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12 月 11 日 、天狗党一行は越前国新保宿( 福井県 敦賀市 )に至る。天狗党は慶喜が自分たちの声を聞き届けてくれるものと期待していたが、その慶喜が京都から来た幕府軍を率いていることを知り、また他の追討軍も徐々に包囲網を狭めつつある状況下でこれ以上の進軍は無理と判断した。
前方を封鎖していた加賀藩の監軍・ 永原甚七郎 に嘆願書・始末書を提出して慶喜への取次ぎを乞うたものの、幕府軍はこれを斥け、17日までに降伏しなければ総攻撃を開始すると通告した。山国兵部らは「降伏」では体面を損なうとして反対したが、総攻撃当日の12月17日(1865年1月14日)、払暁とともに動き出した鯖江・府中の兵が後方から殺到すると、ついに加賀藩に投降して武装解除し、一連の争乱は鎮圧された。
永原は投降した天狗党員を諸寺院に収容し、かなりの厚遇をもって処した [ 注 7] 。しかし、田沼意尊率いる幕府軍が敦賀に到着すると状況は一変する。関東において天狗党がもたらした惨禍を目の当たりにしていた意尊らはこの光景に激怒し、加賀藩から引渡しを受けるとただちに天狗党員を鰊倉( 鰊粕 の貯蔵施設)の中に放り込んで厳重に監禁し、小四郎ら一部の幹部達を除く者共には手枷足枷をはめ、衣服は下帯一本に限り、一日あたり握飯一つと湯水一杯のみを与えることとした。
腐敗した魚と用便用の桶が発する異臭が籠る狭い鰊倉の中に大人数が押し込められたために衛生状態は最悪であり、また折からの厳寒も相まって病に倒れる者が続出し20名以上が死亡した。
この時捕らえられた天狗党員828名のうち、352名が処刑された。1865年 3 月 1 日 (元治2年 2 月 4 日 )、武田耕雲斎ら幹部24名が 来迎寺 境内において斬首されたのを最初に、12日に135名、13日に102名、16日に75名、20日に16名と、 3 月 20 日 (旧暦 2 月 23 日 )までに斬首を終え、他は遠島・追放などの処分を科された。
乱後
天狗党降伏の情報が水戸に伝わると、水戸藩では 市川三左衛門 ら諸生党が中心となって天狗党の家族らをことごとく処刑した。
一方、遠島に処せられることになった 武田金次郎 (耕雲斎の孫)以下110名の身柄は敦賀を領していた 小浜藩 に預けられていたが、家茂が死去して慶喜が将軍位に就くと、配流は中止されて謹慎処分へと変更されることになった。小浜藩主 酒井忠氏 は、先代の 忠義 が南紀派の中心人物の一人として安政の大獄を主導したことを怨む慶喜が小浜藩に復讐するのではないかと警戒し、金次郎らを 若狭国 三方郡 佐柿( 福井県 美浜町 )の屋敷に移して厚遇した。
*武 田 金次郎 (たけだ きんじろう、 嘉永 元年 8 月 10 日 ( 1848 年 9 月 7 日 ) - 明治 28年( 1895 年 ) 3 月 28 日 )は、 幕末 期の 志士 。 水戸藩 藩士・ 武田耕雲斎 の孫。母は 藤田東湖 の妹。
来歴
1848 年 、水戸藩士・ 武田彦衛門 の子として生まれる。
1864 年 の 天狗党の乱 には、祖父や父と共に参加する。のちに乱が鎮圧されて祖父など376人が死罪に処せられたが、若年を理由に遠島処分となる。 1866 年 、金次郎ら110名は 小浜藩 に預けられ、佐柿( 福井県 美浜町 )の屋敷に収容されて謹慎したものの、准藩士格として厚遇される。 1868 年 、 王政復古 によって朝廷から罪を許され、水戸への帰藩を命ぜられた。
帰藩した金次郎らは、朝廷の威光により藩の実権を掌握。通称「 さいみ党 」と呼ばれた金次郎らは、仇敵であった諸生党残党に復讐をすべく、白昼堂々に襲撃・暗殺し、藩内を極度の混乱状態に陥れた。
版籍奉還 後は藩の権大参事を務めたものの、 廃藩置県 後は経済的に窮迫し、やがて病に倒れる。 1895 年 、病死。享年48。
晩年の金次郎の詳細な状況を示す史料が見つかり、 茨城県立歴史館 研究員により2018年3月に報告されている。水戸藩出身の志士で、明治維新後、政府の要職を歴任した 香川敬三 が知人にあてた手紙(1894年(明治27年)12月23日付)に金次郎の貧窮した状況が記されている。
香川が 栃木県 の 塩原温泉 を訪れたとき、物乞い同然のみすぼらしい小屋で暮らす、体の不自由な金次郎と出会った。驚き哀れに思い、香川が金銭を渡すと、金次郎は喜び、ひれ伏したという。このあと、金次郎は水戸に戻され、 3 か月後に亡くなった。
慶応 4年( 1868 年 )に 戊辰戦争 が勃発すると、金次郎ら天狗党の残党は、長州藩の支援を受けて京に潜伏していた 本圀寺党 と合流し、朝廷から諸生党追討を命じる勅諚を取り付けた。天狗党と本圀寺党(両者を併せて「さいみ党」と称した)は水戸藩庁を掌握して報復を開始し、今度は諸生党の家族らがことごとく処刑された。
水戸を脱出した諸生党は 北越戦争 ・ 会津戦争 等に参加したが、これら一連の戦役が新政府軍の勝利に終わると、9月29日には水戸城下に攻め寄せたが失敗に終わった( 弘道館戦争 )。
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