おじん0523のヒロ散歩

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2022.03.11
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カテゴリ: ヒロ散歩
奈古谷観音堂を後にし、「文覚さんと毘沙門道」の坂道を上り、次の目的地である伊豆に流さ
れた怪僧文覚が草庵を結んだ場所とされている「毘沙門堂」を目指す。

2月2日(水) 12:58
途中大きな石と石碑を見つけ、文覚さんと毘沙門道の道路脇に車を止める。


道路脇に「蛇石(へびいし)ー 七つ石 ① ー」、左上に石像。


石段下の左側に立派な石碑があった。
史跡 文覚上人流寓(るぐう)之跡
文覚上人 承安四年(1174) 伊豆国奈古谷村に配流、居寓六歳、その間、東奔西走、専ら源家
の再興斡旋に努めた、治承四年八月、源頼朝公の挙兵は実に上人の勧説による所と、平家物語

即ちこの地が「上人籠居」の跡である。後 頼朝公神仏家祖報恩のため、上人に布施して毘沙
門堂○宇を建立、源家の万福を祈った。春風秋雨八百年 茲に往時を追思しつつ略史を彫み、
建碑の所以とする。
     田方郡韮山町奈古谷
     史跡保存会長  木内栄撰
      世話人
       沼津市 山田梅軒
       三島市 木村庄三
   昭和五十一年十一月
      東京都台東区上野二丁目
     建碑者 倉島延三

た木内栄撰氏。また建碑者の倉島延三氏は、三島市出身の中央財界の方で、三島大社内、旧三
島宿関連等、三島市内の史跡碑を多く寄贈している倉島延三氏であると。


一段高いところに石灯籠、社があるが一部破損している。
文覚は、もとは武士で遠藤盛遠(えんどうもりとお)といい、北面の武士として鳥羽上皇に仕え
ていた。文覚は、同僚の源渡の妻袈裟御前に恋をし、誤って袈裟御前を殺してしまう。その後、
神護寺再興の勧進で後白河法皇の怒りに遭い、伊豆に流されたといわれているのだ。


石碑の奥、寓居跡と思われる場所に石仏が三躰祀られていたが一体は頭部がない。


源頼朝と北条氏ゆかりの地であるのでこれから整備されるのか。


文覚さんと毘沙門道を見下ろすが、大河ドラマ関係の幟は立っていなかった。


杉の根が絡む岩。


文覚さんと毘沙門道の坂道を上ると右側に、
「谷響石(こだまいし)ー 七つ石 ③ ー」
南側の谷奥、200メートルにあり、山の神が祀られています。ここより北側の川を隔てた旧道
で手を叩くと、こだまが返ったと伝えています。


13:08
文覚さんと毘沙門道を上り左手に「毘沙門堂」入口の石鳥居を見つけ駐車。
この上にも駐車場があったようだがここの道路脇に駐車して参拝することに。
所在地:静岡県伊豆の国市奈古谷1784


防寒、防コロナ姿の地蔵様と足元にスイセンが咲く。


毘沙門堂入口に石鳥居。
仁王門への案内板。


金剛力士門由来記(仁王門)
当山は平安時代末期奈古谷寺という寺院であった。文覚上人と源頼朝の二人によって大改修され
端龍山授福寺と改めた。
境内に毘沙門堂その下に金剛力士門(仁王門)を建立して守護神とした。授福寺は現在大護摩石の
ある平坦地に建立されていた。
金剛力士像保存のため昭和四十九年に同士十数名により保存会を結成する。
昭和五十年三月十九日学術調査を終わり県交化財に指定を受ける。金剛力士像の破損や虫食いが
進んだために修復することを計画。昭和五十一年七月東京芸術大学保存技術研究室に移し、西村
公朝先生のご指導により解体修理を始める。二年間の歳月を費やして修復が完了した。
非常に古形式の金剛力士像である。京都の大非山峰山寺金剛力士像(国指定)が最近発見され、続
いて当山の金剛力士像が発見されて全国にニケ寺にしか無い貴重な金剛力士像となった。
このたび修復が終わり帰山した。
    昭和五十三年三月吉日(1978年)
    保存会建立
      (2012年毘沙門天奉賛会修復)  


この石碑は「???」


石鳥居の扁額「毘沙門天堂」。


石鳥居を潜り苔むした古い石段を上って行くと前方に「仁王門」の姿が見えて来た。


仁王門をズームアップ


仁王門の金剛力士像は、源頼朝の寄進で、運慶・湛慶父子の作とも、運慶が修理したとも伝え
られ、静岡県の重要文化財に指定されている。
口を開けた「阿形像」。


口を閉じた「吽形像」。


仁王門の扁額「瑞龍山」
県指定重要文化財の金剛力士像があるので消火栓の配管。


県指定重要文化財金剛力士像(寺のパンフレットから)


静岡県重要文化財 授福寺・毘沙門堂仁王像
毘沙門を守る仁王門内の仁王像は、昭和五十一年東京芸術大学に運ばれ約二年間の歳月を掛け
て解体修理を行ったところ、尊像体内より板書が出現しました。それによると1186年文治2年
壇ノ浦にて平家滅亡の翌年源頼朝公は、天下安全のため運慶父子に命じ彫刻を寄進しました。
その後六百余年を経過した亨保八年、尊像の破損甚だしく大仏師辻式部兼房、塗純又八の手に
よって修復されました。その記録として尊像胎内に修められた板書です。
昭和五十ニ年修復完成後再び胎内に修められています。板書の山護主大川浅右衛門は、大川家
推定ですが十代前の先祖にあたります。


仁王門から更に進むと左側に「護摩石(ごまいし)」。
この辺りに、授福寺が建立されていた。


護摩石(硯石・鏡石)ー 七つ石 ⑥ ー
授福寺の跡にあるこの石の上には、51センチ四方の穴があけられ、文学上人が護摩を焚いたと
も、硯として使用したとも伝えています。鑿(のみ)の跡が残ったままであることなどから、礎石
ではないかとも考えられています。


参道を進み、文覚さんと毘沙門道に出ると再び石鳥居と石碑があった。
この下に駐車場があり、いろんな案内板が立つ。


毘沙門への最後の石鳥居


石鳥居の前に「大開帳記念碑」。


石鳥居の扁額は「瑞龍山 授福閣」。


石段の下に「手水舎」


13:15
苔むした石段を登ると正面に「毘沙門堂」。


毘沙門堂の 扁額「毘沙門天堂」


毘沙門堂 前に「略縁起」が建つが少々疲れた案内板である。折角NHKで放映されているのに
幟も無く、盛り上がりを欠く感じがするが。
豆州奈古谷毘沙門天 略縁起
縁 起
 凡そ千百余前年前 平安時代の初期天台宗の高僧慈覚大師が入唐の行を了て皈朝せられ衆生済
 度の一大悲願をこめて刻まれた御自作の尊像である。
 本山は住吉安養浄土院と云った。承安三年僧文覚が此の地に流された時、源頼朝に源氏再興
 をすすめた由緒の地である。頼朝が大願成就した時、瑞夢をみて文覚に毘沙門堂を建立させ
 て瑞龍山授福寺と改名した。
 特に当毘沙門天は古来より無病息災、交通安全、商売繁昌、心願成就の開運授福の神として
 広域に亘り深く信仰されている。
例 祭  正月三日、九月三日 早朝より行われる
お開帳  大開帳 五十年毎に一回  中開帳 二十五年毎に厳修される
境 内  授福門(毘沙門堂)
     仁王門(金剛力士像 県重要文化財)
     文覚荒行の滝
     文覚の護摩石及び沿道の銘石
       昭和五拾九年拾壱月
            毘沙門天 世話役
            韮山町産業観光課


毘沙門堂の裏の竹林


50年に一度本開帳される、慈覚大師作の秘仏の「毘沙門像」を安置する「授福閣」とも言われ
る御堂。元々伊豆に流されていた文覚上人が草庵を結んでいた場所で、源頼朝の命により改修
された「瑞龍山授福寺」の御堂だったが、廃寺となり現在は「国清寺」が管理している。


この毘沙門堂に祀られる毘沙門像は、慈覚大師(794~864)の作と伝えられている。
慈覚大師は、圓仁と号し、唐に渡って修行し、帰国の際に船が難破、圓仁は、その船
から逃れて伊豆に漂着し、山岳に霊地を求め、滝のある現在の付近に庵を結び、布教
や仏像の謹彫に精進した。毘沙門堂に祀られる毘沙門像もその一つとされている。


毘沙門堂前の苔むした石畳。


毘沙門堂から石階段を見下ろす。


毘沙門堂への階段。


13:25
毘沙門堂入口の石鳥居に戻る。
約20分程度の急ぎ足での参拝であった。


次の目的地、Ⅽ (毘沙門堂) → Ⅾ 経由(滝山不動明王)へ、所要は8分、4.0km


13:27
文覚さんと毘沙門道を下り、右側に「二つの巨石」。


夫婦石 ー 七つ石 ② ー
治承年間、源頼朝・政子夫婦が、毘沙門堂付近にいた文覚上人を訪ねて来た折、この石に腰を
おろして一息入れたという伝承が残されています。
元は、道路の中央付近にありましたが、道路拡張のため、現在地に移されました。



                                     ー 続く ー





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最終更新日  2022.03.11 00:00:16
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