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白山城へは、武田八幡宮を目指せばよい。甲州から信州に向かう道は釜無川沿いにある。韮崎市の武田橋を渡たり、西南方向にある山を進むと山麓に武田八幡宮につく。武田八幡宮は源氏武田氏のゆかりの神社で、佐伯泰英の小説にも出てくる。その神社の脇の野原から山道にはいる。訪問した時は、とにかく山の頂上近くにあるはずと谷道をまっすぐにどんどん登っていくと、道がなくなり斜面を這い上っていったが、城跡らしい地形がないので、引き返した。すると、通ってきた道の脇に小さな標識を見つけた。山道を途中で分かれて、尾根に登っていったところに空堀、郭跡などの城の遺構が林の中にあった。<地図>白山城という名前は、実は中世はおろか近世の古文書のなかにも登場しない。この名前が一般的になったのは昭和53年(1978)に「韮崎市誌」が刊行されてからでらる。それまでは、鍋山の砦、為朝の城跡、城山、菱岩城と呼ばれていた。「寛永諸家系図伝」などでは武川衆の青木信種が守備した「鍋山の砦」と伝えられ、「裏見寒話」では源為朝の伝承とともに「為朝の城跡」と紹介され、「甲斐国志」では武田信義の要害として「城山ハ八幡ノ南ナル山ヲ云要害城ト見タリ」と記されている。近年では地名などの検討から武川衆の山寺氏が管理した可能性も指摘されている。検討された各時期により城主をはじめとする城郭の位置付けが異なることも白山城の特徴の一つである。 <遺構>当城は小規模ながらメリハリのある縄張りをもつ白山城を中心にして、ムク台と北烽火台という南北二つの烽火台とセットで構成されている。本城は、地元で鍋山や城山と呼ばれる標高570m余りの山頂に20x30m程の方形の主郭がありその周りにL字形に腰郭がつくられている。この腰郭の一段下にも腰郭がめぐり、放射状竪掘が施されている。主郭の北には土橋でつながる馬出郭があり、掘り込み式枡形虎口を設けている。主郭の南側には不整形の郭が二段あり、西につづく尾根との境には20mの幅を持つ堀切があり、さらにつづく尾根上に幅8mの堀切を設けて、背後からの侵入路を断ち切っている。本城の主郭への登城口としては、白山神社の社殿の隣から主郭の南側の郭に向かう九十九折りの道があり、主郭に近づくにつれ、狭小な平坦部が設けられている。また、北側から馬出郭へ向かう道もある。この二つのルートについては現在も遊歩道として使われている。この他に地籍図上で確認されている大慈寺の裏手から馬出郭へ至るルートがある。北烽火台は、本城の北にある武田八幡宮背後の標高602mの山の尾根上に立地している。主郭は東西10m、南北50mの規模を持ち三段構造で、中央付近に直径2mの窪地がある。主郭から西に伸びる尾根には空堀があり背後からの侵入に備えている。また主郭の東には10数段の平坦地が連続している。なお、主郭にいたる尾根は極めて狭く、危険を伴う。ムク台は、本城から約1.4キロ南側の東に向かって突き出した尾根上に立地する。標高695mにあつ主郭は三角形で東西30m、南北35mの規模を持つ。主郭北東部には直径2mの窪地がある。主郭の西に伸びる尾根に堀切があり、東の尾根には三本の堀切はある。 <歴史>武川衆として知られる山寺氏の一門に山寺甚左衛門がおり、その屋敷は「甲斐国志」には鍋山村の殿小路にもともとあったと記されている。「寛政重修諸家譜」にも「甲斐国鍋山郷百聞分の本領」とあり、山手氏の本領が鍋山にあったことは疑いなく、そこに居を構えていたのは事実であろう。白山城東山麓には実際に古山寺という地名も残っており、そこには方形区画の存在を確かめることができる。前述した大慈寺から馬出郭への道と古山寺の地区は他の登城ルートと比較すれば有機的なつながりがあるものと考えられる。また、この山寺氏の初代は「鍋山の砦」を守備したという青木信明であり、戦国期には山寺氏が白山城を守備していた時期もあったことを想定できる。当城と武田氏との関連性の深さをうかがわせる文化財として、武田信義が元服したと伝えられる武田八幡宮がある。白山城北烽火台の東側山裾に位置し、三間社流造の本殿は武田信玄の時代に再建されたものである。さらに、織田信長の武田領国侵攻にさいして天正10年(1582)の2月には武田勝頼の夫人が祈祷文を当宮に奉納しており願文も現存している。「甲斐国志」で白山城が武田信義と要害と位置付けられた背景には、武田八幡宮の持つ歴史や立地条件などが大きく影響したのであろう。当城は、武田氏の築城技術を特徴的に反映した縄張りを持つとされているが、その築城時期や変遷は未解明な部分が多い。 <関連部将>武田信義、青木信種等</関連部将><出典>甲信越の名城を歩く 山梨編(山下孝司ほか)</出典>
2024.05.25
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湯村山城は躑躅が崎館の西側の山間に位置する。甲府盆地の山すその道を信州方面にゆくと塩澤寺の立派な山門がある。湯村山城は、そこから山道を登ってゆくと明るい樹木の中に大きな石が点在するようになり、明確な城の遺構は確認できないが古い時代の城跡の雰囲気がある。偶々地元の人と思われる方から野鳥の撮影ですかと言われたようにここが城跡とは、認識されていないのかもしれない。訪れたときは、山つつじがきれいな色で咲いていた。<地図>武田信虎は、永正16年(1519)に相川扇状地頂部に位置する躑躅ヶ崎に本拠を構えるとともに、その周囲に家臣や服属させた国衆の居住を強制させ、新たに甲斐府中(甲府)を誕生させた。信虎は、永正17年(1520)の要害山築城にさいして、麓の積翠寺ではなく、わざわざ尾根伝いに甲府北西部の帯那を通り、平瀬の香積寺に下山している。自ら館の背後や西側に位置する山塊を踏査したことは、甲府防衛を意識した行動と読み解くこともでき、館の移転当初から甲府建設とその防御網整備の青図を描いていたとみられる。武田信虎は、要害山築城につづき、大永3年(1523)に南西端の尾根上に湯村山城を築城している。翌年(1524)には扇状地南東端の独立丘である一条小山に砦(現甲府城跡)を相次いで築いている。要害山は、相川扇状地の最頂部に位置し、館の背後にそびえる詰城と評価されている。意外と見逃されているが、要害山の脇には峠を越えて武田氏の本領が広がる盆地東部や西保方面から信濃へ通じる街道が走る北部交通の要衝に位置し、詰城としての機能だけでなく、館の背後から甲府へ入る街道の押えという側面を有していた。それに対して湯村山城跡は、相川扇状地を囲む山城の西側の南端部に位置する標高446mの湯村山に築かれている。眼下には信州往還が東西に走り、湯村山城山麓の南東付近に「関屋」の地名が残ることから、位置的にも信濃方面への出入口を監視し、防衛する役割を担っていたとみられる。築城時以外に史料が乏しく、維持管理体制も含め詳細は不明であるが、西からの外敵の侵入を阻む防御の要として築城されたとみられる。一条小山砦の東西南北へ通じる主要街道が集中する交通の要衝であり、 鎌倉期には時宗道場一蓮寺が成立するような場所であった。そのため、甲府の守備を固める上では重要な玄関口の一つとして一蓮寺を移築させてまで砦を築く意味があった。このように武田信虎が館の三方を囲む山塊の頂部と両端にいち早く城砦を築いたのは、甲府に通じる主要街道が強く意識され、扇状地の奥に引いた躑躅ヶ崎館へ通じる出入口を遮断できる位置に城砦網を整備したと考えられる。<遺構>「甲斐国志」には山頂に石塁と泉があり、烽火台であったと記述されている。現状では山頂を中心に土塁や堀で区画された三つの郭と二つの帯郭で構成されており、西の玄関口を守備する本格的な山城であったことは疑いない。城の中心は一の郭とみられ、その東に土塁で仕切られた二の郭と、北に堀と土塁で区画された三の郭が配置されている。登城口は、現時点で明確になっていないものの、二の郭南東下方に虎口状の小規模な平坦地が残ることから、その場所が大手と考えられている。湯村山城で最も大きく、整った区画を有する一の郭は、東西約40m、南北約70mの規模で、高低差を利用した南北方向に上下二段の平坦地で構成されている。記録にも登場する井戸跡は、この一の郭下段に構築されており、幅約2mの石積み井戸で現在の開口している。一の郭は周囲を低い土塁が取り巻き、虎口が三ヵ所に設けられている。その東に位置する二の郭は、一の郭に比べて東西方向が短く、約25m程度の規模で、大手道とみられる虎口と接続し、南側が大きく開かれている。一・二の郭の北側には、二本の堀切を挟んで三の郭が築かれて いるが、内部は安山岩の露頭や巨石も多く、生活面を形成していたか疑問も残る状態である。規模は、東西約50m、南北約40mの方形 に近い形状であり、北側には斜面を切り出した小規模な帯郭が二ヵ所に造成されている。 <歴史>湯村山城一帯は、中世には湯ノ嶋と呼ばれ、古くは温泉が湧き出す場所であり、連歌師宗長が甲斐を訪れたさいに湯治に立ち寄った場所もこの一帯と推測されている。湯村山城築城については、「甲陽日記」にその様子の一端が記載されている。湯村一帯は湯ノ嶋と呼ばれ、湯ノ嶋での城普請は、4月24日に開始され、5月13日には水補(神?)の祠が城に立てられたとあることから、城内の飲料水が確保されていたことがわかる。その後、築城時の記録以外に湯村山城が歴史の表舞台に登場することはなく、武田氏 滅亡とともに1度は廃城になったと考えられるが、信濃方面への玄関口を抑える戦略上の重要性から判断し、他の城館同様に織豊政権下で改修が施された可能性もある。現在は、山頂に築かれた郭群を中心に土塁などの遺構が保存されており、山麓の甲府市緑が丘スポーツ公園側から遊歩道が整備され、山頂まで気軽にハイキングが楽しめる場所として親しまれている。 <関連部将>武田氏</関連部将> <出典>甲信越の名城を歩く 山梨編(山下孝司ほか)</出典>
2024.05.11
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谷戸城があるのは、八ヶ岳山麓を走る小海線甲斐小泉駅の南にある北杜市考古資料館のそばの丘陵地である。古い時代の城と思われるが、発掘調査されたようで、史跡公園として、整備されている。そのためか、郭跡、空堀、土塁など城の遺構を見ることができる。<地図>八ヶ岳南麓は、河川の浸食から残った流れ山という高地が丘陵または尾根状に点在する。谷戸城は、そのなかの一つの比高30m程度の丘陵に占地している。このあたりは南北6キロ、東西2キロにわたって流れ山が少なく、なだらかな傾斜地がつづいており、そのほぼ中央に位置するため眺望が優れている。地元では城山と呼ばれ、甲斐源氏の祖、逸見黒源太清光(1110~1168?)の居城と伝えられる。城の北東に対屋敷、北に接する水田に鍛冶田、西に町屋、御所、南には城の腰、城下という地名が残っており、いずれも城に関連するものであろう。城の南400mの位置にある城下遺跡からは、12世紀代の輸入された白磁片が出土している。その北に接する南北70m、東西60mの方形の地割が屋敷跡と考えれており、白磁もそこで使われたものかも知れない。逸見清光は、武田義清の嫡男で、新羅三郎義光の孫にあたる。もとは祖父義光が勢力を扶植した常陸国で生まれたが、濫行を朝廷に訴えられ、大治5年(1130)に義清とともに 甲斐くに配流が決まった。配流後は、八ヶ岳南麓の逸見を本拠とし、多くの男子を甲斐国内に進出させ、甲斐源氏と呼ばれる勢力の祖となった人物である。もっとも近いところで500mほど離れているが、城の南から西にかけて、上の棒道が通っている。「甲陽日記」天文17年(1548)9月6日条には、武田信玄が信濃へ侵攻する途中に「谷戸御陣所」で宿泊した記録が残り、この道を通ったものと考えられる。現在は史跡公園として整備され、北に隣接する資料館で出土品などを見ることができる。 <遺構>城のある流れ山は、北側から上がるとなだらかだが、東から南にかけては急斜面となっており、山裾から登るのは困難である。傾斜が比較的緩やかな西側は、山裾から幅50mほどの平坦面である六の郭を挟んで、崖となって西衣川へ落ちている。城外の北から東にかけては低湿地が広がっており、西側の崖と低湿地の間100mほどの幅が尾根となって城とつながっている。ここを堀切で分断して、地形的に独立したものとしている。城内は大まかに六つの郭と帯郭に分けられ、山頂の一の郭を中心に北・東・西に郭を配する「輪郭式」と呼ばれる縄張りをもつ。一の郭は南北40m、東西40mの大きさで、周囲を土塁に囲まれる。特に二の郭と接する北から東側の土塁は厚く、高くつくられており、中央が切れた平入りの虎口となる。西側の三の郭とは3mほどの高低差があるため、土塁は低い。しかし、一部が切れて虎口となっており、開口部に接する土塁の軸がずれた食違い虎口のなる。東の二の郭と西の三の郭を合わせると、そのまま一の郭を大きくしたような形となる。一の郭を完全に囲んでおり、北と南で郭がつながっている。二の郭は山のなかにある郭ではもっとも広く、発掘調査により掘立柱建物が確認された唯一の郭である。外縁を土塁に区切られるが、やはり北から東の土塁が大きい。最大の特徴は土塁の内側に空堀が掘られていることで、元は深い薬研堀だったが、自然に埋没していった途中で、人為的に埋められたことが発掘調査によってわかっている。三の郭は若干広い帯郭といった印象で、所々で切れる低い土塁が外縁にまわされており、その内側には、二の郭とつながる薬研堀が続いていた。この堀は南側ほど浅くなり、二の郭との境から南の斜面を下りられるようになっていた。北側でも二の郭との境で土橋が発見され、南北とも郭の境が虎口となっていた。整備前は、南北の虎口の近くに土塁を削って平らに造成した部分があり、物見の跡ではなかったかと考えられる。北側の土橋を渡ると、二の郭の北から東を取り巻く帯郭に出る。この外縁には高さ50cmにも満たない低い土塁がまわされており、北側で食違いに切れたところで四の郭と、東側で切れたところで五の郭とつながる。 <歴史>宝暦2年(1752)の谷戸村明細帳には「古城跡 壱ヶ所 御城主逸見玄源太清光公と申伝候」とあり、逸見清光の伝承はこの時期まで遡ることができる。江戸時代後期の地誌「甲斐国志」は、「吾妻鏡」治承4年9月15日条に載る「逸見山」を逸見山の館と解釈し、辺境にある谷戸城は要害で館は交通の要衝である若神子にあったと説明している。また、土塁や堀がはっきり残る城の姿は、天正壬午の乱(1582)の時に北条方により修築されたための推測している。このことは、当時から逸見山を谷戸城に比定する説が あったことを示している。谷戸城の周辺には清光に関する伝承のほか、安楽寺と深草館には清光の嫡子光長、白旗神社には孫の有義に関する伝承の残る点が注目され、谷戸城と逸見氏の強いつながりを類推できる。 <関連部将>逸見清光</関連部将> <出典>甲信越の名城を歩く 山梨編(山下孝司ほか)</出典>
2024.05.05
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