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文久2年4月、幕府は安政の大獄で処分を受けていた 一橋慶喜 や 松平春嶽 (慶永、前 越前藩 主)、 山内容堂 (豊信、前 土佐藩 主)ら旧一橋派の諸侯を、朝廷から要求される前に赦免した。彼らは 開国派 だったから、むしろ朝廷を開国論に転じさせるのに一肌脱いでもらおうというわけで、幕府は春嶽に朝廷への入説を依頼する。春嶽が条件として将軍家茂の上洛を要求し、幕府は受け入れて6月に将軍上洛を予告した。
薩摩側では久光側近の 大久保利通 (一蔵)らが 岩倉具視 など要路への運動に奔走し、5月に岩倉の「三事策」が朝廷に採用された。これは、(1)将軍が諸大名を率いて上洛し、攘夷について朝廷と協議する、(2)沿海5大藩主(薩摩・長州・土佐・ 仙台 ・ 加賀 )を 大老 として幕政を担わせ、攘夷を行わせる、(3)一橋慶喜を 将軍後見職 、松平春嶽を大老とするという内容で、 (1) 案は長州の主張、(2)案は雄藩のバランスをとるもの、そして(3)案が薩摩の主張であった。久光一行は 勅使 大原重徳 の護衛として6月に 江戸 に下り、(3)案を幕府に迫った。交渉の結果、7月に慶喜の将軍後見職、春嶽の 政事総裁職 が決定し、8月には山内容堂も幕政への参与を認められた。こうして改革はスタートを切り、久光は8月21日に京都へ向かったが、途中 東海道 の 神奈川宿 近くで起こした 生麦事件 が後に困難な事態を招く。
政事総裁職となった春嶽は、政治顧問として招聘した 横井小楠 の献策「国是七条」の実施を求めた。幕府はこれを容れ、 参勤交代 の緩和、江戸の大名妻子(人質)の帰国許可、幕府・幕閣への進献や礼装の軽減などを進めた。
長州の巻き返し
長州は航海遠略策の入説に失敗し、久光の率兵上洛で盛り上がった尊攘運動に呼応するように攘夷方針に転換したところ、その薩摩が急進派を鎮圧して勅命を得たため、公武周旋の主導権を奪われる形となった。その焦慮と対抗意識から尊攘運動への没入を深め急進化していくことになる。
勅命は長州に薩摩への協力を求めていたが、それに不満な藩主 毛利慶親 は勅使到着の前日に江戸を離れ、7月に入京すると勅使と薩摩がもっぱら久光の本意である「三事策」の(3)案を主張していると非難した。朝廷はこれを容れ、(1)案と(3)案を合わせて一案とみなすとした。
長州は10年の猶予を待たない即時の破約攘夷を主張し、その工作で朝廷内の急進派も勢いを増した。
また、 土佐勤王党 を率いる 武市瑞山 (半平太)が藩主 山内豊範 に続いて8月に入京し、幕政参与となった前藩主容堂とかかわりなしに、長州の久坂玄瑞とも連絡を取り周旋の勅命を得て幕府に攘夷を突きつけ追い込もうとしていた。浪士が全国から次々に京都へ流れ込んで「 天誅 」が頻発し、 京都所司代 は勢いを盛り返した尊攘派に対処できなくなった。
松平春嶽は対策として同じ徳川一門大名の 会津藩 主 松平容保 に新設の 京都守護職 への就任を要請し、容保は再三の懇請に負けて閏8月1日に就任した。容保が京都に入り、黒谷の 金戒光明寺 に本陣を置くのは12月に入ってからである。
島津久光が閏₈月7日に京都に戻ったときには、先の滞在時から雰囲気一変して急進派が圧倒する勢いで、久光は即今攘夷不可を朝廷に工作するも成果はなく、10日余りで帰国した。薩摩派の岩倉具視も朝廷内で 三条実美 ・ 姉小路公知 ら急進派公家の弾劾を受けて辞官落飾し、引退を余儀なくされた。薩摩は長州など過激攘夷派の猛烈な巻き返しによって事実上追い落とされた。
攘夷奉承
文久2年9月21日、土佐と長州に薩摩の尊攘派も加わった運動が奏功し、幕府に即今攘夷を迫る新たな勅使を江戸に遣わすことが決まった(攘夷別勅使)。土佐藩主 山内家 の縁者で急進派公家の代表格である三条実美 [ 注釈 4] を正使、姉小路公知を副使とし、山内豊範が随行することとなった。
その約半月前の9月7日、幕府は先の勅使下向で沙汰止みとなっていた将軍上洛を翌年2月に行うと布告した。その後環境を整えておく必要から将軍後見職の一橋慶喜がまず上洛して朝廷に入説することも決まり、では次にどういう国是(対外方針)で臨むかの議論となった。松平春嶽は必戦の覚悟で条約を破棄すべきことを主張した。勅許も得ず押し付けられて結んだ条約はいったん破棄した上、全国の諸大名を集めた会議を経て天下一致しあらためて開国に進むべきであるという、一種の折衷案である。幕閣は到底不可能だと反対し議論は紛糾したが、その真意は天下の賛同を得た上での開国であるという横井小楠の説明により、やっと破約攘夷でまとまりかけた。
ところがここに来て入説の任を担う慶喜が、政府間で正式に結ばれた条約を国内の不正(無勅許)を理由に破棄してはならない、また破棄してから大名会議の賛同を得られなければどうするのか、それよりも自分が理を尽くして天皇を説得する、幕府のことはもはや無いものと思って顧みず、ただ日本全体のためを考えてのことである、と主張した。横井はこれこそ「卓見と英断」「第一等」の案であるとして姑息な「第二等」の案を撤回することとし、10月1日に幕議は開国入説で決着した。だが同じ日、朝廷は勅使下向を理由に慶喜の上洛見合わせを申し渡してきた。
春嶽は、慶喜が幕府を顧みぬ覚悟を示したことから賛成に転じたが、その後の慶喜の言動からその覚悟が疑わしくなり、攘夷論に戻ると再び引きこもってしまった。そこで幕政参与の山内容堂が調停に乗り出したが、復権して日も浅いため攘夷の勅命を奉じている自藩を抑えることもできず、奉勅攘夷の方向で幕閣を説得するしかなかった。
すでに和宮降嫁のときに将来の攘夷は約束している。いまさら開国論を主張すれば、この勅使は議論に及ばず帰京し、関西は大混乱、攘夷運動は攘将軍(討幕)に発展するとの容堂の説に、幕閣も慶喜も折れた。折れたが、やはり攘夷の入説は不本意だからと慶喜は後見職辞任を申し出、驚いた老中や春嶽・容堂の説得でようやく撤回した。
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