東方見雲録

東方見雲録

2025.05.02
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カテゴリ: ランドスケープ



使用開始日   2000年12月12日
意匠図案説明  大友宗麟像、府内城趾

​大友宗麟​

西暦(年齢)

1530年(1歳)豊後国府内ぶんごのくにふないに生まれる。(幼名、塩法師丸)

1550年(21歳)お家騒動「二階崩れ」が起こる。これにより家督を相続。

1554年(25歳)キリスト教の布教を許可。

1555年(26歳)毛利元就と敵対をはじめる。

1559年(30歳)幕府から豊前・筑前の守護職を任命される。

1562年(33歳)毛利元就に大敗し、居城を臼杵城に移す。出家し宗麟と名乗る。



1578年(49歳)耳川の戦いで、島津軍に大敗。洗礼を受け正式にキリスト教になる。

1586年(57歳)島津軍に臼杵城を攻められるが、国崩しを使い勝利する。

1587年(58歳)病死。死因はチフスとされる。
引用サイト: こちら

戦国大名・大友氏の支配地が小藩の海城へ 府内城


九州を代表する戦国大名のひとり、大友宗麟(そうりん)。外交手腕と軍事力、南蛮貿易による経済力で勢力を拡大し、大内氏や毛利氏などを押さえて北九州東部を平定。最盛期には九州6カ国を支配した。

鎌倉時代に豊後(大分県)の守護に任じられた大友氏は、守護から守護大名、戦国大名へと成長した一族だ。400年にわたり豊後を支配し、最も隆盛したのが宗麟の治世下といえるだろう。島津義久の豊後侵攻で滅亡の危機に面したが、豊臣秀吉を頼り難局を回避。秀吉が九州を平定すると秀吉傘下の一大名となった。
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府内城は、江戸時代を通じて府内藩の本城だった城だ。現在も大分県庁や大分市役所が城下町にあり、大分の中心地といえる。府内城という名称なのは、かつて大友氏が守護所を置いていたこの地が「府内」と呼ばれていたから。大友氏は、府内城の南東1キロ余りのところにある大友氏館を拠点としていた。大友氏館は大分平野の西側を貫流する大分川河口付近の西岸、古代の豊後国府も置かれた地域にあり、15世紀末には上野台地上にある上原(うえのはる)館と併存して機能していたとみられている。
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府内城が築かれたのは、大友氏が府内を去った後のことだ。1587(天正15)年に宗麟が没し、後を継いだ大友義統(よしむね)は1593(文禄2)年の朝鮮出兵時の失態をとがめられて改易。これを受けて、秀吉は豊後を分割して家臣に分け与えた。そこで秀吉の命令により石田三成の妹婿・福原直高が12万石で豊後に入り、府内城を築いた。

1597(慶長2)年に豊後を与えられた福原直高は、府内には入らず「荷落(におろし)」という地に新たに築城を開始した。海上交通の要衝にあり「荷物を落とす」場所であることが荷落の地名の由来だが、「落」という字は落城を連想させ縁起が悪い。そこで「荷揚」へと改称されたらしい。府内城の所在地が大分市荷揚町なのも、別名・荷揚城と呼ばれるのもそのためだ。

そして次が、関ケ原の戦いの翌年、1601(慶長6)年に入城した竹中重利の時代だ。竹中重利は幕府の許可を得て築城を再開し、城の大改修と城下町づくりを進めた。近くの山や海岸、旧大友氏館などから巨石を運び石垣を積んで防備を強化。加藤清正から石工を数十人派遣してもらい、天守を建造するために材木を土佐から集め、大工や瓦師を大坂・伏見から招いたという。なかなかの大事業だったようだ。
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府内城の特徴は、ほぼ高低差がない、海に面した平城であることだ。海と川を巧みに利用した、秀逸な縄張(設計)の海城といえるだろう。現在は堀のほとんどが埋め立てられ市街地化されているが、江戸時代初期に描かれた「豊後府内城之絵図」と照らし合わせることで、その姿を思い浮かべることができる。

城の中心部は、本丸、二の丸(東の丸、西方の丸)、北の丸(山里丸を含む)などで構成される。本丸と二の丸は廊下橋のみでつながり、西方の丸の北側は廊下橋で山里丸とつながれていた。北側は海に守られ、東側は大分川の河口に面していた。

引用サイト: こちら




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Last updated  2025.05.02 07:00:13
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