おじん0523のヒロ散歩

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2023.01.25
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カテゴリ: 続 日本100名城
八ッ場ダムへは完成前に2度、令和2年(2020)3月に完成してから初めての訪問である。
2014年11月2日(日)に訪れた完成前の「​ 八ッ場ダム、吾妻渓谷 ​」👈 をクリック願います。
八ッ場ダムは、令和2年(2020)4月1日より運用を開始した。

11月16日(水) 14:35
前方の丘に「 やんば見放台 」の看板。
所在地:群馬県吾妻郡長野原町川原畑994
八ッ場ダム全体を高い位置から見学できる無料展望台。近くには無料駐車場があり、ドライブ



ズームアップ「やんば見放台」。
折り返しの手摺付きのスロープが設置されている。


やんば見放台には双眼鏡、ベンチが設置されていた。


八ッ場ダムのダムデータ
河 川          利根川水系吾妻川
目的/型式        多目的ダム/重力式コンクリートダム
堤高/堤頂長/堤体積   116m/291m/911千m3
流域面積/湛水面積    711.4k㎡ /304ha
総貯水容量/有効貯水容量 107,500千m3/90,000千m3
本体施工者        清水建設・鉄建建設・IHIインフラシステム
着手年/竣工年      1967年/2019年   紆余曲折し着手してから52年で完成。

八ッ場あがつま湖には網場 (あば) が2本。


八ッ場あがつま湖
満 水 時 :標高 583m
最低水位:標高 536.3m  夏期制限水位:標高 555.2m   
               令和2年3月撮影 ※ 試験湛水中の最低水位時の写真です。



川原湯温泉街  吾妻川沿いから移設された。
八ッ場大橋   標高:586m=ダムの天端の高さ、標高:583m=満水時の水面の高さ
不動大橋
丸 岩
               令和2年3月撮影 ※ 試験湛水中の最低水位時の写真です。


逆光の中に八ッ場大橋
八ッ場ダム建設に伴う付替道路として建設された。建設中の仮称は湖面1号橋。同様の付替道
路として群馬県道375号の不動大橋と国道145号の丸岩大橋がある。
全長:494m、幅員:14m、高さ:73.5m、開業:2014年10月1日。


八ッ場大橋をズームアップ。右奥には湖底から移転された住宅が広がる。
左奥には不動大橋。


八ッ場あがつま湖
   浅間山北麓ジオパーク  吾妻川エリア F-6  
   なぜ、この場所にせまくて深い谷が生まれたのでしょうか。
大地の活動
  八ッ場あがつま湖は、幅がせまく深い谷地形を利用して作られました。吾妻川は吾妻渓谷
  を削り込んで東向きに流れていますが、数10万年前には南(長野県側)へ流れていたと考え
  られています。その後、現在の浅間高原の南側で浅間・烏帽子火山群の噴出物が流路をふ
  さぎ、大きな湖(古嬬恋湖)ができました。湖水は標高の低かった場所からあふれ、今の東
  向きの流れに変わり谷を削り始めました。加えて、渓谷地域は古く硬い岩石からできてい
  るため、切り立った断崖になったのです。
人の暮らし
  八ッ場あがつま湖は吾妻川の水をためています。吾妻川はかつて「死の川」と呼ばれてい
  ました。草津温泉からの水が強い酸性のため、魚や虫が住めなかったのです。また、この
  水は農業にも使えず、コンクリートを溶かすため、河川の構造物にも影響がありました。
  そこで、河川を中和する工場が1963(昭和38)年に草津町に作られました。それからは、
  24時間、365日休むことなく石灰を上流の酸性河川に投入し中和を行っています。吾妻川
  は、いまでは魚類が生息する川に生まれ変わっています。


ダム頂部をズームアップ。


八ッ場ダムの設備
なるほど!やんば資料館(八ッ場ダム管理支所)
展望デッキ
選択取水設備(任意の水深から取水する設備)
非常用洪水吐設備
水位維持放流設備
網場
               令和2年3月撮影 ※ 試験湛水中の最低水位時の写真です。


民主政権と八ッ場ダム
八ッ場ダムといえば、今から13年前の2009年の秋に、「マニフェストに書いてあるから中止し
ます!」と、民主党政権が発足して国土交通相になった前原誠司氏は就任直後にこう公言した
ことが私の記憶に。しかし、地元の反発は強く、2年後に結局「中止」は撤回された。
ダム建設の総事業費は約5,320億円。計画が浮上したのは1952年だからもう70年近い。因みに
民主党の迷走で完成が4年遅れたとあったが、他にも原因はJR移設が遅れたことも。


なるほど!やんば資料館 (八ッ場ダム管理支所)、展望デッキ


展望デッキをズームアップ。


ここへ行くつもりであったのだが。


やんば見放台から北側を見下ろす。
右側に長野原側の茂四郎トンネル入り口。手前には駐車場があり数台の観光バスが駐車。
やんば資料館へは手前の道を入る必要があったようだ。
正面には昼食をとった「そば処 やんば」。


八ッ場ダムを見納め、やんば見放台を下りることに。
ダムの網場 (あば) は放流設備を守る設備だが流木・ゴミ等はなかった。


やんば見放台を下りると道路脇に歌碑。
「ダムとなる 村に知人の 家は無く 行き交ふダンプ 枯草ゆらす  義夫」


歌碑の横に、移設されたのであろう地蔵、道祖神も立っていた。


地蔵の前には浄財の箱も。


14:45
駐車場脇に立っていた観光案内板
  ← 0.5km 名勝 吾妻峡    下流側から入れなかったのでこちら側から?。
  ← 0.3km 八ッ場ダムサイト  ダム頂上部を歩けるのだ。
  ← 0.2km やんば茶屋     お土産スペースと食事スペースがある。
八ッ場ダムサイトへはここから行くべきであったが。


今回の旅の予定は全て終わり帰路につくが、関越自動車道の渋川 or 高崎インタどちらにするか。
折角であるのでGoogleマップで調べて気になった、国道406号 (草津街道・信州街道) 沿いにあ
る「大戸関所跡」「忠治地蔵」「小栗上野介の東善寺」へ行き、高崎インタを目指すことに。


14:53
八ッ場ダムを出発、ダムサイトへ行くつもりであったがトンネルに入りそのまま進む。
カーナビの案内で国道145号のここ岩島駅前交差点を右折。


途中、工事中のバイパス横から岩櫃山を見上げる。


岩櫃山南面の約200メートルの絶壁をズームアップ。


県道58号線(中之条東吾妻線)を南下、最初の目的地「大戸関所跡」も近い。


15:07
国道406号 (草津街道・信州街道) の大戸交差点を左折。


目的地へ到着、大戸交差点を振り返る。


大戸関所跡
所在地:群馬県吾妻郡東吾妻町大戸2875-8
大戸関所は江戸時代信州・草津街道の要所にあったことから、寛永八年(1631年)に関所が設置
された。幕末に国定忠治がこの関所破りに失敗し、処刑されたことで有名になった。 


大戸関所は元和九年(1623)五月将軍秀忠上洛の時に、要害の此の地を守護したのが始まりと
いわれる。其の後、寛永七年に幕府目付によって、関所見立の巡検があり、翌八年に正式に
関所が設けられた。
四阿風のお休み處「御番屋」が建っている。


大戸関所跡
大戸関所は信州街道の要点をおさえる重要な関所で、近世初頭の寛永八年(1632)に設置された。
信州街道は草津温泉を始めとする湯治客、善光寺参り、北信濃の三候の廻米や武家商人の荷物、
各地の産物輸送路として、中山道を凌ぐ程の活気を呈したともいわれ、江戸と信濃を結ぶ最短
経路として重要な街道であった。別名信州道、草津道、善光寺道、大戸廻りとも呼ばれていた。
大戸関所は元和九年(1623)五月将軍秀忠上洛の時に、要害の此の地を守護したのが始まりとい
われる。其の後、寛永七年に幕府目付によって、関所見立の巡検があり、翌八年に正式に関所
が設けられた。中山道の脇往還で碓氷関所の裏固めの意味を持っている。
以後二百三十有余年の間幕府代官の管理の下に運営され、明治元年九月に廃止された。関所は
通行手形によって往来の旅人を厳重に取締り、関所破りは重罪として処刑された記録がある。
註「関所を避けて山越しなどをした者」。通行の門限は明六つから暮六つ(午前六時より午後
六時)までと定められていた。また要害地域を守る関所付の村として、大戸、萩生、本宿の三ヶ
村は関所番人を出し警備に当たったり関所破りを監視するなどの負担を義務づけられ近隣の十
一ヶ村は関所普請村に充てられていた。
嘉永三年(1850)十二月に関所破りの罪を受け侠客国定忠治はこの地で処刑された。映画演劇や
講談浪曲でも知られる處である。
                     吾妻町観光協会・史蹟保存会


御番屋の中には国定忠治の映画ポスター(東宝映画)
出演:三船敏郎、加藤大介、新珠三千代、夏木陽介、藤木悠、水野久美、中村勘九郎
国定忠治が子分の仇をとるため手下30人余りをひき連れ信州へ向かった際、大戸関所
を破ったため関所破りの罪で手配され捕縛、はりつけの刑に処せられた場所としても
知られている。


大戸宿の言われ
北国街道の脇往還である信州街道は、高崎で中山道より分岐し神山、室田、三ノ倉、、大戸、
本宿、須賀尾、狩宿、鎌原、大笹、仁礼、井上、福島(須坂市)、に至る、途中11の宿場をもつ。
大戸宿は、高崎より4番目の宿場町で寛永8年(1632年)に関所が設置された。信州街道は、草津
温泉をはじめとする湯治客、善光寺参り、北信濃の三候の廻米や武家商人の荷物、各地の産物
輸送路として、中山道を凌ぐほどの活気を呈していたとも言われ、江戸と信濃を結ぶ最短経路
であった。文化5年(1808年)には、71軒の宿屋があったと言われています。
可部安佐右衛門
上州吾妻郡大戸村に代々、可部安左衛門を名乗る上州一の分限者がいました。みんなから可部
安(かべやす)と呼ばれて親しまれていました。
初代は富沢掃部といって、戦国時代に生きた武士だったようです。
三代目から可部姓を名乗ります。三代目から五代目までは八右衛門を名乗っていて、六代目か
ら安左衛門を名乗っています。
七代目の可部安が立派な人だったようで、酒造業を始めて、麻の仲買いなどもして、財産を蓄
えます。
八代目も立派な人で、父親の家業を継いで財産を増やし、巨万の富を蓄えます。天明三年(17
83年)に浅間山が大噴火を起こして、鎌原村をはじめとして吾妻郡の村々は壊滅状態にとなり、
避難民が溢れます。八代目は財産を惜しまず避難民の救済に当ります。翌年の正月、その功績
によって幕府より帯刀を許されます。天明六年の大洪水の時も、避難民たちを救っています。
九代目は婿養子で、松井田の分限者、儘田又兵衛の次男だったようです。
十代目は八代目の長男で、学問を好みましたが、それ以上に遊興を好み、江戸に出ては、吉原
遊郭で派手に豪遊していました。お陰で、父親の残した財産を使い果たしてしまいました。
晩年は江戸で暮らしたようです。
十一代目は江戸で生まれて、江戸で育ちますが、郷里に戻って、家業の建て直しを図ります。
この十一代目は侠客の国定忠治とも仲がよく、忠治が処刑される時、最期に望んだのが可部安
が造った銘酒「牡丹」でした。
十二代目は琴堂と号して、俳諧に熱中します。明治の時代になって、横浜に進出して大きな店
を出し、貿易に手を染めますが、どうやら失敗したようです。
現在、大戸の関所跡の近くに可部安の屋敷跡がひっそり残っています。


宿場の記憶  上州歴史街道
忠治の記憶、豪商邸宅


石碑には「大戸関○○碑」
全て漢字で判読できなかった、


裏面には「寄附者芳名」
多くの人の名が刻まれていた
   大正五年丙辰十一月三日建立


大戸関所図
右側:寛保九年 (1724)
左側:文久元年 (1861)  御番屋 間口六間、奥行三間


大戸関所跡に車を停め、国道406号 (草津街道・信州街道) を高崎方面へ歩き振り返る。
交差点は大戸交差点で、八ッ場ダムまで12km(左方向)、我々は右側から来たが。


大戸宿の高崎方面の右上に碑があり立ち寄る。


町指定史跡 可部安左衛門関係遺跡


可部安左衛門邸跡
所在地:吾妻郡東吾妻町大戸
家の前に廻り込む。


石柱には「吾妻町指定重要文化財 可部安左衛門関係遺跡」。
街道脇には「可部安」の看板。


大戸関所関係遺跡(町重要文化財 昭和58.9.12 指定)
大戸関所は、寛永八年(1631)に設置された。大戸の地は信州・草津街道の宿場町で、北信濃地
方の物資や旅人の往来などで大変賑わったといわれ、交通上重要な位置を占めた。
関所の構造は、番屋・御門・高札場・牢屋からなり、番人4人で「入鉄砲と出女」といわれる
ように、この二つについては特に厳重な取り締まりを行った。
幕末に国定忠治が関所破りの罪によりこの地で処刑されている。


国道406号 (草津街道・信州街道) を高崎方面へ進むと、門前に屋号の「永楽屋」。


大戸宿 屋籠看板配置一覧図


こちらには「萬屋」と。


各家の前に屋号の札が建てられていた。


15:20
こちらの屋号は「角屋」。



                                     ー 続く ー





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最終更新日  2023.01.25 03:00:08
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