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ひとつずつ燈火消えゆく梅雨の夜 青穹(山田維史) 青柿を拾ってたたく老いの腰
Jun 18, 2024
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父が亡くなって19年、母が亡くなって12年 ふたりの使った杖がいまだに玄関に置いてある こうほねや亡父亡母の置きし杖 青穹(山田維史) 耳奥に夜しずまりて竹落ち葉 十薬のはな細道に隠れ宿 熱き肌ぢこくの沙汰も蓼の雨
Jun 17, 2024
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山寺の撞木しずかに蓼の雨 青穹(山田維史) 禅寺の鐘の音絶えて雨後の月 遅梅雨の寝床に聴くや降りはじめ 短夜や亡き友かぞう手に余り 浮き草やふた身に分けて流す川 謂わば身は付いて離れる星の川 愚かさも我が生業(なりわい)や雲の峰 夏祓い嘘いつわりに明け暮れて あすありと思えば忌中青簾 白に黄に夏空のした赤い花
Jun 16, 2024
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きょうも暑い。昼過ぎには気温が29℃を超えた。これから盛夏に向かってどうなることやら。 昨日のこと、次弟は八総鉱山小学校の同級会があったそうだ。一学年60人、1クラス30人のうち男女13人が東京に集結したというから、立派だ。弟も75歳。皆、老年になって、名前は忘れずとも、顔に子供のころの面影をとどめない。幹事が首にぶらさげるネーム・カードを作ってきたという。まあ、それはそうだろう。全員の父親が同一会社社員、あの山奥にあった当時先端的な設備と子供尊重の教育方針のいわば特異な小学校・・・(住友金属八総鉱業所が全国各地から呼集した社員の子弟のために建設。建物のみならず運動場、理科器具、音楽器具、運動用具、図書、低学年教室備え付け遊具等々、全てを整えて福島県に寄贈し、公立とした)・・・は、卒業以来65年経っても忘れられないにちがいない。・・・楽しい同級会だったようだ。 花栗や弓張の月のぼりきて 青穹(山田維史) 太藺狩り五寸にたりぬ茎となり
Jun 15, 2024
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植えた憶えががない木になる我が家の小庭の文旦。一本の木に100個以上。ひとつの実の直径は10cmになる。 今年、2024年、米国で13年周期セミと17年周期セミとが221年ぶりに同時発生し、その数、数千億匹とも一兆匹とも言われている。その鳴き声たるや大瀑布のようらしいが、市民はお祭り騒ぎで楽しんでいるようだ。この種のセミが地上に現れるのは13年に一度、あるいは17年に一度。それ以外の年月にセミを見ることはないらしい。子供たちはセミをまったく知らずに成長してきたのだから、お祭り騒ぎになるのも当然かもしれない。・・・しかし、ようやく地上に現れたセミの命も、1週間そこそこ。儚いと言うべきか、それとも土中で生きている時間と合わせて、犬猫なみの長命というべきか。同種族が残酷な殺し合いをしている人間の愚かさにくらべれば、なんとも賢い生命体であることか。 知りたきは蝉の土中の十七年 青穹(山田維史) 短夜や地球(ほし)を殺める人のあり
Jun 14, 2024
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もどかしく衣脱ぎたり夏の酔い 青穹(山田維史) 竹散るや隠れ棲むにはあらねども 蓼の雨隠れ棲むにはあらねども
Jun 13, 2024
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暑いですなー。昼、29℃、夏日である。しかしまあ、早朝は寒いということもないが涼気を感じる。ちかごろは朝の4時には目覚めてしまい、小庭にやって来る鳥の声を聞きながら仕方なくそのままベッドの中で本を読んでいる。 山涼や木立をよぎる明烏 青穹(山田維史) しずかさや山家の窓にショパンの音(ね) しずかさや山家洩れくるショパンの音
Jun 11, 2024
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庭のカシワバアジサイの花が16房から17房にひとつ増えていた。 郵便受に植木職人の広告ビラが入っていた。我が家の小庭を覗くと、たぶん植木職人としては手を入れたくなるのだろう。ハハハ、しかし私は可能なかぎり植物各々の生理のままに放っておきたい。刈り込んで人工的な姿にしたくない。といっても伸び放題にしておくこともならず、私自身が適当に手を入れてはいる。 小庭の木々はもともと私が植えたものではない。柿の木のほかは一本の木もなかった。鳥や風が種を運んできたにちがいない。 柿の木はもとから敷地にあった。たった一本の木だがたくさんの実が生る。ただ5,6年ほどまえまでは渋柿だった。とても食べられなかったのだが、なぜか突然、渋柿から甘柿に宗旨替えをした。これにはおどろいた。その生理の仕組みを私はわからない。甘柿になった途端に鳥たちが啄ばみ始めた。これにも感心した。 いまやたくさんの実をつける土佐文旦は、いままでは口に入れるとやはり苦かったのだが、昨年ころからほどよい酸味となり、じつは昨日も一つ食べた。とても生命力の強い木で、鋭い棘のある枝葉をたちまち茂らせる。まったく植えた覚えがない木である。 もちろん私が植えた木もある。カシワバアジサイもガクアジサイも。これらは神代植物園由来のものだ。ガクアジサイは見た目はやや地味だが、いわゆる普通にみかける丸いアジサイの原種である。ハコネウツギは小説家の故花輪莞爾氏の庭からやってきた。花輪邸に遊びに行っての帰りぎわに、私がハコネウツギに目をとめると花輪夫人が「お持ちになる?」と下さった。もう20年も前のことだ。 老いの背を叩く小柿の青ひとつ 青穹(山田維史) 老絵師を叩く小柿の青ひとつ 禅寺の無門を開ける初夏の風小庭のハコネウツギやコウゾなどの間に咲くナンテンの花ガクアジサイ
Jun 7, 2024
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半年毎に主治医のクリニックで健康検診を受けている。私は少なくとも成人してから病気らしい病気になったことがない。79歳の現在もいたって元気である。しかしもう10年の長きにわたって年に2度受診をしてきた。油断はしていないつもりだ。きょうがその検診日。4月中に予約しておいた。 採血があるので朝食抜きで予約した時間に間に合うように出かけた。医院の玄関ドアの鍵が開いたばかりで、私が文字通り一番の患者。 大腸検査のための便を提出し、血圧を測定し(125-81)、採尿し、身長体重を測定し、心電図を取り、きれいな波形ですと言われ、採血をし・・・と、順調に事がはこんで終了。 結果は後日出る。「運動をしてください」と忠告されるだろうなー。主治医の毎度の忠告だ。 私はまったく運動していないわけではない。かつては木刀で素振りをしていた。しかしその木刀は現在は玄関内に用心棒として置いてあるだけだ。長距離サイクリングもしている。サイクリングには風景や空気を感じ、街行く人々を見る楽しみがあるが、あらためて「運動」となると私の行動パターンに組み込めないでいる。自覚している私の欠点は、持続できないだろうと何かがアンテナに触れたとき、事を起こすことが嫌いなこと。短期間で終わってしまいそうなことに費やする「時間」のことを考えてしまうのだ。キー・ワードは「持続」である。すべてが流れる水のように、身体感覚や感情や思考の起伏とともに日常生活にふつうに溶け込んでいなければ・・・
Jun 5, 2024
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新宿駅西口を中心とした都市改造計画が2018年に発表され、すでに小田急百貨店と西口広場前の明治生命ビルは解体された。新宿駅構内も改造されてすでに4年になる。今後、京王百貨店が解体され、ルミネも解体される。これらの新建造を含む改造計画は2040年代の竣工を目指しているという。 2040年といえば私は95歳である。16年はアッという間に過ぎてしまうが、その時間の速さは私の過去の人生でのことだ。時間はこれまでと同じ速さで過ぎてゆくにしても、私が2040年のその頃まで生きているかどうか分からない。 思えば、私が大学に入学して東京住まいを始めたのは東京オリンピックが開催された年, 昭和39年(1964)だった。受験のために上京したころは新宿西口の第一回の大改造が始まったばかりで、あの地下吹き抜け青天井の西口広場は建設中、地上一帯は厚い鉄板が敷きつめられていた。同時進行で小田急新宿駅の地上部分に小田急百貨店新館が竣工開業したのが昭和39年9月。オリンピックの一ヶ月前のことだった。そして、隣接して京王百貨店が竣工して開業したのが同年11月。オリンピック開催中だったような気がしているが、いや、そうではないか。オリンピックの期間は2週間だから。しかし京王百貨店の屋上にはオリンピック開催年を記念したのか五つの巨大な照明装置が建造されてい、五色の巨大光線がまっすぐに天空に伸びていた。 また西口とは反対側の新宿駅東口でも新宿ステーションビルディングが建設中だった。たしか西口に建設中のビル群より3,4ヶ月早い開業だったと思う。このビルの前の新宿駅東口広場は、間も無く学生たちの政治デモの演説広場となり、ヒッピーと言われた若者たちがたむろする広場となった。各大学での大学紛争の季節、そしてベトナム戦争問題やアメリカの原子力潜水艦の横須賀寄港問題に関する政治の季節だった。 あれからちょうど六十年が経った。 開業当初から10年ほどの間の百貨店は、各種の展覧会が企画開催されていたものだ。しかも美術館の企画とはいささかならず異色の展覧会だった。私の所蔵する展覧会図録のなかにそれらの展覧会図録が何冊か残っているはずだ。・・・いま、ちょっと探して・・・画像を掲載してみよう。小田急百貨店 東京新聞主催「刺青展」昭和48年(1973) 6月小田急百貨店 国立博物館・朝日新聞共催「日本人類史展」昭和48年10月新宿ステーションビルディング(昭和39年5月開業)(1978年マイシティに改称、2006年ルミネエストに改称)読売新聞社主催「オーストラリア原始美術展」昭和40年5月画像は図録表紙と裏表紙。展覧会の題名を背表紙にも記していないのが珍しい。新宿ステーションビルディング前田育徳会主催「加賀百万石大名展」昭和41年1月新宿ステーションビルディング読売新聞社主催「鉄砲六百年展」昭和41年8月【番外】昭和39年当時、長い伝統を有する百貨店・日本橋「白木屋」はいまだ存在していた。その白木屋で棟方志功展が開催された。私は10月4日に観ている。その1週間後の10月10に東京オリンピックが開催された。日本橋・白木屋 朝日新聞社主催「棟方志功板業代表作展」昭和39年10月この展覧会は、棟方氏の「東海道棟方版画六十八点」が完成し、朝日新聞社から出版されるのを記念して、板業37年間の代表作を展示したものである。展覧会はその後、各地の8会場で開催された。
Jun 2, 2024
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一昨夜のこと、電話が鳴ったので弟からだろうと思いながら受話器を取った。弟ではなかった。じつに思いがけなかったが、70年近く前の八総鉱山(正式名・住友金属株式会社八総鉱業所)時代の鉱業所々長さんの息子さんだった。弟と同級生だった方である。もちろん私はお名前を覚えている。子供時代の愛称さえ。彼も私を「タダミさん」と言い、私を覚えていてくださっていた。・・・しばらくのあいだ話をしたが、お元気なので何よりと思った。
Jun 2, 2024
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蒸し暑い。台風1号が北上し、関東地域は明日、大雨が予想されている。 さみだれの一つ晴れ間や明烏 青穹(山田維史) 紫陽花や恋の深間か濃紫(こむらさき) 庭のガクアジサイのはじめの淡いピンク色が、今は濃い紫色に変わった。 紫陽花には多くの別名がある。七変化。よひら。おたくさ。雪毬。 「あぢさい」は「厚咲」が訛ったものという説がある。あるいはまた「厚藍」から転化したとも。多くが藍色に咲くためらしいが、万葉仮名では「味狭藍(アヅサイ)」と書いた。
May 30, 2024
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日本語やその使い方が異様な乱れになっているのは今に始まったことではない。今日の朝日新聞夕刊に《神社の銅板270枚盗難 栃木の市文化財 各地で金属盗難急増》と見出しをつけた記事が載った。金属盗難が多発していることは私は知っていた。電線が盗まれたり、道路防護柵や道路標識が盗まれているようだ。貧窮のためというより、公共財を保護し維持してゆく公徳心が金のために心底から崩壊してきているのだろう。・・・ところで、冒頭に述べた言葉の問題は、神社の銅葺屋根の盗難に関わりがあるとはいえ、切り離してもよい。私が気になったのは、盗まれた神社の関係者の言葉使いである。この人は新聞取材に次のように言っている。そのまま引用すると、 「憤りしか感じない。文化財、神社という場所から盗むとはいかがなものか。地域の人が守り続けているい大切な神社から盗むなんて、本当に言葉が出ない」 私がこの言葉の何に首を傾げたのかと、このブログを読んでいられる人は思われるだろうか? 取材に応じた人の心意の誠は疑い得ない。しかしながら私は、「いかがなものか」という言葉がこんなところに使われたことにヘンな気持ちになったのだ。そんな悠長なことを言っている場合ではないでしょう、と。犯罪が行われたのですよ、公共財・文化財が破壊されたのですよ、と。この「盗むとはいかがなものか」という言葉には、「盗んだっていいじゃないですか」という返答のでてくる余地があるということ。「いかがなものか」という言葉の論理は、そのような応えを導き出すのである。・・・まさか神社の関係者だから、「盗人にも三分の理」などと仏心(神心?)で「いかがなものか」と言ったのではないでしょう。 「いかがなものか」という言葉を私たちが頻繁に耳目にするのは、日本の政治家の発言においてである。物事を判断しなければならない局面で、自己の立場を明示しないのである。「みなさん、お分りでしょう? 私の考えがわかりますよね?」近年大流行語になってしまった「忖度」を聞き手になかば強要しているのである。・・・これに対して日本の報道記者たちは追求の鉾先を納めてしまう。政治家はその時点で問題の処理があいまいなまま終了することを知りつくしている。 屋根の銅板を270枚も盗まれた件の神社関係者は、「いかがなものか」という言葉を政治家のように底意を含んで使ったのではない(と私は思う)。新聞取材に対して、政治家が使う言葉を無意識のうちにマネしたのであろう。 「いかがなものか」とか「忖度」という言葉の使われ方は、日本人の美徳とされる「おもいやり」と重なっているように私は思うのだが、どうも日本人の倫理観に揺らぎが悪きに出てきているのではないか。それを助長するかのように、日本語の異様な乱れは、TVやインターネットや、新聞・雑誌等からの悪きマネ(影響)ではないかと私は思っている。不思議なことに、正しい日本語はひろまらず、誤用やヤクザ符丁はたちまち日本全土にひろまる。しかも年齢にさほど関係がないようだ。社会の幼稚化と関係はないだろうか? 付け加えると、日本語を耳から学んだ他国の人たちが、「マジ」とか「ムズイ」とか「ヤバイ」などと言うのを聞くと、私はガッカリしてしまう。せっかく日本語を覚えてくれているのに、と。
May 29, 2024
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過日、柿の木が万朶の花盛りだと書いた。散る花も結構な数で、隣家の敷地にまで落ちて迷惑をかけた。そんなことが数日つづいたあと、落花はぱたりと止んだ。ところが昨日あたりから、今度は生まれたばかりのような小さな柿の実がポトリポトリと落ちだした。実の直径は1cmほどである。 この赤ちゃん柿の落下は、じつは自然の理。というより、柿本来の理(らしい)。どうやら柿は、数多く生りすぎた実を「自主的に」落とすことによって、・・・つまりそれらに栄養をとられないようにして、他の実をより大きく成熟させるのである。 「落とす実」と「残す実」とをどのように選別しているのか、私には分からない。しかも、落とすのはもうこれで充分だという限界があるような気がする。成熟した果実は、人間の側からは「食用果実」としてのみ見ているが、柿の木の側からは成熟した実を地に落として繁殖する目的がある。したがって、残す実はより良いものでなければなるまい。栄養が充分いきわたり健康に発芽できる種(たね)が内部に育っていなければなるまい。・・・落ちる豆柿は、なんらかの(もしかすると厳密な)柿の生物的原理に依っているにちがいない。 ここで私は急いで付け加えなければならない。「人間」についてである。 人間は他の生物と大きく異なるてんは、本能が破壊された生物として生存してきた。その破壊が何億年前に起こり始め、なぜ破壊が人間という生物だけに起こったのかは全く不明だ。人間という生物に共通な営巣デザインが本能として組み込まれていた形跡を、いまのところ発見できていないのである。のみならず人間の「巣」(住居)のデザインは極めて多様であり、不思議なことにその巣は、柔らかな身体を包みこむのではなく敵対するかのように硬く、優しくない。人間以外のあらゆる生物は、種に固有な営巣デザイン本能が遺伝子に組み込まれていて、それは破壊されて来なかったし変化もしていない。これは重要な点である。 性本能もまた、人間の場合は破壊されている。人間の性行動は生殖本能から完全に逸脱してい、快楽追求行動として多様化している。宗教的な性的禁欲も生物学的な性本能から逸脱した異常行動であり、実は快楽追求行動の裏返しである。正常という概念は如何なる観点からも人間の性行動には当てはまらない。すなわち性が文化になっているのである。 さて、本能を破壊されたまま生きることを余儀なくした人間は、本能にかわるものとして「文明」をうみだすことに成功した。人間と他の生物とを分ける徹底的な違いがここに生じたのである。つまり人間の心身は同時に二つの世界を生きることになる。「生物的人間」と「社会的人間」の二つである。個人個人によって、あるいはどんな社会に生きているかによって、その二つの比重は異なってくるのだが、いずれにしろ、どちらか一方にのみ生きているということは有り得ない。これもまた人間にとって重要な点である。 上述の子柿の自然落下を、その現象のみを人間の在り様に適用しようとすると、それは「優生思想」となるであろう。優生思想(Eugenic ideology) は, 生物原理ではない。人間を有用と無用とに分けた傲慢な社会思想である。しかもその有用・無用は弁別者の恣意的な認識による。この自己中心的な認識は擬似科学によって補強される。あるいは宗教によって補強される。つまり幻想が社会を覆い尽くし、優生思想が制度化されると、そこから覚醒することは非常に難しい。幻想に心身を「侵される」というのも、本能を破壊された存在である人間特有の現象である。 人間は、「生物的人間」と「社会的人間」の二つを同時に生きており、その平衡感覚こそが未来に向けて存在するために最も大事であろう。平衡感覚の支点となるのは共存共生の高度な人間愛である。 ・・・子柿の自然落下はそのことを私におしえる。 The other day, I wrote that the persimmon tree in my small garden was in full bloom. There were quite a number of flowers falling, and they even landed on the neighbor's property, causing a nuisance. After a few days of this, the flowers suddenly stopped falling. However, from around yesterday, small persimmons that looked like they had just been born started falling out. The diameter of the fruit is about 1cm. The falling of these baby persimmons is actually a natural law. Rather, it seems to be the original principle of persimmons. Apparently, persimmons “voluntarily” drop their Excess fruit…in other words, they prevent the fruit from being deprivied of nutrients, and allow the remaining fruits to grow larger and mature. I don't know how they sort out the “fruit to be dropped” and the “fruit to ripen.” Moreover, I feel like there is a limit to the persimmon tree itself, which is enough to drop. From the human perspective, the mature fruit is seen only as an edible fruit, but from the perspective of the persimmon tree, the mature fruit is dropped to the ground forthe purpose of propagation. Therefore, the fruit that remains must be of better quality. There must be seeds growing inside that are fully nourished and able to germinate healthily. ...The falling mame persimmons must depend on some kind of (perhaps exact) biological principle of persimmons. I must hasten to add here. It's about “human beings.” Humans are vastly different from other creatures. We have survived as creatures whose instincts have been destroyed. It’s unclear how many Billionstel of years ago that destruction began, and it’s also completely unclear why it happened only to humans. So far, no evidence has been found that humans have a common nest-building design built into them as an instinct. Not only that, but the designs of human "nests" (dwellings) are extremely diverse, and strangely enough, these nests are not gentle, as if they were hostile to our soft bodies rather than enveloping them. All living creatures other than humans have a species-specific nest design instinct built into their genes, which has not been destroyed or changed. This is an important point. The sexual instinct is also destroyed in humans. Human sexual behavior has completely deviatedfrom the reproductive instinct ans has diversified into pleasure-seeking behavior. Religious sexual abstinence is also an abnormal behavior thatdeviates from biological sexual instincts, and isactually the oppsite of pleasure-seeking behavior.The concept of normality does not apply to humansexual behavior in any respect. In other words, sexuality has become a culture. Now, humans who were forced to live with their instincts destroyed succeeded in creating “civilization" as a substitute for their instincts. This is where the fundamental difference that separates humans from other living things arose. In other words, the human mind and body live in two worlds at the same time. There are two types: the “biological human'' and the “social human''. The weight of the two will differ depending on the individual and the kind of society they live in, but in any case, it is impossible to live only in one or the other. This isalso an important point for humans. If we were to try to apply the above-mentioned natural fall of the persimmon to the human condition alone, it would become “eugenic thinking.'' Eugenic ideology is not a biological principle. It is an arrogant social ideology that divides humans into those who are useful and those who are useless. Moreover, its usefulness or uselessness depends on the arbitraryperception of the discriminator. This self-centered perception is reinforced by pseudoscience. Or reinforced by religion. In other words, once society is overwhelmed with illusions and eugenic ideology becomes institutionalized, it is extremely difficult to awaken from it. Having one's mind and body “invaded'' by illusions is a phenomenon unique to humans, whose instincts have been destroyed. Human beings live as “biological humans'' and “social humans'' at the same time, and a sense ofbalance is probably the most important thing in order to exist for the future. The fulcrum of a sense of balance is a high level of human love for coexistence and symbiosis....The natural fall of a persimmon teaches me this. Tadami Yamada
May 23, 2024
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近所の商店にトウモロコシが出ていたので買った。早生なのか。ずいぶん早いように思ったが、それはともかくとして、我が家では今年の初物である。茹でトウモロコシにして食した。実がしっかり入っていて、甘みもあり、うまかった。 昨日あたりからすっかり夏のような気温である。暑い! 初夏となり山路に汗のにじみける 青穹(山田維史) 初夏となり山路をゆけば汗となり 初夏となり山路に滲む玉の汗 山路ゆく額に汗の初夏となり 山路ゆく額の汗に初夏の風 世界に毎日配信される映像 夏空や爆撃の雲音もなく 夏空に爆撃の雲立ちのぼる
May 22, 2024
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推理作家アーサー・コナンドイルのシャーロック・ホームズ・シリーズは日本にも多くの読者がいる。その第一作『緋色の研究』につづく第二作『四つの署名』の自筆原稿と、この小説が執筆される経緯を書いたコナンドイル自身の手紙を付して、来たる6月26日にニューヨークにおいてサザビーズのオークションに出品されるそうだ。CNNが報じている。 『四つの署名』が書かれる経緯は、ある夕食の席でのことだそうだ。オスカー・ワイルドと米国の雑誌「リッピンコット・マンスリー・マガジン」編集者のJ.M.ストッダートが同席していた。ストッダートの依頼でコナンドイルは『四つの署名』の執筆を約束し、ワイルドはなんと『ドリアン・グレーの肖像』の執筆を約束したのだという。まさに現代文学の奇跡的な夕食だったわけだ。 アーサー・コナンドイルの自筆原稿はほとんどが博物館の所蔵になっているそうだが、サザビーズはこのたびの『四つの署名』原稿の落札予想価格は1億9千万円だとか。 それはともかく、この自筆原稿は、編集者J.M.ストッダートがおこなったアメリカ英語へのスペル変換と、コナンドイル自身がおこなった作品微調整のためのいくつかの単語に線を引いた以外は、直しがまったく無いのだという。このことに私は興味をもったのである。 今日の朝日新聞「天声人語」が、亡くなられたばかりのカナダのノーベル賞作家アリス・マンロー氏について書いていて、短編小説の名手といわれるマンロー氏は「毎日朝から必死に書き、書くと削りに削る」のだ、とあった。 そして実はまったく偶然なのだが、今朝方、私は弟と日本の文学者の自筆原稿について話していたのだった。たとえば、私は谷崎潤一郎氏の自筆原稿を実際に見たことがあった。毛筆書きのそれは、直しの部分は実に几帳面に原稿用紙のマス目を完全に黒く塗りつぶしていた。直す以前にどんな文章だったか、あるいは語句だったか、まったく判らなかった。 三島由紀夫氏の自筆原稿も見たことがある。この作家も全くといってよいほど書き直しがない。まるで清書したかのように几帳面な文字が原稿用紙を埋めていた。ほかにも2、3の作家の原稿を見たことがある。 生原稿は見たことがないが、大江健三郎氏の小説は第一稿から完成までに二度三度と最初から書き直すことは、ご自身のエッセイなどで読者は周知のことである。大江氏は部分的に書き直しているのではないらしい。ということは、完成作以外に2、3のヴァージョンがあるということだろうが、それらのヴァージョンは作品が完成すると大江氏自身が焼却したらしい(私はそういう記述を読んだ記憶がある)。 私の長年の知己だった花輪莞爾氏は、あるとき電話をくださり、これまでの作品を削り始めていること、そして作品中の全ての漢字にルビを振るつもりだ、とおっしゃった。ルビに関しては、ご自分が幼少期に読んだ本には全ての漢字にルビが振られていたことに倣おうとしていられるらしかったが、大学で教えていて学生たちがあまりにも漢字が読めないことに愕然としていることも要因らしかった。私はいまさら初期の作品を削ることも、全漢字にルビを振ることも、おやめになったほうがよろしいと思ったが、口には出さなかった。・・・そんな話を弟としていたのである。 コナンドイルは、推理小説の名作と言われる『四つの署名』を、執筆を始める前にすっかり頭の中で作りあげていたのであろうか。推理小説というのは「論理」の小説である。執筆の過程で登場人物が勝手に動き出すことはあったにしても、論理逸脱は避けなければならないだろうから、あらかじめ結末さへしっかりできあがっていれば、あるいは一気呵成に書ききることはできたのかもしれない。・・・いやぁ、それにしても『四つの署名』の自筆原稿に直しが無いというのは、すごい! ついでながら、私は画家との交際は無いのだが、20代だった昔、秋吉巒(あきよしらん)氏のご自宅を訪問した。奥様も同席なさり、秋吉氏はご自作の絵について、一旦筆を置いたあとからまた筆を入れるのでいつまでも完成しないのだ、とおっしゃった。そういえばアンリ=ジョルジュ・クルゾー監督のドキュメンタリー映画『ミステリアス・ピカソ 天才の秘密』のなかで、ピカソがわきあがるイメージを描いては消し、描いては付け足してゆくうちに混乱におちいる場面があった。 ・・・並べて書くのはおこがましいが、私は自作の絵の描き直しはしない。描きながら発展することはもちろんあるのだが、描いた部分を途中で削ったり塗り重ねたりして描き直すことはまったくない。イメージは初めから頭の中にあるからである。そしてまた、描き直しをしないのは薄塗りを重ねてゆく絵肌のつくり方のためでもあるが・・・。これはイラストレーション原画を油絵の具で描いていたので、原稿として4X5ポジフィルムや8X10フィルムにスタジオ撮影しやすくなることを考えてのことである。つまり絵肌が平滑で凹凸がないほうが、照明をセッティングしやすいからである。
May 19, 2024
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我家の小庭の植物の緑いろいろ ナツグミ,トサブンタン、コウゾ、シダ(ヘビノネゴザ)、ツバキ、ハコネウツギ、カタバミ、ユキノシタ、シュロ、カエデ、ドクダミ、カキ、ナンテン、チャ、クサボケ、ハサンショウ・・・まだまだいろいろあります。 ヤツデ、カシワバアジサイ、ガクアジサイ、フタリシズカ、ムサシアブミ、マンリョウ、ヤマジノホトトギス、アガパンサス、ローズマリー、ヒメジオン、ハコネシダ、オニヤブソテツ、ツユクサ、ニリンソウ、クローヴァー・・・ スキャン画像ではそれぞれの葉の微妙な緑色は出ません。しかし葉の形状のみならずどれひとつとして同じ緑色はありません。これが生来の「個性」というものです。人間もまた、そうでありましょう。
May 17, 2024
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弟が八総鉱山小学校の同級会があると言っていた。それでしばらく思い出話をした。 私が中学1年のときだったと憶えているが、学校が長い休暇に入ったのでしばらくぶりに帰省した。そのときに弟のクラスで父母会(父兄会)の授業参観があった。私は母と一緒に参観したのである。弟のクラス担任は佐藤宗義先生だったが、教室の後ろに立って弟の受業を見ている中学生を、佐藤先生は何と思われたか。 そんな息子を伴って授業参観する母も母だ。こういうとき、・・・つまり中学生の私も一緒に行くと言ったとき、私の母はまったく普段とかわりなく「それでは一緒に行きましょう」と応える人だ。父にしても、「そうかい、授業参観してきたかい」と言うような人であった。この親にしてこの子あり、というところか。ハハハハ。家庭生活に、目くじらを立てることなどない、ということだ。
May 13, 2024
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連休前に終了した家の補修工事だが、今日の午後、職人が自らの仕事の出来上がり具合を再確認に来た。こういう心がけは、私の気にいるところだ。バカな政治家や官僚がノサバッている日本だ、「公僕」が主人である国民をナメきっているのだろう。職人諸氏の爪の垢でも煎じて飲むがいい。 私はシュワルツ・ネッガー氏の次の言葉を思い出す。 「われわれが選んだ議員から今まさに必要なことは、公共のために仕える彼らの公僕の心。自分たちの権力や自分たちの政党のためよりももっと大きな事柄に仕える公僕を、われわれは必要としているのだ。われわれが必要な公僕は、高い理想をもった人物であり、その理想はこの国が他国から見上げられるようなことでなければならない」
May 9, 2024
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柿の花盛りである。といってもたいへん地味な花なので、万朶の花も目立たない。小さな緑色の「壺」のようだ。 じつは昨日あたりから落花し始めている。朝の庭掃除に数百個の小さな壺を掃き集めた。今朝も同様である。掃いても掃いても落下する。これで実がなるのかいな、と枝を見上げる。 隣家の敷地にまで落ちている。夫人が掃除しているので、私は「申し訳ございません」と謝った。「気にしないでください」とおっしゃりながら、「去年は駄目だったようですけど、今年はすごい花ですね」と、夫人も我が家の柿の木を見上げた。 実際、ごっそりかたまって花が付いているのである。「はたしてこれがすべて実になりますかどうか」「楽しみですわね」「ははは、楽しみにいたします」 それはそれとして、花のほとんど無い我が家の小庭は、そのかわりのように様々な色合いの緑にあふれている。植物それぞれに固有の緑色をもっている。種が違えば、どれひとつとして同一の色合いは無い。今日は雨が降っているが、いつかそれぞれの葉を取って、スキャンしてみようか。パレットの緑の良い参考色になりそうだ。
May 8, 2024
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ほぼ一日中、図像研究のための資料整理。ある一つのテーマでUSBメモリーに記録した画像は約2,450点。もちろんその一点一点に正確な説明書を付してある。なかなか大変な作業で、目も疲れるが、じつは楽しく、時間を忘れる。
May 7, 2024
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連休前に家の第二期補修工事も終わり、今日は久しぶりに外出。といっても特殊な紙を購入するのが主な目的だが、園芸用の如雨露を買ったり、菓子屋によって柏餅を買い、菖蒲湯のための菖蒲を買ったり、なんだかんだと4時間も街中をうろうろしていた。 めずらしく本屋へは寄らずだ。ちょっと欲しい本がある。オックスフォード大学出版の刊行で、日本円で一冊16,00円くらいする。円安のためだろうか? この本のために、とりあえず余計な本の購入は止めて、倹約、倹約。
May 4, 2024
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家の第二期補修工事もほぼ完了して、今日は職人も休み。天気も良し、昼過ぎから家の周囲の草取りをした。 ここ数日の雨で勢いよく生い茂った。梅雨前に毟り取っておかないと厄介なことになりそうだった。じつは5匹の飼い猫がいるうちは、猫たちが遊びまわるので除草剤を散布しなかった。しかしその猫たちがみな年老いて亡くなった。月日も長く過ぎた。もう除草剤を散布してもよかろうと、買ってはあるのだ。それを使う前段階としての草取りである。 すぐに終わるだろうと思ってはじめたが、3時間かかった。やれやれである。 先日弟が持って来た「ムサシアブミ」が、うまく根付いたようだ。大きな緑の葉を元気にひろげている。鎧(あぶみ)の形をした仏炎包もみごとだ。
Apr 28, 2024
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2年ほど前に途中まで描いたところで方向を見失った作品がある。側近く近くに立てかけたまま2年間が過ぎた。今日の午後、突然にある具体的なイメージがひらめいた。その作品のことを考えていたわけではない。我ながら思いがけないひらめきだった。さっそくイメージの小さなデッサンを作ってみた。・・・そう、これかもしれない、と思いながら。 そのイメージを「はめ込む」ことにより、2年前に描いたほぼ全体の表現に大きく手を入れなければならないだろうが、この作品が行き着くはずの方向は見えたような気がする・・・
Apr 22, 2024
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今日から家のメインテナンス第2期工事開始。工期は1週間の予定。 工事の邪魔になるので、私はきのう前もって文旦の樹の枝を伐り払った。直径8㎝ほどの実を25個ほど採った。樹にはまだ文旦の実は数十個生っている。採った実を一個、昼食時に食べた。
Apr 20, 2024
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あらためて読み直しているわけではないが、収拾がつかないほど幾つもの山に積み上げた本のなかから取り出した数冊を、枕元に置いている。昨夜読んだのは岸井良衞著『江戸雑稿』(1977年、毎日新聞刊)。 その「蕎麦」の項に、「けんどん」について1ページにわたる記述がある。 部分的に引用しながら述べると、『因果経』の和讃に「人のものをば欲しがるのを、けんという。人に物、惜しがるをどんという。けんどんぐちとは、ここぞかし(下線部分の原文は傍点:山田注)」とあり、すなわち慳貪(けんどん)は悋(しわき)ことである、と。ケチクサいことだ、と。で、蕎麦切でも飯でも、盛りきりで出して、かわりを進めないのをけんどんという。『むかしむかし物語』に、「寛文四年。けんどん蕎麦切というもの、できて下々買い喰う。貴人には喰う者なし」とあり、これがけんどんの初めであろう〔還魂紙料〕、と岸井良衞氏は述べている。そして江戸のけんどんな蕎麦屋の実名をあげながら、客に給仕もしない、挨拶もしない慳貪な蕎麦屋が有名であったのは、その無造作が倹約にかなっていたからであると『近代世事談』は書いているのだそうだ。 岸井良衞氏の考証はさらに進み、けんどんは盛切りという言葉に転じ、盛切りを出前するときに使う提げ箱を、けんどん箱と言うようになった。そしてさらにその箱の蓋の仕掛けが便利なので、この蓋のことをけんどんブタと言うようになり、その簡単な仕掛けを大工や指物師がけんどんというようになった、と。 『江戸雑稿』の著者岸井良衞氏は明治の生まれ。演劇やTV関係の仕事をされていた。時代劇の風俗や大道具・小道具の正確を期すための考証に端を開いた研究だったようだ。 昨夜、私が上述の「けんどん」に気をとめたのは、ふいに思い出したことがあったのである。私が幼少の頃、我が家の台所にあったずいぶん古い戸棚の一部にケンドン仕掛けがあった。また、母と父の着物が入っていた桐箪笥にもケンドンが付属していた。和本を入れる本箱がケンドンだったのを見たことがある。出前用の提げ箱は蓋を引き抜く仕掛けだが、我が家のケンドン仕掛けは一枚板(大きさは様々)の中程に摘まみがついていて、それを少し上げると蓋がはずれて開いた。その中に何が入っていたか、幼少だった私はまったく知らない。見たことがあったかもしれないが、記憶していない。岸井氏は、「けんどん箱というのは一切合切が一つの箱の中に入っているむしろ贅沢なもので、最初のけんどんの意味からは遠くなってしまっている」と書いていた。我が家のケンドンに贅沢品が入っていたかどうかは解らない。
Apr 14, 2024
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昼前にポツリポツリと降り出した雨は、昼食を摂るころになって止み。明るい日差しになってきた。それで予定してあった用事を片付けるために外出することに。 周辺の桜が満開は過ぎて散りはじめていたがまだ花盛りだった。街路に花びらが散り敷いている。小雪のように花びらが舞い落ちる。空気にほのかな桜の香りがした。 私はこの歳になるまでいわゆる「お花見」をしたことがない。嫌いなのだ。あのブルーシートを広げて弁当を使ったり、酒を飲んだり、はては楽器をかき鳴らして放吟したりしているのを避けていた。非難はしない。人それぞれの楽しみ方があるだろう。私が近づかなければ良い。そう思って、そうして来た。 ・・・それに、他にも理由がある。 日本文化の桜には「死」のイメージが付与されることがある。『古今和歌集』巻第二春歌下七十七、承均法師「いざさくら 我もちりなむ ひとさかり ありなば人に うきめ見えなむ」。すなわち「さあ桜よ、私も散ってしまおう。生きていれば人に苦しい思いをさせるだろう」という意。現世に自己否定をする。さらに時代が下ると、社会全般にわたる厳格な主従身分制度のもと、自己否定が束の間の生きる術となった。マゾキスティック(被虐的)で、ネクロフィル(死体愛好的)で制度的隷従者の「武士道」とやらを、「散り際の美学」だとか「潔さ」だとかと称して「桜」にすり替えて美化する。この虚無的な美は、近・現代戦争の時代に一層あからさまに日本文化として称揚された。 その死生観が私は嫌いなのだ。その欺瞞が嫌いなのだ。桜はただ桜の美である。人間の方に引きつけなくてもよかろう。醜い人間の方に引きつけてそれを日本の心だなどと謳うから、私は嫌わなくともよい桜まで嫌いになってしまう。『同期の桜』なんて、ほんとうにゾッとする。この歌を放吟する心の奥底に、マゾキスティックで、ネクロフィルな制度的隷従者の悲哀があることを私は指摘するのである。二進も三進も行かない隷従者の心は、己の死を美化するのが精一杯なのである。惹かれ者の小唄と言うが、さしずめ『同期の桜』は死に惹かれる者の小唄である。【追記】 「花見」は、現在の京都中京区神泉町の神泉苑(平安京造営の頃は広大な苑であった)に、弘仁三年(812)、嵯峨天皇が行幸して観桜の遊びをし、文人たちはおのおの詩を吟じて帝より禄を賜り、「花宴節会(はなのえんのせちえ)」の初めとなったと、892年の勅撰『類聚国史』は記す。(秋里籬島著『都林泉名所図会』寛政11年版(1799)。白幡洋三郎監修、講談社学術文庫、1999年による)
Apr 12, 2024
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朝日新聞夕刊の文化欄に現在NHKBSで放映中のドラマ「舟を編む 〜私、辞書つくります〜」について紹介していた。三浦しおん氏の小説が原作。私はここ6年間ほどTVをまったく観ていないので、このドラマについては何も知らない。内容は辞書編集者の悲喜こもごもの物語らしい。新聞のサブ・タイトル(惹句)に、〈言葉の暴力「悪いのは選び方・使い方」〉とある。原作者との約束に含まれていると思えるが、原作と異なりドラマでは「言葉の暴力」がより深刻な現代に近い設定なのだとか。 なかなか興味深いテーマを内包するTVドラマである。 そんな新聞記事に触発されて、私自身の所持する辞書・辞典を思うと、かなりの数になる。いま机の周囲に32 冊。寝室の枕元やその他の部屋にも種々置いてあるので、ちょっと数えきれない。たぶん50冊はあるだろう。外国語の辞書が含まれているけれども・・・。 「選び方・使い方」と新聞は書いているが、実際、必要だから50冊の辞書類が家のなかにあるのである。国語辞書は出版社によって採録する言葉が異なる。流行語や通俗語、あるいは符牒のような言葉を採録したために古来のれっきとした日本語が消し去られることが少なくない。「言葉の暴力」ではなく、監修者・編集者による暴力にも似た裁量。ページ数に限りがあるにしろ、言葉を採択する裁量は「宰領」になる危険をはらんでいるかもしれない。 そんなわけで、私は辞書がボロボロになってしまったから、あるいは50年前60年前の辞書だからといって捨てられない。さすがに使用することは無いが、亡父が学生時代に使っていた昭和初期の辞書も私は保存してある。それは表紙も失われているが、むき出しの最初の数ページが口絵で、旧式の戦車などが描かれている。 横道にそれる。台湾の地震被害が報道されている。私たち日本はこれまでの大災害時に幾度も台湾の方々に支援していただいたので、この度の地震被害の大きさに心が痛む。 ところでその被害を伝える映像、とくに台湾TVのニュース映像を見ると、アナウンサーの中国語は理解できないがテロップの漢字の中国語は理解できるのである。その漢字がいわゆる繁体字(旧来の漢字)だからである。中国語の発音ではなくとも、日本式の漢文読みの理解である。 しかるに中華人民共和国(中国)は、国家の方針として異体字(略体字)を使うようになったので、少なくとも私にはほとんど理解できない。繁体字は教育の普及に支障があるという考えのようだが、いまや生まれた時から略体字で育っているので、繁体字を読める中国人はむしろ例外的であるらしい。私が所持している中国語の辞書のひとつは、昭和37年に出版されたものだが、繁体字に括弧して略体字を示している。 中国は膨大な古文献を秘蔵している。しかしそれを読み解き、専門的な研究のとば口を開くために、日本の大学院に留学している方に、私は実際お会いしたことがある。 辞書から離れるが、私が20代から30代に入るころのこと (記録を調べると1974年3月だった)。あるデザイン系タブロイド新聞の編集長が電話でイラストレーションを依頼してきた。仕事の打ち合わせが終わってから、直接会って話をしたくなったと、編集長は言った。あらためてインタビュー記事を書きたい、と。 数日後に私は会社を訪問した。インタビューに入る前に編集長が言ったのである。「じつはお会いして話をしたくなったのは、電話でのヤマダさんの言葉使いでした。私がこれまで接したことがない言葉使いだったからです」・・・私が何と応えたかまったく覚えていないが、たぶん「そうでございましたか」とでも言ったのだろう。 そのときまで自分の普段の言葉使は、子供のころからずっと変わらなかったので、気を止めたことがなかった。一方で他人の言葉使いには敏感だったかもしれない。「選び方・使い方」・・・それがどんなに些細なことがらについてであろうとも、微妙なニュアンスがその人物のすべてを表現しているからである。絵描きとして人間を観察するのは、容貌容姿すなわち外見だけではない。言葉によってもっと分かることがあるのである。
Apr 6, 2024
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東京各地の桜の名所はほぼ五分咲き。満開のところもある。明日の日曜日は天気も良さそうだし花見客で賑わいそう。 ところで私はそんなニュースを目にしながら、思わず知らず口ずさんでいたのは童謡「花かげ」。「十五夜お月さん ひとりぼち/桜ふぶきの 花かげに/花嫁すがたの お姉さま/車にゆられて ゆきました」(大村主計作詞、豊田義一作曲、昭和6年;1931)。 ・・・この童謡からつぎつぎに連想して、「花嫁人形」「金襴緞子の帯しめながら/花嫁御寮はなぜ泣くのだろ/文金島田に髪結いながら/花嫁御寮はなぜ泣くのだろ」(蕗谷虹児作詞、杉山長谷夫作曲、大正13年;1924)。 「雨降りお月さん」「雨降りお月さん 雲の蔭/お嫁にゆくときゃ 誰とゆく/ひとりで唐傘 さしてゆく/唐傘ないときゃ 誰とゆく/シャラシャラ シャンシャン 鈴付けた/お馬にゆられて 濡れてゆく」(野口雨情作詞、中山晋平作曲、大正14年;1925) 三曲とも嫁入りを歌った大正時代の童謡である。ここで私は不思議に思った。いずれも花嫁を楽しく祝福していないことに。私は男だから嫁入りの気持ちを分からない。しかしこれらの童謡の作詞をしたのは男性である。 童謡ではないが西條八十作詞、古賀政男作曲の「誰か故郷を想わざる」の二番は「一人の姉が 嫁ぐ夜に/小川の岸で 淋しさに/泣いた涙の 懐かしさ/幼馴染の あの山この川/ああ 誰か故郷を想わざる」(昭和15年;1940) この詞は、「花かげ」の姉妹の別れと同じような姉弟の別れである。仲良しきょうだいの家族の別離。ただし、「花かげ」の三番の「遠いお里」という言葉から、この時代の日本の結婚が、個人の恋愛に帰すというより「家」の問題だったことが察せられる。このことは、ずっとゆるくなって結婚するふたりの愛が強調されているが、「瀬戸の花嫁」(山上路夫作詞、平尾昌晃作曲、昭和47年;1972) の姉弟の別れの陰にうっすらと揺曳している。 童謡「みかんの花咲く丘」(加藤省吾作詞、海沼實作曲、昭和21年;1946)は戦後すぐに発表された。童謡歌手川田正子さんが歌うために作られたという。三番に登場する「母さん」については説がある。戦争で母親を亡くした子供が大勢いるので、その子供たちにとってこの「母さん」という詞は辛すぎるであろうと、「姉さん」に変えられたという。 しかし、現在この歌をうたうひとは「母さん」と歌っているにちがいない。・・・私の説にすぎないが、私は原詞はむしろ「姉さん」だったのではないかと思う。その理由。歌詞の一番および二番に登場する船は、嫁入りする姉が乗っていた船だ。「瀬戸の花嫁」と同じに、姉さんは船で嫁入りしたのである。かつて仲良く姉妹(あるいは姉弟)ふたりで眺めた海。その海をいまひとりぼっちになって眺めていると、黒い煙を吐きながら島影に消えて行った姉さんを思い出す。・・・「みかんの花咲く丘」はこうして一番、二番、3番が意味のある一繋がりになる。「みかんの花咲く丘」はそういう歌なのだ。 ・・・ハハハハ、桜咲くニュースから童謡「花かげ」を口ずさみ、連想が連想を生み、なぜ日本の花嫁は淋しく悲しそうな歌に詠まれるのだろうと思いながら、「みかんの花咲く丘」へやって来た。【追記】 童謡「赤とんぼ」を思い出した。「1、夕焼け小焼けの 赤とんぼ/負われて見たのは いつの日か/3、姐やは十五で 嫁にゆき/お里のたよりも 絶えはてた」(三木露風作詞、山田耕筰作曲、大正10年;1921)。この詞には三木露風自身の幼い日の思い出が描かれていると言われる。三木露風が5歳のときに両親が離婚し、彼は祖父の家にあずけられた。面倒をみたのは子守の姐や。その背中におぶわれて赤とんぼが舞う光景を見た。しかし姐やは嫁に行ってしまった。ひとりぼっちになってしまった。「夕焼け小焼けの 赤とんぼ/止まっているよ 竿のさき」。・・・せつない日本の光景である。
Mar 30, 2024
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早朝から雨がかなり激しく降っていた。風も強い。しかし私は一ヶ月半も前からの約束があり、篠突く雨をついて外出。風が前から吹くのでズボンが雨に濡れる。 東京は昨年より15日遅れで桜が咲いたというが、通り道の桜はいまだしというところ。ただ、ある家の門前に、盆栽というには大きすぎるが鉢植えの桜が一本、咲いているのを目にした。この風雨で散ってしまわなければよいが。鉢植えとはいえ屋内に取り込むには大きすぎた。 筍が店に並んだ。一本買う。先端を見て、すっかり土に埋もれていたことがわかる。こういう筍はアク抜きをしないほうが香り高く、美味い。さて、どう調理しようか。 春野菜も上手い季節。水菜(地方によって京菜あるいは壬生菜ともいう)、蕗、そしてみずみずしいアスパラガスも買った。 小庭の文旦の実が地に落ちていた。中身はすっかり鳥に喰われ、皮だけがまるで栗のイガが三つにはじけるように割れている。このところ鳥たちが文旦を喰いにくる。中身はすっかり食い尽くし、皮だけが残っている。 じつは鳥たちが文旦を喰い始めたのは今年になってからである。というのも、我が家の文旦は毎年たくさんの実をつけていたが、私がためしに食ってみると苦味があった。マーマレードを作ってみたことがあるが、苦味は抜けなかった。そのマーマレードの苦味は私は意外に好きだったが、一度きりの試みに終わった。ところが鳥がすっかり喰っているので、また私は食べてみた。苦味がないのである。酢っぽさは、夏蜜柑ほど。・・・なるほどなぁ、と野鳥の食い物をみつける鋭い感覚に感心したのである。100個ぐらいも生っている、どうぞどうぞ喰っておくれ、というわけである。 雨に打たれているからっぽの皮を私は拾い集めた。
Mar 29, 2024
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少なからず驚いた。弟が遺言書を持っていてくれと、私に預けた。開封は裁判所がするので、開封しないように、と。開封すると遺言書として無効になるからである。私は無言で受け取った。 さて、私自身も作っておかなければならないか・・・
Mar 26, 2024
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手早くというか口早くというか、朝昼夕の食事をサッとすませ、相変わらず執筆に専念。もう12時間も書き続けている。目薬をさしながら、そして、口には出したくないが、ただいま21時を過ぎて少し疲れた。なんだか止められなくなっている。・・・しかし、もう止める。 腹立たしいのは執筆の最中にコマーシャルや、音声生成でアンケートをもとめる電話だ。アンケート電話は即座に切る。コマーシャル電話も即座に切る。応答はまったくしない。ただきょうの一件のコマーシャル電話はもう何度かかってきたか知れない。これは女性の肉声である。とうとう私は言った。「あなた、でたらめに電話しているのでしょう? 無礼だね!」・・・さて、これで効くかどうか。なにしろ近頃の女性は図々しい。私はヒトに勧められて物を買ったり見たりしない。私の選別眼はそんじょそこらのヒトに分かりはしない。そんなフラフラした精神でもない。・・・まあ、そんなとこだ。疲れているので邪魔する奴にはイライラするのである。
Mar 22, 2024
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「春の嵐が吹くまえに」と、故谷村新司さんが歌ったけれど、今日は春分だというのに嵐が吹き捲くっていた。重いコートを着直さなければならなかった。 家人はレストランのシェフ主催のパーティに出席し、深夜まで帰ってこない。私は終日、執筆。 3月20日は赤穂浪士・大石良雄の死んだ日、大石忌である。かつては京都祇園の万亭(一力)で法要が営まれていたが、現在はどうなのだろう。私は知らない。 狂うまで花に踊りや大石忌 青穹(山田維史)
Mar 20, 2024
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終日つよい風が吹いていた。まもなく20時になる今も、軒端を風が渡って行く。寒い1日だった。とはいえ暖房するほどでもない。そこいらへんの気温が微妙だ。 朝食後、文字原稿を書き始めたところに従姉から電話が入った。「おはようございます!」と張りのある元気な声だ。「暖かくなってきたから、みんなで遊びに来ない?」 昨年暮れの兄弟会食のとき、従姉は孫のひさしぶりの来訪があり参加できなかった。私たち兄弟にも会いたいが、大変遠くに住んでいるため滅多に会えない孫が来るので、会食を断念した。そのとき私は、「暖かくなったら会いに行くよ」と言ってあった。 「あなた幾つだっけ」と訊くので、ふた月たらずで79だと言うと、彼女は87だ、と。 大型建物の建築家だった彼女の夫は53歳の若さで死んだ。それを思い出しながら、「いまボクは50代の人に会うと、自分の子供に会っているような感じだよ」「そうでしょうねー。Nだって60過ぎだもの」と、彼女の長男の名を言った。 私たち兄弟のスケジュールを調整すると約束して電話を切った。 午後6時半まで執筆。
Mar 18, 2024
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寝ていると背にさざ波の揺れを感じた。ほとんど気付かないほどの揺れだったが、私は地震だと思い、枕元の時計を見た。午前6時17分あるいは18分になるところだった。揺れはすぐに背に感じられなくなった。日曜日なので少しゆっくり布団にもぐっていようと思ったが、例によって読みかけの本を開き、1時間ほどでその本を読了した。 ここ一ヶ月間ほどにもなろうか、ときどき今朝のような有るか無きかのこまかい揺れを寝ている背中に感じていた。すぐに忘れてしまうので、それがどんな揺れなのかを調べもしなかった。が、今朝の揺れについては午前中のウェザーニュースで午前6時17分ころ福島県沖で最大震度4の地震があったと報じていた。津波の心配はないとも。私が背中に感じたさざ波のような微かな揺れは、これであったと判った。 私が住んでいる地域から少し離れているが、ここはかつて立川断層の存在が指摘されていた。「かつて」と言ったのは、2018年だったはずだが日本経済新聞にその活断層の不存在が報じられた。その理由は、過去に断層の活動があったという証拠は無いというものだ。断層帯の約6割を占める名栗と立川断層南部には、立川断層は存在しない、と。そしてこの新聞報道より以前の2015年ころには、断層の名称が「箱根ヶ崎断層」に変わったらしい。 我が家がそうした活断層帯からはずれるか否かの論議は別として、13年前の東日本大震災時に我が家の敷地にありありと生じた異変は、実は今なおそのままになっているのである。地面の変異であるから、吾が手で旧に復することができない。しかも敷石の浮き上がりや、それを含むある線状にある東西の隣接地との境界塀に生じた亀裂などから、その地下にはあきらかに断層らしき地層があると推測できる。実は先ごろ11月に1ヶ月をついやして建物の外装のメインテナンスをしたが、その一部に3.11時のある変化に対する修復が含まれていたのである。 ハザード・マップによれば我が家のある一帯は危険区域には入っていない。しかし・・・私はこのハザード・マップの調査を信じることができないでいる。 オッ! 書き終えてアップしようと思ったら、また揺れた。午後12時3分。
Mar 17, 2024
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近頃どうしたことか夜中の3時頃に目が覚めてしまう。目が覚めると書いたが、実のところ目はつむっている。頭だけが冴えるのだ。そのまま転々と寝返りうっていると、いつのまにか再び寝入ることもあれば、まったく眠れないこともある。しかたがないので灯を点け、読みかけの本を開く。就寝前にも1時間半から2時間ほど読書するのを日課としているが、眠くなるとそのまま本を枕元に置いて寝てしまう。そんな読みかけの本を開くのである。 そうして読んでいると、ある一行の記述に私は驚いた。それは人物伝のなかの派生的な記述(記録)である。派生的な人物とは云え歴史上の重要人物なので研究論文の数はおそらく膨大であろう。私が驚いた記録というのは、記録され私家版として極少部数印刷されたが、ある事情からすべて破棄された。しかし、ただ一冊、記録者の知人の手にわたったものが奇跡的に秘匿されたという。それが今私が読んでいる本の著者に借覧を許された。つまり私が驚いた記述は、ここに初めて世に現れたのであった。 私が驚いたのはその記録と、私が数十年前に読んだアマチュア研究者の論文の記述、さらにまったく別な小説のテーマの陰にある事件(歴史的事実)の記述・・・それらが私の頭のなかで一繋がりになったからだ。アマチュア研究者の論文について私は、その依拠した資料のなかの或る字句の解釈に思い込みがあるのではないかと疑念を抱いていた。しかし私は数十年間その研究論文の趣旨を忘れてはいなかった。 発表年代もたいへん異なるこれら三つの文書を、一繋がりのこととして言及したものは嘗て無い。それはそうだ、個人に秘匿された(科学的専門的な)記録が世に出たのは、今私が読んでいる本が初めてなのだから。 ・・・しかしながら、私の頭の中で繋がった事柄を、私は書くわけには行かないだろう。あまりにも微妙な問題だからだ。私の頭の中で繋がったとはいえ、それが事実であることを示すためにはさらに多くの資料がいる。その資料は事態をとりまく外部資料には無いであろう。内部資料。それよりももっと密なるものでなければならない。・・・ウ〜ン、このテーマは墓場まで持って行くしかないか・・・
Mar 16, 2024
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明日3月11日は東日本大震災から13年目になる。復興はいまだに完全ではない。福島第一原発事故処理も然りだ。しかしながら、異常なほど記憶力が欠如する国会議員や、司法も行政も、まるで他人事のような振る舞いの13年間だったのではあるまいか。能登沖震災にしても、すでに2ヶ月有余が経過しているが、道路さへ不通のままだ。 先月のある日、私が住んでいる地区の方々が隔週で行なっている高齢者サロンに、民生委員退任後1年ぶりに出かけた。私が訪ねなかった間に、たくさんの顔見知りが亡くなっていた。何か話しを、と請われて私は亡母の在宅看護の実情をありのままに話した。また東日本大震災のときの様子もくわしく話した。 母は末期にはさまざまな電子医療機器に繋がれての在宅医療だったので、震災時の電源消失は即座に死活の事態だった。それらの機器のレンタル契約会社や薬局、そして主治医の文字通り間髪を入れない素早い対応があって、母の命は救われた。そしてまた、介護人・・・つまり私が自分の身体を気づかないうちに損なっていたのか。ある日、母の主治医が私の様子を見て、「お兄さん、ちょっと診せてください」と、母の介護ベッドの傍で私を診察した。「病気寸前のところです。すぐに病院に行ってください」と主治医は言った。 以前私はこのブログに、血圧測定日記と1日の食事記録を毎日欠かさず書いていると述べた。じつは主治医の勧めですぐに病院に行ったときから始まったことだ。血圧測定日記は1年間にちょうど1冊。現在12冊目である。 ・・・高齢者サロンでそんな話をしたのだった。少し暗い話だったので、私は「歌いましょう」と、「浜辺の歌」、海つながりで「桜貝の歌」、それから明るく楽しく「高原列車は行く」を歌った。こんどは歌唱指導に来てくださいと言われたが・・・さあて、さあて。 下に掲載する絵は、震災後まもなくに刊行が予定されていた津波小説集の装丁のためのスケッチである。ある事情で使用されなかった。山田維史 油彩Tadami Yamada次は母の様子の当時のスケッチ。山田維史Tadami Yamada
Mar 10, 2024
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いやはや東京の明日は雪の予報が出ている。3月もすでに1週間が過ぎたというのに。我が小庭の樹木はほとんどが常緑樹なのだが、落葉の紫陽花はもうずっと前から新芽を出し、その一部は若葉が萌えている。冬のうちは完全に土中に埋まっていて、有るか無いかさへわからないアフリカ起源のアガパンサスは、力強く15cmにも伸びた。・・・それなのに可哀想に、雪を被るかもしれないとは。たしかに夜も9時を過ぎて、次第に寒気が増してきた。 春雨や朝餉の膳に蜆汁 青穹(山田維史) 婀娜情け散り敷く梅に春の雪
Mar 7, 2024
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暖かくなってきたと思えば、今日はまた寒い。これを「寒の戻り」というのか。朝から小雨が降っている。住宅街を灯油販売の車が行く。商人は透かさない。えらいもんだ。 とはいえ暦のうえでは今日あたりから啓蟄(けいちつ)。虫、穴を出るである。 穴から出ないやつらが国会にはいる。日本の国会に啓蟄という言葉はついぞ無い。泥棒たちがお手盛りの会議をやっている国だ。 啓蟄やまたぞろ潜る議員連 青穹(山田維史) 亀鳴くや泥棒会議の議員連
Mar 5, 2024
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きょう3月1日は1954年の同日、ビキニ環礁付近の海域でマグロ漁の操業していた第五福竜丸が、アメリカの原水爆実験「ブラボー」によって放射能灰を浴びた。戦後9年にして広島・長崎につづく三度目の日本人原水爆被害である。実験に使用された原水爆が「BRAVO;ブラボー(万歳)」と名付けられていた事実が、当時の欧米諸国の原水爆に対する考えを反映している。原爆被害は実は日本が唯一だったのではなく、ビキニ環礁域の島民も被曝に苦しんだのだった。 私は第五福竜丸被曝記念日にあたり、ちょうど10年前、60周年記念日にもこのブログ日記に書いている。その記事をそっくり再掲載してみようと思う。原水爆禁止日本協議会理事長であり、大学時代の私の国際法の教授安井郁氏の思い出もある。その記事には漏れているが、被爆した第五福竜丸が焼津港に帰ってきたニュース映画を、当時9歳だった私は観ていた。TVがない時代、映画館で本編映画の前にニュース映画が同時上映されていたのである。なお掲載した昔の映画リーフレット画像はそれぞれクリックすると拡大画像になります。【2014年3月1日の日記】 1954年3月1日午前3時42分、米国がおこなったビキニ環礁における水爆「ブラボウ;万歳」の実験により、静岡県焼津港所属の鮪漁船「第五福竜丸」の乗組員23人が被爆して、今日がちょうど60年目になる。「ビキニ死の灰」という言葉で語られることになるこの事件は、広島・長崎以後わずか9年で新たな原水爆被爆とそれによる死者が出たことで、世界に衝撃を与えた。 この事件の経緯を詳しくのべる余裕はないが、被爆した「第五福竜丸」は、現在、東京・江東区の東京都立第五福竜丸展示館(かつて夢の島と称していた場所)に展示されている。 ちなみに「第五福竜丸」被爆事件と被災した23人の乗組員については、最初に死亡した無線長久保山愛吉さんを中心に据え、新藤兼人が映画作品にしている。事件からまる5年後のことである。出演は宇野重吉、乙羽信子、小沢栄太郎、千田是也。 公開時、私は会津若松の若松大映で観ている。たしかワラ半紙のような紙に印刷した二つ折りのパンフレットを保存してあるはずと、幾つもの資料保存箱のうち、これか?と目星をつけて開けてみた。図星が当たって、意外に早く探し出せた。私が中学2年生の時だから、54年前の若松大映のパンフレットである。たぶん、現在残っている唯一の物ではないかしらん。ごらんいただくことにしよう。 一枚の紙の表裏に印刷していて、内側となる頁の囲み記事の執筆者に、原水爆禁止日本協議会理事長・安井郁氏の名がある。私の大学時代の国際法の教授である。もちろん映画を観た時には、数年後にはこの人が私の教授になるとは思いもしなかった。
Mar 1, 2024
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夜に入って雨が降り出した。しかし仕事部屋の暖房は一日中切っていたが、寒さはかんじない。急に冷え込む日もあるが、だんだん暖かくなってきているのだ。 小庭のクサボケが朱色の花を咲かせた。花卉の少ない我が家の小庭に一等最初に咲くのがクサボケである。 15,6年ほど前までは、アーモンドの純白の花が最も早く春の到来を知らせた。丈は1.8メートルもある木だったが、不思議なことに父が亡くなった年に完全に枯死してしまった。父が亡くなったのは3月だから、まるでその死の前触れのようだった。 ・・・まあ、不思議でもなんでもない。家人がみな父の介護にかかずらっていたので、庭の植物の世話どころではなかったからだ。それは母の死のときもそうだった。母も3月に逝った。そのころの小庭は、実にたくさんの花の種類が咲き誇っていたのだ。寝たきり状態の母を慰めるために、ベッドから見渡せる場所にたくさんの園芸種の花の鉢をならべ、門から玄関までの道の両側にも並べた。しかし、母の死とともに花盛りの庭は完全に枯れ庭になってしまった。 以来10数年が経つが、我が家には花の鉢は無い。野草の庭、雑草の庭である。・・・そんな小庭に残ったわずかな花木が、クサボケであり、柿、土佐文旦、椿、紫陽花、柏葉紫陽花、ハコネウツギ、アガパンサス、そして野草の二人静、ヤマジノホトトギス、ドクダミ、ミズヒキ。いずれも園芸種のような華やかさはない地味な花々である。 いつだったか、植物が好きだという坊やがひょっこりやってきて、我が家の貧しい花を見ていた。さて、お気に入りがあったのかどうか。 独り居や机に倚れば草萌ゆる 青穹(山田維史) 独り居の草の住まいや春の雨 ひとり来て雨の宿りや草萠ゆる 雨音に耳をすませば草萠ゆる
Feb 29, 2024
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初代水谷八重子がお蔦を演じた新派の『婦系図』は名舞台。原作はもちろん泉鏡花の小説。歌謡曲にも歌われた。小畑実の『湯島の白梅』である。 その『湯島の白梅』は、少し前まで芸者だったお蔦が湯島天満宮の境内で恋人主税に縁切りを告げられ、「別れろ切れろは芸者のときに言うことば」と名セリフを言う場面を、「湯島通れば思い出す」と回想風に歌詞にしている。季節はちょうど今時分。境内に梅の花が咲いている。・・・この歌詞で私がおもしろく思うのは3番だ。「青い瓦斯灯 境内を 出れば本郷 切り通し・・・鐘は墨絵の 上野山」(佐伯孝夫作詞)とある。ここには明治の頃の地理が的確に述べられている。 現在の本郷通りを東大赤門前を過ぎて十字路を春日通りに入ると間もなく湯島四丁目。道はやや左に曲がり始めるがそこが切通し坂である。天満宮は通りの右側、湯島三丁目。38段の石段をのぼると湯島天満宮である。学問の神菅原道眞を祀り、今時分は大学受験の合格祈願や祈願成就のお礼参りなどの若者たちの姿が目立つ。 湯島天満宮は地理的に高台にあるのだが、明治の頃はそこに立つと、上野の寛永寺の梵鐘が聞こえてきたのだろう。そして暮れなずむ東京市の家並みが墨絵のように望めたのだ。 現在の東京の市街はどこもかしこも目まぐるしいほど急速に変わってゆく。1年、いや、半年と昔の姿を残しはしない地域もある。昭文社版のエリアマップを手にしても私はただ呆然とするばかりだ。 ところで、前述の『湯島の白梅』の歌詞のように、東京の地理を丹念に描写している小説がいくつかある。本郷界隈だと森鴎外の『青年』。ストリートヴューのようだとは言えないが、本郷界隈がありありと見えてくる。永井荷風の小説や日記『断腸亭日乗』もしかりだ。永井龍男『東京の横丁』は御茶ノ水の近辺、明大の裏手の猿楽町の様子が語られている。 小説には主人公の行動とともに多くの街が登場する。しかしながら街の構造が読者に手に取るようにわかるという小説は意外に少ないかもしれない。イギリスのミステリ小説だと、昔のロンドン市街などは大きな変化もなく、ちまちました民家が密集しているのでもないから、たとえば〇〇通りとか△△街などと書くだけで読者に具体的なイメージが喚起されたのではないか。そのような書き方がされている。 川端康成に『弓浦市』という短編小説がある。 香住という小説家の自宅に、ある日、五十代と思われる婦人が不意に訪ねてくる。そして香住に九州の弓浦市で会ってから30年ぶりに会うことができたと言い、その思い出を縷々と述べる。香住の記憶は曖昧で、弓浦という町も知らなければ婦人に会った憶えもない。しかし、婦人の言うことは香住の友人についてなど事実のこともある。帰るという婦人を送って廊下に出ると、とたんに婦人の体はゆるみだして肉体関係をもった女のからだのようになった。のみならず婦人の二人の子供、娘と息子に、香住のことはよく話して聞かせてある。子供達は香住のことを親しく思っている。そして、「この子は香住さんの子じゃないかしらと思うことがあるんですよ」・・・婦人が帰ってから、香住は日本の詳しい地図と全国市町村名を本棚から取り出し、弓浦市を調べた。そんな町はどこにも無かった・・・ 夢の話などしなくてもよいのだが、私は夢のなかにかなり明確な構造の町をもっている。いくつかの部分に分かれているが、しばしば私はその同じ街を歩き回る。徒歩のときもあるし、自転車のときもある。バスの時も列車のときもある。郵便局や商店街や、駅の切符売り場や改札口やホームや駅員や。小さな食べ物屋が並んだ路地。その一軒のラーメン店。駅裏通りの猥雑なビル群。大通りの本屋の前から少し下って二股道の一方の坂道。両側は商店が軒をつらねているが、ある一軒の横道が友人の家への近道であることを私は知っている。鬱蒼と茂った木々のトンネルの奥の邸宅。遠くに光る河原を望む高台の全面ガラス張りの部屋。・・・等々。 しかし、現実にはそんな町は存在しないばかりか、「友人」と述べた人物が誰であるかさへ不明だ。私はときどき妙な気持ちになる。夢のなかの町の構造があまりにも明瞭で、「行き慣れて」いるので、いまや私の実体的な記憶の一部になっているのではないか、と。 以前紹介したYouTubeの「AIZUチャンネル」が、毎回、会津若松市とその周辺の観光客が行かないようなところを動画で丁寧に撮っていられる。60年前まで同市に在住していた私は懐かしさ半分、あとの半分はその変わりように呆然としながら、しかしまあ、楽しみながら観ている。 先日は会津若松市のメインストリートである神明通りと、その裏通りにあるロイヤルプラザという遊興施設が取り壊されるために、最後の姿を撮影していた。チャンネル主宰者あきくんにとっては青少年時代の思い出の建物である、と。 その建物は、むろん私の知らないものだ。60年前はそのあたりにグランド銀星という洋画専門の大きな映画館があった。こちらは私がしばしば通った映画館である。今回のあきくんの動画を観ながら、私は60年前の会津若松市街をあちらこちら思い出していた。木下恵介監督の『惜春鳥』には私が知っている昔の神明通りや、現在のテーマパーク然とした鶴ヶ城ではない、ただ石垣ばかりの鶴ヶ城が出てくる。中学生の私がうろつきまわっていた鶴ヶ城である。今ある天守閣などなかったが、今よりもっと城下町という雰囲気を私は市街のあちらこちらに感じていた。あきくんばかりではなく、おそらく現在60代になられる会津若松市民も、私が知っている会津若松市とは全然違う街を現在見ていられるはずだ。 私の資料箱に65年前の会津若松市の市街地図がある。当時、同市でもっとも充実した本棚だった福島書房が出版した地図である。現在その書店は無い。いつかその地図を掲載してみようか。 現代建築は悪くすると耐用年数30年というところだろう。人生90年時代のようだが、その人生のうちに住んでいる街の風景は3度も変わる。・・・人間、晩年になって分かるのだが、「記憶」が人生を豊かにする。・・・私は、郷愁にひたるのではないが、そう思う。【訂正】文章の冒頭、「湯島の白梅」の原作を尾崎紅葉「金色夜叉」と書いてそのままアップロードしてしまいましたが、これは泉鏡花の「婦系図」の間違いです。紅葉は鏡花の師。そして「金色夜叉」の主人公は貫一お宮。「♪熱海の海岸散歩する 貫一お宮の二人連れ〜」ですね。まちがいを風呂に入っていて気がつき、あわてて飛び出し、訂正しました。記憶について書いたのに、我ながらあきれています。すでにアクセスしてくださった方がたくさんいらしたようで、すみません。・・・もう一度風呂に入り直します。
Feb 27, 2024
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今朝、作曲家の新実徳英氏からメールが送られてきて、17日朝日新聞朝刊にエッセイを書かれたとあった。まだ新聞を読んでいなかった私は、急いで開き、読書欄〈ひもとく 冬に読みたくなる本〉に、題して「感性引き締まり、思考深まる」と、三冊の本についてお書きになっていた。 私の感想は先ほど20時過ぎに、メールに認めてお送りした。(ここにはあらためて述べない)。 私が勝手に存じ上げているとしてきた作曲家・新実徳英の関心の系譜(感性の有り様)のようなことを、なんだか愉快に確認した思いがする。
Feb 17, 2024
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早朝から午前中いっぱい強い風が吹いていた。春一番なのかな? そんな中を、特殊な紙を買うために外出。街を歩いているとコートを着ていない人もいる。春の装いというほどではないが、やはり暖かくなって来ているのだ。私自身、普段の重ね着をやめた。ダウンコートだけは着て出てきたが、暑い。歩いているうちに背中が汗ばんできた。 ふと目についた一枚の張り紙。一枚扉に貼ってある。 「ドアを開けてお入りください」 ウン? 開けずに入れるドアがあるのかな? 自動ドアではないと注意しているのかな? ノブがついているし、どう見ても自動ドアではないけれど。・・・私はなんとも気持ちが落ち着かなくなった。なぜわざわざこんな張り紙をしたのだろう、と。何の問題もないような張り紙の文言ではあるが、微妙にオカシイ。・・・まあ、クスクス笑って通り過ぎよう。春じゃもの。 春一番白髪を巻き上げてゆく 青穹(山田維史)
Feb 16, 2024
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ヴァレンタイン・デイ(愛の日) 愛の日やカカオ九十五チョコレート 青穹(山田維史) 愛の日や血糖気にしてビターチョコ 愛の日や薄氷を割りて傘寿待つ ◯愛の日や薄氷踏みつ八十路かな 明け前の一番列車冴え返る 老いるとはこう云うことか針供養
Feb 14, 2024
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今日は気温が高かった。午後は仕事場のエアコンディショナーのスイッチを切ってしまった。現在、まもなく19時になるが、まだ暖房していない。このまま暖かさがつづくのかどうか。 細茎に似ずなシャッキリ水菜かな 青穹(山田維史)
Feb 13, 2024
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ほぼ半日、事務。 少し疲れたので夕刊を取りに出ると、土佐文旦の木から雪解けの雫が後ろ襟に落ちた。 鈴なりの文旦が雪の重みで三つ四つ残雪のなかに落ちていた。普段から何も手をかけずに放ってある。以前口に入れてみると苦味があった。ジャムにしてみると、いくらか苦味はなくなり、残った苦味を私はむしろ好んだ。しかしジャム作りも一度きりだった。 今日、雪の上に落ちた鮮やかな黄色の実を、ちょっと食べてみた。するとほどよい酸味で、意外にも美味しいのだ。じつは試しにオレンジ・ピールのように、皮を砂糖煮にしてみようかと思っていた。なにしろたった一本の木なのに、40個は下らない(100個以上だった)、まあ、豊作なのである。世話もしないで放ったらかしにしているが、かと言って捨てる気にもならない。雪の重みで落下したけれども、取らずにおくといつまでもぶらさがっている。鮮やかな黄色が次第に黒ずんで、一年以上も年を越す。 昔、歌人の塚本邦雄氏が短編小説のなかに、菊の花がいつまでも枯れずに腐(くだ)すさまを書いていた。私はその感覚の鋭さに慄然としたおぼえがあるが、我が家のたわわに生った文旦が黒ずんでゆくさまは、菊の花がいぎたなく枯れて行くに似ている。そんなふうになる前に、収穫して食べるもよかろうし、100個も食べられないから、ピールで菓子を作るもよかろう。 ・・・襟のなかに落ちてきた雪解けの雫にビクリとしながら、そんなことを思った。
Feb 8, 2024
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予報が大当たりになった。午後2時前から降り出した雪は6時過ぎには5cmほどに積もった。夜に外出しなければならないので、玄関先から駐車場までの雪かきをした。出かけるまでに元の木阿弥になってしまうだろうが、気は心だ。小庭の樹木はほとんどが常緑樹。そのそれぞれの緑色が雪をかぶって、薄明りに妙に美しい。 初雪や白髪頭に降りかかり 青穹(山田維史) 初雪や白髪頭を白く染め
Feb 5, 2024
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関東地方は明日、大雪が予想されている。 私は大学入学以来の東京住まいになるまで、ずっと雪国に住んでいたので、東京の大雪といってもたかが知れている。しかしながらその東京住まいが60年にもなると、積雪10cmになれば大ごとと感じるようになってしまった。じっさい、老年になってみると、目の前の雪に風流がってはいられないのである。10年前にはそれでも、積雪に難渋している高齢者のお宅の雪かきをしてあげることもあった。いまでは自宅の雪かきで精一杯かもしれない。願わくば降りませんように、というぐあいだ。 降ればそれ苦労のたねぞ歳の雪 青穹(山田維史)
Feb 4, 2024
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節分会ざれ句 節分や豆ぶつけらる政所(まんどころ) 青穹(山田維史) ◯国会に豆をぶつける節分会 なやらひや盗人だらけの政所* こそどろ安倍派九十一人厄払い** 国難は内にあるぞよ鬼は外*** 歳ほどの豆を食うのをやめにけり【註】 *「なやらひ」とは「追儺(ついな)」のこと。古代中国の高辛氏の三子が死に、一子は疫鬼となって人に病を與えた。方相氏がこれを駆逐したのをもって、追儺のはじめと伝える。現在では節分の夜に各地の寺社で追儺式や豆撒きがおこなわれる。ただし『古今要覧稿』(1780年代に屋代弘賢編纂の百科全書)によれば、元来は追儺と節分とは別で、神事の式日もちがっていたとある。 神戸市長田神社古式追儺式神事、おなじく明石市長田神社古式追儺式古式禊、福岡県久留米市大善寺玉垂宮鬼夜、京都廬山寺節分会追儺式鬼法楽、同じく吉田神社追儺式、あるいは河内松原の我堂宮八幡宮節分会湯立神事などが名高い。開催日が1月末日あたりとやや不定であるが、京都の岩清水八幡宮鬼やらいも節分の神事として知られている。 なお吉田神社の追儺式では鬼を退散させるに矢を射る。この弓は「桃弓」である。桃は『藝文類聚』(中国唐代初期624年成立)に「桃は五行の精 邪気を厭伏(ようふく)し百鬼を制す」ある。また弉諾命(いざなきのみこと)が黄泉の国から逃走するときに、桃の実を投げて追手をかわすが、『日本書紀』一書第九に「桃を用(も)ちて鬼を避(や)らふ縁なり」とあり、この思想が追儺式にもちいられる「桃弓」の由縁である。 **朝日新聞が〈「政治とカネ」を問う 〉とした連載記事で、2月1日朝刊が「訂正で追記された安倍派から議員ら側への「寄付」額。大半が裏金だったとみられる」と注記して、91人の実名と、不記載発覚までほっかむりしていた受領金額を明記した長大なリストを掲載した。取材苦労がうかがえる見事な記事であった。私はこのような徹底した取材をかつて見た記憶がない。ジャーナリズの本質的な仕事だと思った。そして、私はじつはこの新聞を手元に保存したのである。この91人の議員は、発覚後あわてて訂正記載したと言った奴もいるが、いわば「親方日の丸」のように親分の威力で、してやったりを決め込んでいたのかもしれないが、新聞記者たちもそうそうバカにされてはいなかった、ということだろう。有権者もこういうこそどろまがいの政治ヤにぶら下がっているべきじゃないネ。国政選挙・地方選挙がそんな奴らにぶら下がっているような時代じゃない、ということかもしれない。「政治家面を見たら、こそどろと思え」と言えば、言い過ぎだろうがネ。まあ、日本の政治は、左翼も右翼も、そのくらい堕落しているということだ。 ***あとから思い出した。与謝蕪村の遺稿に次の句がある。「柊さす果しや外トの浜びさし(ひいらぎさす はてしや そとの はまびさし)」・・・柊は周知のように節分に邪鬼を祓うために鰯の頭と共に軒庇にさした。蕪村のこの句は、北の果て津軽外ヶ浜の貧しい漁師の軒庇に柊がさされている光景を詠んでいる。その心は、害悪が侵入しない北の果てを夢見(蕪村が津軽に旅した形跡がない)、また貧しい暮らしのなかの心映えをうたう。「外トの浜(現在、外ヶ浜と表記)」は津軽半島の歌枕であるが、蕪村は、仏教の供養塔である卒塔婆を掛けている可能性がある。また、「外トの浜」の「浜」に「浜庇」を掛け、蕪村は維駒宛ての書簡(安永七年一月十日付け)で、「浜庇」についての説は二つあるが「磯打つ浪の砂を打ち上げ打ち上げ軒端のごとくに見ゆるを浜庇という説よろしく候」と、自分の句を説明している。しかし、これは私の独断であるが、漁師の小家の庇という意味で「浜びさし」を掛けていると解釈できると考える。優れた画家でもあった蕪村は、しかし自らも貧しかった。彼の俳句は貧しい庶民の目で見た暮らしであり、そういう人たちに対する共感覚であり、やさしさである。
Feb 3, 2024
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