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2024年07月31日
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カテゴリ: 江戸後期






田中愿蔵は、 の代官所から処刑場である 久慈川 の河原まで連行されすがら、馬上で下記の歌を繰り返し高唱したという。


みちのくの山路に骨は朽ちぬとも 猶も護らむ九重の里


諸生党によって斬首された田丸稲之衛門の次女・八重はまだ17歳の若さであったが、見事な辞世の句を残している。


引きつれて 死出の旅路も 花ざかり


天狗党に参加した常陸久慈の僧侶・不動院全海は、その剛力から「今弁慶」と呼ばれていたが、和田峠の戦いで討死した。


この時、 高島藩 士・北沢与三郎(東山一作とも)はその力にあやかろうと全海の死体から肉を切り取り、持ち帰って味噌漬けにして炙って食べた。それを聞いた同じ高島藩士の飯田守人は、「人肉を食らうとは以ての外」として北沢と絶交したという。のちに二人は和解して、 赤報隊 の援助をしている。


敦賀の古老が身近な人々に語った(戦時中頃か)ことによれば、天狗党の処刑は公開で行われたので見物に行ったが、引き出された党員は逃亡を阻止するためか両足を竹に括られていたという。


天狗党の処刑の際には、彦根藩士が志願して首斬り役を務め、桜田門外の変で殺された主君・直弼の無念を晴らした。またこの時、福井藩士にも首斬り役が割り当てられたが、後々の報復を恐れた春嶽が命令して役目を辞退させた。


永原甚七郎は明治5年( 1872 )に、自らの菩提寺である金沢の棟岳寺に天狗党の供養碑を建立した。これは今日「水府義勇塚」と称されている。なお、天狗党処刑の報に接した永原が、自分の説得がなければ天狗党を無残に殺させずに済んだと激しい自責の念に駆られ、精神を病んで死んだという話が後に創作されたが、実際の永原は明治2年( 1869 )から学政寮・軍政寮の副知事を務めるなど、引き続き金沢藩の重臣として政務に奔走し、明治6年( 1873 )に61歳で死去している。


水戸など茨城県の一部地域では、身内で争うことを「天狗」と呼ぶことがある。


慶応 3年( 1867 )に起きた 出流山挙兵 では、挙兵した浪士たちが天狗党を連想させたため、当時の周辺住民により「出流天狗」と呼ばれた。


天狗党の処刑地である 敦賀市 は、昭和40年( 1965 )に 水戸市 姉妹都市 となっている。悲惨な待遇や処刑は幕府軍が行ったもので、地元の小浜藩は当時から同情的であったとされている。







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最終更新日  2024年07月31日 08時44分41秒
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