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(ふじた ゆうこく、
1774
年
3
月
29
日
(
安永
3年
2
月
18
日
) -
1826
年
12
月
29
日
(
文政
9年
12
月
1
日
))は、
江戸時代
後期の
儒学者
・水戸学者・民政家。
水戸城
下で
古着
商藤田屋を営む与右衛門の次男、母は根本氏の娘。祖父に与左衛門。子に
藤田東湖
。
常陸
水戸生まれ。名は一正。通称は熊之介、後に与介、また次郎左衛門。字は子定。
水戸学
中興の祖。
略歴
水戸城下の奈良屋町に生まれる。幼少の頃から学問で頭角を現すようになり、寺社奉行下役の小川勘助や医師の 青木侃斎 に学ぶ。侃斎の推挙を受け、彰考館編修で後に総裁となる 立原翠軒 の門人となる。 1788 年 ( 天明 8年)にはその推薦で 彰考館 に入る。 1789 年 (天明9年)には正式に館員となり、水戸藩の修史事業である『 大日本史 』の編纂に携わる。
水戸藩では 徳川光圀 の百遠忌に向けて写本を献本するため『大日本史』の校訂と浄書を行っていたが、『大日本史』の題号に国号を憚るべきとする題号問題が発生していた(史館動揺)。翠軒が藩主 治保 からこの問題を諮問されている間に幽谷は翠軒を差し置いて題号を『史稿』に改めるべきであるとする意見書を提出し、翠軒の修史方針や藩主治保の修学態度、さらには藩政改革の提言や対外情勢への意見などを著作で発表 し、一時は編修職を解任される。この史館動揺は党派的な対立に発展する。
1807 年 ( 文化 4年)彰考館の総裁に就任、150石を受ける。著作である『勧農或問』は 水戸藩 天保の改革の農村対策に影響を与えた。 1812 年 (文化9年)再び総裁を専任。門人に次男である藤田東湖、 豊田天功 、 会沢正志斎 らがおり、彼らは水戸学の 尊王攘夷 思想を全国に広める活動を行った。著書に『正名論』など。
*「立原 翠軒」 (たちはら すいけん、 延享 元年 6 月 7 日 ( 1744 年 7 月 16 日 ) - 文政 6年 3 月 4 日 (1829 年 4 月 14 日 ))は、 江戸時代 中期から後期の 水戸藩 士。学者として3代藩主 徳川宗翰 、6代 治保 の2代にわたって仕える。 本姓 は 平氏 。 家系 は 常陸平氏 大掾氏 の一門・ 鹿島氏 の 庶流 といい、 鹿島成幹 の子・ 立原五郎久幹 を祖とする 立原氏 。 仮名 は甚五郎。諱は万。字は伯時。号は東里。致仕後に翠軒と号する。父は水戸藩 彰考館 管庫・ 立原蘭渓 (甚蔵)。嫡男は水戸藩士で南画家の 立原杏所 、孫には 幕末 の 志士 ・ 立原朴次郎 や閨秀画家の 立原春沙 、子孫には 昭和 初期の 詩人 、 建築家 ・ 立原道造 がいる。
延享元年(1744年)6月7日、 水戸城 下の武熊(竹隈)にて生まれる。幼い折は 谷田部東壑 に師事。 宝暦 10年( 1760 年 )に 荻生徂徠 を祖とする 古文辞学 派(徂徠学派)・ 田中江南 が水戸を訪れた折に師の東壑とともにその門に入った。同13年( 1763 年 )、江南が去った後、江戸 彰考館 の書写場傭に任ぜられた。江戸にては文章を 大内熊耳 、唐音を 細井平洲 、書を 松平楽山 に学んだ。 明和 3年( 1766 年 )、編集員を命ぜられ水戸史館に転じた。
天明 6年( 1786 年 )6月、彰考館総裁に進み、以後に 享和 3年( 1803 年 )に致仕するまで『 大日本史 』の編纂に力を注ぎ、 寛政 11年( 1799 年 )には『大日本史』の紀伝浄写本80巻を、『大日本史』編纂の遺命を残した 2 代藩主・ 徳川光圀 の廟に献じた。この間、混乱の生じていた彰考館の蔵書を整理、欠本となっていたものを補写する様に命じ、古器物などの修膳、光圀以来の留書、書簡などが集積されたまま、整理されていなかったため、これを補修製本した。
これが『江水往復書案』、『史館雑事記』として今日に伝わっているものの原本となっている。永く停滞していた修史事業を軌道に乗せたことは、翠軒の大きな功績によるものであり、翠軒の尽力により後世の 水戸学 が結実していったといわれている。また、翠軒は藩主治保の藩政にも参与し、天下の三大患について老中の 松平定信 に上書して、 蝦夷地 侵略等を警告した。寛政5年( 1793 年 )、門人の 木村謙次 を 松前 に派遣し、実情を探らせたという。また、大日本史編纂の方針を巡り、弟子の 藤田幽谷 と対立を深めていたともいわれている。
対立点としては、1点目としては『大日本史』の題名であり、幽谷は『史稿』と主張し、翠軒が反対していた。2点目としては、『大日本史』の志表の継続または廃止をめぐる対立で、翠軒は廃止、幽谷は継続を主張した。3点目としては論賛の是非であり、翠軒は可、幽谷は不可としたという。幽谷との対立は幽谷が『丁巳封事』を藩に上書し、藩政批判を行ったことで不敬の罪を問われ免職となった折に翠軒により破門されたことで表面化することとなった。
これにより両者は絶交となった。享和3年(1803年)、 高橋担室 が『大日本史』の論賛を削除すべきである旨を上書し、藤田幽谷もこれに同調したことで、翠軒は致仕を命ぜられ、 徳川家康 の事績研究を命ぜられ、弟子の 小宮山楓軒 とともに『垂統大記』を編纂したが文政6年(1823年)3月4日、同著の完成を見ずになくなったという。 享年 80。書画、 篆刻 、七弦琴にも秀で、著書として『西山遺聞』、『此君堂文集』、『新安手簡』などがある。
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