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2024年07月31日
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カテゴリ: 江戸後期


文久 5月、 小四郎 は一橋慶喜に追従して江戸に戻るが、 八月十八日の政変 により長州藩系の尊攘派が京都から一掃され、急進的な尊王攘夷運動は退潮に向かった。




(はちがつじゅうはちにちのせいへん)とは、 日本 江戸時代 末期( 幕末 )にあたる 文久 3年 18 1863 30 )に発生した 政変


孝明天皇 中川宮朝彦親王 会津藩・ 薩摩藩 など 幕府 への攘夷委任( 通商条約 の破棄、再交渉)を支持する勢力が、攘夷親征(過激派主導の攘夷戦争)を企て朝議を牛耳る 三条実美 ら急進的な 尊攘派 公家 およびその背後の 長州藩 を朝廷から排除した カウンタークーデター である。


堺町御門の変 (さかいまちごもんのへん)、 文久の政変 (ぶんきゅうのせいへん)などとも呼ばれる。


この政変が生じた背景として様々な事情があった。ひとつは江戸幕府が安政5年(1858年)に 異勅の不平等条約 を欧米列強と締結して三百諸藩を鎖国下に置いたまま5港を治外法権で屈服開港するという植民地化されかねない危機を、「破約攘夷」「即今攘夷」「大攘夷(開国攘夷)」で解決しようとしている志士達と、 異勅の不平等条約 による屈服開港を 安政の大獄 以降弾圧で凌ごうとし続けている江戸幕府とが、逆の方向性で天皇および朝廷の歴史的権威を借りようとしていたということ。また、このような事態に対し、幕府や志士達とは違って情報不足過ぎる孝明天皇は、鎖港による破約攘夷すなわち鎖国攘夷という非現実的な外交を江戸幕府に求めるのみであったこと。さらに、孝明天皇は 譲位 の希望すら度々漏らしており、幕閣 酒井忠義 ] や佐幕派公卿 九条尚忠 らに不本意な 和宮親子内親王の降嫁 を迫られ、自ら勅許や和宮への脅迫などで推進し、文久1年(1861年)には和宮を江戸幕府に人質として差し出したも同然の「和宮降嫁」を自ら実現させてしまうというような孝明天皇個人の問題があったこと。そしてこの頃の朝廷では、開国攘夷・破約攘夷の 長州藩 、幕政改革・破約攘夷の薩摩藩、老中 間部詮勝 以来江戸幕府が度々孝明天皇に鎖国攘夷を約束し続けて来たために、表面上「攘夷」「勤王」を主張する佐幕派の 中川宮朝彦親王 ・公家・会津藩が朝廷内で主導権争いをしていたこと、などが挙げられる。


八月十八日の政変直前まで朝廷の実権を掌握していた長州系の公家達と長州藩などの志士達は、破約攘夷派であるため、遅くとも安政 5 年以降は 江戸幕府 を武家の棟梁としては失格であると見做さざるを得なかった。しかしそれでも江戸幕府が孝明朝廷に何度も攘夷の決行を約束している以上、江戸幕府に攘夷の決行を迫らないわけにはいかなかった。


これに対し、佐幕派宮家の 中川宮朝彦親王 、佐幕派公家の 近衛忠熙 二条斉敬 ら、 京都守護職 の会津藩、および、孝明朝廷内で勢力挽回を図っていた幕政改革派の薩摩藩は、孝明朝廷のそれまでの数々の破約攘夷の詔の内容や江戸幕府が既に日本の防衛という面ですら信用不可の存在と世間から受け止められているという現実を踏まえ、孝明朝廷が「大和行幸の詔」(孝明天皇の神武天皇陵参拝と攘夷親征を内容とする詔勅)を実行する過程で江戸幕府を見限るという形で自ら率先して天下に攘夷の号令を下すのではないかと恐れていた。


この、江戸幕府が破約攘夷の志士達からだけでなく孝明朝廷からも、そして世間からも存在意義のない機構であると世間一般に認識され、長州系の「破約攘夷」かつ「公武一和」の政権が誕生するという事態、即ち江戸幕府と佐幕派の更なる回復不可能な権威失墜という危機的事態を防ぐために、佐幕派と幕政改革派とが結託し、大和行幸計画に反対する形で「八月十八日の政変」というカウンタークーデターを実行した。しかしながら、 和宮降嫁 同様、江戸幕府と佐幕派の一時的な勢力回復で終わる。孝明天皇にとっては、慶応 1 年に ・佐幕派公家たから 異勅の不平等条約 への勅許を強要された事、慶応2年(1866年)の 第二次長州征討 で長州藩が勝利し江戸幕府が敗北したことなどにより、完全に裏目となった。



政局の動向


長州と薩摩の公武周旋


桜田門外の変 の後、 幕府 は公武関係の修復を図り、文久2年(1862年)2月に 孝明天皇 の妹 和宮親子内親王 将軍 徳川家茂 の正室に迎えた。そして幕府は和宮降嫁と引き換えに 攘夷 (ここでは 日米修好通商条約 などを破棄して 和親条約 に引き戻すこと)を 朝廷 に約束した。攘夷の実行まで7〜8年から10年の猶予を設ける約束だったが、本音は天皇が攘夷の不可能を認識して開国に転ずるのを期待した時間稼ぎであった。こうした対外方針についての動向をめぐって 長州藩 薩摩藩 が政局を主導しようと争い、翌年の政変につながっていく。


この時期、長州は 長井雅楽 の開国論( 航海遠略策 )をもって朝幕間の周旋に乗り出し、幕府も歓迎していた。だが、文久2年3月に京都に上った長井の入説は不調に終わる。同じ頃、薩摩の 島津久光 (藩主の実父、後見)が藩兵 1 千を率いて進発し [ 注釈 1] 、攘夷・ 討幕 王政復古 の好機と見た過激な諸藩士や浪人らが 京都 に集まり、 尊王攘夷 の気運が盛り上がったためである。薩摩ではかつて 島津斉彬 (前藩主、久光の兄)が 一橋派 の有志大名らとともに幕府の体制改革、雄藩の国政参加を実現して開国路線を進めようとしたが、 安政の大獄 以前に死去しており、久光はその遺志を実現するため朝廷から幕政改革を命じる勅諚を引き出し幕府に実行を迫るつもりだった。しかし、薩摩と交流のある尊攘家の 筑前藩 平野国臣 (次郎)がかねてより挙兵討幕を献策していたことから、久光が討幕の兵を挙げるとの噂が広まっていたのである。長州藩においても 久坂玄瑞 ら尊攘派が台頭して長井の開国論を攻撃し、やがて藩論を攘夷に転換させるに至る。尊攘派は薩摩と連携して蜂起する計画であったが、久光は自藩の急進派を 寺田屋事件 で粛清してその企てを潰した。






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最終更新日  2024年07月31日 08時06分57秒
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