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四迷忌や苔むす墓碑に今日の雨 青穹(山田維史) 四迷忌や机に古書を開きけり 四迷忌や机に開く明治の書 二葉亭四迷(1864-1904)は憧れのロシアへ派遣員として赴任した帰国途上、インド洋の船中で死去。シンガポールに埋葬された。享年48。 四迷忌やいまのロシアは侵略者 四迷忌やいずこも戦(いくさ)不意の死よ 四迷忌や其面影も遠くなり
May 10, 2024
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Arts by Tadami Yamada 姿を消した子どもの移民 CNN
May 5, 2024
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人類に希望はないのか?罪深い戦争をやめよもうそれ以上人々を殺すなArt by Tadami Yamada
Nov 3, 2023
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亡き母が納戸より出す京団扇 青穹(山田維史) そんな我が家の夏のしきたりも、母が亡くなるずっと前に私は止めてしまった。昔はエアコンディショナーもなかったからたいていの家庭に団扇があった。昔、我が家で母が納戸から揃いの京団扇を出す、いわば風物誌は、昨日、弟に言われて思い出したくらいだ。箱に入った半ダースのその京団扇は、母は時季がくると不意の来客のためにあらかじめ用意していたのだった。したがって、子供のころはもちろん青年になってからも、私はその「上等な」団扇を使ったことはなかった。 昔の映画にはしばしば団扇が出てくる。団扇にも色々種類があり、地方性もあれば、いわば社会的階級の表現になっていたりする。 溝口健二監督作品は、それが大変良く考証されている。一本の映画作品の中で、人物、場所柄等できっちりわけられている。場末の庶民のしがない台所で使われている渋団扇にしても、その様で、つまり破れ団扇であるとか「火の用心」などと大きく墨書きされているとか・・・団扇一本で生活状況がわかる。芸者がしどけなく胸元をあおぐ団扇の色気を私は見逃さない。 小津安二郎監督の『小早川家の秋』のなかの団扇こそ、是非とも目にとめなければなるまい。あるいは『浮き草』のなかの団扇を。『東京物語』の笠智衆氏の団扇を。 蠅打ていさゝか穢す團かな 几董(きとう:1741-1789)
Jul 14, 2023
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去る4月、和歌山市の選挙応援会場で岸田首相に向かって爆発物を投げて逮捕され送検された木村隆二容疑者が、この事件より先に、公職選挙法において立候補に年齢制限を設けているのは違憲だとして国に対して10万円の賠償を求めた訴訟で、木村隆二の敗訴が決定した。 賠償額10万円という数字をどのような根拠で算出したか私はわからない。木村が経済的実損害があったわけでは無いので(民事訴訟なので金銭的実損害の有無が裁判の焦点になる)、考えようによっては金額が問題であったのではなく、違憲か否かの裁判となることを予想して、この訴訟がマスコミによって広く報道されるであろうことを企図したのかもしれない。 しかしながら、木村隆二は参議院選挙時に立候補申請したところ、立候補年齢に達していなかったこと並びに選挙供託金の資力がなかったという事実があった。衆・参議院議員立候補の現行の供託金は、選挙区選出の場合は300万円、比例区選出は600万円である。木村の事実は、私のみるところでは、必ずしも一般化・普遍化できないかもしれず、立候補年齢制限ならびに供託金制度が違憲か否かを争う法廷にはならない可能性があった。そうであれば、裁判は既存の法律に基づいて判断されるので、木村隆二のこの訴訟は(私は)はじめから敗訴が予想できた。これについて私はすでに4月18日のこのブログ日記で指摘した。 敗訴の判決に対して木村は上告しなかったそうだ。つまるところ、木村隆二にとってこの訴訟は自らの一身を賭したものではなかったのであろう。 ・・・首相襲撃事件で鑑定留置中であるが、良いにしろ悪いにしろ、私には輪郭線が描けない24歳の男の人格である。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 先日、50年ぶりに会った漫画家の小澤一雄氏からお葉書を頂戴した。また会える機会があれば嬉しい。 それにしても、20代とはすっかり面変わりした老人顔の私を、よくぞすぐにお分かりになったと、少しびっくりしましたよ。
Jun 21, 2023
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朝晩寒くなってきた。19時になろうとする今しがた、住宅街をいつもの灯油販売車がわらべ歌「大寒小寒」を流しながら行く。 ちょうど弟がいて、私は彼に「この歌は嫌いなんだ。なんだか不愉快になる」と言った。すると彼は、「夏目漱石がこの歌について、わけがわからない歌だと書いている」と言った。 そのことは私は知らなかった。「へーッ、夏目漱石が書いているのかい。昔からある歌なんだねー」 「山から小僧がやってきたとは、どういうことを言っているのかわからないと言っているよ」 「夏目漱石がねー。・・・まあ、私もこのわらべ歌がどんな状況、小僧さんのどんな暮らしぶりを子供に聞かせているのかわからない。とにかく不愉快な歌だ。1週間に2、3回、大きな音で一冬、春の半ばまで聞かされるのでうんざりだ。」 私がこのわらべ歌をうたう機会はないだろうが、もし歌うとしたら、どんな気持ちで、どんな状況を心に描いて歌えば良いのだろう。古い歌らしいが、とにかく変な歌だ。わらべ歌にイチャモン付けても仕方がないが。 冬木立朝の障子に細い影 青球(山田維史) 凩や朝の障子に揺れる影 短日や夕餉仕度の大根炊く
Nov 19, 2022
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山田維史『1945年8月6日広島原爆犠牲死者25万人のための 25万個の黒点』2018年作 NYで発表 (犠牲死者数は制作年当時)山田維史『りんご充満空間 私は人智を信じる』 2018年作 NYで発表山田維史『1945年5月私は戦争の魔手をのがれて生まれ、 そして戦争が終わった』 戦中、父のカメラ(註)に残っていたフィルムで撮影した生後6ヶ月の私の写真を使用したCGコラージュ作品【註】このカメラはドイツ製バルダ(Balda-Werk)。父は従軍のため、このカメラを札幌の実家に置いていった。北方中国の戦地から帰国し、結婚し、私が生まれてからカメラを思い出した。フィルム数コマ分が入ったままだった。試しに私を撮影してみると、6枚に写っていた。最初の3枚はかなり劣化していたが、最後の3枚はこのコラージュ作品に使った程度には写っていた。私の最初のポートレートになった。Wikipediaより1938/1939 Balda
Aug 6, 2022
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福島第一原発事故避難者が国の責任を求めた4件の集団訴訟に対し、17日、最高裁第二小法廷(菅野博之裁判長)は、国の責任を認めない、と判決を下した。理由は、「現実の地震・津波は想定よりはるかに大規模で、防潮堤を設置させても防げなかった」とした。 あきれた判断である。論理をとおしたつもりであろうが、まったく論理になっていない。なぜなら、そもそも被告の「想定」に論拠を置くことじたい誤りである。「想定」は、当事者の見通しの程度の問題だからである。低きもあれば、月惑星の人間による探査のように人事を尽くした高度の「想定」もある。つまり、当事者の能力如何で、どうにでもなるのが、「想定」である。日本の原子力発電所の立地調査や設置については、これまで多くの粗略な調査と、いわば御都合主義な判断で実施されてきたことが判明している。その粗略さもまた「想定」であったはずだ。 日本の政治家や官僚等は、自分の失敗の弁明として、伝家の宝刀のように「想定外」と言うが、己が無能だと公言しているようなものだ。そのように、当事者の能力によってどうにでも変化する「想定」を、最高裁判決の根拠とするのは誤りといわなければならない。 いったい菅野博之裁判長が指揮する法廷の判事たちは、頭を寄せ合って何を論じていたのであろう。このバカげた判断理由を、どれだけの時間をかけて導き出したのだろう。 先日、新法「侮辱罪」が成立し、施行されることになった。しかしながら、国の根幹を左右する問題に関わる人物の国民に対する言動が、侮辱に価することは多々ある。私は、菅野博之裁判長の第二小法廷判事たちは、烏合の衆のように思えてならない。いや、カラスは頭のいい鳥だ。が、私の比喩を取り違えないでほしい。 とにかく、この判決は、その判断理由とともに、多くの人たちの「想定外」だったに違いない。日本の司法・行政に、ほとんど伝統的と言ってもよいほど抜き難くある、棄民思想が発露されたようだ。 On the 17th, the Supreme Court's Second Small Court(Judge Hiroyuki Kanno) ruled that the Fukushima DaiichiNuclear Power Plant accident evacuees did not accept the responsibility of the state in for class proceedingsseeking the responsibility of the state did. The reasonwas, “The actual earthquake and tsunami were muchlarger than expected, and even if a seawall was in-stalled, it could not be prevented.” It was a disappointing decision. It's supposed to bethrough logic, but it's not logic at all. Because, in thefirst place, it is an error to base on the defendant's〝assumption”. This is because the〝assumption” is a matter of the degree of outlook of persons con-cerned. Some are low, while others are highly “assumed”, such as human exploration of the lunarplanet . In other words, it is an “assumption” that depends on the abilities of the persons concerned. It has been found that the location surveys and instal-lations of nuclear power plants in Japan have been carried out based on many rough surveys and, so tospeak, opportunistic judgements. That crudeness must have been, an “assumption” as well. Japanese politicians and bureaucrats say that theyare “out-assumption” like the treasure sword of thelegendary family (one's best card) as an excuse fortheir failure, but it is like proclaiming that they areincompetent. As such, it must be said that it is an error to base the Supreme Court decision on the〝assumption” that changes in any way dependingon the abilities of the parties. What on earth were the judges in the courtroomunder the direction of Judge Hiroyuki Kannoarguing with their heads together? How long didit take to derive this stupid reason for judgement? The other day, a new law, Insult, was enacted andwill be enforced. However, it is not surprising that thewords and actions of people involved in the issuesthat influence the foundation of the country are insulted. I must think that Judge Hiroyuki Kanno's secondsmall court judges are like the people of crows (amob). No, crows are smart birds. But don't confusemy metaphor. Any way, this ruling must have been “out-assumped”by many people, along with the reason for thedecision. It seems that the idea of abandonment,which can be said to be almost traditional, has beenrevealed to Japanese judiciary and administration.Tadami Yamada
Jun 18, 2022
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新型コロナウィルスのワクチン3回目の接種後の副反応がひどく、昨日はまる一日、何もしないで寝ていた。私は病気になったことがないので、発熱には弱いのかもしれない。 今朝、血圧等を測ると、血圧はむしろ低めで、109/79。脈拍はやや速めの95。体温は36.6℃。腕の重さもなくなったので、まあ,回復したのだろう。 1,2回目の接種後はまったく何も起らなかったが、あれからちょうど8ヶ月後の3回目の接種後には副反応が出た。これは、1,2回目のワクチンにより抗体ができ、それが持続しているために、この抗体に対して3回目接種で副反応が出たと考えられる。これはあくまでも私の考察だが、これが正しいのなら、ワクチンは私の身体に有効だということだ。 ともあれ、今日一日、おとなしくしていて,様子をみよう。
Feb 26, 2022
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1月22日は冬至である。きょうを境に日中の時間が長くなる。と言っても、実際に日脚がのびるのは数日後から。しかし我家では昔ながらの伝統で、小豆粥を炊いた。1月15日も15日粥と称して小豆粥を炊く日本の習いだが、我家は1日早い14日に小豆汁粉を食した。 我家が昔からの日本の伝統に縛られているわけでは全くない。宗教的慣習も、両親の仏前への朝夕の供奉と墓参以外はおこなわない。つまり完全に家族的な行事・慣習である。それではなぜ15日粥だの冬至粥(あるいは冬至南瓜)だのと行うかといえば、季節を楽しむためである。 そうした日本の年中行事は、おそらく本来的には季節を楽しむためであっただろう。そして、春の若菜摘みや、七草粥にしろ小豆粥や冬至南瓜にしろ、食の栄養学的な理にかなっていた。冬の間に摂取できなかったヴィタミン不足を補い、また塩分過多で高めになっていたであろう血圧に対して、小豆含有のリコピンの作用が期待できたかもしれない。 いずれも現代栄養学の成果でわかってきたことだが、『本草綱目』(明の李時珍:1518-1593:著)を繙けば驚きをもって分るように、経験知によるとだけでは説明つかないほどの、広範囲かつ多種類の個々の植物についての医学的知識が、古人にはあったのである。(註:経験知か否か、すなわち古代中国伝説時代の帝とされる神農とは何ぞやという問題に関して、東洋思想史等の分野で学術的議論がある。) 江戸時代、医家では皇漢医道、すなわち日本と中国の医学の祖として大己貴(おおあなむち)・少彦名(すくなひこな)の二神、および神農黄帝を祭った。冬至には御事始(おことはじめ)と称して各家々において芋、牛蒡、大根、こんにゃく、小豆などを実として味噌汁に煮て、「御事汁」と称えて食した。しかし、明治時代には江戸時代の医方は廃れ、それとともに御事始の御事汁を食す習慣もなくなった。 「御事汁」の実が食物繊維質の含有率が高い食材であることは、留意すべきかもしれない。一応,指摘しておく。 ついでに付記するが、斉藤和季著『植物はなぜ薬を作るのか』(文春新書、2017年)が、一般書としておもしろい。 まあ、私はそんな七面倒な蘊蓄は御免被り、先に述べたように季節を楽しむため、私が料理して家族を楽しませるため。そして、季節や風物を描かない画家である私自身の、自然に対する感覚を失わないようにしたいという、利己的な目的もあるのである。 十五日過ぎて冬至の小豆粥 青穹(山田維史) 待ち人をいまや遅しと日脚伸ぶ 寒肥を鉢に埋(い)けおり日脚伸ぶ 少年の遊び疲れて日脚伸ぶ January 22nd is the end of winter on the calendar.The daytime will be longer after today. However, it will be a few days later that the daytime will actuallyextend. However, in our tradition, I cooked (Azuki-gayu (red bean porridge). January 15th is also a Japanese practice of cooking redo beans porridge, which is called Jugonihigayu (15th porridge), butmy family are Azuki-shiruko (red bean sweet soupwith rice cake "mochi") on the 14th, one day earlier. Our family is not bound by the traditional Japa-nese tradition at all. Old religious practices are notpracticed except for the morning and eveningofferings to the Buddhist altars of the parents andthe visit to the grave. In other words, it is a com-pletely family event / coustom. Then, the reasonwhy the 15th porridge is Tojigayu (the winter porridge) or Tojikabocyha (the winter pumpkinporidge) is to enjoy the season. Suh an annual event in Japan was probably originally to enjoy the seasons. And whether itgathered young herbs in the field inthe spring,and cooked porridge of seven herbes, redbean porridge, or pumpkin porridge in thewinter, it made sense for the nutrition offood. It may have been possible to expectthe effect of azuki-containing lycopene onblood pressure, which would have beenelevated due to excwssive salt and suppple-mented the vitamin deficiency that could notbe ingested during the winter. All of these have been learned from theresults of modern nutrition, but as you cansee wirh surprise when you read "Honzo-komoku" (author; Li Shizhen 1518-1593,Ming dynasty), it cannot be explained by experience alone. The ancient had a widerange of medical knowledge about indi-vidual plants of many varieties. (Note :There is an academic debate in fieldssuch as the history of Eastern thoughtregarding whether or not ir is empricalknowledge, rhat is what is Shennong.) During the Edo period, doctorsworshiped he Japan-Han (China) MedicalSchool, that is, the two gods Oanamuchi and Sukunahikona, and the ShennongHuan Emperor as the ancestors ofJapanese and Chinese medicine. At the end of the winter, potatoes,burdock roots, radishes, konjac, andred beans were boiled in miso soupand ate under the name of "Okotosoup". However, in the Meiji era, thehouses of doctor of the Edo periodwas abolished, and at the same time,the custom of eating the "Okoto soup"was lost. It may be noted that the ingredientsof " Okoto soup" is a foodstuff with ahigh content of dietary fiber. For thetime being, I woud like to point out. Incidentally, Kazuki Saito's "WhyPlants Make Medicine" (Bunshun-shinsho, 2017) is interesting as ageneral book. Well, I don't have to worry about such things, and as I mentioned ealier, to eajoy the seasons and toentertain my family by cooking. AndI also have a selfish purpose to keepmy sense of nature as a painter whodoes not draw seasons and naturalfeatures.【Haiku】 Jugonihi sugite toji no azukigayu Red beans porridge at the end of winter after 15th January Mahibito wo imaya ososhi to hiashi nobu The person I had expected Now it's too late, The days have grown longer Kan-goe wo hachi ni ike pri hiashi nobu The fertilizer of winter season is buried in a planter, The days have grown longer Shonen no asobi tsukare te hiashi nobu The boy was tired of playing, The days have grown longerTadami Yamada
Jan 22, 2022
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おせち料理の下準備にとりかかった。まだのんびりやっているが、私の今年の最後の大忙しになる。 長年、すべての料理を一手に引きうけてきた。先日、私の体調が少しかんばしくないと家族に言うと、「それじゃあ、パーティーもやらないし、今年は特別料理をやめましょう」と提案してくれた。「そうだね。そうしよう」と、私は言って床に就いていた。 ところが、二日後、「すっかり回復した」と言うと、たちまちたくさんの食材を買って来た。「おやおや」である。「いつもより少ない材料」と言うが、どうしてどうして、10品は作らなければならない。両親の時代は全15品と決まっていたので(それも私が作っていたのだが)、それに比べるとたしかに少ない。まあ、一年に一度、家庭の伝統祝賀料理が卓にならぶのは楽しいのだろう。それを心待ちにしてくれるのは、料理人としても嬉しい。 と、こうして書きながら、黒豆が炊きあがった。夕食は帆立貝のクラムチャウダーと野菜サラダにするとして、その後に、身欠鰊の昆布巻をつくろう。
Dec 29, 2021
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昨27日、正月迎えの松と注連輪を門に飾り付けた。我家の長い伝統で、12月29日と31日の飾り付けを忌む。つまり暮れが押し詰まってからだと、27,28,30日だけが良しとなる。玄関内に鏡餅も供え終わった。 ことしも大晦日恒例のホームパーティを中止することにした。2年連続の中止である。その旨を次弟が末弟に伝えた。顔を見なくとも、みな元気に暮らしていれば、それで良い。 買い出しを急ぐ母子(おやこ)の師走かな 青穹(山田維史) 年用意仏花手にして跳ね行く児(こ) ともかくもあなたまかせの年の暮 一茶
Dec 28, 2021
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さあ、描きつづけてきた作品が完成した。2021年は、これが最後の作品だ。10点のシリーズになった。一旦この連作から離れて、来年の最初の作品は、別のテーマにしよう。すでに構想はできている。取りかかるのが楽しみだ。 古暦かわるを待つや待たざるや 青穹(山田維史) 絵道具を洗いきよめて春仕度
Dec 20, 2021
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昨日11月13日は空也忌だった。 空也上人(903-972)、平安中期の浄土教念仏信仰の先駆者とされる。70歳で京の西光寺(現在の六波羅蜜寺)に没した。 忌日について、あるいは諸説あるのかもしれない。ウィキペディアにおいては旧暦(宣明歴)天禄3年9月11日、ユリウス暦972年10月20日となっている。 私が11月13日としたのは、戦前の書物に記されている忌日を採った。この日、京都蛸薬師空也堂において念仏踊がおこなわれ、また11月13日から大晦日までの48日間、空也堂の僧が洛中洛外を念仏和讃を唱えながら巡る。腰に瓢箪をつけ、鉦を叩きながら歩くのだが、米や金銭の喜捨した人には瓢箪の形をした菓子を与える、と記されている。 この行事についてウィキペディアに記述はない。現在も浄土宗(小乗仏教)の伝統行事として空也堂の僧がおこなっているのかどうか,私は知らない。現在の六波羅蜜寺は真言宗(大乗仏教)である。しかし私は古い書物に書かれた、空也堂の僧にとっての11月13日の重要行事を、空也上人の忌日についての傍証とした。 仏教美術では六波羅蜜寺所蔵の重要文化財指定「空也上人立像」は、ことに有名である。私が中学生だったころは教科書にも写真が掲載されていた。鎌倉仏教の解説に付されていた。 私がこの彫像の実物を観たのは、1964年10月1日および11日の2度。東京オリンピックを記念して東京国立博物館で開催された『日本古美術展』においてであった。初回から10日おいて2度観に行ったのは、この「空也上人立像」と、もう一体、奈良法輪寺所蔵の「虚空蔵菩薩立像(一名、酒買い観音)」とを、じっくり目に焼き付けるためだった。それだから、57年後の現在でも、その2体の彫像がどのように展示されていたかを、姿とともに記憶の映写幕に映し出せる。 「空也上人立像」の作者は、運慶の四男の康勝。作者が明確なのは、この彫像の胎内に康勝の名と花押が墨書されているからである。空也上人の御目が涙をためたような一種異様な、異様と言って悪ければ「悲愴な執念」の輝きを宿しているのは、水晶で造られているからである。口から出ているのは阿弥陀仏の小像で、念仏唱名「南無阿弥陀仏」を表現している。 父運慶の作になる彫像の特徴が解剖学的な誇張にあるとすれば、息子康勝の空也上人立像は近代彫刻を先取りしたような写実である。私はその点に注目する。日本彫刻史では特異に抜きん出ている。 日本彫刻史の肖像写実彫刻には、運慶の父である康慶の作である奈良興福寺所蔵の国宝「伝玄賓坐像(でん・げんぴんざぞう)」などの法相六祖(ほっそろくそ)がある。しかし私は、孫の康勝の「空也上人立像」に一層の写実性を見る。その写実の近代性は明治時代の新海竹太郎までまたなければならないほどの先取りだと,私は思う。 この彫刻史における両者の空間に、私は「現実を直視する」という、見ることの文化的意識の問題を発見するのだ。 空也忌や涙を湛う像のまえ 青穹(山田維史)(上)空也上人立像 京都・六波羅蜜寺 (下)1964年 東京国立博物館「日本古美術展」カタログ
Nov 14, 2021
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午後、雷雨。しかしごく一時的なもので、やがて北西の灰色の空を切り裂くように、青空があらわれた。日暮れて夜のとばりがおりると、我家の周囲に蟲の声がいっせいにわき起こった。カンタンだろうか? それともアオマツムシだろうか? 邯鄲の鳴きゐる雨の寝覚めかな* 耕雪 【*】藤田耕雪1888-1935)。この句は「邯鄲の一炊の夢」の故事が下敷きになっていると考えると一層の味わいである。(山田註) カンタン(邯鄲)の鳴き音については古来いろいろの言われ方をしている。古くは「れりれり」などと表現した。また、「ふぃよろふぃよろ」とも言い、「ずゐんずゐん」だとも言った。現代ではどうかといえば、「りゅうりゅう」と鳴くと説明している児童図鑑がある。 まあ、いずれにしろ、我々の聴感覚がとらえる自然の音を文字で正確に書き表すことは非常に難しい。人間の多種の言語だって難しいのだ。難しいからこそ、それを表現しようとする創造性ならびに想像性が意欲される。おもしろいことだ。 あれまつむしが ないている チンチロチンチロ チンチロリン あれすずむしも なきだして リンリンリンリン リーンリン あきのよながを なきとおす ああおもしろい むしのこえ 文部省唱歌『虫のこえ』
Sep 6, 2021
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間もなく22時になる。これから就寝までの2時間をいつものように読書をするが、その前にちょっと書いておきたくなった。ウラディミール・ホロヴィッツ氏(1903-1989) のピアノ演奏をする手についてだ。 いや、何もごたいそうなことを言おうとしているのではない。ただ私が見るかぎりだが、他のヴァーチュオウソウ(名演奏家)には見られない、何と言おうか、ほとんど鍵盤の上を撫でるような動きだ。決して手を宙に浮かせて叩き付けるような弾き方をしない。左手など、鍵盤の下方の枠にぶらさげているかのようにさへ見える。これぞ天性のピアニストというような長く細い指が、滑るようにフォルテもピアノも鍵盤をやさしく撫でるようにリズムを刻んで行く。鍵盤から一瞬たりとも目を離さなず、その身体はほんの少し前屈みのままほとんど動じない。お顔の表情も、ただただピアノと静かに対話しているかのようだ。感情はその指が奏でる音にだけあるのだ。これ見よがしの余計な身体的パフォーマンスをしない。観客はピアノの音だけに集中できる。・・・そうか, ホロヴィッツ氏の演奏スタイルはそういうことなのかもしれない!ホロヴィッツ氏リサイタルホロヴィッツ氏ラフマニノフ交響曲3番 It will be 22:00 soon. I will read for the next two hours until bedtime as usual, but before that I wanted to write a little. It's about Vladimir Horowitz's (1903-1989) piano playing hand. No, I'm not trying to say anything great or terrible. Asfar as I can see, it's almost like stroking the keyboard,which is not seen in other Virtuousou (famous perform-ers). Never play with his hands floting high in the air. Itlooks as if it is hanging from the lower frame of the keyboard, such as the left hand. The long, thin fingers, as natural pianist, rhythm as if they were sliding and gently stroking the keybord on both 'forte' and 'piano'. Keeping eyes on the keybord for the whole music, the body remains slightly bent forward and hardly moves. The facial expression seems to be just a quiet dia-logue with the piano. His emotions are only in the sound of the finger. This does not give you extra physical performance. The audience can concentrate only on the sound of piano. ... Well, Mr. Horowitz's playing style may be that kind of such thing! That'sit!Tadami Yamada
Feb 15, 2021
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ちょっと驚いた。ロックフェラーセンターのクリスマスツリーがたった一晩のうちに様変わりしてしまった。「エヴァーグリーン」から例年通りの極普通の電飾ツリーへ。 これは一体どうした事だろう。 私がそのメッセージ性に感心した、何の飾りも無い美しい「エヴァーグリーン」は、わずか1週間で、豪華なイルミネーションをまとっただけのつまらない巨大ツリーと化した。 市民たちは大喜びで写真撮影したりヴィデオカメラを操作している。私は「例年通りで良かったですね」と、ニューヨーク市民に挨拶するにやぶさかではないが、数百年間たもってきた生命を伐られ、その自然のままの美しい姿に、虚飾をまとわされた樅の木には「哀悼の意」を捧げつつ、私の気持は肩を竦めて足早に立去るばかりだ。 I was a little surprised. The Rockefeller Center Christ-mas tree has changed in just one night. From "Ever-green" to the usual illuminated tree. What happened to this? I was impressed with the message the beautiful un-adorned "Evergreen" , but it turned into a boring giant tree with gorgeous illuminations, in just one week. Citizens are happy taking pictures and operating video cameras. I don't hesitate to say "good to become as usual" to New Yorkers. However, I offered my condo-lence to the fir tree which has lived for hundreds of years with beautiful natural appearance, was cut down and dressed affectations. My feeling was like to shrug my shoulders and leave soon.Tadami Yamada
Dec 4, 2020
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夕方から合唱団の練習。練習しながら気がついたのだが、私の声がいままでより少し低く太い響きになっているようだ。声が身体全体に共鳴する。特に長音の場合は歯が振動し、鼻の奥に振動が伝わる。何と言えばよいだろう---微妙な快感である。毎日が多忙で、歌っている場合じゃないのだがと思いながら、私の声が私自身の感覚にあらたな感覚を開くのを楽しんだ。 Chorus practice from the evening. I realized while practicing, but my voice seemes to be a little lower and thicker than before. The voice resonates throughout the body. Especially in the cace of long sounds, the teeth vibrate and the vibrations are transmitted to the back of the nose. What should I say...a subtle pleasure. I enjoyed my voice opening up to my own new sence,while thinking that it may be not time singing as I was so busy.
Sep 26, 2019
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今日もほぼ終日仕事場に。作品の支持体を作る。思い通りのものができた。こんなにすんなり行くとは想っていなかった。まだまったく筆を入れていないが、イメージの大半ができたようなものだ。【下の写真は、私の作品『Contemporary Eve』を観る韓国の観客】
Dec 5, 2018
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昨日は午後に民生委員・児童委員の会議に出席。今日は高齢者の安否を問う訪問、6件。 きのう会議の帰りに八百屋の前を通ると、小さな末成(うらなり)の胡瓜がたくさん袋詰めにされているのが目についた。おっ! あれでピクルスをつくろう。 というわけで、今朝、朝食前にちょこちょこっと作業してピクルスを一瓶漬込んだ。昼、バゲットとチーズに添えて食べてみた。まだ少し浅いが、おいしかった。 庭の柿がだんだん色づいてきて、鳥が啄んでいる。半分ほど食べると枝から落ちる。この時期になると、この半欠けの柿を拾い集めるのが朝の日課になる。やれやれ、全部食べてくれるといいのだが、と思いながら---。それにしても良い目、良い嗅覚をもっている。赤く熟している実だけを選んで食べている。おりこう、おりこう。 【参考:私のピクルスの作り方】(1)保存瓶を煮沸消毒しておく。(2)ピクルス液を作る。→(瓶の大きさによって分量を加減)1ℓ瓶に対し純米(穀物)酢1.5カップ、水1カップ、砂糖(私は少なめに)9g(スティックシュガーなら3本)、塩(これも少なめに)5ccスプーン1(中匙1)、黒粒胡椒6〜7粒、あればローリエ1、を煮立てる。(黒粒胡椒とローリエをやめて、唐辛子1〜2本にする場合もある)(3)野菜(胡瓜、大根、人参、ベビーコーン等好きずきに)を洗い、ざっと茹でる。(4)茹でた野菜を水切りし、雑菌がつかないようになるべく手早く瓶に詰め、液を満たして密封する。 私の場合は、自分の健康を考えて砂糖と塩を少なくしています。粒胡椒や唐辛子で味にめりはりができますから、それで充分です。
Aug 29, 2018
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Tadami Yamada"I Believe Humanity ; No.1,2,3,4,5"2018. Oil on canvas山田維史『私は人智を信じる; No.1,2,3,4,5』2018年 キャンヴァスに油彩
Aug 5, 2018
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昼前2時間ほど自治会主催の消火栓使用の消火訓練および家庭用消火器を使用した訓練と、引続きAED(自動体外式除細動器)を使用しての応急手当の実施訓練を日野消防署の指導のもとに受講した。 私はすでに3年間、毎年受講して来たが、緊急の現場ではとかくあせってしまうものだと自分に言い聞かせて、機会があれば何度でも実施訓練を受けている。民生委員としてどんな現場に対応しなければならないか予測がつかないからでもある。【消火栓の使用】 街路等に埋設されている消火栓にスタンドパイプを取り付け、ホースをつなぎ、ノズルの装置を取り付け、「放水始めー!」と大声で後方に伝え、右手でしっかりノズルパイプを握って腰に当てて支え、ノズルを開放する。放水。 ノズルレバーを一杯一杯開放すると水はシャワー状になる。 この水の状態はいかなる場合に適応するのかを、私は質問する。答え。もちろん、一本状の放水が消火効力はあるのだが、炎や火の粉が広がって熱風が自分に向かってくるようなときはシャワー状にする。 ----「放水止めー!」の掛け声を後方に伝えて、終了。ホース内の残水を抜き、巻き取り、スタンドパイプを外し、マンホールの蓋を閉める。 ----その後、ホースの劣化とカビを防ぐために完全乾燥する。長大なホースをまっすぐにのばした状態で吊るすことは一般建造物ではほとんど不可能なので、消防署に依頼すれば乾燥してくれるそうだ。 たまに消防署の前を通ると庁舎の最上階から何本ものホースがぶらさがっているのを見かけることがあるが、ホースを乾燥させているのですね。【家庭用の消火器】 次に家庭用の消火器。これは消化薬の容量がおよそ10秒くらいしかもたないそうだ。そのため火元近くまで運んでからピンを抜き、ノズルを持ち、レバーを引く。放水が始まる。火元の手前から地面を箒で掃くように撒きながら火元に近付いて放水する。 ----炎の高さが自分の身長を超えたら、自力で消火は不可能と見極めて退避すること。【AED の使用法】 AEDの使用法については東京消防庁発行のリーフレット画像を以下に掲載する。----じつは、このリーフレットは私の外出時のバッグのなかにいつも入れてあるのだ。もちろん、いざという時に、読んでいる時間はないけれども、念のためである。
Nov 3, 2017
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9月14日9時35分、日野市強い揺れの地震。約30秒。
Sep 14, 2017
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午前中にパリにおける国際アートフェアのための作品を出荷。 その後は終日、韓国展のための作品制作。この作業はまだまだ1ヶ月つづく。 ここ数年、毎年のように韓国で作品を発表してきた。小品ながら韓国の画廊が購入してくれもし、注目してくれている観客もいる。アメリカでの展覧会にまで韓国から観に来てくれているとは、プロモーターからの報告だ。 韓国語を勉強しようと思いながら、なかなか身を入れられない。難しい言葉だ。実は制作をしながら、チョー・ヨンピルさんが歌う韓国語の「釜山港へ帰れ(돌아와요 부산항에 ; トラワヨ・プサンハン・エ)」を聴いている。発音がなかなか難しいが、どうやら1番2番共に憶えた。 YouTube で韓国のカラオケ(노래방 : ノラエバン)を探し、歌えるまでになった。歌えるまでになったけれど、文法を知らず単語さへ逐語訳で意味を知って、チョー・ヨンピルさんの映像の口に合せて丸呑み込みで記憶に叩き込んだだけなので、ときどき、1番の途中と2番の途中が入れ替わったりする。つまり詞の内容を言葉の正しい理解で憶えていない証拠である。要するにゴロで憶えているというか、口回しで憶えているだけなのである。 そして、こんなところで、老化を認識している。記憶するまでに時間がかかりすぎるくらいかかるのだ。日本語で憶えるのとはちがい、言葉からイメージを導き出せないからで、自分の発音に具体性がない。いうなれば、流れている霧や雲をつかまえて記憶しようとしているようなもの。 でも、制作の手をときどき休めて作品をながめながら、「コッピーヌン・トンベックソーメ・ボーミ・ワッ・カォーンマン」と、口ずさんでいるのである。
Sep 10, 2017
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午後5時、きょうの制作を終了。下図を拡大し、すでに1週間ばかり以前に地塗りしておいたキャンヴァスに転写。その後、1年程前から試行していた新たな技法のための仕掛けをほどこした。1日乾燥させて2回目の仕掛けをほどこし、それ以外のところに並行してプリミエール・クーシェにはいることにする。 オリンピック------------ 競泳男子800メートルリレー(萩野公介、江原騎士、小堀勇気、松田丈志)で銅メダル。この種目でメダル獲得したのは1964年の東京オリンピック以来だという。 同じく競泳男子200mバタフライで坂井聖人選手が銀メダル。優勝はマイケル・フェルプス選手(アメリカ)、1分54秒36。坂井選手は1分54秒40。なんと0.04秒差の勝敗。 この坂井選手はすごかった。150mでターンしたときは6番手だった。フェルプス選手は力強い泳ぎで終始トップ。坂井選手にメダルはとどかないかと思った私はまことに失礼きわまりなかった。ものすごい追い上げ。ゴール手前5mあたりで、フェルプスを抜くか!と思ったが、まさにタッチの差でフェルプス選手に金メダルを攫われた。 ちなみにフェルプス選手のオリンピック金メダル獲得数は歴代最多の通算21個だそうだ。「怪物」と称されるゆえんだなー! カヌーのスラロームで羽根田卓也選手が銅メダル。カヌーではアジアで初のメダリスト。 柔道男子81キロ級で永瀬貴規選手が銅メダル。
Aug 10, 2016
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女子サッカーの2015年W杯に向けて、なでしこジャパンが始動した。キリン・チャレンジ・カップ、対ニュージーランド戦。なでしこジャパンの国内試合は1年ぶり。開催地は佐賀県鳥栖市。九州地区での国際サッカー試合が開催されるのはこれが初めて。 先発メンバーとフォーメーションは、GK福本、安藤・大儀見のツートップ、キャプテン宮間・川澄のFW、澤・坂口のボランチ、有吉・岩清水・熊谷・宇津木のフォーバック。【前半】11:30 大儀見ミドルシュート。ネットやや上。14:45 グレゴリウスのシュート。ネット左へ大きくそれる。17:00 右サイド大儀見からゴール前の安藤へのロングパスはゴールラインを割る。18:00 日本FK。大儀見、直接シュートで狙うも通らず。21:00 左サイドから有吉ピンポイント・センターリング・クロス。大儀見、走り込んでシュート。ゴール! 先制の1点。キャプテン宮間片脚をひざまづいて大儀見のスパイクシューズを磨くパフォーマンス。25:00 右サイド川澄からロングパス。宮間、走り込んでシュート。残念、ネット上へ。29:00 宮間にイエローカード。 ニュージーランドFK。32:00 アシール、右から強烈シュート。福本、みごとにセーブ。36:00 澤、イエローカード。40:00 ハーン、シュート。福本キャッチ。44:00 宮間にレッドカード、退場。(アディショナル・タイム1分)【後半】 日本、メンバーチェンジ。GK福本に替わって海堀。06:00 オスカーのシュート。海堀、跳んで指先ではじく。はじいたボールをグレゴリウスがシュート。海堀ふたたび見事にセーブ。06:30 ホイルがミドルからシュート。海堀セーブ。09:40 ヤロップのクロスボールを海堀キャッチ。14:00 澤out、田中明日菜in。 安藤out、大野in。19:40 グレゴリウス、シュート。海堀キャッチ。21:00 ヤロップout、ロンゴin。38:00 ニュージーランド16番からのクロスをロンゴがシュート。ゴール! なでしこ、クロスをフリーにしてしまい、一瞬のスキを突かれた感じ。38:30 ウィルキンズout, ロゴンズin。40:00 丸山ドリブルで上がりパス。坂口、落として大儀見シュート。ニュージーランドGKセーブ。(アディショナル・タイム4分)45:00 コリンズ抜け出してゴール前へ走り、そのままシュート。はずれる。試合終了 1−1の引き分け。
Jun 20, 2013
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今夜は皆既月食。もうまもなく暗月になります。今(23時6分)なら間に合いますよ。夜空を見上げてごらんください。
Dec 10, 2011
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午後3時、たったいま、故清水先生の奥様から電話を頂戴した。奥様のお声を聞いたとたん、私は、はからずも涙がどっとこみ上げて、声にならなくなった。奥様は「長い間、いろいろご厄介をおかけしました。ありがとうございました」とおっしゃり、私は「ご指導をたまわり、ありがとうございました。奥様、どうぞお元気でお暮らしくださいませ」。 「悲しくなりますから・・・」と、奥様は電話を切られた。 先生と同じなのだ。奥様も何事にも遺漏なく、きっちりと帳尻をお合わせになる・・・
May 29, 2011
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永の別れをした清水和彦先生との思い出をたどっていると、先生は、私をひょろひょろ痩せた、か弱い少年と思っていられたようだが、本当にそう思っていらしたかどうか。少年時代から私のなかには、見かけとは全然別な激しい気性があった。 中学2年生のときだった。先生が顧問をしてらした新聞委員会のメンバーだった私は、激しい気性をあらわにして教員室に乗り込み、私が書いた新聞用の記事原稿を先生の机に叩きつけたことがある。 何の記事だったかは忘れたが、新聞発行日が近づいているのに、私が原稿を書いていないと、先生に責任を追及された。私は、時間に厳格、締め切りに遅れたことなどなく、その記事もすでに何日も前に執筆し、部室の棚に入れておいた。私の原稿が無いという先生の言葉が信じられず、部室に行って棚を探してみたが、たしかに私の原稿だけが無いのだった。 私はもういちど部室の隅々までさがし、最後にはゴミ箱の中身までひっくりかえしてみた。なんと、私の原稿は鉛筆で真っ黒に塗りたくられてゴミ箱に捨てられていた。 その汚された原稿を持って、私は教員室へ向かったのだった。 「こういう状態で、ゴミ箱に捨てられてありました!」 原稿を叩きつけると、私は振り向きもせず教員室を出た。 このことがあって後、私はそのまま新聞委員をやめてしまった。3年のとき、生徒会副会長だった私に、放送委員会の顧問だった英語教師のN先生が声をかけてきた。「新聞委員会をやめたそうだが、放送委員会にきて活動してくれ」 私は、「よし、面白い事を、やってやろうじゃないか」という気持ちになった。新聞は、タブロイド判の活版印刷で、中学校新聞コンクール優秀賞を受賞するなど優秀であったが、たしか季刊か2ヶ月に一度の発行。放送は毎日の昼休み時間だったから、ニュース性がある事件は新聞よりいち早く伝えられる。私はオープン・リールのテープ・レコーダーをフルに使った。テープ・レコーダーは一台きりしかなかったので、取材テープの編集は、テープの必要部分を鋏で斜めにカットしてセロテープでつないだ。学校備品の教材用録音テープは、たちまち私の手で寸断されてしまった。(私は、こういうところ、まったく無頓着だ。もちろん学校の許可など取るつもりもない。だって、教材は、生徒のものでしょう?) こうして、私は、清水先生が率いる新聞委員会に無意識に対抗していたかもしれない。私は、自分で台本を書いて放送劇も作った。 ところで、教員室で原稿を叩き付けた事件は、後にもうひとつの事件をひきおこした。運動会か全校マラソン大会がおこなわれた日の放課後のこと。私はそれを翌日放送するために、例のごとくテープ編集をし、下級生の部員は全員早く帰宅させ、さて自分も帰ろうと、放送室を出たところで、C先生に呼び止められた。先生たちは慰労会でもしていたのであろう、C先生は少し酔っていた。そして、あの原稿叩き付け事件のことを言い出したのだ。先生は、こう言った。 「君は清潔で真っすぐだ。しかし、その君でもだ、大人になれば、泥水を飲むようになるんだ」 酔っているC先生は執拗だった。 校長先生が出ていらした。「C先生、もう山田君を帰してあげなさい」 ・・・C先生は、まるで火に油をそそぐように、私のはげしい気性を燃えあがらせたことに気づいていたろうか。先生は知らなかったのだ、私が倫理観においてすでに少年を卒業していたことを。 それからほぼ一年後、高校生になった私は、清水先生に勧誘されて童劇プーポの同人になった。そして初舞台の『おんにょろ盛衰記』で清水先生と共演した。そのなかのセリフに、私が演じる村人が、先生が演じる村人に向かって、「この、ど阿呆!」と、こきおろすシーンがあった。いやいや、やりにくかったこと! 清水先生は、体育の教師。じつは、私の苦手な教科は唯一体育だった。当時、成績通知表は5段階評価で、ほかの教科はすべて5なのに、体育だけが3。それが卒業時にオール5になっていたのは、・・・先生、あれはオマケだったのでしょうか? ・・・とうとう聞きそびれてしまった。 清水先生が私をどのように見ていらしたのか、じつのところ私にはまったくわからない。まだ先生の生徒だった当時、先生から葉書を頂戴したことがあった。たしか、どの保存箱かに残っていたはずだと、さがしてみたが見つからなかった。そのかわりのように、中学時代の原稿が25点出てきた。放送劇として書いた『杜子春』や『阿修羅」、生徒会役員立候補演説の原稿もあった。 ところで、原稿叩き付け事件から47年後、平成17年 (2005) 、会津若松第三中学新聞部OBが主催する清水先生の喜寿を祝う会が開かれた。私は高校卒業以来43年ぶりに会津へ出かけ、先生にお目にかかった。その会が終わって、後輩の関君に誘われ、中学2年以来の再会となった一年先輩の若林さんなどと近くの酒場に飲みに行った。 その席で、したたかに酔った若林さんが、意外なことを言った。学校のグラウンドに夕方になると沢山のコオモリが飛んだ、と話しはじめたのである。それは私にも思い出があった。手拭の先端に小石を包んで空中に放り投げると、手拭にコオモリが引き寄せられて、地上に落下することがある。それを捕まえて、紙箱に入れて飼っていたことがあるのだ。 若林さんの話はつづく。新聞部の部室にもコウモリが飛来したことがあり、それを誰かが手近にあった原稿で叩き落とした、と。原稿は血で汚れたのでゴミ箱に捨てた、と。 ・・・・ そういうことだったか。それが、私の原稿だったのだ。 私は、47年ぶりに、事の真相を知ったのである。 先日、関君が先生の逝去を電話で報せてくれ、そのすぐ後に、若林さんが電話をくれた。さらに劇団のMさんからも連絡があり、小津安二郎の映画ではないが、在ったものがひとつづつ消えてゆくことを、しみじみと感じたのだった。 「さよならいたします」・・・この言葉を、わたしはすでに何度も口にしてきた、と思いつつ・・・ あっ、そうだ、思い出した。 2007年の晩秋、童劇プーポの創立50周年の祝賀会に出席するために、私はふたたび会津に出かけた。公演を観て後、ロビーで清水先生や旧知の劇団員に会い、その後、彼らと別れて小雨の中をひとり鶴ヶ城址を散策し、ホテルにチェック・インするまでの時間を市内巡りをした。夕方、祝賀会に出て、帰り際に清水先生が、「明日、オレん所で昼の食事を一緒にしよう」とおっしゃった。 翌日の昼、先生宅を訪問し、奥様の手料理を頂戴した。そのとき奥様が、昨日の観劇後、私をひとりで帰してしまったことについて「どうして皆と一緒に弁当を使おうとお誘いしなかったんですか」と先生をたしなめられた。すると先生は、こう言ったのだ。 「山田君は、一人で放っておいたほうがいい人なんだ」 私は、頬のなかに笑いをかみ殺した。そこには79歳と61歳の男ではなく、教師と中学生がいた。 そうか、そんなふうに私を見ていらしたのか・・・いま、私は気がついた。 先生、ほんとうに永のお別れです。4年前にふたたびお目にかかっておいて良かったです。二度とお目にかかれないのですから。さようなら。
May 28, 2011
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たった今、会津若松在住の中・高時代の後輩関君から、恩師・清水和彦先生が亡くなられたと電話があった。絶句。 清水和彦先生については、このブログで何度か書いてきた。私の会津若松第三中学時代の体育教師。そして同校で私が属していた新聞委員会の顧問。また、私が高校1年になると、ご自身が創立者であるアマチュア劇団・童劇プーポに同人として勧誘してくださった。その年の秋に、私は木下順二作『おんにょろ盛衰記』で舞台に立ち、清水先生と共演した。以後、ミハルコフ作『いばりや兎』で主演、次いで『アンクル・トム物語』と、俳優をやらせてもらった。さらに高校3年の大学受験準備中に、多田徹作『カレドニア号出帆す』の制作にたずさわった。 (註:なんという偶然であろう。私は今朝の新聞で、児童演劇運動に尽力された劇団風の子の創立者・多田徹こと岸亨氏の逝去を知ったのだった。『カレドニア号出帆す』は氏の代表作である。また、同氏は清水和彦先生とも昵懇で、劇団風の子と童劇プーポは長年にわたる交流がある。) 私は高校卒業と同時に東京に出てしまい、会津に親類縁者がいたわけでもなかったので以後45年間というもの会津との交流はなくなってしまった。私という人間はまったくどういう人間だろう。若い頃は、文字通り未来しか見ていなくて、猪突猛進とでも言おうか、後ろを振り返ったことがなかった。そんなわけで、私の消息が途絶えてしまった清水先生は、その後、私の行方を探したのだそうだが、私の方はそんなこととは露知らなかった。 じつは7年くらい前、たまたまインターネットで後輩の名前をみつけた。もしやと思い、電話してみた。それが冒頭で述べた関君である。関君はすぐに清水先生に連絡し、先生が私に電話してきたのだった。 「さがしたんだ。手紙出しても返ってくるし、もしや、死んだんでねべかと思っていたんだ。昔は、ひょろひょろして、か弱そうだったからなー」 受話器から聞こえてくる先生の声は、45年前とまったく変わっていなかった。そのことは、一種の衝撃だった。 翌平成17年、中学時代の新聞委員会の面々が集まって先生の喜寿の祝賀会を開くとの連絡があった。私は先生に電話して、「お会いしに、会津に行きます」と伝えた。「待ってるよ」と先生は言った。 それから慌ただしく、清水先生から私の消息を聞いたと手紙をくれていた童劇プーポの先輩女優にも連絡すると、「山田君、浦島太郎だわよ、きっと。私が案内してあげる」と言うので、再び先生に電話して先生の自転車をお借りすることにした。 いざ、その日が来て、45年前の面影をさがすのも難しい会津若松に降り立ったのだが、なんとなんと、清水先生は私のために新しい自転車を購入して用意していてくださったのだ。私はそのピカピカの自転車に乗って、祝賀会の時間まで、市内巡りをした。 かくして年に2、3度の手紙のやりとり電話での会話が再開された。また、童劇プーポ創立50周年の折には、その記念パンフレットの表紙絵とデザインをプレゼントさせていただき、再び会津を訪れもし、先生のお宅で昼食をご馳走になった。 そして昨年、2010年7月、先生から1冊の文集が届いた。『〈演劇と教育〉と演劇教育と ー 付・私の半生と年表』と題され、中に、「皆様のお力添えで、2009年に中寿を迎えることができました。感謝の気持ちに代えまして、僭越ではありますが、この一冊をご笑納いただければ幸いです。」と認めた書状が挟み込まれていた。表紙には、表裏ともに、私の昔のペン画と木版画を使用されていた。 すぐに電話すると、「人生のまとめだよ」と先生はおっしゃった。 「第一幕はこれでいいとして、第二幕がここから開きますよ」と私は言った。 その秋、先生から会津みしらず柿が送られてきた。 そのときから7ヶ月。 ・・・きのう、きょう、私は先生に電話しようかなと、ふと思ったのだ。それから、荒俣氏との対談を掲載した雑誌をお送りしようと思いながら、老母の看護に明け暮れてまだだったことを思いだした。 ・・・ああ、それにまた、なんということか。私は、きのうのブログで「人生の締めくくり方について」を書いたばかりではないか。そのなかで、近年、知人に「まだまだ」と喝を入れる役目をしていると言った。清水先生のことも考えていたのだった! 先生、おみごとな人生でした。みごとに一貫した人生を歩まれ、きっちり帳尻を合わせられましたね。 私が高校受験に合格して、その日、両親のもとへ帰郷するために駅へ向かっているとき、中学校の前を通ると、先生が体育着姿でテニス・コートの前にいらした。私が通りから、学帽を取って、それまでの坊ちゃん刈りから坊主頭になったことを示すと、先生は「オオ!」と笑いました。そのときの光景が、いま、ありありと目に浮かんで来ます。 さようなら。ありがとうございました。
May 24, 2011
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仕事場のかたずけもすんで、新しいコンピューターの設定をした。さすがに快適である。これからしばらく遊んでいるうちに、手になじむだろう。旧機種にはなかった音楽制作アプリケーションがあるのも楽しみ。旧コンピューターは、処分せずに、LANで接続して家人用に使おうと思う。いま、机の上には新旧2台のコンピューターが、ならんでウインドウを開いている。
Feb 19, 2011
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エジプト国民は、独裁政権を30年の長きにわたって維持してきたホスニ・ムバラク大統領を辞任に追い込み、民主化革命を達成した。チュニジアにおける民主化市民革命につづき、いわば連鎖作用のように始ったエジプト国民のデモであったが、2週間有余、ムバラク派の対抗によく耐えた。死者も出たようではあるが、非暴力による無血革命といってよかろう。 成功の予感はあった。衛星放送によって各国のテレビ映像を見ていると、当初から軍がデモ隊を暴力的に排除することはせず、むしろ市民を周囲から保護しているようだった。独裁強権国家における軍は、おおむね権力維持の手先となって、場合によっては大量殺戮を辞さない。それがこのエジプトではむしろ政権打倒に傾いていることが、街頭デモを撮影した映像からもうかがえた。そのためもあったであろう、ムバラク支持派の暴力によって死者が出ると、民衆の心は、ここで引き下がっては犠牲者の死は無駄死にになるとばかり、一層結束していったようだ。 デモに結集した市民は、文字通り老若男女を問わなかった。そのため、国民が抑圧によっていかに苦しんで来たかをみせつけていた。国民一般の暮らしぶりと、国有財産横領の疑いさへ出て来ているムバラク大統領一家の豪勢な暮しぶりとは、比較を絶していたと伝えられている。ある人は、「ムバラク大統領は、どこか他の国のひとのような生活をしている」と、インタヴューに応えていた。 チュニジアとエジプトとの民主化への道は、大統領を退陣させたとはいえ、今後、なお困難を予想されている。アラブ諸国には他にも長期独裁政権があり、それらの国々との関係もあろう。それらの国の独裁者は、いまや革命の気運が飛び火することを虞れているにちがいない。国民への締め付けが行われないとも限らない。伝達メディア、なかんずくインターネットへの規制がおこったときが、それだろう。いまやインターネットは市民革命の最大の武器であることが明らかになったからだ。 とにもかくにも、エジプト国民の勇気を讃え、民主化実現に向けて大きな一歩を踏み出したことに祝意をおくりたい。
Feb 12, 2011
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Jan 1, 2011
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きょうはこの日記は休みます。殻に閉じこもって夢想します。 「胡桃の殻の中に閉じこめられても、私には広すぎる。その中で私は、無限の大宇宙の支配者だと思うことができるのだ」 シェークスピア『ハムレット』第2幕第2場より。 山田維史《くるみ》 紙に鉛筆
Nov 14, 2010
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建学130周年を迎えた東京薬科大学の東薬セミナーに行ってきた。毎年、学園祭「東薬祭」のひとつのプログラムとして開催されている。この講演会に参加して、薬学・生命科学の先端研究の梗概を、当事者である教授から聞くのを、私は楽しみにしている。 理工系、そのなかでも医学、薬学、生命科学の分野は、直接的な社会貢献を目的として、弛まざる研究・発見そして実際治療の、まさに最先端でしのぎを削っている。その研究当事者である教授の講演なのだから、おもしろくないわけがない。 さて今回は、第1部が、薬学部製剤設計学教室・岡田弘晃教授による「がん、糖尿病、アトピー性皮膚炎を治す新しいクスリ:DDS(薬物送達システム)を用いた新薬の創製」。 第2部が、生命科学部ゲノム情報学研究室・深見希代子教授による「皮膚からのメッセージ」。 私は、第1部は残念ながら聴講できず、第2部に文字通り汗だくになって駆けつけた。 深見希代子教授の「皮膚からのメッセージ」は、皮膚の局所的な遺伝子欠損が白血病などの全身疾患を誘導するという、そのメカニズについてマウス実験から解析した研究、および、京大の山中博士のiPS細胞による再生医療の現状までの講義であった。 私がどこまで理解したか、講義の全容を書くことで検証したいところだが、なにしろいまは時間の余裕がない。昨年も同様で、結局このブログに講義の紹介はできなかったと記憶する。まあ、自分の頭のなかに入っていれば、それでいいのだが。・・・私のリフレッシュでもあるわけです。
Oct 31, 2010
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残念、日本敗退。まさに死闘のすえPK戦にもつれこむも、5対3でパラグアイの勝利、8強入り。
Jun 29, 2010
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日本、敗れる。 後半8分、オランダのスナイデルのミドルシュートが見事に決まって1点を先制される。ようやく日本チームに火がついたようだが、それは相手も同じ。勢いが増した。 日本は松井に替えて中村俊輔を投入するも、中村にボールが渡らない。ゴール・チャンスは何度かあった。しかし決まらず、1点を挽回できずに試合終了した。 守備は良い。攻撃はどうした! オフェンス・ラインがほとんど上がって行かないではなかったか。それでは点を取れるはずはなかろう。 闘莉王のデフェンスでの活躍、GK川島の活躍に拍手。
Jun 19, 2010
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日本対オランダ戦、前半0対0で終了。日本のシュート数5本、オランダは3本。日本善戦。ボールのポゼッショニングがちょっと少な過ぎか。後半に期待。
Jun 19, 2010
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日本、勝った! 対カメルーン戦は、1対0で4大会初の初戦勝利、勝ち点3をあげた。後半戦の終了間際、はらはら冷や冷やの場面もあったが、GK川島よく守り、またすべての選手良く集中した。 さて、次は19日、優勝候補でもある対オランダ戦だ。オランダはきょう、デンマークに勝っている。
Jun 14, 2010
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W杯対カメルーン戦、前半39分、右サイドから松井のボールを待ち構えていた本田が得意の左足でゴールに押し込む。日本の初シュートが決まった。そのまま日本リードで前半戦を終了。ただいまハーフタイム中。
Jun 14, 2010
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ただいま夜の11時10分を過ぎたところ。一日のぎっしり詰まった看護スケジュールがようやく一段落した。朝6時半からほとんど休み無しである。毎日のことだから、その忙しさについてはどうとも思っていないが、きょうは何だか「ヤレヤレ」という感じだ。 昨夕、老母の容態がいつもと異なるので、検温をしたところ、38.9℃という高熱であった。訪問医に電話をし、到着するまでの間に、鼠蹊部と脇下を冷やした。後頭部や額を冷やしても、あまり効果はないのだ。医師がスケジュールの空きをみて我家に到着したのは夜9時を回っていた。 さいわい大事には至らなかったのだが、夜中もときどき様子を見ながら朝をむかえた。 ...そんなわけで、きょうは通常の看護スケジュールにあらたにケアする仕事が加わった。私としては気を抜く暇がなかった。いくつかの仕事を同時進行しなければならなかったりで、じつは朝食は立ったまま食べた。ニューヨークなどのチャイナタウンで、忙しい商店のチャイニーズが、店先で立って食べているのを見かけるのは珍しくないが(私はそういう彼等に、ヴァイタリティーを感じたものだ)、私は自分の姿をそのような彼等に重ねてイメージした。それほど忙しかったのだ。
Jan 22, 2010
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老母がステント・グラフト手術をして今月で7ヵ月になる。6ヵ月目に術後の状態を検査することになっていたが、病院が遠距離のため、車で母を運ぶには体力的に無理であった。主治医に連絡して、検査をさらに1ヵ月延期してもらった。その日が迫っていた。しかし母の状態は、往復の時間やCT撮影・診察等をふくめて5,6時間も要する行程に安全に耐えられるという予測はむずかしかった。 ステント・グラフトの最高齢の手術例であるのみならず、その施術の歴史がきわめて短いために、術後のデータの蓄積がない。術後はたして何年保のか。3年か。5年か。10年か。それとも半永続的に挿入可能なのか。・・・母の場合は、90才なので、長い年月使用可能という保証は考えなくてもいいにしろ、血管が老化していくので、ステントを支えきれるかどうかも問題になってくる。 医学的なデータ・サンプルとしてはともかく、われわれ家族としてはやはりしかるべき検査を受けさせておきたいのだった。 さてどうしたものかと思案し、介護保険のケア・マネージャーや訪問医や看護士に相談した。すると餅は餅屋で、ストレッチャー装備の車で送迎し、CT撮影だけをしてくれる施設をみつけてくれた。家のベッドから寝たままの状態で病院に運び、すぐさま必要な撮影をして、そのまままた家まで運んでくれるというのである。 もちろん介護サービス事業のなかに寝台タクシーというのがあり、私も遠距離病院へはそれを使おうと思っていた。しかし、利用者が多くて、日時を限定した長時間の契約に応じてくれるところが少ないと言う実状だった。5,6時間の拘束となるとなかなかの高額でもある。 ところがこのたび紹介されたストレッチャー送迎付き病院は、送迎については無料なのだった。いや、無料だとは聞いていなかったので、じつはその料金を想定したお金を持参していたのだが・・・ というわけで、きょうは母のCT撮影に行って来た。携帯酸素吸入器を持って・・・。午後1時ちょうどに迎えにきてもらい、3時前にはもう母は自分のベッドに帰っていた。私はすぐに体温を測り、血圧を測り、容態に危惧する変化はないか確認した。 このようなサービスをしてくれる病院がどこの町にもあるのだろうか。あることを願わずにはいられない。ほんとうに助かった。 後日、撮影したフィルムを持って執刀主治医のところへ行って来る。
Jan 19, 2010
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東京西部地方は午後1時ころに初雪が降った。ものの数分で霙まじりの雨にかわったが、寒さは一層だ。庭の植木鉢の土の表面は氷の粒でおおわれている。地植の二株のシンビジウムの葉にも氷の粒が付着していたので、急いで新聞紙で覆い、さらにビニール袋をすっぽりかぶせた。 初雪や地植の蘭の葉の流れ 青穹 松過ぎて春迎えんとこの雪や 会津若松の旧友からのたよりに、毎日が雪だとあった。鶴が城も雪に埋もれていることだろう。 凍鶴(いてづる)の姿とどめん天守閣
Jan 12, 2010
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きょうは成人式なのだそうだ。「なのだそうだ」などと他人事に言うが、実際、家族にはもうその年齢の者はいない。 45年前の私自身の成人式についても、当時住んでいた東京の某区から案内状が届いたが、出席はしなかった。後日、祝の記念品として写真アルバム一冊が送られて来た。しかし、どうにも使い物にならない安っぽさ。さりとて折角贈られた品を右から左にゴミ箱行きにすることもできず1年ほどは本棚に立て掛けておいた。 ところが、事の成行きはわからないもので、そのアルバムが法学部法律学科の私がイラストレーターへ進路を変えてゆくキッカケになった。 あるときのこと、そのアルバムが邪魔になったので、ページをバラバラに壊して表紙を捨て、台紙を葉書大に切り、メモ用紙として机の隅に重ねた。 その頃、私は不眠症におちいり、幻覚を見るようになっていた。そんな状態から生まれたイメージをそのメモ用紙にいたずら書きのように描いた。何枚か溜ったころ、あらためてそれらを眺めているうちに、なんともヘタクソな絵だけれど独自性がある、と思ったのだった。 中学生のころから古典美術に関心をいだいて、画集はもとより展覧会にも足を運んで、それなりの勉強はしていた。美術史もひととおりは頭に入っていた。そうしたうえで、しかし若気の至りというのはスバラシイもので、「技術がないのだったら、それを身に付ければいい」と思ってしまったのである。進路変更の瞬間だったかもしれない。いや、たしかに進路変更をして、以来、40数年が経っている。 あの、成人式のどうしようもない安物の写真アルバムが送られてこなかったら・・・ ハハハハ、なんだか笑いがこみあげてくる。
Jan 11, 2010
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正月も三日。たくさんの賀状を旧友知人から頂戴した。 推理作家の折原一さん、お気づかい下さりおそれいります。 漫画家の小澤一雄さん、「山田さん! トランペットラですよ」というエール、ありがとうございました。 みなさん、ほんとうにありがとうございます。 漫画家の小澤一雄さんは、私とイラストレーター・漫画家としての出発がまったく同じ時期で、銀座の画廊で開催した最初のグループ展の仲間である。小澤さんは大のクラシック音楽通。後にクラシック音楽が氏の漫画の主題となり、いわば音楽マンガとでもいうジャンルを確立した。それによって読売漫画大賞を受賞している。 私も音楽好きなので、進む方向はちがっていたが心中では気に懸る旧知の人なのである。もう長い年月、顔をあわせていない。ことしの賀状の一筆のようなデリカシーに、まさに小澤さんの小澤さんたるお人柄がにじんでいるのを感じるのである。【小澤一雄さんの年賀状から】・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 子持つ家に洗濯物かかる三日かな 青穹 なにごともなくて嬉しき三ヶ日
Jan 3, 2010
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正月を迎える門松や鏡餅のおそなえがすんだ。例年だと今日あたりから年越しと正月料理の準備がはじまり、キッチンの大鍋の火は絶えることがない。父母の代、そして私の代にずっと引き継がれてきた暮れの行事である。料理品目もきまっていて、17品を用意する。この日近くになると、いつも母が居間のテーブルで買い出しのメモをつくり、書き上げると私に渡す。私はそれをチェックして、後日、市場へ買い出しに行く。 そして大晦日の夜、遠くに住んでいる家族もみなそろって我家にやってきて、大食事会となる。母にとっては、孫たちにお年玉をやるのが嬉しいのでもある。 しかし、この我家の長い伝統行事を、昨年はじめて中止した。年末に母が大腿骨骨折という思わぬ事態となり、正月明けに一か八かの大手術をおこなうことになったからだ。90才という年齢からして、体力的に手術に耐えられないかもしれないと医師から宣告されたので、家族は、もはや正月どころではなくなっていたのである。 そして今年も残り三日となって、相談の結果、ふたたび大食事会に家族があつまることを中止することにした。それほど1日の看護のスケジュールは込んでいる。とても私自身の心身が休まるときがないのである。そればかりではなく、母が静かな近頃の病床での生活から、大勢を迎えて興奮し、血圧がはげしく変動することを恐れるからである。その点については医師といえども予測がつかない。一気に血圧が上がって、大動脈再解離にならないとも限らない。「爆弾をかかえている」と、医師は普段からわれわれに言っているのである。 今日の午後、リハビリのための先生が来訪し、1時間程メニューをこなして帰られた。そのあとで、私は鏡餅や正月飾りを母のベッドまで運んで見せた。つねに何等かの刺激をあたえ、コミュニケーションをとることが大切で、寝たきり状態がつづくと脳が軟化しやすいのである。 母は、もうすぐ正月だということが初めは分らない様子だった。日にちの感覚がなくなっているからだ。しばらく鏡餅を見ていたが、それから嬉しそうに笑った。「もうすこしでお正月だよ」と言うと、「はい」と言った。「元気でお正月を迎えようね」「はい」 私が門扉の埃や汚れを洗い流し、門松を立てていると、隣家の夫人が顔をのぞかせ、「お正月ですものね」と言った。
Dec 28, 2009
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きょうは寝たきり状態の老母のための訪問入浴の日。この日は午前9時の入浴時間以前に終わっておくべきいろいろなことがあるので、私は6時ころから大忙しだ。心臓の外用薬を貼り、排泄の始末をし、一時間かけての経管栄養(朝食)を入れ、同じく経管で血圧コントロールの薬を入れ、新しいバスタオルや下着やパジャマやシーツを用意し・・・等々。そして入浴サービスの看護士を含む3人一組のチームが車でやってくる。 母は、長らく血圧が安定しなかったので、入浴させることができなかった。蒸しタオルで身体を拭ってやるだけだった。しかし、ようやく血圧が安定してきたので、12月から訪問入浴サービスを依頼し、週1回の契約をした。身体の清浄のためのみではなく、入浴によって心身の活性をうながす目的もある。 第1回目の入浴時には、日頃から母を看ている看護士も立ち合っての試行だったが、それが無事だったので週1回をつづけることにした。 このチームは実によく訓練していて、9時に到着して10時に帰ってゆくまで、すばやい流れるような仕事ぶりである。初めてそれを見た私は、感嘆しながら、ただただ邪魔にならないように部屋の隅に立っていたのだった。 このサービスは、前もってこれまでの母の状態を詳細に知ってもらい、・・・大腿骨転子部に金具が入っていること、腹部大動脈瘤のステント・グラフトをしていること、急性大動脈解離で1ヶ月半前に51日間の入院から帰宅したこと、日常の服用薬の種類、酸素吸入や経管栄養や、小水排泄管のこと等々・・・身体状況に合った入浴方法を相談することから始る。彼等は我家の間取を調べ、電源、給水、配水、排水を設定する。 当日。ベッドのわきに防水シートを敷き、浴槽を運び込み、寝た状態で入れるためのゴム製のハンモックを、浴槽に取り付けた金属枠に設置する。二人がその準備をしている間に、看護士が体温や血圧を測定し、爪の手入れをしたり蒸しタオルで洗顔したりする。 母はハンモックに寝たまま、浴槽に折畳式に附属している洗髪用ベースで髪を洗ってもらい(ちょうど美容室のように)、身体を洗ってもらう。長湯はできないので、ものの15分ほどなのだが、3人はそれぞれ別な仕事をしながらも見事にシンクロして、母に声をかけながら丁寧で素早くゴールにむかってゆく。母は眠るように目をつむって安心して身体をあずけている。しかもこの間に新しいシーツでベッドメイキングされる。 ベッドにもどると再び看護士が血圧を測定し、ほかの二人はあっと言う間に浴槽や器具を洗浄し、器材を車に運び入れる。 まさにプロフェッショナルである。私はチームを送りだし、気持よさそうに眠っている母の顔をのぞきこむのである。
Dec 9, 2009
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Jポップスのグループ〈チューブ〉の話ではない。老母の鼻に挿入した経管栄養摂取のためのチューブのことである。このチューブはもちろん二六時中挿入されていて鼻や顔に医療用粘着テープで留めてある。それが・・・ 深夜2時、明りをつけてベッドの母の様子を見た。なんと酸素吸入用チューブと経管栄養用のチューブが引き抜かれているではないか。睡眠中に、その邪魔っヶな物を、無意識にピューンと引き抜いてしまったのだ。鼻腔を通過し、食道を通って、胃まで約50cmの長さのチューブである。入れるときは、痛いし、苦しいし、さんざんな思いをしているはずなのに、その異物を引き抜くとなると、不快を除こうとする意識(たとえ無意識のうちであろうと)が痛みを凌駕するのかもしれない。・・・抜かれたチューブはベッド脇の床下に落ちていた。 母への装着前に、看護士さんが自らの経験から、「患者さんのなかには、ピュ~~ンと抜いてしまう人がいるんですよ」と言っていた。まさに母はそのようにやってしまったのである。 私は、朝の栄養剤や薬液投入のことがあるので、6時になるや看護士さんに電話をして再挿入してもらうことにした。しばらくして看護士さんがやってきて、「やはりやってしまいましたね」。 再び苦しい思いをさせてチューブを挿入したが、当面の異物感がおさまり精神面の落着きをまつため、朝の「お食事」は9時までまつことにした。そして、万が一の危険を考えて、可哀想だが両手にミトンをはかせることにし、すぐに品物を注文した。 午後5時、ミトンがとどけられた。玄関でそれを受け取り、母のベッドにもどってくると、なんとなんと今まさに母はチューブを鼻から引き抜いたところだった。右手でひっぱって、全長1メートルほどの物を高々とかかげている。 「あららー、また抜いちゃったのー!」 私のことばに、母は低い声で「ハハハ」と笑った。 「ハハハじゃないんだけどなー」 その行為を予防するためのミトンを受け取っているほんの数分間、まるで笑い話のようなことになってしまった。 またまた看護士さんに御来駕を願う。「今日は一日中おつきあいをしましたね」と笑いながら。 ミトンを装着され両手の自由を奪われた母は、一心にミトンをはずそうと格闘していた。それはいわば火事場のバカ力のような感じで、ロックされた手首を無理矢理引き抜こうとするあまり骨折しかねない勢いである。理屈を聞き分けるような精神状態ではない。どうやら去る8月の高度救命救急医療を受けていたときの拘束状態を思いだしていた。あるいは、そこに戻ってしまったのか? 今いるベッドが自宅ではなく病院だという想念におちいっているようだった。 私は手首の骨折を心配し、ミトンとパジャマの袖を縫い付けた。手をひっぱってもミトンから抜けないようにした。もちろんそのミトンは介護用品として工夫されているので、普通は抜けることはないはずなのだが、痩せ細った母の手はもしかしたら・・・と思ったのだ。 私はベッドを少し起して、母の背と膝とを抱きかかえて、 「いじめてるんじゃないんだよ。こうやってだっこしているからね」 「にいちゃんは優しいね」と母は弱々しく言った。そして、「これを取って。起上がらせて」 「だめだめ。苦しいよね。でも、がまんしてちょうだい」 すると母は怨むように私の目をみつめながら、「にいちゃんは、頼りにならない」と言いきった。 午前0時過ぎまで格闘がつづき、ヘトヘトに疲労して、ようやく母は眠りについた。 散るもみじ宙(そら)に群する金魚かな 青穹 母の手の痩せ細りたる秋深し
Nov 17, 2009
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急性動脈解離で51日間の入院治療していた老母が退院して11日でちょうど1ヶ月が経った。在宅医療のための環境つくりをし、訪問医と訪問看護士との契約をした。看護士は2日以来、毎朝訪れて血圧測定、検温、血中酸素濃度のチェック、その他、私たち家族の手におえぬことをやってもらっている。 しかし、51日間の寝たきりの入院生活でさまざまな機能が衰えており、毎日毎日体調のダウンとアップの繰り返しである。家族をもっとも悩まし、努力が追いつかないのは、食事の嚥下機能の極度の衰えにより食事に対する恐怖心から食物を口にいれたとたんに喉が痙攣のような状態になり、食事を拒否するようになってきたことだ。それにより心身が飢餓状態におちいった。家族は、摂取した食事メニューとそのカロリーを記録し、努力したのだったが・・・ 12日の午前0時過ぎ、譫妄状態になり低い声で絶間なく何事かを喋り、ときに笑い、ときに歌のようなものを口ずさみ始めた。驚いた私は一晩中見守っていたが、その状態は朝7時ころまでつづいた。一睡もしていない。 翌13日の午後、経口栄養摂取から鼻に管を入れての経管栄養摂取に切換えた。この方法は、食事(経管用栄養液剤)のみならず薬も粉薬を白湯に溶かして注入できる。私が毎食のメニューを考えて調理する手間も時間かからず、また一度の食事にほぼ1時間をかけて食べさせていたときの心労から解放されることになった。しかし、また、こればかりは看護士さんのお世話になるわけにはゆかないので、実行を前に技術指導と注意すべき事項をおしえてもらった。まかりまちがえば危険がないわけではないのだ。基本的には点滴と同様なのだが、胃に直接入れるので嘔吐や逆流がおこりうる。半身を25度に傾斜させ1時間ないし45分かけて所定量を入れてゆく。終了後も逆流をふせぐために20分ないし30分は半身を起した状態に保っておく。また、それ以前の準備として、聴診器で胃の音を確認するため注射器を導管に挿入して15ccほどの空気を送りこんでみる。これは鼻から挿入した導管がちゃんと胃に到達しているかを確認するためで、到達していると、空気を送り込むと胃のなかでブクブクという音がする。音がすれば栄養剤なり薬液なりを注入開始する。これを毎食かかさずおこなうのである。 このようにして老母の看護は新しい事態に入った。きょうまでまる二日経過して、状態はやや回復したかに見える。 さきほど午後17時ころ、主治医のお二人が来られ診察をした。 老衰という生命の避けられないデクレッシェンドに母自身がもてる生命力によってどのように対抗してゆけるか、そして医療がどれだけそれをサポートできるか、また家族がどのような考えでそれらの事態に対処しサポートするか・・・そういう問題なのである。
Nov 14, 2009
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首相夫人がオカルティックな事の信奉者だと報じられている。それがどの程度の心象呪縛の信奉かは知らぬが、レーガン元米国大統領の夫人も同様にオカルティックな傾向があり、彼女の場合、重大な曲面に立たされると卜占に頼ったと言われている。 芸能ジャーナリズムなどは、首相夫人のそのような精神的な傾注を、あきれながらも面白がっている。しかし、一国の首相夫人としては、これは危惧すべきことである。彼女のこの反理性的な精神傾向に呪縛された言動が、首相である夫に対してどれほどの影響力をもっているかは分らないが、夫婦としてまるきり水と油であるとも思えない。今の日本の国政が、首相の権力だけで維持される仕組ではないので、夫人のオカルティックな御託宣が国政に反映してくるとは考え難いけれど、夫人のファースト・レディとしての国際的な役目を考えると、その存在から発するものは彼女自身の想像をはるかに越えているはずだ。それは陰ながらの嘲笑ではすまない(すめばよいのだが)、日本国民に対する不信感となって沈潜するだろう。現代世界は、理性的であることがもっとも肝要だからだ。 こんなことを書いたのは、先日購入した名著復刻版の幸田學人(露伴)『幽秘記』を読んでいたら、冒頭部分で次のような一節にであった。 「測り難きの数を畏れて、巫覡卜相(ふげきぼくそう)の徒の前に首(こうべ)を俯せんよりは、知る可きの道に従ひて、古聖前賢の教の下(もと)に心を安くせんには如かじ。」 すなわち、 「いまだ人知のおよばない未知の事柄をおそれて、まじないや占いをする連中の前に頭をさげてひれ伏すより、あくまでも理性的に知の学びの道に従って、昔の知性優れた聖人や賢人の教えのもとに心の平安を得るに越したことはない。」と。 ヒトラーの顧問のような存在だったのはグルージェフという魔術師だった。ナチスの鈎十字はグルジェフのアイデアだといわれている。グルージェフは遠くからヒトラーの狂った頭脳をオカルトによって支配していた。 オカルティズムも人間の知の一部だ、と言えなくもない。占いによって、・・・それがたとい出まかせのあてずっぽうであろうと、迷える心が一瞬なりとも平安を感じることができれば、それはそれで良いではないか。そのように言うこともできる。私はそれを否定しない。たぶん、雑誌やテレビの占い番組の主旨はそんなところだろう。 しかし、それは両刃の剣のようなもので、「知る可きの道に従」う心にヤスリをかけて磨滅させてしまうことも間違いない。そうなった結果が、ナチス・ドイツであり、戦前・戦中のわが日本であった。 首相夫人のオカルティズムを私が危惧するのは、世界が、「この人には理性的な言葉が通じない」と思うことだ。世界は、オカルティズム信奉がどのような狂気の末路を取るか、いやというほど知っているのだ。 前回触れた森鴎外の『青年』のなかで、夏目漱石をモデルにしたと思われる平田拊石という文学者が演説のなかでこんなことを言っている。 「・・・日本人は色々な主義、色々なイスムを輸入して来て、それを弄んで目をしばたたいている。何もかも日本人の手に入っては小さなおもちゃになるのであるから、元が恐ろしい物であったからと云って、剛(こわ)がるには当たらない。」と。 これはもちろん反語である。本来根深く重要な問題・・・恐ろしい事態をまねきかねない問題を、日本人はおもちゃのように弄んでいる。どうも本質を知らなさすぎる、ということである。 露伴にしろ鴎外にしろ漱石にしろ、明治の知性が喝破したことは、100年後の現代の日本人にいまだにそのまま当てはまる。これをなんと言うべきか。ただ嘆息するばかりの自分がなさけない。
Nov 8, 2009
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