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この日は藤沢の旅友へ梅酒用の梅を持参。いつものようにコメダでモーニングコーヒーを飲みながら談笑。帰り際に元会社の女性と偶然会いまた談笑。移動中の車内で「今年のアジサイの開花は1週間ほど早い」と。このため別れた後近くにある境川沿いの鷹匠橋から大清水橋の東側の護岸に植えられているアジサイを見に行くことに。旅友の情報から西側のサイクリングロードの幅が広がり東側のみに植えられていると。6月2日(日) 9:45駐車場がないので鷹匠橋から大清水橋の東側のスペースに車を停め散策。境川に架かる鷹匠橋から上流の大清水橋までの約400メートルが「大清水境川アジサイロード」と呼ばれている。南側のビルは藤沢市民病院。境川沿いにある ”藤沢市立大清水中学校” 。 藤沢市立大清水中学校いろんな色の ”手毬咲きのアジサイ” が満開になっていた。アルカリ土壌であろうか、赤色のアジサイ。まだこれからのアジサイも。アジサイの種類は、現在では2,000種類以上の品種が存在しているといわれている。世界中で品種改良が行われ、毎年新品種が誕生しているため、その数はどんどん増え続けている。花の形、萼の色や枚数などに趣向を凝らした、バラエティ豊かな園芸品種がたくさんある。対岸(西側)をサイクリングロードが走る。以前はロード脇にもアジサイが植えられていたのだが。対岸の護岸には草が伸びる。”墨田の花火” であろうか。墨田の花火はガクアジサイの園芸品種で、淡い水色が涼しげなアジサイです。八重咲きの装飾花が、まさに花火散るようにぴょんぴょんと飛び出して咲くのが特徴である。境川沿いを下り ”鷹匠橋” 。鷹匠橋から下流側を望む。下流側の橋は国道1号の境川大橋。藤沢市民病院の左側の建物は ”藤沢市立看護専門学校” 。境川の水の流れは早く濁っていた。鷹匠橋から上流側を望む。以前は両岸にアジサイが植えられていたのだが現在は東側のみに植えられている。境川の護岸の草は伸び放題に。鷹匠橋から上流の西側護岸の自転車道を望む。この西側の護岸は「藤沢・大和 自転車道」と呼ばれており引地川と境川沿いを走るコースで、総延長24.5kmの自転車道になっている。以前はこのサイクリングロード脇にアジサイが植えられていた。藤沢・大和 自転車道案内図このコースは、3年前の令和3年(2021)6月1日(火)に、鵠沼海岸から国道246号の大和橋まで愛車のリンちゃんで約3時間半をかけて走った。この時のブログは「藤沢・大和 自転車道を走る」👈 をクリック願います。鷹匠橋徳川時代に将軍が鷹狩りをする目的で、現在の藤沢市民病院のそばに藤沢御殿が造られた。その関係で、藤沢の辺りには鷹匠も住んでいたようで、市民病院北東の境川にかかる橋は『鷹匠橋』と名付けら歴史を感じさせる橋名になっている。鷹匠橋の欄干のデザインは?。欄干には半透明ガラスにスミレとチョウを描いた洒落た絵が飾られている。東側に戻り上流へ向かって歩く。ズームアップ。カメラをかえて撮影 (オリンパス)。このアジサイの名前は?。”ガクアジサイ” であろうか。ガクアジサイは、ホンアジサイと並んでアジサイの代表種とされる。ガクアジサイは雄しべと雌しべを持つ両性花で、花の中心に蕾のような花が集合しており、その外側にはガク (葉っぱが変化した花を守る部分) が大きな花びらのようについている。その姿が額縁のように見えることから「ガクアジサイ」と呼ばれるようになった。このガクアジサイだけでも70種類以上あるといわれている。ズームアップ。アジサイが植えられている辺りは下草が刈られていた。ズームアップ。対岸の ”藤沢・大和 自転車道” を江の島?に向けて走るサイクリスト。いろんな種類のアジサイが咲く。それぞれにネームプレートが付いていないので種類は不詳。それぞれに花の名があるのであろう。上流側の大清水橋に向かって歩く。ズームアップ。車を移動、大清水橋手前のスペースに車を停める。アジサイは護岸の傾斜地に植えられている。傾斜地だけに花後の管理が大変である。この辺りのアジサイは満開前。まだ色が濃くなるのか。神奈川県立 藤沢清流高等高校カシワバアジサイ (柏葉アジサイ)カシワバアジサイは北アメリカ原産のアジサイで、柏に似た葉をつけるアジサイである。カシワバアジサイの花は、ほかの種類のアジサイと違って、立体的に花を密集して咲かせるという珍しさがある。その花穂は大きいもので、40cmを超えることもある。大清水橋上から上流側を望む。この上流側に ”藤沢市大清水浄化センター” 、更に上流側に ”横浜市西部水再生センター”がある。藤沢市大清水浄化センターの放流口辺りで下水処理場独特の匂いが漂っていた。大清水橋上からズームアップすると左奥に ”横浜薬科大学の高層ビル” 、手前に水管橋。中間には ”横浜水道境川水路橋” が見える。10:05下流側には ”神奈川県立 藤沢清流高等高校” の校舎。約20分ほどの散策で家路につくことに。10:10前方は ”白旗神社” 裏にある国道467号(藤沢町田線)の白旗歩道橋。この先の高架下を右折して国道1号へ。10:25途中、文房具を購入するため国道1号から市道辻堂駅遠藤線を南下。正面高層ビルは辻堂駅南口に建つビルだが、より高層の集合住宅を建設する計画が進んでいる。 END
2024.06.11
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6月1日(土)野球仲間の自宅へ届け物があり愛車のリンちゃんで出かけた。その帰りにいつも購入しているお惣菜屋で今夜のメインに「メンチカツ&コロッケ」を買うことに。その趣旨を仲間に話すと「今朝テレビで放映していた」と聞き、混んでいるかもと思いつつ。16:00肉の老舗 香川屋分店所 在 地 :神奈川県茅ヶ崎市東海岸北5丁目15−65営業時間:10:00 ~ 18:00、午後は15:30 ~定 休 日 :火、日、祝日コロッケやカツなど、店頭にずらりと並ぶ揚げ物惣菜はお手頃価格でどれも人気だが、一番の売りはなんと言っても「湘南名物メンチカツ」。同じくラチエン通りに住み、ルポやエッセイなど数々の名作を残した作家・開高健が愛したメンチカツとしても有名である。案の定店先はお客さんの行列。今まで何度も買いに来ているが行列をしていることはなかったのだが。馴染みの方も「テレビ効果はすごいですね」と。58年前に香川屋の分家として店を構え、現在息子の和広さん、孫の隼人さん夫妻と店を切り盛りするのは亀井よねこさん。因みによねこさんは加山雄三さんとは一中時代の同級生でよく配達で訪れたとのこと。店内には「ぶらり途中下車の旅」で訪れた、村上佳菜子さんのサイン色紙が飾られていた。村上佳菜子は、日本のプロフィギュアスケーターで、訪れたのは「2024.5.15」。息子さんの店長と話しをすると「撮影したのは長かったが放送は数分だった」と。16:20帰り際には10数名の行列になっていた。それにしてもテレビ効果はすごい。JR相模線北茅ヶ崎駅前のラーメン屋「のんち」もいまだ長い列で待ち時間が長く行けてない。ラチエン通りは狭いのでセンターラインもない。帰宅して新聞をみると「日本テレビ ぶらり途中下車!」。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・放送一週間後、土曜日はメンチカツが特売のためこの日も愛車のリンちゃんで出かけた。テレビで放映したためその後がどうなっているかと思いながら。6月8日(土) 16:00国道1号の松林中学校入口交差点。この交差点から海岸沿いを走る国道134号までをラチエン通りと名付けられている。ラチエン通りはほぼ直線だが道幅が狭く車の制限速度も30km/h。東海道本線の ”異人館踏切” 。異人館踏切 57K061M 茅ヶ崎市小桜町1今まで通りの名のついた ”ルドルフラチエン氏” を想像していたが、この異人はラチエン氏ではなく、昔イギリス人のボールデンという人が住んでいたからこの名前が付いた。ラチエン通りを南下、桜道の若松町交差点を渡り北側を振り返る。16:05ラチエン通りは狭いので向かい側の路地に駐輪。前回来た時「午後の営業開始時間は何時」と聞き「15:30」と聞いていたので。店先の看板には「特製豚の味噌漬 湘南名物メンチカツ」と。揚げておられたのは亀井よねこさんであったか。芸能人もいろんな人が訪れているようだ。メンチカツは県産豚肉を使用したビッグサイズで土曜日は20円安い150円で販売。右側に ”サザンコロッケ ¥140” があるがいつも売り切れになっている。この日は「メンチカツ、カレーコロッケ」を各4個購入し、1,160円也でした。最近はテレビで女優の「中華食べ歩き」、「飲み歩き」、飯尾和樹の「ずん喫茶」等々とこのような番組が多い感がするが、これも街おこしか。右側のショーケースには生の肉は並んでいないが牛肉、豚肉、鶏肉は奥に揃っていますと。また店内のガラスには「香川屋分店で肉を買ってさァどうやって食べようか?」と書かれた永六輔のサイン。この効果がいつまで続くのか。次回は他の物を食したい。揚げ物惣菜で評判の香川屋分店さんだが、じつは隠された名物がもう一つあると。炭火でじっくり吊るし焼きした ”焼き豚” 。朝7時半に仕込み、出来上がるのはお昼頃であると。焦がさないよう火加減を保ち数時間かけて焼くことで、炭火の遠赤外線効果により肉の旨味が閉じ込められ、外は香ばしく中はふっくら柔らかい焼き豚に。そのままかぶりついてもうまそうだが、焼き上がった肉をさらに秘伝のタレにつけ、焼き豚の味わいをさらに高めると。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・其の後の ”中華のんち” の確認に立ち寄った。6月10日(月) 9:15JR相模線北茅ヶ崎駅中華 のんち所在地:神奈川県茅ヶ崎市茅ヶ崎844 小川アパート昨年テレビ放映されて以来営業日は長い列をなしている。かつては夜の部もあったが、昼の営業だけで売り上げ達成なのか、夜の部は休業になっている。店先には、「ヒューマングルメンタリー オモウマい店 日本テレビ系 火曜よる7時 2023年6月6日に放送されました」と。店内から中華の匂いが漂い仕込み中であった。駐車場は4台。 END
2024.06.10
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山中城跡の散策を終え朝食兼昼食をとることに。ここまでの歩行数は7,200歩であった。4月28日(日) 10:10 山中城跡案内所・売店所在地:静岡県三島市山中新田410-4 ☎:055-985-2970営業時間:10:00 ~ 16:00 ※ 1 ~ 3月の平日は 10:30 ~ 15:30定 休 日 :月曜日 ※ 祝日の場合は営業、翌日休みゴールデンウイークになり天気も良かったので多くの車が駐車していた。店内に入ると年配の女性二人が営業。メニューの横には有名人のサイン色紙が飾られていた。暑かったので ”ザルソバ” 550円をオーダー。店内では3種類の登城御朱印が販売されていた。賞状は「日本百名城の認定証」。食事を終え山中城跡案内所から旧国道1号を下り帰路についた。10:30ドラゴンキャッスル所在地:静岡県三島市山中新田123-1笹原山中バイパスの山中城口交差点の右側にあるアスレチックタワーで、令和4年 (2022年) 8月8日に三島市の新名所としてグランドオープンした。この辺りに旧東海道の西坂が下って来るので道路脇に車を駐車。石畳の入口に「箱根旧街道」の案内板。この石畳は平成30年(2018)12月18日(火)に箱根宿から三島宿に向かって一人で下って来た。その時のブログは「山中城址からこわめし坂」👈 をクリック願います。箱根旧街道 腰巻(こしまき)地区の石畳復元・整備この説明板の内容は、山中城跡案内所・売店裏にあったものと同じである。この区間の石畳は左が箱根側(案内所・売店裏)でここが右の三島側で350mの石畳である。旧東海道を歩いた時は石畳で歩きづらかったことを思い出す。その時の所要時間は箱根関所を9時に出発、JR三島駅へ16時に到着、7時間を要し約4万歩歩き足に血豆が出来たことを思い出す。この後、山中城口交差点から笹原山中バイパス、国道1号を登り帰路についた。11:00接待茶屋所在地:静岡県三島市山中新田途中気になっていた「接待茶屋」へ立ち寄ることにバス停横のスペースに車を停めた。バスは元箱根港行きで始発が8:50、1時間に1本、最終が17:15。バス停で見上げると白いサクラが満開であった。ズームアップするがオオシマザクラであろうか。バス停から歩いて旧東海道入口へ、ここを右に入り三島宿へと下る。平成30年(2018)12月18日(火)に歩いた時のブログは「箱根峠から西坂を下る」👈 をクリック願います。接待茶屋箱根山中における接待の歴史は古いが、創始は江戸時代中期の箱根山金剛院別当が、箱根山を往来する者の苦難を救うため、人や馬に粥や飼葉、焚き火を無料で施したと伝えられている。この接待所も一時途絶え、ついで文政七年(1824)、江戸の豪商加勢屋与兵衛が再興したが、これも明治維新とともに中断してしまった。やがて明治十二年(1879)、八石性理教会(ハチコクセイリキョウカイ)によって接待茶屋は再スタートしたが、教会の衰退とともに鈴木家に引き継がれ、利喜三郎・とめ、力之助、万太郎・ときらの三代により接待が続けられた。鈴木家は、昭和四十五年(1970)に茶釜を降ろし、接待茶屋の歴史に終止符を打つまでの約九十年間、箱根を往来する人馬の救済にあたったのである。箱根の接待茶屋については、「山中接待所」や「茶屋」などさまざまな呼称がある。「廣為道友鋳此器永充施行平憩之用」の銘がある著名な茶釜や、「せったい處」「せったい茶屋」の看板とともに、施行奉仕の跡をしのぶ遺跡として本遺跡は貴重である。 出典 接待茶屋遺跡発掘調査報告書 (1996年) 序文より。 平成十七年十二月 三島市教育委員会 説明板から当時に写真。国道沿いにある ”山中一里塚” 。一里塚の植込みの中に石碑。石碑には「国指定史跡 江戸より二十六里 東海道一里塚 函南町」と。標高が高いのでツツジはまだつぼみ状態。サツキは一部咲いていた。道路沿いに案内板がないので見落としやすい。国道1号の下り線側にある「接待茶屋跡」。国道の交通量が多く中央分離帯があったので上り線側からズームアップ。国道沿いから旧東海道に入り振り返る。左側に旧東海道の道案内。前方の路面には次の案内板が埋め込まれていた。路面にあった案内石碑。 箱根八里 西坂箱根関所跡 ← 4km 山中一里塚 11km → 三島宿 箱根旧街道旧東海道に入ると直ぐに立っていた説明板。説明板には「国指定史跡 箱根旧街道」。マップには、① 箱根八里記念碑 ② 山中一里塚 ③ 石割坂地区の石畳 ④ 国指定史跡「山中城跡」(岱崎出丸)この箱根旧街道は、慶長9年(1604年)に江戸幕府が整備した「五街道」の一つ、東海道の一部です。江戸日本橋を起点とした一里塚の設置や、並木の整備も行われ、街道としての体裁が整えられていきます。函南町内では、石割坂地区(函南町桑原)に石畳が600mほど連続して良好に残っています。文久元年(1861年)皇女和宮が第14代将軍徳川家茂のもとへ降嫁するに際し、大改修が行われた時のものだといわれています。交通の要衝として賑わった箱根旧街道も、明治5年(1872年)に宿駅伝馬制度の廃止、明治22年(1889年)に東海道線開通、大正12年(1923年)の国道1号線敷設により、街道としての役割を終えていくことになります。近世の交通の要として役割を担った箱根旧街道は、旧東海道の箱根越えの路として旧態をとどめており、日本の交通史上貴重なものとして、国の史跡に指定されました。旧東海道を下ると鬱蒼とした左側に石碑が建っていた。徳川有徳公遺蹟碑徳川有徳とは徳川吉宗(徳公とは謚名の有徳院から)のことで、紀州公から将軍になるために江戸へ向かう途中、石割坂にあった茶店で休憩をとりました。その間に、店の主人が馬の世話をよくしたところ、吉宗はその心遣いに 大層喜び、自ら永楽銭(えいらくせん)を与えたといいます。それからというもの、代々の紀州公は、参勤交代の際にはこの茶店で休み、永楽銭で支払うようになったと伝えられています。またその頃から、この茶店を 「永楽茶屋」と呼ぶようになりました。これを記念して、この地の観光開発に尽くし富士屋ホテルのコック長を務めた鈴木源内が昭和10年に建てたのがこの「徳川有徳公遺蹟碑」 であると。その向かい側にも倒れかけた玉垣の中に石碑。兜 石かぶと石この石は兜を伏せたような形をしていることからかぶと石といわれている。また別の説として傍の碑銘によれば豊臣秀吉が小田原征伐のとき休息した際、兜をこの石の上に置いたことからかぶと石とよばれるようになったともいわれている。この石は兜石坂にあったものを、昭和初め国道一号線の拡幅工事のときこの地に移したものである。 平成九年十月 三島市教育委員会苔むし傾いた石碑には『兜石』傳ヘ云フ天正ノ昔豊太閤小田原征伐ノ途次路傍ノ小石ニ腰掛ケ兜ヲ脱テ大石ノ上ニ置キ暫ク憩ヒシコトアリト後人因テ之ヲ兜石ト名ツタ此石即チ是ナリ石ハ奮ト接待茶屋ノ上方奮街道ノ側ニアリ大正十二年新道通スルニ及ヒ空シク荊刺中ニ埋レ復ク英雄ノ遺蹟ヲ省ルモノナシ是ニ於テ今茲昭和六年秋新ニ此處ノ移セリ因テ其由ヲ敘ヘ石ニ刻ス 鈴木源力読国道沿いから、6年前の2018年12月18日に歩いた道を百メートルほど下ると分岐点に。 道案内には、右:施工平・三島市眺望地点、直進:山中城跡・三島宿と。前回の6年前は一人で歩き誰もいなく心細かった。右側の坂を登ると「箱根山組合創設百年記念植林地」と刻まれた石碑。右側の ”施工平・三島市眺望地点” へ向かって上るが途中で引返すことに。分岐点を見下ろし振り返る。ゴールデンウイークになり、旧東海道を歩く人に数人出会う。樹々の間に苔むした石があったが説明板がなく詳細は不明。通路らしきものもあったが。ズームアップするが。芽吹いた木を見上げる。ネームプレートから ”クマシデ” 。クマシデはカバノキ科クマシデ属の落葉高木。山地の沢沿いなどに生える。別名はカタシデ、オオクマシデ(ウイキペディアより)。ネームプレートを見て ”イロハモミジ” を見上げる。秋には紅葉して目を楽しませてくれる。イロハモミジは、ムクロジ科カエデ属の落葉小高木または落葉高木である。別名で、イロハカエデ、タカオカエデなどとも呼ばれるが、単にモミジと呼ばれることが多い。 日本では最もよく見られるカエデ属の種で、紅葉の代表種である(ウイキペディアより)。国道1号は片側2車線で急カーブになっているので中央分離帯が設けられている。接待茶屋バス停へ戻る。バス停の標識が新しくなっていた。11:15標高846mの箱根峠静岡県側の国道1号は片側2車線に整備されている。神奈川県側はかつては有料であった箱根新道で片側1車線である。現在は無料になっている。この後自宅へは12時過ぎに到着。走行距離は往復100キロ。山中城跡のツツジを楽しんだ日曜日午前中のプチドライブであった。 END
2024.05.28
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山中城跡の南側に位置する御馬場曲輪、岱崎(だいさき)出丸、すりばち曲輪を散策。4月28日(日) 9:20案内板に「御馬場跡」と。ここにもフジ棚があった。紫色のフジは満開。ズームアップ。今年はフジの撮影には出かけなかったがここ山中城跡で満足。フジ棚を西側から見る。東側の曲輪入口に咲くツツジを見下ろす。花道はバージンロードの気分に、まだここでの前撮り写真風景は見られないが。御馬場曲輪に四阿があった。四阿から先程のフジ棚の白のフジを追う。サツキも咲き始め。四阿の周りの木も刈り込まれていた。ツツジの後はサツキが咲くようだ。出丸御馬場跡山中城の出丸は、通称岱埼出丸と呼ばれ、標高五四七~五五七m、面積二万四〇〇㎡におよぶ広大な曲輪であり、天正一七年(1588)、秀吉の小田原征伐に備え急ぎ増築された曲輪である。ここは古くから御馬場跡と伝承され、土塁で東側と北側を守り、西側は深い空堀につづき、南側は急峻な谷で囲まれた岱埼出丸最大の曲輪である。曲輪内は、本丸と同様式の二段構築でつくられている。建物跡については確認されなかったが、土塁上からは田方平野を眼下に見渡すことができ出丸防衛上の拠点であったものと推定できる。 平成九年十一月 文化庁 静岡県教育委員会 三島市教育委員会御馬場の土塁上から田方平野を見下ろす。田方平野は愛鷹山、箱根山、静浦山地(沼津アルプス)、丹那山地に囲まれ、狩野川とその支流である黄瀬川と大場川などが流れる。JR三島駅辺りであろうか。カメラを左に振ると、左側には狩野川に架かる ”香貫大橋” が見える。整備された ”出丸御馬場堀” 。御馬場曲輪と岱崎出丸の間にある堀。出丸御馬場堀堀内に畝が検出されたことから、西櫓堀・西の丸堀と同様畝堀であったと考えられる。畝の高さは、堀底から約二m、頂部の幅〇・六m、馬の背のように丸みを帯び、堀をさえぎるように堀の方向に直角に造り出し、ローム層を台形に掘り残して造られたものである。畝の傾斜度は五○度~六○度の急峻で、平均した堀底の幅は約二m、堀底から曲輪までの高さは、平均九mにも及ぶ。 平成九年十一月 文化庁 静岡県教育委員会 三島市教育委員会山中城跡の南側の緩い坂を下り ”すりばち曲輪” へ向かう。構築途中の曲輪跡東側(説明板の右手)は御馬場曲輪西堀の堀を掘った時に出たブロック状のロームにより小高い丘のように造られ、北側には土塁が積まれている。遺構らしいものはそれだけであるが、尾根を削り成形しながらここに曲輪を構築すべく工事を急いだ様子がうかがわれる。しかし、時間的に間に合わず、そのまま工事の途中で戦闘に突入したものであろう。ここの整備にあたっては、当時のゆるやかな西側への下り傾斜を再現し、構築途中の様子がしのばれるよう配慮した。 平成十一年三月 文化庁 静岡県教育委員会 三島市教育委員会右上には、岱埼出丸にある休憩所。南斜面の緩い坂を下り前方に ”すりばち曲輪” 。土塁には刈り込まれたツツジ、サツキが植えられている。山中城跡の南西一番低いところにある案内板。 案内板から下って来た坂道を振り返る。右側の囲いの中は緩い傾斜になった ”武者溜り跡” 。”すり鉢曲輪" から東方向を望む。中央部を凹(くぼ)ませて低くし、中心から緩やかな傾斜で土塁までたちあがっている。すり鉢曲輪山中城出丸の最先端を防備する重要な位置にある曲輪である。そのためか、曲輪の構築方法も、本丸側の曲輪とはまったく異なり、中央部を凹ませて低くし中心からゆるやかな傾斜で土塁までたちあがり、中途から傾斜を強め土塁の頂部に達している。上方から見たようすが、すり鉢によくにているところから通称「すり鉢ぐるわ」とよんでいる。このくるわへの虎口 (入り口)は南につくられているが、更に東側に接続して、幅八mの長方形の曲輪が、作られており、防備のための「武者だまり」と推定されている。 平成十一年三月 文化庁 静岡県教育委員会 三島市教育委員会すり鉢曲輪の土塁上から北側を望む。富士の頂上が見えていた。すり鉢曲輪から傾斜を登り東側の広場へ。広場の西側にある ”すり鉢曲輪見張台” 。すり鉢曲輪見張台出丸の先端に位置するこの見張台は土塁上の一角をやや拡げて、土塁と兼用させたものである。すり鉢曲輪南側の樹木を低くすることにより、三島・沼津方面から韮山城まで手に取るように望見できる。見張台直下北側の平坦な部分が堀の跡で未調査ではあるが、試掘の結果、非常に傾斜角が強く、この堀底から見張台までは八m以上もあり、武具をつけた敵がよじのぼることは不可能な状況を呈していた。 平成八年十二月 文化庁 静岡県教育委員会 三島市教育委員会すり鉢曲輪見張台から北側の愛鷹連山を望む。その右側には富士。下の笹原山中バイパス沿いには新しくできた ”ドラゴンキャッスル” の施設。愛鷹連山、ドラゴンキャッスルをズームアップ。すり鉢曲輪見張台から東方向を望む。右側には ”岱崎出丸” 。左側の土塁の左には ”一ノ堀” があり急峻な堀になっているので足がすくむ。岱崎出丸をズームアップ。岱崎出丸 (だいさきでまる)この地は、標高五四七m ~ 五五七m、面積二万四百平方メートルにおよぶ広い曲輪である。地名の岱崎をとり、岱﨑城とよばれることもある。天正一七年(1589)秀吉の小田原征伐に備えて、各曲輪の修築と共に、この出丸の増築を始めたが、短期間のため完成できず、中途で放棄したようすが、発掘の結果諸所にあらわれたものも興味深いことである。この出丸を守ったのは、副将間宮豊前守康俊といわれ、壮絶な戦闘をくりひろげ全員が討死したと伝えられている。その墓は三の丸にある宗閑寺に苔むして建てられており、訪ずれる人の涙を誘っている。 平成十一年三月 文化庁 静岡県教育委員会 三島市教育委員会岱崎出丸から富士を望む。右側の説明板は ”すり鉢曲輪見張台” 。9:40山中城跡売店の開店10時までまだ時間があり右側の四阿で休憩することに。中学生が先生とともに訪れ部活(陸上部であろう)の練習を始め、アップダウンのあるコースを反時計回りに周回していた。10:05四阿でしばし休憩、山中城跡売店へ行くことに。右側の説明板は ”岱埼出丸「一の堀」” 。土塁越しの富士をズームアップ。土塁の上にツツジ、これから咲くサツキが植えられている。岱埼出丸「一の堀」第九次発掘調査(昭和56年度)により検出された一の堀は、出丸全域を鉢巻のようにめぐるのではなく、先端のすり鉢曲輪から西側の中腹を箱根旧街道の空堀まで続くものである。第九次調査では、指定地内の約一五○mの間に、一七ヶ所の畝を確認することができた。完掘された一の堀の第三区画はローム層を掘り下げて畝を残し、七〇度前後の傾斜角をもってたちあがっている。したがって堀底からすり鉢曲輪の土塁までは、斜距離一八~二〇m前後の急峻な勾配がつくわけである。 平成八年十二月 文化庁 静岡県教育委員会 三島市教育委員会70度前後の傾斜角をもってたちあがっている ”一の堀” 。見下ろすだけでも足がすくむ。前方は、三島、沼津の田方平野が広がる。御馬場北堀御馬場北堀御馬場の西側に構築された深い堀は、南は来光川上流に開いているが、北の部分はここの帯曲輪で堀留めとなっている。この西堀と対をなすかのように、堀の上幅八mの北堀が発掘の結果検出された。この堀は北にのび、すり鉢曲輪から出丸の中腹をめぐる堀と直交するのではないかと推定される。北堀の復元については、未調査部分の中腹の堀が調査されてから検討することになっており、今回の整備では堀の位置だけ示すにとどめた。いずれにしろ御馬場の西堀と北堀の両者で、出丸の尾根を二分しようとする戦略上の意図が察知できる堀である。 平成九年十一月 文化庁 静岡県教育委員会 三島市教育委員会東へ進むとランニング中の中学生とすれ違う。アップダウンが激しいのできついコースである。ツツジが咲く東側の斜面。中学生が周回を続けていた。10:10山中城跡案内所・売店の裏側の旧東海道沿いにあった案内石碑。 箱根八里 西坂三島宿 ← 8km 山中城跡 7km → 箱根関所跡 箱根旧街道 ー 続く ー
2024.05.27
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山中城跡の本丸から下りる。4月28日(日) 8:45諏訪・駒形神社平成30年(2018)9月の台風21号で倒壊したがその後再建された神社。この写真は、平成30年(2018)12月18日(火)に旧東海道を歩いた時に撮影。この年の9月9日未明に神社は倒壊、大カシは根元付近で幹が真っふたつに折れ、倒壊してしまった。静岡新聞の記事によれば、台風21号の影響と思われるとのこと。本丸下の傾斜地に建つ新しい神社。諏訪・駒形神社鎮座地 三島市山中新田四○番地の一御祭神 建御名方命 日本武命例祭日 十月十八日 — 由 緒 ー史蹟山中城の本丸に守護神として祀られた。建御名方命は、大国主命の御子神で、父神の国譲りに抗議して、追われて信濃の諏訪に着き、これより出ずと御柱を立つ。後、転じて日本第一武神と仰がれる。日本武命は景行天皇の命を奉じ、九州熊襲や、東国を征した。弟橘姫の荒海鎮静の入海は此の時である。山中城の落城(1590)後、人々移住し箱根山の往還の宿場として栄えた。駒形諏訪神社の大カシ (県指定天然記念物)ここ駒形諏訪神社は、山中城跡本丸曲輪内にある。大カシ(アカガシ)は樹齢約500 ~ 600年と推定され、本丸への入口部分にそびえており、約400年前、天正一八年(1590)の山中城合戦時には、既に生育していたものと考えられる。根廻り9.6m、高さ25m、幹は地上4mのところで七本の主枝に分かれている。空洞や損傷もなく樹勢は良好であり、県内一・二の大木である。 平成八年十二月 三島市教育委員会説明板に貼られていたシールには、県指定天然記念物に指定されていた「大かし」は、平成30年(2018)9月の台風20号の大風等の影響により根本近くから倒れてしまいました。よって、県指定天然記念物の指定が解除となりました。かつては県指定天然記念物であったが、台風21号の影響で倒壊、無残にも根元から切断された。切株の後方にはフジが咲く本丸跡。切断された切り株がいまだ残っている。国道1号(旧東海道)沿いに建つ石鳥居。諏訪・駒形神社から竹林の参道を下る途中、高齢のおばさんがタケノコをもっておられた。杖をついて毎朝散歩しているとのことで「良いタケノコが採れた」と。旧国道1号の歩道橋錆び付いた歩道橋の廻り階段を降りると旧東海道の箱根宿方面の石畳へ。旧国道1号は以前は交通量が多かったため歩道橋が必要であったが、山中城の北側にバイパスが完成してからは交通量が激減し今では必要なくなったようだ。旧国道1号を挟んで南側に建つ「お休処 茶屋 竹屋」。所在地:静岡県三島市山中新田34かつては富士山の伏流水でさらした鰻を、備長炭で丹念に焼き上げお客様に提供していたという。さきほどの高齢のおばさんはここの主で「自分が84歳になり閉店、息子は東京へ」と。宗閑寺(そうかんじ)所在地:静岡県三島市山中新田94-1本堂は関東大震災で倒壊したが、豊臣方の武将一柳直末の子孫により再興されたと。本堂の扁額「宗閑寺」。本堂の屋根には葵の紋。宗閑寺は山中城三ノ丸跡にあり、慶長十年(1605)に建立された。開基となったのは、家康の待女・お久の方。北条軍の副将で敵将・一柳直末を討ち取り、73歳で戦死した間宮康俊の娘である。開基のお久の方は、徳川家康に仕え四女松姫をもうけている。宗閑寺と武将の墓東月山普光院宗閑寺(浄土宗)は静岡市の華陽院の末寺。開山は了的上人、開基は間宮豊前守の女お久の方と伝えられている。ここには山中城落城の際、北条軍、豊臣軍の武将たちの石碑がひっそりと佇んでいる。豊前守康俊(普光院殿武月宗閑潔公大居士)兄弟とその一族、城主松田右兵衛太夫(山中院松屋玄竹大居士)、群馬県の箕輪城主多米出羽守平長定らの墓と共に、豊臣軍の先鋒一柳伊豆守直末(大通院殿天叟長運大禅定門)の墓碑がうらみを忘れたように並んでいる。 平成九年十一月 文化庁 静岡県教育委員会 三島市教育委員会境内西側の一段高いところに ”武将の墓” 。左側奥に北条軍の墓石、右側奥に豊臣軍の先鋒一柳伊豆守直末の墓石。墓地は南側の木が伐採されて明るくなっていた。階段を上ると左側に三つの墓石が並んでいる。左側:上州箕輪城主 多米出羽守平長定墓 天正十八庚寅年三月廿九日 於山中城戦死中央:長谷川志摩守平近秀墓右側:追沼帯刀先生氏雅墓右側の豊臣軍の墓石は玉垣で囲まれている。玉垣の中には豊臣軍の先鋒 一柳伊豆守直末の墓石。墓石には「大通院殿前豆州太守天叟長運大禅定門」と刻まれている。左側の墓石は北条軍。一番右側が山中城の城主であった松田康長の墓石。その隣にある3基の五輪塔は、副将の間宮康俊とその弟、多米長定の3名の墓石である。墓前には、いつもお酒、ワンカップが供えられている。因みにこの間宮一族の子孫のひとりが、のちに間宮林蔵として名を残した。宗閑寺の東側に建っている山中公民館横を抜けると ”箱井戸跡” 。箱井戸跡ここは古くから箱井戸と伝承されていた所で、発掘調査の結果、箱井戸と西側の田尻の池一帯は湿地帯であったことが確認された。箱井戸と田尻の池の間は、土塁によって分離され、排水溝によってつながれていた。これは湧水量が多く、一段高い箱井戸から田尻の池へ水を落とすことにより、水の腐敗や鉄分による変色を防ぐための工夫と考えられる。箱井戸の水を城兵の飲料水とし、田尻の池は、洗い場や馬の水飲み場等として利用していたのであろう。現在、箱井戸には睡蓮が植えられ、花の季節(7~8月頃)には観光客の目を楽しませている。 平成十三年三月 文化庁 静岡県教育委員会 三島市教育委員会二ノ丸、本丸への傾斜地にはアジサイも植えられている。箱井戸ではカモも悠々と泳ぎまわっていた。箱井戸から田尻の池へと進む。右側の坂を登ると二ノ丸。9:00三ノ丸堀横の駐車場へ戻る。登城を始めてから1時間40分を要した。時間も9時になり駐車場には多くの車が停まっていた。駐車場隅にはテントが建ち「無料ガイド」受付所。地元ボランティアの方達が無料でガイドをしておられるようであった。パンフレットも配布。”山中城跡案内所・売店” へ戻るがまだ開店前であった。既に歩行数は5,000歩を越えていた。水分補給をしながら余裕を持って散策を心がける。山中城跡案内所・売店前に「山中城跡歳時記」が貼られていた。4月 上旬 城内の芝生が芽吹きはじめ、出丸では水仙が開花します。 中旬 出丸で染井吉野や山吹、箱井戸で木連、障子堀では桃などが開花します。 各所でドウダンツツジや山桜が、溜池や北ノ丸では三つ葉が見られます。 下旬 西木戸で八重桜やツツジが開花します5月 上旬 三の丸でツツジ、箱井戸で睡蓮や菖蒲、岱﨑御馬場曲輪では藤が開花します。 中旬 本丸で藤が開花します。 下旬 箱井戸、田尻の池で菖蒲が満開となります。6月 上旬 西木戸でサツキが開花し、ヤマボウシも見られます。 東海地方ではこのころ梅雨に入ります。7月 上旬 駐車場で夏ツバキが開花します。 中旬 東海地方ではこのころ梅雨明けします。ヒグラシが鳴き始め、赤トンボ も見られます。 下旬 元西櫓や西堀で百合が開花します。8月 1ヶ月を通じてお天気の良い日がおおいです。9月 上旬 西木戸でススキが見られるようになります。 中旬 箱井戸周辺で彼岸花が開花します。田尻池の睡蓮の見頃時期が終わります。 下旬 このころ富士山に初冠雪が見られます。10月 例年、10月はお天気に恵まれます。 中旬 ドウダンツツジが紅葉しはじめます。 下旬 各地から団体客がやって来たり、幼稚園児たちが見学に訪れます。11月 上旬 霜が降りるようになります。ドウダンツツジやモミジなどの紅葉が見頃 となります。 下旬 雪化粧の富士山の姿が見られます。12月 上旬 初雪が降ります。 中旬 霜がおおく降りるようになり、凍結も目立ちはじめます。1月 上旬 凍結することがおおくなります。 中旬 雪の降る日が続き、積雪が目立ちはじめます。 下旬 お天気の日が続きます。2月 上旬 箱井戸周辺が全面凍結します。 中旬 引き続き凍結が目立ち、時々みぞれ雪も降ります。3月 中旬 凍結することもありますが、団体客も増えはじめます。 下旬 お天気の日が続きますが、まだ霜も降ります。現在地は矢印の「山中城跡案内所・売店」。山中城跡案内所・売店の裏側にある旧東海道の石畳。この後、石畳を渡り山中城跡南側の「岱崎出丸跡」を散策することに。箱根旧街道 腰巻(こしまき)地区の石畳復元・整備箱根旧街道は、慶長九年(1604)江戸幕府が整備した五街道の中で、江戸と京都を結ぶ一番の主要街道である東海道のうち、小田原宿と三島宿を結ぶ、標高846mの箱根峠を越える箱根八里(約32km)の区間である。この旧街道には、通行の人馬を保護する松や杉の並木が作られ、道のりを正確にするための一里塚が築かれた。またローム層の土で大変滑りやすい道なので、やがてその道に竹が敷かれたが、延宝八年(1680)頃には石畳の道に改修された。三島市は貴重な文化遺産である石畳の活用を図るため、この「腰巻地区」約350mの区間を、可能な限り江戸時代の景観を保って、平成六年度(1994)に復元・整備した。発掘調査の結果、石畳は幅二間(約3.6m)を基本とし、道の両側の縁石は比較的大きめの石がほぼ直線的に並ぶように配置されていた。基礎は作らずにローム層の土の上に敷き並べたもので、石材はこの付近で採石したと思われる、扁平に剥離する安山岩を用いていた。調査の成果を基に、管理のための下部基礎を設け、下図のように、石畳がよく残っていた所約60mの間は、江戸時代の石を元の位置に戻して復元し、石畳の少なかった所や全くなかった所約290mの間は、江戸時代の石に加え神奈川県根府川町で採石した扁平に剥離する安山岩を補填した。また排水路として、ここより上方の願合寺地区石畳に出ているものと同様の「斜め排水路」を二か所作った。 令和三年三月 三島市教育委員会 箱根八里街道観光推進協議会旧東海道に建つ、懐かしい静岡県内の標示杭。山中城跡南側エリアこの後散策することに。遊歩道脇にはサツキが咲き始めていた。咲き始めのサツキ。タンポポも咲き終わり子孫繁栄のために風を待つ。案内板には「すり鉢曲輪跡」と。赤いツツジが満開。レジャーシートを広げたい空間である。座り込めばこのような景観が。タンポポの種子をズームアップ。猫の目視線で追う。ツツジを見上げる。管理が行き届き草が綺麗に刈られている。風もなく穏やかであったが少々暑かった。9:20木陰に入り。 ー 続く ー
2024.05.26
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山中城跡の東側へ進む。4月28日(日) 8:25元西櫓から架橋を渡り二ノ丸(北条丸)へ進む。二ノ丸虎口と架橋二ノ丸は東西に延びる尾根を切って構築された曲輪である。尾根の頂部に当たる正面の土塁から、南北方向に傾斜しており、北側には堀が掘られ、南側は斜面となって箱井戸の谷に続いている。この斜面を削ったり盛土して、山中城最大の曲輪二ノ丸は作られたのであるが、本丸が狭いのでその機能を分担したものと思われる。二ノ丸への入口は、三ノ丸から箱井戸を越えてこちら側へ渡り、長い道を上ってこの正面の大土塁(高さ4.5m)に突き当り、右折して曲輪に入るようになっていた。また、二ノ丸と元西櫓の間の堀には、橋脚台が掘り残されており、四隅に橋脚を立てた柱穴が検出された。橋脚の幅は南北4.3m、東西1.7mで、柱の直径は20~30cmであった。復元した橋は遺構を保護するため、盛土して本来の位置より高く架けられている。 平成十三年三月 文化庁 静岡県教育委員会 三島市教育委員会二ノ丸への架橋を渡り西方向を望む。架橋を渡ると右側に二ノ丸櫓台がある。二ノ丸の櫓台から元西櫓を見下ろす。元西櫓は周囲を深い空堀で囲まれた、640平方メートルの小曲輪である。同場所から西方向の西ノ丸畝堀、西ノ丸を見下ろす。二ノ丸の櫓台から東方向の二ノ丸(北条丸)を見下ろす。二ノ丸は東西に延びる尾根を切って構築された曲輪である。尾根の頂部に当たる正面の土塁から、南北方向に傾斜しており、北側には堀が掘られ、南側は斜面となって箱井戸の谷に続いている。この斜面を削ったり盛土して、山中城最大の曲輪二ノ丸は作られた。二ノ丸(北条丸)にはこれから咲くオオムラサキ。南側に傾斜した二ノ丸。二ノ丸の西側櫓台を望む。東側櫓台から西側櫓台を望む。同場所から南西方向には函南の街並みが見える。二ノ丸櫓台からの本丸北側の空堀を見下ろす。空堀には本丸から北ノ丸への本丸北橋が架かる。本丸西堀に架かる本丸西橋二ノ丸の東側櫓台から見下ろす。本丸堀と櫓台本丸と二ノ丸(北条丸)との間の本丸西堀は、土橋によって南北に二分されている。北側の堀止めの斜面にはV字状の薬研堀が掘られ、その南側に箱堀が掘られていた。堀底や堀壁が二段となっていたので、修築が行われ一部薬研堀が残ったようである。なお、箱堀の堀底からは兜の「しころ」が出土した。土橋の南側は畝によって八区画に分けられ、途中屈折して箱井戸の堀へ続いている。堀底から本丸土塁までは九メートルもあり、深く急峻な堀である。堀の二ノ丸側には、幅三○~六○センチの犬走りが作られ、土橋もこの犬走りによって分断されていたので、当時は簡単な架橋施設で通行していたものと思われる。一般的に本丸の虎口(入口)は、このように直線的ではないが特別な施設は認められなかったので、通行の安全上架橋とした。説明板左手の、標高五八三メートルの地に二ノ丸櫓台(東西一二メートル、南北一〇メートル)がありそれを復元した。 平成十二年三月 文化庁 静岡県教育委員会 三島市教育委員会本丸跡に立つ説明板。左側は「国指定史跡 山中城跡案内図」。右側は「国指定史跡山中城跡」で国道沿いの入口にあったものと説明文が同じ。現在地は矢印の「本丸」。本丸の南側下には兵糧庫跡に建つ休憩所。本丸にもフジ棚。ここのフジも紫色は満開になっていた。いい香りがするので大きなアブが飛びまわっていた。本丸跡標高五七八m、面積一七四○㎡、天守櫓と共に山中城の中心となる曲輪である。周囲は本丸にふさわしい堅固な土塁と深い堀に囲まれ、南は兵糧庫と接している。この曲輪は盛土によって兵糧庫側から二m前後の段をつくり、二段の平坦面で築かれている。虎口(入口)は南側にあり、北は天守閣と北の丸へ、西は北条丸に続く。江戸時代の絵図に描かれた本丸広間は上段の平坦面、北条丸寄りに建てられており、現在の藤棚の位置である。 平成九年十一月 文化庁 静岡県教育委員会 三島市教育委員会北ノ丸への本丸北橋。架橋(かけはし)発掘調査の結果、本丸と北ノ丸を結ぶ架橋の存在が明らかになり、その成果を元に日本大学の故・宮脇泰一教授が復元したのがこの木製の橋である。山中城の堀には、土橋が多く構築され、現在も残っているが、重要な曲輪には木製の橋も架けられていた。木製の橋は土橋と較べて簡単に破壊できるので、戦いの状況によって破壊して、敵兵が堀を渡れなくすることも可能であり、曲輪の防御には有利である。 平成十三年三月 文化庁 静岡県教育委員会 三島市教育委員会北ノ丸北ノ丸に咲いていたミツバツツジ。北の丸堀山城の生命は堀と土塁にあるといわれる。堀の深さが深く、幅が広いほど曲輪につくられる土塁が高く堅固なものとなる。北の丸を囲むこの堀は豪快である。四〇〇年の歳月は堀底を二m以上埋めているので、築城時は現況より更に要害を誇っていたに違いない。城の内部に敵が進攻することを防ぐため、この外堀は山中城全域を囲むように掘られ、水のない空堀となっている。石垣を用いるようになると、堀の両岸はより急峻になるが、石を用いずこれだけの急な堀を構築した技術はみごとである。 平成九年十一月 文化庁 静岡県教育委員会 三島市教育委員会北ノ丸の北側の急峻な堀。北側の急峻な堀には杉が林立している。北ノ丸天守櫓に次ぐ本城第二の高地に位置し、面積も1,920㎡もある曲輪である。本丸に咲くフジ棚。フジ棚を見上げる。本丸に咲く野花。ズームアップ。本丸の東側に雑木林がありその中に「矢立の杉」が聳える。矢立の杉 (市指定天然記念物)山中城跡本丸の天主櫓に接して植生しており、樹高三一・五m、周囲の樹木より一段と高く山中城跡のシンボル的存在である。推定樹齢は五○○年前後といわれ、植生地はスギの生育の適地であるため樹勢も良好で、目通り四・三七m、枝張りは西側へ一五m、北東側へ八mも展開し、各枝の葉色もよい。「矢立の杉」の呼称の由来については、出陣の際に杉に矢を射立て、勝敗を占ったためと『豆州志稿』の中の記述にある。 平成八年十二月 三島市教育委員会本丸から下り兵糧庫跡へ、休憩所になっている。本丸の土塁を見上げる。兵糧庫跡(ひょうろうこあと)ここは古くから兵糧庫とか、弾薬庫と伝承されていた場所である。中央を走る幅五○cm、深さ二〇cmの溝は排水溝のような施設であったと考えられ、この溝が兵糧庫を東西二つの区画にわけていた。西側の区画からは南面する三間(六・七m)、四間(八・七m)の建物の柱穴が確認された。このことから周辺より出土している平たい石を礎石として用い、その上に建物があったものと考えられる。東側の区画からは、不整形な穴が数穴検出され、本丸よりの穴からは、硯・坏・甲冑片・陶器などが出土している。 平成十三年三月 文化庁 静岡県教育委員会 三島市教育委員会兵糧庫跡の柱穴と大きな穴発掘調査の結果、この西側の区画から約20個の小穴がほぼ東西南北に並んで検出された。これらの穴(ピット)のほとんどは、直径50cm、深さ20cm程度で、それぞれ2m ~ 2.2m間隔の列をなしていた。周辺より出土した、平たい石を礎石と考えると、これらの穴は建物の柱穴跡と考えられる。また西北隅、土塁寄りに直径1.5m、深さ2.5mの大きな穴が四基並列して検出された。これらの大穴は建物の柱穴とはまったく性格のちがうもので、壁面は垂直に整形されており、底面は平らで特に加工はほどこされていなかった。なお、その用途については不明である。 平成十三年三月 文化庁 静岡県教育委員会 三島市教育委員会8:45兵糧庫跡は発掘調査後整地され、芝生の中に柱穴跡が残されている。 ー 続く ー
2024.05.25
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山中城跡を時計回りに廻り北側の帯曲輪へ。天気が良く富士も見えていた。4月28日(日) 8:00山中城跡の北側の帯曲輪から富士を望む。三島市眺望地点右側から「富士山」手前に「三島市立 箱根の里」「愛鷹連山」「三島市街地」「駿河湾」。平成14年12月16日指定富士の頂上がまだ見えていた。西櫓堀を振り返る。西櫓の架橋西櫓の曲輪を囲む約八二メートルの西櫓堀は、ほぼ九メートル間隔に作られた八本の畝によって、九区画に区切られている。第九区画に隣接する一段高い平坦面から四本の柱穴が検出され、この場所に西櫓へ渡る橋が架けられていた事が推定された。日本大学宮脇研究室では、右図のような橋の復元図を示されている。絵は、架橋復原図 平成十二年三月 文化庁 静岡県教育委員会 三島市教育委員会北側の帯曲輪上から左に西ノ丸、左に西櫓。かつてはこの間に ”西櫓の架橋” があったのか。ツツジをズームアップ。咲いていないのは他の種類か。西ノ丸堀(にしのまるほり)西ノ丸堀は、山中城の西方防備の拠点である西ノ丸にふさわしく、広く深く築城の妙味を発揮しており、堀の末端は谷に連なっている。西櫓と西ノ丸の間は、中央に丸い畝を置き、交互に両曲輪にむかって畝を出しているが、西ノ丸の北側では東西に畝をのばして堀内をより複雑にしている。このように複雑な堀の構造は、世に伝えられる「北条流堀障子」の変形であり、学術上の価値も高いものである。 平成十二年三月 文化庁 静岡県教育委員会 三島市教育委員会北側の帯曲輪にある休憩所(四阿)。四阿辺りから、西櫓跡を望む。櫓下には障子堀。杉林の中ではシイタケ栽培。山中城跡の北側を走る ”笹原山中バイパス” 。散策路に咲いていたオオムラサキであったか。山中城跡の北側の傾斜地。遊歩道に案内板。土塁で囲まれた西ノ丸へ上る。西の丸西の丸は3,400㎡の広大な面積をもつ曲輪で、山中城の西方防備の拠点である。西端の高い見張台はすべて盛土をつみあげたもので、ここを中心に曲輪の三方をコの字型に土塁を築き、内部は尾根の稜線を削平し見張台に近いところから南側は盛土して平坦にならしている。曲輪は全体に東へ傾斜して、東側にある溜池には連絡用通路を排水口として、雨水等が集められるしくみである。自然の地形と人知とを一体化した築城術に、北条流の一端を見ることができる。 平成九年十一月 文化庁 静岡県教育委員会 三島市教育委員会土 塁(どるい)山中城のどの曲輪も土塁で囲まれている。石垣を使う以前の戦国時代の城は、全て堀と土塁が築城のポイントであり、城内の何を隠すか(人・馬・槍等)によって土塁の構築が考えられた。土塁の傾斜は堀に対して急で、内部には緩やかである。このように自然の谷が眼下に迫っている所は、土塁も重厚なものでなく土留程度のものである。 平成八年十二月 文化庁 静岡県教育委員会 三島市教育委員会咲き始めたフジ棚があった。標高が580メートルのため開花が遅いようだ。フジは三本あり白と紫色の二色。白のフジは満開。紫色はこれからの状態。山中城の建物西の丸を全面発掘したが、建物の遺構は確認されなかった。この地の開墾耕作で攪乱された可能性が強く、もしあったとしても臨時の小屋程度のものであろう。西櫓跡からは3m×2.6mの柱穴跡が、元西櫓跡からは5.4m×7m位の建物の柱穴跡が検出され、また平らな石等も確認されているので、堀立柱の茅葺きの物置程度の建物はあったであろう。日常生活用具である炊事道具や椀類が出土しないので、寝小屋(根小屋)は他の曲輪にあったと考えられる。 平成八年十二月 文化庁 静岡県教育委員会 三島市教育委員会西ノ丸見張台北側に富士が見えていた。西の丸見張台西の丸見張台は下から盛土によって構築されたものである。発掘の結果、基底部と肩部にあたる部分を堅固にするために、ロームブロックと黒色土を交互に積んで補強していることが判明した。標高は約580mで、本丸の矢立の杉をはじめ、諸曲輪が眼下に入り、連絡・通報上の重要な拠点であったことが推定できる。 平成八年十二月 文化庁 静岡県教育委員会 三島市教育委員会西ノ丸見張台の北側から帯曲輪、右側に四阿(休憩所)を見下ろす。西側の西櫓跡と一段高い櫓台、西ノ丸堀、西櫓堀、北側の帯曲輪を見下ろす。北側の帯曲輪にはサクラの木があり4月の初めには彩るのであろう。手入れされた斜面のツツジをズームアップ。西櫓跡の櫓台には多くの観光客が訪れていたが山中城にはまだ外人観光客の姿は見えなかった。見張台から移動して西櫓を望む。櫓台越しに三島市街地がうすく見える。西ノ丸見張台から東方向の西ノ丸を見下ろす。西ノ丸は3,400㎡の広大な面積をもつ曲輪で、東方向に向かって傾斜している。西ノ丸に咲くフジ棚。西ノ丸の東側から元西櫓の斜面に咲くツツジを見下ろす。西ノ丸跡から降り、元西櫓跡へ上る。土塁で囲まれた ”元西櫓” 。元西櫓(もとにしやぐら)この曲輪は西ノ丸と二ノ丸の間に位置し、周囲を深い空堀で囲まれた、640平方メートルの小曲輪である。当初名称が伝わらないため無名曲輪と呼称したが、調査結果から元西櫓と命名した。曲輪内は堀を掘った土を1メートル余りの厚さに盛土し、平らに整地されている。この盛土の下部にはロームブロックが積まれていたが、これは曲輪内に溜まった雨水を排水したり、霜による地下水の上昇を押さえ、表面を常に乾いた状態に保つための施設と考えられる。しかもロームブロック層は溜池に向かって傾斜しており、集水路ともなっている。 平成十二年三月 文化庁 静岡県教育委員会 三島市教育委員会元西櫓から西方向の西ノ丸の南斜面、西ノ丸畝堀を望む。西方向をズームアップ。現在地は矢印の「元西櫓」。西ノ丸への土橋に幟旗が立ち並ぶ。元西櫓の土塁。西側の傾斜地にツツジが咲く。モミジの若芽。西ノ丸の入口を望む。元西櫓から西方向の西ノ丸の南斜面、西ノ丸畝堀を望む。奥には西櫓。8:25西ノ丸の南斜面をズームアップ。 ー 続く ー
2024.05.24
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天気が良く富士も見えツツジが満開であった。4月28日(日) 7:40西ノ丸畝堀沿いの帯曲輪を上り西ノ丸と西櫓の間にある障子堀。ここからの光景を何年も見たかった。富士も見事に顔を出していた。障子堀も綺麗に整備されていた。山中城一番のビュースポットではなかろうか。丸く刈られたツゲの木であったか、四阿の方がよいか。右奥には休憩用の四阿があるが。障子堀へは急斜面で立入禁止になっていたか。山中城へ何度も登城してようやく撮れた写真である。昼近くになると富士には雲がかかる。ツツジも赤一色なのであろうか。帯曲輪に立つ観光案内「← 西木戸口跡、西櫓跡 →」。畝の傾斜度が50度から60度と非常に急峻な西櫓堀。蟻地獄の如くに造られた畝である。西ノ丸畝堀を見下ろす。早期に復旧されることを祈る。令和元年の台風19号の影響で崩落した西ノ丸の法面、その後も長雨で崩壊。この法面にシバザクラを植えたらどうであろうかは。シバザクラは常緑で、地面を覆いつくすように密生し、土の流失も防ぐため、石垣、法面などで利用されていると。西櫓跡への通路から障子堀を見下ろす。前方上の ”西ノ丸物見台” には幟旗が立ち並ぶ。障子堀 (しょうじぼり)後北条氏の城には、堀の中を区画するように畝を掘り残す、いわゆる「障子堀」という独特の堀が掘られている。西ノ丸と西櫓の間の堀は、中央に太く長い畝を置き、そこから交互に両側の曲輪にむかって畝を出し、障子の桟のように区画されている。また、中央の区画には水が湧き出しており、溜まった水は南北の堀へ排出される仕組みになっている。このように水堀と用水池を兼ねた堀が山城に作られることは非常に珍しく、後北条氏の城の中でも特異な構造である。 平成十二年三月 文化庁 静岡県教育委員会 三島市教育委員会西櫓跡から東奥に広がる二ノ丸(北条丸)、本丸を望む。左上は西ノ丸跡。右下の南側の帯曲輪に幟旗が立ち並ぶ。西櫓跡に立つ幟旗。北側には富士が見える。西ノ丸の北側の障子堀、奥に休憩用の四阿。西櫓跡堀立柱建物跡発掘調査の結果、南西の区画から堀立柱建物跡のものと思われる柱穴が二十本検出した。弓矢や鉄炮等を立て掛ける施設と思われるが、検出した柱穴は、柱間及び方向が不揃いで、どの柱穴がこの建物に伴うものか確定できないため、床面と思われる範囲についてのみ平面表示した。 平成二十七年三月 文化庁 静岡県教育委員会 三島市教育委員会 西櫓跡の一段高い櫓台から西方向の三島、沼津市街地を見下ろす。かつてはここから攻めてくる豊臣軍を見たのであろう。後北条氏の角馬出戦国時代の城で、二つの虎口(出入り口)と一つの広場が組み合わされたものを特に「馬出」と呼んでいる。馬出は、戦国時代の永禄年間に完成したと考えられているが、甲斐武田氏の城では、馬出の土塁と堀を丸く造ったので「丸馬出」と呼ばれ、堀が円弧を描くので通称「三日月堀」である。これに対して、後北条氏の馬出は、その形から「角馬出」と呼ばれている。西ノ丸から障子堀をこえて、前方に突き出たこの西櫓(広場)を四角(長方形)に造り、それに沿って土塁と堀を巡らしている。防御する時は、西ノ丸の虎口を中心に、攻撃に出る時には堀の外側の広場(西櫓)を起点として、堀の南端の土橋と北端の木橋を用いる。この馬出の築造により、攻める機能と守る機能が明らかに区分された。写真は、西櫓・西ノ丸鳥瞰図 平成十六年三月 三島市教育委員西櫓跡の櫓台からの富士。櫓台から東側の西ノ丸の物見台を望む。この辺りの標高は580メートル。西櫓と西ノ丸間の障子堀。高いので足がすくむ。関東に攻め込もうとする豊臣秀吉の大軍が、この山中城に襲いかかったのは、天正18年(1590)3月29日のことでこの時の戦死者の数は、障子堀の中にも多くの死傷者が。丸く刈られたツツジをズームアップ。更にズームアップ。西ノ丸の物見台。西櫓を後にする。西櫓入口の帯曲輪からこの光景を見納める。西櫓跡から南側の帯曲輪を西木戸口跡へ進み ”西櫓堀” を振り返る。右側の帯曲輪から西櫓を攻めるのは深い障子堀があるので至難の業であったのでは。西櫓堀(にしやぐらぼり)堀内には、ほぼ九メートル間隔に八本の畝が、堀の方向に対して直角に作られている。畝はローム層を台形に掘り残して作ったもので、高さは堀底から約二メートル、頂部の幅は約〇・六メートルで丸みを帯びている。畝の傾斜度は五〇度から六○度と非常に急峻である。平均した堀底の幅は二・四メートル、長さは中央で九・四メートル、堀底から西櫓までの高さは九メートルもある。現在は植栽されているが、四百年前はすべりやすいローム層が露出し樹木は全くなかったので、もし人間が堀に落ちれば、脱出することは不可能だったと推定できる。 平成十二年三月 文化庁 静岡県教育委員会 三島市教育委員会西櫓西側の堀。西櫓堀の平均した堀底の幅は2.4メートル、長さは中央で9.4メートル、堀底から西櫓までの高さは9.0メートルもある。 深い西櫓堀を見下ろす。廻り込むと富士が見えていた。サクラとのコラボもよさそうだが。ズームアップ。東方向を振り返る。山中城西側の展望地点に立つ観光案内板。トイレ施設もあった。現在地は右上で山中城跡の最西部に位置している。西木戸に建つ石碑には、「史蹟 山中城阯」と。側面には、「史蹟名勝天然記念物保存法ニヨリ 昭和九年一月二十二日文部大臣指定」と。南側の西櫓堀を振り返る。西櫓の北側斜面のツツジ。ここには数色のツツジが咲いていた。8:00急峻な斜面に植えられているツツジ ー 続く ー
2024.05.23
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日本100名城の「山中城」は自宅から片道50キロで、手頃なドライブコースになっておりもう何度も訪れている。ツツジが咲く時期に訪れていなかったため1週間前に案内所へ電話をし開花状況を聞いた。その後天気が不順で行く時期を考えていたが、この日は久しぶりに天気が良く富士も見えていたので、息子家族が来ているにもかかわらず朝食もせずに出かけた。”山中城からの富士山とツツジとのコラボ”、この写真が撮りたくて。4月28日(日) 6:25国道1号鳥井戸橋交差点から愛車ノートの車窓にうっすらと左富士が見えていた。西湘バイパスを走り箱根新道を上る。正面に箱根の電波塔が見える。前方の橋は、旧東海道の畑宿辺りにある「国指定史跡 箱根旧街道の石畳橋」。箱根峠神奈川県と静岡県の県境にある標高846mの箱根峠。国道1号を下りここを左折して旧国道1号へ入る。直進方向の笹原山中バイパスができてから左折する車が激減した。7:20山中城跡案内所・売店所在地:静岡県三島市山中新田410-4 ☎:055-985-2970営業時間:10:00 ~ 16:00 ※ 1 ~ 3月の平日は 10:30 ~ 15:30定 休 日 :月曜日 ※ 祝日の場合は営業、翌日休みここへ1週間前に電話をして開花状況を聞いた。営業が10時からでまだ開店前であった。朝食をとらずに出かけたので散策後そばでも食べることに。案内所前にはバス停「山中城跡」があるが1時間に一本か。既に駐車場には数台の車が停まっていた。山中城跡案内所前に立っている観光案内板。箱根西麓ハイキングコース無料 総距離 約7.5km ● 箱根西麓ウォーキングコース ● 箱根西坂富士美 (ノルディックウォーキング) コース有料 総距離 約8.5km ● 箱根西坂富士美 (ノルディックウォーキング) コースノルディックウォーキングとは、フィンランドでスタートした2本のポールを使ったウォーキングです。全身の筋肉の約90%を使用することにより通常のウォーキングに比べ運動強度が高く、消費エネルギーが2割り程度もアップするものです。(全日本ノルディック・ウォーク連盟認定コース)※ スタート・ゴールを山中城跡案内所・売店としていますが、どこからスタートしてもかまい ません。旧国道1号を下って来ると「国指定史跡・日本百名城 山中城跡」の看板が目に入る。旧国道を挟んだ向かい側にも、駐車場、トイレがある。右側は旧東海道の箱根からの下り道。交差点を渡り案内所を振り返る。道路脇には珍しく電話ボックスも。国指定史跡 山中城跡 (昭和九年一月二二日指定)史跡山中城は、小田原に本城をおいた北条氏が、永禄年間(1560年代) 小田原防備のために創築したものである。やがて天正十七年(1589)豊臣秀吉の小田原征伐に備え、急ぎ西の丸や出丸等の増築が始まり、翌年三月、豊臣軍に包囲され、約十七倍の人数にわずか半日で落城したと伝えられる悲劇の山城である。この時の北条方の守将松田康長・副将間宮康俊の墓は今も三の丸跡の宗閑寺境内に苔むしている。三島市では、史跡山中城の公園化を企画し、昭和四八年度よりすべての曲輪の全面発掘にふみきり、その学術資料に基づいて、環境整備に着手した。その結果、戦国末期の北条流の築城法が次第に解明され、山城の規模・構造が明らかになった。特に堀や土塁の構築法、尾根を区切る曲輪の造成法、架橋や土橋の配置、曲輪相互間の連絡道等の自然の地形を巧みにとり入れた縄張りの妙味と、空堀・水堀・用水池・井戸等、山城の宿命である飲料水の確保に意を注いだことや、石を使わない山城の最後の姿をとどめている点等、学術的にも貴重な資料を提供している。 平成十一年三月 文化庁 静岡県教育委員会 三島市教育委員会写真は、畝堀 (左)、障子堀 (右)。史跡 日本百名城 山中城跡山中城跡の縄張り図探訪コース 2コースを案内しており所要時間は、 ① 戦国山城探訪コース 約2時間 ② 障子堀・畝堀探訪コース 約1時間リュックを背負い ”戦国山城探訪コース“ の約2時間に挑戦。三の丸堀越しに案内所を望む。ゴールデンウイークになり幟旗も立てられていた。三の丸堀三の丸の曲輪の西側を出丸まで南北に走るこの堀は、大切な防御のための堀である。城内の各曲輪を囲む堀は、城の縄張りに従って掘り割ったり、畝を掘り残したりして自然地形を加工していたのに対し、三の丸堀は自然の谷を利用して中央に縦の畝を設けて二重堀としている。中央の畝を境に、東側の堀は水路として箱井戸・田尻の池からの排水を処理し、西側の堀は空堀として活用していたものである。この堀の長さは約180m、最大幅約30m、深さは約8mを測る。 平成八年十二月 文化庁 静岡県教育委員会 三島市教育委員会この三の丸堀は自然の谷を利用して中央に縦の畝を設けて二重堀としている。中央の畝を境に、東側の堀は水路として箱井戸・田尻の池からの排水を処理し、西側の堀は空堀として活用していたものである。三の丸堀から二の丸方向へ緩い坂道を上る。オオムラサキはこれからの開花。右側は杉林で田尻の池からの排水路になっている。”田尻 (たじり) の池” の周りにも多くの幟旗が立っていた。田尻の池東側の箱井戸と田尻の池とは、一面の湿地帯であったが、山中城築城時、盛土(土塁)によって区切られたものである。山城では、水を貯える施設が城の生命であるところから、この池も貴重な溜池の一つであったと考えられる。しかも、西側は「馬舎」と伝承されているところから、この池は馬の飲料水・その他に用いられたものと推定される。築城時の池の面積は約148平方メートルであり、あふれた水は三の丸堀に流れ出ていたようである。 平成十一年三月 文化庁 静岡県教育委員会 三島市教育委員会田尻の池貴重な溜池の一つで西側は「馬舎」と伝承されているところから、この池は馬の飲料水・その他に用いられたものと推定される。あふれた水は三の丸堀へと流れ出ていたようだ。幟旗が立つ坂道は二ノ丸へ。観光案内は「← 西の丸跡、宗閑寺 →」と。⇐ 西ノ丸・障子堀方面※ 崩落している箇所があります ※令和元年の台風19号の影響により崩落した場所は一度復旧しましたが、令和3年7月上旬の長雨により再び崩落し、現在は復旧手続き中です。西ノ丸・障子堀方面へ坂を登るがツツジの開花状況は・・・。右上は二ノ丸 (北条丸)。傾斜地に赤く咲いたツツジが見えてきた。ズームアップ。元西櫓下の堀西ノ丸への途中にある元西櫓の斜面に咲くツツジが朝日を浴びて開花していた。ズームアップするが他には花芽が付いていなかったようだ。元西櫓下の堀城の内部に敵が進入するのを防ぐため人工的に土地を深く掘り下げたものが堀である。掘りあげた土は曲輪の中へ運び、平らにならしたり土塁に積んだりするのに用いられる。山中城では、曲輪の四周は大体堀で囲まれている。堀の深さと幅とは地形と曲輪の重要度に深く関連している。また、山中城の堀に、石垣が用いられていないということは大きな特色である。ここは堀底に近いが、四百年前はローム層が露出し、もっと急斜面であった。 平成十二年三月 文化庁 静岡県教育委員会 三島市教育委員会説明板は「土橋」。土 橋土橋は城(曲輪)の虎口(入り口)の前を通路だけ残して、その左右に堀を掘って城への出入りの通路としてつくられる。この土橋から西の丸へ入るには、土橋を渡って正面の土塁の下を左へ折れ、西の丸南辺からのびてくる土塁との間の細い上り坂の通路を通り、更にこの二つの喰違い土塁に挟まれた通路に設けた木戸を通る。この土橋は第一の関所であり、また高い方の堀の水を溜めておくための堤防でもある。 平成十一年三月 文化庁 静岡県教育委員会 三島市教育委員会※ 台風19号の影響で崩落している箇所があります ※令和元年の台風19号の影響で、崩落している箇所がありますが、これは城の遺構(山中城本来の部分)を保護するための土が流れ出したものです。戦国時代の山中城本来の堀や土塁に大きな被害はありません。保護のための土が崩落している箇所については順次修復していく予定です。城内は問題なく散策いただけます。ぜひ障子堀や土塁を見学いただき、北条流の築城術をご体感ください!写真は、台風被害前の西ノ丸(東から) 三島市教育委員会西ノ丸の南斜面にもツツジが咲く。令和元年の台風19号の影響により崩落した場所は一度復旧したが、令和3年7月上旬の長雨により再び崩落し、現在は復旧手続き中であると。ここ数年訪れているがなかなか復旧が終わらずブルーシートで覆われている。土橋上から元西櫓の斜面に咲くツツジを見下ろす。午前中で逆光の元西櫓の斜面をズームアップ。赤いツツジをズームアップ。午後の順光では如何に。土橋を渡り、観光案内は「← 西の丸跡、元西櫓跡 →」。西の丸跡には後訪れることに。帯曲輪を上り西櫓へ向かう。右下は ”西ノ丸畝堀” で障子堀、西ノ丸の斜面と共に復旧中だが完成はいつに。復旧中の西ノ丸の斜面にもツツジが咲く。帯曲輪を上り前方に ”西櫓” 。この先からの富士の光景が楽しみだ。7:40西ノ丸畝堀西ノ丸内部に敵が進入することを防ぐため、完全に曲輪の周囲を堀によってとりまいている。山中城では場所によって水のない堀と、水のある堀、やわらかい泥土のある堀とに分けられる。この堀の中は、五本の畝によって区画されている。畝の高さは堀底から約二メートル、更に西ノ丸の曲輪へ入るには九メートル近くもよじ登らなければならない。遺構を保護するため、現在は芝生や樹木を植栽してあるが、当時はすべりやすいローム層が露出しているものである。 平成十二年三月 文化庁 静岡県教育委員会 三島市教育委員会 ー 続く ー
2024.05.22
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寒川町へ花を買いに行った帰りに伊勢原に立ち寄ったブログです。春先のサクラシーズンが終わると次は「シバザクラ」が各地を彩る。近場では相模川沿いの堤に咲く「相模原市南区新戸地区」のシバザクラがある。外に関東地方では、① 富士芝桜:山梨県本栖湖、② 羊山公園:埼玉県秩父市 が有名である。①については昨年訪れた「富士芝桜まつり」👈 をクリック願います。4月20日(土) 11:40渋田川の芝桜所在地:神奈川県伊勢原市上谷738春になると伊勢原市を流れる渋田川の土手に赤や白、ピンクのシバザクラが約350mに渡り咲き誇ります。渋田川沿いのシバザクラは昭和45年(1970年)ごろ、地元の方の趣味で1株のシバザクラを植え始めたのが始まりと言われており、平成9年(1997年)には上谷芝桜愛好会も発足しました。今では「かながわ花の名所100選」にも選ばれています。渋田川のシバザクラ北側には石田牧場のジェラート屋めぐりがあります。ジェラートを片手に花々を楽しみましょう(伊勢原市観光協会公式HPより)。無料駐車場の右後方には石田牧場の牛舎が建つ。県道605号線(下糟屋平塚線)の西川橋交差点。ここから下流側の渋田川沿い約350mにシバザクラが植えられている。川沿いはサクラ並木にもなっているため、サクラとシバザクラの共演を鑑賞できるぜいたくで写真映え抜群なスポットです。美しい景観を維持するために、地元の有志が協力し、川の清掃や草取りなどの取り組みも行われています。例年シバザクラの見頃に合わせて「芝桜まつり」も開催され、多くの人が思い思いにお花見を楽しむ様子が見られますと。西川橋上から下流側を望む。シバザクラは左側の県道605号線(下糟屋平塚線)に沿って流れる渋田川の西側に植えられている。渋田川は、神奈川県伊勢原市と平塚市を流れる金目川水系の二級河川である。川沿いにはサクラの木もありサクラとの競演もよさそうだ。西側は遊歩道になっているが手摺がないので転ばぬよう注意を!美しい景観を維持するためにシバザクラのまわりは柵で仕切られている。ズームアップ。県道側は交通量が多いので狭い遊歩道が設けられている。橋の上には若い家族連れ。ご婦人がこの光景をスケッチしておられたが。上流側の西川橋を望む。今回はこの橋で折り返し駐車所へ。下流側はサクラ並木になっているようだ。振り返り上流側を望む。シバザクラの花壇にはネームプレート。「伊勢原ロータリークラブ このエリアの芝桜は私たちが育成管理しています 上谷芝桜愛好会・伊勢原市」と。赤、白、ピンクのシバザクラをズームアップ。シバザクラはハナシノブ科の多年草。別名、ハナツメクサ。 英名は「モスフロックス」といい、同属をまとめてフロックスと呼ぶ。花期をずらして混植されることもある。フロックス・ストロニフェラ、フロックス・ドラモンディー、フロックス・パニクラータ等あるがそれぞれ別種である(ウィキペディアより)。一面に花を咲かせる様子は、花の絨毯のようで圧巻であると。こちらのエリアは、「株式会社 高井工務店」さんが育成管理。シバザクラは常緑で、地面を覆いつくすように密生し、土の流失も防ぐため、花壇の縁取りや石垣、のり面などで利用されている。株が混んでくると枝枯れすることがあるので、秋に株分けして植え替える。急斜面を降り見上げる。贅沢だが対岸にもあればと思うが・・・管理が大変か。こちらのエリアは、「学校法人向上学園 向上高等学校」さんが育成管理。咲き終わったソメイヨシノであろうか。芝桜寄贈 公益財団法人 小田急財団 令和2年3月全てのエリアが団体で育成管理されているようだ。斜面が急な為足元に注意しながら川渕へ降り下流側を望む。赤、白、ピンクのシバザクラをズームアップ。11:50滞在時間約10分ほどのつかの間の散策であったが、シバザクラを楽しんだ。駐車場には露天商も出ていたが。この周りには寺社史跡もあり、自宅から13キロ、愛車のリンちゃんで約1時間のためまたいつか訪れたいと思いながら帰路についた。 END
2024.05.13
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満開のサクラを追って愛車のリンちゃんで小出川を上流へ走る。このルートはもう何度も走りウメ、河津桜、ソメイヨシノをブログアップしている。4月7日(日) 14:30新鶴嶺橋(赤橋)の下流に咲いている枝垂れ桜。ここは1週間前の3月30日(土)に訪れているがその時は咲き始めであった。正式名称はわからないがいつも癒してくれる。咲き始めから1週間経つと満開に。ここの枝垂れ桜ももう何度も見て、ブログアップしている。このサクラは私にとって春を告げる枝垂れ桜である。近くで色違いの花桃が咲いていた。ズームアップ。新鶴嶺橋(赤橋)をバックに枝垂れ桜。右側へ進むと数百メートルで鶴嶺八幡宮の二之鳥居へ。満開の枝垂れ桜。種類が違うのかピンクが濃い枝垂れ桜。鶴嶺通りを横切り上流へ。秋には紅葉を楽しめるドウダンツツジが咲いていた。釣り鐘のような感じの花をズームアップ。この先の上流は1週間前の3月30日(土)に訪れている。新湘南バイパスの下に架かる浜園橋の橋梁が見えなかった。新湘南バイパスの下へ。浜園橋の橋梁は、3月30日は仮設の上であったが基礎の上に置かれていた。工事用看板工期は、令和6年8月30日まで浜園橋の仮設橋上から新しい橋梁を見る。新橋を渡って右方向(東)への道がなかったので、新湘南バイパスの下へ大きく左折するのか。向田緑地へ向かい、浜園橋を振り返る。河川敷には放棄されたバイクが。バイクには注意書きの貼紙が見られた。上流側から浜園橋をズームアップ。1週間前の3月30日(土)に訪れた時は、ソメイヨシノはまだ蕾であった。その後の暑さで満開になっていた。品 種 ソメイヨシノ (染井吉野)科 名 バラ科植栽日 平成20年3月2日管理No ・・・管理者 萩桜会向田緑地一週間前の3月31日(日)に、「第12回桜まつり」が5年ぶりに開催された。桜まつり時には蕾であったが満開になっていた。猫の目視線で見上げる。公園のベンチでは宴会中であった。見上げる。ズームアップ。満開のサクラの下で前撮り写真を撮影するカップルも。最近はスマホで撮影する人が主流になっているのでは。ピンク系の枝垂れ桜も交じって咲いていた。ズームアップ。ソメイヨシノに交じってオオシマザクラも満開。オオシマザクラをズームアップ。白が濃いオオシマザクラ。向田緑地を後にする。この日も富士は薄雲で見れなかった。日曜日で多くの人が撮影に、一週間遅れのサクラ満開であった。萩園橋から下流側の向田緑地を望む。上流側には ”小出川の河津桜” 。早咲きの河津桜も来年のために生い茂っている。萩園橋の東側から向田緑地の堤に咲くサクラ並木を望む。15:05下流方向にカメラを振る。後方には新湘南バイパスの高架橋。15:15茅ヶ崎中央通りへ戻り、ここのサクラ並木も綺麗だがサクラの種類が?。木にネームプレートが欲しい。路面には花びらが散っていた。満開を過ぎたサクラ。第一カッターきいろ公園の北側のサクラ並木へ戻る。サクラのトンネルである。路面にも花びらが散り。15:25今年も愉しませてくれた茅ヶ崎のサクラでした。 END
2024.04.29
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この日は、先日(4月6日)の茅ヶ崎市観光協会が開催した「春の東海道をゆくツアー」に参加、野暮用が発生したため、愛車のリンちゃんで「旧相模川橋脚」を訪れた。その後、小出川沿いを上ることに。4月7日(日) 13:20千の川沿いのサクラ並木は満開近くに。今年は新学年の入園式、入学式に花を添えるサクラとなったようだ。昨年より1週間遅れであった。私の生れは広島県備後地区だが、入学式にはサクラが満開であったような気がするが。約70年でサクラの開花も2週間近く早くなっているのかと。北茅ヶ崎前にある「中華 のんち」は相変わらず行列。TVで放送以来いまだ毎日行列で夜の部は閉店になっている。第一カッターきいろ公園(中央公園)北側のサクラ並木。1週間前の3月30日(土)の開花はチラホラであったが満開に。第一カッターきいろ公園(中央公園)北側を西へ走る。路面にはサクラの花びらが。まだ絨毯にはなっていなかったが。満開のソメイヨシノをズームアップ。この日は風もあり花びらが散っていた。子供たちは最後の春休みを楽しんでいた。レンズの前を花びらが舞う。第一カッターきいろ公園(中央公園)には多くの人が訪れていた。この日のイベントは何であったか。ネットで調べると、4/6、7日開催 さくら祭り 今年で7回目だと!右側では、わなげ、ポップコーン、わたがしと大人も子供も楽しめるイベントを行っていた。奥にはひときわデッカイ大型遊具の「キングベルふわふわ」。”キングベルふわふわ” は湘南ベルマーレオリジナルの遊具で一日貸し切りできる。費用は約80万円?、大きさは、幅6m×奥行7m×高さ8m。公園の中央には ”やぐら” も設置されていた。ステージ上では、ライブ、ハヤシダンス、フラダンス等が行われたようだ。満開のサクラの木の下では子供連れの家族がシートを広げお花見を楽しんでいた。キングベルふわふわの中では子供達が飛び跳ねていた。盆踊りのようなやぐら、周りではいろんな出店も。多くのキッチンカーも出店。店先には長い行列。茅ヶ崎ビールも販売していた。第一カッターきいろ公園(中央公園)を後にし「旧相模川橋脚」へ向かうことに。茅ヶ崎中央通りを渡り、”さくら祭り" で賑わう第一カッターきいろ公園を振り返る。13:50途中、市役所前広場へ立ち寄る。幟旗は「茅ヶ崎カフェ」。加山雄三氏の銅像予定地に像が建ちブルーシートで覆われていた。加山雄三氏の誕生日4月11日(木)に開催される除幕式が楽しみだ。茅ヶ崎市役所入口に建つ「旧寛永寺石灯籠」。石灯籠4基の周りにはサクラが植えられている。旧寛永寺石燈籠 四基 昭和四十九年一月二十三日 茅ヶ崎市指定重要文化財 (大八木信昭・信義氏寄贈)東京都台東区上野公園内にある寛永寺に納められていた燈籠の一部が本市にもたらされたものです。寛永寺は徳川将軍家の菩提所で、各地の大名たちは、代々の将軍の供養のために、競ってこのような大きな石燈籠を寄進しました。本市では、この歴史的な建造物を重要文化財に指定し、保護しています。並んだ四基の燈籠の竿には、向かって右から、後に記した文字が刻まれています。これらの銘文から、二番目の燈籠は「嚴有院」というおくりなを付された四代将軍徳川家綱の供養のために、西暦1681年に寄進されたもので、一番目と三及び四番目の燈籠は「浚明院」のおくりなを付された十代将軍徳川家治の供養のために、西暦1786年に寄進されたものであることがわかります。満開のソメイヨシノ。市役所から国道1号(旧東海道)の自転車専用道路を西へ走る。昨日はこの道を歩いてきたが。左側は神輿を寄付したという旧家であったか。14:15旧相模川橋脚野暮用で来たが・・・・・。24時間も経つと目的のものは・・。昨日のツアーでは時間の制約があったが今日は単独でフリー。満開のサクラを見上げる。保存池の周りには日曜日で多くの人が訪れていた。サクラは満開だが風もなく花吹雪にはなっていなかった。サクラの木の下では高齢の人が集まり宴会中。ズームアップ。保存池の周りを廻り込む。保存池への水鏡を期待したが。池上に出ている橋脚はレプリカで、旧橋脚は保護ピットで覆われ地下に保存されている。青空に映えるソメイヨシノ。数日後には花びらが池面を染めるのであろう。旧相模川橋脚から国道1号を横切り小出川(東側)を上ることに。護岸に咲いていた ”オキザリス” 。オキザリスはカタバミの仲間で800~850種があり、世界に広く分布している。科名 / 属名:カタバミ科 / カタバミ属(オキザリス属)。下町屋ポンプ場横の排水溝。小出川の河川敷では菜の花が満開に、左は新湘南バイパスの茅ヶ崎西インタ出口。菜の花をズームアップ。14:30上流には新鶴嶺橋(赤橋)が映える。 ー 続く ー
2024.04.28
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サクラが散ってから約一か月、正月が明けウメ、早咲きサクラを追っている間に早5月に!今年は暖冬でサクラの開花は早いと思っていたが例年より1週間遅れで開花。日々の寒暖差が激しいのでサクラも開花を迷ったか。これも地球温暖化なのか。この日は、タウンニュースで5年ぶりに「3月31日 向田緑地で第12回桜まつり開催」とあったので開花状況を見に愛車のリンちゃんで出かけた。3月30日(土) 14:20圏央道下の西久保橋を渡りいつもの小出川の河津桜会場へ立ち寄る。この日は薄曇りで富士は見えていなかった。上流の圏央道、西久保橋を振り返る。茅ヶ崎JCT小出川の菜の花も終盤に。河津桜も終わり足元にはいろんな花が咲いていた。ズームアップ。下流側に萩園橋、その先に目的地の「向田緑地」がある。ハナニラの群生ネギ亜科ハナニラ属に属する多年草で原産地はアルゼンチン。道端や花壇に植えっぱなしにしておいても、春に藤青色からピンク、白の星形の花をよく咲かせる、非常に丈夫で手間いらずな植物です。葉や球根を傷つけると、その名のとおりネギやニラのようなにおいがします。向田緑地所在地:神奈川県茅ヶ崎市萩園小出川沿いにある小さな公園で、平成20年(2008)にNPO法人萩桜会の手によってソメイヨシノが数十本植えられ、15年も経ちサクラも巨木になっている。公園内には四阿、仮設トイレもある。明日3月31日(日)に、コロナ禍の関係で5年ぶりに開催される。ふるさとふれあい 第12回桜まつり地域の風物詩として親しまれてきたが、コロナ禍で中止が続き5年ぶりの開催となる。当日の会場では祭ばやしやフラダンス、楽器演奏、民謡、カラオケの披露が予定されているほか、焼きそば、焼き鳥、豚汁、フランクフルト、だんごやミニトマトなどが販売される。各種キッチンカーの出店もあると。上流側の萩園橋。まつりは向田緑地を主会場に萩園橋南側で開かれ、時間は午前10時から午後2時頃と。この堤はいつも走っている道である。会場には多くの幟旗が立てられていた。サクラの木にネームプレート。品 種 ソメイヨシノ (染井吉野)科 名 バラ科植栽日 平成20年3月2日管理No ・・・管理者 萩桜会会場では明日の桜まつりに向けてNPO法人萩桜会のメンバーが準備中であった。メンバーの皆さんは高齢者が主。昨年は満開であったが、肝心なサクラは ”つぼみ” 状態であった。夜桜用の提灯も用意されていた。夜桜鑑賞も良いのだが。かたいつぼみのソメイヨシノ。開花までにはまだ数日であろうか。会場の上流側を望む。サクラは咲いていないがまつりに地元民が集まり交流も大切だ。当日の会場では子供たちの祭ばやしやフラダンス、楽器演奏、民謡、カラオケの披露が予定されていると。植栽後15年ほどで幹回りも1メートル近くに成長。常備設置されている仮設トイレ。公園南側の看板には、50年先の子供達へ豊かな桜並木や自然を引き継ぐために荻園の地(小出川他)の自然や環境を守りながら、桜や萩を地域の人や次代を担う子供達と一緒に植えて、将来に誇れる自然と環境が調和した住みよい地域づくりを目指して活動を進めていきます。 ~ 萩桜会設立趣意書より抜粋 ~ 平成19年11月 茅ヶ崎市 萩桜会こちらにも看板。傍にはまだ若い ”ほうき桃” であろうか。数年後が楽しみである。花の小径 (はなのこみち)小出川に親しむ会は、2007年に植樹したこの場所を「花の小径」と名付けました。小出川が、草木も、鳥も、昆虫も、魚たちも、それぞれの生き物が共存できる環境になるように配慮した草刈り等の手入れをしております。皆様には、ご理解の上、散策を楽しんでいただければ、幸いです。 小出川に親しむ会・茅ヶ崎市・藤沢土木事務所並木になっていると見応えがあるのだが。ズームアップ。更にズームアップ。向田緑地を後にし下流へ進む。浜園橋の橋梁はまだ仮設台の上にあった。令和5年度の予算はここまでなのかと。3月初旬には既にこのような状態になっていたと思うが。小出川沿いのウメ並木を更に南下、鶴嶺通りを過ぎいつもの ”枝垂れ桜"。小出川沿いに5~6本植えられている。咲き始めであった。可憐なピンク色で好きな枝垂れ桜であるのだが木の名前は?。15:00鶴嶺通りに戻り ”鶴嶺八幡宮” へ。境内の大イチョウ(県指定天然記念物)は芽吹き前であった。境内はスルーして帰路に。15:15茅ヶ崎市役所前広場へ立ち寄る。この場所に名誉市民の加山雄三氏の銅像が建ち4月11日に除幕式が開催される。15:25第一カッターきいろ公園(中央公園)北側の道路沿いのサクラ並木。将来はこの先はJR相模線を潜る道路になるのだが。3月30日(土)の開花状況。これでは「開花宣言」になるのであろうか。ズームアップ。日々の寒暖差が激しくサクラも迷っているのではと。 END
2024.04.23
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新聞で「城山かたくりの里のカタクリ」が開花との情報を知り、久しぶりに訪れることに。いろいろと家事をしていたので出発が1時間ほど遅れ9時に愛車のノートで出かけた。3月27日(水) 9:15カーナビをセット、圏央道を利用して10時には到着と。ここ菜種梅雨で天気が不安定であったが、この日は天気が良く富士が綺麗に見えていた。3月25日の朝日新聞の朝刊から。いつもの西久保橋からの富士。圏央道高架下の県道44号線(伊勢原藤沢線)。寒川南インタから圏央道へ入る。圏央道の車窓からの富士。新東名高速道路起点の”海老名南JCT”。東名高速道路の”海老名JCT”まで、1.2km。カーナビが「東名高速道路、中央高速道路で交通事故発生で渋滞」と。海老名JCT入口。東京・名古屋方面は左側車線へ。渋滞の情報があったがこのまま圏央道を直進。海老名インタを過ぎて渋滞に。圏央厚木インタで下りることを考え車線変更したが出るにも渋滞がひどく元に戻り直進。厚木インタ高架。順調に走るが直ぐに渋滞に。本来は”相模原インタ”で出るのだが、手前の”相模原愛川インタ”で下りることに。カーナビで「この先20キロ渋滞」と。大型トラックが多く配送遅れになるのであろう。相模原愛川出口まで 700m。入口の横断幕には「圏央道 寒川北IC・高尾山IC 3月22日ETC専用化へ」と。相模原愛川 町田出口。ここで下りる車は少なくスムーズに出口へ。この先八王子方面は大渋滞。ここから20キロ近くノロノロ運転に。我慢我慢のドライバー。料金所への車線。相模川に架かる”相模川渡河橋”の橋長は420mと。ここで下りる車は少ないようでスムーズに料金所へ。9:55相模原愛川料金所料金所の先を国道129号(厚相バイパス)が横切る。既にここまで55分を要しており予定では現地へ到着しているのだが。八王子 橋本方面 国道129号へ。国道の渋滞が確認できた。1時間早く出発しておれば交通事故渋滞に遭遇しなかったのであろう。国道129号も渋滞しているので迂回ルートを考えるがカーナビ任せに。この先の”田名赤坂交差点”を斜め左方向の下九沢方面へ。田名赤坂交差点からメタセ白雨通りを走り、県道63号線の”葛輪(くずわ)交差点”と合流。県道63号線(相模原大磯線)も渋滞していた。九沢橋交差点この先の”塚場交差点”を左方向の県道508号線(厚木城山線)へ。県道508号線(厚木城山線)も渋滞していた。県道508号線を北西方向へ進み”六地蔵交差点”。カーナビの案内。この先1.7km向原交差点を右折。到着予定は10:40と。目的地まで約3キロ。11:00ようやく会場の「城山かたくりの里」へ到着。所要時間は約2時間で1時間遅れであった。城山かたくりの里 ~ 開園期間 ~ 毎年3月第2土曜日 ~ 4月第3日曜日マデ(今年は4月21日まで)所在地:神奈川県相模原市緑区川尻 4307城山かたくりの里は私有地の里山に整備された山野草園。「かながわ花の名所100選」にも選定されており、春の山野草のシーズンに限って敷地が開放されている。駐車場は満車であったが向かい側にも増設していた。駐車場は無料。既に散策を終え土産物を持って帰る人も。駐車場脇で咲いていた ”陽光桜” 。駐車場の係の方から「既に満開を過ぎた」と。ピンク色に染まった花柄、既に散ったものも。こちらには ”さんしゅゆ” が満開に。花をズームアップ。更にズームアップ。城山かたくりの里入口。幟旗には、「かながわ 花の名所100選 城山かたくりの里」と。ペットを連れての入園はご遠慮下さい。11:05種を蒔いてから八年 ~ 九年かけて花が咲きました ー 続く ー
2024.04.11
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八幡神社へ参拝後、今日最後の目的地「谷峨駅周辺」へ向かう。3月3日(日) 15:20ここ宮地交差点で国道246号と合流、ここを左折して、沼津・御殿場方面へ。国道246号の安戸交差点を右斜め方向へ進み県道76号線(山北藤野線)を走る。かつては国道246号で酒匂川に沿って崖下を走っていたがバイパスができてからは県道に格下げ。その道路脇に石碑が建っていた。石碑には「清忠の霊位に 捧ぐる供養塔 母」と。交通事故で亡くなった子への石碑であろうか。こちらにも「地蔵」が。かつての国道246号のこの辺りはカーブが多く交通量も多かったので事故多発地帯に!現在は酒匂川上にバイパスができ交通量も激減。県道76号線(山北藤野線)は再度国道246号の新鞠子橋交差点で合流。交差点を右方向の県道76号線へ進み谷峨駅方面へ。同交差点を振り返る。右方向がバイパスの東京方面。県道76号線から右斜め方向の県道728号線(谷峨停車場線)へ下る。前方にとんがり屋根の ”JR御殿場線の谷峨駅”。山の中腹には東名高速道路が走る。同場所からGoogleマップに載っていた大野山にある「ハート形の林」を見上げる。国道246号下りを走ると正面の山の斜面にハート形の部分が見えます。樹木の種類がその部分だけ違っています。紅葉の頃になるとくっきりと浮かびあがりますと。15:30JR谷峨駅に到着。ちょうど上り線が入線してきた。JR御殿場線谷峨(やが)駅所在地:神奈川県足柄上郡山北町谷ケ谷峨駅のホームは相対式2面2線。駅舎は2000年に特長のある三角屋根のものに改築され駅の特長になっている。東側の眼下には国道246号が通っていて景色の良い駅である。谷峨駅は無人駅で、ここは東名高速道路の橋などが見ることができる穴場スポットである。また、近くには大野山の登り口があり、登山客の利用が多いのも特徴であると。1907年(明治40年)開設の信号場を前身とし、付近住民の要望により1947年(昭和22年)7月に駅として開業した。開業当初は薪や炭を発送する駅としても機能していたが、現在では旅客のみを扱う小さな駅である。遅れてきた乗客が構内遮断機を揚げ乗車するまで待っていたのどかな御殿場線である。駅の北方向に東名高速道路の酒匂川橋があり、大野山の頂上に「ハート形の林」。駅前の県道728号線(谷峨停車場線)。谷峨駅は丹沢湖・中川温泉方面への玄関口であり、同方面へ向かうバスが駅前を経由している。以前は急行「あさぎり」(現「ふじさん」)の一部列車も当駅に停車していたが、1991年(平成3年)の同列車の特急格上げ以降は普通列車のみが停車している。谷峨駅の2020年の乗車人員は75人/日 (降車客含まず)。谷峨第一歩道橋駅前から県道728号線を北上、県道76号線との ”上開戸交差点” に架かる歩道橋である。県道728号線(谷峨停車場線)は、わずか数百メートルの短い路線であるようだ。歩道橋の向こうに東名高速道路の酒匂川橋の橋脚。上開戸交差点から県道76号線を北上、途中で折り返す。東側が絶景であったので歩道橋手前の道路脇に車を停める。東側には東名高速道路の下り線で補強工事中の ”酒匂川橋”。東京電力リニューアブルパワー嵐発電所所在地:神奈川県足柄上郡山北町湯触河内川(こうちがわ)の三保ダムから約5kmの導水路で結ばれている嵐発電所。酒匂川の川沿いにあり、大正9年(1920)8月に運転開始。Googleマップで見ると山の中腹に池があった。所有者は当初、富士瓦斯紡績株式会社?。昭和26 (1951) 年5月1日:電気事業再編成令により所有者変更(東京電力)令和 2 (2020) 年4月1日:組織変更(東京電力リニューアブルパワー)。道路は県道727号線(川西線)。山北発電所 取水えん堤所在地:神奈川県足柄上郡山北町川西178嵐発電所の更に下流側にある設備で、下流の山北発電所へ送水する為の取水えん堤である。”山北発電所 取水えん堤” 上の斜面にも道がありいつか走りたいと。酒匂川沿いには水田も広がる。向かい側からの光景も。東名高速道路の ”都夫良野(つぶらの)トンネル” の入口をズームアップ。この後近くにある「円通寺」へ向かうことに。カーナビの案内で県道76号線(山北藤野線)を右折、生活道路で道幅が狭く脱輪に注意。途中で引返し、円通寺の入口に石碑を見つける。Googleマップで「道路が狭い」と書き込んだところ、お寺から丁寧に返信があり「普通車は厳しいので県道沿いに第三駐車場があります」と。再度参拝することに。上開戸交差点の西側にあったようだ。県道に戻り右折、帰路につく。県道76号線(山北藤野線)を山北方面へ、この先を左折すると谷峨駅へ。右側の建屋の傍に、谷ケ関所跡徳川幕府は、江戸の守りを固めるため、江戸への「入り鉄砲」「出女」の監視に、全国の重要な街道に関所を設けた。なかでも東海道の箱根関所は、「重キ関所」として脇街道にも根府川関所・仙石原関所・矢倉沢関所・川村関所(山北町台)・谷ケ関所の五つの関所が設けられていた。その一つが当関所であり、設けられた年代は不詳。天保十二年(1841)幕府によって編纂された新編相模国風土記稿によれば、平山村に「東西に亘りて谷ケ御関所道係れり・巾八尺許」谷ケ村には、「東西より西に亘りて往還あり、巾八尺許・是小田原より村内御関所を経て、駿州御厨辺(御殿場市)に到る裏道なり、西方駿州駿東郡小山村に達す」と記載され、往時は小田原から甲州道を南足柄市怒田で分かれ内山村、平山村、谷ケ村へと酒匂川の右岸に道が設けられていた。この関所は前に酒匂川の急流が流れ、背後には小里山の裾が酒匂川にせまる難所で、小田原藩領内の主要な交通路となっていた。また、関所の構えも「構内方十間(18米×18米)で番頭一人、常番二人、軽率一人を置て警衛す」と記され、他国のものは一切通さない関所で厳重に固められていた。しかし、近隣住民の往来については、暮れ六ツ(午後六時)の閉門後は関所の裏山が通れたようである。関所は、小田原藩の預かりであったが、谷ケ村は御関所守村で柵木の修理などのほか、平山村、内山村と共に関所見廻り人足の差し出しなどの負担を定められ、明治二年の関所制度廃止まで続いていた。 平成八年十月 山北町教育委員会説明板の前から県道76号線(山北藤野線)を振り返る。大野山の頂にある「ハート形の林」をズームアップ。JR御殿場線を挟んで東側を国道246号(山北バイパス)が走るので、県道は生活道路になっており交通量がめっぽう少なく、滞在中は一台も通過しなかった。タワークレーンが並ぶ ”河内川 (こうちがわ) 橋” の架橋工事現場をズームアップ。。帰路につき、県道76号線(山北藤野線)から新鞠子橋交差点へ。ここを直進し国道246号を走る。国道246号を走り「農産物直販加工所とれたて山ちゃん」。所在地:神奈川県足柄上郡山北町向原1823-1お土産購入で立ち寄るが、時間は16時でちょうど閉店に。16:25かつや 大井松田店所在地:神奈川県足柄上郡大井町金子1636-1国道255号が大井松田インタ辺りから渋滞、お昼をとっていなかったので立ち寄る。豚汁付きの定食を食べる、具たくさんの豚汁が美味しかった。カーナビの案内で国道1号の国府津辺りが渋滞していたので途中左折して山間部を走り、西湘二宮インタから西湘バイパスを走り茅ヶ崎へ。17:55茅ヶ崎に戻り、いつもの石原橋からの左富士。既に日の入りは過ぎていたが富士山が綺麗に見えていた。この日も1万歩近く歩きよい疲れに。次回はさくらの咲く時期に訪れたい。 END
2024.03.20
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河村城跡の散策後、県道74号線(小田原山北線)へ下り、山北駅方向へ進む。3月3日(日) 15:00県道74号線(小田原山北線)へ下り左折すると直ぐ前方に大きな巨木が目に。巨木の下に鳥居があり立ち寄ることに。通り過ぎ左に入り車を停め散策。神社境内への坂道へ車を停める。振り返ると、菜の花に囲まれた石灯籠。石燈籠には「秋葉山常夜燈」と彫られていた。傍に石碑が立っていたが字は風化して判読できなかった。県道沿いに社務所があったが。神社下の富士急バス停は「川村小学校入口」と。県道を戻ると巨木が聳えていた。この先数百メートルが「河村城跡」への入り口。八幡神社 (山北町岸)所在地:神奈川県足柄上郡山北町岸1900神社下に聳える巨木の ”くすのき” 。山北町指定天然記念物 八幡神社のくすのき山北町指定天然記念物 八幡神社のくすのき 昭和五十九年二月一日指定くすのき (樟・楠) は、クスノキ科の常緑高木、関東以南の暖地に産し、五月頃白色の小花をつける。材は堅く、独特な薫りがあり、樟脳や樟脳油がとれ、建築材や船材としても使われる。八幡神社のくすのきは樹高約20メートル、根廻り7.2メートル、樹齢300年(推定)である。その姿は根本から約6メートルのところで大きく二つの幹に分かれ、しかも斜めに張り出した巨木でその葉は幹がかくれる程茂っていて樹勢は旺盛である。又、根元の子枝は関東大震災 (大正十二年九月一日) によって根本がさけて、その先端から生じたもので学術的にも貴重な現象である。郷土の貴重な天然記念物として、指定し、保護するものである。 昭和六十三年六 山北町教育委員会左側には、「定 一、車馬を乗入れる 一、鳥獣を捕える 一、竹木を伐る 右境内に於て禁ず 神社本庁」と。」一段上がった場所に石鳥居が建っていた。左下には水鉢も。鳥居の扁額「○○○○」。右側の狛犬の下の座に字が彫られていたが「?」。右側の紅白の注連縄で飾られた狛犬。この動物は?左側にも同じように字が彫られていたが。左側の狛犬も同じように飾られていた。再度、右側の狛犬を見る。階段の途中で見下ろす。階段横の茂みに箱が積まれていた。日本蜜蜂の箱であろうか。階段を上ると広い境内に八幡神社の社殿。祭神は一般的な八幡宮の祭神とは異なっており、明治以降に村の天満宮や諏訪神社、稲荷神社、浅間神社、八坂神社等が合祀されたようだと。拝殿の扁額「正八幡大神」。境内では秋には菊まつりが行われ菊の販売をしていると。右側が県道から境内への坂道。境内への入口に建つ石碑。石碑には「神徳維馨」。大正15年(1926年)の銘、字は風化して判読できなかった。八幡神社由緒祭 神 應神天皇相 殿 菅原道真公、倉稲魂命、素戔嗚命、大己貴命、大山祇命、月夜見命、大山咋命、 天兒屋根命、建御名方命、木花咲耶姫命、大日孁貴命、白山彦命、白山姫命縁起由緒『新編相模国風土記稿』(1841年) によれば、八幡宮は「村の鎮守、本地仏、三尊弥陀を安ず。三年に一度、祭祀を行う。祭日は八月十五日。往古は城山に在した、後年この地、日月宮の社地に遷せりなり」と云う。加えて「般若院智積寺」の所有する貞享二年(1685年) 当代十一代傳栄和尚の筆による縁起より抜粋すれば「河村岸の鎮守正八幡大菩薩は、往古、河村、城山の城主河村秀高公が城内に建立せられ、建立の年代は不詳なれども、秀高公開基菩提寺般若院智積寺の建立が高倉天皇 (1161~1181年) の御宇承安二年 (1172年) なる故、同年代を遠く離るるに非ず。その後、正平八年四月一日 (1353年)、河村城落城するや、岸湯坂梵天山山下に遷し、更にその後、現在地字岸西谷戸、日月宮の社地に遷し奉り村の鎮守の宮として村人の崇敬する所となれり」とある。 祭 事 元旦祭 一月 一日 祈念祭 二月第一日曜日 例大祭 四月第一日曜日 臨時祭 七月第二日曜日 新嘗祭 十一月第三日曜日 天長祭 天皇誕生日 大祓祭 十二月第三日曜日拝殿の右側に廻り込む。一段高い本殿の右側に石祠。こちらにも石碑。石碑には「天明四年甲辰 奉納諏訪大明神」と。坂を登ると先端を切られたイチョウの木、「八幡神社縁起由緒」、石碑が建っていた。石碑には、「御大典記念 一金壹百圓也 永代燈明料 寄附者 大正四年十一月十日 當村 湯川亀吉」と。境内の西側に、神楽殿、一段高いところに神輿殿であろうか。扁額がなかったが神輿殿であろうか。境内の西側から。境内の隅に建っていた石碑。境内の南側。県道から階段を上り。拝殿は赤く塗られているのでトタン屋根。本殿は銅葺き屋根であろう。本殿左側に石灯籠。15:15境内から下り、県道の東側にプールがあった。山北町立川村小学校は少し離れた北側にあったが小学校のプールであろうか。 ー 続く ー
2024.03.19
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河村城跡の散策を続ける。3月3日(日) 14:30蔵郭から堀切(薬研堀)に架かる木橋を渡り本城郭へ。矢羽根に「 ← 馬出郭、本城郭、蔵郭 → 」と。本城郭から木橋、蔵郭を振り返る。本城郭の東側から、蔵郭との堀切(薬研堀)に架かる木橋を望む。堀切 (ほりきり)本城郭と蔵郭の間にある幅20m、深さ8m、堀底の幅50cmの傾斜の急な堀切です。発掘調査では堀底を含め5回の造り直しを確認しました。橋脚の跡は、堀切内の平らな造成面で発見され、それよりも古い傾斜のある時期の橋脚跡は不明です。堀切で発見された橋の跡堀切内からは4本の柱穴が見つかり、その位置を柱状のコンクリートで示しています。橋脚の幅は4m、堀をまたぐ柱の間は8mあり、柱穴に残った炭化した柱の炭素による年代測定(AMS法)では、400年ほど前に伐採した木材であることがわかりました。木橋 (もっきょう)木橋は城跡全体の維持管理のために架けた現代の橋ですが、当時の橋の様子を想わせる整備を行っています。幅2.5m、長さ24m、高さは3.3mあります。橋の手すりは神奈川県のヒノキ、橋脚や床板は国外の硬い樹木を利用しています。 山北町教育委員会 2006 本城郭の前方に山北駅への下山口。山北駅からの本城郭入口に立つ観光案内板。前回はこの坂を登って来たのだ。本城郭に建つ冠木門。木の間から山北町を見下ろす。本城郭の北側に祠、左に石碑。石碑には「河村城址碑」と。天気が良ければ後方に富士山が見えるのだが。祠の裏に廻り込む。祠の裏から、北側の手前に「小郭」、その奥に「茶臼郭」を見下ろす。それぞれの郭との間には堀切(障子堀)。右下を下って山北駅へ約20分ほどかかる。奥の ”茶臼郭” をズームアップ。本城郭の一番北側に石碑があり字が彫られていた。畝 堀字の彫り込みが浅く判読できなかった。 山北町右側の山の上に ”㈱トヤマの本社工場” 。㈱トヤマからは、南に足柄平野、北に東名高速、西には富士山が見え絶景では。現代の城主気分になるのではと。祠前から南側の本城郭を望む。冠木門を入ると6枚の説明板。それぞれに字が彫られていたが汚れで見ずらかった。右側の2枚河村城跡河村城跡が位置するこの地は、城山と呼ばれ、北を旧皆瀬川、南を酒匂川によって周辺山地と分断された自然の要害とも言うべき地形となっている。城山の標高は約225メートルで、酒匂川との比高差は約130メートルを測り、東へ浅間山・丸山と連なる独立丘陵状をなしている。河村城の周辺では、相模・甲斐・駿河三国の境界線が交錯することから、数多くの城砦群が築かれている。甲斐から城ヶ尾峠を越えると湯ノ沢城・中川城・大仏城山・新城・鐘ヶ塚砦が、駿河から箱根山地・足柄峠の尾根筋を下ると足柄城・阿弥陀尾砦・浜居場城があり、さらに足柄平野縁辺部には松田城・沼田城などがあるが、なかでも河村城は甲斐・駿河から足柄平野に至る交通の要衝に位置している。河村城の築城は古く、平安時代末期に秀郷流藤原氏の一族波多野遠義の二男河村秀高によって築かれたと伝えられている。秀高の子義秀は、源頼朝の石橋山挙兵の際、平氏方に属したため領地を没収されるが、建久元年(1190)鎌倉での流鏑馬の妙技により、本領河村郷に復帰できたと『吾妻鏡』にある。町指定無形文化財「室生神社流鏑馬」はこれに由来すると言われている。建武の中典・南北朝時代と河村氏は松田氏とともに南朝側の新田氏に協力し活躍するが、北朝側の足利尊氏らによって鎌倉が攻められると、河村秀圀・秀経らは新田義典・脇屋義治とともに河村城に籠城する。正平七~八年(1352~53)にかけて、畠山国清を主将とする足利尊氏軍と戦火を交えるが、南原の戦いで敗れ、新田・脇屋らに中川城を経て甲州に逃がれたと「太平記」にある。中央の2枚当時の河村城については、「菅領記」に「山嶮にして苔滑らかに人馬に足の立つべき処もなし」とあるように、難攻不落の堅城であったことがうかがえる。また、篭城戦の様子については、河村氏の菩提寺とされている岸の般若院所蔵の『梅風記』(写) に詳しい。南原の戦い後、河村城は畠山国清・関東管領上杉憲実を経て大森氏の持城となったと考えられ、その後相模に進出してきた小田原北条氏に受け継がれていく。戦国時代、小田原北条氏は武田氏との攻防から、前記の名城とともに小田原城の支城として河村城を重視し、特に元亀年間には河村城の補強を行ったことが『相州古文書』に見られる。その後、武田氏との間で周辺の諸城とともに争奪戦を繰り返し、天正十八年(1590)豊臣秀吉の小田原征伐で落城、廃城になったと考えられるが、これらを伝える史料は残っていない。河村城の規模・郭配置については、『新編相模風土記稿』及び堂山の鈴木友徳氏所蔵絵図に見ることができるが、遺跡の保存状態が良いため現地でも概略の位置は確認できる。各郭の名称は、絵図を参考に付けたものであるが、記載のないものなどについては、調査・研究等に使われている名称を便宜上使用している。河村城は、急な斜面と入り組んだ谷を持つ地形を充分に生かした郭配置がなされており、大きく三つの尾根を堀切によって郭としている。現在地を本城郭とし、東の浅間山に連なる尾根に蔵郭・近藤郭・大庭郭・同張出部を配しており、絵図によっては張出部の南端を大手としている。本城郭から北へ伸びる尾根には小郭・茶臼郭を配し、西へ伸びる尾根には馬出郭・西郭・北郭・同張出部を配し大久保平へと続いている。郭の周囲には → 左のプレートへ左の2枚(右側のプレートは汚れて判読できず)。水郭・・・・・・・本城郭と北郭の間に馬洗場、小郭と茶臼郭の間・・・井戸の伝承地があり、湧水があったと考えられる。平成二年の本城郭及び堀切〇ヶ所の試掘調査では、本城郭から柱〇と〇○○○○○○が検出され、古銭 (〇○○○○) ・〇付陶磁器などの遺物〇出土している。〇○○の覆土にはいずれも〇〇・炭化物が・・・・・プレートが汚れて判読できず。一辺約十五メートルの三角形状を呈し、縁辺には地山を削り出して低い土塁が設けられており、南・北端には「つぶて石」に利用したと考えられる拳大ほどの河原石の溜場が検出されている。郭全体には焼土・炭化物の薄層が覆っており、焼失した可能性があるが、ピットは四個確認できただけで建物の存在を示唆するまでには至っていない。また、平成五年の河村城の根小屋とされる岸湯坂地区の土佐屋敷・秀清屋敷伝承地の試掘調査では、室町時代から戦国時代にかけての館跡と思われる溝が一部確認されており、当時すでに館・詰めの城の関係が成立していた可能性がある。 山北町本城郭下に「水飲・WC」があったので立ち寄ることに。本城郭下にある「水飲・WC」場。トイレ横から「木橋 (もっきょう)」を見上げる。本城郭に戻り、”馬出郭” 方向を望む。河村城跡のプレートの左に立つ案内板には、「↑泗水の滝方面、← 東山北駅方面」。本城郭の南側に建つ案内板には「泗水の滝 1時間5分」と。本城郭と蔵郭にある堀切。本城郭の南側から北側を望む。本城郭が荒らされていた。イノシシが荒らした後であろうか。蔵郭から近藤郭越しに大庭郭に建つ四阿を望む。蔵郭から下り、堀切に立つ。堀切 (ほりきり)河村城最大の堀切です。その規模は、幅約25m、深さ約12m、斜度約50度を測ります。蔵郭と近藤郭を仕切る自然地形の谷を利用して、敵の侵入を防ぐために造られました。堀底には移動を制限するため高さ2mほどの衝立(堀障子)が設けられています。こうした構造の堀は障子堀と呼ばれ、小田原北条氏が得意とした造り方です。本城郭と茶臼郭の間や近藤郭の空堀も同様の構造です。写真の堀の中に白く筋状に見えるのは、廃城後に畑地に転用された際の畝に宝永火山灰が堆積した状況です。※ 写真は2007(平成19)年度の発掘調査の様子です。現状は厚さ約2mの盛土保存をしています。堀切の障子堀。堀切から上がり大庭郭へ。案内の矢羽根。大庭郭の東側から足柄平野、相模湾を見下ろす。休憩用のベンチが設けられていた。説明板には足柄平野の写真。右側には「⑬ 岩原城跡、⑭ 沼田城跡、丘の向こうに小田原城跡」と。南北朝時代の記録にも残る河村城は、戦国時代には小田原北条氏の出城でした。地理的に、北の甲斐国、西の駿河国から足柄平野に至る北東端の入口部分に当たり、戦略上、重要な城であったと考えられます。現在の御殿場線辺りを江戸時代中ごろまで流れていた皆瀬川と、南の酒匂川とに挟まれた標高約225mの独立丘陵上に自然地形を活かし、郭や堀切を配した山城です。< 周辺の小田原北条氏の出城 >① 湯ノ沢城跡、② 中川城跡、③ 大仏城山、④ 河村新城跡、⑤ 鐘ヶ塚砦跡、⑥ 河村城跡⑦ 松田城跡、⑧ 丹土尾砦跡、⑨ 阿弥陀尾砦跡、⑩ 小楢尾砦跡、⑪ 足柄城跡、⑫ 浜居場城跡⑬ 岩原城跡、⑭ 沼田城跡再度、足柄平野を見下ろす。集合住宅のビルは足柄平野の開成駅あたりか。”大庭郭張出大手”から駐車場がある”馬違戸”を見下ろす。14:55約40分間の散策を終え駐車場へ戻る。 ー 続く ー
2024.03.18
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二度目の河村城跡へ上る。前回は2017年(平成29年)12月15日(木)に登城。3月3日(日) 14:15三差路から上り、北東方向に山北町が見えていたので再度車を停め見下ろす。右上の山に以前から気になっている「TOYAMA」の建屋。株式会社トヤマ 本社工場所在地:神奈川県足柄上郡山北町岸 3816-1電子機器等の最先端科学技術研究開発用途実験装置・機器の設計・製作を行なっている。山北町の後方に東名高速道路、その奥に工事中の新東名高速道路。酒匂川の下流側を望む。酒匂川は大きく右に曲がり足柄平野へと流れる。左側の斜面に河津桜が咲く、”松田町の西平畑公園のハーブ館”。JR御殿場線を見下ろす。14:20河村城跡所在地:神奈川県足柄上郡山北町岸 3549河村城跡の東側にある駐車場。神奈川県指定史跡 河村城跡 案内図河村城は、当時この地域を支配していた河村氏が山頂に砦のような施設を築いたことが始まりといわれており、南北朝時代の文献に「河村城」の記載があります。浅間山に連なる丘陵の山頂にある河村城は、戦国時代に小田原北条氏の出城として築城されました。河村城址歴史公園では、その時代の復元的整備を行っています。河村城は「山城」という種類の城で、現在の小田原城にあるような天守閣や石垣、水堀からなる平地に造られた城とは異なります。山城とは、山岳部の地形の特性を活かした平坦な郭や急斜な堀などにより、敵に攻められにくいように造られた城のことです。普段人々は、山の麓の平坦地で生活し、戦時には山城に集結して戦闘に備えていました。 山北町教育委員会右側が現在地前回は北側の山北駅側から登った。今回は東側から車で上って来た。1⃣ 茶臼郭周辺 (東から)2⃣ 堀切の土層堆積 (北から)3⃣ 蔵郭の竪穴状遺構 (南から)4⃣ 堀切:障子堀 (北東から)5⃣ 近藤郭 (北東から)※ 1⃣ ~ 6⃣ は発掘調査時に撮影した写真です。6⃣ 大庭郭の宝永火山灰 天地返し跡 (南から)A 森林セラピーロード (南から)B 茶臼郭 ~ 小郭の現況 (北から)C 復元した堀切木橋 (南から)※ 1⃣ ~ 6⃣ は発掘調査時に撮影した写真です。駐車場の東側にトイレ施設がある。堀切の場所を一部埋立ててスロープに。右側に「神奈川県指定史跡 河村城跡」、左側に「河村城址歴史公園」と。”大庭郭張出大手”から駐車場がある”馬違戸”を見下ろす。大庭郭張出大手と馬違戸の間には深い堀切がある。大庭郭張出に咲く菜の花。菜の花は一度植えると種が飛び散り毎年咲き乱れるのでは。大庭郭の下を”多地屋敷”へ。通路にはチップが敷かれており歩きやすかった。大庭郭の北側にある”多地屋敷”から東名高速道路を見下ろす。菜の花が咲き乱れている多地屋敷から北東方向を見下ろす。右上には ”㈱トヤマの本社工場” 。新東名高速道路の工事現場をズームアップ。工事現場は松田町寄萱沼入口からの高松トンネルの御殿場側出口であろう。大庭郭南東方向に足柄平野、遠く相模湾が見える絶景ポイントである。大庭郭の東側は発掘調査で ”6⃣ 大庭郭の宝永火山灰 天地返し跡” が見つかっている。大庭郭に建つ四阿。2階ステージには貸出しの双眼鏡があった。1階にはテーブル・椅子も設置されていた。四阿から見下ろす。足柄平野の先に相模湾が見える絶景ポイントである。テーブルがありハイキングを楽しむ人も休憩、足柄平野を見下ろしていた。西側には ”近藤郭” 。新東名高速道路の工事現場を再度見下ろす。この区間は難工事区間で何度も完成時期が遅れており、3年後の2027年度中に開通予定と。大庭郭から近藤郭を見る。近藤郭の縁石ベンチは発掘調査で見つかった竪堀と空堀の跡を示しています。竪 堀[幅:約14m、深さ:3m以上、斜度:約50度] 山の斜面に上下方向に設けた堀で敵が横に移動することを制限します。ただし、見つかった 竪堀は大井戸の可能性もあります。空 堀[幅:約12m、深さ:3.5m以上、斜度:40~55度] 郭内での敵の移動を制限するために設けます。また、堀の中での敵の移動を制限するために 堀障子を設けています。堀障子を持つ堀を障子堀と言い、小田原北条氏の特徴的な堀の作り 方です。河村城跡では本城郭 ~ 茶臼郭、蔵郭-近藤郭間など複数個所に障子堀があります。右上の写真:堀跡の中には1707年富士山宝永噴火の火山灰が堆積していました。右下の写真:平成20年度発掘調査の様子大庭郭の四阿を振り返る。近藤郭から蔵郭への遊歩道。この場所は ”堀切(障子堀)" で、約2メートル幅ほどの遊歩道を造っている。遊歩道から右側に ”近藤郭” 、奥に大庭郭の ”四阿” が見える。深い ”堀切(障子堀)" に造られた遊歩道。堀切の遊歩道を渡り ”蔵郭” へ。蔵郭 (くらぐるわ)東西約70m、南北約30mの長楕円形の郭で西に本城郭、東に近藤郭があります。北側は丸い尾根に3段の平場が続く郭です。南側は急な谷間で、郭の東西には自然地形を利用した堀切を築いています。近藤郭との間の堀切は東西24m、南北60m、深さ12mの河村城最大の堀切です。蔵郭で発見された城の施設跡建物跡蔵郭の中央東側にあります。径6mの方形で、深さは約50cmあります。竪穴からは直径10cm~30cmの焼けた石、中国産の青磁の皿や碗、東海地方の陶器、かわらけ、鉄釘、炭化したイネやオオムギの果実、土壁状の塊が出土しました。これらの発見は、建物跡と蔵(穀物を貯蔵した土蔵)の密接な関係を表しているのかもしれません。また、蔵郭の中央では、建物の柱穴なども見つかっています。配石土坑蔵郭の東側で、中から大きい石が数多く見つかった長方形の穴(配石土坑)が、常滑(現愛知県常滑市)産の甕とともに発見されています。その他、周辺からは信楽(現滋賀県甲賀市)系壺・常滑系擂鉢片・かわらけの破片が出土しています。 山北町教育委員会 2006県指定史跡 河村城跡案内図河村城は中世山城の全容を残しています。城は自然地形を利用し、尾根の高い部分を削り、その土で低い部分を埋めて「郭」と呼ぶ平場を造成します。また、谷や崖面を利用して堀とし、外敵の侵攻をさえぎるため、尾根を人工的に切断して堀とした「堀切」を造り、郭の間を隔てる防御態勢を整えました。河村城の郭や堀切の平面配置を示す「縄張り」は約300年前の絵図を参考にしています。 山北町教育委員会 2006 14:30蔵郭から本城郭への堀切(薬研堀)の上に架かる遊歩道。 ー 続く ー
2024.03.17
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大口広場の駐車場に車を停め近くにあった神社へ参拝。3月3日(日) 13:50福澤神社所在地:神奈川県南足柄市怒田1912県道720号線(怒田開成小田原線)に鎮座する神社。福沢神社は明治時代に福沢諭吉先生に因み、町村合併の際にこの地区が福沢村となり、地区にある神社が合併福沢神社となったと。玉垣に「福澤神社」と。石柱には「奉納 福沢神社改築移転落成記念」と。福沢神社は、酒匂川の洪水で決壊した文命堤を修復する際、田中丘隅が中国の治水の神とも言われる禹(称号は文命)を祀った文命宮を作って享保11年(1726)に創建、班目・千津島・壗下・竹松・和田河原の鎮守として祀られてきました。明治時代後期の神社整理令により明治43年近隣の諸社を合祀、村名「福沢」より福沢神社と改称しています。手前は大口土手下の村々の地元民が寄進したと伝わる「水鉢」。境内に聳える二本のイチョウの木。鳥居を潜り境内に入ると右側に ”文命堤築堤関係” の石碑群。文命堤築堤時関係資料次のものは、文命堤及びその築堤に功績ある田中丘隅(休愚)と関係深い資料であり、酒匂川の治水の歴史を後世に伝える歴史資料です。五基・一体・一旈が市指定文化財に指定されています。1、文命宮祠 丘隅によって建立されました。古文書や岩流瀬にある文命西堤の祠を参考に台石・蓋石・ 笠石は推定復元されています。2、文命東堤前碑 文命堤の由来や祭礼の創始などが刻まれています。丘隅が起こした文章は大岡忠相、八代 将軍徳川吉宗に回覧され、荻生徂徠が添削しました。3、文命東堤後碑 (旧碑) 徂徠が添削する前の、丘隅の原文が記されていると伝わります。4、文命大明神御寶前 丘隅の娘婿である已野庄次郎(蓑笠之助)ら九名の土木技術者たちの名が記されています。5、水鉢 大口土手下の村々の地元民が寄進したと伝わります。6、大口川丈地蔵尊 丘隅が酒匂川治水を祈願して大口・岩流瀬・吉田島・金手・多古・飯泉に建立した六地蔵 の一つと伝わります。7、文命幟 祭礼時に掲げるために丘隅から下賜されたと伝わる幟です。 令和元年八月 南足柄市教育委員会上記 1 ~ 6 の石碑、地蔵尊、水鉢とその配置図。※ 福澤神社内にあった文命堤に関係した石造物群は、社殿の移転に伴って 平成21年3月に1ヶ所にまとめて設置されました。福澤神社社殿祭 神:天照皇大神、牛頭天王、外 7柱祭 日:5月5日右側の狛犬/阿形像。左側の狛犬/吽形像。拝殿の彫り物。福澤神社社殿移築完成記念趣 旨「福澤神社」は、明治42年(1909)に福澤村内の11神社を文命社に合祀し、文命堤内地に建立され、本年は百周年にあたる。また、文命堤は昭和41年(1966)に南足柄市文化財に指定された。近年福澤神社は、老朽化が進みその対策が急務となっていた。一方、神社周辺の道路は狭く周辺地区からの増加にともない県道怒田・開成・小田原線の道路拡幅整備が計画され、道路の一部が神社内にかかり、社殿及び石造物群の移転問題が発生した。平成14年度(2002)に福澤神社総代会は、このような事態に対応するために「道路拡幅にともなう神社老朽化、石造物群移転、土地問題等」ついて検討することを決議し、「福澤神社検討委員会」を設立し、社殿の老朽化対策の検討を始めた。福澤神社検討委員会は、平成14年度(2002)~平成18年度(2006)の5年間に亘ってこの問題を討議し、文化財的な価値を有する神社建築物等の老朽化対策上から神社土地及び建築物や石造物群等の恒久的な保存に十分配慮し、損失補償等を関係者と計画的かつ重点的に検討し、道路拡幅整備計画に対する神社がとるべき方向について答申した。平成19年度(2007)に福澤神社総代会は、「福澤神社建設委員会」を設立し、6名が共有の社殿敷地の寄贈、境内地に存在する国有地の払い下げおよび公道の処理を行った。公道の処理は、上怒田・班目自治会の協力による代替処理を行なった。また、高橋俊行氏からの一部私有地の寄贈等により、社殿の移築先用地が確保された。平成20年(2008)8月から社殿移築を開始し、平成21年(2009)3月に社殿移築工事が完成した。設計・管理・監督は中津川建設設計コンサルタントに委託した。社殿の移築工事は瀬戸建設㈱、外構工事は地元の㈱永田組・㈲石塚石材・㈱川上建設、水道工事は㈲石澤設備工業が請負った。また、神輿は㈱日本木工振興が復元した。境内地の北西に位置する田中丘隅(きゅうぐ)が建立した石造物群は、市教育委員会・市文化財保護委員会・足柄史談会等の協力を得て、境内地北東側に移転した。石造物群の調査時に文命宮祀とみられる一部が見つかり、台座石および笠石が不明のため文命西堤の文命宮を参考に台座石と笠石を復元した。ここに、福澤神社の社殿移築の完成により、氏子中の安寧と安全を祈願し、福澤神社の移築に携わった各位を記し、記念版を奉納する。 平成21年4月吉日 福澤神社 建設委員会 右側には、各会の氏名が刻印福澤神社総代会 (平成14 ~ 21年度)福澤神社検討委員会 (平成14 ~ 18年度)福澤神社建設委員会 (平成19 ~ 21年度) 社殿前から東側の境内地。南側には境内地からの門があったが。境内地から酒匂川の向かい側の壁面に「大山豆腐」とあるが、旧大山豆腐山北工場。アーチは新大口橋。道路標識をズームアップ。新大口橋を渡ると山北町に。東京電力リニューアブルパワー 福沢第一発電所所在地:神奈川県南足柄市小市1昭和6年(1931)3月に運用開始した一般水力発電所。出力は最大 1460kW、常時 860kW。標柱には「福澤第壹発電所」と。福沢第一発電所を見下ろすが工事中であったか。福沢第一発電所の門柱。福澤神社前から大口広場駐車場を望む。サクラが咲くとまた違った光景になるのであろう。サクラの木にジョウビタキの雄が止まっていた。ズームアップ。我が家の庭にも飛来する野鳥だがそれぞれ縄張りが。13:55大口広場を後にし目的地の「山北町の谷峨 (やが)」地区へ向かう。新大口橋交差点県道720号線(怒田開成小田原線)を進み、県道74号線(小田原山北線)と合流する交差点。酒匂川に架かる新大口橋を渡り、左方向の県道74号線(小田原山北線)へ。県道74号線(小田原山北線)沿いに立つ木製の ”護美地蔵 安全祈願” 。酒匂川に架かる “岩流瀬(がらぜ)橋” の西側は南足柄市。昭和62年に建設された道路橋で、親柱に酒匂川を泳ぐアユを、高欄には市の花であるリンドウと、市の木であるサザンカのレリーフを取り付けている。かながわの橋100選に選ばれている。構造は、3径間連続鋼鈑桁橋で、橋長は163m。岩流瀬橋の山北町側(東側)の謎のモニュメント。岩流瀬橋の上下流は文命堤の治水事業で流れが変わっている。橋の上から見るべきであったが不勉強で未撮影、またいつか取材に。岩流瀬橋から県道74号線(小田原山北線)を進み、道路脇に「河村城跡入口」の案内板を見つけ、時間があったので立ち寄ることに。河村城跡には既に登城しているがこちら側からは登っていない。入口に立っていた石造群。石碑には字が彫られていたが判読できなかった。説明板も無かったので詳細は不祥。双体道祖神、笠付きの墓塔もあった。やまきたまちのおすいマンホール蓋富士山と丹沢湖に架かる永歳橋をデザイン。「やまきたまち」「おすい」の文字。県道74号線(小田原山北線)から左折して農道を登り三差路へ。三差路に立っていた案内板。さわやかな風がふきぬけるきらめきと交流の町 やまきた観光案内河村館跡河村館跡は山城である河村城の根小屋(普段生活する場所)だと考えられます。河村館跡と称される遺跡の範囲は酒匂川河岸段丘上の岸・湯坂地区一帯に広がり、江戸時代の絵図には「秀清屋敷」「土佐屋敷」「内記屋敷」などの記載があります。これまで、部分的に発掘調査が行われ、東西250m、南北150mに及ぶ居館を方形に囲むと想定される溝が見つかりました。また、区画の内部からは建物跡なども見つかりました。出土遺物から室町時代後半、十五世紀から十六世紀頃の跡だと考えられています。平安時代後期、平将門の乱鎮圧に功績のあった藤原秀郷を祖とし、秦野地方を支配していた、波多野遠義の次男、秀高が当時の山北の地名であった「河村郷」から名前をとり、「河村秀高」と名乗ったことが、河村氏の始まりだと言われています。秀高の子、義秀は石橋山の合戦で平氏側につき、勝利しましたが、その後、平氏が源氏に敗れたため、河村氏は領地を没収されました。しかし、1190(建久元)年、鶴岡八幡宮例祭において、義秀は源頼朝の前で流鏑馬を披露し、領地復帰を許されたと『吾妻鏡』に記されています。1333(元弘3)年、足利尊氏が鎌倉幕府に反すると、河村氏は新田義貞に従い、倒幕に加わりました。翌1334(建武元)年、後醍醐天皇による建武の新政が始まりますが、足利尊氏らの北朝方と新田義興らの南朝方の争いが激しくなる中、1352(正平7)年、新田義興、脇屋義治の軍勢が、河村氏の勧めにより河村城に籠城しますが、翌1353(正平8)年には、河村城から退去したことが『太平記』に記されています。 山北町教育委員会分岐を右方向へ上ると「ビュースポット」の看板があり停車、南東方向を見下ろす。足柄平野をズームアップ。14:10道路脇の菜の花が満開に。 ー 続く ー
2024.03.16
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あしがり郷 瀬戸屋敷のひなまつりを約1時間散策。この後、瀬戸屋敷の裏手徒歩1分にある、関東大震災にも耐えた『古民家ガーデン紋蔵』を訪ねることに。3月3日(日) 13:05”古民家ガーデン 紋蔵” の案内板。休憩所としてご利用できます。 ● ペット同伴可能 ● 開成町赤ちゃんの駅 おむつ交換・授乳できます駐車場を抜けると『NPO法人 すずろ 古民家ガーデン紋蔵』の案内板。のぼり旗に「着物・帯・和物 リメイク材料専門店」と。古民家ガーデン紋蔵所在地:神奈川県足柄上郡開成町金井島 1294古民家ガーデン紋蔵は、穏やかな時の流れと優しさに包まれた藁葺き屋根の古民家で営む、リメイク&リユース着物材料の専門店です。古き良き物をいつまでも大切にしていきます。古い物から新しい物へ蘇る、お手伝いをさせてくださいと。庭先には人力車もあったが、記念写真用であろうか。庭先のベンチでは多くの人が休憩していたが。西陣織などのリサイクル着物・帯等、それらから生まれ変わったリメイク品をたくさん取り揃え、皆さんをお待ちしていると。花嫁衣装もリメイク。人力車の車夫のはっぴ。リメイクして飾りに。男の目には ”古民家ガーデン紋蔵” は見所が無かった。13:10瀬戸屋敷の駐車場で係員から頂いたパンフレット。係員の方から「瀬戸屋敷の後は是非訪れて下さい、カーナビは電話番号で」と。南足柄市郷土資料館 森のひなまつり 特別展示 江戸木目込人形 令和6年2月10日(土)から3月31日(日)まで 伝統と革新 雛の競艶瀬戸屋敷からカーナビの案内で県道78号線(御殿場大井線)を「南足柄市郷土資料館」へ向かうが渋滞がひどく、途中で諦めて「山北町の谷峨 (やが)」地区へ行くことに。13:30県道78号線を右折して北上、再度県道720号線(怒田開成小田原線)に合流。県道沿いに「文命堤」の看板があり立ち寄ることに。石碑には「大口広場」と。大口広場駐車場所在地:神奈川県南足柄市班目1548番地1付近南足柄市の桜の名所である大口広場。両側に桜の大木があり、桜の季節には美しい景色、夏場は木陰で涼しいバーベキューが楽しめる。公園内にはトイレと水場がある。駐車スペースも無料。酒匂川河川敷でもバーベキューが楽しめる。酒匂川治水史探訪マップ古来より暴れ川であった酒匂川では、数々の治水事業が行われてきました。その歴史と先人の思いを、次の世代の人たちにも伝えるため、「酒匂川流域の交流ネットワーク会議」の協力のもと、この「酒匂川治水史探訪マップ」を作成しました。① 三保ダム ② 文命西堤 ③ 文命東堤 ④ 木工沈床 ⑤ 決壊した九十間土手(昭和13年) ⑤ 九十間堤防完成(昭和14年)⑥ 聖牛 ⑦ 曽比の霞堤 ⑧ 松並木 ⑨ 富士山と松並木 ⑩ 旧酒匂堰取水口(移築) ⑪ 水防用玉石 酒匂川に生息する主な魚類ここに表示されている魚は、酒匂川でごく普通に見られる魚たちです。この他にもまだたくさんの魚たちが、生活しています。かわいがって観察しましょう。 ”河をきれいに大切に” 神奈川県 県西土木事務所箱根ジオパーク 南足柄エリア 「氾濫と治水 双方に関わる火山活動」 文命堤(ぶんめいづつみ)文命堤周辺は、箱根火山の噴火による火砕流堆積物が酒匂川に浸食されることにより生まれた天然の崖と、その崖を巧みに利用して川の勢いを弱めて氾濫を抑えようとした、先人たちの災害との戦いの歴史を学ぶことができるジオサイトです。◇「暴れ川」との戦い 酒匂川はかつて「暴れ川」と呼ばれるほど、氾濫を繰り返しては足柄平野に甚大な被害を もたらしてきました。 《氾濫と治水の歴史》 1609年(慶長14年) 小田原藩主・大久保忠世、忠隣、3堤2岩によるℤ型を完成。 1707年(宝永4年) 富士山宝永噴火、降灰により河床が上昇、豪雨による岩流瀬土手 (がらぜどて)、大口土手崩壊。 1726年(享保11年) 大岡越前守の命により、田中丘隅(きょうぐ)が岩流瀬土手、大口 土手を修復。 治水の神「禹王」を祀る文命宮(現在の福澤神社)を建立。 2つの土手は禹王の別名にあやかり「文命堤」と呼ばれるように 1734年(享保19年) 再び決壊。死者39名家屋122軒が流される。 その後・・・・・ 田中丘隅の娘婿、蓑笠之助ら多くの先人の努力で現在の豊かな足柄 平野に。◇ 文命堤と箱根火山 先人たちの知恵と努力に加え、箱根火山も酒匂川の治水には重要な役割を果たしています。 流れを「ℤ」型に変えて弱めるときに使われた千貫岩や、更にその上流には、6万6千年前 の箱根火山の大規模噴火などによる火砕流堆積物が露出しています。新大口橋の上などか ら観察でき、多いところでは厚さ10m以上にも及びます。この大規模噴火による火砕流の 勢いは凄まじく、横浜まで達しただけでなく、相模湾を越えて城ヶ島まで到達したことが わかっています。◇ 酒匂川治水の要所 1609年以前は、左上から右下へ流れていた。 ・人口の土手で流れを誘導・・・ ・天然の崖にぶつかり勢いが弱まる ・直線だった流れ ⇒ ℤ型に酒匂川を背に社の中に ”見守り地蔵” 。社の中には木製の見守り地蔵。ソメイヨシノも老木に。樹齢は50年以上であろう、根元は一部枯れていた。大口広場から県道720号線(怒田開成小田原線)を見下ろす。直進すると、瀬戸屋敷、開成駅へと。道路標識は”大口河川敷”の施設を案内。酒匂川越しに ”神奈川柑橘果工株式会社” 。大口広場には木製のテーブルが多く設置され、BBQが楽しめる。上流側を望む。3月末にはサクラ見物の人で賑わうのであろう。左奥にはトイレ。県道720号線(怒田開成小田原線)の道路脇に石碑群があった。道路を背に、点在していたのを集結したのか大小の石碑が立っていた。それぞれに花、供え物があり今でも参拝する人がおられるようだ。碑の説明板が無いのが残念だが。右側の石碑には「堅牢地神尊天」と。赤い頭巾をかぶった ”大口川丈地蔵尊” 。田中丘隅が酒匂川治水を祈願して大口・岩流瀬・吉田島・金手・多古・飯泉に建立した六地蔵の一つと伝わる地蔵。左側には、馬頭観世音の石碑が並んでいた。一番左側の石碑には「馬頭観世音」と。県道720号線の上流側には酒匂川に架かる ”新大口橋” 。道路標識をズームアップ。この後、県道74号線の ”御殿場、山北” 方面へ。文命堤の説明板日本語、英語、中国語による説明。文命堤酒匂川はかつて暴れ川と呼ばれ、大口付近でしばしば氾濫し流路を変えていました。しかし文禄から慶長年間に大口堤と岩流瀬(がらぜ)堤が築かれ、ほぼ現在の流路に定まり、足柄平野は水田が発達したと言われています。宝永四(1707)年に富士山が噴火して大量の火山灰(黒色で多孔質な降砂)が降り積もり、酒匂川の河床は浅くなりました。そのため、宝永五(1708)年と正徳元(1711)年に、大口堤と岩流瀬堤は決壊し、下流の村々は大きな被害を受け、その後の復興は困難を極めました。そこで、江戸幕府の八代将軍徳川吉宗は、享保八(1723)年に、南町奉行大岡越前守に命じて治水、利水事業に詳しい、川崎宿の名主であった田中丘隅(きゅうぐ)(休愚)を遣わして、享保十一(1726)年に大口、岩流瀬堤の復旧工事を完成させました。丘隅は、大口、岩流瀬堤の上に、治水、護岸を祈願し、中国の治水の神とも言われる禹(う)(称号は文命)を祀った文命宮を作り、大口堤を文命東堤、岩流瀬堤を文命西堤として、両堤を文命堤と名付けました。享保十九(1734)年に文命堤は再び決壊し、丘隅の娘婿で代官の蓑笠之助が復旧しましたが、本格的な復旧ができたのは明治時代に入ってからでした。江戸時代を通じ、酒匂川の治水は、流域に暮らす人びとにとって悲願ともいえることでしたが、その成否を担う場所として、文命堤はありました。 平成二十一年三月 南足柄市教育委員会 道路沿いに大きな石碑が立っていた。字が風化して判読できなかったが「文命・・之・」と。13:50大口公園の駐車場を振り返る。 ー 続く ー
2024.03.15
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瀬戸屋敷の主屋を出て敷地内を散策。3月3日(日) 12:45主屋内にトイレがなかったのでようやくトイレへ。主屋前にはまだ入場を待つ長い列。この後反時計回りに敷地内を巡ることに。懐かしい ”釣瓶 (つるべ) 井戸” 。井戸の建屋に「竹の花」が飾られていた。竹の花をズームアップ。竹の花120年に一度咲くと言われる「竹の花」です。瀬戸屋敷の竹林で咲きました。数ヶ月後に竹は枯れてしまうと言われます。タケの花の『めしべ』。釣瓶井戸には現在は手押しポンプが設置されている。主屋の北側、渡り廊下を渡り土蔵へ。裏庭の池に花を飾りつけ。竹の筏にツバキであろうか。先程の土蔵前の ”猿まわし” 会場へ。土蔵を東側から。建物の特徴は鉄板葺き切妻造で、桁行10間、梁行3.4間と神奈川県内で現存する土蔵の中でも有数の規模を有している。12:50猿まわしの午後の部開始。まずは座って挨拶と。猿は本来四足歩行だが、二足歩行で挨拶。お相手に愛嬌を振りながら。土蔵前の渡り廊下。屋根裏土蔵の北側から ”竹の小径” を歩き西側へ廻る。西側の竹林の中に社が建っていた。右側にも社。説明板がなく詳細は不詳。北側の社の中には石祠。土蔵西側の ”竹の小径” 。小径は整備されチップが敷かれていたので歩きやすかった。竹林を見上げる。海鼠壁の土蔵の南西側から。防火を備えた扉。竹の小径から主屋の南側へ出る。主屋への入り口には ”雛飾り” を見る長い列。庭先から”オクのつるし雛”を覗く。左は ”式台玄関” 。格式の高い人が駕籠で乗り付け、ここで下り主屋へと上がる。ゲンカンの右側は ”ヒロマ” で入口の ”ニワ” に行列。広場には開成町のご当地キャラ ”あじさいちゃん” が訪れていた。あじさいちゃんと並んで記念写真。ご当地キャラは全国に何体あるのであろうか。各地で観光大使になって活躍している。我が茅ヶ崎の ”えぼし麻呂” はハワイホノルルまで遠征。マスクをつけた ”ご当地キャラ” は見たことがないが、コロナ禍の時はどうであったか。開成町 瀬戸屋敷 ひなまつり2024/2/17 (土) ~ 3/3 (日)期間中無休:10:00 ~ 17:00(最終入園は16:00まで)会 場:あしがり郷「瀬戸屋敷」 神奈川県足柄上郡開成町金井島1336番地 tel:0465-84-0050入 園 料:500円(中学生以下無料)※ 障がい者割引あり主 催:瀬戸屋敷ひなまつり実行委員会 主管:開成町婦人会後 援:開成町、開成町教育委員会 協力:小田急電鉄株式会社主屋の座敷から見下ろす ”あじさいちゃん” のポスター。敷地内には「cafe hacco(カフェ・ハッコ)」があり店頭にメニュー。春吹きランチプレート 1300円お茶菓子セット 800円 他春吹きランチプレート 1300円足柄茶・煎茶とホーリーバジルのブレンドティー・お稲荷様 菜の花のれもん風味/桜の塩漬け/大豆ミートのそぼろ煮・酒粕あまざけスープ(れもんときゃべつ)・水まんじゅうと果物(酒粕」あん)屋外でも食べれるようであった。顔出しプレート。13:00約1時間の瀬戸屋敷の散策であった。入口西側には売店、テントがあり地元野菜のお土産を販売していた。 ー 続く ー
2024.03.14
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土蔵内の映像で、”つるし雛の風習” を録画で放送していたので勉強。つるし雛は、3月3日のひな祭りの時、お雛様の脇にお人形を吊るす風習がある。また、つるし雛は縁起の良い意味を持つ、上から吊るす節句飾りですと。3月3日(日) 12:30つるし雛の風習は江戸時代から各地に伝わってきましたが、代表的なものとして、 ・伊豆稲取の『つるし飾り』 ・山形県酒田市の『傘福』 ・福岡県柳川市の『さげもん』があり、この3つの地域が特に有名であると。つるし雛は、子供の無事な成長を願うお母さんやおばあちゃん、そして近所の人たちまで、みんなで少しずつ小さな人形を縮緬などの布で作ったようです、それを持ち寄ってひとつに吊るしました。 こうして「つるし雛」が作られ始めました。 みんなのこどもの幸せを願う、ひとつひとつにさまざまなこだわりと思いを詰め込んで作られたの雛のつるし飾りですと。テレビの画面でそれぞれの飾りの意味が、花花のように娘や孫が可愛くなるように願いが込められています。鶴「鶴は千年、亀は万年」と言われるように、長寿の象徴の縁起物として親しまれています。七宝まり輪と輪がつながることから和をつなぎ、円満や財産、子孫繁栄などを意味します。糸巻き「お裁縫が上手になるように」という願いが込められています。うさぎ白い体に赤い目と耳。その紅白の姿からめでさたを表す縁起物とされ、また跳躍の象徴としても親しまれています。座布団座布団のまわりで赤ちゃんが、這(は)って遊ぶことを表し、早く座れるように願いが込められています。姫だるま「七転び八起き」で福を招く縁起物に幼子の顔をつけ、こどもの面影を重ねています。亀「鶴は千年、亀は万年」と言われ、長寿の象徴とされています。柿滋養のある柿は、健康を願う気持ちが込められており、長寿の木、厄払いの効もあるとされます。桜田んぼの神が来臨する花として植えられたとされ、春を映す花として古くから愛されています。犬張り子犬はお産が軽いことにあやかり、安産の象徴とされています。なす「子供に恵まれるように (生す)」という願いと、「大願成就が叶うように (生す)」という願いが込められています。みかん季節の果物は、「一生恵まれる」ことを願って作られています。人参滋養があり栄養価が高いことから、「我が子が健康に育ちますように」という願いが込められています。紙風船女の子が安全に遊べるきれいなおもちゃとして愛され、その印象から「円満に美しく」という願いが込められています。かぶ春の七草のひとつにもなっているように、邪気を払い万病を除く野菜として親しまれています。うぐいす昔から春を告げる鳥として親しまれています。唐辛子唐辛子は虫よけの効能があることから、「娘に悪い虫がつかないように」との願いが込められています。三角香袋や薬袋が三角形だったことに由来し、無病息災の願いが込められています。海老海老が尾を折り曲げているのを腰に例えて、「腰が曲がるまで元気に長生きするように」とう長寿祈願が込められています。セミセミはよく鳴くことから、「泣く子は育つ」にかけて、子どもの健やかな成長の願いが込められています。鳩鳩はむせないことから、「母乳を飲む赤ちゃんがむせないように」との願いが込められています。ひよこピヨピヨと鳴くひよこにかけて「早くおしゃべりできますように」との願いが込められています。蝶「蝶のようにきれいに可愛らしくなりますように」との願いが込められています。さるっ子「災いが去る」縁起のいいお守りとされています。また、子宝・安産のお守りでもあります。這い子人形「這えば立て、立てば歩め」という、子どもの健やかな成長を願う親心が込められています。桃女の子の厄払いとされ、邪鬼、悪霊を退治し、延命長寿を意味しています。でんでんだいこおめでたいもの、幸多きことが増えますように、という願いが込められています。俵ねずみねずみには金運、霊力があるとされ、俵には五穀豊穣の意味が込められています。巾着「お金がたまるように、お金に不自由しないように」との意味が込められています。三番そう昔から祝いの儀式で披露されてきた三番そうを象った人形は、縁起物として親しまれています。草履「足が丈夫になるように」という願いが込められています。12:3532枚の画面で一巡。12:35土蔵から出て主屋への渡り通路。渡り廊下を渡る。土蔵から、「新発想の節句雛」が飾られている主屋裏「ヨジョウ」「オネマ」へ戻る。チャノマ休憩所になっており、お茶は無料、甘酒は200円で販売されていた。お茶を頂き ”ヒロマ” へ。ヒロマに飾られていた ”享保雛” 。12:40”ニワ” に飾られていた ”桜の輪下げ” 。桜の輪下げ2024年の新作コロナ禍が落ち着いて、4年振りに制限なく開催できるひなまつり。やっと精一杯のおもてなしができる。桜満開の春の雰囲気で、お客様を明るく元気にお出迎えしたい。そんな願いを込めて、開成町婦人会が丁寧に製作しました。主屋を出る時にこの説明板を見つけた。 ー 続く ー
2024.03.13
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主屋の表側から裏側の雛飾りへ廻る。3月3日(日) 12:20主屋裏側の部屋は西側から「オンナベヤ」「ヨジョウ」「オネマ」の三部屋があり、「新発想の節句雛」が雛壇に飾られていた。新発想の節句雛ひなまつりは、中国から伝わった節句のひとつ。当初はたくさんあった節句ですが、日本ではつぎの五節句が定着しました。・七草の節句 ・桃の節句 ・端午の節句 ・七夕の節句 ・重陽の節句婦人会は桃の節句(ひなまつり)だけでなく、端午と重陽をイメージした雛飾りも製作、男の子の幸せと豊作にも祈りを込めました。何をイメージしているのか。雛壇を下から見上げる。手毬に人形を縫い付けた飾りを雛壇に。手前下には「ペアの人形」が毬の中に。雛壇に豪華に並んでいたので人形かと思ったが。よく見ると、ウサギの内裏雛?と下段には?。いずれも婦人会の方達が作られた ”新発想の節句雛” であろう。端午の節句の兜も飾られていた。何をイメージしているのか手毬の両側に兜をかぶった男の子の人形。更にズームアップ。端午の節句コーナーであろうか。”新発想の節句雛” の説明書が欲しかった。裏庭の池には花飾り。主屋裏から土蔵への渡り廊下から振り返る。婦人会の方に誘導されて土蔵へ。廊下の竹の中に ”竹から生まれた内裏様” であろうか。四人囃子も。渡り歩廊を渡ると土蔵の壁際に内裏様が二組、羽子板。二組の内裏様をズームアップ。開成町のアジサイ祭りの写真も飾られていた。夏祭りであろうか。手前の羽子板には「正絹羽子板」と。土蔵前の広場では ”猿まわし” を実演。時間は12時25分「午前の部は終了、これからお猿さんのオシメを替えて12時50分に開始」と。土蔵の中へ入る。土蔵は、江戸時代、旧金井島村の名主を務めた瀬戸家の金庫として、当地に建てられた。土蔵内へ入ると天井から巨大な ”大つるし雛” 。この大つるし雛は開成町婦人会の皆さんが制作に1年半かけた大作だと。高さ2.4メートルにも及ぶ「大つるし雛」であると。桃の節句で着物を着た女の子も記念写真。壁際にはいろんな飾りを繋いだ ”つるし雛” 。土蔵内には七段飾りも。竹灯籠も。一階土蔵内全景。”大つるし雛” の下には大きな人形も。竹灯籠の中に人形。二階へ上がることに。親王、三人官女、五人囃子をズームアップ。2階に上がる。花嫁衣裳の前に大きな生け花。二階にも七段飾り。七段飾りの意味古来から七は縁起の良い数字とされており、雛壇飾りのうちでも写真のような七段で構成されている。江戸時代以降の一般的な段飾りとしては最も壮麗な飾りで別名「十五人飾り」とも呼ばれている。 ・一段目・・・親王 ・二段目・・・三人官女 ・三段目・・・五人囃子 ・四段目・・・随臣 ・五段目・・・仕丁こちらは八段飾り江戸時代後半から昭和の40年代頃までは、8段飾りがあったそうです。菅原道真、小野妹子、柿本人麻呂の三歌人と呼ばれる人形を一段多く、飾っていたそうですと。壁には内裏様と官女。12:30土蔵の半分が二階になっている。当初は平屋だったが、関東大震災の被災による構造補強と併せて二階が設けられ、昭和初期には、米蔵、文庫蔵として用いられていたと。 ー 続く ー
2024.03.12
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最後尾に並んでから我慢強く待つこと23分でようやく屋敷内へ。ここから主屋まではまだ十数メートル並んでいた。3月3日(日) 12:00薬医門の左側に”水車小屋” 。いつもは水車は動いているようだがこの日は停止していた。主 屋当主屋は、江戸時代、旧金井島村の名主を務めた瀬戸家の住宅として、当地に建てられた。平成13年2月21日に、土蔵と一緒に開成町第1号の重要文化財に指定された。伝承によると、当主屋は、宝永4年 (1707) の富士山の噴火後に建てられたとされているが、古文書の改修記録、架構方法、柱の配置間隔、仕様材料の仕上げ、風蝕程度から18世紀に建てられたと推定されている。茅葺き寄棟造で、桁行11.5間、梁行5.5間と神奈川県内で現存する民家の中でも有数の規模を有している。茅葺屋根の葺き替えは約15 ~ 20年に一度のペースで行われており、2022年11月 ~ ’23年1月下旬にかけて行われたと。開成町 瀬戸屋敷 ひなまつりのイベント情報この日の3月3日(日)は、10時と13時に当地キャラの”あじさいちゃんのお出迎え”と。庭先に展示されていた荷車。ボケ(木瓜)。つぼみが膨らんだボケの木。枯山水の庭枯山水の庭の先に水車小屋。12:10入場制限がされているようでようやく列の最後尾から43分で主屋内へ。この間トイレへ行きたかったのだが。入口には「ひなまつり 開成町婦人会」の立札。地元のご婦人会の方が「長らくお待たせしました」と。主屋の間取り。矢印の順路に従って廻る。ニワ(土間)で靴を脱ぎ、げた箱に入れて ”ヒロマ”へ上がる。ヒロマには鴨居から多くの「つるし雛」が飾られていた。ヒロマからげた箱がある ”ニワ” を見下ろす。ヒロマの床に飾られていた ”縫いぐるみ” 。ヒロマに飾られていた ”享保と令和の共演” 。享保雛をズームアップ。享保と令和の共演町内の蔵で発見された300年前の『享保雛』と、今年の新作『桜の輪下げ』のお出迎え。景気が良く豊かだった享保時代の雛飾りは豪華さが特徴で、現在の雛飾りのルーツになったそうです。文化や人形といっしょに、子供たちへの想いも受け継ぎたいですね。今年の新作『桜の輪下げ』。暖簾の如くに飾られた『桜の輪下げ』をズームアップ。まだ多くの人が順番を待っておられた。ヒロマから ”ゲンカン” の間へ。ゲンカンの間には雛壇が三組飾られていた。ヒロマ側の二組。雛壇の前のスペースがなく離れて全体が入らないのが残念であった。手前の最上段をズームアップ。御殿飾り御殿飾りとは平安時代の京都御所をモチーフにした豪華な雛飾りです。御殿の中に天皇皇后を模した内裏雛が座し、平安貴族の華やかな暮らしが表現されています。段飾りが主流になった現在では、なかなか見ることのできない、貴重な御殿飾りをじっくりとご高覧ください。ゲンカンの奥の二組の雛壇。一番奥の雛壇。周りを ”つるし雛” が飾る。ゲンカンから薬医門を見下ろす。オク側からゲンカンの三組を振り返る。ゲンカンから ”オクの間” へ。瀬戸家のお雛様この地域の名主を務めた瀬戸家に江戸時代から受け継がれてきたお雛様です。小田原藩主の大久保家から瀬戸家に贈られたものだと言われています。調度品の数々に刻まれている大久保家の家紋を探してみてください。小田原藩主大久保家の家紋豪華な雛飾りを正面から。奥 ー Oku ー畳敷きで竿縁天井が張られ、奥行き三尺の床の間・床脇・西面に付け書院がつく「書院造り」の座敷になっています。南面西面に内縁が廻り、南面には奥庭が広がっています。江戸時代に幕府の役人等の格の高い人々を迎えるために設けられた部屋です。建築当初は、床の間・床脇は西面にあり、北面は壁であったと推定されています。いろんな種類のつるし雛が吊るされていた。一本のひもに20個近くの飾りが付けられている。12:20上便所への通路。立ち入り禁止になっていた。 ー 続く ー
2024.03.11
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今回は、かねてから訪れたいと思っていた足柄上郡開成町にある「瀬戸屋敷」を愛車のノートで訪れた。この日は3月3日(日) の「ひな祭・みみの日」。3月3日(日) 10:45有料の西湘バイパスを走り国府津ICを出る。この日は休日で高速料金は270円だが割引で190円に。国府津ICを出て、国道1号(旧東海道)の”親木橋交差点”。カーナビは「あしがり郷 瀬戸屋敷」にセット、案内はこの交差点を北上。県道717号線(沼田国府津線)を西方向へ進む。酒匂川の手前の”富士見大橋東側交差点”を右折、県道711号線を北上。富士見大橋東側交差点角にある”鈴廣かまぼこ 恵水工場”。新しい県道711号線を北上、大井町に入る。松田山の稜線に1月に訪れた”チェックメイトカントリークラブ”のクラブハウスが見えていた。また、松田町の ”西平畑公園の河津桜” も見えていたので途中左折して酒匂川へ。酒匂川の左岸から北東方向の山並みを望む。山の中腹に河津桜が咲く西平畑公園この稜線を”最明寺史跡公園”へ向けて走った。富士山、足柄平野のフォトスポットになっている。北西方向を望むと、左に「金時山:1212m」、右に「矢倉岳:870m」。残念ながら富士山は雲の中。右の橋はこの後渡る ”足柄紫水大橋” で酒匂川、小田急線を越える。金時山と矢倉岳の間を箱根仙石原へ通じる ”はこね金太郎ライン” がある。酒匂川の下流側、橋は ”報徳橋” で渡ると南に”尊徳記念館”がある。尊徳記念館は二宮金次郎生誕地にある。左岸はサイクリングコース、遊歩道になっている。県道711号線からの足柄紫水大橋東側。畑に植えられていたイチジク。この様に低く栽培しているのだ。酒匂川左岸から県道711号線に戻り北上。この辺りには5月末から6月初めに見頃の「せせらぎの郷花菖蒲園」がある。せせらぎの郷西交差点。カーナビの案内はここを左折して ”足柄紫水大橋” へ。足柄紫水大橋を渡り、”開成駅南側交差点”を右折して県道720号線(怒田開成小田原線)を北上。小田急小田原線開成駅。駅前には「ひなまつり 開成町 瀬戸屋敷」の幟旗。小田急小田原線の開成駅。観光では、2月中旬から3月上旬の瀬戸屋敷のひなまつり、5月にはアジサイ祭り等の開催。駅前のロータリー。開成町は、神奈川県の西部に位置し、足柄上郡に属する町。 町名は、明治15年に開設された開成学校から取ったもので、元々は『易経』繋辞上伝の一節「開物成務」に由来する。 神奈川県内で面積最小の自治体であり、群馬県にある多野郡新町が平成18年に高崎市に編入されたことにより東日本の中で最も面積が小さい町となった。因みに面積は、6.55k㎡、人口は推定 18,808人 (2024年2月1日)。小田急小田原線。開成駅の東口には集合住宅の”開成庭園の杜パレットガーデン”が建ち並ぶ。開成駅前から県道720号線を北上、新延沢交差点。この交差点を右折すると ”まつだ桜まつり” の最寄り駅JR松田駅へ。道路標識に「瀬戸屋敷 ↑ 1000m、開成町役場 → 」。道路脇の看板には「瀬戸屋敷 ひなまつり」と。11:35瀬戸屋敷駐車場所在地:神奈川県足柄上郡開成町金井島1336県道720号線沿いにあり、途中右側に「開成あじさいの里」があった。係員の方がおられ案内、駐車料金は無料で百台近くが駐車できる。シャトルバスも運行されていた。駐車場入口にあった、”あしがり郷「瀬戸屋敷」” の案内板。銅板に字が彫られているのか分かりづらかった。利用について ● 開園時間 午前10時 ~ 午後5時 ● 休園日 毎週月曜日(ただし、月曜日が祝日に当たるときはその翌日) 年末年始(12月29日 ~ 1月3日) ● 入場料 無料(イベント時には有料となる場合があります)利用上のお願い ● 自転車の乗り入れ、ペットを連れてのご入園はご遠慮下さい。ただし、盲導犬、 介助犬、聴導犬は同伴できます。 ● 災害防止のため喫煙はご遠慮ください。 ● 大声を出したり、他の人に迷惑を及ぼす行為はしないでください。 ● ゴミは持ち帰りましょう。 ● 入園の際は、備え付けのノートに住所、氏名をご記入願います。 (案内所に備え付けられております。)その他、管理上守っていただきたい事がありますので、ご協力ください。案内所 神奈川県足柄上郡開成町金井島1336中央には配置図。主 屋 〇 歴史的沿革 ・当主屋は、江戸時代、旧金井島村の名主を務めた瀬戸家の住宅として、当地に 建てられました。 ・平成13年2月21日に、土蔵と一緒に開成町第1号の重要文化財に指定されました。 ・伝承によると、当主屋は、宝永4年(1707)の富士山の噴火後に建てられたとさ れていますが、古文書の改修記録、架構方法、柱の配置間隔、仕様材料の仕上 げ、風蝕程度から18世紀に建てられたと推定されます。 〇 建物の特徴 ・茅葺き寄棟造で、桁行11.5間、梁行5.5間と神奈川県内で現存する民家の中で も有数の規模を有しています。 ・内部は東側部分に土間、西側部分に座敷(床上)が区分され、座敷部分の南側 には、名主宅にふさわしく、式台、床を設けている「ゲンカン」、床、床脇、 付け書院を設けている「オク」など、正式な来客に備えて、充実した接客座敷 があります。水車小屋 ・昔、「車小屋」と呼ばれていました。 ・内部にある搗き臼と挽き臼は、一般の方もご利用いただけます。表 門(薬医門) ・薬医門は、江戸時代の代表的な門形式の一つで二本の本柱の背後だけに控え柱 を立て、切妻屋根をかけた門を指します。 ・普段は脇にある潜り戸を用い、荷車による物資の搬入には、脇にある片引き戸 を用いていました。土 蔵 〇 歴史的沿革 ・当土蔵は、江戸時代、旧金井島村の名主を務めた瀬戸家の金庫として、当地に 建てられました。 ・明治20年代から普及し始めた洋釘が使用されている点、明治20年代に作成され たと推定される絵図面に当土蔵が描かれている点から、明治20年代に建てられ たと推定されます。 〇 建物の特徴 ・鉄板葺き切妻造で、桁行10間、梁行3.4間と神奈川県内で現存する土蔵の中で も有数の規模を有しています。 ・建物当初の利用方法は不明ですが、当初は平屋でした。関東大震災の被災によ る構造補強と併せて2階が設けられ、昭和初期には、米蔵、文庫蔵として用い られていました。水 路 ・沢ガニやホタルがみられる水路は、かつて生活用水として用いられていました。井戸小屋 ・開成町史によると、開成町一帯では、かつて生活用水として地域を縦横に流れ る水路が利用されていました。明治10年代後半に井戸の設置が義務化されてか ら、開成町一帯で井戸が普及しました。案内所 ・あしがり郷「瀬戸屋敷」の案内、周辺の見どころ、散策コースの案内を行って おりますので、お気軽にご利用ください。■ インターホン 係員に用事のある方は右のインターホンにてお知らせください。こんな案内板も、未病(ME-BYO)とは? ● 心身の状態は、ここまでは健康、ここからは病気と明確に区別できるものではありません。 ● 健康と病気の間で連続的に変化している状態を未病といいます。 ● 人生100歳時代、未病を改善して健康寿命を延ばしましょう。県西エリアは自然や歴史的景観など、魅力がいっぱい! 各スポットでは、楽しみながら未病の改善ができます。県西エリアで未病改善 GO!未病いやしの里の駅へようこそ ● 多彩な魅力を生かし、気軽に未病を改善する取組みができる施設です。 ● 地域の食材を手に入れたり、運動や日帰り入浴ができる施設もあります。県西エリアの観光地① 西平畑公園 ② 未病バレー「ビオトピア」 ③ 大井町農業体験施設 四季の里④ ラ・レイエス湘南(いこいの村あしがら) ⑤ 中井中央公園 ⑥ 開成水辺スポーツ公園⑦ あしがり郷 瀬戸屋敷 ⑧ 泗水の滝 ⑨ 道の駅 足柄・金太郎のふるさと⑩ 足柄森林公園丸太の森 ⑪ ミナカ小田原 ⑫ 箱根やすらぎの森 森のふれあい館⑬ MUSEUM CAFE and garden ⑭ ケープ真鶴道路脇に移設されたのであろう、双体道祖神が立っていた。道案内板の ”矢羽根” 。11:37入口の薬医門へ向かうが県道沿いに長い列。最後尾の方に聴くと「最後尾です」とのことで並ぶ。入口の、”表門 (薬医門)”。表門 (薬医門) の手前にテントがあり、入場料金を徴収。築300年の古民家「あしがり郷 瀬戸屋敷」では毎年2月中旬 ~ 3月上旬に、「瀬戸屋敷ひなまつり」が開催されます。地元のご婦人会が手作りした「つるし雛」が7,000個以上並ぶ景色は、とても華やかで壮観です。高さ2.4メートルに及ぶ「大つるし雛」も見どころの一つで、その大きさと美しさに圧倒されて感動す人も多いでしょう。さらに祭り期間中には、一晩だけのライトアップの「ひな☆ナイトミュージアム」や、お猿さの芸が観られる「古民家で猿まわし」など、楽しいイベントが盛りだくさんですと。行列は表門 (薬医門) 前から主屋前まで並んでいる様であった。最後尾の方と話しをし「いつもはこのようには、新聞に載ったからでしょうか」と。 スタッフの方がおられたので待ち時間の情報が欲しかったが。忍耐強く待つ。開成町 瀬戸屋敷ひなまつり 2024/2/17(土) ~ 3/3(日) 今日は最終日であるので混んでいるようだった。第37回 2024開成町あじさいまつり 開催期間が決定しました 6月8日(土) ~ 6月16日(日) カタツムリになる一日入場料金は、大人500円入口西側では売店、地元野菜の販売。薬医門前に石と竹細工。子供達が竹細工を・・・。駒繋ぎ石駒繋ぎ石名主であった瀬戸家の来客の多くは乗り物として馬を使っていたが、馬の手綱を結んだものが駒つなぎ石である。江戸時代から明治時代初期にかけて小田原藩主を務めた大久保氏の家臣たちもこの石を使ったと考えられている。元々、石は途中まで土に埋められて固定されていた。地区によっては『こまどめの石』とも呼ばれる。12:00薬医門から主屋。最後尾に並んでから我慢強く待つこと23分でようやく屋敷内へ。ここから主屋まではまだ十数メートル並んでいた。 ー 続く ー
2024.03.10
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2月24日(土)の式典でも訪れたがその日は富士山が見えなかったが、この日は富士が見えていたので、昼前に急遽愛車のノートで出かけた続いてのブログアップです。2月27日(火) 10:45いつもの県道44号線(伊勢原藤沢線)の西久保橋上からの富士。この景色が見たくて、またまた訪れた。右側は、県道44号線(伊勢原藤沢線)、圏央道の高架。農道の道路脇に駐車して散策開始。サクラ並木の最上流部。河津桜も満開でこの日も多くの人が訪れていた。ピンクの河津桜を見上げる。今回も最上流部から西久保橋を渡り、小出川の東側へ廻る。ここの左下に車を停めた。西久保橋上から小出川の下流側を望む。最近の雨で富士には雪が裾野まで。ズームアップ。カメラを左に振ると箱根の山並みがくっきりと見えていた。山肌の白い部分の右側は「大涌谷」、中央は「箱根湯の花ゴルフ場」であろうか。ここへは何度も来ているがこのような光景を見るのは始めてである。山並みの右側の高い山は「神山・1438m」、中央は「駒ケ岳・1356m」であろうか。小出川の東側堤からの、河津桜、緋寒桜の上に富士。気温が上がらない早朝の方が富士はクッキリと。河津桜越しの箱根の山並みがはっきりと。丁度散策をしておられた地元の方に「大涌谷ですか」と聴くが「?」。その方がスマホで確認され「大涌谷でしょうか、要確認」と。河津桜の間に「金時山・1212m」も。こちら側は富士山も。中央の「駒ケ岳」の左側には「上二子山・1091m」。箱根の山並みがこれほど確認できるとは露知らず。上流側を振り返る。水鏡が欲しい。萩園橋上から上流側を望む。贅沢だが右側(東)の堰堤にもサクラ並木があると湘南の景勝地になるのではと。上空に雲があり暗くなる。上流側から課外授業の低学年の小学生。斜面に下り撮影。ズームアップ。何度も撮影した場所だが。富士を望むが景観を損なう建物が。木によってはまだ満開になっていなかった。こちらでは送電線が・・・。寒緋桜、河津桜、菜の花の競演。河津桜と菜の花のコラボは定番に。アジサイも5月には。サクラを愛でるご夫妻も。河津桜をズームアップ。菜の花をぼかし。11:30今年も小出川の河津桜を堪能した早春でした。 END
2024.03.09
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3月2日(土)一日店長の ”えぼし麻呂” 。えぼし麻呂が店長をすると売り上げが何倍にもなるとのことで2回目の店長に。相変わらず ”スペシャル佳祐ドック” は人気があると! 500円です。引き続き小出川の河津桜を愛でる。2月24日(土) 11:00式典も終わり式典会場を後にし車を停めている上流側へ進む。満開の河津桜を見上げる。ワンちゃんも河津桜、菜の花に囲まれて椅子に。飼い主は望遠レンズで離れて撮影。このため他の方が「可愛い」と言いながら間に入って撮影しておられた。自分は飼い主の後ろから撮影。左側の菜の花は、”花とともにくらす会”によって植えられている。ママ友も子供を連れて。まだ一部蕾の河津桜。菜の花の香りが漂う。河津桜の他にも ”春めき桜”、”おかめ桜” が植えられているがこちらはまだ蕾が固い。下流には、連凧が2連上がっていた。こちらには ”玉縄桜” が2本植えられ五分咲きであった。玉縄桜を見上げる。玉縄桜は、日本のサクラの園芸品種である。1969年、鎌倉市にある神奈川県立大船フラワーセンターでソメイヨシノとオオカンザクラの自然交配により生まれた品種である。1990年に品種登録された。玉縄桜にメジロが動き回っていた。いつも乍らに動きが早くシャッターチャンスが遅れる。どうにか上手く撮れたが。ヒヨドリも蜜を求めて数羽来ていた。上向きで蜜を吸うヒヨドリをズームアップ。河津桜にもヒヨドリ。河津桜の間に寒緋桜が2本植えられておりそれぞれ満開に。河津桜と後方には寒緋桜。ズームアップ。後方に廻り込む。茅ヶ崎JCTの料金所。ズームアップ。植込み入って撮影する人も、本来は立ち入り禁止だが。スイセンも満開に。農道の無料駐車場。小出川の東側 (新湘南バイパスの高架下) から西側を望む。右側は県道44号線(伊勢原藤沢線)の西久保橋の袂。西久保橋方向をズームアップ。この雲が無ければ富士が見えるのだが。煙突は ”茅ヶ崎市環境事業センター” 。南西方向には ”湘南平の鉄塔" が見える。湘南平をズームアップ。11:35昼前になり帰路につく。午後は愛車のリンちゃんで、ほうじ茶を購入するためにサザン神社そばの ”茶商 小林園” へ。14:25茶商 小林園所在地:神奈川県茅ヶ崎市共恵2丁目 1-40店先には昔の ”ほうじ茶” 製造機。現在は3代目を使用していると。店内にはいろんな茶が展示されていた。高級煎茶の「宵(よい)」は100g、2,160円。下段の右側に2種類の「ほうじ茶」。購入した2種類のほうじ茶。二度焙煎の「上ほうじ茶 白露(しらつゆ)」「ほうじ茶 白波」は100g、864円、540円。色紙には、天皇陛下、安倍前総理大臣、桑田佳祐夫妻 お召し上がり頂きました。お茶の名も「茶山(さざん」と。茶商 小林園の左前にある ”茅ヶ崎サザン神社” 。サザンオールスターズの聖地の一つになっている。茅ヶ崎FMでも放送していた「サザンC ピンクに」。ピンクシャツデーに合わせてサザンCモニュメントも2月29日(木)までの期間限定で、ピンクにライトアップされているとのことでサザンビーチへハンドルを切った。14:45サザンビーチちがさき海水浴場ピンクシャツデーはピンクのシャツなどを身に着けることで「いじめ反対」の意思表示をする、カナダ生まれのワールドアクションである。残念ながら夜の写真は撮影しなかった。 END
2024.03.03
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5年ぶりとなる「小出川桜まつり」の式典。2月24日(土) 10:30忙しい中、茅ヶ崎市長佐藤光氏の挨拶。いろんなイベント会場でお会いする佐藤市長である。隣町の寒川町長木村氏の挨拶。木村町長は、昭和24年生まれで平成23年(2011)に第23代寒川町長に就任、4期目。対岸の、神奈川県立茅ヶ崎支援学校長柏木氏の挨拶。”花とともにくらす会”の手で我が学校にも河津桜が植えられていると。県会議員の平野氏であったかの挨拶。自分も ”花とともにくらす会” のメンバーになっていると。途中までマイクが使えず地声での挨拶であった。式典への参加者は何人いたか質素なものであった。来賓の方も休日の中ご苦労様でした。護岸の斜面から見上げて撮影。河津桜は菜の花とのコラボが定番になっている。こちらは「柳島凧の会」メンバー。連凧が2本上がっていた。大凧はなかったが ”新春凧揚げ大会” で飾られていた凧が並べられていた。護岸の斜面におり見上げる。上流側を望む。護岸に上がり連凧を見上げる。いい風があり勢いよく上がっていた。ズームアップ。凧はビニール製で更にズームアップ。柳島凧の会の凧。柳島凧の会のメンバーが、茅ヶ崎市長と記念写真。柳島凧の会のメンバーも高齢者との集いか。”第15回 小出川桜まつり” のポスター。来られた方の車は農道脇に駐車。キッチンカーの「たこ焼」。キッチンカーの「たい焼き」。あんこクリーム、和栗、カスタード、ピスタチオ、それぞれ300円。あまざけ、ホットコーヒー、各250円。河津桜のトンネル。2001年に植えられて20数年で大木になっている。猫の目線で見上げる。ピンクに染まるトンネルを見上げる。翌日の25日(日)は茅ケ崎支援学校のゲームコーナー、二胡の演奏が行われる。の予定になっていたが天気は「雨」と。 この日の24日(土)だけは天気が良かった。護岸の傾斜地から下流の連凧を見上げる。足もとを注意しながら河川敷へ下りる。定番の菜の花とのコラボ。自生の菜の花にピントを合わせ撮影。菜の花がいい香りを放っていた。葉芽が出た河津桜にピントを合わせる。河津桜の下に休憩用のベンチ。既に満開になっておりいつまで花持ちするのか。11:00最後も菜の花とのコラボ。 ー 続く ー
2024.03.02
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小出川の萩園橋から式典会場へ。2月24日(土) 10:00先程の”コミュニティバス えぼし号”から多くの方が下車。小出川に架かる ”萩園橋 (はぎそのはし) ”。河津桜はここから上流二百メートルの会場から県道44号線(伊勢原藤沢線)の西久保橋の間に植えられている。会場へ向かうと陸風があり凧揚げには良い風と思いながら。上空を見上げるといつの間にか連凧が上がっていた。いつもはない駐輪場も。真新しい幟旗には「小出川桜まつり 花とともにくらす会」と。陸風が強く海に向かって勢いよく上がっていた。凧揚げのメンバーは正月にサザンビーチちがさきで開催された ”新春凧揚げ大会” で凧を上げていた ”柳島凧の会” 。式典会場では既に ”菱沼祭囃子保存会” による演奏が始まっていた。子どもたちが太鼓を打ち、大人の人が横笛。満開の河津桜。式典会場には”吊るしびな”が飾られていた。大規模な式典会場ではないが地域の方々が町おこしの一環で催事を準備。式典会場では、お赤飯 200円、甘酒 100円が販売されており、2個+1杯購入し計500円。河津桜が咲く下のベンチに座り甘酒を飲む。式典会場にはいろんなところに現れる佐藤光茅ヶ崎市長の姿が。キッチンカーも4台出ていた。ステージでは二つ目の演目が始まっていた。幟旗には「菱沼囃子」と。演目の紹介が無かったのが残念であった。演技者は笛に合わせて踊っていた。演技者はひょうきんな面を被り。最後は演目を終え面を外して挨拶。ステージには「足踊り」の看板。この時も演目の紹介がなく残念であったが。高齢の方が準備をし看板の裏に寝ころぶ。”足踊り”は初めて見るのでこの後どのような演技になるのか興味津々に。横笛に合わせて面を被り蛇の目傘をさした人形が出る。ズームアップ。後方を通る子供さんも???。演目の紹介が欲しかった。途中から頬被りをした男人形が現れ相合傘。ある物語で踊っているのであろうが。ネットで「菱沼の足踊り」で検索するが。足踊りであるのが、カップル+傘の動きがあったがどのように操作。最後は寄り添うカップル。傘も折りたたみ。カップルは夫婦なのであろう。下から操作者の右腕が。最後には目隠しの看板を・・・。操作者が仰向けになって足で踊る「足踊り」。約5分の演技であったが大変な重労働ではと。起き上がり。左足に「女人形」。右足に「男人形」であろう。カップルの人形を従えて挨拶。来賓者の方々も椅子に座り進行係が式典開始の挨拶。まず最初に”足踊り”の演技者の挨拶。年齢は70歳代あろうが”足踊り”の後継者は。花とともにくらす会の金子会長の挨拶。金子会長も既に80歳代か。会長もこの河津桜に対する思いが高いようで長々とあいさつ。「2001年に植えてから木も育ち直径50センチ近くになったと・・・・・」。10:30満開の河津桜を見上げる。風があったが花びらが飛ぶこともなく。 ー 続く ー
2024.03.01
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タウンニュース茅ヶ崎版 (2024年2月23日)5年ぶりとなる「小出川桜まつり」が2月23日(金)、24日(土)、25日(日)、3月2日(土)、3日(日)、小出川・萩園橋上流の河川敷で開かれる。各日とも午前10時から午後2時までで、雨天時は中止。”花とともにくらす会”(金子孝一会長)主催と。同会が平成13年(2001)に植えた約70本の河津桜は、菜の花との共演のほか、富士山や箱根連山、丹沢山を望める名所として多くの人が訪れる。今年は2月20日時点で5〜7分咲きとなり、菜の花とともに見頃を迎えている。まつり期間中は模擬店やキッチンカーが出店。24日は式典や凧揚げ、23・25日は茅ケ崎支援学校のゲームコーナー、25日は二胡の演奏が行われる。3月2日は演歌・民謡ショー、祭囃子、3日は唄と踊り、カラオケ等が行われる。昨年は三浦海岸と松田町へ車で行ったがこれぞ、灯台もと暮しの場所である。私にとっては愛車のリンちゃんでの散策コースになっている。2月24日(土) 9:20式典が10時から行われるとのことで今回は愛車のノートで出かけた。愛車も昨年の四月にジュークからノートに乗り換えたが累計走行距離もまだ2,800kmと伸びず。今年は遠出をしたいと思っているが・・・。この日も富士は顔を隠していた。小出川の桜まつり会場近くの駐車違反の恐れがない農道に駐車。前方は圏央道の高架橋。小出川の右岸に植えられている河津桜で最上流部。ペットの犬を連れての人が多かった。子どもの記念写真を撮る若夫婦も。ママは座り込み、パパはポーズをとらせる良きファミリー。青空に映える河津桜。1月末から訪れていたが、”小出川の桜まつり” にちょうど満開に。花がかたまって咲く河津桜。スマホを掲げて撮影。座り込んで菜の花を撮影する人も。護岸に咲く菜の花は自然に芽吹いたものであろう。愛犬のワンちゃんも記念写真。菜の花の香りが・・・。河津桜の中に、寒緋桜も二本満開になっていた。河津桜と寒緋桜のコラボ。寒緋桜はひと際色が濃い。寒緋桜をズームアップ。ほぼ満開になっている寒緋桜。河津桜と寒緋桜のコラボ。花壇の中には注意書き!式典までにはまだ時間があり対岸へ向かうことに。県道44号線(伊勢原藤沢線)の西久保橋から小出川の下流を望む。会場の小出川の右岸をズームアップ。”小出川桜まつり” は、2月23日(金) ~ 25日(日) に開催されるが前日が雨であったのでこの日は天気が良く式典もあるので多くの人が訪れていた。この日のために昨年の秋には ”花とともにくらす会” が護岸の斜面の草刈りを。対岸の左岸を萩園橋まで下ることに。矢張り富士が顔を出していないのが寂しい。西久保橋の東側から対岸の最上流部を望む。この写真は、後日27日(火) 10:50に撮影。西久保橋から下り、対岸の河津桜、寒緋桜を見る。川面には菜の花のみが。農耕地の中に施設。後方は新湘南バイパスの国道1号方向。農村自然再生活動高度化事業「ビオトープ水田」休耕田に水を張ったり湿らせたりすることで、ドジョウなどの魚類や水生生物を生息させ、タゲリなどの野鳥の採食地をめざしています。 責任者 三翠会 (さんすいかい) (社)農村環境整備センター 西久保生産組合 茅ヶ崎市農政課 平成19年5月20日 設置太陽光パネルを利用して何かを動かすのか。周りにはロープが張られ立入禁止に。三翠会 (さんすいかい) の紹介茅ヶ崎市をフィールドに、川や水田など水辺に暮らす生きものの環境を守り、豊かにする活動を行っている自然保護グループで、平成12年(2000) 4月に設立。渡り鳥タゲリの越冬地である市内の水田を守るため、地元の農家と協力して「湘南タゲリ米」を販売するプロジェクトを行っている。また、魚道やビオトープなどを設置し、水田の生物環境向上に取り組んでいる。「田んぼにいのちのにぎわいを!」=生き物と共生できる水田環境を目指して調査や保護活動を行っている。非常用の浮き輪も用意。風があり川面にはサクラ並木は映らず。式典会場を望む。幼い子を連れた家族も多かった。小出川の東側の河川敷は整備されていないようで葦が生い茂っていた。この葦が無ければ川面が広くなり桜並木が映えるのか。式典会場には和太鼓のグループが準備。急いで下ることに。凧もあったがこれから上げるのか。神奈川県立茅ヶ崎支援学校所在地:神奈川県茅ヶ崎市西久保 29-1河津桜が咲いているが式典での校長の挨拶で「花とともにくらす会の手で植えられた」と。上流側を振り返る。水路内に水田魚道を設置しました。左に迂回して道路側から見て下さい。 三翠会 (さんすいかい) (社)農村環境整備センター 西久保生産組合 茅ヶ崎市農政課 平成19年5月12日 設置堰堤から下り対岸を見上げる。圏央道の高架橋を挟み送電線の鉄塔が建つ。式典が始まるのか太鼓の音がきこえてきた。つるみね・北コースの「コミュニティバス えぼし号」が運行。農村自然再生活動高度化事業「水田魚道」小出川のドジョウやナマズなど、魚類が田んぼに産卵のために上りますが、その障害となる段差を乗り越えるための設備です。 三翠会 (さんすいかい) (社)農村環境整備センター 西久保生産組合 茅ヶ崎市農政課 平成19年5月12日 設置10:00萩園橋から小出川の上流を望む。 ー 続く ー
2024.02.29
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市内の知り合いの「熟成肉工房ジロー (㈲ ハム工房ジロー)」からメンバーズに対する試食会の案内があり愛車のリンちゃんで訪れた。併せて河津桜の開花時期になり、いつもの「小出川の河津桜」の開花状況をチェックに訪れた。2月10日(土) 12:00出かける前に姪が飼っている愛犬の「ショコラ」を撮影。可愛い衣装を着せられ散歩。始めてカメラを向けたので落ち着きがなく動き回る。我が家のウメも2分咲きに。枝の中をメジロが動き回っていた。昨年は豊作であったがさて今年の収穫は。ズームアップ。13:25目的地の「熟成肉工房ジロー」へ向かった。熟成肉工房ジローは、一里塚北通り沿いにある。旧ハム工房ジローは ”㈱茅ヶ崎青果地方卸売市場” の一角にある。道路沿いの看板には「ハム・ソーセージ専門店 熟成肉工房ジロー」と。駐車場にあるのは ”熟成肉工房ジロー” のキッチンカー。㈱茅ヶ崎青果地方卸売市場当市場は茅ヶ崎の地に根付いて100年以上が経ちました。以来地場野菜を中心に全国から商品が入荷しております。当市場で取り扱っている地場野菜は地元茅ヶ崎の野菜・果物を取り扱っております。「茅産茅消」を掲げ、地元の食品を地元の方々に手に取って頂けるよう地元の八百屋などに数多く卸しております。地域密着型の地方市場として、茅ヶ崎市を中心に鮮度の良い商品、安心安全な商品の提供を目指しておりますと。茅ヶ崎青果地方卸売市場事務所。かつては義父も野菜等を卸していたが、最近は茅ヶ崎の田畑も宅地化され減少しているようで、佐川急便が一部を借り配送センターに利用。熟成肉工房ジロー (㈲ ハム工房ジロー)所在地:神奈川県茅ヶ崎市高田5丁目2-26 茅ヶ崎青果市場内熟成肉工房ジローはドイツ製法手造りハムのお店である。先代が100年前に出会った添加物に頼らない製法で造り続けていると。建屋は茅ヶ崎青果地方卸売市場の一部を借りている。他に ”逗子店:神奈川県逗子市逗子1-6-7” でハム・ソーセージを販売。店先の塀には「ハム工房ジロー」と。「熟成肉のうまみを味わう会」のお知らせこの度、地方独立行政法人 神奈川県立産業技術総合研究所(KISTEC)様より弊社製品の長期熟成による”うまみ成分”3倍上昇の調査結果を受け皆様へのご報告の会を開催いたします。熟成肉で造る弊社製品をあらためてご紹介します。当日はささやかではございますが、ご試食をご用意しておりますので、皆様お誘い合わせの上、ご参加いただけますようお待ち申し上げます。 日 時 2月10日(土)・11日(日.祝)・12日(月) 11時~15時 ※雨天決行 場 所 熟成肉工房ジロー茅ヶ崎店 内 容 立食でのご案内 お買い物ポイント3倍 (茅ヶ崎店に限ります) メンバーズカード店先にチョークアートで、本日のおすすめ「熟成肉のうまみを味わう会」 2/10(土) ~ 2/12(月) 11:00 ~ 15:00案内され試食会場へ。室内にはいろんなパネルが飾られ、立食用のテーブルが4つ用意されていた。テレビではNHKの月曜日12時15分から放映される見慣れた俳優が。 スタッフの方に聴くと「2年前に放映された」と。ハム・ソーセージ専門店熟成肉工房ジロー Method百年続くドイツ製法 まぼろしの熟成肉ハムハム工房ジロー100年の歴史 代々受け継がれてきたのは、本物の味とハムへの熱い想いです。出会いは大正3年、第一次世界大戦の最中、習志野収容所に収容され捕虜だったドイツ兵の中には、様々な職人や技師もおり、農商務省の要請を受け、ドイツのソーセージ作りの秘伝が講習会を通じて全国の食肉加工業者に広がるきっかけとなりました。解放された後もソーセージ職人のカール・ブッチングハウス氏が日本に残り、東京・目黒にソーセージ工場を作りました。先代の矢島八郎は、大正14年に横浜の本牧で精肉店を営んでおり、カール・ブッチングハウス氏が経営する目黒の工場に豚肉を納めていました。当時はまだ日本人には馴染みが薄く、敬遠されがちだったハム・ソーセージでしたが、見た瞬間にドイツ製法のハムづくりを始めようと思い立ち、試行錯誤を繰り返し、カール・ブッチングハウス氏から直接アドバイスをもらうようになり、その技術を直伝されるまでになりました。カール氏と言えば、同姓で函館でハム・ソーセージを製造販売した「カール・レイモン氏」の歴史展示館があったが。その時のブログ「函館の旅」👈 をクリック願います。Method① 国産肉を使用② 冷蔵肉 (フレッシュ) を使用 国産肉で熟成ハム・ソーセージ・ベーコン造りに適した肉質を厳選しています。冷蔵肉(フ レッシュ)は張りのある弾力性に優れた原料になる為、肉が本来持つ自然な結着力も活かさ れます。鮮度はとても重要です。③ 原料は肉100% 一般の製法は、肉と肉以外の原料で、必要以上の水分を加えます。 ジローでは肉100%で製造しています。④ 岩塩・三温糖・セロリパウダーのみ使用 ジローではハム造りに不必要な添加物に頼らず、肉のうまみを引き出す「岩塩」、肉質を 柔らかくコクが出せる「三温糖」、天然成分由来の発色剤「セロリパウダー」のみで造っ ています。⑤ 長期熟成 100年前から受け継がれている製法の一つ、便利になった世の中で1~2日で終わらせてし まう添加物に頼る一般製法と違い、重さの異なる2種類の重石で漬け込む昔ながらの熟成 法です。長期熟成は、肉に含まれている動物性タンパク質をうまみ成分に変える働きが あり、余計な添加物に頼ることなく美味しいハムやソーセージを造ることができます。⑥ 直火式スモーク 桜のチップを使用し、ハム・ソーセージなどをぶら下げて真下で炊いて煙を出します。 日本には四季があるように、昨日、今日と毎日気温も違います。温度管理をし、乾燥、 燻製の時間を見極めたり、チップを足したりと常に目をかけなくてはなりません。何より 直火式は「香り」が格段に異なり、商品を開封した瞬間は、燻製の香りに衝撃を受けます。⑦ 特殊冷凍 (瞬間冷凍) ジローのハムは鮮度が命。添加物に頼らないハム造りのため賞味期限が短い。そこで液体 急速凍結機を使用し、アルコール液で急速凍結させます。肉の細胞の水分が小さい氷の結 晶のため、解凍後もドリップがでず、味・香りも保持できます。それまでの製法では不可 能であった長期保存も可能になり、添加物に頼らない製品造りを続けていきます。熟成ハムの「味」の見える化 長期熟成ハムのおいしさが見えてきた総アミノ酸量の変化 ハムの遊離アミノ酸含量は浸漬10日目頃から増加し始め、浸漬28日にはもとの 豚肉(浸漬0日目)の2倍以上になりました。 うま味を持つグルタミン酸、アスパラギン酸が増加しただけでなく、他のアミノ 酸も増加しており、味に深みが出ると考えられます。脂質の融点変化 脂質の融点は、直接、味に影響しませんが、舌触りや口溶け、なめらかさ、コク などの食味に影響すると考えられています。 浸漬14日目から脂質の融点が低下しました。コクとして味の濃厚感などが出ると 考えられます。 ベーコン等の脂がねっとり・クリーミーなのはこの変化によるものである。熟成ハムの「味」の見える化こだわりの製法ドイツソーセージ職人カール・ブッチングハウス直伝の技。100年前から私たちは守り続けています。人口添加物が存在していない時代(100年前)のハムは、現在のハムに比べて著しく水分量が少ない。Method ① 国産肉を使用 ② 冷蔵肉 (フレッシュ) を使用 ③ 原料は肉100% ④ 岩塩・三温糖・セロリパウダーのみ使用 ⑤ 長期熟成 ⑥ 直火式スモーク ⑦ 特殊冷凍水分量の変化 一般的には調味液を肉に注入し、保水をさせて加熱する事でハムの水分量は増加 しますが、弊社は自然塩漬と加熱だけの為、ハムの水分量は減少します。 浸漬21日目からハムの水分量が減少しました。ハムの水分が抜けることで、ハム のうま味成分が凝縮され、しっかりとした味のハムになると考えられます。 熟成ハムの「味」の見える化開発商品の概要 近年ハムを製造する際、通常1~2日から数日間の塩漬に対し、当社はドイツ伝統 製法の長期熟成(塩漬時間 約25日間)を特徴とした熟成ハムを製造しております。 当社は美味しいハムを造り出すために、化学調味料や不必要な添加物に頼らずに 品質を追求してきました。そして今、独自の商品価値をより高めるために、どの ようにして長期熟成製法が美味しさを引き出しているのか?を裏付ける必要があ りました (「味」の見える化)。試験方法 おいしい「味」の指標となる うま味、塩味、食感を見える化するため ・遊離アミノ酸、核酸類の定量分析 ・塩分、水分量の測定 ・脂質の融点変化、遊離脂肪酸量の測定 を行いました。主な結果 うま味を持つグルタミン酸は塩漬中に増加し塩漬28日目には、もとの豚肉(塩漬 0日目)の3倍以上になりました。 同じくうま味を持つアスパラギン酸は、浸漬21日目以降に生成し始めました。試食品の案内で写真が2枚「うまみ3倍セット」「本日のうまみ」。うまみ3倍セット熟成時間が特に長い商品。当店選りすぐりの内容です。 ボンレスハムスライス 150g ロースハムスライス 130g ベーコンスライス 100g 黒毛和牛コンビーフ 130g 税込 5,400円【5,937円相当】 ※ うまみを味わう会のみでの販売です出てきた試食品(左上から)ロースハム、黒毛和牛コンビーフ、レーゲンスヴルガー ボロニアソーセージ、ベーコン、熟成ロールシンケン約15分ほどの試食会で談笑後、右側が店舗へ。工場はシャッターを入った中にある。今夜の酒のつまみでロースハムを購入。熟成肉工房ジローの向かい側に建つ「もんじゃ焼き 華よし」。定休日月曜日、まだ訪れていないのでいつか。14:40走るルートを頭に描きながら、西方向へ進み小出川へ。萩園橋から小出川を下り浜園橋の工事現場へ工事状況を見に立ち寄る。浜園橋の工事現場を左岸(東)の上流側から撮影。前回1月31日(水)に訪れているが、10日を経ても同じ状況であった。小出川の鶴嶺橋までのウメ並木はピークを過ぎていたようだ。ズームアップするが散策中の人がスマホで撮影。浜園橋から ”小出川の河津桜” への途中、農耕地の農道脇に石碑。萩園南土地改良完成記念碑本 番場向田地区面積6.33ヘクタールの耕地全域田圃であり農業振興地域である。古来未整地地形最悪の状況下土地改良することが念願であった。今回相鉄興産㈱、相模興業㈱二社により土地改良を前提とした砂利採取に地権者の賛同を得て平成九年十月県の認可、十一月土地改良区設立、県市土地連合会関係機関の指導協力の基に工事着工県市の補助により整備することが出来ました。地権者皆様の理解ある協力をいただき約九年間の歳月をかけいろいろな困難を乗り越えて萩園の歴史にのこる願望の土地改良事業が完成しここに記念碑を建立します。 萩園南土地改良区 平成十二年二月吉日前方に新鮮野菜、焼き芋の販売をしている ”あぶさんふぁーむ” 。小出川の河津桜会場菜の花は満開になっていたが河津桜はまだ蕾が膨らんだ状態。2024年 第15回 小出川桜まつり 各日 10時 ~ 14時まで 2月23日(祝) 24日(土) 25日(日) 3月2日(土) 3日(日) ※ 式典は2月24日」 ※ 雨、雪の場合は中止 ※ 開花状況によって開催期日を変更する場合があります。当日は、模擬店、キッチンカーが勢揃いする。式典会場辺りの河津桜はまだ膨らんだ状態。”小出川桜まつり” は2週間後の2月23日(祝)から開催されるが丁度良いのか。ローアングルから撮影。式典会場から上流側へ進む。下流側より蕾が膨らんでいた。既に咲いている河津桜があったので追う。桜まつり時には上流側はピークになっているのでは。一週間後には満開であろう。この日の走行距離は往復10数キロの散策であった。 END
2024.02.16
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今日最後の目的地「龍藏神社」へ。1月24日(水) 14:05庫裡橋の手前から、小鮎川の下流側を望む。朱色の庫裡橋を渡ると、県道60号線(厚木清川線)の ”飯山観音入口交差点” 。橋の袂に ”庫裡橋 (くりはし)” の石柱。庫裡橋古くは華厳山金剛寺の庫裡(くり)に向って架かっていたもので、このことから庫裡橋と呼んだと言われている。石碑には「農道改修紀念」と刻まれ。他にも「昭和二十九年壱月竣工 橘場生産組合」と。左側には古い石碑、双体道祖神も。健康・交流のみち ウォーキングマップ小鮎川沿いの名所が案内されている。庫裡川から小鮎川に沿って下ると前方に新しい玉垣に囲まれた神社。玉垣の下に「龍藏神社」と刻まれた社号標石。護岸の左側に「飯山の七不思議」。下流側に ”七不思議のイラスト” が描かれた七枚のプレート。飯山の七不思議~ 弘法の米とぎ水 ~飯山の地名の起源とされた金剛寺後方の飯盛山から流れ出す水は、弘法大師が托鉢でもらった米を毎日山麓の庵でといだので白く濁っていた。そのため、弘法の米とぎ水と呼ばれていたという。~ 亀甲の松 ~飯山観音には亀甲の松と呼ばれた松があって、木肌が亀の甲羅のような模様になっていたという。~ 久保の万年橋 ~飯山に来た行基が光福寺の前の小川に橋を架けた。その橋が一度も架け替えられたことがなかったため「万年橋」と呼ばれていたという。~ 千ヶ沢の貝殻石 ~白山から小鮎川に流れ込む沢の中で、貝の化石紋の入った石が見つかるのは千ヶ沢だけだという。化石はいまでも見つかるという。~ 弘徳寺の袈裟掛けの松 ~千頭にある弘徳寺には、親鸞が関東布教の際に植えたという松に関する伝説がある。この松は、親鸞の願いにより通常二葉ある葉が一葉であったので「一葉の松」と呼ばれていた。後に覚如が袈裟を掛けたことから「袈裟掛けの松」とも呼ばれた。~ 恩曽川の片葉の葦 ~むかし恩曽川で川遊びをしていた子どもたちが河童によって水死させられた。怒った住民が川をせき止め、河童を捕まえて問いただすと、「もうやらないので、自分たちの住まいである片葉の葦の場所の河童権を認めて欲しい」といったという。~ 白山池の霊水(白龍伝説)~むかし旱(ひでり)が続いたので、農民達は雨乞いの行事をして、白山山頂の白水池の水を空にしたという。すると白龍が現れ、三日三晩雨を降らせたと伝えられている。小鮎川に架かる庫裡橋。庫裡橋をズームアップ。小鮎川は三峰山、辺室山付近を水源としており、谷太郎川、柿ノ木平川、法論堂川とその他複数の沢の湧水などが集まり小鮎川を形成し南東に向かい厚木市北部で荻野川を合わせ、中津川とともに相模川に合流する。 愛甲郡清川村の伊勢原津久井線64号線に架かる中川橋から相模川合流地点までの13.75キロメートルである。龍藏神社 (りゅうぞうじんじゃ)所在地:神奈川県厚木市飯山5526龍蔵神社は神亀2年(725年)僧行基が勧請したと伝えられます。古来より地元飯山の氏神様として崇められてきた神社です。古称、井山神社龍蔵大権現。右側の狛犬、阿形像。左側の狛犬、吽形像。龍藏神社の社殿は工事中であった。龍藏神社は1751年(宝暦元年)に拝殿を再建、1833年(天保4年)に本殿を再建した。昭和34年に覆殿、拝殿を修復した。例際日は8月第1日曜日で「祈雨祭神事」がある。龍藏神社御由緒祭 神 級長津彦命 (しなつひこのみこと) 級長戸辺命 (しなとべのみこと)例祭日 八月一日 現在は八月第一日曜日社 殿 本殿(流造柿葺)、覆殿(神明造)、拝殿(入母屋造亜鉛葺)、神楽殿(寄棟亜鉛葺)、手水舎由緒沿革 神亀二乙丑年(725) 僧行基勧請すると云伝えられる。古昔は井山神社龍蔵大権現と称した。 治承四年(1180)鎌倉頼朝公の願により、神祇官(白川殿)奉幣の相模国六十一社の内に入り 社領も旧来の寄附地と天正十九年(1591)徳川家康公より社領高二石の朱印がある。宝暦元 年(1751)拝殿を再建、天保四年(1833)本殿も再建した。 明治二年朱印地上地となり、明治六年七月三十日足柄県に於いて村社に列格、明治四十年 四月三十日神饌幣帛料供進の神社に指定された。 昭和三十四年覆殿、拝殿を改築した。特殊神事 祈雨祭(旱魃に際し行われる神事である)。当日社頭に集合し、祈雨祭を執行する。前の川原 に下りて水垢離を取り、それから筧ヶ沢、通称、白山の池の水を浚うのが古例となっている。宝 物 古瓶 二個、古鏡 二個手水舎。作業員の方がおられ聞くと、自分たちは足場業者であると。この後屋根を銅板葺きに替えるとのこと。拝殿の扁額「龍藏神社」。拝殿前から東方向に鳥居。道路の先に小鮎川が流れている。社殿の右側に建つ神楽殿。境内の隅の木の根元に石仏が並んでいた。社殿の右側から。後方に駐車場がある。境内を振り返る。龍藏神社の本殿裏(西側)の駐車場から。駐車場は十台ほどのスペースがあり、脇には竹林があった。サクラの木を見上げると野鳥が飛来していた。ズームアップするが野鳥の名は?である。龍藏神社から庫裡橋へ戻る。ここは「飯山トレイルランニングのスタート・ゴール」地点になっている。庫裡橋の西側に ”中飯山自治会館” が建つ。入口に ”中飯山自治会館” の看板。自治会館は地域交流や観光案内の拠点として活用されている。飯山花の里花が咲き誇る時期にも訪れたいものです。ステージに書かれた「ようこそ!! あつぎ飯山花の里へ」。”飯山花の里” に植えられていたこの苗はポピーであろうか。昨年秋に咲いたざる菊の残骸であろう。金剛寺への参道にはサクラの木が聳える。車は右側奥に停めた。金剛寺参道右側の石碑には「禁葷酒入門」と。駐車場脇にあった簡易トイレ。金剛寺を遠望。金剛寺の参道。14:30老朽化した ”金剛寺大師堂” 。サクラの咲く時期に再度訪れたいと思いつつ帰路につく。県道60号線(厚木清川線)を厚木に向かって走る。懐かしい車輛が走る。国道412号と合流する及川中原交差点。この交差点を右折して厚木市街地へ。国道246号から国道129号に入り平塚方面へ南下。上は東名高速道路の高架橋。東名高速道路厚木インタ入口。新東名高速道路厚木南インタ入口。厚木南インタ入口。ここを入り圏央道の寒川南インタまでのルートがあったが一般道を走る。15:00国道129号を平塚に向け南下、県道22号線(横浜伊勢原線)との立体交差、戸田交差点を潜る。かつては渋滞箇所であったが。自宅には15時40分に到着、走行距離は約55キロであった。今日の歩行数は山道を約7,300歩。 END
2024.02.14
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飯山観音 長谷寺を後にし、巡礼道を下る。1月24日(水) 13:40巡礼道入口。両脇にはサクラの古木が聳える。門建立寄附者御芳名一金 参拾萬圓也 小島正一一金 拾萬圓也 本杉良三一金 七拾萬圓也 長 谷 寺 協力者御芳名 森住慶市 内山喜久治 田中美代治 森住規市市 施工者 菊地工務店昭和五十二年十月 現住 隆應正面奥に ”仁王門” 。左側はバス駐車場で1日、1,000円と。仁王門をズームアップ。サクラの枝が広がっている。順礼道に立つ古い石碑には「弘法大師道○○」と刻まれているのか。一輪のツバキが咲いていた。順礼道から左方向(北側)に先程訪れた ”厚木ロウバイの丘” を見上げる。順礼道を下ると門。古木の梅が満開に。門を潜り振り返る。左側の道は新しく有料駐車場へ。右側の道は民家?への道である。巡礼道を下ると道路脇でミカンの無人販売。一袋200円と割安であったので購入と考えたが釣銭がなく。丁度来ておられたご婦人も両替ができないとのことで、「販売元へ行ったら」と。両替をするために坂を上ると ”冠木門” の立派な家へ。門前にぶら下がっていた札には、「厚木市飯山5474 5526 飯谷・神社関係」。ネットで調べるとこの後参拝した「龍藏神社」の社務所であった。玄関先の呼び鈴を鳴らし中へ入り両替を依頼。土間にはいろんなものが飾られていた。壁には、”龍藏神社” のお守り、ご朱印が置かれていた。大女将さんに聞くと息子が ”龍藏神社” の宮司をしていると。天井からは釣り飾りも。売ってくれないかと尋ねるが不買品だと。絵葉書大女将さんが気に入っているという絵葉書。ミカンの試食をし、二袋購入して帰路につく。順礼道を振り返る。駐車場への道は川を挟んだ左上を上る。飯山観音入口方向を見る。自動車道は右側のガードレール。この辺りもサクラ並木になっている。飯山案内板 ウキウキNAP下る左側に ”稲荷社” が建っていた。社は開けられていたが説明板はなく。社殿は真新しい注連縄と紙垂で飾られていた。中を覗くと多くの狐が並んでいた。順礼道に戻り振り返る。道路脇に庭園の如くに石組みがされ水が流れていた。石の上には鯱。石碑には「飯山名水」と。句であろうか「〇湧きし ふるさとの〇 蝉しぐれ」。その中に一本の木が聳えていた。枝には看板がぶら下がり、「10月桜 10月桜は10月に咲き始めて中旬に満開となります。その後には花数は少なくなりますが 翌年の2月上旬までぽつぽつと咲き続けてとても長く楽しめます。」と。順礼道を振り返り ”飯山観音参道” を見る。厚木に春の訪れを告げる約3000本の飯山のサクラ。庫裡橋から飯山白山森林公園へと続く約600メートルの飯山観音参道には、満開のサクラが咲き乱れると。この時期、サクラの葉は散り殺風景である。飯山花の里この先にもサクラ並木。ミカンを買った大女将さんが仲間とここの整備をしていると。順礼道を下ってくると、保険医療機関 MED AGRI CLINIC あつぎ所在地:神奈川県厚木市飯山5547令和3年(2021)6月にオープンした。医師と看護師らによる、良質なチーム医療を提供します。おひとりで通院されるのが大変な方や、介護を受けておられる方、訪問診療(在宅医療)を是非ご利用ください。医師・看護師が定期的にお宅に伺い、しっかりと診察・治療いたします。緊急事態には24時間体制で迅速に医師と看護師が対応します。介護事業者の方々とも協力しながら、患者様の安全かつ快適な生活をサポートします。健康のこと、医療のこと、生活のことお気軽にご相談くださいと。入口の掲示板には、「閉館のお知らせ 当館は令和元年12月30日をもって閉館いたしました。 毎度のお引き立て誠に有難う御座いました。 ふるさとの宿」。"旧 ふるさとの宿" の駐車場。かつては日帰り温泉客、宿泊者の車が・・・。”旧 ふるさとの宿” の庭先に「高松宮御来館記念碑」が建っていた。側面には、昭和三十年六月六日と。”ふるさとの宿” は閉館したようだが、庭はそのまま保存されているようだ。”飯山花の里” の先に ”金剛寺大師堂” が建つ。14:05順礼道を下り庫裡橋手前に建つ門には「飯山白山森林公園へまたどうぞ」と。 ー 続く ー
2024.02.13
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観音堂(本堂)の周りには ”坂東三十三観音様” が祀られている。観音様は階段を上って来て観音堂に向かって左側から時計周りに ”坂東第一番" から始まっている。1月24日(水) 13:15飯山観音長谷寺の境内左側。入口に「三十三観音参拝順路」の案内板。大きな石の上に ”坂東 第一番” 。石碑には、坂東第一番大蔵山杉本寺” たのみあるしるべなりけりすぎもとの ちかひはすえのよにもかはらじ ” 相模国鎌倉鎌倉の杉本寺は「鎌倉の古刹の梅」👈 をクリック願います。観音堂(本堂)を左側から望む。本堂左側の木組み。本堂の扁額。三十三観音参拝路脇に立つ案内板。白山森林公園 ハイキングコース白山展望台・男坂(15分)・女坂(25分)トイレは普通車駐車場にございます。”坂東 第二番” 背面には大きな木が聳え、急傾斜になっていた。”坂東 第三番”更に進み、三十三観音が立ち並んでいた。”坂東 第八番”台座の側面には七名の名が刻まれていたが奉納者であろうか。本堂の左奥の階段入口に「栄光への坂道」と刻まれた石柱が立っていた。坂道の両側に ”坂東 第十番” 、”坂東 第十一番” の観音様。また「男坂」と。石柱には、「チーム厚木の選手達が頂を目指し トレーニングに励む場所です。 令和六年一月 厚木市」と。本堂裏に並ぶ観音様 ”坂東 第十二番” 。手前には ”坂東 第十五番” 、奥の傾斜地には ”坂東 第十三番” 、”坂東 第十四番” が並ぶ。右側には ”坂東 第十六番” の観音様。三十三観音参拝順路を時計回りに巡り、本堂の右奥から。本堂前の石燈籠をズームアップ。更にズームアップすると海老名駅廻りの高層ビルであろうか。北側に建つ ”厚木市戦没者慰霊堂” を見下ろす。大きな木の根元には ”坂東 第二十番” の傾いた観音様。こちらの石碑は、「一九八三年十月 蜜蜂供養塔 神奈川県養蜂組合 神奈川県知事 長洲一二」と。サクラの木の下に ”坂東 第二十二番” の観音様。本堂右奥の木組み。”飯山トレイレ・ランニング” の案内板。あやめコース、もみじコース。山の中腹に石碑、階段下には社が建っていた。社の前にはミカンが供えられていたが説明板がなく。階段下の広場の片隅に石碑がありここにもミカンが供えられていた。動物慰霊碑この碑は長い間人間の愛玩動物として親しまれてきた犬や猫の霊を慰めるとともに動物愛護の精神を高揚する目的で建立したものです。 昭和五十五年三月吉日建立 厚木市階段を上ると正面に「聖観○○○○」と刻まれていたが。これが ”動物慰霊碑” かと思ったが。観音堂(本堂)を見上げる。広い広場の上に新しいお堂が建っている。石柱には「厚木市戦没者慰霊堂」と。慰霊堂像建立記念碑祖国の栄光と平和を願いつつ、明治以来幾多の戦役に、若く尊い生命を捧げられた、厚木市1400余柱の御霊のとこしえに安らかならんことを祈念し、併せて悲惨な戦争なき平和をこい願って、ここ飯山の霊地に戦没者慰霊堂像を建立いたしました。堂宇内安置の釈尊像は、市内妻田に在住の日展会員、難波孫次郎氏に依頼し、氏が一刀三拝の礼意をつくして造顕されたものであります。願わくば、この功徳をもって、人類永遠の平和と郷土の繁栄が成就されますよう、御霊のご照覧を仰ぐ次第であります。 昭和49年11月29日 撰文並びに書 厚木市長 石井忠重 厚木市戦没者慰霊堂飯山観音の駐車場の奥、一段登った場所に建立されている。建物はRC・鉄筋コンクリート造で面積35㎡。参道に立つ案内板。”厚木市戦没者慰霊堂” を見上げる。山道脇に立っていた「馬頭観世音」。廻りにはサクラの木が植えられているので開花時も楽しみだ。あつぎ飯山温泉郷ハイキングコース白山・猪久保・白山順礼峠ハイキングコースの所要時間が記されている。公衆トイレと手前に飯山観光協会管理棟。13:35駐車場出口の精算機。右上は ”長谷寺の仁王門” 。次回参拝する時はここの駐車所を利用することにし、巡礼道を下山する。 ー 続く ー
2024.02.12
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”飯山観音長谷寺” の駐車場から階段を上り2段目のエリアを散策。1月24日(水) 12:55持仏殿前に聳える、かながわの名木100選に選定されている ”飯山観音のイヌマキ”。飯山観音のイヌマキの下には、地蔵像、手水舎、句碑が建っていた。句碑と地蔵。句碑には「犬槇の・・・・・・ 白○」 。句碑の裏面には、白〇(はくぼう) 姓は前島、名は幸視、大正二年埼玉県に生まれる。戦後、東京池袋に出版業国文社を創立。俳誌「河原」同人、俳人協会会員。彫句は第三句集「観無量寿経変相図」所出のものである。この句は天然記念物に指定されている犬槇の裏側、すなわち暗い北側から眼下に広がる満開の花の海を見下ろしている作品である。句の眼目は、その花の海が鮮明に見えるところにある。ここのところをたしかめて読誦していただければ幸甚である。 昭和六十一年十月吉日 河原主宰 川島彷〇子 同人 辛崎 修羅 〃 本杉 桃林 〃 阿部 弘子 現住 陸應 代地蔵は小さな社で囲われていた。前には4つの大きなミカンが供えられていた。六地蔵が並ぶ。右奥は有料駐車場からの道であるが寺関係者のみの道路である。サクラのつぼみが膨らんでいたが河津桜であろうか。あと数日で開花するのでは。観音堂への最後の階段。階段の両側には奉納された多くの石燈籠が立っている。階段右下の小さな池と五重塔、観音様。ここにもミカンが供えられていた。天国への階段の如くに・・・。階段を上ると正面に「観音堂」。長谷寺は、神奈川県厚木市飯山にある高野山真言宗の寺院。山号は飯上山。本尊は十一面観世音菩薩で、坂東三十三観音霊場第六番札所、東国花の寺百ヶ寺神奈川六番札所である。飯山観音とも称される。階段を上ると右側に、「銅鐘」。銅鐘は、神奈川県指定重要文化財に指定されている。神奈川県指定重要文化財 銅鐘(嘉吉二年) 一基 平成二年二月十三日指定本銅鐘は室町時代の嘉吉二年(1442)の年紀を有し、刻銘には銅鐘製作の経緯が細かく記されています。それによりますと、毛利庄飯山の新長谷寺が嘉吉二年の春、火災により焼失したため、新堂宇の再建に先立ち、人々の銅鐘鋳造への強い願いから、麓の金剛寺住僧であった誾勝が、多くの信者から寄付を募り、同年の四月五日に完成したといいます。焼失から短期間のうちに再建がはかられたことは、観音堂、新長谷寺、金剛寺の力が大きなものであったことを示しています。鐘を製作したのは、飯山の鋳工大和権守清原國光、銘は建長寺の心林によるものです。『新編相模国風土記稿』の飯山村観音堂の項には、観音堂は長谷の観音といい、飯山寺と号し、別当は長谷寺であると記されています。中世飯山の寺院に係る信仰活動や飯山の鋳物師の様相を知ることができる貴重な銅鐘であるといえます。 総高 一四一センチ 口径 八一センチ 平成二十二年三月 厚木市教育委員会階段上から振り返える。常香炉仏様にお香を供え、その煙を浴びることで心身を清めることができる場です。体の悪いところにその煙をかけると悪い部分が治ると言われております。線香の束に火をつけ手で払い、なるべく煙が上がったらそのまま常香炉に刺して身を清めましょうと。もう何度も行っているのだが今だ・・・。信仰心が薄いからか・・・。観音堂 (本堂)観音堂の建築年代は18世紀中期と推定され、昭和37年4月に厚木市有形文化財に指定された。御本尊は、木造十一面観世音菩薩立像。屋根は宝形造の銅板葺であるが、当初は茅葺であった。厚木市指定有形文化財 長谷寺観音堂 昭和三十七年四月二十日指定当山は飯山観音の通称で親しまれ、坂東三十三観音霊場第六番の札所です。この観音堂(本堂)は江戸時代に建立されたものと推定されます。正方形平面で、屋根は宝形造の銅板葺ですが、当初は茅葺でした。向拝(ごはい)は当初からのものとみられますが、軒唐破風(のきからはふ)はのちに付加されたものと推定されています。四周には木口縁を巡らし、擬宝珠高欄をまわしています。観音堂の正面中央間とその両脇間は両折桟唐戸(もろおれさんからど)、両隅間は連子窓という古風な構えを見せ、側面も前一間を両折桟唐戸としています。いわゆる「密教本堂形式」と呼ばれる仏堂の形式で、堂内は内陣と外陣が格子戸によって結界されています。内陣は仏様の空間で一般の人は立ち入ることができません。各地の観音霊場寺院などに多く見られる形式です。外陣は、桟唐戸や連子窓を用いて地方仏堂らしい一面も見せています。内陣には寛文十二年(1672)に飯山村の大工・西海半右衛門によって建立された一間厨子が安置され、その中に本尊の木造十一面観世音菩薩立像が納められています。 令和二年九月 厚木市教育委員会観音堂前から境内を振り返る。中央に常香炉、両側には石燈籠が並ぶ。左奥に銅鐘。向拝は当初からのものとみられるが、軒唐破風はのちに付加されたものであると。向拝の彫り物。右側の木鼻。観音堂には二枚の扁額「飯山寺」「長谷寺」が掲げられている。本堂左側の木組み。まさに匠の業である。右側も対称に。立ち並ぶ石燈籠。石燈籠建立記念碑当山境内及び参道に建立されております石灯籠は観音堂屋根葺替工事資金調達の一事業としてご協力を頂いたものであります。浄業完遂に大きく寄与されたものであります。ここにご奉納各家のご繁栄を心よりご祈念申し上げます。 合掌 平成元年十一月三日 現住 隆應代 観音堂(本堂)の周りに ”坂東三十三観音様” が祀られている。階段を上って来ると観音堂に向かって左側から時計周りに ”坂東第一番" から始まっている。境内の東側には ”坂東 第三十三番"。台座の横面に何か刻まれていたのだが。坂東 第三十二番観音堂に向かって右側に石碑。石碑には「頌徳 安藤覚先生之碑 厚生大臣 園田直 謹書」安藤覚先生 略歴先生は飯山5051番地に憲三氏の四男として明治丗二年六月十六日誕生。大正十一年四月日大文学部宗教科夜間部に入学 仝十四年三月卒業。昭和十二年六月讀賣新聞社に入社政治部長編輯局次長として活躍其手腕を認められ十七年翼賛政治体制〇議会推薦神奈川県第三区より衆議院議員選挙に立候補當選し大日本翼賛会連絡部長内閣参與内務省委員に就任 翌年内閣行政委員に補せらる。昭和廿一年五月公職追放令により追放廿六年六月解除其間悠々自適農耕に又社会教化の為め活躍。昭和廿八年自由党に入党同党公認にて衆議院選挙に立候補当選農林水産委員に。翌年十一月三木武吉氏を中心に日本自由党結成八人の侍の一人として清廉潔白・・・・・・・・中略・・・・・本國と韓國との条約並に一般協定に関する特別委員会委員長に就任十二月韓國京城で行われた日韓条約批准書交換式典特派大使顧問にて出席無事任務を果して帰朝。昭和四十二年十一月廿七日午前五時十二分肝臓癌のため六十八歳を一期として逝去痛恨に不堪。同日特〇を以て正四位に叙せられ勲二等旭日重光章を追〇された。昭和四十二年十二月厚木市葬を以て遇せらる。 法号 大本山総持寺顧問廣廣徳寺十六世大心覚堂大和尚禅師境内にはいろんな石碑が建っていた。"坂東 第三十一番”左側に石碑が建っていたが風化して判読できなかった。左側の句碑には「松風の 桜並木に とどきけり」。作者の名は「泉山」? である。右側の碑も「浄〇碑」。漢字のみが刻まれていたがこちらも風化して判読できなかった。折角なら説明文でも欲しいものだが。クスノキの大木であったか根元から ”銅鐘” を望むが廻りにはいろんな石碑が建っている。後方(観音堂の右側)には、”坂東 第三十番 ~ ” が並んでいる。こちらにも二つの石碑があったが。境内の右側から観音堂を見る。観音堂への参道の左側へ廻る。背丈2メートル以上の宝篋印塔が建っていた。箸観音厚木市・飯山の恒例「箸供養」。毎年、多くの人が訪れこの行事が実施される。かつては十一月三日に行われていたようだが。箸観音像建立の主旨凡そ生命を維持する衣食住のうち食を司る箸、ある時は慶び、ある時は悲しみの箸となって、太古より今日までその姿、形を変えることなく日々恵みを受けて参りました。ここに、箸観音像を建立し、納めの箸をご供養申しあげ食生活の安泰を祈念するものであります。 具一切功徳 慈眼視衆生 福聚海無量 是故應頂禮 乃至法界 平等普遍 平成二年十一月三日白壁で囲まれた中にミカンが供えられた墓碑が並んでいたが説明板がなく不詳。13:15畜霊供養塔 厚木市畜産会会長 石井忠重書左後方には「鶏魂供養塔」の碑も建っていた。 ー 続く ー
2024.02.11
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飯山観音 長谷寺(ちょうこくじ)へ参拝。すれ違った方の会話で「はせでらはない!」と。1月24日(水) 12:40飯上山 長谷寺所在地:神奈川県厚木市飯山5605階段の上に近年改築されたようで新しい ”仁王門” が建っていた。飯山観音前バス停から巡礼道を歩いてここまで650メートルで約12分を要する。寺号標石には、「坂東第六番霊場 飯上山 長谷寺 飯山観音」⇐ 参拝順路 坂東六番丹沢三山 飯山観音 長谷寺 白山ハイキングコース 白山展望台・男坂・女坂方面 階段脇にいろんな石碑が建ち並んでいた。坂東第六番霊場 飯山観世音 長谷寺厚木市戦没者慰霊堂句碑には、「梵鐘の 余韻若葉の 峡渡る」 昭和四十五年四月 岩崎春星森林セラピーロードマップマップには現在地から、県立七沢森林公園までのコースが書かれていた。森林セラピーとは、森林の生命力などを五感を通して感じたり、森林環境を効果的に活用することで、心と身体の健康維持・増進に活用していく取り組みの総称です。森林セラピーロード 白山順礼峠ハイキングコース 約3.4km/約2時間かつて信仰のために開かれた順礼峠は、七沢地区と飯山地区にある飯山観音を結ぶ尾根の縦走コースです。順礼峠では、大きな石仏が訪れる人を迎えてくれます。丹沢大山山塊を間近に一望でき、快晴時には白山展望台から、相模湾、東京湾まで見渡せます。”順礼峠” は以前アップの「七沢森林公園」👈 をクリック願います。今朝の寒さで法面に霜柱。ズームアップ。こちらの石碑には「かながわの景勝50選 飯山観音」と。階段を上り南側の高台から ”仁王門” を見下ろす。仁王門は三間一戸八脚門で寄棟造。旧茅葺で前面両脇間に金剛柵を立てて仁王像を置く。全体に簡素な造りで、大振りの舟肘木や彫刻の施された細部が全くないことなど、古風で中世の建築とみられる。仁王像は、宝永年間(1704~1711)に飯山村の安西金左衛門が願主となり造立したものである。現在の仁王門は大規模な修繕が行われ、令和2年(2020)11月3日に落成された。捨身飼虎 (しゃしんしこ)お釈迦様の前世の物語の一つ。薩埵王子(さったおうじ)(お釈迦様の前世)が、飢えた虎の親子と出会い、我が身を投げ出して食べさせ、虎の母子を救う話。慈悲と布施の心を表している。仁王像宝永六年(1709年)、飯山村の安西金左衛門が願主となり造立された金剛力士像(仁王像)を安置している。慶派仏師の作。山門は令和二年(2020年)に大規模改修が行われたが、接ぎ木を行うことで、敷居や柱には、当時の材木が残されている。捨身飼虎 (しゃしんしこ) の彫り物。左側:衣服を脱ぎ崖の上に立つ 右側:崖から身を投じる下段の彫り物は「虎にその身を与える」。右側の「阿形像」。怒りの表情ではなくなんとなく笑っているように見える。左側の「吽形像」穏やかなお顔に見える。二つの像は昔の像であるのか。仁王門の左上の丘から見下ろす。落葉したサクラの木が聳え、中央下は ”飯山観音前バス停” から巡礼道を上ってきた終点である。ここまで約650メートルで、歩いて約12分を要する。林越しのゴルフ場は「厚木国際カントリー俱楽部」である。厚木国際カントリー俱楽部をズームアップ。更にズームアップすると遠くに横浜の高層ビルが見えた。斜面に白いスイセンが咲いていた。先日ラジオで今の時期咲くのは白いスイセンで、この後は黄色のスイセンが咲くと言っていたが。仁王門の上から見下ろす。鴟尾 (しび)(沓形ともよばれる)鴟尾は棟飾りの一つ。魔除けや火除けの目的から付けられたもので、飛鳥時代に瓦と共に中国から伝わった。棟飾りとしては最古の形式のもので、これが後に鬼瓦や鯱などに発展していった。形の意味は魚が水面から尻尾を出している様子とされる。新しい ”鴟尾” をズームアップ。 階段の途中から歌碑を見る。駐車場の位置から階段を二つ上り、仁王門を見下ろす。階段の両側にスイセンが咲き乱れていた。階段を上ると石碑、石灯籠が建っていた。持仏殿門の手前に、「受付 ← 持仏殿 (本坊) ご朱印・お守り・お札 受付時間 8時30分 ~ 16時30分」。 持仏殿門持仏殿門の表札には「坂東第六番 飯山観世音長谷寺執務所」と。持仏殿門の扁額「○○○」。持仏殿門を潜ると左側に「弘法大師像」。持仏殿門、弘法大師像を見る。飯山観世音長谷寺執務所前から、駐車場の上2段目のエリア。飯山観世音長谷寺執務所前から横浜市街地のビル群を望む。手水舎水屋建立者御芳名 一金 五拾萬圓也 住所 氏名 ・・・・・ ・・・・・ 昭和五十二年十二月吉日 水子地蔵であったか。かながわの名木100選 昭和59年12月選定飯山観音のイヌマキ 和名:イヌマキ (マキ科)室山時代末期ごろ、多くの巡礼者の無事や、参拝者の長寿を祈願して植樹されたと伝えられている古木である。厚木市の天然記念物に指定されている。 樹高 17メートル 胸高周囲 2.8メートル 樹齢 約400年 (伝承)イヌマキは、関東南部から沖縄の照葉林帯に分布する常緑高木で、沿岸地域では庭木として植えられることが多い。樹高20メートル、胸高周囲7メートル、樹齢約600年に達するものもあると言われている。マ キ マキ科暖かい地方に生える樹木です。イヌマキとラカンマキの2種類があり、庭木や生垣としてよく植えられます。イヌマキの下に幼い弘法大師のお姿。大きなミカンが供えられていた。この石碑は歌碑であろうか、「山鳥の・・・・・・・・・」。12:55かながわの名木100選 ”飯山観音のイヌマキ" が聳える。 ー 続く ー
2024.02.10
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”厚木ロウバイの丘” を後にし坂を上り「花の広場」へ。1月24日(水) 12:15”厚木ロウバイの丘” の脇に遊歩道。遊歩道脇の標識には、 「飯山トレイル・ランニング あやめコース ▼ 0.5km」。ロウバイを見上げる。逆光を浴びるロウバイ。ロウバイの枝には黒い種子がぶら下がる。ここのロウバイの樹高は2メートル程であったか。行歩道から ”厚木ロウバイの丘” を見下ろす。”松田町寄ロウバイ園” に比べスケールは小さいがまた違った趣がある。ズームアップ。熊野神社所在地:神奈川県厚木市飯山5472飯山トレイル・ランニング沿いに建つ神社で鬱蒼とした森の中にある。木製の鳥居に「熊野宮」と書かれた扁額。緩い坂道を上ると木の下に社が建っていた。社の傍には木が聳える。石垣の上に社が建っていたが詳細は説明板がなく不詳。社の中には石祠が鎮座していた。社の前から遊歩道を見下ろす。左が上って来た ”厚木ロウバイの丘” 、この後右方向へ進む。桜の広場入口に立っていた道案内板「金剛寺 500m、飯山観音バス停 700m」と。桜の広場”あつぎ飯山桜まつり” で有名な飯山白山森林公園の「桜の広場」が、リニューアルオープン。桜の広場は、飯山観音長谷寺と共にサクラの名所として知られており、リニューアルされた広場には、ソメイヨシノやヒガンザクラなどをはじめ、アジサイやモミジなどが植栽されている。また、広場内を散策すると歩道があるほか、子ども向け遊具や健康遊具、ベンチ・テーブル、イベント用のステージなども設置されている。また、スマホ用の撮影スタンドが用意されていた。スマホの自撮りで記念写真を始めて撮影。桜の広場には「夫婦松」が聳えていた。夫婦松夫婦松は、飯山観音の亀甲松に次ぐ名松で周囲は一丈有余を誇り、楕円形馬場中央部の東側に男松、西側に女松があり、勇壮な男松とさながら女性にも似た枝振りの女松は、夫婦松として親しまれ愛された。縁結びの観音様と象徴するかのようなこの松も今はなく、高く盛り上がった円形の土のみが往時の思いをとどめている。飯山花音頭 作詞 西海利雄 作曲 藤沢和光一、ハーー ニ、ハーー 飯山飯山に咲く花は 飯山飯山に咲く花は 男心を見るように 女心を知るように パッと開いてパッと散る ソッと開いてソッと散る ソレ春の飯山の夕暮は ソレ観音様よお願いね 霧がつつんだ・・・エー夫婦松 主と二人の・・・エー縁結び三、ハーー 飯山飯山に咲く花は 君の幸せ呼ぶように 若い二人が指切の ソレ影を映した花明り ほんのり浮かぶ・・・エー庫裡橋に桜の広場の西側には有料駐車場。駐車場脇にトイレ、飯山観光協会管理棟が建っており後方の法面はシートで養生していた。桜の広場の木柱には、「桜の広場リニューアル記念 樹木名「シダレザクラ」と。西側から ”桜の広場” を見る。飯山白山森林公園「桜の広場」は、令和4年(2022) 3月9日に、リニューアルオープンした。桜の広場には遊歩道。広場にはサクラや、ツツジ、アジサイなどの花木が植樹されている。公衆トイレと手前に飯山観光協会管理棟。トイレは新しく数も多く綺麗であった。飯山観光協会管理棟この日はシャッターが下り閉鎖されていた。あつぎの文化財獨案内板 ~ ふるさと時空探訪モデルコース ~近郊のマップ① 長谷寺(ちょうこくじ) 飯上山如意輪院長谷寺と号する。宗派は真言宗、惣持院(海老名市)末である。 『新編相模国風土記稿』によれば、開山は行基、中典僧蔵海(明徳元年<1390> 8月15日卒)であるという。 ● 銅鐘(県指定重要文化財) ● 石造物 ● 観音堂(市指定有形文化財) ● 仁王門 ● イヌマキ(市指定天然記念物) ② 金剛寺(こんごうじ)と文化財 山号は華厳山、宗派は曹洞宗、本寺は清源院(市内三田)である。本尊釈迦如 来。開山は天文年間(1532~1554)中興の忠洲芳恕(現宗派に改宗)、開基は 空海と伝える。 金剛寺の名が初めて記録に登場するのは『吾妻鏡』の養和2年(1182)5月25 日に、金剛寺の僧が源頼朝に提出した訴状である。この中の寺に係る記述か ら、寺の開創は平安時代末頃と考えられる。その後、この寺は金沢称名寺・ 鎌倉覚園寺・京都泉涌寺(せんにゅうじ)と深い関わりを持つとともに、飯山 観音堂とも密接な関係を有し、中世における相模国の律宗の中心寺院となっ たのである。 ● 木造阿弥陀如来坐像(国指定重要文化財) ● 石造物● 弘法大師堂● 山門● 木造地蔵菩薩坐像(県指定重要文化財)この説明板は、大師堂の前に欲しかった。桜の広場で紅梅が咲いていた。ズームアップ。更にズームアップ。歴史を感じる古い石碑に「坂東六番○○○寺」と。駐車場出口の精算機。右上は ”長谷寺の仁王門” 。新しい看板には、「飯山白山森林公園 桜の広場」。桜の広場に立つ句碑。句碑には「四つ五番もさぞ飯山の花見には」と。裏面には、”白水会” のメンバー15名の名が刻まれていた。老人亭宝水は 武州玉川の辺に住して 飯山白地蔵堂菴主初代つぶね房とは よき俳諧の友であった。文政六年より天保六年六月までの間 つぶね房 宝水の両吟には 心中躍如たるものを 見る事が出来るのでございます。その頃宝水よりつぶね房に「相模の國飯山に庵を結ばれしときく」” 四つ五番もさぞ飯山の花見には ” と花の便りが寄せられたのでございますこの句を見るとき 今から約二百年前より飯山の春の優雅さが しみじみと偲ばれるのです 昭和五十二年四月二日 白水会建之駐車場を振り返る。12:40有料駐車場入口。本来はここへ駐車するのであったか。駐車場は6:00~18:00まで営業。駐車料金は1日500円。 ー 続く ー
2024.02.09
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宮山駅から帰路につき、午後の節分祭へ急ぐ。2月3日(土) 12:15目久尻川に架かる旧道の ”宮山橋” 。左側は上流の新しい道路の ”寒川大橋” 。宮山橋上から目久尻川の下流側を望む。欄干に趣があるが寒川神社に関係。橋の袂にはかつての「宮山橋の親柱」であろうかコンクリート製の柱。寒川神社への旧道は渋滞状態になっていた。寒川大橋そばの道祖神・庚申塔・馬頭観世音所在地:神奈川県高座郡寒川町宮山3812-2近所の方の努力でいつもきれいに整備されている史跡である。地蔵堂の社が建ち、廻りには多くの石塔が建っていた。縁 起地 蔵堂内にニ体の地蔵立像がある。地蔵は一般的に安産、育児、信仰の願いをきいて下さるという。この地蔵も「子育て地蔵」として広く崇敬されており、年ニ回の地蔵講には講中が集まり、町内の子供たちもお詣りをする。道祖神道祖神は、村内に疫病なとが入らないように祀ったもので、他に、交通の神、夫婦和合の神ともいわれる。ここにあるのは文政十一年(一ハニ九)に建てられたもので、一月十四日には団子焼きを行っている。庚申塔庚申の日に徹夜をする習俗を庚申講、庚申待などというが、この講中で建てる石塔が庚申塔である。この塔は嘉永元年(一ハ四ハ)に雷の人々が建てたものである。「右なんご 左あつ木・ハ王子」と刻まれ、道標も兼ねている。馬頭観世音人のために働いた牛馬の供養や、無病息災を願って造立するもの。これは天保十三年(一ハ四ニ)に建てられた。雷の歴史宮山は七つの町内で構成されており、雷はその一つである。南湖よりハ王子へ向かう道が町内を抜けている。寒川神社の社人のうち数軒がここにあり、その家系は天正年間以来、四百年余り続いているといわれ、他の家も同社を崇敬してきた。明治ニ十年頃までは祭礼の時に山車を曳いたといい、その頃の戸数はニ十一戸ほとであったという。大正年間には十三戸に減ったが、平成五年一月現在、六十戸を数えるようになった。 (昭和五十ニ年三月ニ十四日、寒川町老人文化教室雷グループ・皆川起司・金子潔之輔氏作成 の文章をもとに作成した。)左は旧道の「宮山橋」、右は新道の「寒川大橋」。12:35寒川町から茅ヶ崎市みずき地区へ戻る。”せせらぎ公園” のヤシの木。駒寄川に架かる ”新駒寄橋” から上流側を望む。この道は国道1号の本村交差点から大岡越前通りのみずき交差点まで伸びる道路である。前方左に ”プレンティーズ ミルク&チーズファクトリー” 。2023年8月8日オープンの湘南茅ヶ崎にある牛乳製造所である。すぐ近くにある茅ヶ崎の牧場からしぼりたての生乳を直送して、新鮮な乳製品を製造・販売している。Googleマップではまだ古いものになっている。12:40プレンティーズの南の森は ”スリーハンドレッドクラブのコース” 。何番ホールのグリーンか旗が立っている。13:00昼食をとる時間がないのでこの後途中で弁当を購入して帰宅。帰宅時のバッテリー残量、走行可能距離は、50%、38kmであったので今日の走行距離は21km。13:50本村八王子神社所在地:神奈川県茅ヶ崎市本村4丁目13-40茅ヶ崎市本村の鎮守で、節分祭の為、交通安全協会の方が交通整理に参加。本村八王子神社に於いて節分祭日時 2月3日 豆まき時間 → 午後2時00分境内には既に多くの方が参拝しておられた。手水舎拝殿に紅白の幕があり、その通路から豆撒き。八王子神社の境内には浜降祭に参加する八坂神社がありその神輿蔵がある。この日は節分祭で神輿蔵のシャッターが開けられていた。神輿蔵には大小の神輿が収納されていた。近年に修復された大人神輿。鳳凰が取り外され収納されていた。豆撒きの会場へ。危険防止の為、豆撒きは三つのグループに分けて行われる。 ① 小学校の低学年 1~ 3年生 ② 小学校の高学年 4~ 6年生 ③ 大人の部豆撒きの時間も近くなり神社の役員が登壇。境内には千人近い人が集まったのでは。14時になりそろそろ豆撒き開始に。小学校の低学年がロープの中に。予定時間に神社3役の豆撒き開始。下からの要求で近くに投げる三役。年男年女に替わり、下も小学校の高学年に入れ替わる。鬼は外、福は内と叫びながら投げる年男年女の方々。投げ終える。14:10下はいよいよ大人になり、人が多いので分かれてロープ内に。持っておられる枡の大きさは五合枡?。若い年男年女が壇上から豆撒き。小学生が豆撒きを行い下には大人が。子供達も良い思い出になるのでは。既に豆撒きを始めてから20分。下に落ちた豆を一袋ゲット。この後景品と交換しカレーを頂いた。景品と交換し自転車置場へ。まだ境内では豆撒きを行っていた。寒川神社では参拝者が多いのに10分程度の豆撒きで終了したのだが。参拝者も少なくなっていたので再度参加することに。14:30既に30分が経っていたが「これが最後です」とアナウンス。最後に参加し今回も一袋をゲットした。地元鎮守の本村八王子神社の節分祭は盛大で、この後の景品交換に20分を要したのであった。私は二度参加して2個であったが、多い人は10~20数個と、どのような手段で拾っていたのか交換景品はキッチン関係の物が多かったが、カレーを2箱頂きました。子ども会の主婦が係をやっておられたがご苦労様でした。かつては我妻もやっていたようだが、寒川神社に比べ時間も長く、良かった。この後、節分の豆を持ち病院へと・・・。撮影した写真で楽しんだのであった。 END
2024.02.08
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寒川神社の節分祭の後、本殿へ参拝。2月3日(土) 11:35午前の部の豆撒きが終了し本殿へ。神門の ”迎春ねぶた” 。寒川神社の正月の風物詩である迎春ねぶたは、本年で24回目を迎えた。今年のねぶたは「甲辰 ~ 八大龍王 ~」(きのえたつ はちだいりゅうおう) 制作者:諏訪慎氏。右側の狛犬 阿形像。コロナも落ち着きマスクは取り外されていた。左側の狛犬 吽形像。神門下から節分祭の会場を見下ろす。多くの参拝者が午前の節分祭を終え帰路に。神門下から本殿。左側の列は豆撒きの景品交換の列であったが。本殿へ参拝。今年の家内安全を祈りました。本殿前から石畳の境内を見下ろす。景品交換の方が多く並ばれていた。新しいお札を購入しました。破魔矢の多くは売り切れになっていた。いつもの ”破魔矢、車用の交通お守り、お守り袋" を購入。多くの方々が参拝、マスク装着率は50%ぐらいか。狛犬と神門、今年の ”ねぶた” を見納める。節分祭のステージには、豆撒き 午前十一時、午後二時。お子様並びにご高齢の方は神門内で福豆をお受け下さい。社務所前からのステージ上り口。繰り返し使用するので組み立て式のステージ。豆撒き時には紅白の幕の前には警備員が並んでいた。南門から第1駐車場までの通路には露天商が立ち並んでいた。屋台には、”元祖 きせつのくだもの屋さん”。しあわせになるキャンディー、はねつきキャンディー、「ふるーつあめ」と。栃木県産 ”とちあいか” の箱が多く置かれていた。ストロベリーキャンディイチゴに飴をからませているのか。食べたことがないけど ”甘そー”こちらでは ”りんご飴”、500円、400円とあったが。隣では ”チョコバナナ 300円”。五平餅もいろんな種類があり、一本 500円であったか。500円コインの絵が入った ”・・・・・韓流グルメ!”。屋台に ”あげもんじゃ”パリパリトロトロ揚げたてだします!!”横須賀 あげもんじゃ” 600円であったか。第1駐車場脇にあったポスター、”神嶽山神苑(かんたけやましんえん)” 【御本殿の奥庭】 ※ 茶屋「和楽亭(わらくてい)」、方徳資料館 併設 ご祈祷を受けられた方のみ、ご入苑できます。 開苑期間:三月上旬 ~ 十二月中旬12:00参道の東側にある第1駐車場から南門への通路。露天商が立ち並んでいた。寒川神社の第1駐車場から昨年末新しくなった寒川神社最寄りの駅 ”宮山駅” へ行くことに。参集殿(寒川神社)前から旧道を北上 ”宮山駅前交差点”。信号の手前に駐輪場があったがかつては ”柿畑” であったのか。交差点脇の道路沿いに立っていた「寒川町観光案内」。旧道から狭い道を入り、JR宮山駅所在地:神奈川県高座郡寒川町宮山単式ホーム1面1線の地上駅。かつて、ホームから階段を降りた所に木造の旧駅舎が置かれていた。駅舎には多機能券売機が設置されている。2014年12月26日まで営業していた出札窓口では、長距離乗車券なども発売していた。2016年2月21日より茅ヶ崎駅の遠隔管理の下で無人化された。昨年(令和5年)12月17日に駅舎が新しくなったとタウンニュースで知る。この日は節分祭で乗降客が多かった。新しい駅だけにバリアフリー化されホームへは緩いスロープになっていた。当駅は相模國一之宮である寒川神社の最寄駅であるため、初詣シーズンには貸し出しプレハブの臨時出札窓口が駅の周りに複数設置され、駅員が多数派遣されている。後方は圏央道の高架橋で、北側には ”寒川北インタ” がある。JR宮山駅 構内案内図新しくなった駅舎で無人駅である。右奥は寒川北インタの高架橋。データは古いが利用状況は、2014年度(平成26年)の1日平均乗車人員は2,210人である。かつての ”宮山駅”写真は昨年6月10日(土)に撮影。さむかわの観光 ようこそ 寒川町へ下り橋本行きの電車が到着。地元八王子神社の節分祭が14時からの為、引き返すことに。12:15宮山駅から戻る途中、台畑第二踏切近くにあった社。相模線 6K987M 幅員 2.1M。 ー 続く ー
2024.02.07
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今日から ”三日間季節のブログ” をアップします。この日は ”節分祭” で寒川神社の今年の ”迎春ねぶた” をまだ見ていなかったので、天気がよく暖かったので訪れることに。寒川神社までのアクセスは自宅から約8キロで、車で行くと渋滞、駐車場の心配があるので自転車で約30分とのGoogleマップ情報から愛車のリンちゃんで訪れた。ネット検索で ”寒川神社の節分祭” は11時、14時の2回とあり、地元の節分祭(14時)にも行くので自宅を10時に出発した。尚、寒川神社の節分祭は始めてである。2月3日(土) 10:15自宅出発時のバッテリー残量は70%、走行可能距離は59kmであった。寒川神社までは愛車のリンちゃんで何度も参拝しているので、頭の中でルートを選択。県立茅ヶ崎北陵高等高校のグランドから富士を望む。大岡越前通りの小出川に架かる寺尾橋手前からの富士。 10:20JR相模線寒川駅北口ロータリーこの日は土曜日であったが駅前は閑散としていた。JR相模線大門踏切鳥居は、寒川神社一之鳥居一之鳥居からの参道は木々が聳える。寒川神社大鳥居 (二之鳥居)一之鳥居からここまでに信号が2カ所ありいつもストレートで走れない。寒川神社前交差点の先に ”三之鳥居” 。予想通りこの手前辺りから渋滞していた。三之鳥居の手前に太鼓橋の神池橋。自転車はここを右折して東側の第1駐車場(無料)へ。10:30第1駐車場は「満車」であったが自転車は容易に駐輪できた。節分開始までまだ30分あった。ここから先の南門に ”おふだ納め所” があるので持参した古いおふだを納めることに。社務所の前に設置された ”おふだ納め所” 。祈祷依頼者が長い列をなしていた。節分会場は神門前に設置されていた。寒川神社の豆撒きは、午前十一時、午後二時の二回行われる。地元茅ヶ崎の八王子神社の豆撒きが二時からのため寒川神社には午前の部に訪れた。既に多くの人がステージ前に集まっていた。豆撒きは、午前十一時、午後二時。神門に設置されている ”迎春ねぶた” 。設置期間は、12月20日(水)から令和6年2月26日(月)まで。※ 点灯時間は日没より午後10時まで夜間点灯(三が日は常時点灯)。手水舎まだコロナ禍の影響で柄杓は使用されていなかった。手水舎の前に、小学生低学年までのお子様には危険回避の為午前十時四十五分・午後一時四十五分から神門の内側にお並び頂き福豆をお渡しします。安全確保の為、豆撒き神事にご参加される方の人数制限を行う場合がございます。制限後は豆撒き神事にご参加いただけません。予めご了承いただき、皆様の安全確保の為にご理解・ご協力をお願い致します。 寒川神社社務所手水舎前からの豆撒き会場。神門を正面からの ”神門ねぶた” 。今年のねぶたは「甲辰 ~ 八大龍王 ~」(きのえたつ はちだいりゅうおう) 制作者:諏訪慎氏寒川神社の正月の風物詩である迎春ねぶたは、本年で24回目を迎えた。第1回から第12回は「干支」を題材に、第13回からは古事記や日本書紀などの「神話」を題材に制作している。左側の ”難陀龍王(なんだりゅうおう)” は八大龍王の1つでその中でも最も優れた龍王とされる。右側の ”跋難陀龍王(うぱなんだりゅうおう)” は難陀の弟になる。古くより神仏を守護してきた八大龍王は、家内安全と商売繁盛など多くの御神徳がありますと。境内の東側に建つ社務所。左側に祈祷受付所。社務所の壁面に、令和六年節分祭 福物協賛社芳名 敬称略・順不同。多くの ”福物協賛社芳名” 。年男年女芳名 敬称略・順不同。多くの ”年男年女芳名” 。境内の東側に聳える木は。11:03進行係の神職が登壇「11時から式典が行われているので豆撒きは11時20分頃になります」と。神職をズームアップ。8回に分けて豆撒きを行う。また、豆撒き時の注意事項を伝達「危険行為があると即中止」と。社務所の2階からの撮影はベストポイントだが。ステージの廻りには多くの参拝者が集まるが人数制限はされたのか。11:18予定どうり年男年女の方々が登壇。登壇者は年配者の方が多かった。相模の国一之宮だけに有名人の登壇を期待したが紹介もなく。半数の方がマスクを装着。私は後方に立っていたので年配者だけに豆は届かず。豆撒きを終え次のグループに交代。前の方も手を挙げて待つが、ステージの廻りには千人以上はいたか。太鼓の音と共に豆撒きを行うが私の廻りには飛んでこず。豆を拾うと中に番号札があり粗品と交換できると。登壇者の交代の度に「こちらにも投げて」の要求が進行係にあったが。11:30わずか10分ほどの豆撒きで終了した。やはりステージ下にいないと確保できないようだ。寒川神社の豆撒きは初めて訪れたが、「有名人の登壇もなく寒川神社にしてはスケールが小さく期待したほどのものでなかった」と感じたのは私だけか。 ー 続く ー
2024.02.06
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今日の目的地の「厚木ロウバイの丘」へスマホのGoogleマップで進む。1月24日(水) 11:40曹洞宗 華巌山金剛寺 (こんごうじ)所在地:神奈川県厚木市飯山5456山門を潜り参道を進むと正面に ”金剛寺”。大同年間 (806~810)、弘法大師空海によって開山された。その後、寺運衰微したが、天文年間(1532 ~ 1554) に忠州によって中興された。その際に真言宗から曹洞宗に転宗した。参道左側に建っていたのは「収蔵庫」であろうか。であれば、安達盛長の「法名盛長院三空道無大居士安達籐九郎」と銘記された位牌が残されているのだが。金剛寺本堂現在の本尊は十一面観音であるが、かつては阿弥陀如来であった。この阿弥陀如来像は国の重要文化財に指定されているもので、台座や光背は江戸期のものであるが、仏像本体は平安時代中期のもので、定朝様の様式である。杉?の木の根本に地蔵。金剛寺の概要曹洞宗寺院の金剛寺は、華巌山遍照院と号す。金剛寺は、大同二年 (807) に弘法大師が開基、飯山観音堂の別当寺を長年勤めてきた。南北朝時代の混乱により衰微していたのを天文年間(1532~1555) 清源院四世忠州 (天文15年卒) が当寺を再建、曹洞宗に改めた。徳川家康が関東入国した際には天正十九年 (1591) 寺領5石の御朱印状を受領している。境内隅に立っていた手前の座には「道六」と。本堂前から大師堂方向を見る。~『吾妻鏡』と厚木の養蚕 ~鎌倉幕府の歴史書『吾妻鏡』の1182年(養和2年)の条には、金剛寺の僧侶が、寺に対して山狩りや蚕養(こかい)などの公事を課していた近藤太能成を訴えたことが記されている。かつて、養蚕は、厚木の主産業であり、明治期には日本を支えた基幹産業として発展した。『吾妻鏡』の記載から、飯山では鎌倉時代にすでに養蚕が行われていたと考えられ、古くから厚木の主産業であったことが想像できると。本堂前に道案内板← 桜の広場 500m、ロウバイの里 300m訪れる人が一人もいなかったので🐻除け鈴をつける。竹林の中を進むが・・・。両側には竹林が広がっている。柵の中の竹林は綺麗に整備されていたが春先には ”タケノコ” が芽を出すのであろう。柵には「ここは私有地です」の札。緩い階段下に地蔵が並んでいた。後方から人声がし一安心しながら進む。歴史を感じさせる石仏が並んでいた。字が刻まれていたが風化して判読できなかった。5,6人の女性群が片手にコーヒーを持ち上って来られた。「始めて来ました」と。坂を上り終えると南側が開け ”ロウバイ” の花。満開になっていた。ズームアップするが。ローバイの丘所在地:神奈川県厚木市飯山厚木市飯山ロウバイの丘には、2種類のロウバイ(蝋梅)約1,000本が植えられている。右側には募金箱が設置されており、「ロウバイの管理 ボランティアで育てています。会員のお茶代に協力金にご協力ください」と。ローバイの丘みどりと清流のふるさと創造委員会。南側の斜面には太陽光パネルが設置されていたが個人用か。花が少ない冬にそっと咲かせる姿から「奥ゆかしさ」「慈しみ」といった花言葉があるロウバイ。蝋を塗ったかのようにツヤがあり、甘い香りを放つ黄色い花である。1月18日(木)に行った ”松田町寄ロウバイ園” は約20,000本植えられていた。タウンニュースによると、松田町寄ロウバイ園は2月3日頃満開になったと。また平日の1日の来場者も700人で、昨年の300人前後を上回っていると。ロウバイの種子が枝に多く残っていた。ここのロウバイは2種類植えられており濃いのと薄いのがあるようだ。可憐な花で鼻を近づけ匂いをかぎ、かすかに甘い香りを放っていた。ロウバイロウバイ科は、クスノキ目に属する植物の科である。クロンキスト体系では双子葉植物綱に属する。東アジアとアメリカ合衆国に4属12種が分布する。落葉または常緑の低木または小高木で、葉は単葉で対生し、花は花弁とおしべが螺旋状に配列する。花に香りがある物が多い。 漢字で蝋梅と書くが、バラ科のウメとは無関係。 ロウバイ (蝋梅) の種類素心蝋梅 (ソシンロウバイ) : ロウバイの定番品種。 全体が黄色で、他の品種より香りは強い。満月蝋梅(マンゲツロウバイ):他の品種より花が大きめで花弁が丸目。 早咲きで花色が濃い。和蝋梅 (ワロウバイ) :ロウバイの基本種で花の中心が暗い赤紫色で花弁は細め 。ロウバイのトンネル。"厚木ロウバイの丘" には四阿がありベンチに座り見下ろせる。厚木ロウバイの丘は無料で入れる。この太陽光パネルは枚数からして地域で設置しているのか。ロウバイの木に名札がないので品種はわからず。ロウバイの甘い香りがしていたのであろうが。四阿を見上げる。種子を頂き家へ持ち帰り植えることに。果たして芽が出るか。ロウバイとソシンロウバイの違いは、両者の違いは花に見られ、ロウバイは花の中心部が暗紫色でその周囲が黄色だが、ソシンロウバイは花全体が黄色。ソシンロウバイはロウバイから生まれた栽培品種である。果たしてこの品種は。ズームアップするが。四阿から南斜面を見下ろす。訪れる人はまばらであったが四阿でのんびりするのも。ロウバイは数メートル間隔で植えられている。12:15厚木ロウバイの丘の廻りには ”粗目の金網柵” が設置されている。看板には「鳥獣被害対策として柵を設置しています。 厚木市」。 ー 続く ー
2024.02.05
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”飯山花の里” の脇に車を停め散策開始。1月24日(水) 11:30金剛寺 (こんごうじ) への参道脇にはサクラの木が聳えていた。車は右側奥に停めた。参道入口左側に建つ ”地蔵”。後方は、”飯山花の里” の一部であるようだが花が咲き終わり荒れていた。金剛寺への参道入口。参道右側の石碑には「禁葷酒入門」と。禁葷酒(きんくんしゅ)。「酒の匂いをさせて山門を潜るべからず」という意味。 葷(くん)とは、酒や、ニラ、葱の様に強い香りのするものを意味しており、 今の場合、普通は、「くん酒 山門に入るべからず」と漢語では読む。主に禅寺の山門の戒壇石に刻まれている。いつもは「不許葷酒入山門」の石柱だが。国指定重要文化財 昭和三十六年六月三十日指定 木造阿弥陀如来坐像 神奈川県指定重要文化財 昭和三十三年六月十七日指定 木造地蔵菩薩坐像 木造阿弥陀如来坐像は、像高一三九・三cm、檜材を使った寄木造りで、彫眼・白毫・肉髻珠には水晶をはめこんでます。細かく彫りだされた螺髪や丸みのある面や身体など、平安時代後期に全国的に流行した定朝様式の特徴を示し、関東地方における同様式の代表作といえます。像内各所の墨書から、永享年間(一四二九-一四四〇)以降に数度の修理が行われたことがわかります。もとは金剛寺境内にあった阿弥陀堂に安置されていたと思われます。木造地蔵菩薩坐像は、像高八四・二cm、頭体部を檜材の割矧ぎ法によって彫成されています。像内の銘により、正安元年(一二九九)に院慶とみられる仏師により造られたことがわかります。年代、作者がわかる鎌倉時代の貴重な作例です。別名「身代わり地蔵」や「黒地蔵」ともいわれ、もとは庫裡橋のそばにあった黒地蔵堂に安置されていました。現在両像は、金剛寺の収蔵庫及び本堂内に安置されています。 平成十八年三月 厚木市教育委員会厚木市指定有形文化財 金剛寺銅製品 平成二十三年六月十五日指定一 布薩形水瓶 (ふさつがたすいびょう) 一口 鋳銅製 鎌倉時代 布薩会 ※ に用いられる水瓶。形態は、ややしもぶくれの胴部、肩からすぼまる頸部、朝顔 形に開く口縁、注口の基部には蓮座がつき、胴部・肩部・頸部にそれぞれ一条の紐帯が巡る。 全体にバランスがよく、鋳上がり後の器面は轆轤(ろくろ)で丁寧に仕上げられている。 高さ24.6センチメートル 胴径12.9センチメートル ※ 布薩会 僧が集まり、自己の罪過を反省し懺悔する儀式。一 信貴山形水瓶(しぎさんがたすいびょう) 一口 鋳銅製 鎌倉時代 幅広筒型の胴部、水平に切り落とし有段とした肩部、緩やかにすぼまり中位に紐帯が巡るや や太めの頸部とし、口縁は朝顔形に開く。注口の基部は菊座とし、把手が付き、蓋の痕跡が 残る。器面はあまり平滑ではなく、注口は後補の可能性がある。信貴山形 ※ 水瓶は全国的 にも希少であり、西日本に偏在しているので当地に遺存する意義は大きい。 高さ23.7センチメートル 胴径13.2センチメートル ※ 信貴山形 信貴山(奈良県)山頂近くにある寺に伝承する水瓶の形。一 錫杖頭(しゃくじょうとう) ※ 一口 鋳銅製 鎌倉時代 柄頭(つかがしら)は五輪塔とし、輪の下部に三個の遊環を付ける。柄下部は台形状、下端は 柄状とし目針穴を設ける。全体に鋳上がりの整形が不十分であり、洗練された仕上がりとは いえないが、素朴な地方鋳物師の作例であることを感じさせ貴重である。 高さ25.1センチメートル 幅16.0センチメートル ※ 錫杖頭 僧侶や修験僧が持つ杖の頂部。一 銅鋺(どうわん) 一口 鋳銅製鍍金 鎌倉時代 三点とも内外面に轆轤挽きによる整形痕が見られる。各々異なる大きさと形態を有するが、 工芸技術の高さを示しており、時代と希少性において貴重な文化財であるといえる。 高さ5.3センチメートル 口径14.4センチメートル 高さ4.3センチメートル 口径13.6センチメートル 高さ6.3センチメートル 口径15.6センチメートル本例は金剛寺に伝世した工芸的に優れた銅製品であり、国指定の阿弥陀如来坐像、県指定の地蔵菩薩坐像とともに古代から中世にかけて飯山が仏教文化隆盛の一大中心地であったことを伝える貴重な資料である。 平成三十年二月 厚木市教育委員会参道の両脇はサクラの古木。参道奥正面に金剛寺の山門。石碑には「曹洞禅宗 金剛寺」と。金剛寺大師堂所在地:神奈川県厚木市飯山5510方三間の正方形平面を持つ中世密教本堂形式の堂である。伝承によれば明和七年(1770)の建立で、全体の雰囲気が、18世紀中ごろの建築とみられる飯山観音堂と類似し、二寺の関係が伺われる。しかし大師堂は少々荒れていた。大師堂の前には大きな木が聳えていた。幹に ”琉球杉” と書かれた名札。和名はコウヨウザンで、ヒノキ科の常緑高木で樹高は30mに達する。樹皮は褐色で、縦に剥がれる。幼木の枝は輪生もしくは対生しほぼ水平に伸びる。葉は長さ3 ~ 6cm程度で、線状の披針形、表面には光沢がある。葉の先端は尖るが葉質は柔らかい。わが国には江戸時代に渡来。見上げるが琉球杉の樹高は30メートルに達すると。樹齢は何年になるのか。金剛寺大師堂大師堂は、大同年間 (806~809) の創建とされ、寺伝によると安置されているのは弘法大師が34歳のときの自作の尊像であるという。写真はネットから引用。この右奥に、NHK大河ドラマ「鎌倉殿13人」にも登場した「安達盛長」にまつわる場所がある。金剛寺大師堂の屋根は波鉄板。寺紋であろうかズームアップ。古い建物だけに匠の技を感じる。頭貫の両側に木鼻。天井には千社札がたくさん貼られていた。扁額があったのであろうが・・・。大師堂の周りには、石造の百体地蔵が奉納されているが、廃寺の如くになっている。かつては他の場所にあったのか。奥に入り振り返る。手前の座には「元文〇申七月十四日」と。軒下に出た彫り物。寺社の建物の部材にはいろんな呼び方があるが・・・。落下したのか濡れ縁に「木鼻」が置かれていた。伝統建築の魅力を感じる構造である。右側を見るが荒れている。右側の軒下を見上げるが、匠の技を感じる構造である。大師堂の前には石造物があるが説明板がなく不詳。そろそろ修復時期になっているようだがその計画があるのか。安達藤九郎盛長の墓と称する宝篋印塔、五輪塔。金剛寺山門の手前左奥 (金剛寺大師堂の右奥) にある石造物であるが、説明板もなく鉄鎖で囲まれていたが荒れ放題になっていた。飯山観音長谷寺の駐車場脇にあった説明板。● 石造物 金剛寺の山門脇に安達藤九郎盛長の墓と称する宝篋印塔、五輪塔が数基あるが、 全体に各部の寄せ集めである。南北朝期から室町末期のものとみられる。安達藤九郎盛長(1153~1200)安達盛長は、源頼朝が伊豆 (蛭ヶ小島) に配流されていた時代から側近として頼朝に仕えていた。頼朝の乳母・比企尼の娘を妻に迎えるなど信頼が厚かったようで、また、京都にも知り合いが多く、朝廷の情報を頼朝に伝え、頼朝と北条政子の間を取り持った。官職には就かず、頼家時代に十三人の合議制に参加していた。晩年は剃髪して蓮西と号し、正治二年六十六歳で亡くなった。宝篋印塔、五輪塔は傾いており「立入禁止」の注意も欲しいものだが。倒れるのが怖いので近寄れなかったが文化財として保存して欲しいものだが。せめて説明板だけでも、他の場所に記載されているので。大師堂前には琉球杉、イチョウの木が聳え、秋にはイチョウの葉が散り黄色の絨毯になる。金剛寺の山門。山門右前に建つのは中央部に「寶篋塔」と刻まれている。苔むした「寶篋塔」を見上げるが倒壊の恐れはないのか。字が刻まれていたが判読できなかった。金剛寺山門一間一戸四脚門。切妻造(きりづまづくり)。元は扉が付いていた。17世紀後半、元禄期(1688~ 1704)ころの建築である。山門前に新しい地蔵が立っていた。11:40金剛寺山門も修復時期になっているようだが。 ー 続く ー
2024.02.04
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1月18日(木)に「松田町寄ロウバイ園」を訪れたが、その時ネットで「神奈川県のロウバイ」で検索した時、「厚木ロウバイの丘」がヒット、自宅から約30キロ、40分と近いためこの日は天気が良かったので愛車のノートででかけた。1月24日(水) 10:35自宅を10時15分と遅い時間に出発した。県道44号線(伊勢原藤沢線)の西久保橋辺りから見る富士。高架橋は圏央道。高架橋は一本足であるが耐震構造になっているのであろうか。正面に富士が見える。茅ヶ崎市から寒川町へ。寒川南インタへの案内。この先を左折し寒川南料金所へ。遅い出発であったため有料道路を利用することに。圏央道寒川南料金所海老名南JCT圏央道を北上、左方向は先週走った”新東名高速道路”方向。今回は直進し”八王子”方面へ。海老名JCTの道路標識海老名JCT東名高速道路の「東京 名古屋」方面は左方向へ。カーナビでは左方向へ進み厚木インタを出ることを案内していたが無視して北上。東名高速道路からの車両と合流。ここから八王子までは大型トラックの交通量が多い。道路標識には、32 圏央厚木 3km33 相模原愛川 8km中央道八王子JCT 24km圏央厚木インタを出ることに。路肩に車が止まっていたがトラックの前後に車があり事故を起こしたようであった。この辺りはカーブになっており路肩も広い。圏央厚木インタまで 2km。道路標識厚木PAまで3kmで圏央厚木インタの先にある。32 圏央厚木出口圏央厚木出口の立体交差。32 圏央厚木料金所圏央厚木料金所を出て、国道129号(厚相バイパス)の交差点。カーナビの案内は北上し過ぎているので交差点を左折して南下。交差点の向かい側には「遺跡の発掘調査をしています」の看板。調査期間は令和6年3月31日まで。カーナビの案内はここ「金田陸橋交差点」を右折して国道246号へ。国道246号と合流、厚木方面へ南下。国道246号の先に ”大山” が聳える。富士は雲の中のようだ。国道246号の”厚木市立病院前交差点”を右折して県道60号線、国道412号を北上。カーナビの案内はこの先の”及川中原交差点”を左折し県道63号線へ。11:10県道60号線と合流する”千頭橋際交差点”。橋は小鮎川に架かる”千頭橋”。千頭橋際 (Senzubashi)千頭橋際交差点を右折し、県道60号線(厚木清川線)を北上。道路脇に”飯山温泉郷”の看板が建つ。県道60号線(厚木清川線)は宮ケ瀬湖へ行く時度々走った道である。前方に朱色橋が見えてきた。道路脇には目的地の「飯山観音 長谷寺 (ちょうこくじ)」の看板。11:20交差点は ”飯山観音入口” 。この交差点を左折し朱色の ”庫裡橋(くりはし)” を渡る。庫裡橋を渡ると正面に”中飯山自治会館”。目的地を「飯山観音無料駐輪場」にしていたのでカーナビは左側を案内。自治会館の前に「P」の標示、右側には「→ トイレ」の看板。坂道を上ると正面に、P の看板があり、「↑ 250m先 普通車 500円/日、バス 1,000円/日、駐輪 無料」。カーナビで検索した時「無料駐車場」と勘違い「駐輪場」であった。石碑には「上水道通水記念碑 小鮎水道組合」と。左側にも文字があったが判読できなかった。道路の右側には長谷寺への参道。車を停めた横には「桜とたにしの飯山の里」の看板。下にも駐車場があったのでここで引返すことに。下る途中にあった観光マップ飯山温泉郷観光マップ観光地が細かく書かれていた。庫裡橋手前に建つ門には「飯山白山森林公園へまたどうぞ」と。橋の手前を左折。飯山花の里所在地:神奈川県厚木市飯山駐車場らしきものがあり駐車して散策開始したが、トイレも仮設であった。地元のボランティアの方が整備されており春先にはポピー、ネモフィラなどが綺麗に咲く。簡易展望台があり看板には「ようこそあつぎ飯山 花の里へ」。看板には ”ざる菊” の絵。道路脇には刈り取られた「酔芙蓉」の木。酔芙蓉 アオイ科 落葉低木夏を代表する花木で、美しい大輪の花を咲かせるフヨウです。朝に白い花が咲いて徐々にピンク色に染まり、夕方には酒に酔ったように紅色に変化します。最盛期は新しい花を次々とさかせます。11:30”飯山花の里” の先に庫裡橋。現在はポピーが植えられているようだ。 ー 続く ー
2024.02.03
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小出川の新鶴嶺橋(赤橋)から上流の梅観賞を終え、更に上流へ進む。1月31日(水) 14:15仮設浜園橋上から下流側の梅並木を望む。左側は ”浜之郷樋門”。今年の梅の開花状況は例年に比べ早いようだ!浜園橋橋りょう整備工事(上部工)工 期 令和6年8月30日まで発注者 茅ヶ崎市 建設部 道路建設課施行者 宇野重工㈱神奈川営業所浜園橋は下部の基礎部分の工事は昨年終了、上部の橋梁部分の入札を昨年行ったようだ。工事看板には、浜園橋架替事業橋の設置工事を行っています令和 6年 8月30日まで作業時間帯 9:00 ~ 17:00浜園橋橋りょう整備工事(上部工) 請負代金額 \402,333,800 発注者 茅ヶ崎市 建設部 道路建設課 電話 0467-81-7193 施行者 宇野重工株式会社 神奈川営業所 電話 045-500-6963 施行図面が貼りだされていた。送出しステップ図(その1)橋梁部分を小出川の上に送り出す計画図。浜園橋の東側から小出川の上にあるのは ”送り出す” ための仮設であろうか。小出川の上流側から望む。上部は新湘南バイパスの高架橋。新設の橋梁は仮設の下部の基礎部分に設置。作業員の方とすれ違い時に「良い写真が撮れましたか」と。安全帯を付け作業「御安全に!」。下部が橋梁の設置個所になる。浜園橋の仮設橋梁の西側から。満開の紅梅をズームアップ。左側が本設の橋梁であろうか。浜園橋の工事現場の西側上流側から望む。西側から送り出される本設の橋梁であろう。送り出す日がいつの日か?。工事現場には仮設トイレも設置。工事現場の上を走る新湘南バイパスの ”下町屋高架橋”。浜園橋橋りょう整備工事(上部工)の発注額 \402,333,800 は高いなーと思いながら。現役時代は入札物件を扱っていたが発注額が細かく(1円まで)何となく疑問に!。小出川の上流側を望む。河川敷には草が生い茂っている、治水対策で浚渫が必要ではと。対岸のケヤキ?をズームアップ。小出川堤下の ”向田緑地” から南を望む。向田緑地の傍にある「あぶさんふぁーむ」。所在地:神奈川県茅ヶ崎市萩園ネギ等を頼むと裏の畑で自分でとる農業体験ができると。新鮮野菜、焼き芋の販売をしていたが、焼き芋の匂いがしていなかったので既に品切れか。支払いは”キャッシュレス決済”も可能であったが。値段表から少々高い感がしたが。この辺りは〟”生産緑地” になっているのか畑が広がり温室、ブルーベリー畑がある。後方を小出川、新湘南バイパス。向田緑地のサクラはまだ硬いつぼみ。上流に ”萩園橋”。萩園橋を過ぎ上流側へ進む。北側には ”茅ヶ崎JCT” の高架橋。堤上には川面を見つめる人が立ち止まり。川面には多くの野鳥がいたのでしばし観察。カモであろうか。シラサギも飛ぶ。砂地を歩きまわるカモの家族であろうか。小魚が多くいるのであろう。悠々と泳ぐカモ。小出川の河津桜会場河津桜の下では菜の花が満開であった。この辺りの河津桜はまだ硬いつぼみであった。掲示板の中にポスター「2024年 第15回 小出川桜まつり 各日 10時 ~ 14時まで 2月23日(祝) 24日(土) 25日(日) 3月2日(土) 3日(日) ※ 式典は2月24日」 ※ 雨、雪の場合は中止 ※ 開花状況によって開催期日を変更する場合があります。当日は、模擬店、キッチンカーが勢揃いする。 枝先のつぼみをズームアップ。掲示板の場所から上流に進む。上流側の方がつぼみが膨らんでいた。一部咲いた花も。赤い花びらが今か今かと出を待っている。伊豆河津町の「第34回 河津桜まつり」の開催は、2月1日(木) ~ 29日(木)。県道44号線(伊勢原藤沢線)の藤沢方向。圏央道の橋脚に「茅ヶ崎 JCT Dランプ橋 DP10 D-840」と。西久保橋上から西方向を望む。富士山が見えるのだがこの日は雲の中であった。茅ヶ崎 JCT を見上げる。ここ西久保橋上から小出川の下流を望む。あと1~2週間で右側のサクラ並木が満開になる。西久保橋のネームプレート。西久保橋上から ”茅ヶ崎 JCT” を見上げる。西久保橋上から小出川の上流の ”大曲橋” を望む。大曲橋の右側には、民話「河童徳利」伝承の「河童徳利ひろば」がある。旧跡 懐島山(ふところじまやま)所在地:神奈川県茅ヶ崎市西久保附近日蓮宗の法性山妙運寺裏手(西側)の新湘南バイパス高架下にある史蹟。旧跡 懐島山の碑この地一帯は、中世、懐島郷といわれ、懐島氏を称し、源頼朝の家臣であった大庭景能の支配した所として知られ、鎌倉幕府との関連などが、「吾妻鏡」や「新編相模国風土記稿」の書物にも記録され、地名や伝承が残っています。この碑の立つところは俗に「えな塚」といわれ、次のような話が言い伝えられています。源頼朝の側室、丹後局は源頼朝の子を身ごもりますが、正室の北条政子に知られ、大庭景能の邸に身を隠しました。やがて、西久保の桜屋敷に移った局は、男の子を生みました。その子は三郎と名付けられ、三郎の(胎盤)を納めたところがえな塚と言われています。三郎は、成長した後に島津忠久と名乗り、九州の島津氏の祖となりました。この碑は近くの宝生寺が所有しており、この西久保地区が辿ってきた歴史を語る重要なものとなっています。碑の文中にある阿弥陀三尊は国指定重要文化財としてこの宝生寺に安置されています。 平成二十七年三月 茅 ヶ 崎 市 茅ヶ崎市教育委員会高架橋は、首都圏中央連絡自動車道の茅ヶ崎JCT旧跡 懐嶋山新編相模風土記日 懐嶋山 松四五株立てる小丘也 赤池川 四方萩園村境を流れる 宝生寺 懐嶋山と号す本尊大日を安んす因ミニ源頼朝ノ妾比企氏丹後局懐妊ヲ政子ノ方ノ知ル処トナルニ及ビ兄能員ニ命ジテ密カニ当地大庭庄懐島景能ノ邸ニ預ケ次デ桜屋敷ニ移ッテ男子ヲ安産。三郎ト名付ケラレタ。文治元年六月十五日三郎七才ノ折鎌倉八幡宮ニテ頼朝ト親子ノ対面アリ忠久ト名乗リ島津氏ヲ称シタ。三郎ノえなヲ埋メタ塚上ニ松樹ヲ植エソノ古株ハ今モ地中ニ存スル。塚ノ東方一帯ヲ小字観音堂ト呼ビ阿弥陀三尊ヲ安置シタ御守堂ガアッタ。 以上 懐嶋山ノ伝承ヲ記ス裏面には、撰文 茅ヶ崎市文化財保存会 昭和四十五年 ○○○・・・ 以下判読できなかった。この後、宝生寺を訪れることに。石井稲荷大明神宝生寺への道を間違え、畑の中に大木がありその下に朱色の鳥居を見つける。廻りは2段の石積みで整備されていたが入口は不明確であった。石鳥居には「正一位 石井稲荷大明神」と。朱色の社の中に小さな社があった。石井稲荷大明神の詳細も説明板がなく不祥。北側から望むが、個人宅のものであろうか。社の後方には大きなクスノキが聳えていた。クスノキの根回りは3メートルはあるのでは。木の幹に「令和3年4月1日 茅ヶ崎市指定 保存樹木 3-4 クスノキ」と。15:25高野山真言宗 宝生寺 (ほうしょうじ)所在地:神奈川県茅ヶ崎市西久保546寺の詳細は以前アップしている「宝生寺の阿弥陀三尊御開帳」👈 をクリック願います。本 堂既に何度も参拝しているのでスルーして帰路に。15:40中華 のんち既に本日の営業を終え閉店していた。さて今夜のメニューは何にするか・・・。 END
2024.02.02
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今日から今年も早2月に!2月は和風月名で「如月(きさらぎ)」。由来は、衣更着(きさらぎ)とも言う。まだ寒さが残っていて、衣を重ね着する(更に着る)月。また、故事には「二月は逃げて走る」と。元旦の夕刻に「令和6年能登半島地震」の甚大な地震が発生、正月の家族のひと時も一変!それから早一か月、今だ不自由な生活を送られている方々に安らぎの日が早く訪れることを祈ります。昔訪れた能登半島の景勝地を思いながら・・・。我が家の裏庭の梅も開花(撮影日1月31日)。良い香りがしていたのでどこからかミツバチも「ブンブン」と飛来。我が家には梅の木が二本あり玄関先の木は遅咲き。昨年は豊作であったがさて今年は・・・。昨年も訪れたが、この時期 ”小出川沿いの梅” が綺麗に咲いており、この日は天気が良かったので愛車のリンちゃんで訪れ、”鶴嶺通り” 沿いを散策した。1月31日(水) 13:15北茅ヶ崎駅近くの「中華 のんち」。昨年の6月にテレビで放映されて以来訪れる人が絶えない、茅ヶ崎市内で2番目の人気店である。以前は ”夜の部” もあったが現在は昼間のみの営業になっている。隣接して中華店があるのだが。第一カッターきいろ公園の北東部入口で咲いていた梅。紅白の梅が満開になっていた。第一カッターきいろ公園の北側を走り、”鶴嶺通り”へ。糀屋 米の花所在地:神奈川県茅ヶ崎市矢畑201鶴嶺通りの北側に古民家風の建物があったので立ち寄る。茅ヶ崎で糀・塩糀・甘糀をあつかう「糀屋」として、2019年4月にオープン。糀や甘酒の販売のほか、味噌づくりも体験できます。入口に立っていた看板には、米の花御品書 お持ち帰り 糀 五百グラム 八百円 塩糀 三百グラム 五百円 甘糀 三百グラム 五百円御品書 店内 糀色々 甘糀四種飲み比べ 五百円営業時間 火曜日 木曜日 土曜日 午前十時から午後五時鶴嶺通りに戻り西へ向かう。この道を車で走っていていつも気になっている「大衆食堂 鳥嶺」。所在地:神奈川県茅ヶ崎市矢畑212-1ネットで調べると、鶏肉を推している大衆食堂鳥嶺は、ランチからディナータイムまで営業しており、地元の人々からも愛されていますと。鶴嶺通りを更に西へ向かう。年末に行列をなしていたので気になっていたお店である。生憎この日は休日であった。暖簾に「三崎魚問屋 徳多屋」。所在地:神奈川県茅ヶ崎市矢畑403-1ネットで調べると、わざわざ三崎に行かなくても美味しいマグロが買え、お刺身も三浦の野菜もある店であると。鶴嶺八幡宮前交差点鶴嶺通りに立つ、社号標の「郷社 鶴嶺八幡宮」。鶴嶺通り沿いにある鶴嶺八幡宮の太鼓橋。鶴嶺八幡宮前交差点、太鼓橋前から国道1号(旧東海道)の鳥井戸橋交差点までの松並木。西側から”太鼓橋”を望む。鶴嶺八幡宮 二之鳥居狛犬の阿形像 (右側)台座には「神域につき生き物を採らない事 宮司」と。狛犬の吽形像 (左側)二之鳥居前から南を望む。太鼓橋の幅は一間(約1.8m)も無く急勾配である。参道脇には「鳥居再建 昭和三十四年一月十日」と刻まれていた。小さい石柱には「奉納 大鳥居一基 亀井土建株式會社 竣功 昭和五十年四月二十七日 亀井文夫」と。参道は松並木で、両側には奉納された石燈籠が立っていた。100~200メートルの参道を進み振り返る。鶴嶺八幡宮所在地:神奈川県茅ヶ崎市浜之郷462既に何度も参拝しているので今回はスルー。以前のブログ「源頼朝ゆかりの地」👈 をクリック願います。境内には、県指定天然記念物の「鶴嶺八幡のイチョウ」が聳える。鶴嶺通りに戻り西へ進み、前方に小出川に架かる”新鶴嶺橋 (赤橋) ”。右側の上流側に今日の目的地 ”梅並木” がある。橋には「しんつるみねばし」と。新鶴嶺橋(赤橋)から上流の ”浜園橋” までの400メートルに梅が植えられている。梅の木にはメジロが多く飛来していた。紅白の梅が既に満開になっていた。新鶴嶺橋(赤橋)を振り返る。右側は”新湘南バイパス”の高架。新鶴嶺橋(赤橋)の東詰。近隣の方の散歩コースになっている。梅の花が終るとドウダンツツジが咲く。数年前に大きく剪定されていたがまた元の状態になっているようだ。梅にまつわる諺の一つとして「桜切る馬鹿、梅切らぬ馬鹿」。紅梅はそろそろピークを過ぎるようだ。白梅にピントを合わせ。枯れたような古木があったが。梅の木は生命力が旺盛で新芽が成長、花芽を付けていた。小出川には、コガモ、鵜が飛来。鵜 (う) をズームアップ。小魚を追っているのか。飛び去る鵜。梅の木の下草は刈り取られ整備されていた。多くの方が散歩がてら鑑賞に。スイセンも咲いていた。夫婦連れの方はスマホで記念写真。新湘南バイパスの道路標識。紅白の梅をズームアップ。下流側を振り返る。愛車のリンちゃんを押して散策した。上流側の浜園橋。親水護岸 (しんすいごがん)親水護岸 (しんすいごがん)この堤防はみなさんが水辺に親しむ場所として造られました。事故のないよう(特に下のことに)注意して下さい。 (1) 小さい子供だけで遊ばないようにしよう。 (2) 川の水が多いときは下に降りないようにしよう。 (3) 危険な遊びをしないようにしよう。 (4) 川をきれいにしよう。 神奈川県藤沢土木事務所14:15小出川の下流側を振り返る。 ー 続く ー
2024.02.01
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山北町の”香集寺”の後は15時を過ぎたので最後に帰路にある”宝寿院”へ立ち寄ることに。1月18日(木) 15:30国道246号を東方向へ進む。国道246号の左側に ”宝寿院” がありこの先の ”桜観音前交差点” を左折することに。この道は、最明寺史跡公園への入口になる。ハイキングコースになっており約3.0km、車で11分、徒歩で約60分。広場は宝寿院の臨時駐車場。最明寺跡 昭和四十六年四月一日 松田町重要文化財史跡指定最明寺は、松田山頂附近の海抜五三○米位の平坦地に承久三年七月(1221)浄蓮上人(源延)が、信州善光寺の一光三尊の仏を模写 松田山頂に安置し創建、西明寺と(最明寺)号した。鎌倉時代には、五歩に一楼、十歩に一閣といわれるほど盛大となったが室町時代兵乱相続きおとろえる。文明二年(1470)鎌倉の八正寺の尊賢親王が再建を計ったがならず、寺を金子郷に移転された。最明寺跡には今日も大門跡、日中坂、本堂跡、護摩堂跡、鐘突堂跡等の地名や石碑・石仏等が安置されている。また最明寺史跡公園内にからさわ古代瓦焼がま跡(のぼり窯)が移築されております。 ここより徒歩○○○ 松田町教育委員会肝心な「ここより徒歩○○○」と判読できず残念。宝寿院 臨時駐車場向かい側の畑のウメが開花しはじめていた。枝からぶら下がるカラスウリの実。松田町マンホール蓋。松田町無形重要文化財である「松田大名行列」をデザインした汚水マンホール蓋。国道246号の”桜観音前交差点”。長谷観音寺 (桜観音)所在地:神奈川県足柄上郡松田町松田庶子1035臨時駐車場から戻り桜観音前交差点を右折すると直ぐに階段があり正面にある。桜観音の名のいわれは、前を通る国道246号線沿いにみごとな桜並木があった名残りで、いつ頃からか地域の人々にそう呼ばれている。海老虹梁をズームアップ。本尊は ”十一面観音菩薩立像” で平安の昔に作られ高さ135cm、頭部に11の仏面をいただいたものであり、堂内の欄間の彫刻は飛天と雲中供養菩薩の見事なものであると。本堂の扁額「観音堂」。長谷観音寺 (桜観音) 昭和四十六年四月一日 松田町文化財指定十一面観音菩薩立像 平安時代の一木造り 高さ一三四・五糎一般に深彫りで特に衣の褶(ひだ)の部分は深彫りで彫痕が強く全体の風格に誠心美がある。この十一面観音菩薩城は大和の長谷観音寺と鎌倉の長谷観音寺にある十一面観音菩薩像と共に一本の木を三分して作られたもので行基の作であると言い伝えられている。 松田町教育委員会社殿前から国道246号の道路標識を見下ろす。国道246号沿いのサクラ並木が良いと。境内の東側に建つ六地蔵と、地蔵。西側にも石碑群。左から、「西国坂東秩父百観世音 西国八拾八ケ所○○○ 供養塔」。中央の石碑には、「天下泰平 南無阿弥陀佛」と。左側の石碑にも「供養塔」と。国道沿いには、左から「墓石、堅牢地神、木食〇正」と刻まれている。境内の西側から、”長谷観音寺 (桜観音)” を振り返る。桜観音の通称で親しまれている長谷観音寺の十一面観世音菩薩。観音菩薩像は古来より地元の松田庶子の人びとにより大切に守られてきたもので、1970年代から自治会会員の減少などにより護持していくのが難しくなり、隣り合う宝寿院(藤井宏映住職)に管理が移譲されている。長谷観音寺 (桜観音) に隣接して西側に建つ「宝寿院」。真言宗 深澤山 宝寿院 (ほうじゅいん)所在地:神奈川県足柄上郡松田町松田庶子1035国道246号線を山北方面に行く途中の右側高台に見えるお寺で、国道沿いに建つ寺号標石には「真言宗 深澤山 宝寿院」と。新しい宝寿院本堂。東名高速道路の拡幅工事に伴い再建されたのであろうか。長谷観音寺(桜観音堂)と隣り合う真言宗のお寺で、本尊は大日如来である。本堂の扁額も新しく「宝寿院」。本堂の西側から。境内の庭園には多彩な植栽が施され、長谷観音寺の桜とあいまって四季折々の彩りを添えています。庭園内の階段をのぼると、東屋があり周囲の樹木を眺めることができますと。本堂の東側に珍しい二人乗りの三輪車。メーカーはどこであったか。右は国道246号。道路脇のキロポストには「246 三宅坂まで 76km」と。一段高いところに「真言宗 宝寿院」と刻まれた寺号標石。15:45信号は国道246号の桜観音前交差点。この辺りはJR御殿場線が並行している。臨時駐車場に戻り一般道路優先で帰宅することに。16:00曽我梅林辺りであったか南の空の雲が綺麗であった。雲が夕陽に染まればどのように。16:20国道1号を走り橘インタから西湘バイパスへ。まだ時間が早くスムーズに来れた。西湘バイパスを東へ向けて走る。16:20二宮 秦野インタ出口。自宅へは16時50分に到着。近場にもいろんな良いところがあることを知ったドライブであった。3月末から4月にサクラを求めて再度訪れたいものです。今日の歩行数は約10,000であった。 END
2024.01.31
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曹洞宗 能安寺 (のうあんじ)の隣に大きなお寺があったので立ち寄る。1月18日(木) 15:10曹洞宗 香集寺 (こうしゅうじ)所在地:神奈川県足柄上郡山北町向原2501曹洞宗寺院の香集寺は、如意山と号します。香集寺は、僧永相(長享元年1487年寂)が当地にあった観音堂に応仁元年(1467)寄宿、幽邃を愛でて一滴庵と号して創建・開山、その後僧宗孝(天文2年1533年寂)が末寺を配置し、当寺を香集寺と改号したといいます。広い駐車場から山門を見上げる。中央の石碑に字が刻まれていたが判読できなかった。大きな石燈籠が一基。後方には富士を望む ”交通安全観世音菩薩"。後方のしだれ桜とのコラボも。階段下の左側には社の中に”六地蔵と大師像”か。駐車場の北側に先程参拝した”能安寺”。因みにブログ取材で各地のお寺を参拝しているが、2023年11月21日時点において、全国には76,660ヵ寺(337ヵ寺は登記閉鎖等)の寺院があります。神奈川県には1,905ヵ寺の寺院があります。神奈川県足柄上郡山北町には18ヵ寺の寺院がありますと。階段途中の左側に”萬霊塔”。右側には ”不許葷酒入山門(くんしゅさんもんにいるをゆるさず)” の石柱。多く禅宗の寺の門前に立つ結戒の一つ。「不許葷酒入山門」とあり、臭気の強い野菜は他人を苦しめるとともに自分の修行を妨げ、酒は心を乱すので、これを口にしたものは清浄な寺内にはいることを許さないということ。西側の富士を望む ”交通安全観世音菩薩”。台座に”交通安全観世音菩薩”と。交通安全観世音菩薩の視線の先には富士。この場所からはダイヤモンド富士も見えるのであろう。階段を上り山門前から東名高速道路の西方向を望む。山門下から広い境内を望む。砂利を敷かれた境内の先に本堂。本尊は釈迦牟尼佛。本堂の扁額「如意山 (にょいざん)」。本堂の ”花頭窓 (かとうまど)”。火灯窓・花頭窓は、おもに日本の、寺社建築・城郭建築・住宅建築などに見られる、上枠を火炎形または、花形に造った特殊な窓である。ほかに、華頭窓、架灯窓、瓦灯窓などと表記する。また、石山寺の「源氏の間」に見られることより通称「源氏窓」ともいうと。本堂前右側に「太子堂」が建っている。太子堂裏を東名高速道路が走っている。本堂前右側に”寺務所”。かわいい地蔵が建っていた。境内の樹々は綺麗に整姿されていた。寺専属の園芸店が整備しているのであろう。落慶記念碑落慶記念碑西来の祖道此地に建つ。月に釣り雲に耕して古風を慕う。世俗の紅塵飛んで到らず如意香集の中。浄法界の見出没無し、大悲の願力去来を示現す。本尊 釈迦牟尼仏 当寺は、大雄山最乗寺開山了庵恵明禅師の法孫忠室宗孝大和尚の開山になる。以来、幾多の変遷を経て五百有余年、祖風を相承して、現住廿八世大哉秀胤大和尚に至る。此の度、東名高速道路拡幅整備工事に当り境内地並びに墓地の大部分が其の路面下に掛り、香集寺の法灯を後世に伝える為には全面移転の他に方途なきを諦観するや、住持俱に檀信諸氏と議ること二百余年、以来、一意専心、其の再建の為一同総力を挙げて是に努め平成元年十月に至り、八年間の長きに亘る移転工事の竣工をみる。此処に、用地提供者、日本道路公団、関係諸官庁並びに其の関係者の篤き三宝護持の念を頂戴したことを記し、当山檀信徒各家先祖代々の諸精霊に回向し、信心の善男善女人の家内安全、諸災消除、子孫長久、諸縁吉祥ならんことを〇い、落慶をトして此の碑を建立する者也。 維時 平成元年十月廿四日 香集廿八世 大哉秀胤 叟代境内からの富士もビュースポットである。笠雲がかかる富士をズームアップ。明日の天気は・・・。太子堂。背面には東名高速道路のフェンス。太子堂の扁額「〇子〇」。境内の北側には”石仏群”。ここも背面には東名高速道路のフェンスがあり境界地である。境内にはふじ棚もあり、サクラの蕾も膨らんでいたが河津桜であろうか。隣町の松田町では河津桜の ”まつだ桜まつり” が今年2月3日(土)から開催される。境内には石碑が多くあったが東名高速道路の拡幅整備工事に伴い移動したのであろう。右側の石碑は「○○○」。○○如意山香集寺○○記説明板もなく、字が風化して判読できなかったが、 明治三十八年四月 勅持揚性海慈〇禅師○○○○○○ 左側の石碑は「○○」如意山震災復興記大正癸亥ノ大震災ハ文籍ニ載セ口碑ニ傳ヘ當時周ク知ルナシ特ニ當山ノ惨害ハ甚大ナリ山林ノ崩壊十数町ニ過ギ砂防工事〇町ニ越ヘ為ニ懸賞数千円テ消〇セリ租堂之〇ガ為ニ北方ニ曳〇スルコト三間廻廊延長同ジク三間庫院曳・・・以下判読できず。境内の北側を望む。南西方向のJR御殿場線 ”東山北駅” に国府津行き電車が入線。東山北駅の南200メートル程の所に ”県立山北高等学校” があるので多くの生徒が乗車。15:20山門から西方向を望む。 ー 続く ー
2024.01.30
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最明寺史跡公園の次の目的地は「松田城跡」。1月18日(木) 14:25カーナビをセットし、最明寺史跡公園駐車場から右折し”松田駅”方面へ下る。道路は一車線で狭く道路には落ち葉、枯れ枝が積もっていた。登ってくる車もなく道幅が狭いので注意しながら運転。道路標識には「← 最明寺史跡公園」、「自然館 →」。ユー字カーブ点に、「林道 最明寺線 幅員 3.0m、延長 2,018m 松田町」と。地蔵も立っていた。台座には「施主 ?」とあったが。時光窯所在地:神奈川県足柄上郡松田町松田庶子林道最明寺線を下り”時光窯”の右手に富士が見えていたので道路脇に車を停める。傾斜地には農作業用のモノレールのレールも。廻りにはミカン畑が広がっているようだ。この辺りからの富士も絶景。今年は積雪は少ないようだ。絶景の富士をズームアップ。直進か右折か迷ったが右折して ”大林農道” を下る。直進は中央農道で、 ● 松田山ハーブガーデン ● JR松田駅 ● 小田急新松田駅この後農道だけに道は狭かった。赤矢印から”大林農道”になる。最明寺史跡公園から選択した松田城跡までの東側コースは 4km、車で16分。西側のコースは、2.9km、車で11分、徒歩50分でカーブが少なかったようだ。大林農道を下り東名高速道路の上り線沿いを西に走り道案内板。カーナビの案内で坂道を登り道路脇に車を停める。眼下には東名高速道路、酒匂川、西には富士。富士をズームアップ。酒匂川沿いの白い建物は「神奈川柑橘果工株式会社」。同場所から酒匂川の下流方向を望む。遠く相模湾が望める。新十文字橋、十文字橋、小田急線の橋梁、その下流には足柄大橋、足柄紫水大橋。手前の新十文字橋の広場は ”まつだ桜まつり” 開催時には臨時駐車場に。14:45松田城跡所在地:神奈川県足柄上郡松田町松田庶子松田城は鎌倉時代に松田氏によって築城された。ここからの見晴らしは素晴らしく、足柄平野や相模湾が一望できる。瓢箪形をした敷地(現在はみかん畑)の最北端、海抜約180mの場所に本陣居城址、その前後の低地に空堀りがあったとされ、南に広がる平地にて石畳や馬具等が出土した。近くに城山地区という地名があり、近隣の地名にもその名残りをとどめている。写真はネットから引用。説明板の前に車が数台止めれるスペースがある。松田城跡(松田町指定) 昭和四十六年四月指定松田城跡は旗矢沢、天神沢という二つの沢を天然の要害として利用した典型的な連郭式山城である。東名高速道路の拡幅工事時に記録保存され、上・下段腰曲輪、掘立柱遺構・柵列・井戸・溝状遺構・地下式壙・堀切が確認され、炭化穀物類・陶磁器類・カワラケ・鉄釘・古銭等多数が出土している。城郭として使用していた時期は十五世紀中葉から十六世紀後半頃で、秦野盆地から来た波多野氏の系譜である松田頼秀・顕秀・憲秀の頃である。松田憲秀は小田原北条氏の筆頭家老であり、松田城はその弟新次郎康隆の持城であったとの記録が残っている。 松田町教育委員会松田城跡想定図説明板から北側に、前曲輪2、前曲輪1、本曲輪2、本曲輪1、後曲輪、搦手と連なる。説明板から北側の前曲輪2、前曲輪1へと進むが説明板が見つからなかった。右側の下が前曲輪であったのか。松田山を見上げると、先程走った”松明の由来碑”辺りであろうか。更に奥に進むと農作業用の小屋が建っていた。人の気配がなくイノシシの出没が怖い!。畑には鳥獣対策の線が張られていた。松田城跡関係の説明板も見つからずイノシシが怖いので引き返すことに。引返し南側の足柄平野を望む。ここも畑の廻りに鳥獣対策用の線が張られていた。JR御殿場線が国府津へ向けその先に相模湾。手前は松田の市街地。中央のかまぼこ型の屋根は、松田町立松田中学校の体育館。左側のビルは、”元・第一生命ビル" で現在は ”BIOTOPIA (ビオトピア)”。松田城跡から東名高速道路の側道に下りる。次の目的地を山北町の「能安寺」にし、ここを大きく右折し西方向へ進む。同場所から東名高速道路の上り線(三車線)を振り返る。東名高速道路沿いを西方向へ進みカーナビの案内はここを右折。道路脇に立っていたのは「三界萬霊塔」。三界萬霊塔から東名高速の上り線、下り線の高架下を抜けると道路沿いに石碑。向かい側にお寺があったので道路脇に駐車。東名高速道路の橋脚に「寺沢橋」。15:05曹洞宗 能安寺 (のうあんじ)所在地:神奈川県足柄上郡山北町向原2499曹洞宗寺院の能安寺は、通永山と号します。能安寺は、元亀3年(1572)に創建、香集寺5世行翁(慶長6年1601年寂)が開山したといいます。昭和44年に計画された三保ダム造成に伴い、当地へ移転しています。世附の百万遍念仏は、三保村(旧世附村)で毎年行われていた仏事で、当地へ移転後も続けられ、神奈川県無形民俗文化財に指定されています。道路沿いに ”六地蔵” が並んでいた。道路沿いの垣根越しに説明板。垣根内には梅が咲き、上は東名高速道路の下り線の高架橋。神奈川県指定無形民俗文化財 世附の百万遍念仏(よづくのひゃくまんべんねんぶつ) 昭和五十三年六月二十三日指定世附の百万遍念仏は六〇〇年以前から伝承されたもので、毎年二月十五日から十七日まで能安寺で行われていたが、三保ダム建設で能安寺が水没し向原に移築され、今は毎年二月の中旬の土・日曜日に行われている。道場(二間四方の板間)の奥正面に大滑車が作りかけられこの滑車に大数珠の綱がかけられる。念仏衆の念仏声にあわせて、若衆が交替で豪快に数珠を廻し一年間の無病息災を祈るという。この大数珠の大回転が特色であり、中心行事である。念仏が終わると、伊勢大神楽系の次の神楽が奉納される。一、剣の舞 二、姫の舞 三、幣の舞 四、狂いの舞 五、二上りの舞 六、おかめの舞 七、鳥刺しの舞以上で他に類を見ない多くの特色を持ち、郷土の貴重な民俗文化財として保護するものである。 平成十七年三月 神奈川県教育委員会”百万遍念仏”といえば善男善女が寺院の本堂に円座して中央に導師を迎え大数珠を繰りながら念仏を唱える京都知恩寺型百万遍念仏を指しますが、世附の百万遍念仏は大数珠を巨大な滑車に取り付け、数珠を回転させる全国的にも珍しい行法ですと。今年は4年ぶりの令和6年2月17日(土) ~ 18日(日)に開催される。山門を入ると右側に石碑。能安寺本堂東名高速道路の高架橋下に位置するお寺である。本堂の扁額「能安寺」。本堂前から東名高速道路の西方向を望む。能安寺境内から出て西側に立つ石碑。石碑には字が刻まれていたが句碑、歌碑であろうか。道路を挟んで社があったが以前はここに六地蔵があったのか。左側は「供養塔 足柄上郡○○會」、右側は説明であろうか字が判読できなかった。15:10説明板がなく詳細は不詳。 ー 続く ー
2024.01.29
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松田町寄地区の”龍王寺”から次の目的地”最明寺史跡公園”へ行くため県道710号線(神縄神山線)を南下、国道246号の寄(やどりき)入口交差点角にあるセブンーイレブンで昼食を購入。1月18日(木) 13:35寄(やどりき)入口交差点から国道246号を西へ向かう。交差点を渡ると秦野市から松田町に入る。カーナビによると ”最明寺史跡公園” へのルートは二つあったが、”チェックメイト・カントリークラブ” 経由の道を選ぶ。頭上の道路標識に「最明寺史跡公園 → 7km」。信号のないT字路を右折。入口にゴルフ場 ”チェックメイト・カントリークラブ” の案内板があったか。13:40国道246号から九十九折の山道を登り東の方向が開けたので駐車。途中ゴルフ帰りの方であろうか数台すれ違ったが道が狭かった。東方向には ”大山”、”塔ノ沢” が見えていた。手前の山にはゴルフ場が連なる。 大山から東方向をズームアップ。手前には秦野市街地が広がる。新東名高速道路の新秦野料金所から出、国道246号との立体交差をズームアップ。右側は小田急小田原線が走る。新東名高速道路の新秦野インタをズームアップ。ゴルフ場は ”太平洋クラブ 相模コース” 。サクラ並木の山道を登り ”チェックメイト・カントリークラブ” 入口へ。ここのゴルフ場ではプレーをした事がないが山の上で眺望がよさそうであった。目的地は左方向へ進み「最明寺史跡公園 ← 入口 2km」。チェックメイト・カントリークラブ入口からの山道はフラットになり右側はゴルフ場。西の方向を見ると頂上部に雲がかかった富士が見えていた。眼下には酒匂川が流れ山北町が広がる。右側の山の上には電子機器メーカーの”トヤマ”。富士が見え「関東の富士見百景」に指定されてもおかしくないビュースポットであるが。富士をズームアップ。右側に ”富士スピードウェイ” が見えていた。道路脇に松明の台が十台近く並んでいた。酒匂川の下流側を望む。酒匂川の西側は南足柄市、足柄上郡の町、下流には小田原市街地。足柄平野が見下ろせる絶景である。夜景も見事では。酒匂川に架かる橋をズームアップ。上流側から新十文字橋、十文字橋、小田急線の橋梁、更に下流に足柄大橋。”まつだ桜まつり” 時には、新十文字橋の上下流は会場へのシャトルバス発着場になっている。ゴルフ場沿いの道を振り返る。フェンス内はゴルフ場。ゴルフ場のフェンス沿いに立って石碑。松明の由来碑所在地:神奈川県足柄上郡松田町松明の由来は、松田城主と家臣が落城のときに農民が道案内に送り火を炊いたとか、害虫を山頂に誘い五穀豊穣の祈りを捧げた等と伝えられていると。右側の石碑には「寄附者芳名」が刻まれていた。金額は金拾万円から。松明の由来松田庶子六夜会石碑には松明の絵が刻まれていた。石碑には雲の峯が崩れ、夏も終わりに近づく頃、松田山の頂きに夜空を焦がして108体の松明が灯される。いつの頃、誰れが、どういう理由で始めたかそれは定かではない。松田城主と家臣が落城のとき、農民が道案内に送り火を炊いたとか。害虫を山頂に集め、西郡 (今の足柄平野一帯) 四万石の五穀の豊穣を願う農民の素朴な祈りが籠められていたとか。度重なる酒匂川の出水による犠牲者慰霊のためとか。いづれにせよ108という数が仏教の108煩悩に関連し、八月二十六日の晩景に彩りを添える。「六夜の松明」には、人々の心の奥にものの哀れを訴え茲にはおかないものがあります。私達は今日まで長い間に亘り、この美しき伝統を松田の誇りとして、・・・(以降略)松明の由来碑からゴルフ場に沿って進み、杉林の中を下り最明寺史跡公園へ到着。14:00最明寺跡公園 (さいめいじしせきこうえん)?所在地:神奈川県足柄上郡松田町松田庶子最明寺史跡公園は人里離れた松田山山頂付近、海抜550mの地に広がる静謐な公園である。アクセスは、車で、東名高速道路「大井松田インタ」から約20分。徒歩で、小田急線「新松田駅」、JR御殿場線「松田駅」より約2時間。最明寺史跡公園 管理事務所管理事務所は閉ざされていた。門前には公衆電話が設置されていた。最明寺史跡公園 花マップネットから引用管理事務所前に貼られていた写真クマが目撃されました!令和3年12月に松田山において、熊の目撃情報が複数、寄せられています。クマに出会わないために ① 廃棄野菜や廃棄果実を野外に放置しないようにしましょう。 ② クマ除け鈴、ラジオなど音の出るものを携帯しましょう。クマと遭遇してしまったら・・・ ① 刺激しないように、慌てないで静かに立ち去りましょう。 ② クマから目を離さず、ゆっくりと後ずさりしましょう。 ③ 走って逃げない(クマは逃げるものを追いかける習性があります)。 松田町役場 観光経済課 ☎ 0465 (83) 1228この日は平日で人影もなく静寂であったので🐻除け鈴をリュックに付け散策することに。山の斜面に何か構造物が。からさわ古窯跡群 古代瓦焼窯跡これは、今から千二百年位前(奈良時代)の屋根瓦を焼いた松田町庶子にあった、”からさわののぼり窯”です。昭和四十三年東名高速道路新設工事の際発見されましたが、再び五十七年より、上り三車線の高速道路拡張工事のため取りこわされることになりました。こののぼり窯は町の指定文化財であるので再調査したところ四基発掘されました。神奈川県内でも大変珍しいのぼり窯であり永く保存したいという願いから道路公団の協力を得て第三号窯を移築したものです。一番下の所は焚口で燃料を燃やすところです(おそらく松の木が多く使われたと思われます)。奥の方は階段になっていて、九段あり、そこに瓦を置いて焼いたわけです。中央の天井の部分は、自然にくずれ落ちたものですが、中が見えるように修復はいたしません。一番上には穴があり煙突の役目を果たしたと思われます。全体の長さは約七メートル幅は約二メートルです。のぼっていく角度は四十五度位あります。窯の規模からして一回に屋根瓦を百五十枚から二百枚位は焼くことが出来たと思われます。この窯跡から発見された瓦と同じ瓦がここから約八キロメートル離れた小田原市千代の奈良時代に建てられたという廃寺の跡から発見されているので、その寺をつくる時の屋根瓦をからさわで焼いたことがわかります。運搬するには舟で酒匂川を利用したと思われます。 発掘された遺物は松田町教育委員会に保存されています。 昭和六十二年八月 松田町教育委員会 東海自動車道改築 松田町内遺跡調査会一番下の焚口窯の全体の長さは約七メートル、幅は約二メートルで、のぼっていく角度は四十五度位ある。最明寺史跡公園案内図■ 最明寺跡 人里はなれた山中で、密教の奥義を追求した真言宗の名刹として、鎌倉時代の承久三年(西 暦1221年) 松田郷を治めていた大庭平太景義がこの地に招いた源延という僧侶が、現在地 に建立したものである(当時は西明寺)。 その後、文明元年(西暦1469年) となりの大井町金子に移転しており(現最明寺)なぜ移転し たかなど謎も多い。 毎年4月10日には、庶子地区の信徒により「施餓鬼会(せがきえ)」(供養の行事) が盛大に 行なわれ、極めて仏縁の深い地である。最明寺史跡公園この日は誰もいなかったが、春には色とりどりの花が咲き乱れ桃源郷のようであり、池の周りはサクラの木に囲まれ、水面を草花や樹木が彩る場である。現在は落葉していたが、毎年4月上旬になると「ソメイヨシノ」や「花桃」などたくさんの春の花が咲き乱れる、知る人ぞ知る花見の名所であると。野鳥がさえずる散策路を歩き池をひとめぐりすれば、心が解き放たれるような不思議さを覚えます。斜面を上がって行くと富士山や相模湾も見渡せますと。池の左側の一段高いところに石碑が建っていた。広場の隅に木柱が立っていた。池の周りにはいろんなサクラがありまた訪れたい地である。木柱には「最明寺護摩堂跡」。四阿の下に石碑。法要の営まれる4月はサクラが見頃を迎え、毎年4月10日に「最明寺例祭」が行われる。最 (西) 明寺跡の由来伊豆山の別当浄蓮上人源延は、夢のお告げを受け、信州善光寺の一光三尊善光寺如来の尊像を模写して越前の仏師海縄にたのんで金銅の仏像を鋳造して承久三年(1221)松田の郷庶子山に安置し、寺を西明寺といった。源延は源頼朝の重臣加藤左衛門尉実長斎といい、出家して、天台の澄憲の門に学び、のちに伊豆山の別当となって活躍した。第二位覚阿上人円浄の時に最明寺入道北条時頼は、善光寺如来を深く信仰し、寺領一千五百石を寄進したので、この時寺門は隆盛であったと伝える。応仁・文明の戦乱のため、最明寺は次第に衰えた。文明年間、鎌倉八正寺宮尊賢親王は、弟子の賢昌を住持として寺の復興を計ったが、山道険しく、人ともに困難であるため、寺を金子の郷に移した。庶子山西明寺の田地は、庶子村の信徒にまもられ、数百年の間、毎年四月十日の 施餓鬼会と善光寺如来の戸ごとの巡行供養が行われてきた。その後、松田町庶子戸主会、現在の庶子自治会が継承して昭和の今日に至っている。 昭和六十三年十月吉日 松田町教育委員会一段高いところに石仏が並んでいた。正面からズームアップ。池の西側奥には「鐘楼跡」があるのだが誰もいないので今回はスルー。池の周りにはいろんなサクラが植えられており「鬱金 (うこん)」と。池の西側から管理事務所を望む。登山道入口に建つ説明板には ”松田町地域水源林整備事業”神奈川県全体の水源となっている酒匂川水域を保全するため、その上流域に位置する松田町松田惣領・松田庶子地区及び寄地区の町有林を整備しました。当町の将来目指す人工林の姿は、神奈川県の進めている「かながわ森林再生50年構想」との足並みをそろえながら、林道等から近い森林については木材循環を考慮した健全な人工林に、林道等から遠い森林については、針広混交林へ導いていきます。また、広葉樹林については、地域特性を活かし、里山の再生をめざした森林の整備を実施していきます。松田町寄自然休養村案内板松田町ではこの案内板がいたるところで立っている。ヤマビル注意の看板ヤマビルには毒はありませんが、血が止まりにくくなることがあります。塩や虫除けスプレーなどで対策をしましょう。 松田町観光経済課右上に上っていくと先程行った「田代橋」へと至る。池の水は渇水期に。早咲きのサクラが一部咲いていた。ズームアップ。更にズームアップするがサクラの名は。河津桜であろうか。名札があったが「○○桜」。蕾が膨らんでいた。2月にはいろんな花が咲くのではと思いながら。14:15春の花が咲く時期に再度訪れたいものです。 ー 続く ー
2024.01.28
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曹洞宗 福昌院へ参拝後、寄地区の南地域にある庚申塔、道祖神を巡ることに。1月18日(木) 12:10県道710号線(神縄神山線)を南下、バス停「田代向」を右折。石碑があったので道路脇に車を停めた。石碑には「祈交通安全」と。県道710号線(神縄神山線)の、バス停「田代向」を振り返る。こちらの石碑には「寄賛歌 作詞 山本博」一、ふきの芽ふ吹く西丹沢 鳥風涼しわらび狩り 目高住む里中津川 休養村はこゝに在り二、ます捕って水あじ面白く 濃紺のもと○○○ 遊び楽しむ時は今 田代向いは夢多し三、夕陽は映える山○○ 入相・・・・・・・四、木枯し去って○○の ・・・・・・五、人生乃うち四十〇 寄と共に栄えたり ・・・・・・・昭和五十七年五月五日 山本博 建之この後訪れる ”寺社史蹟巡り” 。右側の矢印(黄色)から西へ進み、赤星の”道祖神”、左側の赤丸の”龍王寺”を訪れる。中津川にかかる”田代橋”を渡るといろんな案内板が立っていた。この後訪れる道祖神はカーナビでは右側の道を案内。道案内で右方向に、・最明寺史跡公園ハイキングコース・・・・・この地区の散策後行くことに、私は車だが。・宮地山ハイキングコース・シダンゴ山ハイキングコース・丹沢学舎松田町寄自然休養村案内板現在地は中央下の赤矢印。田代公衆トイレ所在地:神奈川県足柄上郡松田町寄田代橋を渡るとある公衆トイレ。ハイキングコースが多々あるのでハイカーのために設置か。田代橋の上流側の親柱(西側)の側面には「たしろばし」。中津川の上流には ”松田町寄ロウバイ園” が見えていた。親柱の上面には「町の木 ナンテン」。下流側には「町の花 コスモス」。田代橋から坂道を上ると直ぐ右側に”高根神社”。裏側に駐車場があり駐車。高根神社所在地:神奈川県足柄上郡松田町寄一間四方の小さな神社であったが説明板がなく詳細は不詳。社の扁額「高根神社」。隙間から内陣を望む。内部には椅子等が置かれていた。寄宮地下単身道祖神・庚申塔所在地:神奈川県足柄上郡松田町寄5240道路脇に建っており正月明けであったためか綺麗に整備されていた。三猿の彫り物も。田代橋の袂に ”聖心丹沢学舎” の道案内があり狭い道を登り訪れたが。所在地:神奈川県足柄上郡松田町寄5910途中にも ”丹沢学舎” の案内板があったが学舎らしきものはなくこの碑のみ。門扉らしきものに「聖心丹沢学舎」と。帰宅後ネットで調べると「2020年4月末をもちまして聖心丹沢学舎を閉館いたします。」と。丹沢学舎は平成3年(1991)3月に丹沢山系の豊かな自然の中で、聖心姉妹校の児童・生徒・学生が、オリエンテーション、校外学習、自然教室、各種研修、ゼミナール合宿、クラブ活動などを仲間と共に過ごし学ぶ場として、開設された。聖心丹沢学舎から狭い道を折り返し次に訪れたのが ”双体道祖神”。カーナビで進み道祖神は道路下にあった。途中でユーターンして道路脇に駐車。寄宮地上双体道祖神(道祖神の祠)所在地:神奈川県足柄上郡松田町寄5088登って来た道を振り返る。民家は傾斜地に建っており玉石で土留めされていた。道祖神は、村境、峠などの路傍にあって外来の疫病や悪霊を防ぐ神である。後には縁結びの神、旅行安全の神、子どもと親しい神とされ、男根形の自然石、石に文字や像を刻んだものなどがある。ここの双体道祖神廻りも綺麗に整備されていた。他にも石像があったが説明板がないので詳細は不祥。社の中に双体道祖神。沢の下から見上げる。道祖神傍の玉石の石垣には「宮地山、シダンゴ山」の道案内。次に訪れたのが、聖心丹沢学舎傍にあった ”堅牢地神と祠”。カーナビの案内で祠前を通り過ぎ道路脇に駐車。ここから100メートル程戻ると”聖心丹沢学舎跡”がある。堅牢地神と祠所在地:神奈川県足柄上郡松田町寄83道路整備の際に移転されたのであろう石垣の上に祀られていた。石碑には「堅牢地神」と刻まれ、祠は風化していた。次の目的地は「龍王寺」。前方は ”タケ山” でタケ山展望台があり、真鶴半島、大島、江の島、富士山が眺望できると。カーナビの案内で山道を進み石垣に目的地の「曹洞宗 龍王寺」。12:55この右側の坂道を上り龍王寺の境内へ駐車。曹洞宗 日向山 龍王寺所在地:神奈川県足柄上郡松田町寄6410地名は寄(やどりき)だが、かつては「虫沢(むしざわ)地区」。龍王寺本堂へは歴史を感じさせる石段を上る。階段横には石祠。消火栓も。階段の右側に苔むした大きな石碑があった。文字が刻まれていたが判読できなかった。右側には「南無阿彌陀佛」と刻まれ、左側には「仏が刻まれ、文字」も。龍王寺本堂ここへ来る前に参拝した”曹洞宗少林山福昌院”の末寺である。福昌院の由緒に書かれていた。本堂の扁額「龍王禅寺」。本堂前から境内を見下ろす。本堂に向かって六地蔵が立つ。境内に聳えるコウヤマキ。後方の山はハイキングコースの ”宮地山” 、”タコチバ山” であろうか。コウヤマツをズームアップ。手水舎、石碑には「龍王寺御和讃」。龍王寺御和讃 作詞 古谷 勇 作曲 平賀康雄 ”福昌院の第29世住職” では。一、観音坂を下りきて 堂の坂をば登りなば 迎えたもうは六地蔵 日向の山の龍王寺二、雨風耐えて幾年や 情は深き里人の 集い語らう道場ぞ 古き御寺の龍王寺三、八坂長坂長寿橋 湧きいずる水清らかに 蛙飛び交い蛍舞う 美峰の里の龍王寺 平成四年一月吉日 施主 沖 古谷勇この辺りの観光地は他に ”五大しだれ桜” がある。虫沢のしだれ桜 (五大しだれ桜)龍王寺から徒歩20分ほどの高台の民家の庭にある大きなしだれ桜で、廻りは畑等に囲まれており、のどかな春の風情を満喫できる(写真等はネットから)。13:05寄地区の史蹟巡りはここで一応終わり、まだ時間があり次の目的地をスマホで検索。ヒットした目的地は、約15キロ離れ、所要時間30分の「最明寺史跡公園」。カーナビの案内は、一旦、国道246号へ戻り大廻りして再度山道を登るルート。健脚者にはハイキングコースになっている。寄(やどりき)地区には他にも多くの道祖神、馬頭観世音があったようだが。次回サクラの時期に訪れたい。 ー 続く ー
2024.01.27
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