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翠軒の 弟子 小宮山楓軒は常々、師である翠軒を敬い、師の生きざまを『 翠軒先生遺事 』に記すという。これによれば、翠軒は幼少の折、 寺門倧太郎 と海浜で遊んでいたが、知らぬうちに寺門により 妓楼 に連れ込まれてしまった。翠軒は小用に立つ振りをして逃げ帰り、寺門との付き合いを絶ってしまった。
水戸藩主 徳川治保 は学問を好み 長久保赤水 を 侍講 とし、赤水の推挙で翠軒も侍講に任ぜられた。ある時、治保が翠軒に「人主には釣り合いの臣があるものだ。 唐 の 太宗 と 魏徴 がそれだ」といい、「自らはそこ許をもってその人としよう。どんな直諫もして欲しい」と述べた上で「どうか、俗吏などと争ったり、排斥されることのないよう気をつけてもらいたい。」という言葉をかけたという。
家老 山野辺義胤 の 養子 の 山野辺図書 (山野辺義聚)が、養父と折り合い悪く、実家である 佐伯藩 毛利家に帰された。図書が何も罪がないと言いたて不平を述べると翠軒は「君自身、罪のあると知らぬというのが罪たる所以だ」と述べたという。
ある時、水戸藩士に 蔭山八郎右衛門 という200石取りの藩士が常々、知行地の百姓を救いたいと考えていたが、実行できずに悩んでいたという。翠軒は「人を救おうというのに、自分の財産を拵えて、それができてからと思っていたら、救うことなど出来はせぬ」と述べた。これを耳にした八郎右衛門は大いに恥じ入り、直ちに年貢の収納を半減したという。
また、翠軒は「人の価値というものは家庭にいるときの様子で大抵わかる。自分の妻に怒り散らしたり、時に打擲に及ぶような者があるが、そうした人間は一の上に立つ資格がない者だ」と述べたという。
寛政7年(1795年)、藤田幽谷らと従者に画家の 小泉斐 を従え、吉原口( 村山口 )から 富士山 登山に成功している。この経験を元に小泉斐が製作した「富嶽写真」は 富岡鉄斎 が富士図製作に携わる際に大いに参考にされた。
斉昭と親密であった 水野忠邦 が失脚すると、後任の阿部正弘は、 天保 15年( 1844 年 )5月に斉昭を強制的に隠居させ、朝道に水戸藩政の修正を命じた。
*阿部 正弘 (あべ まさひろ、 文政 2年 10 月 16 日 ( 1819 年 12 月 3 日 ) - 安政 4年 6 月 17 日 ( 1857 年 8 月 6 日 ))は、 江戸時代 末期の 備後 福山藩 第7代藩主。 江戸幕府 の 老中 首座を務め、 幕末 の動乱期にあって 安政の改革 を断行した。阿部宗家第11代当主。
出生
文政 2年 10 月 16 日 ( 1819 年 12 月 3 日 )、第5代藩主・ 阿部正精 の五男として 江戸 西の丸屋敷で生まれた。
文政9年6月20日( 1826 年 7月24日)に父・正精が死去して兄の 正寧 が家督を継ぐと、正弘は 本郷 ( 文京区 )の中屋敷へ移った(現在でも中屋敷のあった文京区西片には 文京区立誠之小学校 、阿部公園(西片公園)など、由来する施設が残っている)。しかし正寧は病弱だったため、10年後の 天保 7年( 1836 年 )12月25日、正弘に家督を譲って 隠居 した。
天保8年( 1837 年 )、正弘は福山へのお国入りを行った。正弘が国元へ帰ったのはこの1度のみである。
天保9年( 1838 年 )9月1日、 奏者番 に任じられる。天保11年( 1840 年 )5月19日には 寺社奉行 見習に、11月には寺社奉行に任じられ、 感応寺 の破却などを行なっている。
大奥 と僧侶が 徳川家斉 時代に乱交を極めていた事件が、家斉没後に寺社奉行となった正弘の時代に露見すると、正弘は家斉の非を表面化させることを恐れて僧侶の日啓や日尚らを処断し、大奥の処分はほとんど一部だけに限定した。この裁断により、第12代 将軍 ・ 徳川家慶 より目をかけられるようになったといわれる。
老中就任
天保14年( 1843 年 ) 閏 9月11日、25歳で老中となり、辰の口( 千代田区 大手町)の屋敷へ移った。天保15年( 1844 年 )5月に 江戸城 本丸焼失事件が起こり、さらに外国問題の紛糾などから 水野忠邦 が老中首座に復帰する。しかし正弘は一度罷免された水野が復帰するのに反対し、家慶に対して将軍の権威と沽券を傷つけるものだと諫言したという。水野が復帰すると、 天保改革 時代に不正などを行っていた 町奉行 鳥居忠耀 や 後藤三右衛門 、 渋川敬直 らを処分し、さらに 弘化 2年( 1845 年 )9月には老中首座であった水野忠邦をも天保の改革の際の不正を理由にその地位から追い、代わって老中首座となった。
正弘は家慶、 家定 の2代の将軍の時代に幕政を統括した。 嘉永 5年( 1852 年 )には、 江戸城 西の丸造営を指揮した功により 1 万石が加増される。老中在任中には、度重なる外国船の来航や中国での アヘン戦争 勃発など対外的脅威が深刻化したため、その対応に追われた。
幕政においては、弘化2年(1845年)から 海岸防禦御用掛 (海防掛)を設置して外交・国防問題に当たらせた。また、 薩摩藩 の 島津斉彬 や 水戸藩 の 徳川斉昭 など諸大名から幅広く意見を求め、 筒井政憲 、 戸田氏栄 、 松平近直 、 川路聖謨 、 井上清直 、 水野忠徳 、 江川英龍 、 ジョン万次郎 、 岩瀬忠震 など大胆な人材登用を行った。
さらに人材育成のため、嘉永6年( 1853 年 )には自らが治める 備後福山藩 の藩校「 弘道館 」(当時は新学館)を「 誠之館 」に改め、身分にかかわらず教育を行った。ただ、藩政を顧みることはほとんどなく、藩財政は火の車であった。嘉永5年(1852年)から加増された1万石(天領であった隣接の 安那郡 山野村と矢川村と 神石郡 上豊松ほか14 か村 ※ 古川村を除く)はほとんどを誠之館に注ぎ込んだといわれる。
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