山田維史の遊卵画廊
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上映時間が4時間におよぶ映画のストーリーを述べるのは容易ではない。復元されたアベル・ガンス監督作品『ナポレオン』は1部・2部に分かれているが、ガンス自身の構想ではこれが第1部で、この後にさらに第6部までつづくはずであったようだ。その意味では、『ナポレオン』は未完の映画なのである。完成していたなら、とても1日で上映しきれるものではなかっただろう。 おそらく現在ならドキュメンタリー・タッチとでもいえるような演出と撮影であるが、ガンス自身は次のように語っている。 「『ナポレオン』における私のアプローチは、(1)観客をも演技者にさせること、(2)展開のどのレベルでも観客をつつみこむこと、(3)画像の洪水で観客を押し流すこと」 このアイデアは、観客を「歴史の証人」に仕立てることと同じで、つまりは映画『ナポレオン』は、ナポレオンに密着取材した記録映画のようなスタイルなのだ。ガンスが目指したのはそういう映像だったと、私は考える。 私がこの映画を観て、もっとも感動したのは、出演者たちが画面の隅から隅までこれぞ18世紀の顔にちがいないという顔をしていること。そして、画面の厚みである。フレームへの人物の立て込み、あるいは群集をふくめて人物の動線の巧みさと言ってもよい。 たとえばこういうシーンがある。 ナポレオンが民衆から武器をとりあげる、いわば刀狩のような政策を実行する。すると一人の少年がやってきて、ナポレオンの前に膝まづき「父の形見の剣を取り上げないで下さい」と涙ながらに訴える。少年は、ジョセフィーヌの息子ユージェーヌで、このときナポレオンはまだジョセフィーヌに出会っていない。少年の真摯な懇願に負けて、ナポレオンは形見の剣を所持することを許す。少年は喜んで、執務室の大勢の人々の間を縫って出口へと向う。このときすでにナポレオンは、一介の少年のことなど念頭になく、部屋の中央の机に行って新たな仕事を始めている。カメラは固定したまま、パンフォーカスで執務室全景をとらえている。したがって中央あたりに位置するとはいえナポレオンも大勢のなかの一人であり、遠くに、いままさに入口を出ていこうとする少年が見え、彼は通りすがりの大人に嬉しそうにキスを投げて行く。 私が感心するのは、このようなあくまでも全体のなかのそれぞれの個人の動きとして画面をつくっていることである。このような方法論は、まさに歴史をありとある人間の奔流と認識し、それを公平な眼で記録しようという精神の謂いにほかならないであろう。 あるいはこんな画面もある。 舞踏会の場面。踊り興じる女たち。しかし画面にとらえられているのは、誰のものとも分らぬ肌もあらわな胸元であり、ドレスのスリットからちらちらのぞく股座である。まるで刷毛で掃いたような映像のブレとなって長々とつづく。旧体制の極端に腰を張った、窮屈な衣装から、いまや肩から胸にいたる肌をあらわにした、成熟した女を一層艶やにみせるファッションへとかわりつつあった。その変化のなかの猥雑ともいえるエロティシズムを、カメラはまるで窃視する男の視線のように撮っているのである。 『ナポレオン』の表現手段はじつに多様だ。 戦闘場面等におけるラピッド・カットバック(非常に素早い画面切換え)。 あるいは二重焼き付け(イメージの上に別なイメージが重なる)。 フィルムの着色(モノクロ撮影した後、赤や緑や青に着色している)。 カメラ・ワークのさまざまな工夫。現代のようなハンディー・カメラがなかった時代、手持ち撮影、馬の背にくくりつけての撮影。あるいはマリー・アントワネットの処刑場面では、落下するギロチンの刃にカメラがとりつけられている、等々。 さて、私が「これぞ18世紀の顔!」と感嘆した出演者。その配役を記すと、 ナポレオン・・・アルベール・デュードネ(Albert Dieudonne) ナポレオンの少年時代・・・ウラディミール・ルーデンコ(Vladimir Roudenko) ロベスピエール・・・エドモン・ヴァン・ダエレ(Edmon Van Daele) ダントン・・・アレクサンドル・クービツキー(Alexandre Koubitsky) マラー・・・アントナン・アルトー(Antonin Artaud) サン・ジュスト・・・アベル・ガンス(Abel Gance) ジョセフィーヌ・・・ジナ・マーン(Gina Manes) これらの俳優が私にとって親しいとは、さすがに時代が違い過ぎて言えない。むしろ未知の俳優である。しかし、アレクサンドル・クービツキーや、なによりアントナン・アルトーにこの映画で出会えるとは思わなかった。 洒落もので酷薄の天使サン・ジュストにアベル・ガンス監督自身が扮しているのも嬉しい。映画のなかで、手鏡をのぞきながら化粧に余念がないサン・ジュスト。私はかつて渋澤龍彦著『異端の肖像』で、この酷薄の天使に親しんでいた。 アルベール.デュードネのナポレオンは、一度見たら忘れられなくなるだろう。ナポレオン像の固定観念ができてしまうかもしれない。 人間の顔の造形は、意外に時代変遷のはげしいものだ。日本映画にしてから、わずか60年前の日本兵士の顔をした俳優がもういないのだと、ある監督が述懐していた。いやそればかりではない、私のように昭和20年代から30年代が少年期だった者にとって、あの時代の子供の顔を現代の子供達にみつけることはほとんどない。現代の少年たちは、スマートで、顎が細く、なにより表情に得たいの知れないものを秘めている。 淀川長治さんのお書きになったものを読んでいると、「あの時代の顔」という表現が見受けられる。私のような若者(淀川さんと較べてだが)には、現実的なイメージがとらえにくいことだったのだが、『ナポレオン』を見ると、その意味が明確になる。断然20世紀・21世紀の顔ではないのだ。そこがとてもおもしろい。ジョセフィーヌの息子ユージェーヌに扮している俳優の名前はわからないが、この少年の顔、なんだか薄気味悪いですぜ。天使のようなフランスの少年のイメージなんて、これっぽちもない。この少年俳優の顔を見ているだけで、まあ、答はでてこないのだが、何かを言いたくなってしまう。 女性の顔だって、現代とはずいぶん違う。私などは、ちっとも美人とは思わない。しかし、そこがまさに時代の感覚がつかまえられていておもしろい。現代俳優にはない「深み」が、スクリーンに滲み出る。まさに顔の味わいである。 アベル・ガンスの『ナポレオン』は、このようにいろいろな角度から述べることができる映画だ。写真を示すことができないので(パンフレットには沢山掲載されているのだけれども)、私は書いていても自分ながら奥歯に物がはさまったような感じだ。TVで日本語字幕付で放映されたということは、たぶんビデオが出版されているのだろう。巨大3面スクリーンの迫力には及びも付かないが、ぜひご覧になることをお勧めする。『ナポレオン』の1場面;ラ・マルセイエーズを唱うナポレオン(アルベール・デュードネ)。右から2番目に、当時まだ無名の女優だったアナベラが出演している。同;フランス革命の立て役者揃う! 左からマラー(アントナン・アルトー)、ダントン(アレクサンドル・クービツキー)、ロベスピエール(エドモン・ヴァン・ダエレ)。 同;化粧するサン・ジュスト(アベル・ガンス)。同;マラーに扮したアントナン・アルトー。(以上の写真は、1983年資生堂主催上映会パンフレットより)【注】アントナン・アルトー(1896-1948)は、詩人・演劇評論家・俳優・演出家。1924-27にかけてシュルレアリスム運動に加わり活躍。のちにこの運動がマルクス主義に強く傾倒したために離反し、孤立する。社会生活と闘いながら、陶酔と絶対の探究のはてにやがて発狂した。著書に『冥界の臍』(1925)、『演劇とその分身』(1938)、『ヴァン.ゴッホあるいは社会の自殺』(1947)がある。1928年のソシエ・ジェネラール・ド・フィルム製作の映画、カール・ドライエル監督『ジャンヌ・ダルクの受難』に出演している(邦題;『裁かるるジャンヌ』、昭和4年(1929)日本公開)。
Jul 25, 2007
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