東方見雲録

東方見雲録

2025.12.29
XML
カテゴリ: ランドスケープ



意匠図案説明   日本庭園・須藤公園、三段の滝、石灯籠、亀を描く
開設場所     〒113-0022 東京都文京区千駄木3-41-3
引用サイト:​ こちら



千駄木 由来
古くは駒込村の一部で、名前の由来は、雑木林で薪などを伐採、その数が千駄にも及んだからという説や、室町時代の武将・太田道灌がセンダン(栴檀)の木を植えた地であり、この栴檀木が転訛したとの説があるが、柳田國男は『母の手毬歌』の中で、雨乞いの儀式「千駄焚き」(センダキと発音する地域が多い)と関連付けている。

江戸時代の古地図の下駒込村内に「上野東漸院持ち駒込千駄木御林」・「上野寒松院持ち駒込千駄木御林」の記載があり、ここから雑木を切り出して寛永寺の護摩の木や煮炊きに用いていた。明治以降は雑木林を切り拓いて、駒込林町と称された文化人が多い閑静な住宅地へと変貌した。

旗本小笠原順三郎邸など、かつて坂上に徳川家康に仕えた武家の屋敷があり、明治期以降は多くの文化人、政財界の著名人が居を構えるお屋敷街となる。1745年に町奉行支配となった町名に駒込千駄木町・駒込千駄木坂下町・駒込千駄木下町の名がある。千駄木坂下町の小笠原邸跡には、明治初期に旧豊後府内藩主だった大給家(元:松平家)が屋敷を移したことから、「大給坂」と名付けられた。その後、大給家の屋敷はのちの内閣総理大臣、大平正芳の邸宅になり、現在は邸宅跡地の一部が児童遊園として近隣に開放され、歴史ある立派な大イチョウがかつての面影を今に伝えている。

文京区立須藤公園は、江戸時代の加賀藩の支藩の大聖寺藩の屋敷跡であり、その後、政治家の品川弥二郎の邸宅、実業家の須藤吉左衛門の邸宅を経て、須藤家から東京市に寄付されたものである。千駄木ふれあいの杜も、太田道灌の子孫である太田摂津守の下屋敷跡であり、かつての屋敷内の緑が残されている貴重な緑地であるが、2001年に所有者の好意により文京区との間の市民緑地契約に基づき一般公開され、現在は所有者から寄附を受けた文京区が都市公園として設置している。



日本政策金融公庫駒込高風荘のある場所は、高位の女官で明治天皇の側室でもあった花松典侍が、明治天皇の死後に住んでいた邸宅跡地である。

1923年に発生した関東大震災では、千駄木を含む、いわゆる谷根千の町はほとんど家は倒れず町も焼けなかった。谷根千の町が焼けなかったのは不忍池の水と上野公園の緑、谷中霊園の緑があったことも理由として考えられている。

1945年の太平洋戦争における空襲では、一部の地区で直撃弾を受けて多くの方が亡くなっており、高村光太郎のアトリエも空襲により焼失した。
1965年4月1日、住居表示実施。駒込林町・駒込坂下町の大部分に駒込千駄木・駒込動坂町の各一部を合わせた町域を1-5丁目に分けて現行の「千駄木」となった。
引用サイト:Wikipedia情報   こちら

関連サイト:谷根千ねっと   こちら

日本庭園・須藤公園

引用サイト: こちら

谷根千の町 延焼を逃れる



引用サイト:NHK   こちら

谷根千とは、「谷中」「根津」「千駄木」の頭文字をつなげたものである。地理的に隣り合っていて、街の風情が似ており、後述の雑誌『谷根千』などにより一体的な地域として取り上げられるようになった。

この地域は山手線内側にありながら、太平洋戦争の戦災をあまり受けなかった。戦後も大規模開発を免れたため、昔の街並みが残っている。また、落語の町として「やねせん亭」という落語家の集まりがある。最近は住宅地の間に新しい雑貨店や飲食店等の個性的なショップが増え、観光地としての側面が強くなってきている。公益財団法人東京観光財団のウェブサイトにおいても、東京都の代表的な観光エリアの一つとして「谷中・根津・千駄木」が挙げられている。

都心近くにありながら古民家も残り、下町の雰囲気があるとも称される。こうした谷根千の雰囲気を保存・活用するため、朝日信用金庫と一般財団法人・民間都市開発推進機構が2018年に1億円規模のファンドを創設した
こちら

関連サイト:上野公園・谷根千地区を世界一の観光スポットに! こちら





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2025.12.29 00:00:06
コメント(0) | コメントを書く


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Website
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: