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ここの闘いで、私が知る限り一番つらいと思えたのは、毎日繰り返される業者とのやり取りだった。業者は、調査のための足場を作りに毎日海へやってくる。しかし、海を守ろうとし、基地に反対する人々は決して彼らに建設を進めさせない。たとえ、一本の単管でも、設置を許せば、それが基地建設につながってしまうのだから。しかし、土建業者にとっては建設が自分の仕事だ。その仕事がどのような意味を持とうとも、それはあくまでも「やらなければならない仕事」である。彼らは労働者であり、その仕事に雇用されている限り、その仕事を断ることはできない。海を守ること、そして人殺しに加担しないようにすることは、彼らの仕事を妨害することでもあるのかもしれなかった。彼らは、労働者としての立場を通そうとする。一方、ここで闘っている人々は、個人個人の意志と判断を通そうとする。当たり前だが、決して折り合わない。そして、敵対する。本当は、敵対すべき相手ではないことは、お互いわかっているのに。どんな問題も、話し合えば、解決する。話せば、わかってくれる。そう純粋に信じていたのは、2、3年前までだろうか。でも、実際は、話しても最後まではわかり合えない。お互い、理解しあえない。・・・立場が、違うから。それは、とても悲しいことだった。同じ人間なのに、立場や考え方、といった「カテゴリー」で人はこうも引き裂かれてしまう。基地建設が取りやめになれば、話は一番早い。そして、お互いのためにも一番いいはずだ。しかし、業者にも、闘っている人にも決定権は何もない。決定権があるのは、現場のことを何も知らない「お上」、つまり政府の人たちだ。結局、私含め「下っ端」の人々は上の決定やマスコミの情報に翻弄されるのだった。そして対立すべきでない者同士が対立させられてしまう。ここに、なにかグロテスクな社会構造がある。複合差別。ともいえるのかもしれない。憎むべき相手は、本来人間ではなく、こうさせてしまう社会構造なのだろう。現場だけでは、決して解決することができない。そして、対立すべき相手でない人々と対立しなければいけないことのつらさ。それが、どんなに精神的苦痛をともなうことか・・・。現場では解決できないからこそ。他の人々の助けが、必要なんです。ここ、沖縄の辺野古では。一日も早く、建設が取りやめになるように。みんな、支援してあげてください。*ここに書いてることはノンフィクションです。支援のためにジュゴンの絵本を売っています。単価は300円。原価は200円で、100円はカンパに使われます。ご希望の方は、asienko@hotmail.comまで連絡してください。発送します。よろしくお願いします!4月23(土)、24日(日)に東京、代々木公園で行われる大イベント、アースデイでも売ります。
March 29, 2005
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(23日のつづき)私は一日中、船の上にいた。そこから櫓を見ていた。揺れるけど、酔いはしなかった。すでに二日間フェリーに乗っていたから、船酔いには強くなったのかもしれない。一日中海の上にいると、潮の満ち干きがよくわかる。小潮、中潮、大潮。その日は中潮の日だった。満潮のときに比べて、2メートルも海面が下がる。すると、海岸から一キロほどあるところなのに、海の底が見える。少し泳いで沖のほう、リーフのほうへ行けば、軽々足がつき、歩けてしまうほどの浅さ。リーフと呼ばれる部分は、底が高くなっていて、シュノーケリングやダイビングに絶好の場所だった。大潮になったら、海岸からここまで歩けてしまうのかな。・・・自分は、やっぱりなまぬるかったのだろうか?人々の顔つきや表情を見て、抱いていたイメージが払拭されるような想いだった。 私が身につけてきた知識や、本で読んだこと、勉強したことはないよりはマシ、と思える程度のものだった。ここにいる人たちは、私が勉強してきたことを、すでに肌で知り、肌で悟っているように思えた。
March 29, 2005
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(昨日のつづき)命を懸けて――といっても過言ではないほど――闘っている人々の話を聞いていて、顔が熱くなってきた。10年弱にわたる闘いにおける不条理の数々の経緯、ここを訪れたフィリピンやパレスチナの人のこと。その日は風が強くて、寒さに凍えそうだったけど、話を聞きながら、そんなささいなことで震えてる自分を戒めたい気持ちになった。この海に基地が建設されることに反対するために、朝から晩まで、時には夜までも人々は座り込みを続けている。文字通り、自分の生活をも、すべて投げ出して。それが、どんなに精神的につらいか。当事者でなければわからないに違いない。それでも。人々は信念を持って、座り続けている。座り込みは――海やジュゴンを守るため?もちろんそういう人々も多い。でも・・・本当は、自分が気持ちよく生きるためだ。「環境を守ろう」、という言葉はあまり好きじゃない。大人が子どもに道徳教育をするように、この言葉はあまりにも陳腐化されている。ときには、偽善的な響きさえ持つような気がする。自分は、環境の中で「生かされて」いる。環境資源がなければ生きていけないのだから。「環境を守ろう」というと、何か主語がすりかわってしまう。本当は「自分たちが生きる」ために、それを目的に、環境資源を残すのだ。屁理屈かもしれないけど。それだけではない。そこにいる人々は、海だけを守ろうとしているわけじゃない。自分が生きぬいた戦争、ベトナム戦争や今行われているイラク戦争のことを思って、櫓に座っている。この地から飛び立っていく人たちが、かの地で人殺しをしている・・・そのことに、耐えられない。この海に基地建設を許すことは、彼らにとって、人殺しに加担することと同じ意味を持つのだ。いや、もうすでに加担している。自分たちはそれを、止められない。けれど、せめて、ここだけでも、守り通したい。罪悪感の中で、生きたくない。だからこの海は、最後の砦。その気持ちは、私も一緒だった。この2年間、無残に殺されていく人々の写真を見るたびに、何かしなければ、という思いに駆られていた。でも何をすればいいのかわからなくて、くすぶっていた。何かができるとすれば、この海かもしれない。そんな気持ちで来たのだけれど・・・
March 23, 2005
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海と自然が好きな人に。その海は透き通っている。透き通っている海は、空の色を映す。雲の厚さ、水深、そして太陽の光の強さによって微妙なグラデーションを織り成す。そこは、サンゴ礁とジュゴンの海。穏やかなさざなみしかない海岸の向こうに、一部分だけ白波が立っているラインが見える。この白波の立っている部分は、リーフと呼ばれる。このリーフの部分に、サンゴの群落がある。そしてそこに色鮮やかな魚たちが住む。もぐれば、とっておきの景色が見れるに違いない。それだけではない。このリーフ沿いに生息するサンゴは島を守る自然の防波堤でもあった。ここの海は一年を通して水温20度以下には下がらないという。この海に、希少なジュゴンが住んでいる。ジュゴンは水温15度以上のところにしか住めない。ジュゴンが住むことのできる、最北端の海、といえる。この海に、海岸から一キロほど行った所だろうか、4つの櫓(やぐら)が立っている。櫓というのは、建物を建設するときの足場に使われるパイプのような金属棒、つまり単管を組み合わせたもののこと。横幅、縦幅ともに3メートルはあるだろうか。それらは、特大のジャングルジムのように、海の上にたたずんでいる。単管には藻が生え、その下には既に魚が住み着いている。ハリセンボンに、キビナゴの子ども。けれども、そんなのどかさとは対照的に、近くには不発弾。そしてそこには、烈しく、座りこみを続ける人々がいた。何のために?――人殺しをさせないために。
March 21, 2005
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今日、帰ってきた。すごく、いろいろなことを感じた旅だった。思いがけなくいろいろな人に出会ったり、その人たちの生き方を見て、感激したり。・・・全部伝えたい、と思う。というより、伝えなくちゃいけない。 私が最初に何かを書きたいって強く思ったのは、旅行でいろんなものを見聞きしたときだった。自分が見たもの全てを書き留めたい。それはたぶん、自分が見た光景をとっておきたいという衝動からカメラのシャッターを無心に押したり、スケッチブックにその場面を写し取ったり、歌を作ったりするのと同じように、それはひとつの表現方法なのだと思う。たぶん人は何かしら、その人にあった方法で何かの形で自分が見たものを残そうとするものなんだろう。私は話がうまくない。自分が感動したことや経験したことをどんなにうまく伝えようとしても、その100分の1も伝わらない。自分の事をよく知っている、家族にさえも、友達にすら。・・・わかってくれない。だから、その欲求不満を文章にぶつけてみる。話をうまくできるようにしよう、と思うとともに、今は文章の方が話すよりもうまく伝わるかもしれない、と思うから。その望みを託して。どうか、届きますように。
March 19, 2005
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予告したとおり、今日は熊野古道について。去年世界遺産に登録された熊野古道。以前はあまりその存在を知られていなかったようだけど(私も知らなかった)、世界遺産となってから観光客は増えているという。熊野古道は平安時代にはじまった、熊野詣の道。熊野三山へ向かう、道だ。伊勢神宮は、身分の高い人しか参詣の許されない場所だったけれど、熊野はあらゆる人々に開かれた参詣の場所だった。岩波新書の『熊野古道』によれば、「信、不信を問わず、浄、不浄を選ばず」という言葉があるらしい。特定の宗教・信仰に拘わらず、また「汚れている」とされた身体障害者やハンセン病の人々にも参詣の許された場所。身分の高い低いに拘わらず、人々が救われようと必死で歩いた道。その門戸の広さから、熊野古道にますます魅力を感じた。「誰でも平等に救われる」っていうのは、重要だよね。特定のものを無条件に信じなければ救われないとか、身分に左右されるとか、そんな話は嘘っぽい。特定の人に利害が絡むのでなければ、全ての人が救われることに誰も困るはずがないのだから。新仏が結びついた、熊野権現の宿る熊野三山。あらゆる人々に開かれた場所。それに象徴されるように、昔は、仏教も神道も混合していた。明確な区別はなされていなかった。「近代」の、明治時代に入る前までは。<つづく>
March 3, 2005
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車で友達とドライブに行くのがちょっと夢だった。運転できるようになりたい、と思って教習に行ったのは一年半前。だが、その夢はあえなく破れた。マニュアルで取る気満々だった私は教官にまず始めに言われた言葉が「オートマにしたら?」それでもあきらめず、マニュアルで通してみた。案の定、卒検に二回落ち、泣いて教官を困らせた私。学科試験は一発で受かるも、実技で爆沈。免許を取ってからも兄には「お前の運転する車には乗りたくない。」と言われ、父には運転の指導を放棄される始末。言うまでもなく、ペーパーです。今、友達が教習に行っている。彼女も私と同じように苦労している様子。文系女って・・・だめなの??車って誰でも運転できるんじゃなかったの??今日改めて、悲しくなった私でした。免許持ってるけど、運転できるようになりたい(T_T)
March 3, 2005
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