東方見雲録

東方見雲録

2026.04.11
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カテゴリ: ランドスケープ



使用開始日 2002年10月21日
意匠図案説明 石町時の鐘、吉田松陰終焉の地碑、ツツジを描く
開設場所    〒103-0023 東京都中央区日本橋本町4-14-2
引用サイト: こちら

石町時の鐘
都指定文化財 工芸品


江戸時代の時刻の報知方法ですが、江戸城内では「土圭之間(とけいのま)」に置かれた和時計で殿中の時刻を管理し、太鼓(当初は鐘)を打って時を報知(登城の時刻など)する方法がとられていました。一方、江戸の府内には、2代将軍・徳川秀忠の時代に本石町三丁目(現在の日本橋本町四丁目・日本橋室町四丁目)へ時の鐘を創設し、十二時(じゅうにとき)の一時(いっとき)ごと(約2時間おきに一昼夜)に鐘を撞いて江戸の人びとに時を知らせたといわれています。なお、明暦の大火(1657年)以降、江戸市街地拡大に伴って府内各所に時の鐘が増設されており、町奉行管轄のものは本石町と本所横堀の2カ所、寺社奉行管轄のものは後の移設も含めて13カ所(上野寛永寺・市ヶ谷八幡〈東円寺〉・芝切通し〈増上寺〉・赤坂円通寺・赤坂成満寺・目白不動尊・浅草寺・四谷天龍寺・下大崎村寿昌寺・目黒祐天寺・目白新福寺・巣鴨子育稲荷・西久保八幡)に及びました。

江戸府内へ最初に設置された本石町三丁目の時の鐘(通称「石町時の鐘」)は、享保10年(1725)に時鐘役(ときのかねやく)(「鐘撞役(かねつきやく)」「請負人」とも)・辻源七(つじげんしち)(名跡(みょうせき)相続の世襲制)が書上あげた記録によると、これまでに3回の改鋳(正保2年〈1645〉・承応元年〈1652〉・文昭院(ぶんしょういん)〈6代将軍家宣〉の御代(みよ)があった旨が記されています。なお、現在の十思公園に保存されている石町時の鐘(高さ約1.7m・口径約93cm)の鐘銘には、「寶永辛卯(ほうえいかのとう)四月中浣鋳物(しがつちゅうかんいもの)御大工椎名伊豫(いよ)藤原重休」とあるため、記録にある家宣治世下の宝永辛卯(1711年)改鋳の鐘であると思われます。ちなみに石町の場合は、鐘の聞こえる410町(設置された鐘ごとに定められた範囲あり)とかなり広い範囲から鐘撞銭(家持町人1軒につき1カ月銭4文)を徴収し、時の鐘の管理・運営費を賄っていたようです。

時の鐘は「石町は江戸を寝せたり起こしたり」などと川柳に詠まれるほど、江戸の時刻報知手段として欠かせない存在でしたが、明治初年の神仏分離令・太陰暦導入・時刻制度変更・午砲(ごほう)(空砲で正午を告げる)設置などの影響を受けて廃止となりました。

その後、本石町三丁目の油問屋・松澤家(大坂屋孫八)の手に渡った石町時の鐘は、関東大震災後に東京都へ移管されることになり、整備された復興小公園「十思公園」に建造したモダンな鉄筋コンクリート造の鐘楼堂内へと移設して現在に至っています。



中央区教育委員会 学芸員 増山一成
引用サイト: こちら

吉田松陰終焉の地碑



石碑には、松陰の辞世の句が刻まれている。

「身はたとひ 武蔵の野辺に朽ちぬとも
留め置かまし 大和魂」

命を絶たれてもなお、日本の精神を後世に残すという決意の歌だ。
引用サイト: こちら

関連サイト:東京の吉田松陰関連の史跡 こちら





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Last updated  2026.04.11 00:00:05
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