東方見雲録

東方見雲録

2024.12.21
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カテゴリ: 郷土




日本海新聞 1213

倉吉
伯耆国倉吉(現在の鳥取県倉吉市)は、江戸時代から千歯扱きの製造が盛んな場所だった。明治22年(1889年)2月4日付「官報」の「倉吉稲扱製造景況」という記事によると、江戸時代の安永年間(1772-1780)に製造が始まり、天保9年(1839年)の改良により名声を得て、明治時代に倉吉の多くが千歯扱きに関わるようになった、とある。倉吉は鍛治町があり、江戸時代前期から多くの鍛冶屋があった。倉吉では、千歯のことを「千刃」と表記するが、倉吉千刃の製造はこの鍛治町が中心だった。また、千歯扱きの販売や行商人への資金貸出を行う「鉄耕舎」という会社が明治13年(1880年)に倉吉出身の三島久平とその近郊に住む岩本廉蔵の二人によって創設された。

製造工程は、穂を作る鍛冶仕事とできた穂を台木に取り付ける仕事に分けられる。鍛冶仕事は原料の地金から板状の荒金をとり、それを割って穂の素材とし、たたき伸ばし、また鍛えて穂を造り、ヤスリで削って刃をつけ、焼きを入れて完成する。出来た穂をからみ釘をつかって台木に取り付ける仕事は「からみ」と呼ばれ、千歯扱きの善し悪しを決める大事な作業で、熟練の職人があたっていた(注:「伯州倉吉改良稲扱株式会社」の製造工場や職人の様子を写したガラス乾板写真の内容に基く。)

倉吉の千歯扱きは行商を中心に販売されてきた。自ら行商先を選んで行く場合もあれば、先方の求めに応じて行くこともあった。倉吉の製造技術は鍛冶職人の行商により全国に伝わってきたが、中には行商先に移り住み現地で製造する事例も見られた。鉄耕舎の田中富蔵は、行商先の八王子に店を構えて製造・販売・修理を行った。富蔵の千歯扱きは八王子をはじめ、埼玉・東京・神奈川で広く使われており、好評を得ている

引用サイト:Wikipedia情報   こちら

時代とともに変化した「脱穀(だっこく)」するための道具  クボタ   こちら















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Last updated  2024.12.21 14:27:31
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