東方見雲録

東方見雲録

2024.11.23
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カテゴリ: スクラップ
2003.11.23の日記 こちら​


明治44年(1911年)4月1日 、所沢に幅50メートル、長さ400メートルの滑走路と、格納庫、気象観測所を備えた、日本初の飛行場が誕生しました。
そしてその4日後 、徳川好敏大尉 の操縦するアンリ・ファルマン機が 初の飛行に成功。
この歴史的な経緯により 「日本の航空発祥の地」と位置づけられた所沢


代々木公園の渋谷門から入って左の方へ進んだ南西隅に近いところ。まばらな林の中にプレート型の標識 「日本初飛行の地」 と、その側に左右に大きく翼をひろげた鳥の形にデザインされた石碑「日本航空発始之地記念碑」が、さらにその前方に 徳川好敏大尉 日野熊蔵大尉 の像が建っている。


参考サイト: こちら
日本におけるエンジンを使った初の動力飛行は、陸軍代々木練兵場(現・ 代々木公園)において 明治43年12月11日〜20日 に実施され、日野熊蔵大尉のグラーデ機および徳川好敏大尉のファルマン機が初飛行に成功しています。代々木公園南口近く、梅の園の一画に 日本航空発始之地記念碑が立ち、日本初飛行の地だったことを表しています。
引用サイト: こちら
関連日記:2024.11.12の日記  「宙(そら)学入門」   こちら

国産 飛行機発祥の地

日野大尉 は、東京牛込五軒町の林田という人の全面的な協力で一号機を製作し、 明治43年3月18日 戸山が原 で飛行に挑戦しました。結果は失敗でしたが、次に挑戦した奈良原式1号機に先立つこと半年前でした。

 日野大尉が制作したエンジンの詳細は残っていませんが、後に津田沼の伊藤飛行機研究所にあったのを中正夫さんが見ており、その記憶では水冷式25馬力、2ストロークの吸入・掃氣式で回転数は1000rpmくらいだったとのことです。航空情報1959年4月号に中さんが エンジンのスケッチを描いています。

 戸山が原のことを徳川好敏氏は「わずか200mの射撃場に大勢の見物人が出て混雑し、思うような滑走もできなかったため」とかばっています。その1年後の明治43年4月11日日野、徳川両大尉は航空知識を学ぶためにヨーロッパへ向けて出発したのです。

 私は、海軍の 中島知久平
関連日記:2022.06.02の日記  戸山公園   こちら


日本の飛行機王・中島知久平 こちら
明治17年(1884年)1月11日 – 昭和24年(1949年)10月29日)65歳没。
海軍軍人(海軍大尉)、のち実業家・政治家。
中島飛行機(のちの富士重工業・SUBARU)創始者。


明治36年(1903)10月に、海軍機関学校(海軍兵学校機関科)入学(第15期生)。
明治40年(1907年)4月25日、海軍兵学校卒業。明治45年、海軍大学校卒業。
海軍中尉となった中島知久平は明治45年に米国に派遣され、さらに大正3年にフランスに出張し、飛行術・機体整・飛行機製作技術などを会得。
大正3年、中島知久平(機関大尉)は横須賀海軍工廠飛行機工場長として設計試作などに従事。

飛行機研究所
大正6年、中島知久平は、航空機の将来に着目し「航空機は国産すべき」「それは民間製作でなければ不可能」と結論し、「飛行機研究所」を設立。海軍を大尉で退役した。(予備役編入)

「飛行機研究所」は、群馬県新田郡尾島町(現・太田市)にて創業(大正6年・1917)。
中島邸宅のすぐ近くの河川敷に滑走路が設けられた。

中島飛行機製作所
「飛行機研究所」 は、大正7年に「日本飛行機製作所」に改称し、さらに大正8年に「中島飛行機製作所」と改称。
大正13年(1924)に「中島飛行機東京工場」(後の東京製作所・杉並区桃井)を建設し、翌年より東京工場にてエンジンの本格生産を開始。

昭和12年には、中島知久平は近衛内閣の鉄道大臣に就任。群馬県人として初の大臣であった。

そして昭和13年(1938)に陸軍の増産要請により陸軍専用のエンジン工場として「中島飛行機武蔵野製作所」(武蔵野市緑町)を開設。
昭和16年(1941)、陸軍専用エンジンを製造していた「武蔵野製作所」の西側に、海軍専用のエンジン工場として「多摩製作所」が開設。
昭和18年に軍需省より増産命令を受け両製作所を統合し陸海軍機の生産を一元化された「中島飛行機武蔵制作所」が成立。
国内エンジン生産シェア4分の1を誇るものとなる。

昭和18年12月、軍需会社法により中島飛行機は軍需省管理下の軍需会社に指定。

武蔵野市の中島飛行機武蔵製作所を中心に西東京田無には中島航空金属田無製造所、三鷹には中島飛行機三鷹研究所などが展開。また周辺には立川飛行機や陸軍立川飛行場、陸軍調布飛行場、府中陸軍燃料廠など軍事施設が集中する一大航空産業地区が出来上がっていた。

昭和19年(1944)11月24日。
マリアナ諸島を発進したB29の東京初爆撃の目標地点は「中島飛行機武蔵製作所」であった。
米軍は武蔵製作所を標的とし高度8000メートル以上の高高度爆撃を行うも、この初空襲での命中率は高くなかった。武蔵製作所は1箇所の工場としては例を見ない計9回に及ぶ爆撃を受ける。

関連サイト:中島飛行機武蔵製作所関連の戦跡散策 こちら





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Last updated  2024.11.23 05:39:43コメント(0) | コメントを書く


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