA帝国の滅亡に関する記事のコピー送りました。 (2) いわゆる"Cessna"に関連して“Islander機”について調べたので、お知らせします。 大兄や私がハワイのレインボー航空で乗った“セスナ”は 英国の小型機メーカーBritten(Brittan?)-Norman社製の“Islander ”BN-2B機です。 私がPNGで乗ったのは、この旧型機BN-2Aであったようです。 Britten(Brittan?)-Norm社の工場はEngland南部Portsmouthの南にある小島Wight島のBembridgeにあるようですが、現在スイス、ルーマニア、ベルギーでもライセンス生産されており、フィリッピンにも組立工場があるようです。 現在(1999年7月現在)、NZでは15機がコンミュータ、観光、チャーター用に使われている様です。 非常に安定した安全な機材と言われていますが、1989年にはNZで2回の事故を起こしており、その内Milford Soundへの観光便は、Mt. Ilanに衝突し、10名全員が死亡し、NZ史上最悪の航空機事故の一つとされている由。 BN-2B機要目 1) 搭乗可能人員:パイロット1名+乗客9名 2) 大きさ Span : 14.94m Length: 10.86m Height: 4.18m 3) 重量 empty : 1,638kg max. : 2,994kg 4) エンジン:2x260hp Lycoming O-540-E4C5 5) 性能 最大速度:257km/h 日支事変初期の戦闘機より遅い。 上昇性能:1m/min 上昇高度:4,450m 航続距離:1,400km “セスナ関連記事をINTERNET で検索したが、かなりいい加減なホームページが多いのに呆れました。“無限軌道のことをキャタピラーというのは誤りで、本当はcrawlerである。キャタピラーとは三菱キャタピラーの製品のことである”。などと馬鹿なことを堂々とホームページに書いてあるのには驚きました。確かに”CAT”と言う場合には、米Caterpillar社と、三菱キャタピラー社のような前者との合弁会社の製品のブルドーザのことを言う固有名詞です。しかし、小文字のcaterpillarとは第一次世界大戦にタンクが考案されて以来、本来イモムシ、毛虫という言葉を、無限軌道の普通名詞として使うようになったのです。crawler は、動作の連想から無限軌道付きの削孔機(drill)を”crawler drill”等と言っているもので、絶対に無限軌道(無限履帯)を表す普通名詞ではありません。世の中には、碌に調べもせず、“知ったかぶり”をする人が多いので、ホームページで調べる場合はよほどの注意が必要です。とにかく“セスナ”とは特定の飛行機製造会社のことで、小型機を“セスナ”と言うのは、小型車を”日産”、”トヨタ”と言うのと同じようなものです。日本人は一般に余り飛行機に詳しくないので、平気で一般名詞化しているが、世界の人々、少なくとも米、カ、豪、NZ人の成人男性にこんなことを言ったら笑われます。 以上§3. 誠→U君宛Eメール(2004.2.9 0:41)拝復 インカ関係の資料を別送してくれた由、ありがとう。実は今日一日、「古い日記」を整理しながら内容をボチボチと再読するうちに日が暮れてしまった。余りに積もり積もった過去の資料に、正直なところ楽天ネタとして、何処を如何に切り取り配列するかに迷ってしまい、何か押し潰されそうな感じだ。なにしろ、結構厳しい愛読者も多い事だし、あまりザックバランの告白もツイ戸惑いがちになっちゃうものね。(ニヤニヤ)そんな玉石混淆の感が強いi記事の中で、惜しくも夭折した我等が仲間「MS君」からの祝電が挟まっていた。私達の結婚十周年の日の日記に「昔・幸」が貼付したものだ。よくも覚えていてくれたもの…といった所感が書かれていたが、友情に篤かった彼の一面を偲び、改めてソノ早逝を惜しむ…。尤も、それに感動した「昔・幸」の筆が思わず次のように私への皮肉となって跳ね返って来ていたのには、「今・誠」も改めてオヤオヤと思わせられた次第。まあ、未だ未公開の日記ながら、このところアラサガシが出来ず寂しいとかの貴兄を喜ばせようと、以下、一部を「予告編」として抜粋しておきたい。1969年2月13日(水)晴…(前略)…ところで、今日は殊に嬉しい結婚記念日になった。パパのお友達の静岡のMSさんから、前頁に貼ってある祝電を頂いたためである。三年、五年と経つうちに自分の結婚記念日さえ忘れ、「仕事に生きる男性が、いちいちソンナ事を覚えて居られるか…」と豪語する男性が居ると言うのに、他人の、それも十年目の結婚記念日まで憶えていて祝電まで打ってくださるソノ細やかな心遣いが嬉しい。仕事と同様に、家庭を大切にしている方だと思う。これは、彼の家族写真を印刷した例年の年賀状からも推察できる。…(後略)…ハハハ、まあ、こんな調子なんだがね。ヤッパリ、ヨボヨボするまで生き残るオイラたちは、どうも小憎らしいだけで余り惜しまれる人間ではなさそうだなぁ。ナニナニ、「お前と一緒にするな !!」だって?オヤ、こりゃマタ失礼 !!それでは、早くも夜半。ボチボチ寝るとしますか…。Muy bien♪ Hasta luego ciao.....♪ §4.日記に残ったMS君の篤き友情。その早逝をU君と電話で改めて惜しむ 私達の結婚十周年記念日を忘れずに、祝電を寄せてくれた私の友人MS君というのは、U君共々高校時代の同級生だった。そして又、MS君とU君とは同じ街からの通学生だったから、多分U君にとってもMS君については思い出深い友だったのでは…。 マアそんな気持もあって特に思い付き、偶々探し当てたコノ古い電報が貼付された日記の一部をメールに引用紹介した訳だった。 すると果たして、彼とも学生時代同じ街の同じグループの友であったとの事が、翌日電話でU君と話して判った。そのため、様々な古い思い出話が次から次へと花が咲き、今まで知らなかった彼の家庭事情などにも話が及んだ。 ソノMS君が彼岸に旅だって既に四半世紀にもなる今日だが、「昔・幸」が何気なく書き残したコノ一通の古い祝電が、そんな風に我々を彼の思い出に誘い、改めてソノ友情に篤い彼の人柄を偲ばせ、余りにも早すぎた良き友の他界を惜しんだものであった。 こうして、日記を書き残す事の喜びと大切さを教えてくれた若き日の友、亡きMS君の事が書かれたコノ記事の全文が登場するのは、まだ大分先になろうかと思う。 でも、夫婦喧嘩ばかりでなく、時にはソンナ示唆にも富んだ良き思い出話も登場するのがコノ「古い日記」だ。 まあ、そんな事を精々PR。久々に太宰の『走れメロス』でも読みながら今夜は寝の権現様に参詣。出来ればMS君の夢でも見て、心新たに明日からの連載再開を目指したいと思う。(夫・誠筆)
2004年01月31日
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☆.小型機観光の勧めと、話しておきたい「ナスカ1dayセスナツアー」の実例(下)§11.帰路の機中で案じられた出迎え…。だが約束どうりでホッと安心 待望の地上絵を間近に目撃できた上、思いがけずソノ研究者とし て筆頭に挙げられるドイツ人学者、マリア・レイチェ(Maria Reiche)女史とも会えた。満足一入な参加者十数人と同乗して再び 双発の小型機でナスカからリマへの帰路に就く。 ご承知の通りペルーは南米大陸の西海岸沿いに、南北に細長い国だ。とは言いながらも、東はアンデスの高峰が長く続き、ソレを越えればアマゾンの源流地帯だ。また西海岸は太平洋に沿った長い海岸線が続く。首都のリマは、その南北に長い海岸線の真ん中近くだ 。そしてナスカは、その首都と南の国境との略中間で、アンデスと太平洋に挟まれた殆ど不毛に近い荒野に在る。 そんな土地に、何故こうした謎を秘めた文明の痕跡が残されているのかと改めて考えさせられるうちに、乗機は何時か一旦海上に出た。そして進路をヨリ北に向け一路リマを目指した。 ソコは多分、漁業基地として世界的に有名なピスコより少し南のように思えたが、右手の海岸線は断崖だった。そしてソノ崖の上は海に向かって半直角ほどの斜面を見せ、長く連なる広幅の砂の帯の ように見えた。 …とソノ時、その帯の一点にサボテンか燭台かは判じかねたが、 あの地上絵と同じような大きな絵模様が描かれているではないか。 それは、平面に描かれたナスカの絵と違い、機窓に向かった斜面に 描かれていただけに、ヨリ鮮やかに見て取れた。 疲れて眠っていて気が付かなかった同行者も多かったとは思うが 、私は好奇心旺盛にコレを眺め、これは一体何だろうと思う。でも 、昔からのものならヨリ評判になるはずだし、多分ナスカの地上絵を模倣し現代人が描いた作品だろうと考えながら見送る。 しかし、高度で独特な多くの文明があったとされるこのペルーである。侵略者スペイン人に追われアマゾンに消えたインカの謎など 、歴史の闇に消えた先住民族の遺産が、まだまだ沢山眠っていそう な国だナァ…といった思いを強くさせられた事を思い出す。 サテ機窓の風景にソンナ事を考えながらリマに近付くと、ふと出迎えの約束が気になりだした。 何しろ確かコノ旅は、後年あの日本大使館乗っ取り事件を起こし た反政府組織「センデロ・ルミノソ(輝く道)」が国中で大暴れ。今にも革命が起こるのではと騒がれている最中のペルーであった。 これから空港に着いて、もし旅行社の迎えが来ていなかったらどうしよう…? まあ有名なホテルらしいし、名前さえ伝えられればタクシーで帰れない事もないだろう。でもタクシ ー・ドライバーによっては、何処の誰とも判らない事もあろう。旅行者と見て突如強盗や誘拐者などに変身しないとも限るまい。そんな不安を抱きながら、何はともあれリマの空港に無事帰着しロビーに向かった。 するとドウだ、あの恰幅の良い女性支配人マリヤさんが大勢の出迎え人に混じって今や遅しと待っていてくれ、ニコニコ顔で「大丈夫、ココに来ているわよ」とでも言うように手を振ってくれていた。 その嬉しかったこと。私も思わず「オー、マッリ~ア !!」と大声を上げてしまったものである。§12.クスコへの早発ちを思い出し、誘った感謝の夕食会もドタキャン 空港の駐車場には、朝と同じベンツが停まっていた。私達が近付くと運転手が降りてきてサッとドアを開けて出迎えてくれ、手荷物のザックを受け取ってトランクにしまうと、まだ明るい夕暮れのリマ郊外の道を中心街の宿舎「ホテル・クリヨン」に向かって走り出した。 擦れ違う車の殆どがポンコツ車同然で、その程度の悪さはコノ旅で巡った3ヶ国中最低に思えた。また沿道に目立つスラムの数も質も尋常ではなく同様に思えた。 そんな風景が展開する中、車中の私は正直な所スッカリ有頂天になっていた。 だって、同じ旅仲間の半額以下の料金で、よりグレード感の高いナスカツアーを心行くまで満喫でき、こうして全て順調 に宿に帰り着こうとしているのだ。しかも空港にも顔が利く旅行社の女支配人が、こうして直々高級自家用車で送迎までしてくれている…。 これは、このままアリガトウで済ませては申し訳ない。そう思った。 そのうち私が、「ヘイ、ドライバー。ラジオ、スイッチオン !! プリーズ、ミュージック」とか 何とか適当に英単語を繋ぎ合わせて、運転手に音楽番組は放送されてないかと意思表示してみた。カーラジオのスイッチが入れられダイヤルを回すうちに、折り良くフォルクローレが流れてきた。 …と、左手で右の親指を握る形で上に組み合わされていたマリアさんの残り4指が、軽くリズムを刻み始めた。彼女も音楽好きなようだ。またハンドルを握る運転手の指も、小刻みにリズムに合わせて動いていた。 それから車内の空気はスッカリ打ち解け、お互いカタコトの英語やスペイン語やジェスチャーなど 凡そ頭の中に浮かぶ表現方法を総動員し、実に珍妙な会話が弾んだ。 マりヤが言った。「貴方は音楽が好きなんだ」。 これに答えて私が又吹き出しそうな英語で答える。 「イエス !! …タンゴ・フォルクローレ、アイ・ライク・イット」。 すると、マリヤが続けてコンナ風に言った。「カンターレ !! ハポンタンゴ」 まあ多分コレ、(歌ってみてよ、日本語のタンゴを…)てな事だろうと思い。「OK・OK」と言いながら歌い始めたのが、アルゼンチンの教科書にも採用されていると伝え聞く アノ名曲『カミニート♪』だった。 でも調子に乗って歌い始めたまでは良かったが、途中から日本語訳の歌詞を堂忘れしちゃって、「ララ・ラーララ・ラーララ・ラーララ・ラーララ…♪」てな調子のハミングで誤魔化しちゃった。 そしたら、マリアさんと運転手がスペイン語の原曲や鼻歌で後を続けてくれ、私に恥を掻かせない ように気を使ってくれたっけ。 ともあれ、ソンナコンナの後で、私は先程から思っていた事。つまりコノ女支配人マリヤさんと運 転手に、例の如き話し方で「出来たら些か感謝の意を表したいので、宿へ着いたら一緒に夕食に付き合ってくれませんか?」と持ちかけた。勿論この会話も例によって例の如き、当たって砕けろ式ではあったが、何とか意思が通じ快諾してもらえた。 ところがソンナ誘いを持ち掛けておいた私なのに、ホテルに戻り二人をロビーに待たせ、荷物を預けにフロントへ立ち寄ったところ、添乗員から次のようなメッセージが預けられていて、そうも出来なくなってしまった。 それは、「明日は、富士山と同じ程高いクスコへ向かって早発ちします。 このため、今夜は出来るだけ食事は控え、 特にお酒は飲まないで早くオヤスミを !!」と言った指示であった。 とにかくツアー参加者の中で、何処へ行ってもオプショナルツアーを敬遠し、自由時間も自己流を貫き通してきたコノ私だ。 折角ここまで「マイ・スタイル」でなんとも順調な旅が続けられたのに、ココで無理をしてアゴを出したら、あの生意気な添乗員にソレ見た事かといわれるのは必定。 こうなったら仕方がない。良い気分で付き合ってくれると言うマリアさんと運転手氏には悪いが、何とか上手く事情を話して、失礼を許してもらう他なしと腹を決めロビーに戻った。 でも、そうは思ったものの、こうした一寸ややこしい事情を、予想される言葉の壁を隔てて彼等が気を悪くせず判ってくれるだろうかと案じられたものであった。何しろ、先程の車中の会話では威力を発揮した音声翻訳機も、こんな特殊な会話には応用の範囲を超えていた。こうなったら、文字通り「ゴオ・フォア・ブローク(当たって砕けろ)」あるのみだ…。 そこで私は、日本語で書かれた添乗員からのメッセージと旅程表、そしてロビーに置かれていたクスコやマチュピチュの観光案内の写真を示し、「明日の早発ちと気圧の変化に自信がないので何とかドタキャンの失礼を許してもらいたい」と、身振り手振りを主にコレを伝えたところ、案外上手く判ってくれた様子で安心した。それもそのはず、彼等は旅行業者だ。この国で明日クスコへ早発ちと知れば、高地に慣れた同国人でも無理には誘わないのが常識だとかで、笑って許してくれた。 それで、食後に渡す筈だった寸志に少し足しまって別かれる事にしたが、それでもこのナスカへのツアー代金は送迎代とこの寸志も含め確か総額二万円を出なかったように思う。 まあ、ケース・バイ・ケースとは思うが、自ら「南米八分旅」とも呼ぶコノ異色旅の中でも、特に大成功の思いが今も残る、快適な小型機での独自旅行だった。 なお蛇足ながら、この想い出の「HOTEL CRILLON(ホテル・クリヨン)」。 この混迷極まりなかった当時のペルーに一大転機をもたらした初の日系人大統領「プレジデンテ・フジモリ」が、確かアノ翌年に此のホテルのバルコニーに立ち、劇的選挙で予想外の当選を果し勝利宣言をしていたので、なにか余計印象付けられたものであった。 そして又そのフジモリ氏が、それから十数年後に失脚し、今も日本に亡命中とは…。 人の世の有為転変と人生の旅の侭ならなさ…。思い一入の感を今日もまた新たにして筆を置く事にしたい。
2004年01月30日
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☆.小型機観光の勧めと、話しておきたい「ナスカ1dayセスナツアー」の実例(上) §7.以来、病み付きとなった空からの絶景探訪 以上が、私の初NZ訪問時に於けるマウントクックでの回想である。 そして、そのハイライト中のハイライトは何と言っても、実飛行時間だと半時間にも満たない程の初セスナ体験であった。 この実にドラマチックな、奇跡的ともいえる天候回復が幸いして、その素晴らしさが忘れられず、以後、行く先々で小型機での観光があると、無理しても参加したくなった。 その後の体験としては、 2度目が、南米旅行(1988.10.8~21)の際のナスカ地上絵セスナ1dayツアー 3度目が、 〃 (1988.10.8~21)の際のイグアスの滝ヘリコプター観光 4度目が、米西部旅行()1991.4.20~27)の際のコロラド渓谷ヘリコプター観光 5度目が、ハワイ旅行(1995.6.3~15)の際のレインボー航空7島巡りセスナ1dayツアー 6度目が、カナダ旅行(1995年秋)、ローレンシャン高原での水上飛行機による紅葉&湖水観光と言ったところ。 何れも独特な工夫がされていて旅の印象を際立たせてくれるものだったが、このうちナスカツアーでは、リマから現地までは、十数人乗りの双発セスナで、現地で単発のセスナに乗り換えての地上絵観光となった。 なお、こうした特殊な景観を楽しむ場合、ツアー参加の旅では時間の関係や手続き上の手軽さもあって、旅行社が勧めるオプショナル・ツアー(以下、OPツアーと表記)に頼りがちなもの。 でも時間さえあれば下調べして出かけ、現地到着後に空港やホテルのインフォーメーションを利用し地元旅行社の同種ツアーに参加できれば、意外な程の好結果に恵まれる事も多いものと知った。 でソノ好例として、脱線承知で前記「ナスカツアー」の要点をも以下紹介しておこう。§8.コンナ例もあるOPツアー。思い切って現地ツアー挑戦も…!? 日本を発つ前から、各地でのOPツアーは出発前のみ。現地到着後は受け付けない決まりと念押しされ、旅行社から再三参加予約を誘われたものであった。 しかし、『地球の歩き方』によれば、南米の場合など特に、現地旅行社価格との差が大き過ぎた。 この「南米ナスカ地上絵セスナ1dayツアー」にしても、現地では高くても円換算だと2万円を切るように書かれてあったのに、日本の旅行社は何処も一律4万5千円と、何か裏で談合が行われている感じだった。 それで、そうした納得の行かないOPツアーなんて大嫌いなコチトラだ。 まあダメだった時はリマで天野考古学博物館でも見て適当に過ごすつもりだからと心に決め,何度もの誘いの電話も断り続けて予約せぬまま日本を出発。 ロス経由でブエノスアイレス・イグアス・サンパウロ・リオデジャネイロと観光して、数日後の昼前後に再びブエノスアイレスへ戻った。 夕刻の便でリマへ向かうことになった時、「世界中を放浪し尽くし食い詰めた所を、偶々知り合った今の会社の社長に拾ってもらった…」と、得意気半分とも取れる口調で自己紹介していた二十歳代後半程の小生意気な男性添乗員から、こう何回目かの誘いを受けた。「若水さん、これから出発するとリマに着くのは真夜中の零時です。アチラへ着いても多分インフォーメーションは時間外で、現地ツアーの情報は得られませんよ。本当はルール違反ですが、内緒で受け付けますので皆さんと一緒にナスカへ行きませんか?」との事。§9.幸運に恵まれ、案外スラスラ運んだ現地ツアー申し込み しかし、それも断ってリマに到着した所、何と真夜中でもインフォーメーション席にチャンと優しそうな中年の女性が座っているではないか。 それで、早速『地球の歩き方』を取り出し、「この明朝のナスカ地上絵セスナ1dayツアーに予約したいのだが、今からでも間に合うだろうか」と尋ねてみた。 尤も、尋ねるとは言っても戦中派で英語もロクに話せぬコチトラだ。ましてスペイン語なんて話せる訳もなかったのだが、そこは毛の生えた心臓を持ち合わせた者の強み。 いつも海外旅行に持参する、未だ珍しい頃だったカシオの音声翻訳機を取り出し、これにタンゴ好きから多少頭に染み込んでいたスペイン語の単語や、ボデーランゲージを補っての会話。 何とも行き当たりばったりで冷や冷やものではあったが、窮すれば通じるもの。 何と直ぐ彼女は私の意志を理解してくれ旅行社に電話した上で笑顔で「OK !!」と答えてくれた。 その上で伝えられた現地ツアーの代金は、何と空港への送迎料金を含め二万円弱。結果的にも同じ内容だったナスカツアー代金として仲間の参加者達が日本の旅行社に支払った額の、やはり半額以下であった。 こうしてリマ中心街にある宿舎「ホテル・クリヨン」に落ち着いた私は、彼女に指示されたように、渡されたメモに書かれた旅行社に電話を架けた。しかし、架け方が間違っているらしく何度架けなおしても繋がらない。 困惑して、フト近くを見ると先程私達の現地ガイドと紹介されたばかりの中年女性が居た。…で、何はともあれと助けを求めたところ、立場の微妙さを意識し例の添乗員に相談していたが、断る訳にも行かないと結論が出たらしく、私に代わり電話で宿舎名と部屋番号を伝え、ツアー代金の支払方法と、明朝空港へ送り届けてもらう待ち合わせ時間を決める相談の通訳も果してくれた。 本当にヤレヤレだったが、思えばあの旅は定年後間もない解放感も強く、旅行社の商業主義何するものぞと終始自己流を貫き通した割には幸運に恵まれていた。この時の彼女の存在にしても実にタイミング良く、何か救いの女神が現れたようで、思わず三拝九拝したくなったものである。§10.日本の旅行社のOPツアーは高すぎないか? ともあれ、コンナ風にして順調に滑り出した私一人の「南米ナスカ地上絵セスナ1dayツアー」は、今になって考えても、思わずホクソ笑みたくなるほどに上首尾だった。 心配した宿舎・空港間の送迎にしても、約束の朝6時にロビーに行って見ると、既に旅行社の支配人という名刺をもらった恰幅の良い女性が迎えに来ていて、外に待たせた運転手付きのベンツに直ぐ乗せられると、沿道の名所を説明してくれながら空港に向かった。 コレに対し仲間の参加者達は、南米でも特に度を越したオンボロ車が多い事で知られるリマのマイクロバスに乗せられ、早々と宿舎を出かけていった。 実はソノ空港に着くまでの車中で、私は同乗の支配人マリアさんにコンナ頼み事をしてみた。「実は先年、ニュージーランドのマウントクックで氷河へのセスナツアーに参加したんだが、往復で席を替わっての印象として、小型機での観光では席によってコウも印象が違うかと感じた。…それゆえ、出来ればパイロット・サイド・シートに座らせて貰えると有り難いのだが」と…。 これにはサスガにマリアさん困った顔をされた。 でも「難しいとは思うが努力してみましょう」と答えてくれたものの、まさかコンナ厚かましい頼みを本気で実現しようとしてくれるとは思っても見ず、直ぐ忘れてしまっていた。 空港に着くと待合室で先着していた旅仲間たちと一緒になり、お互い朝の挨拶を交わしながら、早くも地上絵への期待に胸を膨らませていた。 そこへマリアさんが現れ、私を連れて未だ改札前のゲートを素通りさせて滑走路の一隅に駐機していた双発のセスナに乗せ、私を操縦士に紹介すると、彼が「ドウゾドウゾ」というような身振りで隣の席を指さしてくれた。 それで一旦そのパイロットの隣席へ座らせてもらっていた私だったが、そこへ先程の旅仲間達が入ってきて、私が既にソコに座っているので難癖を付け始めた。 でもパイロットがソレを制し、彼に迷惑を掛けてもと席を立とうとした私に、「シッダウン・シッダウン」と言って着席しなおすよう指示された。 機中の事は、機長の権限とも思ったが、未だ旅は半ば過ぎ…。それに高い金を支払わされている彼等の気持も判る。ここは一つ譲ってやろう。 ソウ考えた私は尚も拘るパイロットを制し、「ご好意は嬉しいが、彼らは私と同じツアー仲間。私は貴方の後ろの席で我慢するから、ナスカに着いた後の単発セスナ観光だけは、必ずパイロット・サイド・シートにして貰いたい」と意思表示し席を移った。 尤も、後刻になり判ったのだが、その操縦席の直ぐ後ろの席は、私にとって更に好都合の席であった。…と言うのは、双発セスナの場合は、操縦席まで真ん中が通路になっていて、難聴気味な私には操縦士との意思疎通も思うにまかせなかった筈。だが、ナスカに近付くと彼は地上絵の解説図を取り出し、ページを捲りながらアレがモンキー、コレがエイリアンと言った具合で、背もたれ越しに色々気を使ってサービスしてくれた。そんな心遣いも後席だったからこそ受け止め得たものと思った。 また現地到着後、ナスカ空港のオフィスに行きセスナの前席希望の話をすると、先程の機長が無線で連絡してくれてあった様子。「話は了解しています。唯この連中が煩いので、先に彼等の観光飛行を済ませてしまおうと思います。 それまで当アエロ・コンドル社の直営レストランで、決められたランチ以外でも構いませんし何なりとお召し上がりを…。昼食がお済みの頃には出かけられる筈です」。 そう言われたので、彼の目配せする別の窓口を見ると、リマ出発前に息巻いていた仲間の一人が、先程の機中での座席問題を又クレームつけているらしかった。 勿論、こんな事で旅仲間と競い合うつもりなどない私は大賛成。早速そのレストランに連れて行ってもらった。 ソコは空港の目の前であった。周辺一体が不毛に近い荒野といった同地ながら、このレストランの庭だけは美しい草花に満ちていて、そう広くはないが一寸したプールもあって、水着姿の男女が歓声を上げていた。 そんなオアシスのようなムードを楽しみながら、ユックリと土地自慢の料理をタップリ味わわせてもらい、搭乗の指示が来るのを待った。 やがて地上絵を見終わった例の旅仲間達が、すっかり満足気な顔をして、ツアー代金に組み込まれた定食ランチを食べにガヤガヤ入ってきた。 入れ代わりに私が呼ばれて空港に戻ると、後から到着していた私より少し若そうな日本人女性3人連れが、後席に乗り私を待っていてくれて直ぐに出発する。 世界七不思議の一つとして余りにも有名なナスカの地上絵の事は、私が今更駄文を連ねるのは野暮。また今回の日記の主題からも脱線しすぎるし字数制限の事もあって、又の機会に譲ろう。 唯、思いがけず機中で仲良しになった同乗の3人のご婦人方から別れ際に、「本当に丁度良い方と同乗させて貰って助かりました。 だって、四万五千円もする高いOPツアーだというのに、添乗員さんたら、現地添乗員にリマの空港まで送り迎えさせてくれるだけなんて、ひどいわぁ…。 私達はスペイン語も英語もチンプンカンプンだし、これでは折角のナスカの地上絵も唯見るだけねって話してたんですよ。 そしたら若水さんが、操縦士さんの渡す図面と説明を聞き後ろの私達にも判るよう日本語で説明してくれたでしょう。お声も大きいし飛行機の中でも聞き良くって助かったわぁ…」。そう言ってくれたものだ。 まあ、お世辞半分の社交辞令だとは思ったが、余りに高い割りに利用者の不安も知らぬ気な日本の旅行業者のサービぶりに、何かと腹立たしい思いをさせられている私だ。 この方々は、日本の大手旅行業者であるK社のツアー客だと確か聞いた。従って私が利用したB社のみならず、殆どが同一歩調をとり談合の疑いが濃厚である事を示す一例と言えよう。 些か飛躍しすぎる話題かとも思ったが、楽天日記と言う気安さから敢えて紹介しておく事とした。 なお蛇足ながら、コノ飛行後に現地ホテルで未だ健在だった「ナスカの地上絵」の研究家として世界的に著名なマリア・レイチェさんの講演会を同所で聴け、直接その謦咳に接しながら購入した著書に署名を戴けた事も、わが生涯の記憶に残る良き思い出であったと書き残しておこう。(続く)
2004年01月29日
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☆.我等夫婦の初海外旅行「マウントクック氷河飛行の感動」§1.「hypergdatmさん」の日記に刺激されて 昨日の日記にはニュージーランドにお住まいの「hypergdatmさん」の書いた「ジャパンレールパス」に着目した私の、同記事要約と所感。そして、そこから思いを飛躍させた私の見果てぬ夢について書いた。 しかし、その記事を書いていくうちに、何だか「hypergdatmさん」が盛んに書き込んでいるオセアニア第一の高峰、「マウントクック」を始めて探訪した折の忘れ得ぬ感動に絞って、別の一文をも書いて見たくなった。 唯、以前にも楽天日記の一部として何か触れたようにも思う。このため一応、過去の日記をザッと探してみたのだが、どうもハッキリしない。まあソノ際 は余り変わり映えしない記事が重複する事ともなろうかと思うが、それだけニュージーランドの旅の素晴らしさが、何とも忘れられない私なんだ と理解いただきたく思う。§2.先発組、吹雪に阻まれMt.Cook行断念の報 実は私達夫婦も、瞥見の旅だったとは言え、この「hypergdatmさん」が 今住んでいるニュージーランドには、過去二度に亘って出かけ、何れも心洗われるような感動を覚えて帰国したものであった。 その最初のニュージーランド訪問の時、つまり1987年6月27日夜。出発直前の成田空港でK社添乗員のY嬢から、「実は、同じコースを行く先発組から、今あまり芳しくない情報が入ってきました。 と言うのは、今日、このツアー一番のハイライトとされるNZ南島にあるオセアニアの最高峰・マウントクックに向かったものの、猛吹雪でバスが途中で立ち往生。仕方なくクライストチャーチへ引き返したそうです。 なお、現地の天気予報では、未だ1週間ほど吹雪は続くだろうとの事。 でも、皆さんは心がけがヨロシイ方々ばかりと思われますので、初めから悲観することのないように…。 サア皆で、5日後の天気が晴れ渡るよう神様に祈りながら、元気良く旅の第一歩を踏み出しましょう」こんな様な事を言われながら、一路赤道を越え南半球を目指したものであった。§3.祈りが通じてか、往くほどに山が晴れ上がってきた。 ところがソノ5日後、メルボルン・シドニー・クライストチャーチの観光を終えた翌朝、私達はマウント・クックを目指す事になった。 私達は宿を早発ちしてNZ南島東岸の国道を一路南下。途中から幹線を西に折れ、美しく神々しいほどに人影もない湖の畔に達した頃には、空は青々と晴れ上がってきた。 遥かに連なる白銀の峰々が鏡のようなレイク・テカポの湖面に優美な影を映す中。「羊飼いの教会」に山の天気が心変わりしないように祈りつつ、それから更に幾山も越えた。そのうちに溢れるばかりの雪解け水を満々と湛えた流れの早い大きな用水路に沿った道に出る。 丁度その水面に恰(アタカモ)もパノラマ写真のように長々と投影されたNZアルプスの雪景色の麗しさには、誰もが「ワ~ッ」と思わず感歎の声を漏らしたものだった。 最後の峠を越えると、眼下に右手へ広く拡がる凍てつき雪に覆われた湖水が見えた 。レイク・プカキだ。そこは一面白銀の世界で、頭上の目に染みるような空の青さと相俟(マ) って、一瞬何か神々の王国へでも迷い込んだような気持がした。 こうしてバスはソノ南岸を回り込み、西側にあたる対岸の湖岸道を一路マ ウントクック直下の唯一のホテル「ハーミテイジ(Hermitage)」へ向かった 。§4.ホテル「ハーミテイジ(Hermitage)」の豪華なバイキング・ランチ 今朝吹雪が止み除雪されたばかりといった新雪が薄く残る道を踏みしめながら、バスが行く手に見えてきた一段高くなった岡の坂を上りきると、そこがホテルの前庭だった。ホテルも庭も美しく雪化粧して、正面玄関前には誰が作ったのか、早々と雪ダルマが造られ私達を出迎えてくれていた。 このマウントクック村で唯一の宿「ハーミテイジ」に到着したのは、既に午後1時近かった。クライストチャーチのホテル「エイボン」を朝8時45分に出発してきたので、ザッと4時間のドライブだったが、バスの全席をスッポリと覆うフアフアした良質なムートンカバーのお蔭で、長旅の疲れは殆ど感じなかった。 ロビーには確か大きな暖炉があり、暖かそうに燃えていた。そう、こちらは南半球。これからが冬本番という時だった。 宿の建物自体は、そう豪華と言ったものではなかったが、外壁の羽目板を全て防腐剤で黒っぽく塗りこんだ大きな山荘風の趣き豊かな木造建築。確か二階建てか三階建てだったように思う。 ここを基地にして、四方八方にトレッキング・ルートが発達しているので、こうした山男たちにも対応できるよう相当多くの部屋があるようだったが、残念ながら二度目に訪問した1998年5月の時も此処ではヤハリ昼食だけで、山を下った麓のホテルでの宿泊だった。 サテこのあとで待っていた「ハーミテイジ」でのバイキングランチは、一地方銀行員だったコチトラが見た事もないような豪華なものだった。(フフフ、一 寸オーバーかな…) とにかく、当時は未だ55歳で定年間もない私とあって、未だ食欲は若い頃と余り変らぬ健啖ぶりだったし、目の前に並んだ御馳走の全てが垂涎物。 田舎者丸出しで、アレモコレモ皿に盛って席に戻った姿を見て、家内に思わず苦笑され窘(タシナ)められてしまったものだった。 特にそのケーキ類の多彩さと美味しさには、甘辛二刀流のコチトラとあ って、お代わりしてきたかったところだったが、家内に袖を引かれて留まった。 何とか、あの頃の食欲と元気さを取り戻し、三度目のNZ訪問を実現し、あの思い出懐かしい「ハーミテイジ」に泊まってみたいものである。 まあソンナ一つ一つの思い出話はサテ置くとしても、コノ最初の旅はモウ17年も前の事だし、その後の再訪時からでも早6年程も経つ。そのため当時の事を思い出すのも一苦労。まあ、再訪時の1998年5月16日から23日の旅は、ビデオ記録も在るので見直せば大分ハッキリするが、コノ1987年6月27日から7月6日にわたる最初の旅は、スチール写真とマイクロテープ録音だけの記録。記憶も余計曖昧だし、残した古い記録を探し出して辿るにしても並大抵でない。…エエイ面倒だと確認を怠ってしまった。 すると例によって掲出後に、この記事を見てくれた親友U君から、「出かけた日もハッキリしない旅行記なんて、文学的価値は知らないが記録としては不完全。価値がないから入れとけよ…」とのアドバイスの電話をいただいた。 まあソンナ訳で、慌てて旅行日だけは掲出から数日後だが斯く調べて加筆した次第。だがその探し出したアルバムの間から初めての旅のメモ書きも発見された。ところがソノ記述で、到着後に直ぐ出かけたと思っていた「タスマン氷河観光セスナ飛行」への出発は、実は昼食後だったなどの思い違いも判明。慌てて大幅に書き改めざるを得なかった。 人間の記憶なんて本当に頼りないものだと改めて思う。(トホホ)§5.稀な好天下、新雪に装い新たなMt.Cook直下の氷河をセスナで探訪 さて、そうした思いがけない豪華で美味しい食事にありつけ、コチトラはスッカリ満足してロビーで一休みしていると、マウントクックのタスマン氷河観光セスナ飛行のオプショナル・ツアー申込者だけが呼び出され、山の天気が崩れないうちにと急ぎ飛行場に向かった。 今来た道を少し引き返して左折した先が小さな空港になっていて、既に車輪にスキーを付けたセスナが次々と先着の観光客達を乗せ白銀の中の滑走路を離陸。見る見る上昇して雪に覆われた湖上の紺碧の空に吸い込まれるように昇ると、一瞬大きく旋回して逆方向にある白い峰々の間に消えて行った。 やがて、私達の順番が来た。それは初めて乗る単発セスナで、しかもこのスキーを履かせて離着陸する観光飛行は世界的にも珍しいと聞く。操縦者は確かトムさんと言った多分二十歳代後半程かと思われたスマートなお河童頭細面の好青年。同乗者は私達夫婦の他に共々60歳台程のご夫婦の4人だった。 操縦席の隣に1人、後ろに我々夫婦など3人が乗り込むと、アッと言う間にモウ空の上だった。地上から先発機の航跡を見上げていた時と同様に湖上で反転し、白い一筋の帯のようなタズマン氷河本流に沿って北上しながら次第に高度を上げる中、左手にスッポリ雪化粧した高峰が次々と迫る。 その時、一番高い尖った頂を指さしてトムさんが何か言ったが、爆音に打ち消されてハッキリとは聞き取れなかった。しかし、それがマウント・クック(3764m…※その後、山頂のがけが崩れ現在は3754m)であり、次に指さした少し低い馬の背のような峯がマウント・タズマン(3498m)であろうことは、身振りでよく判った。 それも、トムさんがワザと良く見せてやろうと山腹に大接近。我々をハッとさせるギリギリの処で機体を捻って交わして見せたので、機中は一瞬、緊張と笑いに包まれた。 こうして、機はタスマン氷河の本流先端部が左へ枝分かれしているルドルフ氷河の上空を掠(カス)め、右手に延びる本流の最先端部に近いタズマンサドル(2393m)にスルスルと安着した。§6.氷河の上で歓喜しながら思った「NZの神様アリガトウ !!」 ところが機から降り立ってみると、一体ここが氷河かと疑いたくなるような、ホカホカな新雪の傾斜した雪原と言った感じ。 セスナの降り立ったスキーの跡がクッキリと残る以外は全くのバージン・スノー。その雪の白さと、空の青さが唯々目に染み、人の気配が全くない別天地だった。 思わず嬉しくなって、「ワーッ、やったーっ」。と歓声をあげ、家内と雪を投げ合って喜んだものであった。 もちろん、その雪の下には、深い万年雪と分厚い氷の層が幾重にも折り重なって広がっているのであろうが、その表面は、あくまでも柔らかで純白そのものの。 そう思うと、私は下山後にホテルでウイスキーをコノ雪で割って味わおうと、持参したステンレスの魔法瓶にサクサクと音がするような新雪を一杯詰め込んだ。その感触は、丁度カキ氷のミゾレのようであった。 氷河の上にはホンの10分も居たか否かといったところだったが、今もコノ時に撮った楽しげな同種記念写真が10数カットも残っていて、その時の私達の有頂天ぶりが判る。 何しろ東京を発つ時には、せめてチラリとでもソノ姿を眺めさせてもらえないかと祈るような気分だった私達だ。 それが、南半球はシーズンオフとも言えるコノ冬の季節に、5日ぶりの吹雪もピタリと止み、コンナ好天に恵まれるなんて…と、思わずNZの神様に感謝したくなろうってもの…。 因みに、前記.「hypergdatmさん」の日記には、この山の天気の侭ならなさを次のように例示した記事も目に止まった。> ご存知かと思いますが、マウントクックはニュージーランド南島の観光のハイライトです。>この山の姿を見たいとの理由で、ニュージーランドに来る方もいる位。>実際、「3回目でやっと見えました!」と感動気味に語る紳士にお会いした程です。その方、チョット涙ぐんでました…。と、まあコンナ具合なのである。 さて、氷河からの帰りは、座席交代で私が操縦士のトムさんの隣に座らせてもらったお蔭で、思わぬ光景を間近に目にする事が出来た。 それは、まるで山岳スキー映画の妙技を実演してくれているようなスキーヤー達の一団が、このタズマン氷河の最高地点から、新雪を蹴立てて一気に駆け下ってくるところが目に入ったのである。離陸直後の一瞬で、目の前から目の下へカメラを構える暇もなく、雪煙を上げて7・8人がアッと言う間に駆け抜けて行った。 おそらく、山頂までヘリコプターで行って、氷河の末端まで駆け下るのだろうが、何とも豪快そのもので、羨ましい限りであった。---------------------------------------------------------------- (続く)
2004年01月28日
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☆どうせ叶わぬ夢なれど、フト考えさせられたコンナ絵空事 オイラの今日の日記ネタは、昨日同様に来訪者の足跡辿って感じた話題 。 それも一般の日本人には案外知られてないJRの特割切符、「ジャパン ・レール・パス(JAPAN RAIL PASS)」の事。 「のぞみ」などゴク一部の交通機関だけは別料金だが、JR関係各社の営業する殆どの交通機関が1週間・2週間・3週間用と3種ある切符で、指定期間内だけ乗り放題となる。しかもグンと割安と聞いては、旅好きなら耳欹(ソバダ)てずには置けないウマイ話。 それは丁度、鈍行・快速列車のみ利用可能を条件として毎年3回学校が長期休暇に入る頃に合わせ、確か1綴 12,500円で発売される「青春18きっぷ(1日1枚券×5枚綴)」のスペシャル版のようではないか。 因みに料金は下表の通り。 《ジャパンレールパスの種別と価格》 種類 グリーン車 普通車 区分 大人 子供 大人 子供 7日間 37,800円 18,900円 28,300円 14,150円 14日間 61,200円 30,600円 45,100円 22,550円 21日間 79,600円 39,800円 57,700円 28,850円 以前、この楽天日記にも書いた事があるが、鈍行だけと制約された「青 春18きっぷ」で日本列島を縦断した経験の在る私としては、料金は安いが、宿代も馬鹿にならず、疲れで眠りこみ予定の列車に乗り損なうなど、 結果的に宿泊代や疲労度が嵩むので、こんな「ジャパンレールパス」のよ うな切符が、コノ程度の値段で入手できるようなら万々歳と思う。 でも残念ながら、この切符は今この国に住む私達には無縁の特割制度。 次のような条件を備えた人、つまり日本国内の短期旅行を目的として訪日される外国人や、海外に永住権を持つ日本人などが帰国した時などの観光用としてのみ発売されるもの。 購入に当たっては、パスポートなどの証明書類を呈示しなければならないなど、厳しいチェックがあるようで、まあ言ってみればヨーロッパの自由旅行などする場合、皆が良く利用する「ユーレイルパス」の日本版と言えるもの。 《ジャパンレールパスの利用資格》1. ※(記事省略)2. 日本国籍をもって外国に居住している人で、 a, その国に永住権をもっている場合 * b, その国に10年以上居住している場合 c,日本国外に居住する外国人と結婚している場合 とまあ、こうした条件が必要だ。 かつて大赤字だった国鉄時代から強い要望があったが、JRとして民営化され、一部で黒字化が実現しはじめた近年になり、漸く実現されるようになったものとか…。 因みにコノ「JRパス」につき学ばせていただいたホムペの筆者「hypergdatmさん」は、既に一昔以上も前からニュージーランド(NZ)に住みついて仕事をされている三十台の大和男子(オノコ)らしい。 それで今度帰国時には、この恩恵に浴せる事となり如何に活用しようかと、ニコニコ顔で頭を捻っている様子。目下の日記も去る1月27日から今日まで4日間、連続してこの「JRパス」を主題として書かれている。そこにはこの制度の詳細も記載されているし、その他の日記ページにも最新のNZ情報が目白押しだ。又トップページには各国の旅好きの方々のホムペ情報も満載されているので、ここにそのアドレスを(「hypergdatmさん」=http://plaza.rakuten.co.jp/hypergdatm/ )と記して直接御覧になる事をお勧めしておきたい。 ところで、この「JRパス」の事を知ったコチトラだが、途端に先日見たテレビ番組の事を思い出した。 それは物価の安い海外で年金暮らしをしようと、永住権を取得して近年東南アジア各国へ移住した三組の夫婦の生活が紹介されていた。 その中で、マレーシアのペナンで賃貸マンションを借り、確か月27~28万円の年金収入を約束されている定年後のご夫婦の生活ぶりは、特に模範とすべきものを感じさせられた。 日本に子供達や孫が居るので、両地の住み良い季節を選び年二回は定期的に往ったり来たりしている由。その往復費用や土産物代まで含め、かなり優雅な暮らし振りをされながらも、それなりに節約にも努め月々4~5万円を今後に備えて蓄えに回しているという堅実ぶり。 尚、他にもインドネシヤとフィリピンを移住先に選んだ夫婦の例も紹介されていた。 だが、その後者のセブ島で暮らす元建設会社勤務だったとかの夫婦のように、余りの物価安に将来の生活設計もなくケセラセラ暮らしに流されてしまった例もあるようだ。 収支のバランスも考えずに豪華マンションを選び、自堕落な日々を送り続けていた様子。 さすがに此の侭では数年にして破産と診断され、番組出演のアドバイサーに、心を入れ替え一から出直すよう助言されていた。 とにかくソノ派手な生活たるや、年金額は三人の中で確か最低だったのに、高級な車や家具を買い揃え、お抱え運転手とメイドを雇い、週3日程は夫婦でゴルフ場通い。加えて豪華な外食をしては帰宅するといった有様とあっては、如何に物価の安い東南アジア各国に移住しても行き詰って当然だろう。 まあ、ソンナコンナを紹介したテレビを見て、フト思った。 もし健康ならコチトラとて、あのペナンの夫婦程度の生活はやっていけそうだなぁ…。 永住権とって、程々住み良さそうなマンション暮らしを始めたいもの…。 そして時々この我利我利亡者天国の日本に戻ってきて、娘や孫達に外国に居るグランパとグランマといった感じで珍しい土産でも渡すんだ。 そしたら又、二世三世の生活を乱さないよう、この割安な「JRパス」でもフルに活用し、見残した日本国内をジックリ見て歩くのも悪くなかろう…。 でも情けない事に、コチトラはトップ頁のプロフィールにも書いておいたとおり、目下はロクロク旅もしかねる体たらく…。 「嗚呼、神様 !! 願わくば我にもう一度、健康な足腰と疲れを知らぬ若さを与えたまえ…。アーメン」(トホホ)※(2004年1月30日16時08分、メモ帳への下書き完了分を後日転載)
2004年01月27日
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§1.棄てがたき読み古した文庫本『それから』 昔々、1950年代初頭のある日。 学生時代の私が、アルバイト先の京都下賀茂撮影所で拾った一冊の岩波文庫。 それは、読み古した漱石の『それから』だったが…。 そのトップ頁の裏側に、極細のペン字でコンナ一片の詩が書かれていた。☆『雪道の孤独な足跡』(仮題) 私の足跡を振り返ると 自分の一番美しいものは恋だった 恋こそ 自分以上に育ってくれた一筋の道だった 茨の道も 花を敷き詰めた道に思えたのに 私は雪の道をとぼとぼと 独りで歩いていた 昭和弐六年一月三日 それは、同じアルバイト仲間の誰かが書き残した即興詩のようでも あったが、恋に破れた人の心情が痛く心に染み、若かった私の胸にジ ンと来た想い出が今も残る。 多分その時の私には、コノ一冊の手垢の残る文庫本がアノ歌の文句 『錆びたナイフ』のようで、そのまま持ち帰り今も折々私の去りし日 を甦(ヨミガエ)らせる。 §2.『道なき道』(「璃々子さん」のホムペ・トップ頁の引用詩) 以下の詩は、訪問者「璃々子さん」の足跡を辿り、そのホムペのト ップ頁を飾っていた、やはり読み人知らずの引用詩である。☆『道なき道』(トップ頁の引用詩)大きなことを成し遂げるために力を与えてほしいと神に求めたのに、謙遜を学ぶようにと弱さを授かったより偉大なことができるようにと健康を求めたのに、よりよきことができるようにと病弱をあたえられた幸せになろうとして富を求めたのに、賢明であるようにと貧困を授かった世の人々の賞賛を得ようとして成功を求めたのに、得意にならないようにと失敗を授かった求めたものは一つとして与えられなかったが、願いはすべて聞き届けられた神の意に添わぬものであるにもかかわらず、心の中で言い表せないものはすべて叶えられた私はあらゆる人の中で、もっとも豊かに祝福されていたのだ(ニューヨーク州立大学病院の病室に残された詩)*一部省略あり 詩人としてのセンスを持ち合わせない私だが、この作者の心が今の 古稀過ぎ爺となった我が思いを代弁しているようであった。 それで、楽天非公開日記欄に設けてある昨日の《他人様の日記拝見 》欄に、勝手ながらグリップして書き残させてもらった。 なお参考のため、「璃々子さん」の自己紹介と楽天アドレスは下記 の通りである。日々の日記も示唆に富むものが多いと思うので、私か らもお勧めしておきたい。♯璃々子さんのプロフィール… http://plaza.rakuten.co.jp/nekomimi/ ニックネーム 璃々子 職業 / 学校 非公開 住んでいるところ 非公開 性別 女性 誕生日 非公開 ・・・!?これから復帰します。 璃々子さんの特徴 趣味・特技 (他の人は?)日舞 好きな映画 (他の人は?)ベニスに死す・エドワードⅡ・砂の器 好きな音楽 (他の人は?)美輪明宏・THE YELLOW MONKY 好きな本 (他の人は?)三島由紀夫・宮本輝 璃々子さんの年表 197X年某所にて出生。 1989年某芝居を見て、役者になろうと決意 2003年役者活動を12年行ってきたにもかかわらず、今現在、ただの人以下。
2004年01月26日
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☆娘とのメール交信で、フト思った高齢者運転免許更新制度From: 娘・一菜(カズナ)よりTo: 父・誠へSubject: おはようございます。お目覚めはいかがですか?きのうはウチで町内の宴会があって、片付けて寝たのが真夜中でした。そんなわけで、今朝は希(第三子ノゾミ♀小4)と真次(第二子マサジ♂中2)を塾に送り、一人マクドナルドでゆっくり朝食してます。 足の調子どうですか?病院行きたい時は遠慮しないで電話してください。教習(*1)の日も決まったら送迎するからネ! かずな(Sent: Sunday, January 25, 2004 10:38 AM)*注記1 高齢者運転免許更新講習。静岡県公安委員会名で最近義務化されたらしく、更新年誕生日の2ヶ月前から1ヶ月後までに、最寄の指定自動車学校で6150円を支払い受講した上でなければ、更新手続きが出来なくなったもの。 だけど、ついコノ新年早々の6日にも大枚一万五千円近くムシリ取られ、一日がかりで年末に起こった違反事件の後始末との理由で、大して新味を感じない内容の講習を受けさせられたばかり。 それで、これを受けたのだから、更新用の講習なんてモウ必要なかろうと思ったんだが、やはり受けなければいけないとのこと。 全く泣く子と地頭には勝てないと諦めて、不当と思いつつも払ってやってるけれど、本当にコノ国には水戸黄門が必要だよねぇ!! 年末の違反事件だって、こちらには言い分が山ほどあるものだったが、聞く耳もたぬのが彼等の常。どうせ国の権力を盾に罵られ白を黒と言い張るに決まってるし、静かな余生を乱されたくないと、手のつけられぬ馬鹿息子を持ったと諦めてるだけ。 でも、その講習の講師達は、コチトラより少し若かったが、モウ直ぐ古稀に手が届く人も居て殆どが警察の退職者モドキ。 民間では未だに55歳で「はい、ソレまでよ!!」とチョンされるところもある御時世なのに…と、ツイツイ愚痴の一言も出ようもの。 何だか、俺たちポリさんの失業救済事業のために、冤罪着せられどうしって感じにさせられがちな、寒々とした昨今である。From: 父・誠よりTo: 娘・一菜(カズナ)へSubject: 何時もながら、優しさをアリガトウ !!今日は本当に良い天気だったね。こんな冬日和に日がなパソコンと睨めっこしていては、また誰かさんに叱られそう…。(ニヤニヤ)てな訳で、昼食後に一人海岸まで散歩に出かけてきました。初めに出ていた富士山頂の雲も、海を見ている間に瞬く間に消えたので、持参したビデオで富士をバックにセルフタイマーで往年の男前(?)を撮影。汀や防潮堤には老若男女、様々なカップルが目を引く日曜日でした。ソンナコンナで、すっかり気分も爽やかさを増し、前回より少し大回りして帰ろと西高校近くまで足を延ばしたところ、甲州街道とオクビさんの角で、何と左足の膝裏の蝶番が軋み出しちゃった。仕方なく千本プラザへ避難。自販機の百円ココアを一杯飲みのみ一休み。タクシー呼ぼうかとも思ったが、何とかビッコ引き引き歩き無事帰宅しました。ホッとしてパソコンを開きEメールをチェックしたら、チョコママさんの優しい心遣いが目に入りました。本当に有難う。そして、まずはゴアンシンを !! ♪♪ 若水 誠 ♪♪(Sent: Sunday, January 25, 2004 09:24 PM)
2004年01月25日
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***************************************************************※この日記は未だ校正前です。誤字や脱字など、お見苦しさが懸念さ れますが、この点ご寛容のうえ何卒ご笑覧の程を…。***************************************************************※(前23日の日記、「全く夢のような平壌でのプライベート・タイムが経験できた。」から、以下続く) ところで、そのドライブの目的地・南浦を御存知だろうか…。 そこは例の日本の巡視船に撃沈された工作船の母港だったとされる港町。 だがそれよりも此処は、大同江河口を堰留めた一大堰堤がある所。「スエズ運河に匹敵する大工事」と世界中に宣伝しながら、北朝鮮が総力を挙げ人海戦術で完成させた施設だけに、出現した人造湖上を対岸まで延々と続く堰堤はナカナカのモノ。その上を走る高速道路と鉄道の偉観も一見に値すると伝えられていた。 その対岸にヨリ近い部分に設けられた幾つかの閘門の一つを通り、アノ撃沈された工作船は運命の密命を果しに帰らざる航海に出かけたに違いない。 そう言えば、この私のビデオを撮影中にも、今思うと何となくソレらしい船が丁度コノ閘門に差し掛かるところだったっけ。 突然、けたたましいサイレンが鳴り響いた為、「正午の時報か? 通過船接近の合図か?」と、私達の青い鳥氏に尋ねたものだった。 結局これは彼氏にも判らぬ問いだったようだが、ソンナコンナがあって余計アノ美しく晴れた昼の南浦閘門の夏景色が思い出されてならない。 まあ、極めて大雑把ながら、ザッとこんな風な旅程であった。 それにしても、今この自分が記録編集した映像を見直すと、余りにスケジュールが過密に組まれていた事に驚嘆する。 旅の期間は10泊11日ではあったが、日本海を渡る船中の往復4泊を除けば、同国内に居たのは僅か6泊7日という短期間であった。 しかしながら、次から次へと観光・見学・歓迎宴と繰り返しながら、ギッシリ組まれたスケジュール通り、実に小マメに歩き回ったものだったと改めて感心させられた。 こんな過密な旅程が実行できたのも、時の北朝鮮政府が国策として我々訪問団の旅を最優先させ、交通機関・ホテル・訪問先等をコントロールしていたからこそ、初めて大過なく遂行できたものと言えよう。 この記録ビデオの題名を『1991年・悲喜交々北朝鮮紀行』と名付けたのも、文字通り喜怒哀楽様々な経験をした常ならぬ国の旅との思いを込めたかったからだった。 あの旅から暦も早一めぐり以上の年月が過ぎた今だが、何故か久々見直しても、殆ど退屈感がない。 それは、最近特に工作船の実体や拉致問題が明らかになるなど、あの国に対す私達の関心が一段と高まっているからだとも思う。 でも最近テレビで放映される情報と較べても、取材された映像に余り今昔感がない。 又、共産主義とは矛盾する金王朝国家維持に固執するあまり、核武装化など軍備拡張に国力を傾け、貧しさから脱却できぬ侭の北朝鮮の現実。 それゆえに、昨今放映される映像も13年前と大差なく感じられるのかも…。 ともあれ、その後アノ国を訪れた人たちはビデオ撮影を咎められ捕らえられ帰国できなくなった人さえ出る有様となった。 でも、この時だけは、欲ボケ色ボケの副総理・金丸氏が吐いた戯言の余徳か、それともビデオカメラの物珍しさからか、行く先々で、ドウゾドウゾ好きなだけ御撮りくださいと言われたもの。 それで、北朝鮮では当時指折りの成人や青少年芸術家達の歌や踊りから前述した喜び組のアトラクション。そして珍しく公演用プールまで完備した専用ビルを持つ平壌サーカスの目を瞠る演技等まで、出し物の殆どを出来るだけ詳しく収録できた。 尤も、当時の家庭用ビデオの性能その他の制約は今と較ぶべくもない。しかし、素人作品ならでは…と褒めてくれる人も多いし、またサーカスや日朝両国の童謡場面も多いとあって、孫達が今も見直したがる我家の人気オリジナルビデオ№1だ。 まあ、些か自画自賛の弁かも知れないが、もし興味がある方があったらコピー送料実費負担ということでビデオをお届けしてもと思う。 念のため収録内容を下欄に掲出しておくので、参考にしていだければ幸甚である。 なお、送付が必要な場合の御希望やご質問は私書箱へどうぞ !!《参考》§1『1991年・悲喜交々北朝鮮紀行・上(全3巻6時間)8㎜→VHS版』§2『1991年・悲喜交々北朝鮮紀行・中(全3巻6時間)8㎜→VHS版』§3『1991年・悲喜交々北朝鮮紀行・下(全3巻6時間)8㎜→VHS版』………………………………………………………………………………§4『1991年・悲喜交々北朝鮮紀行・№1(全6巻12時間)8㎜→VHS版』 §5『1991年・悲喜交々北朝鮮紀行・№2(全6巻12時間)8㎜→VHS版』§6『1991年・悲喜交々北朝鮮紀行・№3(全6巻12時間)8㎜→VHS版』§7『1991年・悲喜交々北朝鮮紀行・№4(全6巻12時間)8㎜→VHS版』§8『1991年・悲喜交々北朝鮮紀行・№5(全6巻12時間)8㎜→VHS版』§9『1991年・悲喜交々北朝鮮紀行・№6(全6巻12時間)8㎜→VHS版』 《付記》 尚この北朝鮮紀行の想い出については、以前、この楽天日記のリンク友達である「梨名さん」の日記との絡みで、旅の一部を所感として書き始めた事があった。本文左脇にある「ページ一覧」の中の「荒海の思い出『悲喜交々北鮮紀行①』」として別掲示してあるので、この記事と併せ読んでいただけたらと思う。 それから、このビデオの宛先であるK君については、確か別の話題で以前にもコノ日記で紹介した事があったように思う。したがって一部重複を覚悟で一応彼と私の間柄をも略記しつつ、話を進める事とした。その点、何卒ご寛容の程…。 ※(2004年1月22日0時30分メモ書き分を後日掲載)
2004年01月24日
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***************************************************************※この日記は未だ校正前です。誤字や脱字など、お見苦しさが懸念さ れますが、この点ご寛容のうえ何卒ご笑覧の程を…。*************************************************************** ☆『1991年・悲喜交々北朝鮮紀行』を今送る訳 今月8日、学生時代に「全京都学生静岡県人会」を通じての知己で あるK君に旧友会開催に関して電話をした。 今日の日記は、その折の余談から彼に送る事になった自作の古い旅 ビデオ『1991年・悲喜交々北朝鮮紀行』についてである。実はその録 画テープに添える解説書を今日漸く仕上げ、早半月も過ぎてしまった 遅れを気にして、遠い本局まで発送しに行ってきたので、今日の楽天 の日記ネタにと思い立った訳である。 さて学生時代の知己と言うと、何か同じ学校の同級生のように思わ れがちだがソウではない。 彼と知り合った頃の私は、同志社大学の三回生。K君は京都大学の 2回生だったかと思う。 それゆえ、就職して社会へ巣立ったのは私のほうが先だった。 他にも多くの会員がいた中で、特に彼との仲が今も続いているのは 、何よりも彼の人懐っこさと筆まめさが、お互いを忘れがたくさせた ようだ。 彼とは数年後、石油元売会社のN鉱業に就職して程ない頃。私の就 職先だったS銀行を突然訪ねてくれ、夕食を共にしながら近況を語り 合った想い出が今も鮮明に残る。 毎年筆まめな年賀状が届く度に、彼の活躍ぶりを喜んでいたものだ が、そうした人柄と幸運に支えられたようで、古稀間もない近年まで 同社の重役として頑張り、今は横須賀の自宅で悠々たる余生を送る身 。 退職後間もなく新宿で再会したが、サスガN社の重役まで上り詰め ただけに人あしらいは最高。 「先輩・先輩」とスッカリ神輿に乗せられ、実に心地よい一夜を共 にさせてもらった。 そして、今度はソノ彼も誘って熱海で「全京都学生静岡県人会」の 有志が集まり、泊りがけで旧交を温めようじゃないかと言う話が持ち 上がった。 それで彼氏に京大関係の旧友たちへの連絡を頼んだ訳だったが、彼 が近く又々子供時代を過ごした朝鮮の小学校の友達に会いに出かける といった話しとなり、この私の古いビデオの話にも及ぶ事になったと 言う訳だ。 何だか長い説明になったが、今月8日の電話はソンナ用事を伝える 為で、ついつい余談の処理が遅れてしまった。彼氏に信用を失わねば と願うばかりだ。 なお話ついでに、この私の古い旅記録『1991年・悲喜交々北朝鮮紀 行』の事や、これを彼が見たがった訳といったヨリ作品に直接的な説 明もしておこう。 因みに、この作品の撮影原版はNG部分も含め確か計約20時間(8㎜ テープ10巻)近い長さだったと記憶する。 それを先ず12時間(8㎜テープ6巻)に纏めたものを先ず制作した。 これは後々特に貴重な記録となりそうな歌や踊り等の取材場面を中 心に、要所要所を殆どノーカットとしたものである。 またコレを更に一般向けにするため、半分の六時間程に編集しなお したものも《要約版》として制作した。これはVHSテープ全3巻に 収録したものだが、これがナカナカ大変な作業で、今になって際視聴 してみたら、第2巻目の終りに近い高麗ホテル地下のナイトクラブ場 面の一部50秒程が、何と重複編集した侭になっていた。余りの疲れで 、つい居眠りしてしまったらしい。 そんな編集版制作時の苦労も偲ばれる、ワープロで縮小書きした内 容明細を、ヨリ加工が可能なパソコン書き資料ともすべく、以下に《 参考》としてココに書き直して置きたい。 ソニーからパスポートサイズのビデオカメラが発売され、漸くホー ムビデオの制作を庶民が手がけ始めた頃の作品ゆえ、カメラも周辺機 器も今とは格段の差。加えて撮り方も編集方法も未だ手探りだったか ら、何かと拙さが気になる作品ではある。 しかし、確か200人近い同行者中でビデオを持参の者は未だ僅かだっ た上、しかもその中の多くがテープとバッテリーの準備が不十分で、 記録を省略しがちだったとも聞いた。 何しろ、ああした国だから機材を十分用意して行っても、多分取材 できる所は僅かだろうとの先入観があったようである。 だが私は、そんな国だから万一足りなくなっても現地で買う事は出 来なかろうと、荷物は増えても常の旅以上に機材を用意して出かけた 。 このため、資本主義国では絶対不可能な芸術公演の撮影までもOK と言われても何ら支障なく、十二分に撮り捲くったものであった。 そんな嬉しい見込み違いもあったものの、こんな筈ではと内心怒り 心頭にさせられた場面も多々あった。 まず集合地点の新潟港に行ってみて驚いた。普通の観光ツアーだと 聞いていたのに、実体は日教組の元委員長・槙枝氏を団長とする親朝 団体が主体となった、極めて政治的な訪朝団の一員として渡航させら れる事になっていたのだ。 このため、我々新聞広告を読み参加した一般ツアー客は、否応なく 理想を異にする彼等のサクラとして利用されてしまった。 この企ては行く先々で彼氏が我々の代表顔で語った挨拶が、今もコ ノVTR画面として収録されているので、機会が得られれば一度お聞 き願いたい程である。 とにかくソレは、如何に贔屓目に考えても日 本人の国民感情とは言いがたい内容だった。 ソンナコンナの彼等がコノ旅で示した横暴さは、それまで日教組に 持っていた私なりの好意的理解を、完全に覆がえすものだった。 そしてソノ極めつけは、旅の終りに近い開城(ケソン)で、彼らが用 意していた襷(タスキ)を掛けさせられ実行するよう企てられていた示 威行進だった。 尤も、このデモの情報は平壌(ピョンヤン)出発前に情報が漏れ、20人近くが不参加を表明。私もコノ情報を事前にキャッチして、危うく 難を免れた一人だった。 …と特に言う訳は、その夜遅く開城・板門店へ出かけた多くの人た ちが、クタクタに疲れたような顔をしてバスから降り高麗ホテルに帰 着した時、私達と同じ一般ツアー客の仲間数人と出会った。一人がゴホンゴホンと妙に咳こんでいたので、「なんだか皆疲れたようだけど、開城はドウだったね? …あんた咳込 んでいるけど大丈夫?」。そう聞いてみた。「うん、風邪引いちゃったかも…。いや~参った参った。何せ開城の 市中行進が雨に祟られちゃって、全く酷い目にあった。あんた達が不 参加と決めた決断は実に正解だったよ」。と忌々し気に話しながら自室へ戻って行った。 こうして我が意に悖(モト)るサクラ役を演じさせられる心苦さや、 日教組の予定で日程を一日繰り上げさせられた忌々しさ等、欺かれた 不愉快さが多々あって、帰国後には一般参加者からのクレームが続出 した。このため旅行業者は特に煩いマスコミ系の参加者などには旅費 の一部を返却したとも耳にしたものだった。 しかしながら、そういう明らかな旅行業法違反の行為があったツア ーではあったが、理不尽な戦後保証まで呑まされ国民の顰蹙(ヒンシュ ク)を買った金丸外交の直後でもあり、かつ日教組の御蔭もあってか、 とにかく待遇が準国賓並みで、何処へ行っても「そこのけそこのけ御 馬(オンマ)が通る」的な場面に再々出くわしたものである。 おまけにツアー代金の驚くほどの格安さからして、現地到着前は予 想もしなかった盛大な歓送迎ぶりや、宿や食事や観光先の豪華多彩さ 等が誠に印象的な旅であった。 夕方近く新潟を発って3日目の昼近く東海岸の元山(ウォンサン)に 上陸し、半島を殆ど横断して平壌駅前にあるツインタワーの高層ビル 「高麗ホテル」に落ち着く。 そこを根拠地に、滞在中は部屋に主な荷物は置いたまま、3日掛か りで先ず市内を手際よく見せてもらって後、その他は朝から日暮れま で国内を東西南北に実に良く移動。夜は平壌に戻って歓迎宴やら答礼 宴やらが待っていた。 例の喜び組みと呼ばれる美女軍団による昔懐かしい日本語の流行歌 やら朝鮮民謡。そして艶っぽい踊りも数々登場。迎賓館の一つらしい レストランセアター『木蓮館』での豪華な食事と物珍しいアトラクシ ョンを、驚きの眼(マナコ)で堪能。 金丸の爺さん達が何故骨抜きにされ、あんな馬鹿げた約束をして帰 国したか、何となく類推させられる複雑な気持であった。 到着3日目は、夜半にバスでホテルから目と鼻の先の平壌駅1番線ホ ームまで運ばれ、下車して数十歩といった処に停車中の列車の入口で 待つ女性車掌に指示された寝台車に乗せられ何処かへ向かった。 翌朝、夜が白々と明け初める頃着いた所は北朝鮮の日光や箱根に例 えられる避暑地・妙香山だった。 その翌日は更に飛行機で北の中国国境に飛び白頭山にケーブル登山 。首都から遠く離れた僻地に位置していたので、多分ここだけは別の ホテルに一泊かと思ったが、とんだ見込み違いだった。山盛りのスケ ジュールを何とかコナシ、その日のうちに平壌へトンボ帰りしたのに は一寸ビックリ。 そして翌々日が又も夜行列車で、問題となった前述の雨中示威行進 となった南の開城と朝韓国境・板門店見学へと言った具合だった。 尤も,これには私の他に約20人程が不参加だった。平壌に残り思い 思いに一日を過ごした訳だが、何と幸運にも、私と行動を共にした旅 友4人だけは、思いがけず北朝鮮当局提供の運転手付きベンツで、西 海岸の黄海に面した南浦までのドライブ等を楽しむことが出来た。 これは、その朝早く列車で南浦行きを目指し平壌駅へ出かけた私に 、「何処へ行きたいのかね。南浦行の切符は移動許可証がなければ買 えないよ」と教えてくれた中年男性が齎してくれた思いがけない幸運 によるものだった。 実は彼氏、私達のマークを命ぜられていたらしい当局の人間で、「レンタカーを借りてでも南浦へ行き、貴方の国が誇っていた大工事 の閘門をコノ目で見てみたいんだ」と熱っぽく語った私の熱意に感じた様子で、「では朝の仕事が一段落したら車を何とかしよう。ホテルに戻ってい てください。ロビーへ10時に迎えに行きますから…」。との事であった。 まあそうした事情から、この男の好意により思いがけず望みどおり の南浦観光が実現。加えて平壌に戻ると、その車を各所で待たせて地 下鉄乗車やら、書店とか土産物店にも案内してもらった。 朝10時頃 かから昼下がりの3時過ぎまでの約5時間程も、通訳兼ガイドと運転 手付きで異国の快適なドライブが楽しめるなんて、全く夢のような平 壌でのプライベート・タイムが経験できた。※(以下、翌24日の日記に続く)
2004年01月23日
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☆共に語らうに足る古き良き友、今も在りき… 昼下がりにU君より電話があった。 私の楽天公開日記の『古い日記シリーズ』が休載となり、「毎日、Eメールチェックと共に必ず読んでいた楽しみを失い何か寂しい。その侭書き続ければ…」といった具合。 まあいろいろ考えた上での決断とあって、ソウも行かない事情を改めて説明し了解してもらった。 だがソノ時、受話器の向うの彼が何と身近に感じられたことか…。 お世辞半分としても、このモッコに乗った気分は何とも心温かく素敵な心地。 お世辞半分と判っていても、年老いて生きるコノ末世に、未だ彼のような良き理解者が残っていた。 我に尚、共に語らうに足る古き良き友在りき。心嬉しき哉 !! 共々敬老の国に生まれ育ちし我等なれど、長じてみれば祖国は我利我利亡者達に乗っ取られ第二の敗戦。 敬老思想など雲散霧消して今や羊頭狗肉を常とする軽老思想国家。過去の良識を捨てずして生き難き国。 …そんな失楽の感を折々強くしていた昨今の私だが、何か更に生きながらえべき理由を見出したような、素敵な激励に思えた。 ともあれソンナコンナから、話がツイツイ長くなる。「決まり文句型年賀状の味気なさを排し、互いの近況を付記した長文型年賀状の勧め」。「今の腐った政党政治を瓦解させるには、先ず全野党による選挙管理内閣の実現こそ急務」。イラク派兵と憲法改正の要否。」等々。 なんと半時間以上も話し続けただろうか。 内外に亘る様々な問題を思わず歳を忘れ、高校時代の二人に戻ったように熱っぽく語り合った。 尤も、「コンナ開けっぴろげな会話が出来るのも、まだまだ言論の自由が保障されているという証拠じゃないか…」。なんて、今をトキメク純坊一派に窘(タシナ)められるかも…。 そりゃソウだろう。所詮は負け犬の遠吠えと判っちゃいるんだよ。 でも、怪しい動きには月までも届けと高く吠え、仲間に危険を知らせるのが野犬の性。 マア、少し今日は調子に乗って吠えすぎたかも知れんが、何せ惚けジジイの戯言。「楽天さん、カンニンドッセ !!」 ああ、今日は久々胸の痞(ツカ)えを下ろして、気分最高やなぁ…。※(2004年1月22日0時32分メモ書き分を、2日遅れの24日朝に後日掲出)
2004年01月22日
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☆楽天中毒 ここ当分「古い日記」の休載を宣言したばかりの昨日今日。 ああ、ソレナノニ ソレナノニ、夜中の零時が近付くと、何とも気になるコノ楽天。 なにか、悪い事をしているみたいな妙な気分。 仕方ないので、自分への言い訳に、先ずはコンナ事書き始めちゃった。 コレって惰性? それとも楽天中毒? ああ、どうしよう…。「もう、どうにも止まらない♪」 そう、その昔、逸見マリとか言う歌手がコンナ文句ならべて歌いまくってたっけなぁ。 ああ、ねむてぇ…。(ムニャムニャ) 楽天さんも罪作りなこっちゃぜ !! ※(2004年1月22日0時32分メモ書き分を、3日遅れの24日朝に後日掲出)
2004年01月21日
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☆§1.楽天公開日記変換ミス雑感 昨19日は週末明けとあって朝から出かけた二ヶ所の病院が何れも混雑。昼下がりになって漸く帰宅したところ、幸から「留守中にUさんから電話があったから、後で電話しておいてね」と遅い昼食を食べながら伝えられる。 だが、ウッカリそのまま連絡し忘れてしまい、夕方近くになり電話してみたところ、予想した如く、またコノ楽天公開日記の誤植を見つけてくれての連絡だった。「取材員」を「取材印」としてあったり、「幸福」を「降伏」としてあったりと、何れも大変恥ずかしい変換ミス。特に後の間違いなどは、もし広告のキャッチフレーズなどだったら、ゴメンナサイでは済まされない場合もありそうな誤植。S行の広告企画担当調査役のころだったら、すぐさま頭取に呼び出され、コテンパーにやり込められて責任を取らされた事だろう。 まあ、半分は自分自身のために書いている楽天日記の気楽さからくる気の緩みや、年齢からくる注意力の低下もあろうが、機械書きの時代の漢字変換ミスの怖さを、改めて痛感させられた今日であった。☆§2.「たかが百円、されど百円」 さて、昨19日の日記で「古い日記・第三巻」の復刻を終わった。 先ずは一息と言う訳で、当分この「古い日記・第四巻」以降の復刻を休み、心身の調整に重点を置く事とした。 そんな矢先、常々一か月分づつ渡してもらっていた4種の常用薬が丁度切れてしまった事を朝食後になって気付く。この為その処方を依頼しようと、先ず近隣にあるホームドクターのS病院へ顔を出し、診察券を箱に入れて順番を確保。 続いて、待合室にいる患者の頭数から待ち時間を予想。その時間差を利用して近隣の郵便局と宝籤の売店を歴訪。何れも末等のみの当選だった「お年玉付葉書」の切手シート9セットと、年末じゃんぼ宝籤3枚の賞金9百円の交換を済ませて済ませておき、S病院とY処方薬局での所用が済むのを待って、国立病院へ向かった。 このところ続いた寒さ等のため、風邪を恐れたり横着心が起きたりでサボリ続けていたので、何と実に10日ぶり。先年から再々の腓(コムラ)返りに悩まされる足が、又々吊り始めた筈だ。 休日明けとあって、ここも駐車場入口から大渋滞。予定より約半時間遅れで診察券を出し、毎日半時間と指示されている「ハドマー」と呼ばれる両足のエアー・マッサージ治療を受ける。終わって後も会計で又待たされ正午の時報を聞きながら病院を出る始末。 でも今日は前述の通り、既に「古い日記」もシリーズ連載が一段落の後とあって、遅くなっても気は楽なもの。ついでに回り道して備品切れになっている日用品補充のため、帰途は百円ショップの「ダイソー」と「イトーヨーカドー」へ立ち寄り、買物を済ませて帰宅。 ついでに、心を癒すのに役立ちそうなCD4枚(「世界の名歌・故郷への思い」「〃・憧憬」「〃・美しい調べ」「文部省唱歌集№2」)を又々衝動買い。 尤も一枚百円だから、その他の買物を入れても総計2千円足らずとあって百円ショップでの買物は庶民にとって実に安心で、心強い味方って感じ。 それに、この「ダイソー」のオリジナル版音楽CDは百円でも結構掘り出し物が多く楽しみだ。 以前買った南米の「フォークソング・シリーズ」も、同じものを何枚か旧友に贈り共に聞き、感想をメールで交わしながら喜びを分かち合ったもの…。 また昨年末に買った「ラテン・クリスマス(Navidad Latina)」は、何かリオのカーニバルショー劇場を再訪。クリスマスショーを楽しんでいるような錯覚を起こさせ、長患いに滅入りがちな病院通いの心を、忘れがたき南米の旅の想い出に誘(イザナ)い、癒し弾ませてくれた。 まさに「たかが百円、されど百円」と言うべき逸品だった。☆§3.友への感謝&誤植発見にご協力を !! ともあれ、これまでの「古い日記」シリーズ連載期間中、旧友・U君には再々こうした誤りを指摘してもらい、大いに助かった。ここに改めて心からの感謝を表しておこう。 それと共に自分自身で何度か読み直しながらも、なおかつ引っかからないこうした誤植を皆無とする事の困難さを改めて思う。それは長文化すればするほど困難さを増す。 詩や四行日記を勧める仲間など比較的に短文日記が多い楽天広場の中で、割りに長文の記事が多い私の日記ゆえ、特に頭の痛い問題だ。 したがってコノ誤植をヨリ避ける捷径(ショウケイ)として考えられるのが、多数ご来訪の足跡を残してくださる読書の方々が読みながら気付いた誤りを、前記親友のU君のように遠慮なく御指摘いただけたら幸甚と屡々(シバシバ)思う。 何分にも小生、近ごろは早くもボケが始まったかと我が身に疑念を抱く古稀過ぎ人間。無用な差し出口などとは決して思わぬどころか、御指摘くださる方こそ誠の友情を感じられる福の神。感謝感謝なのである。 そんな訳で、お気付きの点を是非とも私書箱にでも一言アドバイスいただきたく書き添え、今日の日記にピリオドを打ちたい。
2004年01月20日
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1967(S42)年3月6日(月) ★第三巻ラスト頁は何と又々紙上論争§1. 批判 こわい顔して怒りたくもなる。男とは誠に勝手なものだと、つくづく思う今日この頃。 三つで35円のジャガイモ、四つで65円の玉葱、嵐のような悪天候の下を、わざわざ朱門のオジイチャン(幸の父)が買って来てくれた豚肉とカレー粉で好物のカレーライスを作って待っていれば、途中でオモチをご馳走になってきちゃったと言う。帰宅すれば直ぐ夕御飯だと判っているくせにコノ始末。女にとってコンナ侮辱は耐えられない。 またまた今夜は、残業で遅くなるという電話。 さぞオナカを空かして帰って来るだろう。今日は寒いから、何か暖かいものを仕度しよう。 9時過ぎになれば、もう帰る時間だろうからと、お鍋を火に掛けたり下ろしたりする。 こんな苦労も知らぬ気に(貴方は知っている、認めていると言うだろうが…)、兄貴に誘われて外で食事してくると言う。 それも、もう十時半近くにである。二・三日前の晩に12時近くまで飲み、次の朝、辛(ツラ)かった事を、もう忘れているのだろうか。男の付き合いもココまでくると、女には理解しかねる。 一日の予算を幾らと決めてやっている我家の経済には誠に痛手であり、それ以上に、待っている者の気持が理解してもらえないのかと思うと情けなくなる。 買いたい物も買わず、化粧品の一つ、パーマネントも六ヶ月以上もかけずにボサボサ頭でいる自分が馬鹿らしくなる。「連日、残業で疲れているし、今夜はもう遅いから、また今度にしてくれ」と、何故、この一言が言い出せないのかと不思議だ。 兄貴はバー遊びに夢中になっているとかなんとか批判する貴方こそ、青い灯・赤い灯の街中をウロツキ回るのが好きなのだ。そういう気持が、この一言を鈍らせているに違いない。(妻・幸筆) §2. 反批判 午前1時帰宅。酔っては居るが正気ではある。 10時過ぎまで残業で、車を取りに店(実家)へ寄ったら、兄貴が付き合えと言うので同行する。 お蔭で、書きたて早々らしい前記の如きママの日記を早速読ませてもらった。 疲れ果てていても、何とか兄弟二人仲良く暮らしたいと思うパパの気持は間違っているのだろうか…。 ともあれ、眠い。おやすみなさい。(夫・誠筆)§3.反々批判 今夜の件は大いに間違っている。 自分の身体の事も考えず、無理してまで付き合わなければならないなんて、兄弟の間でコンナ不都合があってはならないと思う。「疲れ果てて」いたら、身体を労わってくれるのが兄弟愛に他ならない。 そんなに義理立てる必要、全くなし。 歓楽境が好きな心が、こうした結果を生んだ事を兄弟愛だなどと繕う事は止めてほしい。 馬鹿馬鹿しいこと、この上なし。(妻・幸筆) *************************************************************************《付記》2004年1月19日の誠、日記再読所感☆第三巻ラスト頁は何と又々紙上論争(「古い日記」休筆に当たって) おやおや、昨年の元旦から書き始めたこの夫婦日記だが、早くも第三巻目も紙数が尽きてしまったんだ。 ソレも、1頁が20字×10行詰で1巻300頁程あるコノ自由日記帳だが、丁度、最終頁の内容が斯く批判、反批判、反々批判と紙上論争で終わっていた。 そればかりか、残りの42行を突き抜けて、罫の無い見返し頁も狭しと絡み合って雪崩れ込んだこの結びの一番。「誠山を土俵際で組み伏せて、幸の海の勝 !!」てな軍配だったかと思うが、読者の見解や如何? それにしても、「まさに横綱同士の迫力を感じさせる好取組 !!」と解説を加えたいところだが…、「所詮は犬も食わない夫婦喧嘩、何を寝言ってるんだよ !!」とでも囁き合っておられる、ご愛読諸兄姉の声が聞こえてくるような幕切れで誠に残念。 そこで、コンナ幕切れだったから…と言う訳では決してないが、今日の日記でこの古い日記シリーズの更新を一旦足踏みさせる事としたい。 詳しい事情は、先日〔《付記》2003年1月15日の誠、日記再読所感〕で書いたので省略するが、要するに第三巻まで復刻し終わったので一息入れようという訳だ。 加えて、期せずして回数も丁度290回目までと区切り良く終り、再度また更新を開始する時の為にも「古い日記…♪No.291」番からと、付番も覚え易い。キリ番には拘らない私ながら、些かボケを感じはじめたコチトラのオツムに合わせ、何かと好都合であった。 なお今後の予定としては、現状100%の日記更新率が及落点の60%程度以下となる前には、何とかこの「古い日記シリーズ」の再開のための下調べも済ませ、続編を登場させたく思う。乞う御期待 !!
2004年01月19日
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*******************************************************************************************《お知らせ》保留中だった下記日付の《付記》「誠、再読所感」を遅ればせながら書き上げました。併せてご笑覧いただければ幸甚です。(1)《付記》2004年1月17日の誠、日記再読所感 ☆バクさんの夢に胎動 !? 夫婦日記の共鳴者から朗報 ☆心嬉しかった雛祭の節約ケーキへの子供達の反応(2)2004年1月14日の誠、日記再読所感 ☆姪の入試&京都市長選雑感 ☆休暇のパパが珍しくハッスル。だから天気も…*******************************************************************************************※この18日の古い日記…は、往時の記録だけ只今書き終わったので一応掲出します。尚、《付記》の「誠、再読所感」も後刻執筆の予定につき、ご再訪ご笑覧願えれば幸甚です。*******************************************************************************************1967(S42)年3月5日(日)風雨 ★何の因果かとボヤキたくなる日 『追悼録』の初校の出が遅れたので、目標日上梓が危ぶまれる今日この頃である。 まあソウした訳で、このところ毎日残業残業。今日も今日とて、朝早くから夕遅くまで日曜出勤と相成った次第。 他の連中が第一回文化祭とか言ってお祭騒ぎする中を、何の因果かとボヤキたくもなる。 ああソレなのに、家へ帰れば帰ったで、我が奥方が怖い顔して「帰りが遅い…」と苦情を漏らす。 文豪ビクトル・ユーゴーの名作『レ・ミゼラブル』の主人公ジャン・バルジャンではないが、何か「ああ無情 !!」とでも嘆きたくなる。(夫・誠筆) ※(1967.3.5の日記余白、「昔・誠」書き込み記事)★姪Y子の高校合格の日Y子が西高校に合格する。銀行からの帰り、「お芽出度う !!」を言って置こうと実家へ寄ったが、生憎と姫様は御寝(ヤス)み中。サモアラン、サモアラン!! ★旧友T君関連番組、TVドラマ「ああ夫婦 !!」所感 夜、高校時代の友人T君の経営する高峯高原ロッジを写したTVドラマ「ああ夫婦」を見る。 なかなか良いスキー場のようだ。 尚、ドラマそのものも、「友情を大事にする男なら、安心して娘を預けられる」と言った妻の父親のセリフに代表されるソノ筋書きも、安心して家族で見れる作品と言え頷けた。 *************************************************************************《付記》2004年1月18日の誠、日記再読所感☆何の因果かとボヤキたくなる日 (以下、後刻執筆予定) ☆姪Y子の高校合格の日 (以下、後刻執筆予定) ☆旧友T君関連番組、TVドラマ「ああ夫婦 !!」所感 (以下、後刻執筆予定)
2004年01月18日
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1967(S42)年3月3日(金)晴 ★バクさんの夢に胎動 !? 夫婦日記の共鳴者から朗報 お雛祭の今日、銀行で校正の仕事に追われていると、幸が電話を架けてきた。「私が新聞に投稿した夫婦日記の記事に共鳴され、昨年末(12月14日)激励の手紙を寄せられた東京のSMさんから、今、貴方を喜ばせるような葉書が届いたわよ。今、読んでもいいけど、どうしよう?」との事。 それで、仕事中だったため要点だけ伝えてもらった訳だが、何でも一昨日(オトトイ)3月1日にフジテレビの取材員が来宅。 KMさんの過去8年間の日記を参考に見て帰られたそうだ。余りに突然の訪問で驚き、そして喜びましたと書いてあると伝えられた。 年末、この話の仕掛人である旧友S君から電話があって以来、バクさんの夢が、或いは現実に具体化の第一歩を踏み出すことになるか…。 そんな期待を弾ませ新春を向かえ、先方の要請どおりに東京へも出かけたが、あれからもう二ヶ月以上になる。 多くの人々を幸福へ導く為の一石と思っていた自分の善意からなる企てが、何か徒労に帰してしまったかのような錯覚に捉われ始めていた。 そんな折も折のコノ報せは、真に朗報と言うほかは無い。 ここで、改めて自信を取り戻し、「自ら省みて直(ナオ)くんば、千万人と雖(イエド)も吾征(ユ)かん」の気概で頑張りたい。(夫・誠筆) 1967(S42)年3月4日(土)曇 ★心嬉しかった雛祭の節約ケーキへの子供達の反応 昨日はオヒナ祭。 パパはこの二・三日、残業続きで子供達と食事を共にすることが出来ないため、夜の御馳走は取り止め、ケーキだけ用意してやることにした。 ところが、デパートに行ってみて、余りに高くてビックリ仰天。イチゴが一粒載って生クリームで周りを飾ってあるだけり簡単なショートケーキが、何と一個80円もするのである。 予算と大分違ってくるので、致し方なくロールケーキにチェリーとパインが飾ってある250円のもので我慢する。 それでも子供達は「オイシイネ !!」を連発して喜んでくれた。親の精一杯のサービスを認めてくれたようで嬉しい。(妻・幸筆) ※(1967.3.3の日記余白、「昔・誠」貼付葉書)*受信先東京都 大田区 大森町 ○丁目 ○番 ○号 S 洋 服 店 S M 男 妻・F 子 出 *本文拝啓 貴殿は其の後御代わりりませんか。小生、其の後、第二の良き妻を迎え、仲睦まじく、最後のラインに進んでいます。実は今日三月一日。フジテレビのY様が、わざわざ来て下され、八年間の日記を参考にみて帰られました。喜びとともに本当に驚きました。では先ずはお知らせまで。三月に入り、やっぱり自然の気候になりました。この四十二年三月で、日記は九年目に入ってゐ(イ)ます。お体大切に、又。 さようなら*************************************************************************《付記》2004年1月17日の誠、日記再読所感☆バクさんの夢に胎動 !? 夫婦日記の共鳴者から朗報 インターネット時代の昨今では特に珍しくも無い出会いだが、当時は未だこうした文章の触れ合いがもとで、見も知らぬ者同士が長きに亘るのお付き合いを始める事は、やはり余程の筆まめでなければ成り立たないことと言えよう。 幸の投稿を読み、一番初めに激励の便りを寄せてくれたこのSさんも、その筆まめ族だったようだ。 知己を得た頃は既に大分ご高齢になられていたようで、初めての便りでは、確か奥さんに先立たれ一人身との事であった。それが今度のフジテレビ出演の話に関連した取材があったと知らせてきた便りでは、僅かな間に芽出度くF子さんと再婚され、張り切っている様子が書かれていた。 こうしてお会いする機会もなく過ぎて37年も経つ今日では、失礼ながら共々ご存命を願うのは無理な話だろうが、叶うものなら、その再婚された奥さんのF子さんなりと一度お会いして見たいものである。 だって、もしご存命なら多分私達の播いた種の一粒なりと花開き、F子さんさんと第二の青春を高らかに歌いあげた夫婦日記を見せていただけるかも…。てな事を思っちゃうんだよナァ。 実は、その後十年間ぐらいは毎年近況を細々綴った年賀状をいただいたものだった。 その中には、テレビ番組の懸賞に大当りして、夫婦共々ハワイ旅行を楽しんだ話もあった。 また拳玉の選手権大会で優勝するほどの腕前で、お年寄りや孤児達の施設を時々訪問、「拳玉おじさん」と呼ばれて親しまれているとも書いてあった。 そんな折々の実に人懐っこく微笑ましい便りに、いつもこの人生の先輩Sさんに幸多かれと祈りたくさせられたものである。 そんな訳で今落ち着いて考えると、私達の年賀状のスタイルも、この筆まめなSさんに教えられたところ実に大。その頃から豆文字で去年の想い出を自分史の要約版としての役割も兼ね、書き添えるようになったように思う。 尤も、当初は手書きによる追伸として、このSさん等の極く特定な人々宛のものだけだった。何せ葉書に書き込める字数は判読可能な範囲で文字を小さくしても手書きでは限られたもの。 それが、後に夫婦が共に印刷に関連した仕事に就くようになり、ソレまで主流だった活版印刷が、時代の要請にマッチした写植印刷に急変する動きに着目。これを自分たちの将来を賭ける事となった。 それは自分達の仕事の勉強にも役立ち様々な面に応用可能で、文字通り趣味と実益を兼ねた一石数鳥の新技術。そう考え、思い切って数百万円を投じ、妻を静岡の写植学校に通わせる一方、写植機「SPICA」と特に豊富な各種文字盤を買い揃え、自宅の一部を写植工房に改造した。 こうして妻を主体に営業を開始すると共に、事業の宣伝を兼ね、以後の年賀状は絵柄も文面も全て自分のオリジナルとして、デザインから印字版下まで、プレス以外は全て我家で処理するようにした。 それは1974年(昭和49年)からの変化で、寅年だったため、王冠を被った夫婦のトラが明るい未来を目指し、一歩一歩まさに歩き始めようとする意思を、純白の葉書に黒と金の二色で表現したデザインだった。 そして、その両脇には、それこそ蚤の如き豆文字で、次のように私達二人の言葉を短文で目立たぬように加えた。 親しまれるS銀マン、誰からも親しまれる不動産業者たらんと、 今年も頑張ります。 MAKOTO (41) よき妻・よき母であると共に、印刷文化の一翼を担って誇りうる タイポグラファーたらんと、張り切って今年もスタートします。 SACHI(X) そう書かれたコノ年賀状。 それは、殆ど誰もが新年を祝う決まり文句に平凡な絵柄を添えた図柄だった従来の年賀状に、革新を齎(モタラ)そうと呼びかける私達のメッセージのつもりでもあった。「写植と言う新技術を応用すれば、こんな年賀状も可能です。 文字の大小変形など多彩に変化が可能で、手書きでは拡大鏡を通しても判読に苦しんだ豆文字も、写植印刷なら自由自在。 これからの年賀状は受け手が最も知りたい発信者の近況も添えて送りましょう。年々保存されれば、それはソノママ貴方の小さな自分史ともなりますよ」。そう伝えたかったのだ。 あれから指折り数えると何と早30年。つまり30種の、自分史兼用型オリジナル年賀状を制作してきた事になる。 そのアルバムの中には、年末になり父が急逝し喪中通知に変えなければならなかった1980年の申年と、その父を追うようにして逝ってしまった翌1981年酉年の母他界の痛恨事が、虫食いの穴の如く抜け落ちて残る。 又、同様に私達夫婦が至近に住んでいただけに私としては、自分の両親以上に接してきた幸の父が他界した翌年の1975年と、同じ思いを持つ幸の母の他界した翌年の1990年も欠落していて、それらの頁を捲ると様々な想い出が胸に去来する。 まあツラツラ述べきたったが、ともあれ私達の夫婦日記に共鳴してくれたSさんからの年賀状にヒントを得たかと思われるのが、コノ自分史兼用型オリジナル年賀状なのである。 これまでは、自分が何とはなしに思いついて始めたように思っていたが、知らぬ間にSさんから示唆を与えられていたのだろう。まあ、そんな風に感じられる昨今である。 年々夫婦知恵を寄せ合って制作してきたコノ年賀状アルバムを、これから手にする度に、私はSさんの事を思い出すだろう。そして見る事が出来なかったSさんの夫婦日記の事を…。 ☆心嬉しかった雛祭の節約ケーキへの子供達の反応 まさかケーキが嫌いな子は余り居ないだろうが。ウチの子は特にケーキ好き。 その中でも、下の二美(ツグミ)のケーキ好きはまた格別だった。そう、ソノ事については以前の日記でも書いた筈。とにかく、その満足気な食べ方を見ているとツイツイ財布の紐が緩んじゃうって、その時も確か書いたっけ。 この年の雛祭のケーキは少しケチッて気になっていたウチのママさんの、何処かホッとしながら目を細め、ケーキに頬鼓を打つ子供達を見ていた姿が目に浮かぶ「今・誠」である。*************************************************************************※解説《付記》2004年1月17日の誠、日記再読所感の「☆バクさんの夢に胎動 !? 夫婦日記の共鳴者から朗報」で紹介した、1974年(昭和49年)の年賀状メッセージ文で、次のように書かれているが、これは、続く記述のような事情からであった。>親しまれるS銀マン、誰からも親しまれる不動産業者たらんと、>今年も頑張ります。 MAKOTO (41)即ち、「昔・誠」は当時、不動産取引主任者の国家資格を取得。銀行所有ビルの不動産管理会社に出向中で、各地店舗階上の空室を一部テナントに貸し出す業務を担当していたための記述だ。
2004年01月17日
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*******************************************************************************************《お知らせ》保留中だった下記日付の《付記》「誠、再読所感」を書き上げ本日掲出いたしました。併せてご笑覧いただければ幸甚です。(1) 2004年1月14日の誠、日記再読所感 ☆姪の入試&京都市長選雑感 ☆休暇のパパが珍しくハッスル。だから天気も…*******************************************************************************************1967(S42)年3月2日(木) ★風邪っぴき姉妹 一寸途切れていたが、昨日より又々医者通い。二人とも風邪っぴきで小児科のSK先生と、耳鼻咽喉科のSG先生。 二美(ツグミ)の方は大した事はないが、風邪かと思ったら小児科へ行くより、まず耳鼻科へとホームドクターのK先生に言われていたので、念のため、今度は比較的近いSG先生へとなった次第。「今のところ中耳炎の徴候は見られないが、鼻っ風邪をひいているので、暫らく鼻掃除をしながら、耳の変化に注意してみましょう」、との事。 ソンナコンナで、ここ当分、通院の覚悟となった訳。(妻・幸筆) ★兄の夜遊び癖※(1967.3.2の日記余白、「昔・誠」書き込み記事)*行務『故会長追悼録』予定遅れの第一校推進のため、午後8時半まで残業*私事 実家の兄が車交換のため、夜九時半ころ来宅。 この頃、夜遊びの味に興味を覚えだしたらしい兄をソレとなく啓蒙するため、上がってもらって零時近くまで二人で酒を酌み交わし雑談する。 兄の現在の心境を推察する上からも多いに有益な一夜だったと思う。 私の目的は、兄を万一にも深みへ填(ハ)まらせる事無く、家庭へ心を向けさせようとするに有る事は勿論である。(夫・誠筆) *************************************************************************《付記》2004年1月16日の誠、日記再読所感☆風邪っぴき姉妹 特に書くほどの所感もない記事ながら、とにかく就学前の娘達は、今考えると年がら年中お医者様通いって感じだった。 でも以前コノ日記に一度詳しく書いた覚えがあるが、当時は職場の健康保険で医療費全て面倒みてもらえた時代。 医者の窓口で支払った自己負担分も、後で職場の健保組合から私の給与振込口座へ戻入(レイニュウ)してもらえたから、その分は戻らなかったものと考えツモリ貯金に出来た。 安給料とインフの板ばさみに遭い何だかんだ大変な時代ではあったが、こうした点は今と較べてマダマダ働く者にとって救われる点も多かったと思う。☆兄の夜遊び癖(1967.3.2の日記余白、「昔・誠」書き込み記事) 長兄は沖縄で戦死してしまったし、私にとって兄はコノ実家を継いだ次兄だけだ。 8歳ほど年上だったし、何と言っても至近で両親と暮らしていたから、何としても夫々の家族が、仲良く暮らして行くようにしなければならなかった。 創業者の父は既に還暦を過ぎた高齢で、税務と仕入れや掛売り記録などの事務が主な仕事。店売りの仕事は、四十台の兄が中心となり五十路の母と三十路の嫂(アニヨメ)が二十歳台の従業員数名を使って紙文具の卸小売業を切り回していた。 ところが、ご多分に漏れず母と嫂との折り合いが何かと言うと軋(キシ)みがち…。 その都度、トバッチリが唯一人至近に住む私たち弟夫婦にも及ぶとあって、これを如何に防いだり取り持ったりして丸く治めるかに常々腐心させられていた私だった。 そんな私達とあって、当時は兄も私も何かと言うと良く話し合い、心を通い合わせて共々家庭を平和と繁栄のために努めたく思っていたものだ。 でもそれぞれが家庭持ちとなり、自分たちの加齢と共に子供が増え成長し、両親が年老いるに従って世の常としての難問が次々と押し寄せ、外野の雑音や様々な与件も加わって私達はコレに悪戦苦闘させられた。 それを詳述することは、余りにも忍び難く省略するが、それは恰(アタカ)もアノ家康の名言、「人の一生は重き荷を背負いて遠き道を行くが如し」という処世訓を幾たびも思い起こさせる道程だった。余りに理不尽な事ばかり多く、我が意に反する出来事の連続に、一時はもう嫌だ嫌だとアゴを出しそうになった。でも未だ人生道半ばだ。ここで自分の夫として親としての責任を放棄したら唯の負け犬だ。それに、残された家族はどうなるか考えてみろ…。そう思い直しては生き通した。 まあ、これは「今・誠」の今にして思う述懐ではあるが、恐らく当時、夜遊びに耽っていた兄も同じような心境だったのではと思う。ただ私はソノ兄の姿を心の中で年甲斐も無く醜い生き方と受け止めていた。このため、次部はソノ二の舞は避けねばと思うと同時に、酒乱の性癖が出始めていた兄と出来るだけ時間を差し繰って付き合う事で、その心の平静さを取り戻させたかった。 それゆえ、ただ私が徒(イタズラ)に兄と酒を付き合っているものと思い、とかく批判的だった幸にも判ってもらいたい。そう思って、こんな事を夫婦日記の欄外に書きとめたものかと思う。
2004年01月16日
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1967(S42)年3月1日(水)晴 ★ヘソ曲がり誠の勧善懲悪論 朝、出勤すると直ぐ人事部の関さんに呼び止められた。何だと思って開くと、実は今度の文化祭の入選者への賞品に、副頭取が「若水の家から買えば、アルバムでも何でもヨリ以上に安くしてくれる筈だ」と言ったから、直ぐアンタの実家まで一緒に歩いてくれとのことであった。 昨年、世界一周旅行から帰った副頭取から自分自身の写真整理用にと頼まれ、原価を割って実家から納品させた事を思い出されての事らしい。しかし毎度原価を切らして実家に損をさせる訳にも行かず、些かアリガタ迷惑。 でも兄にコレを話した所、それでは二割引で全部納めようと言う事になり一安心。尤も総計7,500円程の注文。まあ損もしなかろうが、包装紙や熨斗紙や梱包する手間賃を加えると、税金を払えば利益はパアといったところかもしれない。義姉が面倒がるような風だったのも無理はないと思う。 ところで今日は、『故会長追悼録』のゲラ刷りの出が余りに遅いので、T印刷に直接出向いてハッパを掛けてくる。東海営業部長のNさんに直接お願いしたところ、早速夕方までに百ページ近く届いて、その効験あらたかなのに驚いた。お蔭で今日は夜10時近くまで校正作業を追い込む。 しかし、何と言ってもコノ1ヶ月の遅れは大きいから、当初の計画通り、ゲラ刷り4校清刷り1校を文字通り消化する事は困難と予想される。まあ清刷り校正を含めて3校というところが、上梓(ジョウシ)の予定日に間に合わせられるギリギリの線であろう。 又いずれ上部から、例によって例の如く改めて値引きをと言われそうだが、その時は、このスケジュール遅れの契約違反を材料にとも思っている。 勿論、余り人悪くする事は私の本意ではないが、誠意のないO課長はトコトン困らせてやり、仕事熱心な部下のK氏に花を持たせる方向で極力進めたい。 なぜなら、これも一つの勧善懲悪だと思うからである。(夫・誠筆) *************************************************************************《付記》2004年1月15日の誠、日記再読所感☆ヘソ曲がり誠の勧善懲悪論 相変わらずのヘソ曲がり日記とあって、先程も時々この日記のミスプリントを見つけてくれる親友のU君からは電話があり、「やはり公開日記なのだから、内容によってセレクトした方が良いのでは…」といった助言に接した。 丁度この第3冊目の古い日記「我が星霜」も残り僅かとなり、この後3月6日の記事でページが尽きている。 復刻の手始めにと内容の如何に関わらず殆ど抜粋せず、一年余の記録を略(ホボ)そのままリライトし終えた。これで、毎晩疲れや睡魔と闘いながら書きなぐった乱文乱筆日記も、自分以外の誰が読んでも内容の大要は何とか把握できるだろう。 自分としても、これ以後の過ぎ去った長い長い日々の記録を、同じ調子で全てリライトする心算はない。またこの先、明日果てるとも知れない人生の残り時間を考えれば、それは余りにも愚策。 そこで一旦この「古い日記」のリライトを第3冊目までで切り上げようと思う。だが楽天日記そのものに付いては、折角、更新率百パーセントを維持してきたことでもあり、こよなき友とも多数出会えたので、このまま完全に止めるのも些か残念。 まあ日記の更新は暫時休むにしても、ソノ上で気が向いた時だけでも余り今後の予定の足枷とならない程度に、随筆的な記事でも書き込んでいこうかとも思う。 なにせゴクゴク低額な年金族の私にとっては、結構無理して買ったコノ多機能パソコンだった。だが、これまではロクに勉強もせず、ワープロ代わり程度にしか使ってこなかった。関連写真は後日挿入すると書きながら今もソノままといった横着ページも残る。この辺で少し時間を差し繰ってでも落ち着いて、行方不明になっている資料を探したり、様々な操作法を学び直したりして活用しなければ宝の持ち腐れだ。 またソノ合間を見て、ポツポツと穴の空いたように書き残してある付記の所感も埋めた上で、このリライトを終えた「古い日記」3冊分を『わが星霜 1・夫婦日記スタート編(1966.1.1~1967.3.6)』として、一冊の書籍に纏めてもおきたい。 幸いにして、何時の日かコノ「古い日記」を再度ホームページで更新し始める日に恵まれた際は、多分、我が友U君がアドバイスしてくれたように、予め内容をセレクトした抜粋日記として、再登場する形になると思う。 何てったって、不遇の時代が長すぎた「昔・誠」だ。ヘソの曲がり方も一通りや二通りで無く、いかにも若気の至りと自ら苦笑しながら再読した記事も多い。如何に寛容な読者でもウンザリするだろうから、余り首を傾げたくなる記事は適当に割愛する事にしたいと思う。 そうした訳で、今日の「ヘソ曲がり誠の勧善懲悪論」にしても、標題どうり何とも勝手な「昔・誠」のゴタクとも感じられる一文だが、ソレが又フィクションでない日記の良さとも感じられなくもない。いずれにせよ、いかにヘソ曲がりのロンパリ論議でも当時の自分が大真面目で書いたもの。在りのままの自分の心だったと言って間違いない。 仮に、当時の自分の心が如何に幼く読むに耐えないような内容の文だったとしても、誰に恥じる事もなく自分は一生懸命に生きたと自信を持てるなら、公私に亘る如何なる過激論だろうと失敗談だろうと、老境を迎えた今ならジッと見つめ直し胸を張って居られる筈だと言うのが、この日記を敢えて公開し続けた私の思いであった。 どうか、そうした老骨の心意気に免じて、残る数日のコノ恥多き日記に、暫時お付き合い頂ければ幸甚である。
2004年01月15日
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1967(S42)年2月27日(月)晴 ★姪の入試&京都市長選雑感 今日は、姪のY子が進学を希望している西高校の入学試験だった。「今年の問題は予想以上に難しく、受験した皆がコボシテいた」と言う。 そこで、どのように難しかったのかと聞くと、記述式が殆どで、○×式に慣れた現代っ子は、これが大の苦手なんだそうだ。 しかし、物事を理論的に十分理解させると言う意味で、こうした傾向に戻る事は、大いに結構な事だ。 ただし、先生が採点に手間取る事や、採点者の主観の相違による不公平などが懸念されもする。 ところで、今回の京都市長選で革新系の高井氏が当選した。 蜷川府知事は、我々が在洛時代からの名知事だが、車の両輪とも言える市長が保守系の高山氏であっただけに、十分腕が振るえず嘆かれていたと聞く。 これで17年ぶりの革新首長コンビの悲願が叶った訳で、今後を大いに期待したい。 問題の東京都知事選挙にも、この勢いをもって美濃部氏を当選させたく思う。 今や選挙はイデオロギーの問題など二の次にして、人を選び、利権屋自民党を政治の桧舞台から追い出す時である。(夫・誠筆) 1967(S42)年2月28日(火)晴ときどき曇 ★休暇のパパが珍しくハッスル。だから天気も… 3月を目前にして、昨日、今日とまた冬に逆戻り。全国的に寒さがブリ返したということだ。 一菜(カズナ)・二美(ツグミ)が揃って鼻水を出し、遂にお姉ちゃんはS先生へ…。 パパは休暇をとった。きっと朝から一日寝ている事だろうと昨日は諦めていたのだが、今日になったら、イヤにハッスルして一菜を医者に連れてってくれたり、私が買物に行っている間、二美を見ていてくれたり、ロッカー付近を片付けたり、全くどうしたことでしょう。 だからこんな空模様に…。 この辺で、止めときましょう。(妻・幸筆) *************************************************************************《付記》2004年1月14日の誠、日記再読所感☆姪の入試&京都市長選雑感☆休暇のパパが珍しくハッスル。だから天気も… 日本が連合国との戦いを大東亜戦争と言っていた戦いの初めから終りまでを、小学生ならぬ国民学校の小国民として過ごした私だった。そして敗戦を迎える直前の春の入試を受け、富士山麓一帯では名門と言われていたN中学に入学を許された。 確か、その入試を終えて校庭に出てきた時だったかと思うが、硫黄島の日本軍守備隊の玉砕を伝えられたような気がする。そしてソノ折の試験問題は、全部記述式で○×式は皆無だったように記憶する。 したがって○×式は、米国が持ち込んだ戦後文化を象徴する一つではないだろうか。 そして、この○×式について考える時、私は戦後に驚くべき発達を見せた電算機の基本となった二進法の原理が、斯く学校教育にも生かされた所産ではなかったかと思う。つまり、物事全てYES&NOで振り分ければ物事は手際よく処理しやすいという訳だ。 まあ、その長短や私の主張は本文で既に「昔・誠」が述べたとおりで、「今・誠」とて変りは無い。 でも、この便利なパソコンだってソノ二進法から発展した道具であることを考えると、入試に際しても問題の性格等を的確に見極め、ケース・バイ・ケースで応用する事が好ましいのではなかろうか。 次に、私が一番青春を謳歌させてもらった第二の故郷・京都が、念願の府政市政共に革新首長を押し立て得たコノ初春の選挙。そして、コレに続いた美濃部東京都知事の誕生と、コノ年は日本が長い自民党の腐敗政治から脱する曙光を見たような心嬉しいスタートを切った。 悲しいかなソノ夢は、やはり幻想に過ぎなかった。 その後の一時期、隆盛期の社会党党首として首相候補にまで浮上した、同志社の先輩・土井たか子さんにも期待したが、この時も日本の真の民主主義国家誕生への夢は敢え無くポシャッてしまった。それどころか、その後の社会党が彼女を指導者として歩んだ足跡は無残と言うほか無い。 こうして、どうやら私が人生を通じて理想としていた、真面目に働き地道に努力する者が等しく報われる夢の社会の実現は、悉く幻想に終わった感じだ。今や日本は巧言令色のギャンブラー的な輩が大威張りして恥じぬ、文字どうり弱肉強食の社会となってしまった。 与党の巨悪政治家は国民に対する大罪の証拠を付きつけられ、逮捕されても不死鳥のように蘇る猿芝居ぶり。一方、その罪を暴いた野党の陣笠議員は、江戸の仇を長崎でと重箱の隅のゴミを針小棒大に騒ぎ立てられ起訴される始末。 とにかく今の政治家達には、良心・節操共、爪の垢ほども期待できなくなってしまった。おまけに、羞恥心さえない鉄面皮揃いときているから始末が悪い。 こういう輩を一掃するとなると、若しかしたらフランスやロシアや中国のように、何時か窮乏の果てに国民が目覚め、立ち上がるのを待つ以外に道は無くなるかもしれない。そんな風にも思えてくる老いの私だ。 なにしろ、口先三寸の大見得を切っておきながら、自らが猿山の頂点に立てば、いとも簡単に昨日の敵と手を取り合い、主義も主張も何処へやら、過去の姿勢や前言等かなぐり捨てる体たらく。 それどころか、憲法をないがしろにして米軍の下働きのため、自衛隊を戦地に送り出すのに躍起とあっては、開いた口が塞がらない…。 オヤオヤ、何時の間にか又々脱線所感になっちゃったよ。 まあソレだけ、この京都市長選も、その後の革新陣営の動きも、オイラを糠喜びさせただけで結果的に失望させ、贔屓の引き倒しに終わらせたって事。 勿論、こんな話をすれば、お前だって若い頃から随分多くの人を期待させた挙句に失望させ、贔屓の引き倒しにしてきたじゃないかなんて言われそうだけど、ソレはソレ、コレはコレ。 だってオイラの場合は、期待してくれたのは嬉しかったが、お礼は出世払いの約束だぜ。 それが不出世だったんだし、今も昔も同じ志を燃やして斯くもハッスルし続けてるんだから、詐欺でも公約違反ではないでしょが…(トホホ)。 そんじゃ、今日の誠の「言いたい放題」はコレでオシマ~イ !!*************************************************************************※参考事項★1966(S41)年の大きな動き★ 国内…国債発行による景気上昇の反面、消費者物価問題が深刻化。(通年) 航空機事故相次ぐ。下記4事故死者計371人(通年) 全日空機東京湾墜落(2月) カナダ航空機羽田空港着陸失敗(3月) 英BOAC機富士山上空で空中分解(3月) 全日空YS11型機松山空港で墜落(11月) 戦後最大の交通スト、公労協・交運共闘統一スト突入。(4月) 新東京国際空港を千葉県成田に閣議決定(7月) 自民党代議士・田中彰治、恐喝・詐欺容疑で逮捕(8月) 山口衆議院議長が東京大証事件に関連して辞任(12月) 世界…英国のビートルズが音楽で世界の寵児に(通年) 中国で文化大革命(通年)★1967(S42)年の大きな動き★ 国内…新宿西口広場が完成(1月) 日航が世界一周線の営業開始(3月) 富山県の奇病イタイイタイ病は三井金属神岡鉱業所廃水が原因と学会発表(4月) ロータリーエンジン車を東洋工業が発表。自動車保有台数一千万台を突破(5月) ワンマン宰相・吉田茂が死去。(10月…’89に戦後初の国葬) 消え行く都電。銀座線を廃止(12月) 世界…インドネシアのスカルノ大統領失脚(2月) アラブ諸国とイスラエル間に戦争勃発。スエズ運河を閉鎖。(6月) 中国が初の水爆実験に成功。(6月) ボリビアでゲリラ闘争中の前キューバ工業相ゲバラが戦死。(10月) 清朝最後の皇帝溥儀が死去(10月) ベトナム戦激化。米首都で十万人反戦集会のデモ隊が座り込み。(10月) アラブ連合のアスワン・ハイ・ダムが発電開始。(11月)*************************************************************************
2004年01月14日
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1967(S42)年2月26日(日)曇 ★中古のソファーを譲られ、上機嫌なママ「時あらば…」と狙っていた実家のソファーを、オジイチャン(幸の実父)の一言で遂に手に入れる事に成功。 これで狭いながらも、やっと応接間らしい雰囲気になったと思う。 パパは早速、手すりにラッカーを塗って、傷ついた箇所を見栄え良くしてくれる。私も、これから少しずつ余裕を見てはチェアーカバーを作っていこうと思う。 誰かさんは、お金がありませんよと牽制しているけれど、家を綺麗にする分には、500円くらいの出費は、私の腕でヤリクリしてみせるつもり。やっぱり、綺麗になった部屋を見るのは気持が良いものだから。 そんな模様替えが済んだ我家へ、まったく暫らくぶりに、お店のオバアチャン(誠の母)が来訪する。(妻・幸筆) *************************************************************************《付記》2004年1月13日の誠、日記再読所感☆中古のソファーを譲られ、上機嫌なママ 東側が出窓となった床の間付きの八畳間と、これに続く掘り炬燵(ゴタツ)付きの六畳間の南側は広縁となっている。そしてソノ六畳間の西側は半間の廊下を挟んで西側が出窓となった三畳間である。 今は最後の大増改築の折に取り壊して無いが、昔の玄関はコノ八畳六畳の続き間を囲むL字型の廊下の角に突き出す形で、南向きに作られていた。 この日記で幸が大喜びで実家から貰って来たソファーは、確かコノ玄関を上がって一間足らずの広縁の先に位置した、六畳間の一隅に置かれたように思う。 日記に書かれているように、ラッカーを塗り直したら、自分でも目を疑いたくなるほどグンと見栄(ミバ)えがして、すっかり嬉しくなったことが今も記憶に残る。 そして、このソファーの下へ敷くためだったと思うのだが、初めて買った絨毯(ジュウタン)がメキシコ風の鮮やかな虹色の細かい縦縞模様だった事も、安物なのに何故か気に入っていて忘れられない。 初めて置いたソファーの位置さえ、今の3分の1程の狭かった我家の何処へドウ置いたっけかなんて何とも不確かなのに、人間の記憶って本当に妙なものだと思う。 そうだ、そしてアノ絨毯は、確か私が静岡へ出張した時に街角の店頭で見掛けて買って帰ったものだった。何かアノ時の自分たちが一番待ち望んでいた明日への夢の虹を象徴しているように思え、一目でゾッコン惚れこんでしまったっけ…。 それにしても最後の大増築に踏み切り、両親と暮らした頃から、新婚時代を経て子育てを終わるまでの思い出が、そのまま染み込んだコノ旧棟を大部分ソノママに残した事は、何はともあれ本当に良かったと思う。
2004年01月13日
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*******************************************************************************************※この12日の古い日記は、《付記》の「誠、再読所感」が未だ一部分が作文中です。残り部分は後日執筆の予定につき、ご再訪ご笑覧願えれば幸甚です。*******************************************************************************************1967(S42)年2月23日(木) 雨★こんな職場旅行なんか、もう真っ平だ !! この二日ほど、天気予報は今日こそと雨を予想していたが、毎日良いお天気であったので、明日も又晴れるかも知れないと思っていた。でも、さすがに天の神も気象台に同情してか、今日は一日中雨。夕方からは一寸した時化(シケ)模様さえ呈してきた。 だからと言う訳ではないが、今日は私の心の中も荒れ模様。原因は春の庶務部旅行の投票結果を汚い手段で変更させたM通信課長が、知らぬ顔の半兵衛で「水郷案に多数決で決定しました…」等と回覧を回してきたからである。 この件についての経緯は既に2月10日(昨2003年12月30日の「古い日記」掲載分)の記事で詳しく触れた通りだが、遣り方が汚い上に悪びれない態度が余計癇に障る。 こんな事では旅行会費を毎月出す度に馬鹿馬鹿しさを感じる事だろうと、一度は退会届さえ書いてみた。 だが、「書面等で改まって…」と陰口を叩かれるより、会費を集めに来た時、これを理由に口頭で退会を宣言してやる方が得策と、今日の処は一応振りかざした拳(コブシ)を収めておく事とした。 年に二回の旅行、それも経営者や課長達が一銭でも余分に負担しているのなら別だが、皆一律負担の「慰安旅行」なのだから、もう少し民主的に明るく遣れないものであろうか。前にも一般から課長連の横暴を批判する声が出て問題となっていた事だけに、一向反省の色なしと言う訳。 こうした恥知らずが課長と言う肩書の下にヌクヌクと生活する現在の当行の機構の皮肉さが、つくづく身に染みて感じられる一日で有った。(夫・誠筆) 1967(S42)年2月24日(金)曇ときどき雨 ★小さな節約「梅屋」で日清の天ぷら油140g缶を250円で特売している広告を見つけ、朱門のオバアサン(幸の母)を誘って出かける。 昨日と打って変わって少々寒さがぶり返した感もあるので、二美(ツグミ)を背負い、バス代節約のため歩いた。その為か、少し睡眠不足も手伝ってか、また眩暈(メマイ)を感じる。「梅屋」は広告を見た人で、既に一杯だ。 1kgの砂糖が88円と格安のため、3袋以上も買い込む人が大勢いた。 こう物価が上昇し、反面、エネルギーがどうのこうのと煩く言われる今日では、主婦の一見ミミッチイと思える買物で自衛手段をとる他ないのかと思うと、何か淋しくなる。(妻・幸筆) ※(1967.2.24の日記余白、「昔・誠」書き込み記事)* 来信…高校時代の友人・T君からの葉書を受信。 彼の経営する高峯高原ロッジがテレビに出るから…と知らせてくれる。1967(S42)年2月2日(土) 曇ときどき小雨★旅行会費の不払い実行 今月の旅行預金を集めに来たので、現状のような非民主的な旅行会では、不愉快で会費を払う気がしないとハッキリと断った。 今は無き前頭取の軍隊日誌ではないが、いくら年老いても権力の前に悪を正として見過ごすような、根性の腑抜けた俗物には成りたくない。(夫・誠筆)※(1967.2.25の日記余白、「昔・誠」書き込み記事)*『故会長追悼録(仮題)』返済関係「日程表」&「第1校ゲラ刷り」の提出をT印刷・K氏に厳重督促する。 どうもルーズ過ぎる傾向があるので、部長からも先方のの上層部へ申し入れを行ってもらう。* レイアウト打ち合わせの為、デザイナーのO氏と5時半までピッチを上げて頑張る。 帰途は私の車で黄瀬川の実家まで送り届けて帰宅。*************************************************************************《付記》2004年1月1日の誠、日記再読所感☆こんな職場旅行なんか、もう真っ平だ !!(2.23) 前頭取時代は全額銀行負担だった年2回の職場旅行を、遂に全額個人負担とした上。行員同士の親睦が目的なのだからと月5百円づつを、旅行会名義の口座に預金させられ、半年三千円の資金で旅を実行する事になった。 又それを使っての職場旅行の運営も、年毎に課長連の恣意の侭に決められるようになり、これに若い者は有無を言わさず付き合わされる仕組みになってきていた。 これでは、呑兵衛揃いの課長連の酒代から玉代まで共に担がされた上、ペコペコとトックリ持って彼等に酌をして回る猿芝居のエテ公同然の旅。だから、こんなクソ面白くも無い芝居への参加は何とか避けたいもの…。こう、一般行員の多くが思うのも当然だった。 そしてソノ思いを何とか具現化させようと考えたのか、この宿一泊の「成田・潮来水郷案」に対する、夜汽車で出立して車中に仮泊する「雪の日光の朝を楽しむ案」で、既に回覧された調査では皆の希望は費用が予定額内で済むコノ案を大半が支持していた。つまり、一般行員は不足金を更に三千円も取られてまで、課長連のご機嫌取りをさせられるたびを暗に拒否していたのであった。 まあソウしたヨリ詳しい事情は、《参考》として必要部分をコノ文末に転載する12月30日の日記を再読想起していただく事として、そうした課長連の身勝手さとノー天気ぶりに、若さ丸出しの一本気で切歯扼腕していた「昔・誠」が、何とも懐かしい一文だった。☆小さな節約(2.24) 2月23日と25日の両日続けて書き続けている「昔・誠」の憤慨の記に挿まれたコノ「昔・幸」の短文は、当時の一般庶民の台所事情の一端を如実に示す良き資料だと思う。 又、その亭主達の怒りや不屈の反骨精神も、こうした一途にインフレと闘う妻たちの心を受けてのものだったと言えよう。 つまり、家庭を守る一般行員の女房は、たった140g入りの天ぷら油一缶を250円で買う為に、時雨模様の冬空の下を、バス代をケチり子供を背負ってテクテク街まで出かけていた。 そして、「一見ミミッチイと思える買物で自衛手段をとる他ないのかと思うと、何か淋しくなる。」といった妻の溜息を日々聞く度に、部下達の生活苦など何処吹く風と、手前勝手な無駄遣いを強いるM課長等への怒り心頭に達っしていたと言う訳だ。☆旅行会費の不払い実行(2.25) 遂に「やっちゃった!!」って感じの「昔・誠」だが、この短文日記の後半に、「今は無き前頭取の軍隊日誌ではないが、いくら年老いても権力の前に悪を正として見過ごすような、根性の腑抜けた俗物には成りたくない。」として挙げられている〔前頭取の軍隊日誌〕なるものも今取り出して再読してみた。 その文末にある、「この日誌は、軍隊生活と言う厳しい枠の中にあっても、常に正しいと思う批判は怠らなかった点など、故頭取の人柄が良く滲み出ているので遺文の一つに加えました」との注記が示すような意味で、ここでも、そのごく一部なりとヨリ多くの人達の参考に供したくなった。 今の人には少し読みにくく難解かも知れないが、当時の軍隊生活の一端も垣間見える。それに心して読むとナカナカに棄てがたい処世訓とも思えるとあって、出来れば判読可能な範囲なりと御一読をお勧めしたい。*************************************************************************《参考文》その1〔12月30日の日記 古い日記…♪No.270「庶務部の旅行案を巡って(1967.2.10《♂34♀31》)」抜粋〕 …(前略)… それは庶務部の旅行についてだが、「雪の日光の朝を楽しむ案」と言うのが「成田・潮来水郷案」を圧し、部内回覧板に捺印された数で第1位となった。 尤も、「成田・潮来水郷案」の支持者の中心が、近ごろ相次いでマイカーを初入手した課長連で、愛車に付ける成田山のお守り欲しさが半分らしいというのが平部員間での定評。 これに対する「雪の日光の朝を楽しむ案」は逆に若い人達、特に女性が多く、この対照性が些か気になる。 と言うのは、この力関係の強弱を良い事に、例の如く課長連が自分達の職権を悪用。投票の結果を無視して強引に「日光案」を押し潰そうという動きがあるからだ。 現に夕方になって、その筆頭と目される通信課長のM氏が私の所へ現れ、暗に握り潰しを仄(ホノ)めかしていった。 理由は、計画に無理があると言うのだが、「成田・水郷案」だって五十歩百歩。 それに何より、旅行積立金は一人三千円しかないと言うのに、倍の六千円近く掛かる成田一泊案は、予算を余りに無視しすぎているのではなかろうか…。 これに比べ「日光案」は、土曜日に各自が一旦帰宅後、十分に家で休んでから、夜汽車に揺られ日光へ向かう。現地ではタップリ8時間ほど観光でき、結構な日光の御来光や雪景色が味わえる。帰路は直通の座席指定急行で夕刻6時過ぎには沼津着と言うのが骨子。 とにかく、宿泊代が節約できるので、各自が追加徴収される出費は千円程度で済むというのがミソだ。 私としては、日光へ行きたいと言う女子行員の要望を是非実現させてやりたいと思うが、この車中泊修正案を自分が発案した関係から、これ以上とやかくは言わないつもりだ。 しかし、ヨリ多くの部員がコノ案の詳細を知った上で賛同したという事実を、一握りの課長達の独断で簡単に一蹴したり、各自に圧力を加え初志を変更させようなどといった事は勿論有ってはなるまい。 誇り高きS銀行の役職者なら、その程度の良識は持っていて当然だろうし…。…(後略)…《参考文》その2〔前頭取の軍隊日誌抜粋(歩兵第18連隊第4中隊1年志願兵 OH)〕 大正2年4月日誌 4月19日 土曜日 曇連隊長殿内務ノ検査ハ本日行ハレル予定ニテ中隊ニテモ之レガ準備ニテ午前中多忙ナリ、抑モ検査ノ目的ハ兵器、被服、其他一般官給品並建物陣営具消耗品ノ保存手入ノ良否ヲ見 其ノ精神ヲ研メ 以テ将来を警ムルニアリ、近頃軍隊ノ検査ヲ見ルニ往々ニシテ形式ニ流レ 返ッテ其目的ヲ得ズ 且ツ軍隊兵卒教育上益ナキヤニ思ハル 之レ軍隊ノ検査ノ余リニ厳ナルノ余弊カ 吾人ノ研究未ダ足ラザルニヨルカ 記シテ後日ノ研究ニマツ 4月21日 月曜日 晴午前中学科アリ 11時帰レバ将ニ週番士官殿ノ学科アリ自分モ出席ス、 (以下、後刻執筆予定)*************************************************************************
2004年01月12日
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1967(S42)年2月22日(水) 晴★ハワイからの宇宙中継で感じたベトナム戦争との違和感。 木島則夫モーニング・ショーで、このところ宇宙中継によりハワイ各地の模様を伝えてきている。 常夏の島という気象条件からだろうか、人間の性質・服装など全てのものが陽気で明るそうだ。これが今、全世界の注目を浴びているベトナム戦争をしている国かと疑いたくなるほどだ。 内地攻撃の経験がないからだろうが、日本のアノ当時の惨めさ、貧困さ、暗さなど微塵もない。 子供や夫を戦争に駆り出された者達の悲しみは当然あるに違いないのだが、アメリカの大きな…、と言うより何か我々には理解できない派手な何物かで覆われてしまって、他国者には目に付かないのだろう。 昨日テレビで見たベトナムのデルタ地帯の実況を思い出すと、余りにもアンバランスな生活状態に納得できないものを感じた。(妻・幸筆) *************************************************************************《付記》2004年1月11日の誠、日記再読所感☆ハワイからの宇宙中継で感じたベトナム戦争との違和感。 米国首脳部の唯我独尊思想が招いた悲劇とも考えられるベトナム戦争が終わったのは1975年であったから、この宇宙中継から更に何と8年間も続いた。 国民内部からも大きく反戦の声が盛り上がる中、ベトナムの民族解放戦線により米国はサイゴンからヘリ等を動員してホウホウの態で逃げ出した。 アノ日から早くも四半世紀余。ソ連を自己瓦解に追い込んだ米国は、一国覇権国家となった事に驕り、又々唯我独尊主義による世界制覇を企て、圧倒的な武力を背景に全て米国を標準とする強引な政策を打ち出してきた。そしてソノ無反省さと鼻持ちならなさは、平和を愛する世界の人々が常に警鐘を打ち鳴らすのを尻目に愈々増大。 特に中東では、数千年に亘って住み着いていたパレスチナ民族を大国の権威と武力で締め出し、無理やり建国したイスラエルを支援し続ける余り、イスラム圏全域の人々から心中の敵として意識され、あの世界貿易センタービル事件に象徴される全員自殺覚悟の大規模同時テロ攻撃事件まで招いてしまった。 ところが選挙と言う瓢箪の振り方が悪かったのか、中から出たのが駒に乗った喧嘩好きなガンマンもどきの新大統領だったからサァ大変。ベトナム戦争や多くのテロの因果関係を直視せぬばかりか、テロ根絶の予防戦争をお題目に、アフガンに殴りこみ周辺諸国の民衆まで巻き込んでの狼藉三昧。そして更には石油利権漁りとも取られがちなイラクに対し根拠薄弱な因縁を突きつけ無理難題。挙句の果てに国連の制止も聞かず又々殴り込んじゃった。 何だか、素人衆に如何ほど迷惑をかけようと知らぬ顔といった、三流ヤクザかマフィアの喧嘩ソックリ。それゆえに、良識ある米国民や平和を願う世界の人々は何とも気が休まらない昨今である。 一方こちらは話し変わって最近の日本の誰かさん。 その強引さを見ていると、どうも戦後までコレ程ゴタ付くとは思いもせず、親分に気に入られたくって初顔合わせの際に大見得を切りすぎた手前、その御機嫌を損じまいと躍起になっているゴマ擂りバッタぶりを、何故か連想させられちゃうんだよねぇ。「イザとなれば、オラが島の若者の命でも何でもお気に召すまま差し出しますから、どうぞ以後オイラをご贔屓に!!」…てな事言ってきてしまった手前、引っ込み付かなくなった広域暴力団の若頭って構図が何か透けて見えるように思えるんだよね。 それでも、あのベトナム戦争やアフガンの時までは、この国の首相も皆戦争の惨禍を多かれ少なかれ自身体験してきただけに、平和憲法を盾に何とか国民の血まで犠牲にする巻き添えだけは避けてきた。 ところが戦争の実体を知らない世代に首相がなった途端のコノ始末。全く我々の国も瓢箪振って何とも口先ばかりの仮面ライオンを出してしまったものだ。 皆ソロソロ仮面の下の狼顔に気付かんと、一度沈む寸前まで行き不戦の誓いをしあって持ち直したオイラ達のマルシップ。今度こそ、本当に沈没しかねんぞぇ !! 先の大戦で政府がコレほど多くの国民を犠牲にしておきながら、自分自身が現平和憲法の番人であるべき立場を忘れているんかいな。それとも貴君が得意のオトボケかいな? 何れにせよ、性懲りもなく国民を死地に追いやる破廉恥さを、閣僚各位はイラク派遣隊員を育て上げたご両親の真の気持になり再思再考すべきだろう。 クリントンを真似、国費で自分のメルマガを出して人気を維持する術を知る賢明さをも持つ貴君だが、惜しむらくは、その志が自分勝手で邪(ヨコシマ)すぎる。総理大臣だろうと、国民の一公僕である事を忘れないで欲しい。また憲法の下では皆々平等と定められている。 まあソレとても、一昔前に正反対だった自身の言動の記録を目の前に出され、豹変振りを指摘されても屁の河童の貴君のことーー事だ。又も前文の精神は…なんて言い出して、黒を白と言いくるめるかも知れんがね…。 ともあれ真の愛国者は、靖国神社参拝なんか表面的なカッコには拘らず、心で哭くものだと私は言いたい。 音楽好きで耳も確かな筈の君よ。もう一度目を瞑り心の耳を澄まして御覧よ。「敗戦の時、国民皆々異口同音に、モウ二度と戦争はすまいと誓い合った心を忘れたのか…」ソウ叫びあっている、靖国の英霊達の声が必ず聞こえる筈だ。 そう、それこそが真の戦争の犠牲者の声なのだから…。 今からでも遅くは無い。過ちを糺(タダ)すに、貴君よ恥じること勿(ナカ)れだよ !!
2004年01月11日
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1967(S42)年2月21日(火)晴 ★一言弁明&溶けゆく雪だるまに思う 今日の記事に入るに先立ち、昨日のママの言葉に対して一言弁明しておきたい。 …と言うのは、「我家のコンセントは不正だらけ。あっちこっち線を引っぱっておく事が大好きな人がいるので、云々」とあるが、我家の大蔵大臣たる幸さんの言葉にしては一寸意外である。 私だって各部屋毎に幾つものコンセントを設置し、理想的な生活がしたいのは山々である。 だが、そうする為には毎月の基本料金も増えるので、工事費だけでは済まないと聞いている。 ママの気持は良く判るが、毎月の家計費も赤字赤字の今日この頃ゆえ、まあ出来るだけ現状で我慢してもらいたいと思う。 さて、次に本論に移ろう。 始めに今日の記事などと書き込んでしまったので、今日の出来事を書かなければ申し訳がないようにも思うが、実は、先日作った雪だるまが次第次第に溶けて行く姿を見て、何となく感じた事を少し書きとめておきたい。 あの雪だるまは二・三日で姿を消してしまった。真に果敢(ハカ)ない生命であった。 しかし人間の生命も自然の尺度を持ってみれば大同小異ではなかろうか。 でも私は、その果敢なさを通して生命に輪廻と言う作用が本当に有るのではなかろうかと思い至った。 つまり、雪は何時か溶けて水となり、一部はそのまま水蒸気ともなる。 だが水となったものも、何時かは川や海に注ぐうちに気化して同じ水蒸気という形をとる。 そして又その水蒸気は、雲となり雨や雪や霰(アラレ)等となって再び地上に戻る。 勿論、すべての生物もコレと同じ様な事を繰り返すのではなかろうか。 ある時は目に見える形をなし、又あるときは目に見えない存在となる。だから私共の霊魂が、死と共に一度地上を離れることがあっても、何らかの形で再び地上に戻る。 すべての宗教は、こうした事を人間が漠然(バクゼン)と感じるからこそ、興隆存続するものと言えよう。 又、フランキー・堺が映画『私は貝になりたい』で、戦犯として処刑される兵士を好演。大いに好評を博したのも、斯様な人間の潜在意識あるがゆえの共感と考えられよう。「生命の輪廻」。それは果たして、如何なる法則の下で動いているのであろうか…。 既存宗教のすべてを否定し、自分の心の中に何時からか形作られて住み着いた独自の神のみを信じて生きている私は、日一日と姿を変えて行く雪だるまを眺めながら、こんな事を考えていた。(夫・誠筆) *************************************************************************《付記》2004年1月10日の誠、日記再読所感☆一言弁明&溶けゆく雪だるまに思う 幸の昨日の日記に関して、「昔・誠」自身も一言弁明したくなった気持は当然の事。 なにせ、37年と言う長い時を隔てて再読した「今・誠」でさえ、読後感の殆どが、自ずから幸の蛸足配線批判に絞られた程だったから…。 続いて書かれていたコノ記事に気付かず、些か弁明がくどくなってしまった遺憾さは、昨日の日記の読後感文末に「《PS》お詫び」として掲げておいた通りだ。 ところで今日の日記の主題「溶けゆく雪だるまに思う」を読み、直ぐ思い出した事があった。 それは、トロントに住む中国系カナダ人オットさんと、メールを通じた交際が縁で先年結婚された仲良しの若いメル友、「北のあかりさん」が去る1月7日の日記に引用していた一片の詩であった。 それは37年前の早春。私が「溶けゆく雪だるまに思う」と題して書き残したコノ日記と、何処か思いが共通して居るようだと感じたからである。 そんな訳で、些か芸がなさ過ぎるとの批判は覚悟の上で、それをそのまま以下に転載し、なるべく多くの皆さんにもソノ感動を共にしていただければと思う。♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪《参考文》北のあかりさんの2004年7月7日の日記転載“私はここにいるよ” 1月7日(水) 「千の風になって」私のお墓の前で 泣かないで下さいそこに私はいません 眠ってなんかいません千の風に 千の風になってあの大きな空を 吹きわたっています秋には光になって 畑にふりそそぐ冬はダイヤのように きらめく雪になる朝は鳥になって あなたを目覚めさせる夜は星になって あなたを見守る私のお墓の前で 泣かないでくださいそこに私はいません 死んでなんかいません千の風に 千の風になってあの大きな空を 吹きわたっています千の風に 千の風になってあの大きな空を 吹きわたっていますあの 大きな空を 吹きわたっていますA Thousand WindsDo not stand at my grave and weep;I am not there, I do not sleep.I am a thousand winds that blow.I am the diamond glints on snow.I am the sunlight on ripened grain.I am the gentle autumn’s rain.When you awaken in the morning’s hush,I am the swift uplifting rushOf quiet birds in circled flight.I am the soft stars that shine at night.Do not stand at my grave and cry;I am not there, I did not die.母から送られてきた小包の中から、出てきた本。作者不詳のこの詩が必要な全ての方々の心に届きますように...*************************************************************************《上記転載日記に対する掲示板への私の所感》♯北のあかりさんへ★Re:“私はここにいるよ”(1/7) 若水 誠 「千の風になって」素敵な詩 !!「北のあかりさん」ってコンナ詩も書けるんだ。やっぱりね。…と思って、読み進んだものでした。ハハハ、お母さんが入れてくれた詩集からの引用でしたか。でも、あかりさんなら、ヨリ感銘深い作品も書けそうかもね…。ともあれ、良い詩を見せていただいてアリガトウ。私も、娘たちにコノ詩を書き残しておこうかしら…。勿論あかりさんから教えられた、作者不詳の詩である事を明記してですがね。 (1月8日13時39分) ♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪ 《PS》実は、上記転載の件で一応「北のあかりさん」の承諾を求めたところ、そのご返事と共に、この詩の事で更なる情報をご教示いただいたので、以下の通り追記しておく。♯若水さんへ こんばんは!こちらは、零下22度(体感温度 零下33度!)のトロントの朝です。日記について、どうぞ引用くださいませ。あり難く、感謝したいほどなのです。この、日記に掲載した詩についてですが、もともとは英語のもの(英語詩)です。作者は不明なのですが、映画監督のハワード・ホークスの葬儀で、女優のマリリン・モンローの25回忌に、そしてニューヨーク同時多発テロ事件で犠牲になった方の追悼集会などで、繰り返し朗読されているものなのだそうです。作者について、インターネット上で様々な説が飛び交っているようですが、はっきりしたことは未だに不明です。朝日新聞の天声人語で紹介されてから話題になったものだそうです。この詩を必要としている全ての方々の心に届けたい、と心から願いますので、どうかご引用くださいませ。取り急ぎ、お返事まで。「北のあかり」より
2004年01月10日
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1967(S42)年2月20日(月)晴 ★電線柱が高いのも、我家で停電が起きるのも、皆々パパが悪いのよ !! 夕方になって、また電気が故障。朱門の父に安全器を調べてもらい、ヒューズの止めネジが緩んでいるというので、きつく絞め直してもらったが、相変わらず部屋の電気は点かない。 止むを得ず東電に頼む事にしたのであるが、何しろ我家のコンセントは不正だらけ。あっちこっち線を引っぱっておく事が大好きな人がいるので、まるで蛸の足のようにコードが張り巡らされている。目に付く所を片付けヒヤヒヤして待った。 しかし、何の事なく安全器の上部の留め金がズレている事が分かりホッとする。 今度同様な故障が起きたら「安全器」その物を取替えてくれと東電の方に電話をしてくれと言われる。 全く、とんだ騒ぎをしてしまった。(妻・幸筆)*************************************************************************《付記》2004年1月9日の誠、日記再読所感☆電線柱が高いのも、我家で停電が起きるのも、皆々パパが悪いのよ !! 「今・誠」として所感を述べる前に、出来たら読者の皆さんに一寸伺いたいと思う。「一体、貴方のお宅では蛸足配線をせずに済んでおられますか?」と…。 もし蛸足配線なしで済んでいるという方は、余程、将来の電化生活を周到に見込み配線された高級住宅に住まわれている場合。もしくは、電気器具はゴク僅かしか使わない場合。その両極に分類できる方だと思う。 戦後は全ての物が電化してきた。コレだけ多種多様な電気器具が増えながら、家庭のコンセントの数は今でも大方知れたもの。 だから文化生活を送ろうとすればするほど、コンセントに三つ又や四つ又などを取り付けならない筈だ。 また更に電気器具によっては、取り付けてあるコードだと壁や床のコンセントまでは届かず、延長コードやテーブルタップが必要ともなろう。 蛸足配線をするのは好ましくない事は現代人なら誰も承知の事。 過電流による危険は勿論だが、足にも引っ掛けやすいし、見た目も悪いから誰も避けたいのは山々だ。 でも普通の家に住む限り、現実には住む家の質と電気器具の利用の多寡次第で、程度の差はあっても蛸足配線は必要悪だと思う。 要は、元のコンセント1口から利用する器具の使用電力の総和が、認められた電流の許容限度を越えない事。この点に注意して使うというのが殆どの家庭での現実ではなかろうか。 幸い最近は省電力化も進んできたし、通信やAV機器など多くの電化機器は弱電機器だ。それゆえ機器の組み合わせ次第で一コンセントに掛かる電気の負荷は、滅多に安全限度を超える事はない。 まあソンナコンナで自慢じゃないが、幸奥様が気に入らないのは百も承知だが、我家は今も蛸足配線。 電線柱が高いのも、我家で停電が起きるのも、皆々働きがなかったパパが悪いのよ !! 東電さん、ゴメンナサイ !! 《PS》お詫び 実は、この「9日の誠、日記再読所感」を書き終わって、明日掲載する次の「古い日記」を下読みしたところ、案の定、今日のママの「蛸足配線非難」に対する弁明が最初に書かれていた。 コノ今日の所感と些か重複の感があり、もし時間的余裕があれば書き直すところだが、明日は国立病院で各科多重診療を受ける予定があるので多分一日潰れそう。 それゆえ、本当は2日分書いて並列し、明日の日記の所感を主に書いた方が、内容的に上策だったと感じた。 まあ、少しクドク感じられようが、何卒ご寛容ご笑覧の程を…。
2004年01月09日
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1967(S42)年2月19日(日)晴 ★ママに布団を剥がされ、ワシャ、カ~ナワンヨ !! 昨夜は遅くまでレイアウト・マンと打ち合わせの仕事があり、完全に解放されたのは、もう10時過ぎ…。 そんな訳で、今朝はユックリ寝かせておいてもらおうと思っていたのだが、やはり例によって例のごとく。とうとうママの奇襲攻撃に遭い、遂に布団を剥がされてしまった。 その為、又々飛び出す「あ~のねオッサン、ワシャか~なわんよ !!」。 でも御蔭様で、外は素晴らしい天気。 車を磨き終わった頃は、働いたためも加わって、程よい暖かさに爽快さすら感じた。ママ、本当にアリガトウ!! いや本当、これは負け惜しみではない…。 だが待てよ、余り正直な事を書くと、これを良い例として日曜毎、ママの奇襲攻撃を受けるといった不測の事態を招くかもしれない。 まあ、前言を取り消して、その差は五十歩百歩。程よい暖かさだけが本当で、やはり爽快さは負け惜しみと言う事にしておこう。(夫・誠筆)※(1967.2.19の日記余白、「昔・誠」書き込み記事)* 午後、家族で外出。 富士急食堂で昼食後、千本浜海岸へ。風もなく温かな奥駿河湾の冬日和を楽しむ。* 夜、一菜にドリルをさせて知能テストを試みる。 *************************************************************************《付記》2004年1月8日の誠、日記再読所感☆ママに布団を剥がされ、ワシャ、カ~ナワンヨ !! いやはや、大方の女性と言うものは、夫婦として慣れきると、結婚前に見せていた外見の淑やかさや優しさからは、時として想像も出来ないような行動に出るものだと思う。 えっ、何々、「それはお互い様じゃないの…」ですって? うん、まあソリャ~そう言われればソウかもしれないがね。 いや、ムニャムニャ。 何やら、「ヤブを突っ付いてヘビを出してしまった」ようだなぁ。 なにねココでは唯、「春眠、暁を覚えず」といった感じで、心優しい幸の夢でも見ていたであろう「昔・誠」が、突然ソノご本人から奇襲攻撃を受けた心情を察して、一言代弁してみたかっただけ…。「ウーマン・リブの皆さん、本当にゴメンナサイ!!」
2004年01月08日
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1967(S42)年2月18日(土)晴 ★口に入る物さえあれば大人しい二美? 昨日は「春一番」が荒れまわったが、今日は温暖な一日。 幼稚園の参観日なので仕事もソコソコに出かける。 あまり暖かなので、二美(ツグミ)も連れて行く。 参観の後、県教育長の講演もあるので、二美が大人しくしていてくれるか心配だったが、幼稚園でパンを下さったので今日はとても良い子だった。 口に入る物さえあれば、本当に大人しい子だ。(妻・幸筆) *************************************************************************《付記》2004年1月7日の誠、日記再読所感☆口に入る物さえあれば大人しい二美? もしニ美がこの題名を見たら、「何て失礼なぁ !!」と怒られそうだ。「でも、昔のお前さんを一番良く知っていたお母さんが、ソウ観察して書いているんだし、マアマアそんなに怒りなさんな。」とでも予め弁解しておこう。 なにしろ、このみじかい日記の中から、一番読者にアッピールするキャッチフレーズといえば、どうしてもコノ結びの一語に尽きようから…。 それにしても、子供の頃の二美は、一昨5日の日記でも一寸触れたが、好物のビーフシチューと共に、ショートケーキ等の洋生菓子が大好きだった。 サモ幸せ一杯といった仕草で、少しづつ味わい味わい美味しそうに食べてくれるソノ満足気な表情は、まさに千両役者。 父親の私は、ついコノ顔を見たさに散財を承知でケーキ屋へ立ち寄り、一箱下げて帰りたくさせられたものである。 とにかく「本当にご馳走してやって良かったナァ !!」と感じ、この可愛い子達の為ならエンヤコラと、働く気力を湧かせてくれたものだった。
2004年01月07日
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1967(S42)年2月17日(金)晴 ★不遇の身で旧友会に臨む心 お昼頃、京都時代の旧友・K君から電話を貰う。「出張の折、貴君(キミ)のところへ寄って一夜を楽しく過ごした思い出は、私がN社へ就職した卒業後間もなくの頃だったから、あれ以来もう十年も会わない事になるね。貴君からの手紙を見て急に声が聞きたくなったって訳だが、ヤッパリ昔の侭ですね !!」。と懐かしそうに語る彼氏。嬉しい事を言ってくれる。 今、新名古屋ビルの4階に居るそうだが、 出張の折は是非寄ってください。 全県人会のメンバーの再会が決まれば、京大生側の纏め役だったTさんを筆頭に皆を誘っていきますからと、凄い張りきりよう。 どんな顔ぶれが集まるか、今から楽しみである。 ただ、私としては今、心ならずも不遇の身。 陽の当たる道を歩んでいる友こそ多く集まるであろうコウした会合に出席する事は、正直なところは些か時宜を得ず、何となく気後れを感じざるを得ない。 しかし、京都女子大側の纏め役だったNさんやSさんがお膳立てを始めた今回の動きは、節目的にも頃合いだし、コレも又「運命」。 ベストを尽し励んできた上でコウなったのだから、何時の日か花咲かんといった淡々とした心境で出席し、懐かしい友たちの幸運や栄達を素直に喜んで、旧交を温め再会を果したい。(夫・誠筆) *************************************************************************《付記》2004年1月6日の誠、日記再読所感☆不遇の身で旧友会に臨む心「十年一昔」と言うが、大学を巣立って早くも十年以上も経ったコノ時。こうした再会への動きが胎動したのに、遂に実現しないままだった事を改めて残念に思った。 この「全京都学生静岡県人会」という名の組織が誕生したのは、未だ敗戦の記憶覚めやらぬ中。朝鮮戦争を経て社会が何となく安定に向かい始めていた矢先。今と違って未だ労働運動や学生運動も激しく繰り返され、折に触れてはデモ隊と警官隊の衝突事件が多発していた、ワンマン宰相・吉田内閣末期の時代であった。 会の趣旨は、お互い故郷を遠く離れて同じ京都に学ぶ者同士、学校と言う枠を超え互いに顔も知らず語り合う機会もないまま終わるのは何か残念…。折角の古都生活なのだから、ヨリ広く交友の輪を広げ、より有意義に共々古都の四季でも楽しもうではないかといった親睦が目的だった。 その時、確か私は同志社大学の三回生として学内の県人会の纏め役をしていた。そして当時確か市内各地に十数校有った大学の組織同士、どういう風にして気脈を通じ合ったか今ではハッキリ思い出せないが、とにかく主だった大学の県人会組織の長が一夕集まる事になった。 場所は京大で寮生活を送っていたTさんの部屋で、京大・府立医大・京都女子大・同志社大・同志社女子大・立命館大などの代表が、熱心に会則や発会までの手順を、各女子大寮の門限を気にしながら協議した記憶が残る。 そして以来、毎年春秋二度ピクニックを開催。洛北の八瀬・大原方面と洛西の清滝・高雄方面を訪ね歩いた楽しげな写真が、学内での県人会のアレコレと共に、こよなき青春の思い出としてアノ顔コノ顔がニコやかな笑顔で脳裏を過ぎる。 特にコノ全県人会あったればこその友である、京都女子大の纏め役の一人だったNさんとは、その後の人生でも何かと親しくして戴く事となった。 学生時代の忘れがたい思い出も残る彼女とは、二美(ツグミ)の生まれて間もなく、初めてのマイカー「コロナ」で春の浜名湖・渥美半島周遊のロングランを試みた際、お宅に立ち寄らせて頂き再会。娘達と同じ年頃のお嬢さん二人が居られ仲良く遊んでもらった微笑ましい写真など、ご歓待を戴いた記録も残っている。 そんな事も有ってか、県西部の学校に進み親元を離れる事となった娘・二美の実質的保証人と親代わりをも務めていただく奇縁も生まれ、実に有り難かった。 そんなことから、その後の結婚式にも遠路遥々ご出席いただくなど、彼女の事を思い出す時、まさに「一期一会の縁を軽んずるべからず」と深く思う。 また私が定年退職する直前の家族旅行では、浜名湖弁天島の銀行寮にご来遊願い、家族共々一泊して往時を語り明かしたりもした。 それから、この日記に書かれた電話の主である、数年後輩の旧友K君とも、彼がN社の重役まで上り詰め、高齢で退任した先年、私の旅友達との会合に合わせて新宿で再会。そのまま彼とは見知らぬ間柄ではあったが合流させてもらい、一夜久々の旧交を温め、実に楽しく積もる話が出来た。 そして、今春は又その前記Nさんから戴いた何時もながら流麗な筆致の年賀状添え書きによれば、「故あってY子嬢を湯治にお誘いしています。宜しければ、合流遊ばされませんか…。その節は日程等、追って連絡します。」との事。 因みに「Y子嬢」とは、本文の文末近くに、「京都女子大側の纏め役だったNさんやSさんがお膳立てを始めた今回の動きは…」と記してあるSさんソノ人の事。 彼女Sさんとは、年賀状の交歓は欠かさなかったが、その後逢う機会もなく過ぎてしまった。 しかし、私より確か一年後輩だった彼女達だが、S嬢はソノ後名実共に独身を通した様子で、何と私の母校の学生生協に就職して先頃退職するまで京都生活を続けていた。 余程、京都の水が肌に合ったもののようだ。それとも秘めたる恋人でもいて古都を離れがたかったのかしら…とも思う。 旅が好きで、仕事の下見も兼ねての事もあったとは思うが、退職後の今もなお実にシバシバ世界各地を歩き回っている様子。 特に辺境の旅が好きなようにも思えたものだが、写真に写る彼女の姿が、またソノ風景に実にピッタリで、学生時代からの彼女の個性を彷彿とさせられた。 ともあれ、こうした個々の友との再会の機会は数回あったものの、皆で集まろうといった呼びかけは、以後、皆々仕事の多忙化や家庭作りに追われてか、遂に具体化せぬまま、再会の機会もなく大方の友とは再会の機会もなく、一瞥の友として老境を迎えてしまった。 まあ、ソンナコンナの懐かしさも募り、体調の許す限り、この機会に是非もう一度彼女たちに会って置きたいものだ。 出来ればK君にも電話を掛け合流を誘ってみよう。
2004年01月06日
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1967(S42)年2月16日(木)晴 ★ビーフシチュー&カレーライス「夕飯のビーフシチューが美味しかった。」まことに苦しいお世辞。 テーブルの上に、お皿とスプーンが出ると、直ぐカレーライスと思って胸をときめかす人に、ビーフシチューが出たんだから、さぞやガッカリしたことだろう。「カレーさえあれば満足だ」と、手の掛からない事を自負しているようであるけれど、これではママの折角の腕が泣いてしまう。 それに、子供にも、いろいろな料理を食べさせてやる事によって、偏食を無くす事にもなる訳。 まあ、これから得体の知れない物も出るかもしれないが、そこは貴方の愛する(?)奥さんが作った物。我慢して食べて欲しい。 と言っても、何も不味いものを美味しいとお世辞を言えと言うのではない。いろいろ批評して欲しいという訳だ。(妻・幸筆)※(1967.2.16の日記余白、「昔・誠」書き込み記事)*早速ですが、ママの今日の料理寸評です。夕飯のビーフシチューが大変美味しかった。それに、宣伝コレ努めるママの態度が大変可愛かった。ハイ、ゴチソウサマ !!*ママの好物「中華風餡かけ堅焼そば」の思い出 夜更けて、焼そばが食べたいと駄々を捏ねはじめたママ。 こんな時、千本村に住むパパは、どうしてアヤシたら良いのかなぁ…。 一寸困惑気味の夜半でした。*************************************************************************《付記》2004年1月5日の誠、日記再読所感☆ビーフシチュー&カレーライス そう言えば、婚約時代に幸の家に行くと、良くカレー料理を御馳走してくれたものだった。 特に気に入ったのは、旨味タップリの挽き肉が微妙な味加減で涅(クリ)色のソボロ状に調理されたドライカレー。 これが何とも絶品だった。 メリケン粉でトロミを付けた普通のカレーでもお代わりが常の私だったが、このドライカレーが出されると更に食が進み、いつも途中でバンドを緩めずには居れなくなった程である。 だから、結婚後はコレが我家のカレーの定番となり、幸も腕を上げて更なる絶品に出会えるのを楽しみにしてきた。でも私を凌ぐカレー好きの子供が出来なかった為か、正直に言ってアノ絶品カレーを越す味には未だ出会えぬ侭で今日に至っている。 まあソンナ訳でアノ絶品ドライカレー。幸が自分が作ったような事を確か言ってたが、モシカしたらオフクロさんの代作だったかも…なんてフト思った事も有ったっけ…。 とにかく、結婚する前は、同じカレー好きなような事を言っていた幸だったが、どうも困った事に本当はカレーよりデミグラスソースの味が好きで、これに娘達も右へ倣えしちゃった感じだ。 特に次女の二美(ツグミ)なんて、成長するにつれ、レストランへ行くと決まってカレーなんかよりグンと高価なビーフシチューを注文するようになった。 だから安月給取りのオイラは何時も財布の中身が気になり、自分は出来るだけ安い料理で我慢したものであった。そしてソノ格安料理の代表的なものが、当時、何処の店も殆どカレーライスだった。それゆえ、この時ばかりは幸にも絡まれる心配もなく大好きなカレーを堪能できたものであった。(トホホ) それにしても、44年近い歳月がアレヨアレヨと過ぎ去ってしまった今、フトこんな話を書いたためか、何だか無性に、あの「絶品ドライカレー」の味が恋しくなっちゃったなぁ…。
2004年01月05日
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*************************************************************************※この4日の古い日記…は、往時の記録だけ只今書き終わったので一応掲出します。尚、《付記》の「誠、再読所感」も後刻執筆の予定につき、ご再訪ご笑覧願えれば幸甚です。************************************************************************* 1967(S42)年2月15日(水)晴 ★毒舌評論家・小汀利得氏のベトナム戦争論に異議有り 昨日一日で、まだ所々に三軒された平野部の雪は大部分消えた。しかし、愛鷹(アシタカ)・箱根・伊豆の峰々は未だ真っ白。まるで白銀の富士と妍(ケン)を競うが如きだ。 ところで、今日は昨日、当行の本店で行われた恒例の公開経営講座の講師一人で、今一番人気のモテモテ爺さん、小汀利得(オバマリトク)氏の講演評を書こう。 例によって、テレビの日曜放談そのままの口っぷりで、切り捨て御免とばかり2時間余をまくし立てていった。 彼氏の悪舌に遭っては、サスガ今を時めく政財界人も、大馬鹿揃いと言ったところである。 唯一人ホメられていたのは宇佐美日銀総裁だけであったが、それとて官僚上がりの連中より些かマシと言った表現で、お利口さんは自分一人と言いたいところなのだろう。 だが、それでいて誰からも名誉毀損の訴えも出ず、彼氏が安泰なのは、世間が彼氏の気質を知って、評論家と言うよりも漫談家に等しいものと評価しているからでもあろう…。 話の内容は、ベトナム戦争大賛美論が出たと思うと、仁徳天皇御陵発掘提案に変ると言った具合の八百屋評論だから、とても説明しきれないし、又これを一々批評することも時間的に困難である。 だが、仮にベトナム問題一つに絞って彼氏流にその意見を総合すると、「米国が戦争をやってくれるお蔭で、日本の産業は潤っている言うのに、勘定論にばかり捉われるのはのは愚の骨頂。反対する奴は皆馬鹿だ !!」という事になろうか。 尤も、私に言わせれば、反対論は単なる感情だけの問題に根ざしているのではないと言う事である。 米国は今、その物量にモノを言わせて、有利な戦局を展開しているようだが、逆に世界の知識人から総批判を浴びせられている格好である事も、それを物語る良き証左であろう。即ち、インテリこそ、冷静なる理性の代表者と目される事を前提として論ずるなら、必ずしも有利な戦局とばかり断言は出来ないのではなかろうか。 又、もう一つ我々日本人として徒(イタズラ)に米国に追従する気になれないのは、ここ三・四十年前から、かつて米国が理想として代々受け継いできたモンロー主義は何処へやら…。それをカナグリ捨て、金にモノを言わせて気に入らない弱小国、特にアジアの新興国家を苛め抜き、それでも従わぬなら武力で来いと云う、文字通りの暴君ぶりを発揮してきたからである。 太平洋戦争・朝鮮戦争・ベトナム戦争、皆々然りである。 これらは単なる利権戦争でもなければ、イデオロギー戦争でもない。 実は、米国の有色民族軽視の傾向が生んだ、アジア人の怒りなのだ。 そうした堪えきれない怒りの激突が、この数えきれない彼我の人々の命を犠牲にさせてきた事を直視するなら、単に小汀氏の言うような損得勘定だけでは割り切れない問題がソコにある。 こう考えて見るなら、ベトナム人と同じ肌の色の日本人として、決して黙視できない重大さも分かろうと云うものであろう。 例え、小汀氏であろうと、何処の旦那であろうと、この辺の事情を無視して論評をめるとなれば、それは、小汀氏の毎度の言い草ではないが、余程の馬鹿か、破廉恥漢だと評されても致し方あるまい。(夫・誠筆) *************************************************************************《付記》2004年1月4日の誠、日記再読所感☆ (以下、後刻執筆予定)
2004年01月04日
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1967(S42)年2月14日(火)晴 ★ママ、再びダウン。オダテに乗った幼い一菜が結構役立つ 新婚旅行の途中でも風邪を引きこんだけれど、今日も又、今年に入って二回目のダウン。 全く、自分の事ながら情けない次第。パパを始め、子供にまで迷惑を掛けっ放しで申し訳なし。 今年は精々健康増進に力を入れて、よく食べ散歩をし、体力をつける事に少し専念するつもりだ。 ところで、結構一菜(カズナ)が役に立つ事が分かった。 少し煽(オダ)てると良く仕事をしてくれる。後片付けから、二美(ツグミ)の世話、買物、新聞や手紙を見に行く事など良く手伝ってくれたので、一日ユックリと休む事が出来た。 一番上が女の子だと、母親は助かると良く言うけれど、ナルホドと分かった。(妻・幸筆) ★幸の日記続投で、気持ち良い一日に… 今日はパパの書く番だからと、昼休みにソノ構想を練ってきたら、ママの好意で必要がなくなっていた。誠にアリガトウ !!このように、お互いが何時も前向きであれば、コノ日記はマスマス充実して行く事だろう。 まだ麓近くまで一昨日の大雪で覆われた、周囲一円の山々を望む今朝の天気のように、お蔭で気持ち良く一日のピリオドが打てた感じだ。(夫・誠筆)*************************************************************************《付記》2004年1月3日の誠、日記再読所感☆ママ、再びダウン。オダテに乗った幼い一菜(カズナ)が結構役立つ☆幸の日記続投で、気持ち良い一日に… 今この日記所感を書き始めている本当の時間は、実は2004(平成16)年1月2日の午後11時10分である。つまりメモ帳を使っての下書きの最中なのだ。 そして、つい先程までココにソノ実に良く煽てに乗った長女の一菜を始め、次女の二美が、夫々の夫と子供達と共に新年の挨拶方々恒例の新年会を楽しもうと顔を見せていた。 そして10時ごろ、幸が一人で台所に入り、喰い散らかしたものを少しずつ洗い始めた。すると一菜と二美も幸の後を追って流し台の前に並び、楽しそうなオシャベリを続けながら、洗った食器を拭き、それを受けて食器棚にしまう作業が、分業で片付いていった。 すると、それを見ていた小学4年生になる一菜の末の子の愛称ペコちゃんも、台所に居る一菜から呼びかけに応えて15畳程のRDルーム一杯に散乱する空となった食器類を甲斐甲斐しく運びはじめ、結構お手伝いも出来るようになった。 それに引きかえ、私達夫婦が核分裂させた三世代総計11人の中の残る男共7人は、何時もの如く座ったまま。大人3人はアレコレの話しに花を咲かせ続け、娘達両夫婦の各二人づつの息子達も、お年玉で買い込んだゲームやプラモデルを早速広げて熱中するばかり…。 丁度それは、妻の幸がコノ37年前の古い日記の結びに書き込んだ言葉。即ち、「一番上が女の子だと、母親は助かると良く言うけれど、ナルホドと分かった。」という事を遥かな時を隔てて立証して見せられたような風景でもあった。 それで、妻が良くフトした時に「女は損だ」と愚痴る決まり文句がコレに重なり頭を過ぎる。 尤も、我家の男共は誰も彼も斯く横着者揃いだが、中には相当にマメったい男衆も居るようだ。 先程も我家の新年の宴たけなわで、子供達がワイワイ言う声が響く中、電話をくれた鎌倉の親友U君など、「えらい賑やかそうだなぁ。ウチは昨日息子等三人が顔を出したばかりで、今日も家内と二人きりの正月だよ。毎年のオセチ料理も全て自分が造り奥さんには手を出させないんだが…」。と、些か寂しげにも聞こえたので、「ハハハ、近くなら俺が早速行って平らげちゃうところだが、そりゃチト残念だナァ !!」と笑ったものであった。 (中 略) 一方その逆に、年々我々高齢者いじめは弥増すばかりで、年金は下がり税金は上がるばかりの昨今。孫達も年々高学年ともなれば、お年玉の額も増やさねばならず、頭の痛いマゴマゴ族のコチトラだが、これも良き妻、良き子、良き孫あればこそのもの。 まずは、マゴマゴさせられる事の幸せを噛み締めて、妻孝行、子孝行、孫孝行に励まねば罰が当たるかも…と書き結び、グンと感謝の心と神妙さを見せたところで、へへへ、正月三が日の幕切れ日記、一巻の終りとゴザ~イ !!※(1967.2.14の日記余白、「昔・誠」書き込み記事)家庭…ママ、再び風邪の神に惚れられてノック・アウト !! 朝、清水医院へ送り届け、帰りは必ずタクシーを呼んで戻るよう言い聞かせる。 職場…S行経営講座開催。講師は井上靖と小汀利得。時間の関係で後者のみ聴講。発信…ママのサンケイ・モニターを、下記主題で代筆送付。 「放送番組の掲載法について」交友…昔の全京都学生静岡県人会の仲間達宛、鈴木嬢より依頼された件につき書状 を準備。
2004年01月03日
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1967(S42)年2月13日(月)晴 ★一菜の名解説で迎えた結婚七周年&幼児の音感教育 久しぶりに迎えた青空。 昭和35年2月13日も真冬には珍しい暖かな一日であった。今日は結婚記念日である。 一菜(カズナ)に言わせると、「今日はパパとママの結婚した日で、これからも仲良くしましょうねって言う日だ」そうだ。 テレビで面白いことを聞いた。 オモチャの楽器がオンチを生むと言うのである。 つまり、赤ちゃんが生まれて必ず揃える、天井から下げるオルゴール・メリー。 アレは回転速度が遅くなるに従って音程が狂う、また安い木琴類の調音は、全然と言って良いほど出鱈目だそうだ。 そもそも安い値段で、デザイン・メロディー・リズムなど、全て良い物を選ぼうとするのは無理。 子供は必ずリズム感に目覚めるのだから、メロディーはなくても良い。 だから太鼓のように単調な音を出す物を与えた方が遥かに教育的だそうだ。 本当のピアノと音を合わせてみせてくれ、その違いに改めて驚かされた次第である。(妻・幸筆) *************************************************************************《付記》2004年1月2日の誠、日記再読所感☆一菜の名解説で迎えた結婚七周年&幼児の音感教育 「ねえママ、結婚記念日って何なの?」 そう一菜に問われた幸のアドリブの答えとしては、 「今日はパパとママの結婚した日で、これからも仲良くしましょうねって言う日よ」 と教えたのは、なかなか上手い応答だと感心した。 やはり日頃、続いて話題にして居るようなテレビ番組を見て、幼児教育のコツを心掛けていたからかもしれない。 そういえばコノ記事を読み、頭の中に潜んでいた自分の赤ん坊の頃の記憶が薄っすらと浮かぶ。 頭上で何時もクルクルと廻っていたオルゴール・メリー。 それが、次第に廻り方が遅くなって停まる。 鳴り止んだ音にハッとして、何時の間にか母がいなくなっている事に気付き途端に泣き出した自分と、動かなくなったオルゴール・メリーが涙に滲んで見えた…。 そんな情景が、知らぬ間に意識の中に蘇った。 幸の文章を読んで、単に暗示を掛けられての事かもしれないが、実際にあった事のように思われてならない今の私だ。
2004年01月02日
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1967(S42)年2月12日(日)大雪、されど比較的暖かな一日 ★稀有な大雪に親も子も感慨一入 朝起きると一面の銀世界。庭の木々も芝生も、スッポリと雪に覆われて美しさは又一入。 特に戦災以後、灰燼に帰した街の煤がこびり付いたようで、見る影もなく薄汚れていたココ千本松原の松が、文字通り眩しいばかりの白銀に彩られた姿は見事。何か神々しささえ誘う風情である。 勿論、故郷を離れていた4年間の京都時代には、この程度の雪は再々お目にかかったものではあった。 しかしココ沼津でのコレ程の積雪は、全国的にも比較的温暖な地として知られるだけに、帰郷後の十二年間はもとより、実に子供の頃以来の出来事。 お蔭で子供達は大喜び。二美(ツグミ)も生まれて初めての雪を手に、パパやママの雪ダルマ制作に協力してくれた。 ただ残念だったのは一菜(カズナ)だけ、先日の風邪をブリ返してしまい、床の中からの雪見と相成った事である。 ところで昨日のママの日記だが、パパの最近の肥り具合と節約家ぶりが良く描写されていて、心憎いばかり…。 しかし、そうしたパパの傾向は、決して美食やケチの現れではない。 つまり、何でも無駄なく食べ、良い物をヨリ安くと言った合理主義を反映したものと理解して欲しい。 この事。一菜や二美に、単なる「吝嗇(リンショク)」と将来誤解されたくないので、特に一言付け加えて置こう。(夫・誠筆)※(1967.2.12の日記余白、「昔・誠」書き込み記事) * 一菜、気分悪し。横川医院へ連れて行き加療してもらう。 * 病気の一菜に何とか食欲を付けようと、スキヤキ用の焼豆腐を買いに行く。 生憎と豆腐屋が殆ど休みで、5~6軒も歩き回って漸く入手。帰宅したら6時半。 「トウフ・トウフ」と、かれこれ一時間以上も探し回った勘定だ。アア、シンド !!*撮影…(1)我家の庭の雪景色(4×4判) (2)千本浜防潮堤からの雪景色(ハーフ判)*発信…夕方、産経新聞社宛にモニター・カードと、パパの投稿「企業は公約を守れ」を投函。 *************************************************************************《付記》2004年1月1日の誠、日記再読所感☆稀有な大雪に親も子も感慨一入 暖国生まれの私は雪が積もると、寒さを忘れて本当に嬉しくなる。 辺り一面の景色が何とも見事に変身し、己の心まで洗われたように清々しさを感じたものだ。 そして、決まって思い出すのは、母校・同志社の雪に覆われたキャンパス風景だ。 その光景に感動し、グレーと黒を基調にして神学館の雪景色を描いた私の習作は、学生時代に母校の合唱団を県都に招いて行った音楽会で、パンフレットの表紙に使用し好評を得た。 ところが、余り上手く仕上がり過ぎたようで、芸術院会員の父君を持つ友人S君が、「これは素人が描けるものではない。多分誰かが描いたものを無断転用したのでは…。 後で著作権問題になると大変だから注意しておく方がいいぞ」とか親父さんに言われたとの事。 勿論、だからって、誰の力を借りたわけでもないし、心配ご無用と答えておいたが、とんだ疑いをかけられたものであった。でも、それだけ会心の作に仕上がっていたとも言え、腹が立つよりも内心嬉しくなったものである。 尤も、三條河原町にあった日本交通公社で見たスカンジナビア航空のパンフレットが、寒々とした灰色の雪景色を白黒基調に描きながら、要所要所を僅かに黄色か白抜きにして品良く雪の輝きを現わす技法の巧みさは、印刷費用も割安に済むし、このモチーフに何より格好のものとして応用させてもらった。 だがコレを盗作と思われたのでは、殆どの名作も同様に他人の技法を学び取って大成した画家達の作品と言っても良い筈。…そんなケッタイなイチャモン、成立する筈がなかろう。 ところで、もう一つ雪が降ると決まって思い出すのが、母校のクリスマスシーズンの催しで、学生達が冬休みで帰省する直前に毎年行われる同志社名物のキャンドルサービスだ。 この催しは女子大の今出川校舎にある栄光館の中で全学共催の形で開催されるが、パイプオルガンの伴奏に合わせ白いガウンにローソクを掲げた聖歌隊の入場によって開幕する。 ここでのミサの荘厳さや賛美歌コーラスの素晴らしさは、京都の人達に広く知れ渡っているが、何と言ってもソノ雰囲気はロマンチックそのもの。この催しで一気に親密さを増した恋人達も多い筈だ。 さて、そうしたムードに酔いしれて閉幕。興奮冷めやらぬ心で正面玄関から会場を出ると、頭上から響く妙なる鐘の音。振り向けば揺れるキャンドルと白ガウンの聖歌隊が、玄関上のバルコニーにハンドベルを持って整列して見送り、尽きぬ名残を惜しむ…。 私も在学中に二度程このキャンドルサービスに参加することが出来た。しかもソノ内の一度だけ、実にタイミングよく雪となり、その雰囲気は真にホワイト・クリスマスそのもの。終生忘れ得ぬ思い出となった。 尤も、本拠地が郊外に移転した昨今の事情は知らないが、それだけ人気も高いとあって、当時は同志社関係者でもコノ入場券をペアで入手するためには、一苦労も二苦労もする覚悟が必要でもあった。 まあソンナ風に、雪を見る度に若く純真で感受性が豊かだった頃の雪の日のアレコレが思い出され、何か心洗われる心地がする私だが、この古い日記も折り良く元旦の記事がコノ稀有な雪の話題となって幸いだった。 実は内心、又々夫婦喧嘩の記事に行き当たったら如何(ドウ)しようとも思い、そんな時には、このシリーズはお休みにして新春らしい時の話題に切り替えようと考えたりしていた。 それゆえ、雪の他にも、折悪しき娘の病気の話題やらアレコレ語り尽せぬ今日の日記だが、話題の焦点をコノ雪一色に絞り、休む事なくコノ年の「楽天日記」事始めとしたい。
2004年01月01日
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