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May 3, 2026
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庭の土佐文旦の花が咲いた。大豆ほどの小さな地味な花である。4月28日 午後1時30分撮影昨年の実がそのまま冬を越していまだに木に生ったままである。この一本の木に50個ほども実が生る。
Apr 28, 2025
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Nov 7, 2022
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私は使用する画材についてかなり慎重に選択する。しかし常々信頼していた製品が、製造ロットナンバーの問題なのか、あるいはその時に使用した私の仕事場の気温や湿度等の環境のせいなのか、とんでもない惨事となっとことが無くわない。或るスプレー噴霧式の仕上げ材を使用したときのこと、噴霧した途端に液剤が白い糸状になって蜘蛛の巣のように画面全体に貼り付き、瞬時に硬化した。作品は完全にダメになってしまった。取り返しのつかない災害である。 購入した画材店にその旨を報告すると、画材店は製造元に問い合わせると言ったが、もちろん返答はなかった。 私は同じ頃に初めて購入した、上述の製造会社の油絵用の下塗り絵具を作品制作に使用せずに、テストしてみることにした。噴霧式画材で懲りたからだ。 通常の制作どおりにキャンヴァスに塗り、10年間そのまま放置してみたのである。気の長い話だが、・・・10年後、キャンヴァスに塗った下塗用の絵具は、モノノミゴトにひび割れていた。劈開剥離はしていないが、画面全体がまさに蜘蛛の巣状にひび割れていた。 ああ、10年間は長かったが、本画に使用しなくて正解だった、と思った。私はひび割れが走るキャンヴァスを眺め、それからその罅に赤い絵具を塗り込めてから布で拭き取り、乾燥後に黒い絵具を塗って、それが乾燥してからさらに黒絵具を拭き取って先に塗った赤い色が浮き出るようにした。そこに鉛板を粗く叩いたものを貼り付けた。・・・下に掲載したのが、その「作品」である。山田維史「悲しみ ー 閉じられた窓」(部分) 2000年 ひび割れ加工したキャンヴァスボードに油彩、鉛板Tadami Yamada “Grief ー Be Closed Window” (part) 2000, Oil and lead on cracked canvas board
May 2, 2026
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きょう12月14日は赤穂浪士の吉良上野介邸討ち入りがあった日。ここ数日、ケーブル・テレビでいわゆる「忠臣蔵」映画の数々を放映している。なかなか優れた企画で、こんなふうなコレクションは滅多に見られない。で、私もテレビの前に陣取って楽しんでいる。 あつめられた作品は、1938年に京都・東京日活が制作したマキノ正博他監督の『忠臣蔵 天の巻・地の巻』、1941年および1942年の溝口健二監督『元禄忠臣蔵』前編・後編。1958年、大映制作の渡部邦男監督『忠臣蔵』、そして明日、1962年東宝制作の稲垣浩監督『忠臣蔵 花の巻・雪の巻』が予定されている。 興味深いのは戦時中に制作された溝口健二作品の存在である。戦時中は思想統制が厳しく布かれ、歌舞伎や新派、その他の商業演劇、特にプロレタリア演劇の影響があった新劇は激しい弾圧を受けた。演劇のみならず映画もまた国策にそうべく強制された。内容はすべて国威発揚、武士道鼓吹、軍国精神の謳歌に限られた。 「忠臣蔵」はその意図にそうものとして認可された。たとえば歌舞伎を例にとると、近松心中物、いわゆる世話物は上演禁止。しかし武家社会を描いた『仮名手本忠臣蔵』は許可された。戦争へ突入寸前の1941年9月に大名題市村羽左衛門の一座が地方をまわった番組には、この『仮名手本忠臣蔵』が入っている。 溝口作品もタイトルの前に国威顕揚の文言が入っている。しかし、私が「なるほど」と思ったのは、忠臣蔵といえば討ち入りの場面は欠かせないはずという予想をみごとに裏切って、チャンチャンバラバラや切腹場面がまったくない映画なのである。シナリオの下案は真山青果の新歌舞伎『元禄忠臣蔵』であろうが、普通その上演や翻案の映画では冗長として削除されるエピソードに注目し、非常にうまく処理している。忠義という武士道に殉じることが男女の愛を理不尽に蹂躙する、というふうに。これは見方によって、武士道の美しさを描いているともいえるし、一方で、その醜さを描いているとも言える。見る人それぞれの心のままにというわけである。 赤穂浪士の討ち入り事件とその周辺の史料というのは意外に多く残っているようだ。箱根の関所跡にある小さな博物館には、浅野家が取り潰しになり、脇坂淡路守が赤穂城の明け渡しを見届けるために赤穂に向った関所通過の記録簿が展示されている。 もちろん東京都内にはその多くの史蹟がある。浅野内匠頭(たくみのかみ)の江戸城松の廊下刃傷事件は、彼が勅使御馳走役(接待役)を勤めたことに端を発する。勅使は伝奏屋敷を宿舎にするならいで、その宿泊期間中に接待役は伝奏屋敷に移って、高家の指揮をうけながら勅使のすべての世話をすることになっていた。 伝奏屋敷があった場所は、現在の東京駅近く、丸の内1丁目の興銀本店のところである。 元禄14年(1701)3月10日勅使は品川に到着し、浅野家家臣冨森助右衛門と高田郡兵衛がお迎えした。その日、高家筆頭吉良上野介は伝奏屋敷の準備がととのっているかどうかを点検にきた。そして「粗末である」と叱責した。 翌11日、内匠頭は高家とともに品川に勅使を迎えに行った。このとき内匠頭は身体が不調で、藩医の診察を受けた。 そして14日の刃傷となる。 史料がたくさん残っているにもかかわらず、この刃傷事件の動機については現在もなお不明であるといってよさそうだ。 諸説があるけれど、主な説はつぎの三つである。(1) 吉良への付け届けが十分でなかったので、事につけて嫌がらせをされ、接待役としての指導が受けられなかったことに対する遺恨。つまりイジメを受けていたわけだ。多くの映画・演劇はこの説を採用している。 しかし、この説が説得力に欠けるのは、じつは浅野内匠頭が勅使接待役をつとめるのはこのときが2度目。あえて指導をあおぐ必要もなかったのだ。(2) 内匠頭は虚弱体質で、片頭痛の持病があった。11日にも気分がすぐれなかったが、14日も天候が曇りで、そのため頭痛がし、発作的に刃傷に及んだという説。(3) 赤穂藩は塩が重要産業で、その利益で藩政を維持していた。一方で、吉良上野介の領地は三河であるが、三河にも塩田があった。しかし三河の塩が販売競争で赤穂の塩に敗れ、常々その対立があったという説。 いずれにしろ謎のまま、その後の四十七名の家臣による仇討だけが、305年後のこんにちも語りつがれているわけである。 ところで、私は高校を卒業するときまで会津若松市に住んでいたことは、このブログでしばしば書いてきた。会津藩が、微妙なところで、・・・あるいはとても重要というべきか・・・「忠臣蔵」と関わりがあることを御存知だろうか。 吉良上野介義央(よしなか)が刃傷事件後、幕府からの御とがめもなかったが、9月になって呉服橋の屋敷から本所へ屋敷替えになった。この屋敷は現在の両国駅の近く、両国小学校のあたりにあった。ここに移ったとはいうものの、仇討ちがあることが不安で、翌年暮には米沢(現・山形県)の上杉家に身を寄せることにした。上杉家の当主、綱憲(つなのり)は吉良家から養子にはいった人物だった。 上杉家というのは謙信公の血筋をひく名家である。しかし子供には恵まれない家系で、じつは討ち入り事件のときにはすでに死亡していたのだが、綱憲の先代にあたる綱勝は吉良上野介義央の長男で、上杉家に嫡子がなかったために養子として迎えられていたのだった。ところが1664年にこの綱勝が急逝してしまう。正室は子を産まずにすでに死亡しており、継室にも子がなかった。つまり家名を継ぐべき子はなく、それに手を打つ遺言もないままの突然の死だったのである。幕府の定めた法令によれば、上杉家は断絶をまぬかれなかった。それは沢山な家臣団と領民が路頭に迷うこと意味していた。 当時、由井正雪による陰謀事件があり、大量の浪人が流出することは幕府にとって頭の痛い問題であった。時の将軍家綱は、上杉家の処断について会津藩主・保科正之に一任した。 保科正之は前将軍家光の異母弟であった。頭脳明晰で将軍家第一を旨とする恭順な姿勢のため、家光に重用され、また家光はその死に際して家綱の補佐を託したのである。 保科正之のとった方法はおどろくべきものである。上杉綱勝に遺言があったということにしたのだ。そして保科正之は、綱勝の甥にあたる吉良三郎を上杉の養子とし、三郎あらため上杉綱憲として養子縁組を幕府に届けてやった。しかし示しをつけるため、遺言があったにもかかわらず幕府への届けが遅延したとして、30万石から15万石へ減封した。上杉家は断絶をまぬがれた。 『忠臣蔵』のなかで、しきりに「上杉15万石」ということが言われるのは、そのような歴史的事実によっている。稲垣浩監督作品のように、綱憲を息子と言い、また上杉30万石と言っている作品もあるが、それは誤りである。 米沢上杉家は会津保科正之に対する恩義を末代まで忘れなかった。204年後、幕末の戊辰戦争のときに、会津藩が賊軍の汚名をかぶって官軍の討伐にあっていたとき、米沢藩が陰から会津藩を支援していたのは、その昔の恩義に報いようという意志だった。 さて、こうして間接的ながら吉良家と縁があった会津藩だけども、一方で、赤穂藩ともいささかの関係がある。 討ち入りの映画でお馴染みだと思うが、本所吉良邸門前に集結した四十七士は大石内蔵助の打鳴らす陣太鼓とともに邸内に乱入する。その陣太鼓、山鹿流という。軍学者・山鹿素行(やまがそこう)のおしえに基づくものである。 その山鹿素行は、会津若松の人である。生誕地は藩校日新館の隣で、現在は碑がたっている。私は日新館の跡地に住んでいたので、その碑は少年時代の思い出とともにある。 じつは、会津藩では山鹿流軍学は行なわれなかった。会津藩が採用したのは信州松本の長沼宗敬(そうけい)によって始められた長沼流であった。山鹿流は会津からは遠い赤穂藩が採用するところとなっていたのである。 敵味方、共に会津との関わりがあるのをおもしろく思いながら、私はテレビで「忠臣蔵」映画を見ていたのである。元禄15年12月14日、江戸は雪が降っていた。今日、東京は雨である。
Dec 14, 2006
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読売新聞が興味深い記事を載せている。握力が強いほど長生き傾向にあるという。厚生労働省研究班(研究代表=熊谷秋三・九州大学教授)が約20年にわたり2527人(男性1064人、女性1463人)を追跡調査した結果、明らかになった、と。 この記事に私の目がとまったのは、もちろん在宅医療看護中の老母に思いをいたすからだ。 先日もこのブログに書いたが、常日頃、主治医を驚かせているのは、母の指の力、握力が非常に強いこと。「すごい力だなー」と、なかば呆れたように主治医は言うのである。傍目にはギリギリの状態で生きているようなのだが。 90歳を過ぎて、大腿骨転子部および胸部肋骨骨折をし、大腿骨にスライド式の金具を装填する4時間におよぶ手術をした。心臓が手術に耐えられるかどうか危ぶまれたが、骨折したままではいずれ必ず肺血栓症を併発して死にいたる。一か八かの賭けで、私は手術を決断した。 そして、この成功を知った心臓循環器外科の主治医が、母が以前からもっていた腹部大動脈瘤(5cmほどに肥大していた)にステント(人口血管)をほどこす手術を示唆した。私はこの手術も決断した。いつ動脈瘤が破裂するかもしれない不安を抱えながら暮らすよりは、と、ここでも賭けに出た。・・・手術は成功した。 が、退院して在宅での療養が始まってほどなく、ある日、母は突然胸部の激痛に苦しみだした。すぐさま救急車で病院に運ばれ、胸部動脈解離(動脈が裂けてしまうこと)と診断された。動脈血管は三層構造になっていて、そのうちの外側二層が裂け、いわば薄皮一枚でつながっているというのだった。しかし、手術は困難とのこと。母の生命力に期待して薬物治療による自然治癒をまつ、と。高度救命医療をほどこしつつ、50日間の入院がはじまった。 老母は、その死のせとぎわからも生還した。そして在宅医療にはいって3年4ヶ月。この正月中に、誤嚥性肺炎に罹患し、主治医はそれとなく家族に「引導」を渡すそぶりだった。しかし、「肺炎が治ってしまったようだ。驚いたなー」と主治医は言い、母より私たちの看護疲れを心配している今日このごろである。 この、老母の生命力。・・・握力の強さと関係があるのかしら? つくずく新聞記事を眺めている。【関連報道】読売新聞 握力が強いほど長生き、循環器病発症も低リスク 2012年2月20日14時34分
Feb 20, 2012
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連日、作品制作に追われている。来週いっぱいで11月の国際展のための作品は、すべて作業を完了しようと思う。 今回の作品を次ぎの新作に発展的につなげてゆくための技術的な問題を、あれこれ頭の中で模索している。今回の作品で、困難な問題が2,3でてくることが、あらかじめ判った。技術的な問題、もしくは技法的な問題といってもよいが、じつはイメージを実現することに直接関わっている。切り離せないのだ。 技術の研鑚だけなら、さほどの問題ではない。時間はかかるかもしれないが、コツコツと一心にやっていれば身に付く。しかし、無意識裡に靉靆としているイメージの胚(embryo)を明瞭に意識化し、私の思想の内に一定の技法により物理的に統御するのは、時間をかければできることではない。技術が身に付いていれば一瞬で解決する場合もあり、しかしながら、一瞬一瞬を積み重ねてゆく長い時間も必要だ。・・・幸か不幸か、私はそこに私自身の存在証明をみつけてしまった。 午前中に、注文してあった新しい資材や工具がとどいた。いろいろ模索するので、手持ちの資材や道具では間に合わないのだ。普通に絵を描くための物ではない。あれは、どうだろう? これは、どうだろう? と、試してみたくなる。まあ、いろいろな物をつぎつぎ注文している。 さて、きょうは仲秋。東京の各地で名月が見られるというが、残念ながら我が市の夜空は一面の雲。さきほどベランダに出てみたが、まったく駄目。このように名月が見えないことを、季語で無月という。おもしろいね。月が見えないならどんなときでも無月でよさそうなものだが、あえて仲秋の名月についての無月なのである。 障子戸をあけて仰げど無月なり 青穹(山田維史) ところがである。22時近く、暗い部屋の畳床に、一条の明るい細帯がくっきり走っていた。きっちり閉まっていない障子戸の隙間を洩れ来る外明りである。私は、おやッと思い、障子戸を開けた。なんと、満月! さきほどまでの全天の雲は払われて、月が顔を出していた。まさに仲秋の名月。 いまここに我が面照らす良夜かな 青穹
Sep 10, 2022
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現在テレビでオン・エア中の缶コーヒーのCMに、モーツァルトの交響曲40番(KV550)の第1楽章の冒頭部分が使用されている。原曲はMolto allegro。二つのヴァージョンがあるけれども、CMではMolto allegroよりもう少し速く演奏されているかもしれない。演奏はひとつひとつの音が鮮明に粒立って、すばらしい。私はわずか数十秒のこのCMを、いつも目をつぶって聴き入ってしまう。そのため、コーヒー・メーカーには申訳ないが、じつは社名も製品名も知らない。私に対してはコマーシャルの役がたっていないことになる。 それはともかく、私がこの曲、わけてもこの導入部が好きなのは、その悲劇的な疾走感である。いや、私はそのように感じるのだが、別な感じ方をする人があるかもしれない。CMに使用されるというのは、たぶん制作者は悲劇的とは感じていないからだろう。 感じかたの違いを誘発するようなところが、音符そのものの配列のなかに潜在しているかもしれない。目をつぶって聞きながら、私がほとほと感心してしまうのは、その点なのだ。悲劇的と言ったけれども、じつはひとつひとつの音は明るさをまとい、軽やかに飛び跳ね、転がるようだ。めざましいスピードで音が変わってゆくと、耳に残る残響は、俄然悲劇性を帯びるのである。 何ということだろう! まるで魔術のようなことをモーツァルトはやっているのだ。ここには表現の奥義がある。 映画『アマデウス』の中でサリエリが言っていた。「どの音符ひとつを変えても崩れてしまうのだ!」 目をつむり、耳を澄まして、私は何度でも聴いてみる! 魔術を知りたいがために。
Oct 12, 2007
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前年の秋以来、鉢植えの小菊を屋内の窓辺で育てていた。菊花展で買った丈5cmにも満たない文字どおりの小菊である。花が枯れた後に摘花し、施肥をし、折に触れて潅水をしてきた。年始頃には新しい芽が出て、3月には4本の茎が立ち若葉がひらいた。窓から差し込む陽の光を浴びているのだが、なんだか弱々しい感じがした。深窓の淑女ではないにしても、屋内で育てていては「乳母日傘(おんばひがさ)」の感は拭えないかもしれない。そこで一昨日昨日のやや激しい雨になる前に、外に出し、適度の陽を浴びるようにした。・・・そして、私は驚いたのである。弱々しく感じていた小菊が、4本の茎も葉も、ガッシリになっていたのだ。こんなに目に見えて変わるものか! 命の在りようを私は植物たちや昆虫や鳥たちに教わる。いや、突きつけられるのである。 やや寒さを感じた雨がやみ、・・・2,3日後にはまた降るようだが・・・きょうから5月。まさに五月晴れ。小庭の種々の緑がまぶしい。 寒雨やみ五月初日の衣替え 青穹(山田維史)
May 1, 2026
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数年前にこのブログにカタカナで歌詞を書いた『釜山港へ帰れ(トラワヨブサンハンエ)』は、なぜか知らないが現在にいたるまで非常に多くの人がアクセスしていられる。チョー・ヨンピル氏が歌っていられるのを私が聴き取って書き留めた。韓国語の発音の難しさもあって、私が正しく聴き取っているかどうか心もとない。ブログに書くにあたって、日本でもヒットしたこの曲が、しかし原曲を編曲し、また、歌詞の真意とは異なることも示しておいた。 さてそんなことも踏まえて今日は韓国民謡『アリラン』の歌詞をカタカナで書いてみようと思う。日本でも多くの人が聞き覚えがあるだろう。NHKの歌番組でもキム・ヨンジャさんが韓国語でうたったり、日本語に訳してうたっていられた。島津亜矢さんとデュエットもされた。また西田佐知子さんもレコード録音されていた。 ところで韓国/朝鮮民謡として有名な『アリラン』だが、非常に多くのヴァリエーションがある。地方性というべき違いだが、京畿民謡としての古典的な形や京城アリラン、珍島アリラン、軍楽ヴァージョンやオーケストラヴァージョン、そして今や世界的な人気グループBTSが歌う『アリランスリスリ』など、おそらく数え切れない程の地方性がある民謡のようだ。もちろんそれぞれ曲調も違うしメロディーも少しずつ異なる。 そんなわけで、私は歌詞を紹介しようと言いつつも、どのヴァージョンがもっともオーソドックスなのか判断できないでいる。韓国語を知らずに私の耳だけをたよりにカタカナで書こうというのだから我ながらあきれる。しかし無謀承知でやってみるのも、あるいは将来への突破口になるかもしれない。 長々と前置きをした。それでは・・・ 韓国民謡『アリラン』 アリラン アリラン アラリヨ アリラン コゲロ ノモカンダ ナルリ ポリゴ カシヌン ニムン シンミド モッカソ パルピョン ナンダ アリラン アリラン アラリヨ アリラン コゲロ ノモカンダ チョンチョン ハヌレ チャンピョルド マンゴ ヒネー カースメン ヒマンド マンタ アリラン アリラン アラリヨ アリラン コゲロ ノモカンダ カージャ カージャ ホーソー カージャ ヘクサン トルニエエ ヘジョムロ カンダ【別ヴァージョンの歌詞。「白頭山」を遠望している】 アリラン アリラン アラリヨ アリラン コゲロ ノモカンダ ジョギ ジョサニ ペックトサ(白頭山)ニラジ * トンジ ソッタレド ッコマンピンダ 【*注】白頭山は「ペックトサン」と発音するが、つぎの「イラジ」と連音化して「ペックトサニラジ」と発音している。韓国語のパッチムと言う規則によるらしい。 A few years ago, I wrote the lyrica for "Return to Busan Port (Dorawayo Busanhange)" in Japanese kata-kana on this blog. And, I don't know why, the article is being accessed by a large number of people to this day. I listened to and wrote down Cho Ypng Pil singing. Due to the difficulty of pronouncing Korean for me, I'm not sure if I'm listening correctly. When I wrote it on my blog, I also showed that this song, which was a hit in Japan, but arranged the original song, was not what the lyrics really meant. With that in mind, today I'm going to write the lyrics of the Korean folk song "Arirang" in katakana. Many people in Japan would be familiar with it. In theNHK song program, Kim Young-ja sang in Korean ortranslated into Japanese. There was also a duet with AyaShimazu. Sachiko Nishida was also recorded on vinyl. By the way, "Arirang" is famous as a Korean folk song, but there are so many variations. It's a difference oflocality, but there are probably countless numbers suchas the classic form of Gyeonggi folk song, and SeoulArirang, Jindo Arirang, military band version, and alsoorchestra version, and now the world-famous groupBTS sings "Arirang sseurisseurirang". It seems to be a folk song with locality. Of course, eavh song has a different tone and the melody is slightly different. That's why I'm trying to introduce the lyrics, but I can't tell which version is the most orthodox. I'm amazed because I'm trying to write in katakana without knowing Korean. However, trying it recklessly may be a breakthoroug for the future. I made a long introduction. Then ... Korean folk song "Arirang" Arirang arirang arariyo Arirang gogaero neomo-eoganda Nareui beorigo gasineun nim-eun Sib rido mot gaseo balbyeong nanda Arirang arirang aarariyo Arirang gogaero neomo-eoganda Cheongcheonhaneul-en changbyeoldo manhgo Uine gaseum-en himangdo manhda Arirang arirang arariyo Arirang gogaero neomo-eoganda Karja karja horso karja Hexan tornier hjomuro kanda【*Lyric of another version. Looking at "Mt. Baekudu"from a distance】 Arirang arirang arariyo Arirang gogaero neomo-eoganda Jeogi jeo sani- Baegdusan(Mt.Baekdu)-ilaji Dongiseolddal-edo kkochman pindaTadami Yamada
Jun 11, 2021
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四日間、この日記を書かなかった。多忙のためだ。もう三月も終り、一年の三分の一が過ぎてしまった。忙しい忙しいと言いながら、私はいったい何をやっているのだか。 午後から雨になったが、ようやく春らしくなった。我家の淋しい小庭も、木瓜が咲き、椿が咲き、アガパンサスの葉がぐいぐいと丈をのばし、紫陽花の葉も次第に大きく美しい緑色を濃くしている。夏茱萸はまだ葉が小さい。昨年、相当刈り込んだので、今年は実が生るかどうか。 弟が、小さな花が無数に咲いている、何だかややこしい名の花を二つ贈ってくれた。秋まで次々に開花するそうだ。明日、もっと大きな鉢に移そう。
Apr 1, 2017
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アメリカ映画『ジュリー&ジュリア(Julie & Julia)』(2009年、監督ノーラ・エフロン、主演メリル・ストリープ、エイミー・アダムス)は、テレビの映画専門チャンネルでも何度か放映されているので、ご覧になった方も多いだろう。この作品でメリル・ストリープはゴールデングローブ賞 主演女優賞 (ミュージカル・コメディ部門)を受賞している。 この映画は、1961年に出版された524のレシピを載せたフランス料理の本の著者であり、実際にそのすべての料理をつくった料理研究家ジュリア・エプロンと、それから40年後、例の9.11後のニューヨークで、一介の派遣社員だったジュリー・パウエルが、ジュリア・エプロンの524のレシピを365日で実際に作り、自分のブログで紹介するという、実話に基づいている。 ジュリア・エプロンの料理本は、アメリカの家庭に大きな変革をもたらしたといわれる。しかし、彼女は元はといえばアメリカの外交官の夫人で、夫がパリに赴任したことで魅力的なパリでの暮しがはじまったのだが、その優雅な暮しが退屈になってくる。さまざまな趣味に手を染めるが、何をやってみても所詮素人のお遊びでしかない。そんな彼女が行き着いたのが、料理のプロフェッショナルを養成する、かの有名な料理学校コルドンブルー。その専門コース。食べることが大好きな彼女だったが、初めのうちは玉葱のみじんぎりさへ満足にできない。しかし・・・ しかしである、いつしか立派な料理人、料理研究家になっていた、というわけだ。 さて、じつはこれは前置き。 映画のなかで、退屈したジュリア・エプロンが、パリ市中を散策するシーンがつづく。(余談だが、メリル・ストリープは私が大好きな女優だが、大女なんですな。パリの街をさまよい歩く彼女の背丈が、群衆を抜きん出ているのが分かりますぞ!) そうした散策のシーンで、私が「あっ!」と胸がときめいたのが、かの有名な古書店「シェイクスピア・アンド・カンパニー」の店先の登場。わずか数秒のごく短いカット。気がつかれましたか? 本好きな方は先刻ご存知、あるいは実際に足を運んでいられるでしょうが・・・じつは、この古書店を紹介しようとwebをサーフィンして、画像を集めました。それぞれの撮影者が不明なので、あるいはさしさわりがあるかもしれませんが、ともかく以下に掲載しましょう。この古書店の魅力がお感じになられるのではないかと思います。photos from web ; If your photo is here and you want it to be removed, let me know and it will be removed immediately.
Jan 20, 2014
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私はコンピューターで制作した文章や画像のファイルをJIPとMOにコピーして保存している。現在製作中のもののバック・アップとしてもそれらのメディアを使用する。 ところで今日、過去のファイルを開いて、一部書き直しをしている最中に突然エラー表示が出た。いわく、「このディスクは壊れてしまったおそれがあります。最近のファイルが開くかどうか確認した後、アプリケーション・メニューからディスク修復を選択して修復してください」「ギョエー!!」ってなもんである。そのディスクには18のファイルを収めてあった。それが唯一の保存版だったので、破壊してしまったとなると・・・ ゾッとしてしまった。一呼吸して、まずこれから試みようとする操作のあれこれを頭に思い描いてみた。それからおもむろにモニター上のウィンドのなかから、ポジ・フィルムに撮影済みの作品の画像ファイルを開いてみた。しかしそれは途中まで開いただけで、完全な状態ではなかった。 「ウウーッ!」私はほとんど呻かんばかりになって、つぎに最も重要度の低い文章ファイルを開いてみた。 するとそれは完全に開くことができた。 「どうなってるんだ?」 私は意を決して、ディスクを取出すことにした。取出してから、再び挿入しなおしてウィンドを出した。18個のアイコンが並ぶ。・・・私はさきほどまで書き直していたファイルを開いてみた。なんと、まったく壊れていなかった。画像ファイルも完全に開くことができた。 なぜエラー表示が出たのか、原因はまったく分らなかったが、私はこのデータを新しいディスクにコピーすることにした。 一日の仕事が終わったら必ずバック・アップをとるようにと、若い人と共同作業をした折りには注意していたが、まさかそのように私自身がつくったバック・アップ・ファイルのディスクに異常が起るとは予想しなかった。今日の事故は、結果としては幸いなことに破壊にはいたらなかったが、しばらく私は考えこんでしまった。
Jun 11, 2007
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山田維史 《美しき惑いの自己証明》アナログ・コラージュ 2007年4月7日
Apr 7, 2007
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本日正午、1953年以来のアナログTV放送が終了し、東日本震災の被災地である岩手県、宮城県、福島県を除く44都道府県が地上デジタル放送に移行した。 いわゆる「地デジ難民」といわれる地上ディジタル波による視聴困難な地域の問題、あるいは、TV放送をFMラジオで音声のみを聴いていた視覚障害者や寝たきりの高齢者などがTV放送から疎外されてしまうという問題を残しての出発である。 あるいは年金生活の独居老人世帯は、高価な地上ディジタル・テレビに買い替えられないなどの問題も、無くはあるまい。おそらく、テレビ視聴をあきらめて、インターネットに頼ると考える人もいるかもしれない。 情報格差の問題は、目に見えにくいかたちで非常に重要な事態をひきおこすことも予想できる。郵政民営化により、離島や過疎地域が、あるいは山奥に一人暮らしするような人が、郵便伝達手段から見放されたように。 我が家は数年前に地上ディジタルTVに替えていたので、今日正午の移行公示のテレビ画面も、家人はさほどの感慨もなく見過ごしたようだ。 思えばその昔、我が家にテレビが入ったのは、1958年のこと。私は13歳、中学1年だった。皇太子御成婚に合わせるように、八総鉱山では会社がテレビ中継塔を建設し、社員のテレビ購入にも便宜をはかったのだった。もっとも、私自身はこの時すでに家を離れて単身で会津若松の学校に行っていたので、家にテレビがやってきた感動は無い。2ヶ月に一度くらいの割合で、週末に一泊の帰宅をしたときに初めて見たのだった。 どういうわけか、私はその当時からテレビにあまり興味がなかった。現在のように24時間放送されていたわけではないが、末弟などは完全にテレビっ子で、かじりつくようにして見ていたのを思い出す。 記憶に残っているのは、日劇カーニバルにおけるロカビリー狂乱のステージや、力道山のプロレス中継、「日真名氏飛び出す」という探偵ドラマ、そして劇場中継『がめついやつ』。少し後の『事件記者』は家族全員で楽しんだ。アメリカの番組、『ローハイド』や『ルート66』『ルーシー・ショウ』『奥様は魔女』などなど。 日劇カーニバルの山下敬二郎、平尾正晃、ミッキー・カーチス。プロレスは力道山、豊登、ルーテーズ。力道山は、まだ相撲の力士の頃、戦後まもなく北海道巡業で羽幌町に来たとき、弓取式に使う弓を我が家に借りに来た。相撲は吉葉山や千代ノ山の時代である。 劇場中継『がめついやつ』は、三益愛子主演、中山千夏が子役で出演し、その演技に中学生の私は驚嘆した。3年後に、私はアマチュア劇団の童劇プーポに入団することになるが、『がめついやつ』の衝撃が少なからず影響している。 親元を離れての学校生活が長かったので、その間、私はテレビと無縁だった。その後もさほど変わっていないかもしれない。まず、テレビドラマというやつは、まったく見ない。唯一記憶に残る優れた作品は、『岸辺のアルバム』くらいだ。某女性脚本家の作品など、私にはとてもドラマとは思えないのだ。まあ、批判はしないでおこう。どうせ見ないのだから。 お笑いが好きなのだが、最近は、どうもね、学校のクラス会の余興に磨きをかけたような感じで、ちっとも面白くない。子供騙しだね。 私は昔のコントレオナルド(レオナルド熊さんと石倉三郎さんのコンビ)が好きだ。あのような社会性のあるお笑いがホシイな~。やっぱりお笑いの本質は、反権力や政治風刺、社会風刺。そういう、いわばアブナイ橋を渡ってこそ、お笑い芸なんだと思う。おとなの芸なんだよね。 テレビ局ががそういうアブナイ芸を閉め出したのかもしれない。そして子供騙しのお笑い芸人が二六時中番組を取り仕切っている。ニュース番組や、社会ドキュメンタリーや科学番組にさへ、シャシャリ出て来る。短い番組時間をバカなことを甘ったれた口調で賑わして無駄に使う。肝心な部分はむしろ付け足しのようだ。つまりテレビがつまらない、というわけ。 なにしろ自己信条として反原発を公言して、テレビから締め出された俳優がいるようだから。 テレビ局の言い分は、おそらく、反原発を信条とする俳優を使うと思想の偏向だと非難されると考えたのでしょう。しかし、それなら、原発推進を公言する人物だって締め出さなくちゃ。 こうして改めて言うとどちらにしろ奇妙でしょう? つまりジャーナリズムの本質は偏向を云々して中庸であろうとしたら駄目なのですよ。偏向を云々すると、それ自体が思想的偏向となる矛盾に陥ってしまうのですね。そういう新聞雑誌は多いですが。 双方の主張を徹底的に取材して、加工せずに報道する。あるいは双方を「分析する過程そのもの」をジャーナリスト側の主張として公表する。それがジャーナリズムというもの。 数日前、地デジ移行にともなって、すんなり移行できない老人が、「これからはテレビを見ないよ。どうせお笑いばかりだから」と言っていた。お笑いブームだそうだが、私はお笑いが好きなので、ブームという言葉がかえって空虚な響きがする。 まあ、番組は変りはしないが、ともかくもアナログ放送58年の歴史に幕が降りた。さようなら、アナログ放送。
Jul 24, 2011
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今朝、6時半に老母の経管栄養を点滴で入れながら、そのベッドのかたわらで横になって、昨日書いたマダラチョウの数万キロの大移動のことを想った。この大移住は、冬の季節を温暖な霧につつまれた森で過ごすためである。一本の樹木の葉叢のなかに数万、数十万のマダラチョウが折り重なるように止まり、そのまま次の季節の到来を待つ。おそらく大群で身体を寄せ合うことで体温の低下を防いでいるのであろう。 そんなことを想っているうちに、ふと、安西冬衛の有名な一行詩を思い出した。 てふてふが一匹韃靼海峡を渡って行った。 「てふてふ」という旧かな使いが蝶々そのものをイメージさせ、またその音声的な面白さ。韃靼海峡という字面と、ここにも音声的な面白さ。かなの優しさに対する漢字の堅さ、非情さ。それらがストレートに絵になって記憶に焼き付く。けだし、「詩」であり、名詩と評されるゆえんである。 そして不意に、私が小学1年生のときに、初めてシャクトリムシを見つけたときのことを思い出した。長野県の川上第二小学校の校庭。雲梯(うんてい)のそばの木の枝に、それは、いた。・・・58年も昔のことだ。いままで一度も思い出したことはなかったが、いま、ありありと映像が浮かんできた。ゆっくりゆっくりからだを「くの字」に曲げながら枝の上を這ってゆく一匹のシャクトリムシ・・・
Aug 8, 2011
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私の夏休み終了するや小品制作を2点同時に始めたが、昨夜、その2点目も完成した。プロモーターの画商からもさっそく電話が入り、完成したばかりの2点について打ち合わせし、来る20日過ぎまでに引き渡すことにした。 私にとって問題は、次にとりかかる作品の構想だ。ああでもない、こうでもないと、思想の的にイメージの矢を放っている。放っても放っても、叩き落されている(自分自身で叩き落しているのだが----)。矢尽き刀折れという想いがあるのだろうか、夜、眠っていても心身の深いところにさざなみのような震えが走る。一瞬の知覚だが、恐怖感が尾を引く。 さて、長崎原爆の日、被爆した人たちが、核兵器禁止条約に署名しようとしない安倍晋三に対し、「どこの国の総理か?」と言った。新聞が報じていた。 まさにそのとおりだ。 現在、世界の政治地図は、愚か者が国の采配を振るうという、かつて長らく起らなかった様相を呈している。 「悪貨は良貨を駆逐する」とは今では言われることもない経済原則だが、その原則の真実は政治の世界でも同じで、国の長たる者が愚かだと、配下は無論のこと、立法司法行政は堕落し、その堕落は一般大衆の隅々にいたるまでの人心に波及して行く。 おおきな社会構造を観察しにくいというなら、ヤクザ社会(暴力団)をイメージしてみるとよい。実際、その社会は一般社会から遊離したり断絶しているのではなく、一般社会の「善良」と思われている部分と裏腹の局面で、いわば抱き合わせである。したがってヤクザ社会とはその階級意識を含めて一般社会の完全な雛形(モデル)なのである。 いま日本は、本当の知性によって克服していなかった腐敗した部分が表に出て来ている、あるいは、出て来ようとしている。軽薄な偽の知性(全人類的・全人的幸福理念に到達しなかった人)がそれを助長している。 例をあげよう。 神奈川県の精神障害者施設でおこった恐るべき事件の犯人が、ナチスの政策を自己主張のアリバイにしていた。この犯人とまったく同じ主張をしていた有名人物がいる(いた)。その人物は愛国主義を標榜し、ある団体の顔の一人となり、多くの著作をものしていた某大学の名誉教授だった。この人物が、かつて、ナチスの精神障害者殺害計画を讃美して日本の行政的な提案した。さすがにマスコミは黙っていなかった。そのためであろう、その後、その精神障害者対策を公言することはなかったようだ【後註】。喉元過ぎれば熱さ忘れるで、おそらく多くの人たちがこの人物の精神に巣くっているものを忘れた。そのときになって、類は類を呼びだ、徒党を組んで公言したのは、憲法改悪しての軍事国家を示唆するものだった。【註】私の知見が甘かった。この人はその後も精神障害者に対する非人道的な思想を公表していた。この人の思想を実名を記して批判した、大岡昇平著『成城だより』の「1980(昭和55)年10月」(中央公論新社)の十月十五日の日記、中公文庫P234〜236を参照。 まさに、ジョージ・バーナード・ショウの言うとおり、「愛国主義は破滅をもたらすもの、痴愚の精神病形態である。」(“Patriotism is a pernicious, psychopathic form of idiocy.” - George Bernard Shaw ) そして、H・G・ウェルズが喝破したとおり、「愛国主義は建設的な義務もない自己主張を国に鼓舞しているのである。」 (“Patriotism is flag-cheering national self-assertion with no constructive duties.” - H.G. Wells ) ------知性の涵養とは本当に難しいものだ----- 一流大学の名誉教授たる者の心性にへばりついている「人間悪」を、言論の自由の名の下に、誰も糾弾しえなかった。この人物は、言論の自由の下に、言論の自由を奪い失う体制をめざして発言していた。その自己撞着をどのように処理していたのか。 この人物は表社会で「功成り名を遂げた」。しかし、上述の殺人犯は名誉教授の精神的な雛形(モデル)のように、私は思えるのだ。 一握りの愚かな為政者たちが、60億人の生命を地獄に突き落とす。そのイメージは幻想であろうか? すべての宗教界の頂点に安座している者たちに、何の期待もできないのだから------
Aug 10, 2017
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15年ほど使用した洗濯機が電子基盤に狂いが出て使えなくなった。脱水まで順調に進んだと思ったら、残り7分ばかりのところで元に戻ったり、かと思えば、ウンともスンとも頑固に動かなかったり、洗い終わったのに扉が開かなかったり-----。 というわけで、新調することにした。明日配送される手はずになっている。古いのは引き取るというので、昼過ぎに移動しておいた。 外見は傷んでいないのに使い物にならないというのは、電子機器の特徴的欠陥である。電子基盤を交換すれば良い場合でも、その基盤自体が生産終了していたりする。 昔は自分で修理して使える物が多かったが、いつの頃からだろう、コンセント・プラグさへ修理不可能な作りになった。危険防止の法的措置らしいが、余計なお世話とも言える。それで粗大ゴミの山をつくっているのだからなんとも馬鹿馬鹿しい。(影の声:これで戦争にでもなれば、資源不足で、モッタイナイ政策が強制されるのだろう。ほしがりません勝つまでは。って、負けたじゃねーか! アホらしい。) 我家の電気製品の歴史を思い出してみると、みな当りが良いというか、長持ちして来た。電気洗濯機の場合、第1号が昭和30年(ハンドル式絞り器のヤツだ)、以後現在まで62年間に4台かな? ということは耐用平均年数15年。頻繁に使用しての15年間は、良く保ったのではなかろうか。 掃除機はどうだろう? ここんところ3年ほどで交換しているが、第1号がやはり昭和30年、そして昭和年代だけで3台。つまり10年間くらいは保ったわけだ。 コンピューターは、実は捨てるに捨てられずにいるのだが、一番古いのは25年、いやもっと古い、30年前くらいのものだ。もちろんデスク・トップ型。インターネットが無い時代のいわゆるパーソナル・コンピューターの初期のもの。 タイプライターもかなり古いものが捨てずにある。と言ってもタイプライターの歴史はコンピューターの比ではないから、古いと言ってもせいぜい50年くらい前のもの。英文用と、別に日本語用がある。日本語用は、若い人は実物を見たことがないかもしれない。活字盤の活字をハンドル操作で拾いながら打ってゆく。たしか物置に入れてあるはずだが、私自身、もう何十年も見ていない。英文用タイプライターは3台、インターネット時代のコンピューターに替えるまで使っていた。最後はブラザー製品だったが、海外との手紙のやりとりや契約書の作成に大いに活躍してくれた。私はワード・プロセッサー(いわゆるワープロ、----ああ、いやな言葉だ)を使わなかった。たしか、タイプライターの新しいインク・リボンを買ったと同時に、すなわち20年ほど前、そのリボンをほとんど使わないままコンピューターに替えてしまった。 壊れた電気洗濯機のことから話がひろがってしまった。 古いコンピューターを持っているくせに、今の私は、携帯電話も、あらゆるモバイル端末を使っていない。使うつもりはまったくない。
Aug 30, 2017
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私はこのブログ日記において幾度か日本語や象徴にからむ私考・私見を書いて来た。前日の記事も朝日新聞の記事を土台にして国語辞典をめぐって私の考えを述べた。新聞記事がジェンダーをめぐる国語辞典編纂の動向を伝え、「恋愛」という言葉を例にしていた。私のきょうのブログ日記もそこから派生した日頃の私の一つの考えを書こうと思う。 私は日本の古典文学を読みながら、そしてそのおそらく大方の国文学者の解釈なのだろうと私が推測する現代語訳を合せて読みながら、ときどき、その解釈が原文の真意を読み取れていないぞと思うことがある。そのような私の思いこそ原文についての誤解だと批判が出るかとは思う。なぜなら中には高校生の教科書に採択されている古典文学もあるからだ。高校生が古典文学によって何を学んでいるのか、私は知らない。また教師がその文学作品によって何を教えようとしているかも私は知らない。しかし、私が誤りだと思っている現代語解釈を、高校生は学んでいるのだろう。 のっけから私は奥歯に物がはさまったような、もって回った煮え切らない言い方をしている。 じつは『伊勢物語』の「梓弓」と「筒井筒」について、私は一般に流布している解釈が、まったく文学として真意を読み取れていないのだと気付いた。原文は掌編小説というべききわめて短い章段からなる。 私はためしに種々の現代語訳を見てみた。どれもまったく同じ解釈だった。少年少女小説のような「悲恋物語」となっていた。なるほど高校の教科書に載録されるはずだわい、と思った。 しかしそんな少年少女小説のような物語が、数百年もの長きにわたって日本の代表的な恋愛文学作品として継承されて来たのだろうか。 永井荷風は、「余(よ)常に伊勢物語を以て国文中の真髄となし、芭蕉と蜀山人(しょくさんじん)の吟詠を以て江戸文学の精粋なりとせり」といっている。この評言は、正宗白鳥の『永井荷風論』にも引かれている。永井荷風の文学が遊蕩哲学の委曲を尽くした研究と評されることを思えば、伊勢物語が少年少女小説のような解釈にては到底おさまりきらないことを理解しなければならない。 作者は判明していない。在原業平という説がある。『伊勢物語』は、書かれた当時すでに知られていた和歌の、詠まれた経緯を絵解きするような物語構造である。在原業平の歌にまつわる物語も少なからずある。私が注目するのは、全章段のなかで業平の歌のみ、あまり良い出来ではないと書かれている。これはもしかすると、『伊勢物語』の作者が業平であるため謙遜している、と考えられないだろうか。むろん私の推測ではある。あるいは、業平といえば平中(平貞文)とならんで平安時代きっての色好みと言われている。その真相はともかくとしても、色好みの代名詞だったことはまちがいない。「色好み」などと言うと、とかく雅な秘め事と解されているようだが、それは恋愛の過程でのこと。すなわち恋の駆引きにおいては平安時代でなくても、いずれの時代であっても、「雅」な一面はある。平安貴族文化における恋愛の駆け引きは、和歌をなかだちとした為に現代からみれば一層雅に映るだろう。だが、たんに伝説にしろ、当代きっての漁色家をそれだけのものとは誰も思いはしなかっただろう。・・・そのような人物が作者ではないかとされる『伊勢物語』である。いや、こう考えることもできよう。すなわち、こんなにあからさまにさまざまな性愛の相を書けるのは、業平しかいない! と。 そう。私は、従来の原文解釈は間違っていますよと言いたいのは、「梓弓」にしろ「筒井筒」にしろ高校生が学校で教わるにはあまりにも恐ろしい性愛の現実が描かれているのだということだ。それを知ればおそらく教師はなかなか言葉にして教え難いであろうことが書かれているのである。しかも明瞭に。そして、その部分がじつは現代語訳ではまったく訳されていないのである。私が気がついたのはその点だ。たぶん意味を理解できなかったのであろう。あるいは理解していても、学問としてさへ秘めてしまったのかもしれない。 原文を見よう。ただし読み易いように句読点をつけ改行等をほどこした。『伊勢物語』の「梓弓」の章である。 むかし、をとこ片田舎にすみけり。をとこ、宮づかへしにとて、別れ惜しみて行にけるままに三年こざりければ、待ちわびたりけるに、いとねむごろにいひける人に、今宵あはむとちぎりたりけるを、このをとこきたりけり。このとあけたまへとたたきけれど、あけで、歌をなむよみ出だしたりける。 あらたまのとしの三年を待ちわびて、ただ今宵こそ、にひまくらすれといひい出だしたりければ、 梓弓ま弓つき弓年をへてわがせしがごとうるはしみせよといひて、去なむとしければ、女、 梓弓引けど引かねど昔より心は君によりにしものをといひけれど、をとこかへりにけり。女、いとかなしくて、しりにたちて追いひゆけど、え追ひつかで、清水のある所に伏しにけり。そこなりける岩に、およびの血してかきつけゝる。 あひ思はで離れぬる人をとどめかねわが身はいまぞ消えはてぬめると書きて、そこにいたづらになりにけり。 古文として全くむずかしくはない。が、簡単に要約すれば、 ある男が宮仕えを求めて都に旅立ったまま婚約者の女と音信不通になった。婚約者の女は3年間待ったが、真剣に言いよる男がいたのでついにその男と結婚することにした。ところがその男との初夜に、前の婚約者の男が帰って来たのだ。戸を開けてくれと言う男に女は言う。「3年待ちわびました。しかし私はいま別の男を受け入れました」と。すると前の男は閉ざされたままの外から言う。「梓弓ま弓つき弓年をへてわがせしがごとうるはしみせよ(原文のまま)」そして去ろうとした男へ、「梓弓引けど引かねど昔より心は君によりにしものを(原文のまま)」と女は言ったが、男はそのまま帰って行った。女はあとから追いかけるが、追いつかず、倒れ伏す。そして男を留めることができなかった我身を悔いて、指で岩に血文字を書いて死んだ。 いま私が原文のままとした歌が、現代語訳では意味を明瞭にしてはいないのである。ここにこそ、この極めて短い物語の真相が述べられているにもかかわらずだ。 なぜ女が死ななければならなかったのか。・・・ 私は、ためらいながらではあるが、次にこの物語の真相を述べよう。 女は新しい男との初夜を迎えた。男を受け入れた。この時代は男が女の家を訪れる「通い婚」だった。その性愛の最中に昔の婚約者が戸をたたいたのだ。そして女に初夜であることを告げられた前の婚約者は、いま初夜の褥でおこなわれている性愛に、かつて自分がこの女と睦あった性愛のかずかずを想い重ねた。「昔私の男根であんなことをした、こんなことをした、それと同じような事をやって愛し合いなさい」。もちろん優しい親切心で言っているのではない。男の頭のなかに渦巻いているのは、かつて女とおこなった性愛の現場のなまなましいあれこれである。嫉妬心から言い放ったあからさまな言葉である。女は言う「あなたの男を受け入れたときも受け入れなかったときも、心は貴男と離れたことはありません」 「梓弓ま弓つき弓」という言葉を現代語訳は解釈してこなかったのである。これは男性器によるあからさまな性愛表現なのだ。 弓は、丸木の枝を払っただけの丸木弓から次第に発達したが、奈良時代以降の木弓は丹や黒漆が塗られ、材は、梓、檀(まゆみ)、槻(つき)が使われ、平安時代中期になると木弓の外側に真竹を貼った弓が出現した。この弓は伏竹弓と言う。 「梓弓ま弓つき弓」とは弓の材を羅列しているのだが、伊勢物語のこれらの弓が、真竹を貼った伏竹弓か否かは書かれていない。要するに弓の総称としてここにあり、また歌において弓の美称としてある。けれども伊勢物語「梓弓」においては、特別な意味を担っているのである。現代解釈は、「梓弓」が「引く」の枕詞と説明しても、なぜここに「弓」が並べたてられているかを説明していない。しかもこの男の歌には枕詞が導き出すはずの「引く」という言葉も「梓弓」が修飾するにふさわしい詩句も存在しない。よしんば枕詞と考えるならば、歌一首のなかに三種の「弓」三つも並べる必然性がなければならないだろう。しかしこの歌に枕詞を三つ並べる必然性はまったくない。「梓弓ま弓つき弓」と、ひとつながりの序詞と看做したとしても、それに見合う語句を導き出しているのでもない。 「梓弓」が「引く」の枕詞としてのみならず、「弓張り」の「張る」を導き出し、さらに掛詞として「春」を導き出している例を西行の『聞書集』(天理図書館本)から示す。「あづさゆみはるのまとゐに花ぞ見る (付句)やさしきことになをひかれつゝ」(春の円居に見る桜花 優しいことに一層惹かれて)。(『西行全集』久保田淳編、日本古典文学会刊、昭和57年5月。P340。山田解) 弓を引くというのは「矢を射る」ということだという当たり前のことが忘れられている。時代劇映画にもこんなセリフがありましょう? 「そちは余に弓を引くというのか!」などと。いやいや、現代劇映画にもある。北野武監督作品『アウトレイジ・ビヨンド』に、三浦友和氏演じる現代ヤクザの親分が組の幹部連中に向かって言う。「てめえら、俺に弓を引くと言うのか」。 あるいは「刀折れ矢尽きる」という語句は、「後漢書」に由来し、敗北を意味する。この語句は「弓折れ矢尽きる」とも言換えられ、同じく敗北を意味する。しかしながらまた、性的能力について喩えられることは、ある程度の年輩者は知っているだろう。むしろ特異な喩えではなく、親しい仲間うちでごく普通に口にしているかもしれない。かなりあからさまな性表現である。 傍証として述べるが、西欧の美術史には弓を引く男性裸体像が少なくない。主題は必ずしも神話の登場人物ではないことによって、男性性を強調しているとみてよかろう。およそ19世紀半ばころまでの男性裸体像は、敷き布や腰布等で性器を隠しているが、露出している場合は幼児のそれのようだ。その反作用のように、弓は大きく引き絞られて男性を誇示しているのである。男性の精力の象徴でなくて何であろう。 古典文学のみならず、なべて文学を「高尚」にまつりあげてはならない。 「梓弓ま弓つき弓」、これは枕詞でも序詞でもないのだ。 私は勝手な解釈をしているのではない。 『新勅撰集』の「神祗部」に次の一節がある。すなわち「弓といへば品なきものと梓弓ま弓つき弓一品もなし」。 「梓弓ま弓つき弓」が弓の美称であるとしても、それでもなを「ひとつとして品がない」と何故言われたかを考えなければなるまい。ちなみに「ひとつとして品がない」という表現と同等の表現が『枕草子』にある。ついでに示しておく。「卯花は品劣りて何となけれど咲くころのをかしう時鳥の蔭にかくるらんと思ふにいとおかし」 さて、「神祗部」の一節は、「梓弓ま弓つき弓」を並べつつ木弓と伏竹弓との対比の謂いであるとしても、しかしそこには武器としての弓より他の象徴が作用していたと考えられる。それがわかれば、女の言った「梓弓引けど引かねど」の比喩的表現が何を意味しているか、少なくとも男性諸氏には即座に理解できる生理作用であろう。女は「男の体」と「女の心」とをはっきり分けて言っているのである。 女の返歌にある「梓弓」はこの歌の中で確かに「引く」という言葉をみちびき出している。しかしその後に「引かぬも」と続けたことで、枕詞以上の真実、すなわち男の生理を言っているのである。私が、女は「男の体」と「女の心」とをはっきり分けていると述べたのはそういうことだ。「梓弓」がなぜこの短編物語のキーワードかも納得できるのである。 そして女が死ななければならなかった理由も。それは昔の婚約者に性愛現場に乗り込まれてしまった女の「恥」の意識である。 伊勢物語の「梓弓」は、このように読み取られて・・・読み取ることによって、・・・このように読者は一夜に起こった情景を心象に形づけられることによって、物語(現代的な意味の「小説」)として真の威力を発揮しているのである。 「色好み」について、まっとうな理解をしているのは大岡昇平氏である。大岡昇平氏は『源氏物語』の光の君の色好みについて述べているのであるが、「色好み」プロパーの理解と言ってよい。 以下に大岡昇平氏の文章を引用する。下線は山田。 〈光の君の色好みはインドの多数の女性に同時に性的満足を与えうる巨人的神格に似ている。色好みは妻問い婚の一変形なる平安貴族の一夫多妻制にてはむしろ美徳にして、光の君が理想的人物となる理由あり。〉(大岡昇平『成城だより』1980年9月3日の日記 中公文庫 194ページ) 平安時代が性的な時代であったことを現代人の私たちは認識すべきである。 じつは伊勢物語にはあえて「色好みの女」と指摘している章がある(定家筆写本を主たる底本とする岩波文庫の28章,37章,130章,139章,142章)。これによって解ることは、「色好み」すなわち単に歌の贈答をする「雅ごと」ではないということである。「雅ごと」は性愛の営みにいたる「前戯」であり、性の充足のあとの別れ(後朝:きぬぎぬ)を歌に託しての「後戯」である。伊勢物語が指摘する「色好みの女」とは、「性愛に積極的な女」という意味である。 そして大岡氏の指摘に照らしあわせるとき、業平や平中(平貞文)が当代きっての色好みともてはやされた理由も納得できるであろう。また、伊勢物語「梓弓」に即せば、女の複数男性との性交渉は不徳とされる社会通念があったと指摘できよう。この女主人公は平安貴族社会における二重の「恥」を負ったのである。 伊勢物語「筒井筒」は、やはり性愛の物語。幼なじみの少年少女は、恋と言っても性愛的ではない。しかし若者は幼なじみと離れて都で長年暮らす間に、当然のごとく女を性的に愛する事を知る。そしてその経験があってのうえで故郷に帰り、幼なじみを見た時、初めてあの少女が女であることに気がついた。・・・と、それがこの物語の真相。恋愛の年齢と「幼なじみ」ということの心身にかかわる非常に微妙な観察がなされているのである。「筒井筒」は、ここでもテーマの核心。たんに「幼なじみ」などというだけではないのである。 弓矢が男根象徴の例をあげておく。醍醐三宝院所蔵の鎌倉時代の作者不詳の絵巻『稚児之草子』に、「つひぢにじんどう」という言葉が出て来る。老僧の陽物が稚児の後庭にうまく挿入できないことの比喩である。この草子絵巻の現代語訳においても、老僧の行為が完遂できないでいることは理解しているのだが、言葉の意味については誤解している。「つひぢ」は「築地」であると読解できている。次の「じんどう」を理解していないのだ。これは「神頭」のことで鏃(やじり)の一種である。すなわち鏑矢(かぶらや:蕪のような形の鏃)の先端を、たいらに切った鏃のことである。男性器が矢に喩えられているのである。しかも稚児之草子では、築地塀に「神頭の矢」を射たかのようにうまく刺さらない、挿入できない、と言っているのだ。 また、江戸時代の寛延3年(1750)に刊行された慶紀逸(1695-1762)の撰になる高点付句集『武玉川』の次の句、「ふんどし嫌い気に弓はなし」。「褌を嫌うようだが、どうも弓はそうでもないらしい(山田解)」。この「弓」も男根。しかも弓を数えるに「張」といい、さらに「弓張り」と言いもすることを考えてはじめてこの句の諧謔が理解できるだろう。 『武玉川』からもう一句。「ふたりで二梃弓に寝る船」。「二梃立て」といえば二つ艪の猪牙舟(ちょきぶね)で吉原遊郭へ行くことを意味した。また弓の数え方に「梃」とも言う。この句は、念者と若衆の屋形船での密会であろうか。(『俳諧 武玉川』(一)第五-40、(三)第十五-7。岩波文庫) 伊勢物語が後世に如何なる読まれ方をしていたか、あるいはその傍証となるかもしれぬので、次のような好色本が存在することを述べておく。すなわち『好色伊勢物語』(貞享3年;1686年刊)および井原西鶴『真実伊勢物語』(元禄3年;1690年刊)の二書。いずれも国会図書館デジタルコレクションで閲覧できる。 私・山田は、これらの物語が「伊勢物語」の体裁(短章ないし逸事を重ねて行く叙述構成)だけを踏襲(模倣)したとは思わない。あえて「◯◯伊勢物語」としたことに著者の意図があろう。また私は、これら好色本伊勢物語が、本家「伊勢物語」の「雅」に対する淫猥な物語とする説論にも組しない。その説論には論者の現代感覚による平安古典文化を「雅」と看做したいという一種の憧れがないとはいいきれないからだ。たとえば源氏物語の「雨夜の品定め」において、男たちが唯に女の「教養」をもって女の良し悪しを話題にしていたとは、如何に鈍い現代の論者でも思いはすまい。源氏物語は女の視点で書いた「宮中貴族性愛文学」なのだ。古今を通じて、恋愛文学とは、それが男女間の恋愛であろうと、男同士であろうと女同士であろうと、すべからく性愛の諸相の物語であることは謂うを俟たないであろう。 「伊勢物語」の作者が名うての色好み在原業平と推測する説が早くからあることは前述した。江戸時代初期に出版された性愛技術書ともいうべき『房内戯草(ぼうないたわれぐさ)』(寛文三年;1663) には『業平戯草』という別な書名がある。在原業平は800年後にも「性豪」の名をほしいままにしていたのである。『伊勢物語』が如何なる読まれ方(解釈)をされてきたかの傍証となろう。『伊勢物語』は性愛文学であって、「梓弓」の段にしろ「筒井筒」にしろ少年少女小説のような無邪気な物語ではないのである。【付記】奇書・宮武外骨著・飯島花月増補『猥褻廃語辞彙』に、『古今著聞集』および『逸著聞集』を出典として「伊勢麻羅」という語を載せている。「麻羅は伊勢麻羅とて最上の名を得,云々(古今著聞集)」と。意味は解説するまでもあるまい。この「伊勢」が何を指すかはあまり詳らかではないようで、「伊勢外宮の権祢宜度界盛広といへる者、云々(逸著聞集)」という解釈もある。私・山田はもちろん「伊勢物語」に結びつけるつもりはないが、一応、頭に入れておこうと思ったので付記しておく。 尚、『猥褻廃語辞彙』には上に付記した『好色伊勢物語』『真実伊勢物語』を出典とする語彙も載っている。
Apr 10, 2021
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新作のための技法を模索していたが、今朝、フランス製の画材が届き、これですべての画材が整った。イメージのデッサンはすでにできあがり、キャンヴァスの下塗りも終わっていた。あしたからいよいよ本格的な制作にとりかかる。 エンジン始動のために、心をさらに掻立てようと、他力本願で(はははは)、かなり長時間、音楽を聞いた。クラシック音楽ではない。独自の考案による取組みをしている人たちの演奏だ。 じつはもうかなり以前 (1984年) から、TEDx というプロジェクトがある。TED はTechnology, Entertainment, Design の略。「ideas worth spreading (広める価値があるアイデア)」をスローガンに、音楽のみならず、あらゆる分野で独自の活動をしている人たちを招いて、演奏や講演をしてもらうというもの。ヘッドクゥォーターはニューヨークにあるが、世界各地で開催され、オンラインで無料配信されている。10年ほど以前のパフォーマンスから比較的近年のパフォーマンスまで、その多くをYouTubeで観ることができる。 かつてはビル・クリントン元米大統領が講演した。また、2015年にはビル・ゲイツ氏が講演した。このとき氏は、予言的に、世界は次のパンデミックに備えていない、と言った。COVID-19のパンデミックが起ったのは2019年である。 さて、すでに知っている人もたくさんいられるだろうが、TEDxの数多くのパフォーマンスのなかから、私はここに次ぎの5つを紹介する。サム・パーリー氏のヴォイス・パフォーマンスジェイムズ・ハンバーストーン氏ダブステップの科学トーマス・スウォレズ君12歳のアプリ開発者ニキワカ・ヤワナワ氏の私たちはみな自然と繋がっているショーン・スティーブンソン氏のあなたの心の牢獄【註】ダブステップ (Dubstep) : ダンス音楽。通常、楽器(インスツルメンツ)による、まばらに散らされたシンコペーションされたリズムと強調されたベースラインが特徴である。 しかし、私山田は、トーマス・ハンバーストーン氏の場合、「音程複製」の意味が強調されているような気がする。ダビングのdubである。
Jun 19, 2022
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10時の受診を予約してあった年に1度の健康検診のため主治医のクリニックに行った。結果判明は後日になる。 クリニックを出て、天気が良かったので(雨の予報が出ていた)、そのまま自転車で遠出をした。道中、というのも大げさだが、いろいろの花木が目につく。桜はもう半ば散りかけていて青葉がでている。その桜色と新緑のとりあわせが美しい。それぞれの色合い(濃淡の度合い)が絶妙だ。まさに今の今にしか見られないバランスの妙を感じた。 私はどういうわけか桜にあまり魅かれない。あとちょうど一ヶ月で78歳になるが、いわゆる「花見」を一度もしたことがない。世間で言う「花見」というやつは、花を見ているのだか酒をくらって馬鹿騒ぎしているのかわからぬ。それが私の好みには合わない。その宴席に敷きつめるブルーシートの色も不快だ。酒は静かに飲むべかりけり、である。もっとも私は30歳になったときに、ピタリと酒を止めた。以来、一滴も口にしていない。・・・と言いたいところだが、たまに料理に使う。アルコール分は飛ばしてしまうが、酒には違いなかろう。 八重桜はまだ盛りのようだ。山吹が咲いている。ハナミズキが咲いている。白もあればピンクもある。躑躅やコデマリ、ドウダンツツジ。辛夷(こぶし)、藤。藤が咲くには少し早いような気がする。しかし江戸の振袖若衆のような色気をかもして風に揺れている。薔薇も咲いている。あれは石楠花(しゃくなげ)か。 道端にはタンポポ、スミレ。ああ、カラスノエンドウも! 軽く食事をし、文房具を買い、金銀散しの上質紙を買い、ブックオフで大部の書籍2冊と普通程度のページ数の単行本1冊を買った。 街はにぎわっていたが、大抵の人はマスクをしていた。私はクリニック内と店内ではマスクをし、自転車を走らせているときははずした。 皆がマスクをはずせないというのもわからないではない。政府の言うことの根拠が科学的な思考を感じさせないからだ。分科会会長の尾見氏は、その最たるもの。医学的な専門思考がまったくない人だ、と私は、言い切る。 医学的な大問題発生状況に、政治的、行政的な思考をもちこむことが、そもそもの間違い。政治で病気が克服できるはずがないではないか。・・・街を歩けばわかる。誰も信用していないことが。自己責任? 自己判断? 笑わせるぜ、その言葉。 世界的な伝染病のパンデミックを何と見ている。しかもCOVID-19ウィルスはその発生当初の「姿」を恐ろしい勢いで変えている。ウィルス学の深い専門知識無くしては到底対処できまい。そんなことはちょいと頭を使えばわかることだ。ウィルス学専門の研究データを分析し、世界の医療技術と提携して現実に対処することが求められる。そこに政治が口を挟む余地はない。行政は現場医療のサポートのみならず医学研究のサポートに徹するべきだ。 さて、あたらしく施行された道路交通法にもとづく自転車走行時のヘルメット着用だが、報道されているようにほとんど着用されていなかった。私は先日買ったヘルメットをかぶったが、たくさんの自転車走行にであった。しかし私が目にしたヘルメット着用はわずか5人。そうそう、母親がつきそった幼児2人がかぶっていた。オートバイはさすがに全員であった。郵便配達員もウーバーイーツの配達人も着用していた。 ・・・帰宅したときはちょっと疲れていた。 ベッドに横になって、本の山のなかに目にとまった吉行淳之介のエッセイ集「懐かしい人たち」を読んだ。30年前の本だ。私は吉行淳之介氏の短編小説や座談が好きで、学生時代に短編全集も所持していた。貧乏学生が大枚をはたいて買った。或る人に貸したら、返さずにどこかへ引っ越してしまった。私の蔵書票「則雋庫」が貼ってあった。この人には翻訳本も1冊持っていかれて、そのままだ。・・・吉行淳之介「食卓の光景」「目玉」「鞄の中身」「菓子祭」。「食卓の光景」は雑誌に発表されたときに読み(たしか「群像」だったと思うが、ちょっと記憶に自信がない。そのころ私は他に「文学界」「文芸」を毎月読んでいた)、以来、炒飯に仕上げの醤油を鍋はだにまわして焦がす、文章から想像を掻立てられその香りが忘れられなくなった。自分で炒飯をつくるたびに60年前の短編が甦る。吉行淳之介の省筆(?)を真似しようとやってみるけれど、真似ができない。肝腎な何か、鋭さや、ひりひりする繊細さが抜けてしまう。吉行氏が文学しているような部分が抜けてしまう。名人の名人たることを知るばかりだ。若い頃に読み、歳を取ってから再読、再々読してますます感じ入る(得心する)小説はそんなに多くない。吉行淳之介が書いた物は、私にとってはその稀な一人。 ・・・いつのまにか本を腹のうえに開いたまま、少し眠ってしまった。
Apr 12, 2023
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今日はほぼ一日中読書。昨晩、序文だけを読み、朝から本格的にとりかかった。内容が重い。今月いっぱいかかりそうだ。 このところ、・・・いや、このところじゃないな、1年くらい前からかな、・・・我家のあたりの上空は軍用機の航路になっているのだが、いままでは朝夕2回、厚木基地と横田基地とを結んで西北を飛ぶだけだったが、航路が南東にもおよぶようになり、1日2回とは限らなくなっている。ヘリコプターも頻繁に飛ぶ。 現在、21時24分、ヘリコプターが飛んでいる。3,40分前にも往復飛行していた。(ただしこのヘリコプターは軍用ではないかもしれない。さきほど警察署の緊急注意放送があった。小学生を刺傷する通り魔らしき事件が発生したという。犯人は逃走中らしい。・・・ヘリコプターが幾度も旋回している。(注)) というわけで、軍用機の動きで、私は何事かが起こっている気配を察知するのである。 (注)警察は事件性が無いと判断した。その判断にいたった理由はここには書かない。
May 16, 2023
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手を使いすぎたのか、夕方になって両手の親指がつってしまった。関節が硬直して動かなくなったのだ。初めてのことで、対処方法がわからないので流水で冷やしながらそっとマッサージをしてみた。やがてもとに戻ったが、拳をにぎってみると再び親指が硬直した。また冷やす。・・・そのうちに完全に治った。 ところで大谷翔平選手、ほんとうに凄いねー。対タイガース戦ダブルヘッダー、第一試合で大谷選手とは、MLB移籍後、初の完封勝利を飾った。そしてつづく第二試合でなんと37号38号の連続ホームランである。 まさに大活躍だが、38号ホームランを放って2塁から3塁へ走っている途中で左腰を押さえた。痛むのではないか、と私は思った。 案の定、軽い痙攣を起こしたらしい。働き過ぎだ。・・・試合後に監督はインタビューに応えて、早く寝てゆっくり休めば問題ない程度の筋肉疲労だと述べた。明日、カナダのトロントへ移動して、対デトロイト・ブルージェイズ戦への出場も問題ない、と。 ・・・その監督のことばを信じるしかない。 大谷選手はどうやらエンゼルスに残留が決定したと発信する人たちがいる。事実かどうか判らない。大谷選手自身は、彼を見に来る多くのファンのために、大スターの看板を背負ってがんばっているにちがいない。今日の試合のように連続ホームランを放つと敵方のファンまで驚嘆喝采している。しかし怪我だけはしないでほしい。【追記】現地時間28日、対ブルージェイズ戦で大谷選手は第1打席初球、第39号ホームランを放った。昨日につづく連続3打席ホームランに、敵手も唖然!(29日・記)
Jul 28, 2023
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昼食後、2時間ほどかかって柿の収穫と柿酒を仕込んだ。弟が居たので彼に支えてもらいながら丈高い脚立にのぼり、今まで手がとどかなかった上枝(ほつえ)の実を穫った。穫っても穫ってもとりきれず、また、危険でもあるし、まだ鈴生りの高枝は放っておくことにした。 柿酒に仕込み【注】、隣家にもさしあげ、それでもまだ30kg以上がキッチンに山盛りになっている。すでに9月の初旬から食べ始めている。種々のサラダに入れたり、同じく白和えにしたり、肉との炒め物にしたり、料理にも使ってきた。さて、今後30kgを越す柿をどのように消化しようか。 【注】ここで述べている柿酒は、酒造法で禁じられている柿から酒を醸造することではない。ホワイトリカーに漬けて果実酒にするということである。 作品制作はいまのところ順調。昨夜、就寝しようと支度して、もう一度出来具合をながめていたら、また仕事をしたくなった。それで寝支度を解いて、私が開発した技法のための「仕掛け」を最後までほどこした。今日はその乾燥を待つ間の柿の収穫だった。明日から後半の過程に入る。
Oct 8, 2017
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1月2日の今夜はスーパー・ムーン。良く晴れた空にすばらしい月だ!
Jan 2, 2018
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今朝、大手町や東京駅周辺の都心で初雪が降ったそうだ。昨年より37日遅かったと報じている。私の日記を調べてみると、たしかに昨年は11月24日に降っていた。11月の積雪は観測史上初めてのことだった。 私の処は都心より寒いのではないかと思っていたが、案に相違して今日の初雪は無かった。しかし寒いには違いない。昨夜9時ころまで灯油の巡回販売車の呼び声が聞こえていたが、さすがに今日は仕事納めのようだ。それで夜遅くまで売り歩いていたのだろう。その拡声器からの売り声にまじって、消防車が巡回しながら防災注意のカランコロンという、いたくのんびりしたふうな鐘の音も聞こえていた。 さて、私は午前中に昨日のつづきのおせち料理をつくり、午後からは何にもすることがなく、ブルノ・ワルター指揮のベートーベンの交響曲9番、モーツァルトの交響曲25番、40番、そしてグレン・グールドのピアノでバッハやシェーンベルクを聴いていた。 ワルターの指揮するベートーベンの交響曲9番は、中学1年生のときに、同級生のA君の高校生のお兄さんからレコードプレイヤーと共に借りた、その当時まだめずらしかったLPレコード(紅色透明の盤)で繰り返し聴いたことを思い出す。大感激したものだ。クラッシック音楽に対する意識的な目覚だったと言ってよいかもしれない。以後、私は学校の音楽室の戸棚に埃まみれで乱雑に詰め込まれてあったSPレコードを放送室に持出して、放課後、ひとりで全部聴いたのだった。ロッシーニ「歌劇ウィリアムテル序曲」があった、ウェーバー「歌劇魔弾の射手序曲」や、ハチャトリアン「剣の舞」があった、ムソルグスキー「禿げ山の一夜」、同じく「展覧会の絵」の組曲から一曲、ベートーベン「トルコ行進曲」、モーツァルト「トルコ行進曲」、プロコイエフ「ペーターと狼」、ビゼー「アルルの女」の第一組曲等々、数十曲。いずれも中学生の音楽授業で聴かせるような曲ばかりではあったが、その音楽は私の身体にしみこんだ。そして、どうも歩きながら無意識のうちに指揮のまねごとをしていたらしい。同級のMさんが、「ヤマダさんは、大勢のなかに歩いていても後ろからすぐ分かる。いっつも音楽の指揮をしている!」と言ったものだ。 ところで、グレン・グールドだが、一般の音楽愛好家からもレッキとした有名音楽家からも、かなり異端視される傾向がある。しかし、私は、グールドのピアノ演奏が大層好きだ。バッハなど、他のピアニストの演奏がつまらなくなってしまうほどである。 大曲だとなかなか比較しにくいが、ちなみにモーツァルトのピアノ・ソナタ11番から誰でも知っている第3楽章「トルコ行進曲」を名ピアニストといわれる人たちの演奏で聴き比べてみるがいい。グルダでも、ホロヴィッツでも、バックハウスでも、ギーゼキングでも、バレンボイムでも----。 私が聴いた限りながら、トルコ軍のザッ、ザッ、ザッ、ザッ---と足並み揃えてやって来て、通り過ぎてゆく、その足音を左手で明確に表現していたのはグレン・グールド、ただ一人だ。バレンボイムのこの部分は力強く分かり易いが音に濁りがあると私は聴く。ほかのヴィルトゥオーソ(達人。大演奏家)たちは、まったくそのてんをないがしろにしている。これみよがしに大音響でガーッと弾き流すか、グルダもバックハウスも,どうだ俺様のピアニズムはすごいだろうとばかり、行進曲という大枠を無視したスピードで「駆け足」で過ぎて行く。軍隊の行進もなにもありはしない。何をどんなふうに解釈しているか知らないが、あきれたものだ。 モーツァルトは楽譜に書き表しているのだ【後註】。グールドは、そこをつまらない箇所だとは思っていない。きっちりと分析的な解釈をして左手で明確に表現している。 トルコ軍というのは18世紀にあっては軍楽隊の典型として、ヨーロッパを魅了していたことは、ベートーベンもまた「トルコ行進曲」を書いていることでも分かるのである。 音楽のおもしおろさは、演奏家によって「あっ!」と気づかされるおもしろさでもある。たとえばミケランジェリが弾くドメニコ・スカルラッティのピアノソナタのある曲は、心臓の鼓動あるいは人間のバイオリズムそのものと重なる。そのとき、じつに単純な響きのこの曲が、深遠なものとなる。それが実感できるのである。 私の教訓。芸術はそれがなんであれ、「名人」などと称されている人の作品や演技(パフォーマンス)の質には、気をつけろ! 音楽演奏でいうなら、ヴィルトゥオーソにだまされるな、だ。【註】 モーツァルトがトルコ軍隊の足並みの音として左手に表現している部分。以後、何度か繰り返されて出て来る。きわめて特徴的なリズムであることがわかろう。しかも八分音符のすべてにスタッカートが付いている。これだよ、これ!
Dec 31, 2017
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なぜ表現の自由が大切かを説き、その理論的基盤を築き、また憲法改悪に警鐘を鳴らしていられた憲法学者、奥平康弘・東大名誉教授が亡くなられたという。享年85。 追悼の意を捧げると同時に、まことに大切なお方を亡くしたことを悔やむ。 御著書;『表現の自由とはなにか』(中公新書、1970年)『知る権利』(岩波書店、1979年)『表現の自由(1)(2)(3)』(有斐閣、1983-84年)『日本人の憲法感覚』(筑摩書房、1985年)『なぜ「表現の自由」か』(東京大学出版会、1988年)『「表現の自由」を求めて―アメリカにおける権利獲得の軌跡』(岩波書店、1999年)『憲法の想像力』(日本評論社、2003年)『最近の憲法をめぐる諸問題について』(自由人権協会、2004年)『憲法を生きる』(日本評論社、2007年) 他多数
Jan 30, 2015
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フランスの大女優ジャンヌ・モローさんが亡くなったと報じられた。享年89歳。 ジャンヌ・モローさんについて今更私が述べることなどない。私が敬愛する女優。私は「死刑台のエレベータ」(1958)以後、ずっと出演映画作品を観つづけてきた。「死刑台のエレベーター」は、私が13歳のときの映画である。私は一足先に観て来た高校生Tさんに聞いて、遅ればせに映画館に行ったおぼえがある。 しかし、私にとってなにより嬉しかったのは、1990年2月2日、モローさんの来日公演の舞台「ゼルリンヌの物語」を、たった一枚残っていた当日券で観ることができたこと。それについては、11年前のこのブログ日記に書いている。昨日、モローさんの死去のニュースを受けてであろう、その昔の日記に33人の方がアクセスされていた。 →(2006年05月17日「私のジャンヌ・モロー」) あらためて私の保存資料から当時の劇場パンフレット(これには日本語に訳された台本が掲載されている)と、チケットと一緒に受け取ったリーフレットの画像を掲載して、ジャンヌ・モローさんを追悼いたします。
Aug 1, 2017
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朝、晩秋恒例の市内一斉清掃。 11時30分から12時30分まで、日野市に新しくできた「ひの社会教育センター」の小ホールのこけら落としに、民生委員合唱団「かしの木」が招かれ、公開練習という感じで普段着のコンサート。 財津和夫さん作詞・作曲『切手のないおくりもの」、新沼健治さん作詞・作曲「ふるさとは今もかわらず」、吉川安一作詞・普久原恒勇作曲・後藤寿美編曲「芭蕉布」、武満徹作詞・作曲『小さな空」合唱バージョン、ドイツ民謡「故郷を離るる歌」、三木露風作詞・山田耕筰作曲「赤とんぼ」、中村雨紅作詞・草川信作曲「夕焼け小焼け」---の7曲を披露した。 メゾソプラノ歌手のチェン・シ(陳曦)さんからクリスマス・コンサートの案内がとどいた。手紙がそえられていて、是非私に歌ってくれ、連絡を待っている、とあった。 どうしよう----。まだ迷っている。プロのピアニストの伴奏での独唱は、とっても心惹かれるけれど----。チェンさんは、どんなふうに考えていられるのだろう、私というアマチュアに対して。 追記; 19時30分、チェンさんに電話。歌わせてもらうことにした。2曲。チャールス・C・コンヴァース作曲・杉谷代水訳詞「星の界(よ)」、サトウハチロー作詞・古関裕而作曲「長崎の鐘」。 後日、楽譜を届けることに。また、ピアニストとの打ち合わせの機会もつくってくれるとのこと。ありがたい。 ----数年前、私が地域の方々と一緒に歌ったのをチェンさんは聴いていて、そのとき声をかけたかったけれど、まだ知り合ってもいなかったので勇気がなかったのだそうだ。そうでしたか、そういうことでしたか。
Nov 26, 2017
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午前中、制作。乾燥をまつしかなくなったので、午後、地域のお年寄りのサロンに行き、元気そうなことを確認。 筋力強化体操をするというので、見学ついでに参加することに。指導員の到着が遅れるらしく、みな手持ち無沙汰のようなので歌をうたった。その後、体操に参加。 3時間ばかり話をしたり聴いたりしながら過ごした。きょうは阪神大震災から23年目。犠牲者への哀悼と、私はさらに通電火災について注意をうながした。 今後私のスケジュールは多忙になるので、しばらくは様子を伺えない。----じつは、サロンに来られる人は元気なのだ。来られない高齢者が民生委員としては問題。閉じこもるにはそれなりの理由や理屈があるのだけれど、一旦閉じこもりが始まると、心身に不調を来すのも早い。私が見たところ、それは目に見えてという早さで衰えていく。----しかし、おそらく他の民生委員もそうであろうが、民生委員には民生委員活動の限度がある。そこが私にはひどく悩ましい。 4時半過ぎに帰宅。すぐに絵具の乾燥具合を調べるが、4,5時間くらいの間ではどうにもならない。仕方ないので以後は読書。
Jan 17, 2018
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もう一月も十日だ。時の流れ、時間の過ぎ行く早さだけが気になる。 早朝、まだ薄暗いうちに猫達に起こされて、そのまま30分ばかり考え事をしていた。画家としての今年のスケジュールの方向性についてだ。車輪が泥濘にはまって空回りしているように思えてならない。私自身の意志とちがう道に進みつつあるのか、否、進みもせずにエネルギーを浪費しているのか。そのあたりが、自分一人ではこじあけられない扉もあるわけだから、テコ入れが難しい。昨年あたりから一つの思案があり、その周辺を自分で調べてはいるのだが、なかなか全体をデザインできないでいる。今朝ベッドの中で目をつむったまま考えていたのは、そのデザインについてで、やはり早急に実効に移したほうが良いかもしれない。私の人生はすでに終末期に入ってきているのだから、ここでグズグズしていて何になるんだ。---そういう内心の声を聴いていた。 きょうも作品制作で一日が暮れる。少しずつカタチが現れてきているが、またぞろいままで発表したことが無いイメージ創りをしているので、まだ、まあ、何とも言えんなー
Jan 10, 2018
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山田維史 《アダムを小突きまわす神の手》アナログ・コラージュをCG加工 2007年4月3日
Apr 3, 2007
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満開の梅の香が馥郁として漂っている。1時間ばかり自転車を走らせて、他人の庭の梅を見る。 ふと路傍の枯れ草のなかに目をやると、タンポポが一輪咲いていた。鮮やかな黄色が力強く美しい。他にも咲いていないかと、自転車のスピードを落す。するとタチイヌノフグリの群生をみつけた。薄い藍紫色の3mmほどの小さな小さな花がたくさん咲いている。名前に似合わぬ可憐な花である。明治の初めにヨーロッパから入ってきて、やがて日本全土にひろがった。なぜこんな「犬の金玉」などという和名がついたのだろう。どこを観察しても、そんな連想をさそうところはないというのに。 地方によっては例年より1ヵ月も早く菜の花が咲いているようだ。我家でも先日の食卓に菜の花の芥子和えが載った。タラの芽、フキノトウとつづいての菜の花である。旬のものをいち早くみつけてきては口福を味わう。調理はできるだけ単純がよい。ほろ苦さや、ほっこりした若緑の味が口のなかに淡々とひろがってゆくのが嬉しいのだ。 あれやこれや由無し事を思いながら、途端にブロッコリーのポタージュが食べたくなった。ブロッコリーもいまがとても美味しい。年中店先にならんではいるけれども、やはり春先の味が充実している。 よし、夕食にポタージュをつくってやろう。 八百屋に寄って、ブロッコリーとスナップ豌豆を求める。それからイチゴを1パック。緑色のポタージュに赤いイチゴのデザートである。他の菜は買い置きがあるだろう。 春もやゝけしきとゝのふ月と梅 芭蕉 月の梅の酢のこんにゃくのと今日も過ぎぬ 一茶
Feb 22, 2007
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きょうも午後1時半から4時まで民生委員の地区月例会議。この月末から年末にかけて忙しいスケジュールが提示された。ニューヨーク用の作品制作スケジュールとの兼ね合いが、いつものことながら苦労する。 会議に向かう途中で、街路の向こうを旅行用スーツケースを曵いて歩いているオペラ歌手のチェンさんを見かけた。大きな声で呼びかけると、私の姿を認めて笑いながら立ち止まった。信号が変わるのを待って、通りを渡る。「これからお国へ?」「そうなんです。向こうでコンサートと藝術大学で講義をして来ます」「それはすばらしい!」「ヤマダさん、12月24日にクリスマス・コンサートをするのですが、ヤマダさん、ぜひ歌ってください。前半で歌ってください」「えっ? 私がチェンさんのコンサートで歌うのですか? そんな----」「だいじょうぶ、ヤマダさん歌えます! 帰って来たら電話します。考えておいてください」 通りで呼びかけたばかりにとんでもない話が飛び出した。いくらなんでも、プロのオペラ歌手の前座で歌うなんて、そんな身の程知らずの図々しさは持ち合わせていない----つもりだが----- 歌っちゃおうかなー。チェンさんの声はもの凄いし、カルメンの「ハバネラ」は絶品。それで一緒のステージに立てるなら、たぶんクリスマスだから皆で歌おうコーナーの一隅で歌うのだろうから、----是(シ)、YES, と返事しようかなー。 まあ、今のところは余念を払って、作品制作にうちこまなければ。
Sep 22, 2017
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きょうは終日、締めきりが迫った(月曜日)画集のための作品選定や手直しにあけくれた。じつはとっくに締めきり日は過ぎたのだが、進行スケジュールぎりぎりまで延期してもらった。 ところで報道によれば21日に、指揮者・若杉弘氏が亡くなられた。 私が聴いた交響曲演奏会でベスト5にいれたいのが、氏が読売交響楽団指揮者を退任されるときのラスト・コンサートである。昭和女子大人見記念講堂で開催された。なごりを惜しむ楽員のものすごい集中とエネルギーが若杉氏のタクトで芳醇な音楽になった。コンサートがおわって、私は魂がどこかへ飛んでしまい、そのまま蒸発してしまいたい誘惑にかられ、夜の三軒茶屋の通りをフラフラとさまよったのだった。そんな経験は初めてだった。幸福感でいっぱいだった。 若杉氏はこのあとドイツのケルン放送交響楽団の首席指揮者になり、長くドイツを中心に世界の音楽界で活躍された。若杉弘氏の御冥福を祈ります。
Jul 23, 2009
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明方、老母の介助をすませ自分の寝室へもどり、やがて再び眠りに入ろうとするとき、遠く裏山の木々の葉叢のざわめく音がした。思うまもなくザーッと雨が降出し、その音を聞きながら眠りにひきこまれていった。眠りのなかで一句ひねった。起床してから書きとめようと思いながら・・・ しかし、目覚めたときには肝心の句が思い出せなかった。ただなんとなく頭の句のみ「ザーッと来て・・・」と浮かんでくる。しばらく思い出そうと夢のかけらをさぐったが、だめだった。そのまま打ち捨てる気にもなれず、朝食後に次のような句をあらためてつくった。しかし、半覚半睡のなかでつくったものには及ばない。ハハハ、逃げた魚はいつでも大きいのである。 ザーッと来て火照る膚(はだえ)に明けの雨 青穹 ザーッと来て涼風たつや朝の雨 驟雨来て青柿おちる音すなり 前栽を叩きゆくなり朝の雨 夢さわぐ心静めんとせば雨 I hear torrents of rain Feeling my body burned thru night At the dawn in summer Dawn, it rains in torrents The slightly sound of falling green persimmons can be heard ---twos, threes My dream raised a racket To try to calm down; Just then ---I heard torrents of rain
Jul 17, 2009
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一昨日の日記にチョー・ヨンピルさんが歌った韓国語『釜山港へ帰れ(トラワヨ・プサンハン・エ)』を覚えたことを書いたが、意外にも沢山の方が読んでくださったようだ。その理由はわからないが、きょうは私が耳から覚えた歌詞を、カタカナで書いてみようかと思う。 韓国語の発音は日本語には無い音があるので、それをカタカナで表わそうというのだから正確ではないことは無論、たぶん無声子音ではないかと推測している部分もある。しかし、ものは試しである。カタカナで書いてみよう。 ご存知の方が多いと想うが、韓国語の『釜山港へ帰れ』は、日本の歌手が歌っている歌詞の意味とは全然違う。日本のそれは男女の悲恋を歌っているが、韓国語の本来の内容は兄弟の遠い他国の別れの物語である。そして、これは私の解釈であるが、1番の主人公と2番の主人公は入れ替わっている。1番は、釜山港へ帰ってきてください懐かしい兄さんと内心に叫ぶ弟(あるいは兄かもしれないが)が歌い、2番は、帰りたくて夢にまで見た釜山港へ、今ようやく帰り着いて、懐かしい弟に呼びかける兄(あるいは弟)が歌っている。 この解釈の根拠は、1番2番共におなじような最後の2行の詩句ながら、一カ所だけ違う。1番は「トラワヨ(帰ってきてください)」だが、2番は「トラワタ(帰って来た)」になっているからである。 ついでながら日本の歌詞は、2番が最後に半ばに戻って繰り返すリフレインになっているが、原曲には無い。 と、前置きをして,次に私が耳で聴き取った歌詞を書きましょう。『トラワヨ・プサンハン・エ』コッピーヌン・トンベッ(ク)・ソーメポーミー・ワッ・クァァーンマンヒョンジェッ・トナン・プサンハン・エカ(ル)メギマン・ス(ル)ピー・ウネオリョットー・トラガヌンヨ(ル)ラクソン・マーダーモンメヨ・プ(ル)ロポァードテーダ・ポヌン・ネ・ヒョンジェヨトラワヨ・プサンハン・エクリウン・ネ・ヒョンジェヨカゴーパー・モギメーヨプールドン・イーゴォリヌンクリウォソー・ヘメイィドンキンギンナーレッ・クーミーヨッチオンジェナ・マリオ(ム)ヌンチョム(ル)キョ(ル)ドゥ(ル)ドプディッチョー・ス(ル)ポハーミョカヌキル(ル)・マガソッチトラワッタ・プサンハン・エクリウン・ネ・ヒョンジェヨ
Sep 12, 2017
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ゴジラ俳優の中島春雄氏が亡くなったという。享年88。 1954年の最初の作品「ゴジラ」から1972年の「地球攻撃命令ゴジラ対ガイガン」まで、スーツアクター(ぬいぐるみ俳優)として活躍された。映画作品の主人公でありながら、画面に顔を出さなかった俳優、しかも世界中に知られた俳優というのもきわめて珍しいのではあるまいか。ゴジラのイメージは中島春雄氏によって決定的に忘れられないものになった。私は嬉しくも幸いなことに最初の「ゴジラ」や「ゴジラ対アンギラス」をオン・タイムで観ている。9歳のときだった。 中島春雄氏のご冥福を祈ります。
Aug 8, 2017
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7月に予定していた医療クリニックでの美術講義は、同一内容で2回やってほしいという希望があり、開催日を9月に変更して2回行うことにした。そのポスターができた。
Jul 16, 2017
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おおいそぎで年賀状を印刷。弟からもデザインを頼まれていたので、そちらも制作。以前はオフセット美術印刷でPP加工仕上げ1,000枚を発注していたのだが、近年は自分でコンピューター印刷である。発色が格段に良くなっているし、やはりコストの問題が大きい。葉書でも美術印刷をするとなると15万円ほどかかっていた。それに切手代を加算すると、大変な金額になった。 その当時の私の年賀ハガキがネット・オークションに出ていて驚いたことがある。未使用のものらしいが、どこでどうなったのだろう。新聞社かどこが主催したチャリティ・セールにハガキを寄付したことがあったので、そのとき買ってくださった人が、ネット・オークションに出品したのかもしれない。もしそうならば、買ったときから随分長い年月捨てもせずに持っていてくれたことになる。ありがたいことだ。 先日の日記に、絵という作品は「人手に渡ればなおのこと、悔恨を取り返せない」と書いたが、年賀用のハガキ1枚が点々と持ち主がかわって歩き回っている! 中国でも私の作品を絵葉書にして売っているらしい(もちろん無断で)。 先日、上海から電話が入って、私の絵を何かに使いたいらしかった。「私のエイジェントに問い合わせてくれ」と返答したら、どうやら恐れをなしてしまったらしい。あるいは無断使用している可能性がないではないが、しかし、電話で一応問い合わせてくるのは、失礼ながら中国業者としてはめずらしい。 年賀状印刷のことから話が横道にそれた。 そういえば、1月8日から後の郵便はがき代金が、52円から62円となる。約20%の値上げである。昨日、52円の普通切手を買いに行ったら、「もう52円の普通切手は売っていません。62円ならあります。---年賀切手なら52円のがあります」と言われた。 なるほど、「日本郵便」も商売っけが出てきたか。1月7日までに売れ残った52円切手の在庫処理に経済的・人的コストがかかるだろうからなー。こちとらとしては、年賀切手が手元に残るとなかなか使いづらい(奇妙な心理だが)、それで普通切手を買おうとしたのだったが。
Dec 27, 2017
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文部科学省が放射線量分布をインターネットで確認できる全国マップ拡大サイトを公開している。 放射線量分布マップ拡大サイト
Oct 20, 2011
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昨夜(9日),BSテレビで『彼女を見るとわかること』という映画を見た。映画そのものは私の好みではなかったので、今そのことについて述べるつもりはない。ただ、タロット占いをするシーンがあり、それで思いだしたことがある。思い出したと言うより、いつかノートしておこうと思いながらそのまま打過ぎ、頭の頭陀袋のなかに眠らせていたことだ。それはほかでもないヴィスコンティ家のタロットについてである。 私の過去の仕事のなかで大きな比重をしめているものに、ディクスン・カー(別名カーター・ディクスン)の表紙絵のシリーズがある。この遊卵画廊にも展示してあるので、ご覧くださった方もおありかもしれない。東京創元社版と早川書房版とを共に担当してきた。そのうちの早川書房版が、タロットをモチーフにしている。タロットとは長いつきあいをしてきたことになる。もちろん何種類か所持しているのだが、それらはいずれも現代のものである。これからお話しようというタロットは14世紀末ないし15世紀にミラノ公爵ヴィスコンティ家のために作られたカードである。 私はかつてこのブログで中世の彩飾写本について少しばかり書いたことがある。別館『山田維史の画像倉庫』の「映画の中の絵画」でも、『薔薇の名前』の項で言及した。コンデ美術館所蔵の『ベリー公爵の豪華時祷書』は、彩飾写本の至宝として知らぬ者はいまい。私もこの完全な複製本を所持している。 『ベリー公爵の豪華時祷書』はその名のとおり、フランス中央部の広大な領土を支配し、莫大な富を有していたベリー公ジャンが、最も才能にあふれた美術家・3人のリンブルク兄弟に自分のために製作させた毎日の礼拝用の祈祷書である。 印刷機が発明される以前は、東洋においても西洋においても、1冊の原本をもとにそれを筆写していたわけだが、富裕な支配的貴族階級はすぐれた美術家や写字生を雇い、そのような写本を美麗に仕立てたのだった。じつは、そのような彩飾画は宗教書にかぎらなかったようで、現在ヴィスコンティ家のタロットとして知られるカードも、一枚一枚手彩色された美術的にすばらしいものなのである。このタロットは全部で239枚が確認されており、現在、イタリア、アメリカ、イギリス、スペイン、カナダの11ケ所に分散されて所蔵されている。そのうち最も有名なのは〈ピアーポント・モーガン=ベルガモ・コレクション〉と〈イェール大学カリー・コレクション〉である。前者はイタリア2ケ所とニューヨークのピアーモント・ベルガモ図書館との3ケ所に分けて所蔵されているが、合わせて74枚1組が完全に揃っている。後者は67枚のコレクションである。 ところでヴィスコンティ家といえば、先刻お気づきのように、映画監督ルキノ・ヴィスコンティはその末裔である。監督がミラノの由緒ある大貴族の出自であることは周知であろう。しかし中世からの家系の歴史については一般的な興味の範囲でごく簡単に述べておいても良いかも知れない。というのは、その家系の誇りが、タロットの意匠のなかに描出されているからだ。 ベルナルボ・ヴィスコンティ(Bernalbo Visconnti)は、14世紀後半のイタリアにおいて最も無慈悲な専制君主だった。たくさんの子供がいたが、その多くは数多くの愛人との関係によって生れた私生児だった。その娘たちは傭兵隊のきちんと地位を確立した隊長たちに嫁がせた。当時、一般的な兵隊というのは、戦争のためや市街警護のために雇われていたのである。ベルナルボはベローナの名家スカラ一族の美しい娘ベアトリスと結婚した。この結婚によって生れた彼の嫡出の娘は、すでにヴィスコンティ家の広く息のかかった貴族社会の王や公爵や伯爵のなかから慎重に選んで結婚させた。これによって彼はさらに領土と権力を拡大することができた。 しかしベルナルボ・ヴィスコンティは領土支配に関して弟のガレアッツォ(Galeazzo)と権力を分け合っていた。ガレアッツォはベルナルボとはまったく対照的な性格で、物静かで何事につけ控えめであった。1351年、ガレッツォに息子ジャンガレアッツォ(Giangaleazzo)が生れた。このジャンガレアッツォ・ヴィスコンティは父の持っていたバックグランドで満足する男ではなかった。1385年、クーデタによって伯父ベルナルボを退位に追い込み、これによってミラノは彼ひとりのものになった。 ジャンガレアッツォはフランス国王ジョンの娘イサベルと結婚。つづく17年間に、彼はピエドモントからアドリア海におよぶ北イタリア一帯に勢力を伸す。ロンバルディとエミリア全土を掌握し、「ミラノの暴君」と言われた。1395年にはドイツ皇帝ヴェンセスラスからミラノ公爵の世襲称号を購入した。そして楯形紋章の一部に皇帝のしるしである鷲を付け加えた。 ジャンガレアッツォ・ヴィスコンティは1402年にペストで死亡するまで初代ミラノ公爵として君臨した。彼の業績でタロットの意匠に関連すると考えられていることに、パヴィアのちょうど外側にあるカルタゴ人の大修道院セルトサの設立がある。建設の最終部分となった修道院正面は後に姻戚関係となったスフォルツァ家がひきついで完成させた。画家アンブロジオ・ボルドグノンの手になるセルトサ修道僧とともに十字架を運ぶキリストが描かれている絵は、1494年に完成している。 この修道院は切り立ったギザギザにとがった岩の上に建っているが、その同じ岩棚が〈ピアーモント・モーガン=ベルガモ・コレクション〉のタロットの「死」「節制」「星」「月」「太陽」の各カードに描かれている。 ジャンガレアッツォの最初の結婚で生れた3人の息子たちは、いずれも幼くして死亡した。しかし、いとこのカテリーナ・ヴィスコンティと再婚し、2人の息子ジョヴァンニ・マリア(Giovanni Maria)とフィリッポ・マリア(Filippo Maria)が生れている。 この長男ジョヴァンニ・マリア・ヴィスコンティが第2代ミラノ公爵となるが、彼は横暴な君主であったためか、1412年に暗殺される。弟のフィリッポ・マリア・ヴィスコンティはこの時まで左遷されていたのだが、ジョヴァンニ・マリアが殺害されたことで権力を回復し、第3代ミラノ公爵となった。 翌1413年、フィリッポはテンダ伯爵ベアトリス・ディググリエルモ・ヴェンティミグリア・ラスカリスと結婚した。彼女はピサのファチノ・カネの未亡人で、その年齢はフィリッポの2倍もあった。フィリッポは彼女の財産と死んだ夫の軍隊を手にいれるのが目的であったと言われる。というのもフィリッポは彼女の殺害を企て、不義密通をでっちあげて彼女の首を刎(は)ねてしまう。 フィリッポの長い支配の間に、連合と権威は着実に増した。1428年、彼はサヴォイ公爵の娘マリアと2度目の結婚をする。しかしこの結婚はいわゆる「お床入り」がまったくなかったらしい。1423年に愛人のアグネス・デル・マイノが彼の子を産んでいる。この非嫡出の娘ビアンカがフランセスコ・スフォルツァと婚約させられる。このときビアンカ、9歳だった。 フランセスコとビアンカとの結婚の挙式は、9年後の1441年にクレモナの聖シギスムンド教会でおこなわれた。花嫁は18歳。花婿は40歳だった。しかし、この結婚は結局のところ幸福なものであった。 ヴィスコンティ家はその楯形紋章にふたたび新しいエンブレムを付け加えた。人間を半分呑み込んでいる蛇(もしくは龍)の図像である。呑み込まれているのは、ヴィスコンティ家が十字軍に加わったときの敵、サラセン人であるという。蛇は知恵のシンボルである。このヴィスコンティ家の楯形紋章は現在でもミラノ市の紋章として存続している。 ヴィスコンティ家はこの紋章の上に神聖な光線をかかげることを好んだ。この意匠もまた〈ピアーモント・モーガン=ベルガモ・コレクション〉のタロットの「王」と「王妃」のカードの中で、教会の尖塔の光輪と炎のなかに舞い降りるビスコンティの鳥として描かれている。 おそらく15世紀半ばに製作されたにちがいないヴィスコンティ家のタロットの意匠は、以上簡単に見たように、ヴィスコンティ家の「栄光」と切っても切り離せない関係にある。それはヴィスコンティ家の厳重な監修のもとに彩飾画家が一枚一枚描いたものである。ちなみに〈ピアーモント・モーガン=ベルガモ・コレクション〉のタロットの一枚の大きさは175mm×87mm。また〈イェール大学カリー・コレクション〉のほうは190mm×90mmである。 私の『骸骨図輯成』のなかにイェール大学所蔵の「死」のカードの写真があるので、それをご参考までに掲載しておこう。旧ヴィスコンティ・ディ・モンドロネ家所蔵『ヴィスコンティ=スフォルツァのタロット・カード』15世紀中頃現イェール大学ベイネック稀覯本・写本図書館所蔵----------------------------------------------参考文献Stuart Kaplan“TAROT”モニカ・スターリング『ルキーノ・ヴィスコンティ』
May 10, 2006
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現在22時10分、きょうの制作を終了した。まあ、忙しい。昼には民生委員の仕事をし、次に、土曜日(9月2日)の美術講義のために書き下ろした400字詰59ページの原稿、およびスライド131ページの最終チェック。次に午後5時30分まで、韓国展覧会のための作品制作。夕食後、パリ展用の作品の仕上げ化粧。そして、明日の市役所での会議のための準備。 話は変わる。 隣家の夫人が二階のベランダから我家の柿を見て、「すごい数が生っていますねー!」と賛嘆した。そうなのだ、去年は落柿もあったがほんの数えるほどしか生らなかった。今年は鈴生り、というより、枝という枝にひしめきあってものすごい数である。 もう15年くらい前だが、やはりぎっしり生って、とうとう重みで枝が折れてしまったことがあった。自分の実の重さで折れるなんて、オバカな柿だと、ぼやきながら片付けた。なんと、大きなゴミ袋にぎっしり詰めたほどだった。-----ことしはあの年に匹敵するほどの生り様である。 「でも、渋柿ですから----」と言うと、 「干し柿になさったら?」 「そうですねー、この蒸すような気候では、干し上がるまでに黴てしまうのじゃないでしょうか」 「私の家には柿はありませんけど、去年、お友達が干すだけの状態にしたものを頂戴して、ベランダに吊るしておいたら、おいしい干し柿ができたんです。ですから、あるいは、大丈夫かもしれませんよ」 「やってみる価値はありそうですね。だめになって、もともとと考えればいいのですから」 「そうですよ。もったいないわ、こんなに沢山生っているのですもの。捨てておしまいになるなんて-----」 と、民生委員の仕事をすませて帰宅したところで、立ち話である。 干し柿作りは、皮を手で剥いていては大変だろう。以前、柿酢をつくったことがあった。古い瓶を引っぱり出してそれに仕込んだ。発酵後に漉すのが大変だったが、まろやかな柿酢ができた。寿司をつくるのに、この柿酢をつかうとなかなかおいしい酢飯ができた。 いくつかを干し柿に試し、残りは柿酢に仕込もうか。ものづくりは何でも大変なもの。面倒がっていては何にもできない。 忙しいうえに、また忙しさを重ねようとしている!
Aug 28, 2017
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(株)復刊ドットコムからドラゴンブックスシリーズ復刻第二弾『吸血鬼百科(復刻版)』の見本刷りが届いた。近々発売になる。 多数の読者からの要望により絶版書籍を復刻刊行している(株)復刊ドットコムが、怪奇系児童書として古書価が高い佐藤有文著『悪魔全書』につづき、佐藤有文著『吸血鬼百科』を刊行した。 このブログですでに何度か述べてきたが、私のイラストレーターとして出発当初の仕事である。原本の講談社ドラゴンブックスシリーズは、この『吸血鬼百科』から始まった。 私の仕事は1974年(昭和49年)6月21日に「吸血鬼バーニー」を油彩で起筆することに始まり、24日に描き終わった。翌25日に荒俣宏さんが編集されていた『怪奇と幻想』誌のアルジャーノン・ブラックウッド「別棟の怪」の挿画2点を描き、26日から再び『吸血鬼百科』の挿画制作に入り、9月9日までつづく。30数点描いた。その間にも、先日亡くなられた橋本治氏と共同執筆した講談社児童書『怪談 3』の挿画や、ギャラリー銀座三番街企画「イメージ・アリス展」のための25号(80X65cm)油彩画、文林書院刊行の大学ドイツ語副読本の表紙などを描いている。・・・以後、ほぼ1年間、ドラゴンブックスの挿画270点余および雑誌のイラストレーションなどを描いた。36時間ぶっつづけに仕事し、その場にぶったおれて2時間眠り、また36時間描くという毎日。・・・ドラゴンブックス終了後も佐藤有文氏とは著者とイラストレータとして交流がつづいた。佐藤氏は幽鬼のように頬が痩(こ)けて蓬髪、笑うと子供のような目だったが、ドラゴンブックスの1年間は私も負けず劣らず死人のような顔色だった。ゾンビが二人顔を突き合わせていたようなものだ。 当時の子供読者を恐怖におとしいれたものの、あれから45年、いまや壮年であろう人たちの復刊要望の多さを知ったなら、泉下の佐藤氏もあの子供のような目をして笑うだろう。 さらに付け加えるなら、(株)復刊ドットコムの仕事はすばらしいのである。45年前の本が奥付もすべて、そっくりそのままに再現され、のみならず、使用紙はこれから何年も耐えるであろうほどに上質で、印刷上がりも美しい。これは挿画担当者として嬉しいことだ。 『吸血鬼百科(復刻版)』の入手は同社webサイト、そのた検索サイトからどうぞ。
Feb 9, 2019
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午前中に、予定していた明星大学の資料図書館に行った。同大学貴重書コレクション展「ウィリアム・モリス ー理想の書物を求めてー」を見せてもらうためである。 明星大学稀覯本コレクションは世界的にも有名で、蔵書5400巻を誇る。私は過去にも訪ねてシェイクスピアのファースト・フォリオのコレクションを見せてもらった。また、カントやデカルトの自筆書簡も見せてもらった。ハーバード大学の稀覯本室も有名だが、私の身近な所にある大学図書館が、この度の展覧会のウィリアム・モリスについて言えば、彼がデザインし刊行したいわゆるケルムスコット・プレス全66巻のうちなんと65巻を所蔵しているのだから、驚きもするし、嬉しくもなるのである。 画像資料でしか見たことがない(あるいは、複写による現代印刷本が手に取れたなら、また、入手できたなら良しとしなければならない)世界三大美本の一つケルムスコット版『チョーサー著作集』の実物が、間近で観られるなんて! と言うわけで、展示室には私の他にはただ一人若い女性がいただけの静寂な館内で、私は心ゆくまでウィリアム・モリス刊行の書物を観て来た。 そうだ、これも特記しておく。今日私が見せてもらったのは、展覧会第1期の16冊と、これとは別にジョン・ベンソンが編纂し、1640年に刊行された『シェイクスピア詩集』であるが、ウィリアム・モリスの本は、『チョーサー著作集』と他1巻を除いて全てアンカットなのであった。図書館職員に私は尋ねたのであるが、間違いなく装丁以前のアンカットであるとのことだ。つまりウィリアム・モリスが特別に漉いた用紙に手引き活版印刷機アルビオンで印刷したそのままの状態、と言うことである。これは愛書狂にとってはまさに垂涎の的。明星大学はよくぞそんなアンカット判をこれほど大量に入手できたものだ。 In the morning, I went to the library of Meisei Univer-sity, which was planned. This is to have the UniversityRare Books Collection show "William Morris --In searchof Idea Books". The Meisei University rare book collection is famous worldwide and boasts 5400 volumes of books. I visitedin the past and had me show the Shakespeare's FirstFolio collection. They also showed me Immanuel Kant'sand Rune Descarles's autograph letters. The rare library room of Harvard University is alsofamous, but the library of the Meisei University in myneighborhood, speaking of William Morris exhibition,is what of the so-called Kelmscott Press Morris haddesigned and published, out of 66 volumes as theyhave 65 volumes, I am also surprised and happy. The Kelmscott Press ed's "The Works of GeoffreyChaucer" which is one of the world's three most beau-tiful books, which I have only seen in image materials(or if I can get a hand-held printed book by copying, I would be happy) you can see the real thing in the collection in a close look! That is why I saw the books published by William Morris until the end of my mind in the quiet hall where only one young woman was alone in the ex-hibition room. Yes, this is also noted. What I have shown today is the 16 books of the first phase of the exhibition and "Shakes peare Poems" edited by John Benson published in 1640, but the books by William Morris were uncut except "Chaucer" and one other volume. I asked the library staff, but they are definitely un-cut pre-boundary. In a word, it is that it is a state as it was printed by hand-operated printing machine the Albion with William Morris' specially hand-made paper from hemp. This is exactly the point of a drowning for biblio-phile. Meisei Univerity has been able to obtain suchan uncut format so much!
May 29, 2019
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国会議員のみならず地方議会議員も、広く説明責任の場でしばしば「承知していない」と言う。たとえば、今日、毎日新聞記事は菅義偉官房長官が「桜を見る会」を巡る記者会見において次のように答弁したと報じた。見出しと記事をそのまま引用する。 〈2013〜17年度の招待者名簿が公文書管理法に違反して「行政文書ファイル管理簿」に記載されていなかったことについて「組織的に隠していたのではないか」との記者の追求に、〉以下、見出しを引用し、菅義偉官房長官は〈組織的隠ぺいは「そこについては承知しておりません」〉 私は常々、質問議員であろうと報道記者であろうと、この「承知していない」という答弁をどのように解釈しているのだろう、なぜ、そこで質疑応答がストップしてしまうのだろう、と不思議に思って来た。つまり私の疑問というのは、こうだ。・・・この「承知していない」という言葉を英語に訳してみようとすると、いくつかの英語表現が思い浮かぶ。 「I don't consent to ...」あるいは「I don't know ...」、あるいは「I don't agree to ...」「I don't deliberate on ...」「I haven't intention to do ...」「I don't hear about ...」 まだ他にも言い回しがあるかもしれないが、ともかくこれらはすべて日本語で「承知してない」と翻訳可能である。しかし、話者の意思はそれぞれ違う。まあ同じ意思だと言えるのは「I don't consent to」と「I don't agree to」だろうか。「私は賛成(同意)していない」という意思である。 「I don't know」は「知らない」「わからない」だが、その後につづく言葉によって「知らない/わからない」のニュアンスが違ってくる。それは「I don't hear」でも同様だ。「聞いてないヨ」という意味にニュアンスが出てくる。 「I don't deliberate on 」は、「承知していない」が俄然重くなってくる。「良く考えたことがない/思慮したことがない」という意味だ。「I haven't intention to do 」は、場合によってはさらに心情の複雑さがともなうだろう。「私は意図していない」という意味だからである。 菅官房長官も他の政治家も、あるいは国会証人として召喚された人も、「承知してない」という言葉をじつに政治的な言葉として使用している。日本語のアイマイさを「上手」に使い、実のところ真意不明なのだが、質問者も追求者も誰一人として「承知していない」の内容を理解しようとはしない。おそらく各人の勝手な思い込みで納得しているのだろう。 いずれにしろ政権を担う者が「承知していない」事柄が、行政においてまかり通っているとしたら、その事自体がすでにして政治の破綻であるばかりか、日本国を貶めているのだと、私は思う。
Jan 14, 2020
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制作中の作品が、予定より1日早く完成した。即座に次作に取りかかった。午後8時、最初の塗りを終わった。乾燥を待ち、日曜日に2層目の塗りがすめば、次の段階は技術的にもっとも困難を予想している部分だ。またその技術は、初めてのチャレンジである。昨夕、合唱練習をしながら考えていたのは、その技術的処理の問題だった。それをおこなうことにより、必然的に「意味」が生じる。それは「物質的意味」であるが、私の「思想的な意味」の隠喩になることを企図しているのだ。しかし、その「物質的意味」が鑑賞者にとっては私の意図とはまったく異なる・・・むしろ正反対の・・・意味を生じさせる結果になるかもしれない。私が今日とりかかった作品は、いわば「両刃の剣」になりうるのだということを、作者として認識しておかなければなるまい。 The painting in progress was completed one dayahead of schedule. Immediately started the nextwork. At 8 pm, the first coat was finished. If I waitfor it to dry and a second coat is applied on Sunday,the next stage is where I expect the most technicaldifficulties. The tecnology is also the first challengefor me. What I was thinking while practicing choruslast evening was the technical problem. By doing so,"meaning" necessarily arises. It is "material meaning",but it is intended to be a metaphor for my "ideolog-ical meaning". However, its "material meaning" maybe completely different from my intent for the viewer...rather the opposite...giving rise to meaning. I haveto recognize that the work I started today can becalled a "double-eded sword".By Tadami Yamada
Jan 24, 2020
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昨日、作品の一部分を描き残したので、きょう早朝に手を入れ、製作を終了した。この作品は随分早く完成した。 午後からまた新たな作品にとりかかるつもりなので、それまでに民生委員の仕事を片付けることにした。市から依頼された高齢者11人の安否確認である。 昼12時過ぎに帰宅。汗だくだ。アイスドコーヒーを2杯、一気に飲み干した。 しかし、午後3時半に再び16人の高齢者の安否確認。さらに電話による相談が入った。多忙である。 夜の9時になってようやく新作の準備にとりかかった。 Yesterday, I left a part of the work, so I started work-ing on it early this morning and finished the produc-tion. This work was completed quite early. Because I plan to start a new work again in the after-noon, I decided to finish the work of the civil welfareofficer by then. It is a safty confirmation of 11 elderlypeople requested by the city. Return home after 12:00 noon. I'm sweating. I dranktwo cups of iced coffee at once. However, at 3:30 pm, I went out again to confirm thesafty of 16 elderly people. In addition, there was a tele-phone consultation. I'm busy. At 9 o'clock in the evening, I finally started preparingfor a new painting work.Tadami Yamada
Jul 29, 2021
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今朝、目覚と同時に浮かんだ句。枕元の紙に走り書きした。 松虫や待つも別れの草のなか 青穹(山田維史) 花薄(はなすすき)居(お)らずなりける翁が家(や)
Sep 7, 2021
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朝に書く日記は、例によって昨夜灯りを消したベッドのなかで手探りしながら走り書きした俳句。「寒灯」で七句。 寒灯や赤児泣く声細ぼそと 青穹(山田維史) 寒灯や我が影映す石畳 寒灯や躓きて知る脚の老い 寒灯や付かず離れず二つ影 寒灯や面影起(た)たぬ細明り そら耳 寒灯や死んだ愛猫の戻り声 寒灯や死んだ愛猫がいちど鳴き 下は、暗がりで手探りで走り書きした原稿。ふと思い出したが、私の癖だろうか、ずいぶん若いときから就寝後の暗がりで思い出しては手探りで書いていた。紙が無いときは、シーツに書いた。若かったとばかり言えないなぁ、76歳になっても同じようなことをやっているぜ。
Dec 20, 2021
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