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弘化
3年(
1846
年
)、
アメリカ
東インド艦隊
司令官
ジェームズ・ビドル
が
相模国
浦賀
(
神奈川県
)へ来航して通商を求めたが、正弘は
鎖国
を理由に拒絶した。7年後の嘉永 6
年(
1853
年
)には
マシュー・ペリー
率いる東インド艦隊がアメリカ大統領
フィルモア
の親書を携えて浦賀へ来航した。同年7月には
長崎
に
ロシア
の
プチャーチン
率いる艦隊も来航して通商を求めた。
この国難を乗り切るため、正弘は 朝廷 を始め、 外様大名 を含む諸大名や市井からも意見を募ったが、結局有効な対策を打ち出せず、時間だけが経過した。また、 松平慶永 や島津斉彬らの意見により、徳川斉昭を海防掛参与に任命したことなどが諸大名の幕政への介入の原因となり、結果的に幕府の権威を弱める一方で雄藩の発言力の強化及び朝廷の権威の強化につながった。
なお、正弘自身は 異国船打払令 の復活をたびたび諮問しているが、いずれも海防掛の反対により断念している。ただし、これは正弘の真意ではなく斉昭ら攘夷派の不満を逸らす目的であったとの見方もある。
安政の改革、晩年
こうして正弘は積極的な政策を見出せないまま、事態を穏便にまとめる形で、嘉永7年 1 月 16 日 ( 1854 年 2月13日)、ペリーの再来により同年 3 月 3 日 (3月31日)、 日米和親条約 を締結させることになり、約200年間続いた 鎖国 政策は終わりを告げる。しかし、条約締結に反対した徳川斉昭は、締結後に海防掛参与を辞任することになる。
安政 2年( 1855 年 )、攘夷派である徳川斉昭の圧力により開国派の 松平乗全 、 松平忠優 を8 月 4 日 ( 9 月 14 日 )に老中より罷免したことが、開国派であった 井伊直弼 らの怒りを買い(ただし、その原因を正弘の人事・政策に対する親藩・譜代大名の反発と見る考えもある)、孤立を恐れた正弘は10月9日、開国派の 堀田正睦 を老中に起用して老中首座を譲り、両派の融和を図ることを余儀なくされた。
こうした中、正弘は江川英龍、 勝海舟 、 大久保忠寛 、 永井尚志 、 高島秋帆 らを登用して海防の強化に努め、 講武所 や 長崎海軍伝習所 、 洋学所 などを創設した。後に 講武所 は 日本陸軍 、 長崎海軍伝習所 は 日本海軍 、 洋学所 は 東京大学 の前身となる。また、西洋砲術の推進、 大船建造の禁 の緩和など幕政改革( 安政の改革 )に取り組んだ。
安政4年6月17日(1857年₈月6日)、老中在任のまま 江戸 で急死した。 享年 39。跡を甥(兄・正寧の子)で養子の 正教 が継いだ。
なお、正弘は 将軍継嗣問題 (家定の後継者問題)では 一橋慶喜 を推していた。
人物・逸話
幕末維新の歴史を詳細に綴った 徳富蘇峰 の『 近世日本国民史 』では、阿部正弘に対し優柔不断あるいは八方美人の表現を使っている。『国民史』では歴史の登場人物の肉声としての様々な手紙を仮名読みに変換しているため、正弘の肉声を現代の読者が直接読むことができる構成から出発している。
『国民史』に所収の書簡からは、攘夷論の正弘が国政を担当する立場から、極論や暴論を繰り返す攘夷派を抑えるために、本心を隠して意図的に協調路線を選択した点がうかがえている。教育研究機関を設置するなど実利的に洋学を導入しながらも、自らは蘭方医の治療を最後まで拒んだとされ、祖法の鎖国体制を破った点も心に傷として残っていたとされる。
若すぎる死因に関しては 肝臓癌 による病死、外交問題による激務からの過労死など諸説ある。飛躍した説では、 島津氏 など外様の雄藩を幕政に参加させることに不満を抱いた 譜代大名 (溜間詰)による暗殺説まである。
外様などの雄藩、非門閥の開明派幕吏を幕政に参加させる姿勢は、譜代などからは弱気な政治姿勢に見られ、「瓢箪鯰」とあだ名されたという( 小西四郎 『日本の歴史16 開国と攘夷』、 中公文庫 )。
西洋の学問に理解を示し、 勝海舟 の紹介で正弘の邸宅に呼ばれた 杉純道 が、ドイツ版の世界地理書を用い詳しく説明した。正弘は「我が国は狭いな」と感銘し、杉のため原書を何でも買ってやろうと約束した。
正弘は人の話を良く聞くが、自分の意見を述べることがほとんど無かった。ある人がそれを不審に思って尋ねると、「自分の意見を述べてもし失言だったら、それを言質に取られて職務上の失策となる。だから人の言うことを良く聞いて、善きを用い、悪しきを捨てようと心がけている」と笑いながら答えたという(松平春嶽の「雨窓閑話稿」)。
正弘は肥満体であり、長時間の正座が苦痛だった。しかし、相手の話を聞くときは常に長時間、正座をしていた。正弘の退出後、茶坊主が正弘の座っていた跡を見ると、汗で畳が湿っていたという( 木村芥舟 の著より)。
斉昭はその後一時復帰した忠邦によって謹慎を解かれ、第10代藩主 徳川慶篤 の後見として復権。 嘉永 6年( 1853 年 )の 黒船来航 を期に斉昭が幕府から海防参与を命じられると、水戸藩では軍政改革を中心とした安政改革が進められ、改革派を中心に 尊王攘夷派 が形成された。
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