東方見雲録

東方見雲録

2003.02.26
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カテゴリ: 2003
曇天の中で見たカンツバキ、晴れ間にはどう映るかという実に他愛ないテーマ。

本当は昨日書くべきものだっただろうが、その心境にもならず、今日に至る。今日とて熟して書いているわけではない。
引っかかることをとりあえず記しておこうという代物。

昨日はどうしても片づけなければならない事務があって、朝からパソコンの前。外はまぶしい春の光だ。数日ぶりの貴重な陽射しではあるが、カーテンを半分閉め、仕事場らしい雰囲気にしてキーボードをたたく。

一区切りついたところで、一服の煙草を買いに出かける。

前日、見たカンツバキを眺めるが、何も引きつけるものなし。変哲もない植え込みの一部に過ぎない。
落下した花弁は、朽ちしなびていく様が目につくだけ。
形ははっきり認識できるが、発色としてはくすんで見え、薄暗かったときのほうが、花弁の色もその色らしくあったように思える。

写真は人間の目で見たものとは違って映る。人間は思い入れの部分がアップされ眼に入り、他は捨象される。

最近、景色の変化を探そう、探そうとの思いが強かったように思う。そこに、目に入った花弁の色。新鮮だったのかもしれない。

また、アラーキーこと写真家の荒木経惟氏がしなび枯れかけの花や墓前の献花を写真にしていた頃、「花は死に近づくとより生き生きとしてくる。枯れる直前が一番きれいだ」ということばも思い出した。
すると前日みた輝きは、死が近づいたときの生の輝きなのかもしれない。

氏はこうも言っている。
「写真を窓にするんじゃなくて、鏡にしたいほうだから。向こう(被写体)がそれをわかってこっちに来てくれるわけだ」
これは写真が、被写体の本質的なものを写し取り、被写体を借りた自分の写し鏡ということか。ここに機械で写した風景から人の目としての写真、芸術への昇華があるというこではないか。

宮沢賢治は自らの詩を心象スケッチと定義していた。

写真にしろ、詩にしろ、優れて新しいものは、一人の眼、感性を通した自我の表現であるが、またそれは、普遍性をもつより大きな自我を孕んだ表現といえるのではないか。

なんて、またもや中年厨房をやっている自分。
覚めない自分を慰め、一服。

カーテンの空き間から抜ける空を眺めていると、そこに、スズメが2羽、3羽とベランダの手すりにやってきた。








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