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2024年07月31日
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カテゴリ: 江戸後期




(あいざわ せいしさい、 天明 2年 25 1782 文久 3年 14 1863 ₈8 27 ))は、 江戸時代 後期から末期( 幕末 )の 水戸藩 士、 水戸学 藤田派の学者・ 思想家 。名は安(やすし)。字は伯民。通称は恒蔵。号は正志斎、欣賞斎、憩斎。


天明2年(1782年)、水戸藩士・ 会沢恭敬 の長男として、水戸城下の下谷で生まれる。母は根本重政の娘。幼名は市五郎、または安吉。会沢家は代々 久慈郡  諸沢村( 常陸大宮市 諸沢)の農家で、初代藩主・ 徳川頼房 のとき餌差(鷹匠の配下、鷹の餌である小鳥を捕まえる職)となり、祖父の代に郡方勤めとなり、父・恭敬の代に 士分 となった。


寛政 3 年( 1791 )、10歳にて 藤田幽谷 の私塾(のちの青藍舎)へ入門する。師となった幽谷は正志斎の8歳年上でいまだ18歳ではあるが、すでにその突出した学識で士分に取り立てられて名声があり、観念的な学問より実社会に役立つ 実学 を奨励した。後に正志斎は幽谷の教育内容を『及門遺範』にまとめている。寛政11年( 1799 )、『 大日本史 』の修史局の 彰考館 に入り書写生となる。また、 ロシア アダム・ラクスマン が根室に来航すると、幽谷はロシアの南下政策に関心を寄せ、正志斎もロシアの国情、国際関係を入手できる書物からまとめて、 享和 元年( 1801 )に『千島異聞』を著す。


享和3年( 1803 )、格式留守列となり、江戸彰考館勤務となる。 文政 4年( 1821 )には藩主・ 徳川治紀 の諸公子の侍読(教育係)を命じられ、その中に後の9代藩主・ 斉昭 もいた。


文政6年( 1823 )、進物番上座となる。文政7年( 1824 )、水戸藩領大津村に食料を求めて上陸した イギリス 捕鯨 船員と会見した。その会見の様子を記した『暗夷問答』を著し、翌年に対策についての考察、いわゆる 尊王攘夷 論について体系的にまとめた『新論』を著して藩主・ 徳川斉脩 に上呈したが、内容が過激であるという理由で公には出版されなかった。


文政9年( 1826 )、幽谷の死去を受けて 彰考館 総裁代役に就任した。文政12年( 1829 )、藩主・斉脩の後継問題で敬三郎(斉昭)を擁立する運動に参加し、 山野辺義観 藤田東湖 らとともに江戸へ出て奔走した。無断で江戸に出た罪で逼塞を命じられたが、30日ほどで許されて 郡奉行 となる。


翌年通事、調役となり、また 彰考館 総裁となった。以後、斉昭から取り立てられ、 藩政改革 を補佐した。 天保 3年( 1832 )、禄高150石。天保9年( 1838 )、学校造営掛に任じられ、藩校の規模・教育内容を研究して『学制略説』などを著す。天保11年( 1840 )には小姓頭となり、藩校の 弘道館 の初代教授頭取に任じられた。同時に役料200石が給され、計 350 石となる。弘道館は翌年開校され、水戸学発展に貢献した。


弘化 2年( 1845 )、斉昭は 江戸幕府 から藩政改革の問題点を指摘されて隠居・謹慎を命じられると、正志斎も蟄居を命じられた。 嘉永 2 年( 1849 )に斉昭が復帰すると同時に赦免され、のちに弘道館教授に復帰した。 安政 2年(1855年)、将軍・ 徳川家定 に謁見する。


安政5年( 1858 )、幕府の 日米修好通商条約 締結に関して、朝廷から水戸藩に 戊午の密勅 が下ると、会沢は密勅を水戸藩から諸藩へ回送することに反対して、勅諚の朝廷への返納を主張し、藩内の尊王攘夷鎮派の領袖として尊皇攘夷激派と対立する。斉昭が 安政の大獄 で永蟄居処分となると藩内はさらに混迷し、正志斎はその収拾に努めた。文久2年( 1862 )には一橋慶喜( 徳川慶喜 )に対して、 開国 論を説いた『時務策』を提出する。このため、激派からは「老耄」と批判された。同年、馬廻頭上座を務める。


文久3年(1863年)、水戸の自邸にて死去。82歳。墓所は 茨城県 水戸市 の本法寺。


正志斎は『新論』において尊王攘夷論を唱えた人物として知られるが、後年『時務策』を著しており開国を全面的には否定しなかった。『新論』は幕府に遠慮して出版はされず、無名氏の執筆として写され、多くの人々に読まれた。 長州藩 吉田松陰 久留米藩 真木保臣 が水戸を訪れ、正志斎に面会している。特に吉田の『東北遊日記』には、「会沢を訪ふこと数次、率ね酒を設く。 会々談論の聴くべきものあれば、必ず筆を把りて之を記す。其の天下の事に通じ、天下の力を得る所以か」と記されている。


10月4日に斉脩が没し、敬三郎を後継者にという斉脩の遺書が示された。この遺書を掲げて8日に敬三郎が斉脩の養子となり、17日に幕府から斉昭の家督相続承認を得ることに成功した。こうして斉昭が水戸藩第9代藩主となると、擁立に関わった藤田・会沢らが登用され、斉昭による 藩政改革 の担い手となった。


こうして権力を得た一派は、反対派から「一般の人々を軽蔑し、人の批判に対し謙虚でなく狭量で、鼻を高くして偉ぶっている」ということで、 天狗党 と呼ばれるようになった。これに対して斉昭は、 弘化 2年( 1845 )10月に 老中 阿部正弘 に対し、江戸では高慢な者を「天狗」と言うが、水戸では義気があり、国家に忠誠心のある有志を「天狗」と言うのだと主張している。


とはいえ、天狗党という集団はその内部においても盛んに党争と集合離散を繰り返しており、それぞれの時期においてその編成に大きな差異が見られる。まず天狗党は後述する「勅書」返納問題において 鎮派 激派 に分裂したうえ、さらに激派内でも根拠地別に 筑波勢 潮来勢 などの集団があってそれぞれ独自に動き回っていたことから、『水戸市史 中巻(五)』においては、一味の総称である天狗党の呼称を、最終的に京へ向かって西上した集団に限定して使用している。






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最終更新日  2024年07月31日 06時02分21秒
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