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この時期において天狗党への反対派の中心人物となったのは門閥出身の 結城朝道 (寅寿)であった。
*結城 朝道 (ゆうき ともみち)は、 江戸時代 後期の 武士 。 水戸藩 の 執政 。別名「寅寿」の読み方については「とらかず」や「ともひさ」とする説もある。
家系
本姓 は 藤原氏 。家系は 鎮守府将軍 ・ 藤原秀郷 を祖とする 小山氏 の同族・ 結城氏 の血筋。結城氏は 鎌倉 ・ 室町時代 から続く 関東 の名門であり、同じく古くから関東に栄えた小山氏、 小田氏 などと共に水戸藩の御三家と並び称された家柄である。結城氏が水戸藩士として仕官した後は、歴代の重役を務める1,000石の知行をもって遇され、その格式を保ってきた。
家伝によれば、系譜は以下の通りである。しかし、 白河結城氏 の一族、中畠氏の血筋とも。
≪ 下総結城氏説 ≫ 結城晴朝 - 七郎晴信(嫡子。 羽柴秀康 、結城家を継ぐにより逼塞。 徳川光圀 、500石にて召し出し) - 晴映 - 晴久 - 晴広 - 晴久 - 数馬晴徳 - 寅寿晴明 (後に朝道) - 七郎種徳 = 道家(大森家から養子)
≪ 白川結城氏庶流中畠氏説 ≫ 結城晴綱 - 中畠晴常 - 中畠晴時 - 相良晴倶 - 定共 - 晴定 - 光定 - 晴久 - 晴広 - 晴久 - 数馬晴徳 - 寅寿晴明 (後に朝道) - 七郎種徳 = 道家(大森家から養子)
生涯
文政 元年( 1818 年 )、 水戸藩 士・ 結城晴徳 の長男として誕生。文政7年( 1824 年 )に家督を継ぎ、 天保 4年( 1833 年 )からは水戸藩 江戸藩邸 にて藩主・ 徳川斉昭 の 小姓 を務めた。斉昭からは 若年寄 、御勝手改正掛に任じられ、天保13年( 1842 年 )からは 執政 となる。
当初は人物聡明にして主君・斉昭や 天狗党 からも好感を受けていた。名門中の名門に生まれた朝道は、育ちが良く決して陰湿な人物ではなかったが、名門に生まれたが故の誇りから生来保守的な性格の持ち主であった。加えて持ち前の聡明さから、上士層により形成された 佐幕派 の保守層の支持を受けて次第に台頭、藩内に結城派なる一派を形成するほどの勢力を築いていくことになる。
そもそも、水戸藩では上士層を中心に親 幕府 色を打ち出す 諸生党 と 朝廷 を信奉する天狗党に分かれ、代々藩内で闘争を繰り返してきた。8代藩主・ 徳川斉脩 の死後、諸生党では幕府との関係を親密にするため、11代将軍・ 徳川家斉 の庶子を養子に迎えようとするが、中下士層を中心とした一派が斉脩の舎弟・斉昭を推したため、斉昭が藩主に就任したという経緯があった。故に上士層はいわば藩主の抵抗勢力となり、斉昭はその聡明さから中士や下士であっても優秀な人材を積極的に登用した。
結城は有力上士の一人として、天狗党の跋扈する水戸藩政に反発、保守層の勢力挽回のために、革新的な政策をとる斉昭や、その腹心たる 藤田東湖 、 戸田忠太夫 らを始めとした 尊皇派 と次第に対立を深めることとなった。結城は中士、下士層を中心に形成された尊皇派の台頭を防ぎ、藩内の親幕府勢力を回復するため、藩士、そして斉昭と改革派の失脚を実現させると、水戸藩の実権を掌握し、斉昭の跡を継いだ 徳川慶篤 の下では専横の限りを尽くした。しかし 弘化 4年( 1847 年 )9月、 老中 ・ 阿部正弘 の命で結城も失脚となり、同年10月24日に 隠居 処分に処せられた。
かつて朝道によって失脚させられた斉昭や改革派の恨みは凄まじく、彼らがやがて復権を遂げると、 嘉永 6年( 1853 年 )10月16日に朝道は拘禁されることとなった。やがて朝道は水戸藩の 支藩 の筆頭・ 高松藩 の藩主で、幕府内においては 譜代大名 の 井伊直弼 ら保守派との関係が深い 松平頼胤 が宗家の家督を欲しているのを知り、慶篤を暗殺して頼胤を藩主に迎えようと画策した。しかし計画は露見し、その3年後に死罪に処せられた。享年39。
子・ 種徳 も拘禁され、絶食のために獄死した。結城家はこれにより藩士としては滅亡の憂き目を見ることとなった。ちなみにその後の結城家は、水戸藩士 大森氏 から養子を迎え、水戸藩領内の 久慈郡 においてその家系を伝えた。
もともと朝道は斉昭に重用されていたが、穏健な政策を志向する結城の下には次第に斉昭の藩主就任に反対して弾圧された門閥層や、かつて東湖の父・ 藤田幽谷 と熾烈な党争を繰り広げた 立原翠軒 派 の残党など、天狗党主導の政策に反発する者達が集まり、次第に勢力を増していった。
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