東方見雲録

東方見雲録

2026.02.19
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カテゴリ: ランドスケープ



意匠図案説明  郵便番号(〒111)なしの意匠へ変更。
開設場所    東京都台東区西浅草1-1-1

引用サイト: こちら




二天門
にてんもん
朱も鮮やかな浅草寺の東門・国の重要文化財
本堂の東に建つ朱塗りの門で、今の門は慶安2年(1649)に浅草寺の東門として創建された。当初は随身門といわれ、豊岩間戸命、櫛岩間戸命を守護神像(随身像)として左右に祀っていた。
 明治17年(1884)、神仏分離によって随身門に安置されていた随身像は、浅草神社に遷座されて、鎌倉の鶴岡八幡宮から広目天と持国天の像が奉納された。このとき名称を随身門から二天門と改めた。この二天の像は、昭和20年(1945)に修理先で戦災にあって惜しくも焼失し、現在の持国・増長の二天像は、昭和32年(1957)に上野・寛永寺の厳有院(四代将軍徳川家綱霊廟)から拝領した像。門に向かって右が持国天、左が増長天である。



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五重塔の高さは地上より53m


五重塔
ごじゅうのとう
スリランカ伝来の仏舎利を奉安
朱も鮮やかな五重塔は、昭和48年(1973)に再建された、鉄骨・鉄筋コンクリート造りの塔である。外から見ると、五重塔は地上面から建っているように見えるが、実際は基壇状の建物(塔院)の上に建っている。
 塔は、仏舎利を奉安したインドのストゥーパを起源とする。浅草寺の五重塔の最上層には、スリランカのイスルムニヤ寺院から昭和41年(1966)に奉戴した仏舎利が納められている。
 浅草寺に塔がはじめて建立されたのは、天慶5年(942)、平公雅によるとされる。当時の塔は三重塔であり、本堂に向かって二つの塔が左右に配された、「薬師寺式伽藍」ではなかったかという見解もある。というのも、江戸時代・寛永年間の浅草寺境内図を見ると、当時は、本堂の東側に五重塔、西側に三重塔が建ち、境内に二つの塔が並存していたからである。焼失後、慶安元年(1648)に徳川家光が五重塔を再建するものの三重塔は復興されなかった。
 この慶安の五重塔は本堂の東側に位置し、現在も礎石が残る。江戸時代は、上野寛永寺五重塔、芝増上寺五重塔、谷中天王寺五重塔とともに「江戸四塔」として親しまれた。特に浅草寺の五重塔は、浅草や浅草寺を描いた絵画における必須のモチーフであり、浅草のランドマークであった。
 明治19年(1886)、各所傷んでいた塔を修復することになり、塔のまわりに足場が組まれた。このとき修復の費用を捻出するために、一般の参拝者に足場を登らせた。足場に設けられたスロープ沿いに最上層の屋根部分にまで登れたため、人びとは遥か遠くまでの眺望を楽しんだことだろう。
引用サイト: こちら





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Last updated  2026.02.19 00:00:08
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