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というわけで、今回のロシア滞在も無事に終えることができました。え?なにか欠けている話題がある?そう、今回は常連の白猫の話がありません。なぜなら、飼い主である友人が二人目を出産したばかりで旦那さんの実家に行っていたため、ディオゲンたちには会えなかったからです(涙)でも、旦那さんの実家に呼んでくれて、生まれたばかりの小さな小さな女の子を抱かせてくれました。そこの家にも猫がいた。私が持参した日本産キャットフードは彼らの胃袋に。そして、やはり大家さんが亡くなって、寂しくなったということもあります。だいたい年に一度会うと、その間に起きた家族やら彼氏やらとの事件を山盛りで聞かせてくれて、驚嘆させられたものでした。留学を終えてから何年も経ったのに、ペテルブルクは今もなんとなく、もう一つの生活の場のような気がします。でも今回は、皆も私も、いろいろな環境の変化を経験しているんだなぁ、と思いました。もっとも、新しく生まれる人がいたり、新しく知り合う人がいたりすることは、とてもワクワクすることです。いずれまた、ロシアに行く機会があることを楽しみに。マトリョーシカのピアス。友人へのおみやげ。
2012/03/26
街歩きをして撮った写真を数枚。フォンタンカ運河グリボエードフ運河モイカ運河海軍省、イサーク寺院、宗務院手前に見えるのは雪原のようですが、ネヴァ川です。どの水辺も厚い氷で覆われていた2月のペテルブルク。今はもう、雪が融けている頃でしょうか…
2012/03/25
ソ連時代、ペテルブルクは街の名前を「レニングラード」と変えていました。その時期の大きな出来事の一つが、ドイツ軍による包囲戦(1941年9月8日-1944年1月27日)です。すなわち、第二次世界大戦のときに、この街はナチス・ドイツによって約900日間包囲されたのです。空から繰り返し爆撃されても敵に囲まれているので街から逃げられず、また、食糧や燃料が枯渇して餓死者、凍死者が相次ぎました。レニングラードの人々は草や土まで食べたと言われます。いつ終わるのか分からない極限状況が900日。最近、終わりの見えないストレスがあると人は鬱になるとかよく言われますが、これは、ちょっと考えられないレベルのストレスではあるまいか。と、そんな話を一年ぶりに会うロシア語の先生としていたら「マネーゲームを知っている?」と聞かれたので、拝金主義の横行するロシア、ついにそんなカタカナ英語まで定着したのか!と思ったらそうではなく、マンネルヘイムのことでした。(ロシア語では「ヘ」が「ゲ」になるので、「マンネルゲイム」と発音される。)彼はフィンランドの最高司令官で、ドイツと同盟していたのですが、レニングラード包囲戦の支援はしませんでした。なぜなら、マンネルヘイムは革命前、ロシア帝国の将校だったため、ペテルブルクを愛していたから。(ただ、先生が「マンネルヘイムのおかげでこの街は助かったのよ!」と言うのは、少し違う気も…ソ連とフィンランド、戦争してたし…)フィンランドで寄り道したのでマンネルヘイム像の生写真あります。今回の滞在の終わりのほうで、市の北部にあるピスカリョフカ墓地に行きました。ここは、900日包囲による犠牲者を悼む記念墓地です。ただ、雪に覆われて、何がどこにあるのかさっぱり分からなかったのですが…両脇は墓石なのかな…?ペテルブルク市内には博物館があるそうです。この900日包囲による戦禍で、革命後も旧首都として繁栄していたペテルブルクが一地方都市に陥落した、とも言われています。
2012/03/24
地下鉄に揺られていたら、乗ってきたおじさんが黒いカバンを床に置き、大きな声で滔々と話しはじめました。手には、ニンジンが。「尊敬する乗客の皆さん!今日は皆さんに素晴らしい製品をご紹介しましょう。それは、このピーラー(皮むき器)です」(そこで、黒いカバンから ピーラーをとりだす)「これは大変品質が良く、 この通り、ニンジンの皮を 手早くむくことができます」(シュッシュッと、ニンジンの皮をむく。 むいた皮は、黒いカバンの中に落とす)「逆さにして反対の部分を使えば、 ニンジンをスライスすることができます」(ピーラーもニンジンもさかさまにして、 手早く千切りを実演する。 千切りも、黒いカバンの中に落とす)「スライスしたニンジンは 韓国風サラダにどうぞ。 ニンジン以外にも、 スヴョークラや玉ねぎに使えます。 この優れたピーラーが、 今なら100ルーブル(=約280円。円高だなぁ) たったの100ルーブルで、手に入ります。 必要な方は私に声をかけてください」ロシアの地下鉄や郊外電車にはこのような物売りがしばしば現れます。今回のおじさんは朗々とよどみなく、レシピの指南まであって、たいへん結構でした。しかし、地下鉄の中でピーラー買うか?まして、ネット・ショッピングが広まっているのにいまどき交通機関で調理器具を買う気になるか??と、懐疑的に眺めるワタシ。ところが、おじさんが車内を練り歩くとドア横の席に座っていた若い女性が声をかけて100ルーブル札を渡すのです。えっ、サクラじゃないの…?と思いきや、初老の男性や中年の女性が次々に物売りのおじさんを呼び止めて、ピーラー屋さんは大繁盛。ビックリしたので、思わず写真を撮ってしまいました。販売中。あの黒いカバンの中にはピーラーと予備のニンジンとが入っていると思われる。まだこういう商売、健在なのだな。表の店で売っているのものは高いから、非正規ルートがあれば、それでお得に手に入れよう、という考え方。亡き大家さんを思い出します。いや、もしかするとネット・ショッピングも、同じ考え方なのか?だって彼らは、ネット検索をして、安く売っている場所に足を運ぶんだもんね?「クレジット・カード決済で便利」とか「クリック一回で自宅に届いて楽」とか言って、クールにお買い物するのとは訳が違うのか?あれこれ考えているうちに地下鉄は次の駅に着き、物売りのおじさんは商戦を拡大すべく、隣の車両に乗り換えていきました。
2012/03/17
今回は、ペテルブルクの旅行社のサイトでアパートメント・ホテルを予約でき、ビザ申請に必要な書類もメール添付のPDFファイルで送られてきて、渡航手続きが拍子抜けするほど簡単でした。一体ロシアはどうしたのだろうか。そんなことを思いつつ、地元の友人とネフスキー大通りの書店「ドーム・クニーギ」で待ち合わせて、「お茶を飲みにいく前に、 ここで買いたい本がある」と言うと、「この店は高いのよ。 事前にネットで検索すればよかったのに」Amazonみたいなサイトで注文するってこと?「そうなじゃなくて、 本のタイトルを適当に打ち込んでみたら、 どの店でいくらで売ってるか出てくるから。 それで、安い店に行って買うの」日本と違い、ロシアでは書籍が自由価格なので書店によって値段が違うのは知っていました。それゆえ、以前は出版社に電話する人がいましたが、ネット検索で探すのがよいと言われたのは初めての気がするなぁ。別の日には、地元の男性がこう言いました。「日本製品って素晴らしいよ。 うちの娘のオムツでも、 日本製のパンパースが一番いい。 だけど今は日本のメーカーでも 中国で生産することが多いから、 本物の“メイド・イン・ジャパン”を 手に入れるのが大変なんだ。 それで、ネットで検索すると 本物の日本製品をどこの店で売っているかを 紹介しているサイトがあるから、 それを見て買い物に行くんだよ」むむ、やっぱりネット検索なんだ。「自動車も、トヨタが ロシアの工場で作ってるものではなく、 本当に日本で生産してるもののほうが 品質がよいから、 ネットで買ったんだよ、 20,000ドルで!」えっ、20,000ドルのお買い物もネット・ショッピングですか!(20,000ドル=約170万円。円高だな…)先だって、反プーチンの抗議集会があったことをテレビ局は政府からの統制で報道しなかったのに、ネット上では詳細に伝えられたのでけっきょく皆が知るところとなり、ロシア国民は怒り心頭、という記事を読みました。(もっとも、テレビを情報統制しておきながら ネットをコントロールしないロシアは、 中国あたりと比べると実に大雑把で、 むしろ愛すべきような気もするのですが…)どうやら、政治的なことから生活に関わることまで、ネット上の情報への信頼感が浸透しているようです。ロシアの旅行社がネット上でビジネスを展開するのももはや当たり前で、何ら驚くことではないのかもしれません。でも、昔のことを知っていると、やっぱり驚くんですよ!
2012/03/17
ペテルブルクにはロシア航空という航空会社があります。これは、某墜落事故後に改称した社名で、私の留学時代にはプルコヴォ航空と言いました。これがきわめて庶民的な航空会社で、離着陸時のマナーとか機体整備とか、大丈夫なのかな…?と思わされたことがあり、2005年の日記に書きました。その記事を書いて以来の疑問、それは、ペテルブルクを拠点とする世界的指揮者ゲルギエフははたして国外公演に出るときにこのロシアン・クオリティーな航空会社を使うのだろうか?それとも、ルフトハンザ航空など洗練された(?)外国の航空会社を使うのだろうか?ということ。今回、指揮者の方とお話ししていて、ついにその疑問が氷解!(そんなくだらないこと質問するのもアレだし、 そんなくだらないこと7年間も気にしてきたのもアレですが…)「ゲルギエフって、遠征のときに 地元航空会社を使うんでしょうか?」「いえ、彼は自家用ジェットで行くんですよ」自家用ジェット…!想定の斜め上を行く答…!!ただしそのジェット機は彼の持ち物ではなく、チェスキーナ永江洋子さんという有名な支援者から借りているものだそう。この方は、ハープ奏者としてイタリアに留学した際に、現地の貴族と知り合って結婚。その後、ご主人が亡くなって財産を相続し、自らが大富豪となったために、クラシック音楽界でパトロンとして活動されているそうです。すごいなぁ、もし自分が留学中に大富豪と結婚して未亡人になったら、いったい何の分野のパトロンになろうか…とワクワク想像してみましたが、もはや留学が7年前のこととなり、既婚でもある私には、そんな機会は訪れなかったのネ、と気付くのでした。
2012/03/12
その指揮者の方からチケットをいただいたので、急遽、マリインスキー劇場が2007年に新設したコンサート・ホールに行きました。マリインスキー劇場のサイトに掲載されているオープン当時のコンサート・ホールの外観。今回、私が行ったときの情景。劇場が見えない…工事現場にしか見えない…国外からの公演団体の宿泊所を建設中らしいのですが、劇場正面を隠してしまうあたり、ロシアだな…工事現場を越えると、そこが劇場だった…このコンサート・ホール、アクセスもかなり難しい。近くに地下鉄駅は全くなく、ネフスキー大通りから22番というバスに乗るしかありません。そしてこのバスが、開演時刻と帰宅ラッシュが重なるのでぎゅうぎゅう詰めだったり、溶けた雪で床はどろどろだったり、窓が凍って外が見えず、どこ走ってるか分からなかったりします。世界的なコンサート・ホールで、ここまで外国人にハードルの高い劇場も珍しいのではないでしょうか…(マリインスキー劇場の本館も、アクセス事情は大して変わりません。)ですが、音響は素晴らしいホールでした。ゲルギエフの指揮するプロコフィエフ『戦争と平和』をとても気持ちよく聴いた日曜の夜でした。開演前のホール内部
2012/03/12
今回の滞在では、ペテルブルク音楽院の指揮科に留学されている日本人の方と知り合いました。リムスキー・コルサコフ記念サンクトペテルブルク国立音楽院(写真はネット上から借用)ペテルブルク音楽院とは、19世紀半ばに創立された、いわば国立の音大です。(クニタチじゃないですよ。)18世紀にピョートル大帝が「ロシアを西欧化する!」と明確に方針決定して以来、ロシアにはヨーロッパから様々な文物が導入されました。そして演劇や美術の分野では、西欧的な芸術作品を生み出す人材の育成のために帝室バレエ学校や美術アカデミーなどが18世紀半ばのペテルブルクに創設されました。しかし、音楽院の開設だけはかなり遅く、ようやく1862年になってからのことです。以前、モノの本で、ここの一期生のチャイコフスキーが四年間の課程を終えて1866年に卒業するや否や、同じ年に創立されたばかりのモスクワ音楽院の教授になったと読み、帝政期ロシアの音楽教育って、人材のやりくりがずいぶんな自転車操業だったんだなぁと思ったことがあります。それにしても、なぜ留学先としてウィーンやベルリンではなく、ペテルブルクを選んだのですか?だって、ロシアで暮らすのって、けっこう余分なストレスがかかるじゃないですか…とお尋ねしてみると、理由の一つは、ペテルブルク音楽院の指揮科が練習用のオーケストラを持っているからとのこと。つまり、ペテルブルク音楽院には、教育部門専属のオーケストラの人たちがいるので、指揮科の院生は最大で週2回まで予約を入れて、自分の構想を実演してもらうことができるのだそうです。逆に言えば、世界各地の大抵の指揮科の学生は、楽譜を見て演奏の進行を構想しても、実際にオーケストラを使って試す機会が非常に限られるんですね。世界的に稀、というその恵まれた教育環境は、社会主義時代の置き土産でしょうか?とうかがってみたら、たぶん革命前からそうだった、とのこと。どうやら、帝政期ロシアの音楽教育をやみくもに「自転車操業」と断じるべきではなさそうです。既にアシスタント・コンダクターとして劇場デビューされ、また、世界各地のコンクールを転戦されているようです。第一線での活躍を、心から応援しています!
2012/03/12
さて、今回の滞在ではアパートメント・ホテルを予約しました。つまり、一般の集合住宅の一室を借りたわけで、ウィークリー・マンションに住まうようなことだと言えるでしょう。でも、どんなところだろう…?少し不安になりながらペテルブルクで業者の人と落ち合い、連れて行ってもらった先は…とても巨大で、歴史的な集合住宅。これはミハイル・トルストイ伯爵が1910-1912年に建てさせた6階建て、アール・ヌーヴォー様式の賃貸住宅で、トルストイ館とも呼ばれました。ソ連時代には、ドラマ『シャーロック・ホームズ』のロケ地になったそうです。夜の風景。ちなみに、付近のホテルより安いです。ロシアによくあることで、共用階段のあたりはあまり綺麗でなくちょっと怯んだのですが…2階部分に位置する、今回借りた部屋は、ヨーロッパ風に改装されたようで、明るく軽やかでした。犬のぬいぐるみも備品カラフルなシャワー・ルームうちのキッチンよりきれいかも…ペテルブルクの中心部には歴史的な建物が多くありますが、普段はその前を素通りするばかりなので、中庭や建物の内部に入り込めるのはとても面白い経験です。アパートメント・ホテル、癖になるかもしれない…そう思いながら、四方を壁に囲まれた中庭で空の写真を撮りました。こういう景色をペテルブルクの人は「中庭の井戸 dvor kolodets」と呼ぶんだよ、と、あとで友人が教えてくれました。くぐりぬけたら、明るいところに出られるかな。
2012/03/08
さて今回は、フィン・エアーで東京からヘルシンキに飛び、そこから鉄道でペテルブルクに入ることにしました。理由の一つは、昨年、ペテルブルクの空港タクシーがとんでもない雲助だったので、なるべく乗りたくなかったから。怒。郊外に空港がある飛行機と違い、鉄道は、ヘルシンキの都心を出てペテルブルクの都心に着けるという利点があります。そういうわけで、ヘルシンキ中央駅にやってきました。フィンランドを代表する企業マリメッコの大きな広告が。番号札制度が導入されたチケット・センターであまり待つことなくペテルブルク行の切符を購入。この人が、フィンランド国鉄のキャラクターらしいです。乗車するのはフィンランド国鉄の「アレグロ号」という特急で、ヘルシンキ―ペテルブルク間を3時間半で結びます。時速180キロ、片道86ユーロ。速度といい、価格といい、日本の新幹線のようなものだと言えるでしょうか。車内は薄い青色のシートで清潔です。乗客、乗員ともにロシア人とフィンランド人とがおり、車内放送は、フィン語、ロシア語、英語で流れます。車内販売や食堂車もあります。国境に向かって、雪原を静かにひた走るアレグロ号。なんと速くて快適なのでしょう。切符を購入するのも、とてもスムーズでした。フィンランドって、ロシアと違ってとても物静かで洗練された文明国なのね…!と、対比的にとらえるのはやや早計で、途中駅から、フィンランド人観光客の集団と乗り合わせることに。団体である彼らは周囲の乗客に注意を向けることなく、喋る、飲む、笑う、食べる…皆さん楽しそうでいいんですけど、できれば車内で合唱はしないでください!車内のトイレではこんな標識を見つけましたが、これはロシア人向けなのか、フィンランド人向けなのか…そうこうするうちに列車は国境地帯に。車内で出入国審査も済み、やがて、ペテルブルクのフィンランド駅に着きました。1917年4月にレーニンが、封印列車で亡命先から帰着した駅です。さあ、約一年ぶりのロシアにやってきました。
2012/03/08
2012年も、ペテルブルクを訪れる機会がありました。約一年ぶりにブログを更新します。昨夏に大家さんが亡くなってしまったため、今回はこれまで考えないでよかった、「どこに泊まるか?」という問題が生じました。ホテル?でもペテルブルクのホテルはむやみに高い。そして高いお金を払ってもよいものが手に入るとは限らないのが、長いことサービスという観念のなかったロシア。ホテルだって、きっとトラブルが発生するんじゃないかしら。壁が薄いとかお湯が出ないとか暖房が弱いとか南京虫がいるとか…(←いつの時代だ。)すると、知人から驚くべき情報が。「ネットで申し込めるアパートメント・ホテルがあるよ。『オクサーナ』っていう旅行業者がやってるの」な、なんかロシア人のお姉ちゃんが微笑んでるサイトですね。しかし、ロシア人相手に、ネットで申し込んだりクレジット・カードで支払ったりして、ほんとうに現地でちゃんと宿所が用意されるんですか…?「大丈夫。去年頼んでみたけど、すごくスムーズだった。 メールで問い合わせてもすぐ返事が来るし、 メールは英語で大丈夫だし」えっ、ロシア人が問い合わせメールにすぐ返事を…?そんなアメリカンなことが、本当に…??だけど、ロシアに入国するには向こうの旅行業者に招待状を出してもらって、日本のロシア大使館でビザを申請しなきゃいけないじゃないですか。「それも大丈夫。 招待状は、この業者が PDFファイルでメールに添付して送ってくれるから それをプリントアウトして、 東京のロシア大使館に持っていけばいいんだよ」ええっ、招待状がメール添付のPDFファイルで!そんなの、ほんとにロシア大使館が受理するの??半信半疑ながら、ものは試しと『オクサーナ』にメールを出すと、たしかにオクサーナという女性からすぐに英語で返事が来てさくさくと手続きは進み、ほんとうにPDFファイルで招待状をゲット。それで、未だに半信半疑ながら、麻布のロシア大使館に持っていったら…窓口の係官はすんなり受理して、2週間後には無事にビザが発給されたのでした。(しかも、即日とか1週間とかではなく 2週間後でよければ ビザ発給って無料で済むんですよね。)こんなにスムーズな入国準備は、初めての経験です。何がどうしたのだろうか、ロシア。少し戸惑いすら感じながら、今回の滞在は始まりました。
2012/03/08
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