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文政 12年( 1829 年 )9月、重病に伏していた 水戸藩 第8代藩主・ 徳川斉脩 は、後継者を公にしていなかった。そんな中、江戸家老・ 榊原照昌 らは、斉脩の異母弟・敬三郎( 斉昭 )は後継者として不適当であるから、代わりに斉脩正室・ 峰姫 の弟でもある第11代 将軍 徳川家斉 の二十一男・清水恒之丞(のちの 紀州藩 主 徳川斉彊 )を迎えるべきだと主張し、藩内門閥層の大多数も、財政破綻状態にあった水戸藩へ幕府からの援助が下されることを期待してこの案に賛成した。
これに対して、同年10月1日、 藤田東湖 ・ 会沢正志斎 ら藩内少壮の士は、血統の近さから敬三郎を藩主として立てるべきと主張して、徒党を組んで 江戸 へ 越訴 した。
*藤田 東湖 (ふじた とうこ)は、 江戸時代 末期( 幕末 )の 水戸藩 士、 水戸学 藤田派の学者。東湖神社の 祭神 。
戸田忠太夫 と水戸藩の双璧をなし、 徳川斉昭 の 腹心 として 水戸の両田 と称された。また、水戸の両田に 武田耕雲斎 を加え、 水戸の三田 とも称される。特に水戸学の大家として著名であり、全国の 尊皇 志士 に大きな影響を与えた。
名は彪(たけき)、字を斌卿(ひんけい)といい、虎之助、武次郎、誠之進の通称を持つ。号の「東湖」は生家が 千波湖 を東に望むことにちなむという。東湖の他には梅庵という号も用いた。
出自
先祖は 常陸国 那珂郡 飯田村中島の 百姓 。遠祖は 小野篁 に遡るとされているが、詳細不明であり眉唾に近い類である。
ただ、賢人と名高い小野篁を先祖に持つということが勉学の励みとなったと後に東湖は述懐している。曽祖父・与左衛門の代に水戸城下に移り、商家に奉公して のれん分け を許され店を開いた。
祖父・与右衛門(言徳)は水戸城下の奈良屋町で 屋号 「藤田屋」という 古着 屋を営んでいたが、学問を好んだ。その次男が東湖の父・幽谷で、幼少時より学才高く神童とうたわれ、 立原翠軒 の私塾に入門した。
さらに彰考館の館員となって頭角を現し、水戸藩 士分 に列した。幽谷には2男4女があった(東湖からすると兄1人・姉1人・妹3人)。長男の熊太郎は東湖の誕生前に早世していたため、東湖は唯一の男子として育てられた。
生涯
文化 3年( 1806 年 )、 水戸城 下の藤田家屋敷に生まれる。父は水戸学者・ 藤田幽谷 、母は町与力丹氏の娘・梅。次男であるが、兄の熊太郎は早世したため、嗣子として育つ。
文政 10年( 1827 年 )に家督を相続し、進物番200石となった後は、水戸学藤田派の後継として才を発揮し、 彰考館 編集や彰考館総裁代役などを歴任する。また、当時藤田派と対立していた立原派との和解に尽力するなど水戸学の大成者としての地位を確立する。
文政12年( 1829 年 )の水戸藩主継嗣問題にあたっては斉昭派に与し、同年の斉昭襲封後は郡奉行、江戸通事御用役、御用調役と順調に昇進し、 天保 11年( 1840 年 )には 側用人 として 藩政改革 にあたるなど、藩主・斉昭の絶大な信用を得るに至った。
しかし、 弘化 元年( 1844 年 )5月に斉昭が隠居謹慎処分を受けると共に失脚し、小石川藩邸(上屋敷)に幽閉され、同年9月には禄を剥奪される。翌弘化2年( 1845 年 )2月に幽閉のまま小梅藩邸(下屋敷)に移る。
この幽閉・蟄居中に『弘道館記述義』『常陸帯』『回天詩史』など多くの著作が書かれた。理念や覚悟を述べるとともに、全体をとおして現状に対する悲憤を漂わせており、幕末の志士たちに深い影響を与えることとなった。
弘化4年( 1847 年 )には水戸城下竹隈町の蟄居屋敷に移され、 嘉永 5年( 1852 年 )にようやく処分を解かれた。藩政復帰の機会は早く、翌嘉永6年( 1853 年 )に アメリカ合衆国 の マシュー・ペリー が 浦賀 に来航し、斉昭が海防参与として幕政に参画すると東湖も江戸藩邸に召し出され、 江戸幕府 海岸防禦御用掛 として再び斉昭を補佐することになる。 安政 元年( 1854 年 )には側用人に復帰している。
安政2年10月2日( 1855 年 )に発生した 安政の大地震 に遭い死去。 享年 50。当日、東湖は家老の 岡田兵部 宅へ藩政に関する相談をするために訪問し、中座して自宅に戻った際、地震に遭遇した。
地震発生時に東湖は一度は脱出するも、火鉢の火を心配した母親が再び邸内に戻るとその後を追い、落下してきた梁(鴨居)から母親を守るために自らの肩で受け止め、救出に来た兵部らの助けもあって、何とか母親を脱出させるが、自身は母親の無事を確認した後に力尽き、下敷きとなって圧死したといわれる。
藩邸跡である 東京都 文京区 後楽には「藤田東湖護母致命の処」と記された案内板がある。藩邸跡に建立されていた記念碑は道路拡張の際に 小石川後楽園 へと移されている。
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