全385件 (385件中 1-50件目)
というわけで、今回のロシア滞在も無事に終えることができました。え?なにか欠けている話題がある?そう、今回は常連の白猫の話がありません。なぜなら、飼い主である友人が二人目を出産したばかりで旦那さんの実家に行っていたため、ディオゲンたちには会えなかったからです(涙)でも、旦那さんの実家に呼んでくれて、生まれたばかりの小さな小さな女の子を抱かせてくれました。そこの家にも猫がいた。私が持参した日本産キャットフードは彼らの胃袋に。そして、やはり大家さんが亡くなって、寂しくなったということもあります。だいたい年に一度会うと、その間に起きた家族やら彼氏やらとの事件を山盛りで聞かせてくれて、驚嘆させられたものでした。留学を終えてから何年も経ったのに、ペテルブルクは今もなんとなく、もう一つの生活の場のような気がします。でも今回は、皆も私も、いろいろな環境の変化を経験しているんだなぁ、と思いました。もっとも、新しく生まれる人がいたり、新しく知り合う人がいたりすることは、とてもワクワクすることです。いずれまた、ロシアに行く機会があることを楽しみに。マトリョーシカのピアス。友人へのおみやげ。
2012/03/26
街歩きをして撮った写真を数枚。フォンタンカ運河グリボエードフ運河モイカ運河海軍省、イサーク寺院、宗務院手前に見えるのは雪原のようですが、ネヴァ川です。どの水辺も厚い氷で覆われていた2月のペテルブルク。今はもう、雪が融けている頃でしょうか…
2012/03/25
ソ連時代、ペテルブルクは街の名前を「レニングラード」と変えていました。その時期の大きな出来事の一つが、ドイツ軍による包囲戦(1941年9月8日-1944年1月27日)です。すなわち、第二次世界大戦のときに、この街はナチス・ドイツによって約900日間包囲されたのです。空から繰り返し爆撃されても敵に囲まれているので街から逃げられず、また、食糧や燃料が枯渇して餓死者、凍死者が相次ぎました。レニングラードの人々は草や土まで食べたと言われます。いつ終わるのか分からない極限状況が900日。最近、終わりの見えないストレスがあると人は鬱になるとかよく言われますが、これは、ちょっと考えられないレベルのストレスではあるまいか。と、そんな話を一年ぶりに会うロシア語の先生としていたら「マネーゲームを知っている?」と聞かれたので、拝金主義の横行するロシア、ついにそんなカタカナ英語まで定着したのか!と思ったらそうではなく、マンネルヘイムのことでした。(ロシア語では「ヘ」が「ゲ」になるので、「マンネルゲイム」と発音される。)彼はフィンランドの最高司令官で、ドイツと同盟していたのですが、レニングラード包囲戦の支援はしませんでした。なぜなら、マンネルヘイムは革命前、ロシア帝国の将校だったため、ペテルブルクを愛していたから。(ただ、先生が「マンネルヘイムのおかげでこの街は助かったのよ!」と言うのは、少し違う気も…ソ連とフィンランド、戦争してたし…)フィンランドで寄り道したのでマンネルヘイム像の生写真あります。今回の滞在の終わりのほうで、市の北部にあるピスカリョフカ墓地に行きました。ここは、900日包囲による犠牲者を悼む記念墓地です。ただ、雪に覆われて、何がどこにあるのかさっぱり分からなかったのですが…両脇は墓石なのかな…?ペテルブルク市内には博物館があるそうです。この900日包囲による戦禍で、革命後も旧首都として繁栄していたペテルブルクが一地方都市に陥落した、とも言われています。
2012/03/24
地下鉄に揺られていたら、乗ってきたおじさんが黒いカバンを床に置き、大きな声で滔々と話しはじめました。手には、ニンジンが。「尊敬する乗客の皆さん!今日は皆さんに素晴らしい製品をご紹介しましょう。それは、このピーラー(皮むき器)です」(そこで、黒いカバンから ピーラーをとりだす)「これは大変品質が良く、 この通り、ニンジンの皮を 手早くむくことができます」(シュッシュッと、ニンジンの皮をむく。 むいた皮は、黒いカバンの中に落とす)「逆さにして反対の部分を使えば、 ニンジンをスライスすることができます」(ピーラーもニンジンもさかさまにして、 手早く千切りを実演する。 千切りも、黒いカバンの中に落とす)「スライスしたニンジンは 韓国風サラダにどうぞ。 ニンジン以外にも、 スヴョークラや玉ねぎに使えます。 この優れたピーラーが、 今なら100ルーブル(=約280円。円高だなぁ) たったの100ルーブルで、手に入ります。 必要な方は私に声をかけてください」ロシアの地下鉄や郊外電車にはこのような物売りがしばしば現れます。今回のおじさんは朗々とよどみなく、レシピの指南まであって、たいへん結構でした。しかし、地下鉄の中でピーラー買うか?まして、ネット・ショッピングが広まっているのにいまどき交通機関で調理器具を買う気になるか??と、懐疑的に眺めるワタシ。ところが、おじさんが車内を練り歩くとドア横の席に座っていた若い女性が声をかけて100ルーブル札を渡すのです。えっ、サクラじゃないの…?と思いきや、初老の男性や中年の女性が次々に物売りのおじさんを呼び止めて、ピーラー屋さんは大繁盛。ビックリしたので、思わず写真を撮ってしまいました。販売中。あの黒いカバンの中にはピーラーと予備のニンジンとが入っていると思われる。まだこういう商売、健在なのだな。表の店で売っているのものは高いから、非正規ルートがあれば、それでお得に手に入れよう、という考え方。亡き大家さんを思い出します。いや、もしかするとネット・ショッピングも、同じ考え方なのか?だって彼らは、ネット検索をして、安く売っている場所に足を運ぶんだもんね?「クレジット・カード決済で便利」とか「クリック一回で自宅に届いて楽」とか言って、クールにお買い物するのとは訳が違うのか?あれこれ考えているうちに地下鉄は次の駅に着き、物売りのおじさんは商戦を拡大すべく、隣の車両に乗り換えていきました。
2012/03/17
今回は、ペテルブルクの旅行社のサイトでアパートメント・ホテルを予約でき、ビザ申請に必要な書類もメール添付のPDFファイルで送られてきて、渡航手続きが拍子抜けするほど簡単でした。一体ロシアはどうしたのだろうか。そんなことを思いつつ、地元の友人とネフスキー大通りの書店「ドーム・クニーギ」で待ち合わせて、「お茶を飲みにいく前に、 ここで買いたい本がある」と言うと、「この店は高いのよ。 事前にネットで検索すればよかったのに」Amazonみたいなサイトで注文するってこと?「そうなじゃなくて、 本のタイトルを適当に打ち込んでみたら、 どの店でいくらで売ってるか出てくるから。 それで、安い店に行って買うの」日本と違い、ロシアでは書籍が自由価格なので書店によって値段が違うのは知っていました。それゆえ、以前は出版社に電話する人がいましたが、ネット検索で探すのがよいと言われたのは初めての気がするなぁ。別の日には、地元の男性がこう言いました。「日本製品って素晴らしいよ。 うちの娘のオムツでも、 日本製のパンパースが一番いい。 だけど今は日本のメーカーでも 中国で生産することが多いから、 本物の“メイド・イン・ジャパン”を 手に入れるのが大変なんだ。 それで、ネットで検索すると 本物の日本製品をどこの店で売っているかを 紹介しているサイトがあるから、 それを見て買い物に行くんだよ」むむ、やっぱりネット検索なんだ。「自動車も、トヨタが ロシアの工場で作ってるものではなく、 本当に日本で生産してるもののほうが 品質がよいから、 ネットで買ったんだよ、 20,000ドルで!」えっ、20,000ドルのお買い物もネット・ショッピングですか!(20,000ドル=約170万円。円高だな…)先だって、反プーチンの抗議集会があったことをテレビ局は政府からの統制で報道しなかったのに、ネット上では詳細に伝えられたのでけっきょく皆が知るところとなり、ロシア国民は怒り心頭、という記事を読みました。(もっとも、テレビを情報統制しておきながら ネットをコントロールしないロシアは、 中国あたりと比べると実に大雑把で、 むしろ愛すべきような気もするのですが…)どうやら、政治的なことから生活に関わることまで、ネット上の情報への信頼感が浸透しているようです。ロシアの旅行社がネット上でビジネスを展開するのももはや当たり前で、何ら驚くことではないのかもしれません。でも、昔のことを知っていると、やっぱり驚くんですよ!
2012/03/17
ペテルブルクにはロシア航空という航空会社があります。これは、某墜落事故後に改称した社名で、私の留学時代にはプルコヴォ航空と言いました。これがきわめて庶民的な航空会社で、離着陸時のマナーとか機体整備とか、大丈夫なのかな…?と思わされたことがあり、2005年の日記に書きました。その記事を書いて以来の疑問、それは、ペテルブルクを拠点とする世界的指揮者ゲルギエフははたして国外公演に出るときにこのロシアン・クオリティーな航空会社を使うのだろうか?それとも、ルフトハンザ航空など洗練された(?)外国の航空会社を使うのだろうか?ということ。今回、指揮者の方とお話ししていて、ついにその疑問が氷解!(そんなくだらないこと質問するのもアレだし、 そんなくだらないこと7年間も気にしてきたのもアレですが…)「ゲルギエフって、遠征のときに 地元航空会社を使うんでしょうか?」「いえ、彼は自家用ジェットで行くんですよ」自家用ジェット…!想定の斜め上を行く答…!!ただしそのジェット機は彼の持ち物ではなく、チェスキーナ永江洋子さんという有名な支援者から借りているものだそう。この方は、ハープ奏者としてイタリアに留学した際に、現地の貴族と知り合って結婚。その後、ご主人が亡くなって財産を相続し、自らが大富豪となったために、クラシック音楽界でパトロンとして活動されているそうです。すごいなぁ、もし自分が留学中に大富豪と結婚して未亡人になったら、いったい何の分野のパトロンになろうか…とワクワク想像してみましたが、もはや留学が7年前のこととなり、既婚でもある私には、そんな機会は訪れなかったのネ、と気付くのでした。
2012/03/12
その指揮者の方からチケットをいただいたので、急遽、マリインスキー劇場が2007年に新設したコンサート・ホールに行きました。マリインスキー劇場のサイトに掲載されているオープン当時のコンサート・ホールの外観。今回、私が行ったときの情景。劇場が見えない…工事現場にしか見えない…国外からの公演団体の宿泊所を建設中らしいのですが、劇場正面を隠してしまうあたり、ロシアだな…工事現場を越えると、そこが劇場だった…このコンサート・ホール、アクセスもかなり難しい。近くに地下鉄駅は全くなく、ネフスキー大通りから22番というバスに乗るしかありません。そしてこのバスが、開演時刻と帰宅ラッシュが重なるのでぎゅうぎゅう詰めだったり、溶けた雪で床はどろどろだったり、窓が凍って外が見えず、どこ走ってるか分からなかったりします。世界的なコンサート・ホールで、ここまで外国人にハードルの高い劇場も珍しいのではないでしょうか…(マリインスキー劇場の本館も、アクセス事情は大して変わりません。)ですが、音響は素晴らしいホールでした。ゲルギエフの指揮するプロコフィエフ『戦争と平和』をとても気持ちよく聴いた日曜の夜でした。開演前のホール内部
2012/03/12
今回の滞在では、ペテルブルク音楽院の指揮科に留学されている日本人の方と知り合いました。リムスキー・コルサコフ記念サンクトペテルブルク国立音楽院(写真はネット上から借用)ペテルブルク音楽院とは、19世紀半ばに創立された、いわば国立の音大です。(クニタチじゃないですよ。)18世紀にピョートル大帝が「ロシアを西欧化する!」と明確に方針決定して以来、ロシアにはヨーロッパから様々な文物が導入されました。そして演劇や美術の分野では、西欧的な芸術作品を生み出す人材の育成のために帝室バレエ学校や美術アカデミーなどが18世紀半ばのペテルブルクに創設されました。しかし、音楽院の開設だけはかなり遅く、ようやく1862年になってからのことです。以前、モノの本で、ここの一期生のチャイコフスキーが四年間の課程を終えて1866年に卒業するや否や、同じ年に創立されたばかりのモスクワ音楽院の教授になったと読み、帝政期ロシアの音楽教育って、人材のやりくりがずいぶんな自転車操業だったんだなぁと思ったことがあります。それにしても、なぜ留学先としてウィーンやベルリンではなく、ペテルブルクを選んだのですか?だって、ロシアで暮らすのって、けっこう余分なストレスがかかるじゃないですか…とお尋ねしてみると、理由の一つは、ペテルブルク音楽院の指揮科が練習用のオーケストラを持っているからとのこと。つまり、ペテルブルク音楽院には、教育部門専属のオーケストラの人たちがいるので、指揮科の院生は最大で週2回まで予約を入れて、自分の構想を実演してもらうことができるのだそうです。逆に言えば、世界各地の大抵の指揮科の学生は、楽譜を見て演奏の進行を構想しても、実際にオーケストラを使って試す機会が非常に限られるんですね。世界的に稀、というその恵まれた教育環境は、社会主義時代の置き土産でしょうか?とうかがってみたら、たぶん革命前からそうだった、とのこと。どうやら、帝政期ロシアの音楽教育をやみくもに「自転車操業」と断じるべきではなさそうです。既にアシスタント・コンダクターとして劇場デビューされ、また、世界各地のコンクールを転戦されているようです。第一線での活躍を、心から応援しています!
2012/03/12
さて、今回の滞在ではアパートメント・ホテルを予約しました。つまり、一般の集合住宅の一室を借りたわけで、ウィークリー・マンションに住まうようなことだと言えるでしょう。でも、どんなところだろう…?少し不安になりながらペテルブルクで業者の人と落ち合い、連れて行ってもらった先は…とても巨大で、歴史的な集合住宅。これはミハイル・トルストイ伯爵が1910-1912年に建てさせた6階建て、アール・ヌーヴォー様式の賃貸住宅で、トルストイ館とも呼ばれました。ソ連時代には、ドラマ『シャーロック・ホームズ』のロケ地になったそうです。夜の風景。ちなみに、付近のホテルより安いです。ロシアによくあることで、共用階段のあたりはあまり綺麗でなくちょっと怯んだのですが…2階部分に位置する、今回借りた部屋は、ヨーロッパ風に改装されたようで、明るく軽やかでした。犬のぬいぐるみも備品カラフルなシャワー・ルームうちのキッチンよりきれいかも…ペテルブルクの中心部には歴史的な建物が多くありますが、普段はその前を素通りするばかりなので、中庭や建物の内部に入り込めるのはとても面白い経験です。アパートメント・ホテル、癖になるかもしれない…そう思いながら、四方を壁に囲まれた中庭で空の写真を撮りました。こういう景色をペテルブルクの人は「中庭の井戸 dvor kolodets」と呼ぶんだよ、と、あとで友人が教えてくれました。くぐりぬけたら、明るいところに出られるかな。
2012/03/08
さて今回は、フィン・エアーで東京からヘルシンキに飛び、そこから鉄道でペテルブルクに入ることにしました。理由の一つは、昨年、ペテルブルクの空港タクシーがとんでもない雲助だったので、なるべく乗りたくなかったから。怒。郊外に空港がある飛行機と違い、鉄道は、ヘルシンキの都心を出てペテルブルクの都心に着けるという利点があります。そういうわけで、ヘルシンキ中央駅にやってきました。フィンランドを代表する企業マリメッコの大きな広告が。番号札制度が導入されたチケット・センターであまり待つことなくペテルブルク行の切符を購入。この人が、フィンランド国鉄のキャラクターらしいです。乗車するのはフィンランド国鉄の「アレグロ号」という特急で、ヘルシンキ―ペテルブルク間を3時間半で結びます。時速180キロ、片道86ユーロ。速度といい、価格といい、日本の新幹線のようなものだと言えるでしょうか。車内は薄い青色のシートで清潔です。乗客、乗員ともにロシア人とフィンランド人とがおり、車内放送は、フィン語、ロシア語、英語で流れます。車内販売や食堂車もあります。国境に向かって、雪原を静かにひた走るアレグロ号。なんと速くて快適なのでしょう。切符を購入するのも、とてもスムーズでした。フィンランドって、ロシアと違ってとても物静かで洗練された文明国なのね…!と、対比的にとらえるのはやや早計で、途中駅から、フィンランド人観光客の集団と乗り合わせることに。団体である彼らは周囲の乗客に注意を向けることなく、喋る、飲む、笑う、食べる…皆さん楽しそうでいいんですけど、できれば車内で合唱はしないでください!車内のトイレではこんな標識を見つけましたが、これはロシア人向けなのか、フィンランド人向けなのか…そうこうするうちに列車は国境地帯に。車内で出入国審査も済み、やがて、ペテルブルクのフィンランド駅に着きました。1917年4月にレーニンが、封印列車で亡命先から帰着した駅です。さあ、約一年ぶりのロシアにやってきました。
2012/03/08
2012年も、ペテルブルクを訪れる機会がありました。約一年ぶりにブログを更新します。昨夏に大家さんが亡くなってしまったため、今回はこれまで考えないでよかった、「どこに泊まるか?」という問題が生じました。ホテル?でもペテルブルクのホテルはむやみに高い。そして高いお金を払ってもよいものが手に入るとは限らないのが、長いことサービスという観念のなかったロシア。ホテルだって、きっとトラブルが発生するんじゃないかしら。壁が薄いとかお湯が出ないとか暖房が弱いとか南京虫がいるとか…(←いつの時代だ。)すると、知人から驚くべき情報が。「ネットで申し込めるアパートメント・ホテルがあるよ。『オクサーナ』っていう旅行業者がやってるの」な、なんかロシア人のお姉ちゃんが微笑んでるサイトですね。しかし、ロシア人相手に、ネットで申し込んだりクレジット・カードで支払ったりして、ほんとうに現地でちゃんと宿所が用意されるんですか…?「大丈夫。去年頼んでみたけど、すごくスムーズだった。 メールで問い合わせてもすぐ返事が来るし、 メールは英語で大丈夫だし」えっ、ロシア人が問い合わせメールにすぐ返事を…?そんなアメリカンなことが、本当に…??だけど、ロシアに入国するには向こうの旅行業者に招待状を出してもらって、日本のロシア大使館でビザを申請しなきゃいけないじゃないですか。「それも大丈夫。 招待状は、この業者が PDFファイルでメールに添付して送ってくれるから それをプリントアウトして、 東京のロシア大使館に持っていけばいいんだよ」ええっ、招待状がメール添付のPDFファイルで!そんなの、ほんとにロシア大使館が受理するの??半信半疑ながら、ものは試しと『オクサーナ』にメールを出すと、たしかにオクサーナという女性からすぐに英語で返事が来てさくさくと手続きは進み、ほんとうにPDFファイルで招待状をゲット。それで、未だに半信半疑ながら、麻布のロシア大使館に持っていったら…窓口の係官はすんなり受理して、2週間後には無事にビザが発給されたのでした。(しかも、即日とか1週間とかではなく 2週間後でよければ ビザ発給って無料で済むんですよね。)こんなにスムーズな入国準備は、初めての経験です。何がどうしたのだろうか、ロシア。少し戸惑いすら感じながら、今回の滞在は始まりました。
2012/03/08
ペテルブルクの大家さんが亡くなったという知らせを受けました。ただ懐かしく、寂しい気持ちでいっぱいです。私のロシア生活を数々の武勇伝で太陽のように明るくしてくださったことに深く感謝したいと思います。でも、まだもっと伝説を作ってほしかったな。
2011/07/04
というわけで、今年も年度末の2週間弱をペテルブルクで過ごしました。全日程を終え、郊外のプルコヴォ空港から出国します。航空会社のチェックインカウンターを過ぎ、出国審査の窓口の前へ。ガラス板の向こうでは、短髪の中年女性審査官が厳しい目つきでこちらを見ています。いつものことですが、少し高い位置からパスポートとこちらの顔を無言のまま何度も見較べられて、手許で何やらゴソゴソやられるのは落ち着きません。成田空港の審査官は「おつかれさまで~す」などと言ってくれますが、ロシアやウクライナではたぶんソ連時代から変わらず、せいぜい頷くくらいで喋ることなく、眼光鋭く吟味するといった風情です。がちゃんがちゃんとスタンプを押す音を聞くとあ、通してくれるみたい…とホッとします。もっとも、ロシアから出るときはそんなにうるさくないはずだけど…今回も出国印を押す音がしてパスポートを返されたので、安心して窓口を離れようとしました。と、そのとき、「あなたはロシア語を話すか?」との問い。な、なんです今さら、何かワタシ悪いことでも…?「話します」と答える声が裏返りそう。ところがそう聞いた彼女の顔には途端に柔らかい表情が浮かび、「まあ、話せるのね。日本は今どうなの?ニュースを聞いて、毎日心配してるのよ」ああ、私のパスポートが日本のだったから…思いがけない温かさにこちらの緊張もとけて、お礼を言いました。ロシアの出入国審査官という、日頃ホスピタリティと最も縁遠い人が優しく気遣ってくれるくらい、未曾有の大災害だったのだな、とも思いましたが… * * *とぎれとぎれに続けてきた3月の短期滞在ブログもこれで終わりです。明日からもう5月。これから月が替わるごとに多くのことが良い方向へと向かっていますように。では、またお会いする日まで…
2011/04/30
滞在も終わりに近づいた週末、ペテルブルク郊外の街プーシキンをちょっと歩きました。革命前の名前はツァールスコエ・セローというロマノフ朝代々の皇帝が暮らした宮殿都市です。今回は最後の皇帝ニコライ二世ゆかりの場所をいくつか。フョードロフスキー聖堂ニコライ二世ファミリーが礼拝するために1909-1912年に建立された教会で、第二次世界大戦時にドイツ軍に破壊されたのを1990年代以降に再建したそうです。特に、地下に作られた聖人セラフィーム・サロフスキーに捧げるお堂は皇帝一家専用の祈りの場だったのだとか。(撮影禁止だったので、web上から借用)実際にはもう少し暗くて、祈りに没頭できそうな雰囲気なぜそんな自家用教会をここに建てたかといえば、一家が暮らしたアレクサンドロフスキー宮殿が広場をはさんですぐそこだったからです。勤行の時間だから、庭をつっきってお参りしてくるわ、てな感じだったのでしょうか。(庭といっても広大ですが。)木立の向こうにあるのが宮殿教会が古式ゆかしい建て方だったのに対してこちらは当時のトレンド、アール・ヌーヴォー様式による内装でした。(もっとも、復原されているのは一部でしたが。)とりわけ、ニコライ二世の緑色の書斎は隅々まで粋が凝らされて、印象深かったです。(こちらもweb上から借用)カーテンの柄や照明がオサレ壁には父アレクサンドル三世の肖像。よく見ると皇太子アレクセイの肖像も新旧の趣味を混交させてずいぶん心地よく暮らしていたんだなぁ。1917年の革命でニコライ一家は、まさにこの宮殿から連行されてシベリアに送られたのだそうです。
2011/04/27
留学時代に私の生活をとても楽しくしてくれた白猫たちに、日本製カツオだし仕立てキャットフード持参で今回も会いに行きました。が、しかし。この一年の間に飼い主宅では丸々として元気なベイビー(♂)が生まれたため、アイドルの座は猫の子から人の子に移行。そして、猫と遊ぶつもりだった私は、なぜか育児の実地訓練を受けることに。若ママがおむつ替えやら着換えやらを私に教えこむのです。普段は論文を読んでいる身には馴染みのないロシア語ばかりで頭が混乱。幼児語だってわかりません。いやちょっと待てよ。まだ5カ月だからこの子だってロシア語わからないじゃん?と思いあたった途端、ベイビーには「どうしたの~?」と日本語で話しかけてしまうワタシ。そんな言葉の不自由な赤ん坊と日本人を残して台所に立っていた若ママは、戻ってくると「今からお風呂に入れます」手には茶漉し。それはなに?お茶を淹れるわけではないの?「これは赤ちゃんの肌にいい薬草。お湯に入れるの」お湯はみるみる黄色に。そこに、スポンジでできた浮き輪を頭に巻いた坊やを投入します。すると彼も慣れたもので、お腹を上にぷかりと浮かんでバタ足バタ足。ロシア語では「入浴する」と「水泳する」が同じ単語ですが、これならさっきのママの発言を「今から泳がせます」と訳してもよかったかもしれない。ベイビー、満面の笑みです。薬湯に浮かぶアヒル。バタ足の波にあおられて、ぶれています。ひとしきり泳がせると、ママは坊やの体を洗います。浴槽の外から彼を抱えるのが私の役目です。すると彼女はふと手を止めてカメラを取り、「記念に写真撮るから、笑って」手を滑らせたら、この子溺れて生命の危機、という緊張感で一杯だった私にそんな余裕はなく、「いま私は重大な任務に従事しているので笑えません!」と言い返して、逆に笑われました。しかし今思うと、彼は生後5カ月にしてバタバタ泳げる人なのだから溺れなかったかもしれません。というわけで、今回は白猫さんたちとはあまり遊べませんでしたが、人の子も猫の子も元気だとわかったのでよかったです。日本製キャットフードを食すディオゲン(手前)とプーシカ
2011/04/20
住宅委員会で適当にあしらわれて怒った息子がメドベージェフ大統領にメールしてから2週間。委員会から先生に電話が。「レニングラード地区の部屋を 提供することになりましたから、 手続きに来てください。 あなた、やってくれましたね」なんという水戸黄門型大団円。もちろん大統領本人が動いたわけではなく、大統領府の目安箱的メール受付部門がペテルブルクの住宅委員会に指示を下したのだと思われますが、それで事が一気に進むんですね。そういえばプーシキンにも女帝エカチェリーナの鶴の一声で一発解決する話があったっけなぁ。これが、200年経っても変わらないロシアの特質なのでしょうか。ロシアの電脳化はめざましく、今回仕事をした文書館も事前に国外からメールで必要な史料を注文でき、コピーも後からPDFファイルとしてメール添付で送ってくれるようになっていて、たまげました。(かつての状況を読んでいただければ、私の驚愕も分かろうかと思います。)しかしその際も、コピーの注文には窓口でとんでもない量の署名が必要だったり係の人が笑みを浮かべつつ、実は全然親切じゃなかったりします。メールやらtwitterやらの電脳ツールがほらボクたちロシアも今はこんなにオープンなんだからというアピールに用いられつつ、その背後にある制度はあくまでもロシアだということでしょうか。空港タクシーが、受付や外見を小綺麗にしつつ中身はとんでもない運転手だったのも同じ図式と言えるかもしれません。ネット文化といえば、ソーシャルネットワークの普及も顕著です。「Facebook」も人気ですが、「V Kontakte」というSNSがより大きなシェアを占めているようです。これまた久々に再会した図書館研究員のマダムは先日、道でパスポートを拾い、落とし主を「V Kontakte」で検索して見つけ、無事に返せたそう。「それが地方からペテルブルクに来て 大学に入ったばかりの男の子で、 図書館に取りにくるように言ったんだけど サドーヴァヤ通りがわからなくて迷っちゃって、 ペテルブルクに住んでサドーヴァヤも図書館も わからないのもどうかと思うし、 そもそもパスポートを落とすのも 相当うっかりしてるし、 こんな子を遠くで一人暮らしさせて、 お母さんはさぞ心配だろうと思ったわ」ちなみに晴れて一人暮らしの住居を得たロシア語の先生の息子のほうは「ここまでの住宅委員会とのやりとりで 精神的に参ってしまったらしくて、 仕事に行かれなくなって 新しい家に引きこもってる。 おかげで私が家賃を払わなくちゃいけないのよ!」Boysの一人暮らしもなかなか大変ですね!
2011/04/16
これまた一年ぶりに再会したロシア語の先生のご家庭では、20代のご長男が一人暮らしを始めたそうです。これまで二人の住まいはペテルブルク中心部にある、コムナルカという共同住宅でした。これは現代風に言えば4LDK、5LDKといった規模のロシア帝国時代のマンションの各部屋をソ連期に数家族に分配したものです。そのため、赤の他人同士がキッチン風呂トイレ共用で一つ屋根、というか、一つ天井の下で共に暮らしています。ソ連崩壊から20年経ちましたが、住宅不足のためにまだペテルブルクにはかなり残存。今の日本だとシェアハウスという居住形態が注目されるようになってきたりして、時代が追いついてきた?と見えなくもないですが、彼らはやりたくてやってるわけではないので同居家族間にしばしば揉め事が起こり、かなりストレスがたまるそうです。先生の息子も隣家の主婦と大ゲンカし、「もう我慢できない! ママは中等学校の教師だから、 教職従事者向けの住宅枠があるだろう!! 頼むから申し込んでくれ、 そしたらオレはそこに出ていく!!!」そこで母子は市の住宅委員会に出かけていったのですが、長い長い順番待ちリストを見せられて、けんもほろろの対応だったとか。そこで、結婚して他所に暮らしている長女に「ママがコムナルカから追い出されることになって 路頭に迷いそうである、 国に尽くしてきた教師がこんな目に遭っていいのか! ってゴネてらっしゃい!!」と助言を受け、再び住宅委員会に行ってみたところ、今度はある地区の物件を見せてくれたとのこと。(たぶん窓口で相当怒ってみせたんでしょうね…)ところがその後、数ヶ月待ってもさっぱり手続きが進められる気配がない。しびれを切らして電話してみると「なんのこと?」ととぼけられる。そこで怒髪天を衝いた息子がとった手段が大統領にメールを書くということでした。Twitterを始めて話題になったメドベージェフ大統領、お便りはこちら、というメルアドも公開しているらしいのです。(と、ここまで書いたところで時間切れになったし長くなってきたので、続きはまたあとで。)
2011/04/13
例年通り今回も、留学時にお世話になっていた家にステイしました。大家さんは73歳。私の留学生活に、数々の武勇談で花を添えてくださいました。(たとえばこちら。)今は三人目の旦那さんとともに普段は郊外で暮らしています。このお相手が会社経営者でリッチなので、党エリートだった最初の旦那さんの死後苦労してきた大家さんもここ数年悠々自適だった、はず。でも去年は入院してたから会えなかったんだよなぁ。今回はお元気かな?会ってびっくり。痩せられました。「心臓手術の後、80キロから57キロに痩せたのよ」ひえ~、そんなに…以前は息子さんと並んでも姉弟に見えるくらいだったのになんだか年相応という感じになりました。まだ具合も悪そうです。「いろいろなことが変わってしまった。電気も水道もメーターがついて有料になったし、前はよくしてくれた人がそうじゃなくなったし…」会うなり、ご機嫌が悪いです。(でも公共料金とられても、日本人としては驚かないんですが…)「夫は私の病気にうんざりしてきたみたいでこの頃冷たい」あ、これが不機嫌の根本的原因か…具合が悪いときに冷たくされたら、相当つらいよな。しかし翌週、人が来るから、と旦那さんとこちらの家にやってきた様子を見ると、どうも単純に旦那さんが冷淡になったというわけでもないようなのです。「金曜日に来るって言ってませんでした?」と尋ねると、「今日は金曜でしょう?」「いや、今日は木曜です」「え、木曜…?でも今日でいいのよ。だって、さっきタクシーに乗ったって携帯にメールが来たもの。木曜に来るって言ったのよ」あれ、なんか話が変わってるよ…?しかし待てど暮らせど到着しません。そこで旦那さんが携帯メールを確認してみるとタクシーに乗ったというメールは前の週に私が空港から向かってくるときに書いたものではありませんか。「おまえ、やっぱり間違いだったんだよ」「だって金曜に来るって。今日は金曜でしょう?」「だから木曜なんだって」旦那さんは私のほうを見て、やれやれという感じで笑いました。たぶん、看病疲れで冷たくなったというよりは、大家さんに話が通じないので衝突することが増えたということなのでは…この後、私の家賃の計算でもおかしなやりとりがありました。定年まで職場でずっと経理だったというだけあって数字に強いところにはいつも感心していたのですが「ユーロを持ってないならルーブリ払いでもいいわよ。えーと今1ユーロは40ルーブリだったかしら、400ルーブリだったかしら…」いや一ケタ違うから!(400ルーブリ=1200円で、断じて1ユーロではありません。)どうも心配です。もっとも、ネイリストを家に呼んできれいにマニキュアするお洒落好きなところは変わっていなかったので、体調さえ良くなれば、記憶力とか計算力とかも元通りになるのかもしれませんね。
2011/04/07
一年ぶりのペテルブルクは、ずいぶん派手になっていました。ネフスキー大通りにはチェーンのレストラン、大手の携帯電話会社、銀行、ファースト・ファッション大型店などなどが並び、黄色やら赤やらの看板、ネオンが踊っています。モスクワ駅の周辺では、斜向かいに北欧資本のストックマン、裏にはガレリアという、巨大な百貨店が二つもオープンしていてびっくりしました。ストックマン(店のHPより)。行ったときは、なぜか停電していましたが。景気が上向きなのはいいことだけど、なんだかモスクワと似てきたというか、ペテルブルクの慎ましさが薄れてきたというか…そんな懐古趣味のヒトにお勧めするのはザゴロドヌイ大通り。カフェや去年行ったソ連風ジャズ・ホール、小規模な大学や博物館など結構いろいろあるのですが、昔の繁華街の面影を充分に残しています。ということで写真を何枚か。ザゴロドヌイ大通りの往来奥の丸塔のところには、四つ角ならぬ五つ角というドライバー泣かせの交差点があります。アール・ヌーヴォー様式のビルヴィテプスク駅(写真はいずれも、ネットから借用)ベラルーシ方面の長距離列車やプーシキン(ツァールスコエ・セロー)、パーヴロフスクなど近郊観光地への電車が出る駅です。待合室もアール・ヌーヴォー様式で、とてもよい雰囲気。塔のあるビル革命前には、この建物の中庭に「ペトロフ」というウォッカ業者があったんだそう。ライバル社だった「スミルノフ」は今でも有名だけれども、こちらは廃業して忘れられてしまったんですって。ちなみに久々にお会いしたちょいワル親父風写真家のサーシャさんは、昨年こっそりとあの塔に登ってみたそうです。「高いところから大通りを撮影したかったんですか?」と聞いてみたら、「いや、ただ登ってみたかったから」なんか天井が骨組みだけで足場崩れてそうに見えるんだけど!? 手入れの悪さと表裏一体で昔の雰囲気が残っているのも、ペテルブルクのよさのように思います。
2011/04/05
ペテルブルクでは、昨年よりもさらに自動車が増えていました。でも、路上駐車スペースが整備されたりして、いくぶん秩序だった印象です。ステイ先で夜、ニュースを見ているとシベリアのどこかの町の小学校で男の子が表彰されて、ご褒美にサッカーボールをもらっています。この子どんな偉いことしたの?と思って聞いていると、場面は団地の中庭に移り彼があれこれ説明しはじめました。どうやら、そこで年金生活のおばあさんが車に轢き逃げされたのを見て少年は遠く離れた棟の自宅に駆け戻り、親に伝えて然るべき助けを呼んだらしい。それで運転していた20代の女の子が御用となり、警察は表彰状を、一命をとりとめたおばあさんはサッカーボールをくれたのでした。VTRにはおばあさんも出てきて、「この子のおかげでほんとうに助かったわ。どうもありがとう。なんてよい子かしら」と、少年の頭を撫でるのですが、続けて言うには「私が轢かれたのを見ても大人は誰も助けてくれなかった。この子だけが助けを呼んでくれた」うーん、ずいぶん人情の薄い話だなぁ…もともとここでは、困っている人がいても知り合いじゃなければ見て見ぬふり、という雰囲気を感じるのですが、自動車にまつわる新しいカルチャーにおいてもそれは変わることがないんですね。もっともロシアの人は、知り合いのことは実に温かく遇します。ほんとうは親切心があるんだけれども、特にセーフティネットのないこの国では誰にでも優しくしていると食われてしまうようなところがあって、皆、油断せずに、面倒に巻き込まれないように暮らさざるをえないのかなぁ、それで「ロシア人=狡猾」といったイメージがつくのかなぁ…ぼんやり考えているとあっという間に、テレビは次のニュースへと移っていました。
2011/04/04
2011年3月中旬、一年ぶりにロシアにやってきました。降り立ったのは、ペテルブルクの郊外にあるプルコヴォ空港です。このとき、震災が起きてまだ数日。いろいろなことを日本に残して、一人ここにいてよいんだろうか。そんな私の迷いにはもちろん関係なく入国審査を通り、(そして私の迷いに関係なく、通らないときは通らないわけだが)空港ロビーへ。するとそこには、若くて小きれいな格好をしたお兄さんの立つ「TAXI」と書かれたスタンドが。こんなの去年はなかったなぁ。「市街へ行くタクシーはここで注文するんですか?」「そうです、ここで注文してください。 どこまでですか?」お兄さんは察するに大学生くらいのバイト。その脇には、ジャンパーを着たおじさんがスタンドに寄りかかって立っています。「K通り1の15番地まで」するとおじさんが「K通りなら知ってるぞ」どうやら順番待ちの運転手らしい。お兄さんが「その地区までだと950ルーブリ(約3000円)です。 お帰りの際も当社をご利用ください」と言って渡した伝票を手に、おじさんに荷物を持ってもらってタクシーへ。車は派手な赤い塗装で、ぴかぴかに洗浄済み。一年来ないうちに、ロシアはなんと文明化したのでしょうか…! * * *と感激するのは早かった。渋滞を抜けて市街地に入ったけれども、おじさんはK通りがわからなくてイライラしはじめる。ようやく見つかったものの、通りの入口で止めて「ここだ」と言う。「ここじゃありません。 もう少し先まで行ってください」「なんでだ、あんた15番地だって言ったじゃないか」「1の15って言いました」「ここだよ!」「私、そこに一年住んでたんですよ?」「あんたが15番地って言ったんだ!」さっさと降ろして片づけたいのが見え見え。正直に言いましょう、私も震災の件でかなりイライラしてました。それで、実に大人げないことでいま思い出すとお恥ずかしいのですがつい頭に血が上り、「じゃあいいですよ、ここで降りて自分で探しますから。 しかし変ですね、ここだとは思えないんですけどね!」するとおじさんは怒ってアクセルを吹かし、通りを驀進。ようやく見慣れた家が現れたので「そこでいいです」と言って、1000ルーブリを渡すと私と荷物を降ろして発車しようとする。「ちょっと」「なんだ」「空港で950ルーブリって言われたんですけど」「それがどうした」「今、私はあなたに1000ルーブリを渡しました」おじさんは顔をしかめて釣りの50ルーブリをよこすとまたアクセルを吹かし、後ろから来た車にクラクションを鳴らされながら走り去っていきました。外見はいっぱしの空港タクシーでも、まったくもって油断ならん…!帰りは絶対に頼まないぞ!!!(いま一瞬、チップと見做された可能性を考えましたがこれはロシアではあまり一般的な慣習ではなかったし、しかもその前にあの対応だったら、出す気も失せますよね!)落ち込んでいてはいけません。ここはロシアなのです。俄かに闘志が湧いてくるのを感じながら、今回のロシア生活は始まったのでした。
2011/04/03
というわけで、今回もあれやこれやの体験をしながら、約2週間の滞在を終え、帰国しました。急激に変化する部分とそれでも変わらない一面をあわせもったロシアに、また遠からず行きたいなぁと思います。帰国して二日、時差ボケに悩まされつつ起きた朝、チャイムの音が。玄関を開けると郵便屋さん。「海外から小包です」見れば、ロシアを出国する四日ほど前にペテルブルクの郵便局で自分宛てに送った、現地で買い集めた本の小包ではありませんか。でも、航空便はすごく高いので、地上便(たぶんシベリア鉄道)にしたはずで、ふつう届くのに3ヶ月くらいかかるんだけど!?「これ、航空便ですか?」「さあ、わからないですねぇ」「先週、ロシアで発送したんですよ…」「あ、じゃあ航空便ですよ」もしかすると私のロシア語が通じなくて航空便扱いにされたのかな。でも、発送時の伝票を確認すると「地上便」と書いてあります。そして小包のどこにも航空便にはあるはずの「AVIA」のハンコがない。これはきっと、なにかの間違いで飛行機に乗れたのね…。しかし航空便だって一週間かからず届いたのは記録的です。EMS(国際スピード郵便)並み。なぜなんだ。さっぱりわからん。最後はラッキーな方に転んだロシアン・クオリティーでした。小包に貼られた切手。「ハッピーニューイヤー」と書いてあります。ロシアにもお正月切手なんていう洒落たものが…と思ったけど、よく見たら2009年と書いてある。余ってたんだな。
2010/03/18
さて、白ネコの近況について…(昨年の状況についてはこちら。)ディオゲンさんは、もうすっかり哲学者ディオゲネスに因んだその名前を忘れられ、農夫マトヴェイとかデブとか呼ばれています。(ひどいT_T)食べているのは、私が日本から持参したカツオ節仕立てキャットフード最近、アレルギーを発症して抜け毛に悩んだそうで、獣医師に処方されたビタミン剤を餌に混ぜて食べさせるように。元夫人プーシカ(右)と神経質というか気弱な彼は、他のネコが食べているときは食欲が失せるらしく、皆がどくまでお皿に向かいません。ところがようやく食べ始めると、攻撃的に生い育った娘ムーシャが威嚇してわりこむため、結局ろくろく食べられないそうなのです。青い目のムーシャ(右)障害を持って生まれ、母プーシカに育児放棄されてどうなることかと思ったムーシャでしたが、丈夫になって、いまや三匹の中で最強。世代間抗争なのか、愛されなかった娘の逆襲なのか、それとももうこいつら親子だってことも忘れて単にテリトリー争いなのか、ネコ界の事情は言葉が通じないので不明ですが、ディオゲンのアレルギー発症はそのへんのストレスにも原因がありそうだなぁ。ムーシャは、どこかに逐電したきりの叔父猫ティモーシャに似たのかある夜、窓の外へのお出かけも敢行したそうです。ところが犬につかまって食べられそうになり、聞いたこともないような悲鳴を上げたので飼い主一家は大パニックで駆けつけたとか。ちなみにディオゲンも最近、窓からうっかり落っこちて外に出てしまったそうなのですが、彼は家人が気づいて助けに来てくれるまで、窓の下にうずくまってじっとしていたそうです。丸々とした白い大きな毛玉が道に落ちている様を想像するとちょっと可笑しいのですが、臆病さってのは、身を守る賢者の知恵かもしれません。だから元気出しなよね。
2010/03/17
滞在中のある夜、マリインスキー劇場へ出かけました。バレエ『シュラレ』を観るのです。マリインスキー劇場のサイトより1950年の作品を復活させた、今シーズンの目玉の一つだったようです。劇場サイトの紹介文を斜め読みすると、タタールの民話がもとになってる、とか、鳥が出てきてどうこう、とか書いてあるんだけど、どういうバレエなのかな?幕が開いて繰り広げられたストーリーをものすごく雑駁に説明すると…(ちゃんとしたあらすじに興味がある方には、 JIC旅行センターのレビューのページをお勧めします。)不気味な森の奥で、悪い鳥シュラレが白鳥な乙女の翼を隠してイケズしまくるのを人間の若者が救い出し【第一幕】、若者は乙女を村に連れ帰って地元総出の結婚式を繰り広げるのだけれどもとりあげた翼をダシにシュラレが乙女をさらったので【第二幕】、若者は森に取って返してシュラレと闘って勝ち、乙女は真に若者を愛して、焼け落ちる森に翼を捨てて手に手をとって村へと帰るのであった【第三幕】。待て待て、これって、プティパ「白鳥の湖」+フォーキン「火の鳥」をタタール風味でお届けって感じじゃない!?古典の刷新って、こういうことだろうか…とつぜん民族的要素が投入されるあたり、50年代的大人の事情(「諸民族の友好」みたいな)があったのだろうか…とかなんとか、あれこれ勝手に考えたくなるおもしろいソ連バレエでした。これは独特の雰囲気だから、海外公演には持ち出されないだろうなぁ。もっとも、二幕目の婚礼シーンは圧巻の華やかさで、幕が開いた途端、客席から歓声と拍手が。本国でしか見ることのできないような、ソ連時代から受け継がれたロシア人の楽しみがあるということでしょうか。同じように感じたのは、数日後に行ったジャズクラブです。左側がステージ、右側がグループごとにテーブルを囲んでいる聴衆です。芸歴ウン十年だというダークダックスを彷彿とさせる老齢のジャズメンたちが登壇し、賑やかだけど穏健な音楽が演奏されます。ホールの後ろはダンスフロアになっているのですが、ぴちぴちの皮ズボンをはいた劇場専属ダンサーはなぜか70に近いようなおじいさん。煙草とお酒と音楽と不倫と人殺し…という、『シカゴ』なんかが描くようなジャズのイメージとは何かが違う、折り目正しい感じ。でも意外なのは、家族連れで来ているお客の中にノリノリで聴いている若い女の子たちがたくさんいること。昨今のロシアのテレビや雑誌で喧伝されるような日焼けサロンで小麦肌になってタイやモナコでバカンスしちゃうロシアン・ガールズとは全然違います。たぶんこの人たち、ABBAとか好きだろうなぁ。表面がぎらぎらしている今どきのロシアですが、保守性を内に秘めたソ連の楽しみも健在なのかもしれません。
2010/03/16
今回ロシアで入手したマトリョーシカ・グッズ。本家本元のマトリョーシカもありますが、キーボードと比べると、小ささがわかるでしょうか?こんなランチ・マットも。そして、ついにロシアでも開店したというスタバのタンブラー。本国ロシアでも、マトリョーシカのキャラクター化が進行しているようです。空港の売店では、着色前の木のマトリョーシカと絵の具、絵筆がセットになって「自分の好みでマトリョーシカを塗ってみよう!」とか書いてあるおみやげ、約3,000円相当を見かけました。でも、制作側の労力が省かれていることを考えると、3,000円は高いんじゃないかな…
2010/03/08
今回の滞在も、留学中の住まいに間借りしました。つまり、数々の武勇伝を持つ御年72歳の陽気な大家さんの住まいなのですが…(昨年の大家さんについてはこちら。)実は2週間近い滞在中、一度も大家さんに会うことができませんでした。なぜなら入院してしまっていたから。昨年手術した後、体調がすぐれず、なんと20キロも体重が減ってしまったそうです。心配です。でも再婚したダンナさんがしっかりした人だからか、いい病院に入っているみたいです。だってダンナさんから教わった電話番号にかけたら直通でしたもの。電話付き個室に入院してるらしい。その点だけは、ちょっと安心。くれぐれもお大事に。次回は会えますように。
2010/03/08
さて見知らぬおばあさんが口にした三大イライラの最後、渋滞は、昨年、一昨年の短期滞在時でもびっくりすることしきりでした。日本車、ヨーロッパ車が順調に売れて、道路も駐車スペースも許容量を超えたのです。ところがこの冬はそこに、大雪という要素まで加わりました。四半世紀ぶりくらいの雪の量で、除雪が追いつきません。「だからあちこちで交通事故よ」久々に会ったロシア語の先生の娘が自分の三菱車に私を乗せて言います。「こんな雪、当局は想定してなかったのよね。 ほら、あそこでも事故」「あの、いま、この道路、 雪でハンドルが不自由だったり 凍ってブレーキがきかなかったりしてるよね…?」「そうよ、だから私も運転してて心配なのよ~」助手席の私も心配だぜ…(真っ青)(ちなみにロシアの交通安全お守りは 正教会聖人のイコンです。)まぁでもどうにか大通りを走破し、彼女のマンションの敷地に入ります。「それでも公道はまだいい。 マンションの中の道が最悪。 車輪が通ったところは踏み固められるけど、 轍の間に、今年はものすごい量の雪が積もってて、 誰も除雪しないから 車のお腹がそれをこすって走っちゃう。 それであちこちで車が故障してて、 私の車も壊れたのよ!」さあどうぞ、と家に迎え入れられ、食事をしながら「ロシアだと車の寿命が短いでしょうね」と言うと、彼女は「そうよ、だから中古車市場でも ヨーロッパで2、3年走った車なら売れるけど ロシアで2、3年なんて言ったら売れないわよ!」「日本の技術者は、きっとこんな大雪の国で走ること 考えてないんじゃないかな」「そうかもね」するとそこで、一緒に食卓を囲んでいた先生が「待ちなさい!北欧を考えてごらんなさい。 同じようにたくさん雪が降っても 普通に車が走っているでしょう。 (娘に)フィンランドではどうだったの?」「除雪されてた」「ほらご覧なさい! 結局はロシアがこういう国だからなのです(ため息)」一月以来の大雪で、除雪が追いつかないことに市民から不満の声があがった時にこの街の女傑市長は「しばらくは若い人が毎朝、 運動がわりに雪かきすればよろしい」と発言して、みんなアタマにきちゃったそうです。とはいえ、そこで憤激しつつもどうせお上はアレだから、と思って自分たちでどうにかするのがロシア人なのかしら…とか考えていると、窓の外から人の声が。近所の人が、シャベルを貸してくれ、と言っているらしい。「車が雪で埋まっちゃったんだって」その後、寒い中、遅くまで二人の男性が舌打ちしながら駐車場を掘っていました。
2010/03/06
車道に降り積もった雪は両脇に投げ寄せられる形で除けられているので、歩道には実際に降った以上の雪が積もり、往来する人が踏み固めた足跡が一筋だけ、獣道のようについています。これがとても細いのでバランスがとりにくく、前を歩いている知らないおばあさんも、何度もよろけます。 苦労して通りの端まで来たおばあさん、交差点を渡ろうとしますが、少し先で信号が赤になったのか、眼前に次々と車が詰まって通せんぼ。獣道から抜けられなくなったとわかると、ムッとした顔で振り返って、よたよた追いついた私に「街じゅうどこも、銀行!レストラン!渋滞! もううんざり!!」そ、そんなこと、見ず知らずの外人に言われても…でも、このセリフは、ペテルブルクの変化をとても的確に表現しているかもしれません。銀行は見かける名前が実に多くなりました。それ以上に驚くのが、一年見ない間のレストランの増加。一本の通りに5軒お店があったら、そのうち4軒はレストランだと思っていい。古都ペテルブルクには雰囲気のある建物が多いのでどこもなかなか素敵なのですが、それにしても増えすぎだろう??不思議に思って友人に聞いてみると、ペテルブルク市が「この街にはもっとレストランがあるべきだ!」と言って、レストラン開店を助成しているのだそうです。なので、以前、雑貨屋や文房具やがあったところでも軒並みレストランに改装。都心のアール・ヌーヴォー建築の粋、エリセーエフ商店(かつて日記に書きました)も、いまは閉店中でしたが、遠からずレストランになるのかも。これで競争が激しくなったのか、既存の飲食店でも目に見えてサービスがよくなりました。紅茶がポットで出されたり。きれいなナフキンをたくさん渡されたり。なにより、店員が「ありがとうございました」と言う…!…書きあげてみると、以前がどこか異次元だったような気もしますが。(まぁそれがロシアン・クオリティーだったんだ。)毎回行く老舗ケーキ屋さん「セーヴェル」もどことなく華やいで、ショウケースにいろんなケーキがたくさん。もっとも、「ケーキと紅茶を」と頼んだら「湯沸かしが壊れたので、お湯がない。 どうします?」「…じゃあ、なるべく甘くないジュースを」「それだったらリンゴだと思う」そして出されたロシアのジュースはやっぱり甘かった。このへん、やっぱりロシアン・クオリティー…甘過ぎるティータイム(ティーじゃないけど)長くなったので、渋滞の話はまた今度。
2010/03/04
この冬、雪が多くて寒いのは世界共通のようで、着いた日に-17℃と聞いてビビったのが、日に日に下がって、最初の週末についに-25℃に到達しました。この気温は、留学中も体験したことがなかった…それでもめげずに、夜、友人と出かけたのですが身を切る風が、寒いとか冷たいとかを通り越して、い、痛い。立ち止っていると、凍えるとか風邪をひくとかじゃなくて、なにか動物的に身の危険を覚えるのです。そして翌日は-18℃で、あ、暖かい、と呟いてしまった自分がちょっと凄いと思ったり。ところが少し気温が緩むと(いや数値的にはちっとも緩くないんだけど)今度は雪が降って降って止まりません。中心部の大通りですら除雪が追い付かず真っ白。屋根の上には俵のような積雪。車は埋まり、掘り出す人多数。おかげでシャベルが売り切れ…街じゅうが、白く、いつまでも溶けない砂に静かに覆われていく様は、かなり不気味です。ロシアの知人たちの間ではこんな記録的な冬がいつ以来かがホットな話題で、「あれは私が娘を生んだ冬だから 1987年以来よ!」「あなたくらいの年だとそうでしょうけど、 私たちだと、60年代の まだ学生だった頃の大雪を思い出すのよ!」そしてこれが戦中派の大家さんに言わせると「ナチス・ドイツがレニングラードを 900日包囲したときの冬みたいだわ!」ということになり、ジェネレーションを感じさせて、なかなかおもしろかったのでした。ベランダから下がるつらら雪降る夜
2010/03/02
一年ぶりのロシア行き、今回は昨年より一ヶ月ほど早く、2月下旬に2週間ほどの滞在予定でやってまいりました。利用したエアラインはオーストリア航空。まずは成田からウィーンへ。これは帰りの一部区間に乗ったエンブラエル社製の小型機。東京便はジャンボです。オーストリア航空は初めてだったのですが、水色の壁、緑色のシート、赤のシートカバーが楽しく温かいクリスマスみたいで可愛いです。食事もエコノミーとしてはまずまず。壁に面した座席をとってもらったら、足許が広くて助かりました。それから安全のためのインストラクション・ビデオが、コメディ・タッチでちょっと楽しい。うむうむ、オーストリアン、なかなかよいではありませんか。乗り換えのウィーン空港に無事着いて、満足する私。2時間半ほど待って、今度はペテルブルク行きの便に乗り継ぎです。すると目の前にいたのは、ロシア航空FV204便えーうそ、私の航空券では、オーストリア航空OSの便名なのに…いまどき多い、コード・シェア便だったのです。ロシア航空ってなに?アエロフロートと違うの?と思ったアナタ。これはペテルブルクを拠点とする航空会社で、数年前に名前やイメージカラーを一新しました。なぜなら2006年夏に墜落事故を起こしたからで(事故については日記に書きました)、前名はプルコヴォ航空と言いました。(プルコヴォ航空についても日記に書いたことがあります。)オーストリアンで快適だったのに、一気にロシアンだよ~。隣席のロシア人のおばちゃんたちが、離陸前でもまだ携帯使ってるよ~。相変わらずのロシアン・クオリティだよ~。ちょっと泣きが入った気分。もっともおばちゃんたち、我々の列にだけ飲み物を配り忘れたスッチーを、ビジネスクラスまで追っかけて文句を言ってくれたので、悪いことばかりではありません。そしてその後、眠り込んでいる間にペテルブルクに着陸し、機外に出てみると、一面に積もった雪。そのうえ吹雪で視界が真っ白。よ、よく着陸できたな~。迎えに来てくれた運転手さんによれば、「着陸できてキミは運がよかったよ。 他の便は全てキャンセルだった」とのこと。他国の航空便だったらもしかすると、この日のうちにはペテルブルクに到着できなかったかもしれません。熟練の地元パイロットさん、ありがとう。郷に入りては郷に従え?こうして再び、ロシアン・クオリティーにさらされる日々が始まったのです。
2010/03/02
帰国から約二週間にわたってボチボチ書いてきたロシア滞在記、そろそろ終わりにいたしましょう。締めくくりはやっぱり、3匹の白猫です!ロシア語の先生の家で2006年に生まれたティモーシャ、プーシカ、ディオゲンの三兄妹。このうち力持ちのティモーシャはどこかに逐電。残された二匹は愛を育み、子猫ムーシャが誕生しました。ところが近親婚から生まれた彼女は脊椎に障害が。驚愕した先生一家はディオゲンを去勢送りに…というのが2007年訪ロ時の状況でした。今回はディオゲンが去勢されたので猫が増えていることはなく、また全員インドア派のため誰かが冒険の旅に出ていなくなっていることもなく、3匹揃い踏みでした。が、彼らは名前を失っていた。浦沢直樹の『MONSTER』みたいだな。緊張感ないけどどうも先生一家は、猫たちを名前でいちいち呼ぶのがめんどくさくなったらしいのです。じゃあ何と呼ぶか。ムーシャは「チビ」プーシカは「デカ」そしてディオゲンは「デブ」「デブ」はないでしょう「デブ」は!たしかにデブだったけど…だらしなく寝るヤツいやしかし今回は、ディオゲンが早々に私の膝に乗ってきて人の顔を見上げてゴロゴロと懐いてくれたので私は深く深く満足でありました。もしかして私のこと覚えてる!?ふわふわは変わりませんというわけで、慌ただしいながらも2009年のロシア滞在は無事に終わりました。今回はペテルブルクと久しぶりのモスクワに加え、初めて地方都市での調査にトライしてみました。今後、もっとあちこちに行っていろいろなものを見るのもよさそうだなというのがそこで得た感想です。ウクライナ方面に行ったみたいかな。でも私のロシア語は今回もひどかった…。研鑽しろよ自分、という反省を胸に次回のロシア渡航を計画していきたいと思います。では皆さま、ド・フストレーチ(また会う日まで)。
2009/04/15
カザンはタタール人の街です。そこへ向かおうとする私に、女友だちが一言。「タタール人はずるいから気をつけて!」そう言う彼女はウクライナ系です。同様にウクライナ出身女性を嫁に持つ大家さんは「ウクライナ女っていうのはずるくって!」そんな大家さんはユダヤ人です。彼らに対するロシア社会の反応も、えてして想像通りです。肌身で感じる、厄介なことです。
2009/04/14
今回はヴォルガ中流域の都市カザンにも調査旅行しにいく必要がありました。でもカザンって、ロシアの北端ペテルブルクからだと相当遠い。モスクワまでの距離の倍くらい。さらに、3日以上の滞在者に義務づけられているしちめんどい居住登録の手間を省くため、滞在は2日間におさめなければなりません。日本にいるうちから、さて、どうやって行こうか、と思案…夜行列車?鉄道時刻表のオンライン検索ページで調べてみるとおっ、ペテルブルク-カザンという便があります!《往路》ペテルブルク発16:13、カザン着13:53所要時間21時間40分《復路》カザン発11:25、ペテルブルク着11:11、所要時間23時間46分なにぃ午後2時近くに現地着で、翌日昼前には出発!?それじゃあ、なんの仕事もできないよぅ(涙)しかも週3便くらいしかないみたいだし…ここで一旦くじけて、あぁもうカザン行こうって思うのが無謀なのかも、と、やぶれかぶれな気分になってご飯を食べる。ところが不思議と、お腹が膨れると代案って思いつくものなのです。このとき思い出したのは、モスクワからは毎晩、カザン行きの夜行列車が複数便あったということ。じゃあペテルブルクからまずモスクワまで列車で出て、そこでカザン行きに乗り換えればいいんじゃない!?再び時刻表検索ページ。《往路》ペテルブルク発23:59-モスクワ着8:00モスクワ発22:08-カザン着9:26《復路》カザン発20:56-モスクワ着9:23モスクワ発21:30-ペテルブルク着5:28おお、これならば、カザンに朝着いて、翌日の夕方までは確実に仕事ができるではありませんか!行ける!カザンに行ける!!見通しが立つと嬉しくてハイになるもので、行きも帰りもモスクワで一日ずつ時間ができるけど、久々だからまぁいいか、本屋でも回ろうではないか、と思っておりました。だけど実際にロシアに着いてから、駅でチケット買おうとしたときに4夜も車中泊って、つらくない…?という、当たり前のことに気づく。「行動力はあるけど体力はないですよね」と人に評される私。こんな旅程をたどったら、後で起き上がれなくなるんじゃ?いやいやそれより、4泊シャワー浴びれないってどうよ??けっきょく、ペテルブルク→モスクワを飛行機で、モスクワ→ペテルブルクを、特急オーロラ号にして、車中泊は2夜におさめました。(ちなみにペテルブルク-カザン間で 飛行機を考えなかったのは、 直行便のチケットがペテでは購入不可能だったのと カザンの空港がどこにあるのか知らなかったからです…)このように旅行をするときには、日程や時刻、ルートなど、様々な条件が発生し、それらに優先順位をつけて、一つずつ解決していくことになります。しかし考えてみれば、旅行に限らず外国においては生活の全般にわたって、課題を解決しながら暮らしていたようにも思います。自国だったら「困ったなぁ」と思っても何か別件にとり紛れているうちに事態が変わったり、気分が変わって楽に片付けられたりする。ところが異国、ましてやロシアでは、「困ったなぁ」を片づけないと本当に困ったことになりかねないという恐怖感と、気を紛らわせるような別件がそうそう起きない、という事情から問題に猪突猛進せざるをえなくなります。こうした課題解決型ライフって余裕がないからストレスもたまるけど、ほどよい緊張のもとタスクを解決できると達成感があって楽しかったりする。それを繰り返すうちに、経験値が上がってできることが増えていく。なんかゲーム的。けっきょく2004年から始まるこのブログは、私の個人的なタスク解決のリストなんですね。そんなもん読んでいただいて、皆様に感謝です。感謝といえば、カザンでは現地の研究機関の方々にほんとうに親切に助けていただきました。見ず知らずのアジア人女子学生に一夜の宿を貸してくれた考古学者の先生は、お礼を支払おうとする私に「いらないよ!キミ自身が贈り物なんだから!」言えないよ~日本人はこういうことさ~。ロシアの人は、一歩踏み込むとなんとも親切です。異国での課題解決型ライフがこうした厚意に支えられていることも、きっと忘れてはならないでしょう。夜のカザンの鉄道駅
2009/04/12
ロシア語の先生と再会したのは深夜の中華料理屋でした。前回、おみやげに鶴岡八幡宮のお守りを持参したのですが「これ、お世話になってる○○さんにあげていいかしら?」と、あっという間に贈り物として転用され、むむ、もしかすると敬虔な正教徒に神道の品はNGだったか?と思った事態がありました。そこで今回は、上村松園の画集を用意。「まぁきれい。」評判は上々です。すると先生は小さな箱を出し、「これは私からのプレゼント。」開けてみると、帝室陶磁器工場(ロモノーソフ)の小さなティーカップではありませんか。(帝室陶磁器工場についてはこちら。)白くて薄くてきれいです。すると先生は、「あなたはロシア文学を忘れているでしょう。 あげる前にテストします。 この人は誰?」はい~???全然わからなかったので、「…女。」と答えて失笑を買い、「アンナ・アフマートヴァです!」と叱られる私。つーか、いま見ると、肖像の下に名前書いてあるじゃん!でも時刻は深夜で、店内はそこにそんな文字があるなんて気づかなかったほど薄暗かったのです。そのとき先生が、私の顔を見て一言。「シミができたんじゃない?」こ、この薄暗いところで、それとわかるシミが…!?お肌のお肌の曲がり角。たしかに私は昨年三十路。「シミが増えるのは多産の吉兆…」とか言ってる先生の言葉も、ショックでしまいまでは耳に入りません。ていうかそんな吉兆、ロシア・ローカルなんじゃない!?後で鏡をじっくり見ると、たしかにシミそばかすは増えていて、そのうえ長いフライトを経て、帰国後、肌の調子が決定的に悪化…これはUVケアが不充分だったのではあるまいか、と結論した私は、デパートの化粧品売り場に走ったのでした。
2009/04/07
2007年にロシアに来たときに、偶然見かけて驚いたテレビ場組がありました。それはフィギュアスケート。満場を観衆がうめる特設リンクで、ペアが滑った後、審査員が点数をつけて、あれこれ講評する。この審査員には、プロっぽい人もいるけれども、どうやら女優とか歌手とか、芸能人も加わっているよう。そういうことから察すると、どうも滑っているのはプロや本当の選手ではないらしいんだけど素人がこんなに滑れるの!?だって、持ち上げたりステップ踏んだりスピンしたりしています。私こんなこと絶対できんよ…いや運動音痴の私はさておき、日本人でいきなり「フィギュアスケート番組に出場してください」と言われて、滑れる人がどれだけいるだろうか。北海道でも、こんな番組、難しいのではないか…驚いたものの、チラッとしか見なかったのでこのとき、それ以上のことはわからずじまいでした。それが今回友だちの家でご飯を食べていると、ちょうど同じ番組をやっているではありませんか!チャンネル1「氷河時代:地球温暖化」番組サイトはこちらしかしナメたタイトルだよなぁ…(今回の滞在では、テレビ番組の金満ぶりと 一般社会との乖離を強く感じました。)なんで素人がこんなに滑れるの?ビックリ!と言うと、友人は「違う違う、出場ペアはどれも、片方がプロで、 片方は歌手とか女優とか、芸能人なの。 この番組が始まった頃は みんなけっこう本格的なプログラムだったけど、 最近はハデに持ち上げたりするだけで 大して練習もしないですむような演技ばっかり。 要は、出場芸能人の売り込みなのよ!」でも、女優だろうが歌手だろうが、アマチュアがフィギュアスケート滑れるってすごくない!?そう言うとロシア人の彼女は「そう?」と不思議そうな顔をしました。さてはみんな、子供時代から滑り慣れているのか。ロシアのスケート人口は、相当厚いようです。そういう意味では、北国でしか成立しえない、とてもロシアらしい番組だと言えるように思います。
2009/04/05
さて、やはり話は、大家さんから始めなくてはならないでしょう。(前回の話はこちら。)夕方、私が到着すると、よく来たと温かく迎えてくれた大家さん。まもなくキッチンで、棚を開けたり冷蔵庫を見せたりして説明を始めます。「夕食に何もないだろうから、 ソーセージとサラダを用意しておいたわ。」「ここにあるティーバッグを使っていいから。」「朝食には、ここにパンを置いていくわよ。」…ん、ちょっと待て?置いていく?「明日の朝、家にはいないのですか?」「この後、郊外の彼の家に行くから、 今夜から私はいないわ。 最近は彼の家に住んでいて、こっちは空けてあるの。 都心は空気が悪くて頭が痛くなるから。 あなたこの部屋慣れてるから一人でも大丈夫でしょ? じゃ!」と、彼氏…というか三番目のダンナさんの車で夕闇の中去っていった大家さま。恋愛は無事進行中だったというわけです。彼は大家さんと同い年、当年とって72歳で、長く病気だった奥さんを亡くした後のある日、古い知り合いだった大家さんを訪ねてきました。ちょうどそれは、大家さんが九年間一緒にいた二番目のダンナを追い出した翌日だったので、「神様が彼を遣わしてくれたの」とのこと。無神論者のはずなんですが。病身の奥さんとずっと一緒だった彼にとって、大家さんとの新しい生活はとても楽しいらしく、「私は彼を幸せにしてあげられる」とも。でも前妻のお子さんたちは猛反発しているらしい。難しいですね。驚くべきことに大家さん&ダーリンは2008年、お正月にパリ、夏にキプロス、秋にイスラエルへと旅行したそう。いまロシアでは海外旅行ブームで、朝の情報番組で「簡単にビザを取る方法」なんてのも紹介されていましたが、年間3回の海外旅行ってかなり多いだろ!彼が企業経営者だからリッチなのね。しかも今回、大家さんからおみやげまでもらっちゃいました。長い付き合いで、こんなことは初めて。(あとで写真載せよう。)あぁやっぱり生活に余裕があるんですね!そしたら今回、お家賃は安くしてくださる!?…というのは甘かった。最終日がっつりユーロ払いで請求されました。あぁ一泊10ドルとか15ドルとか可愛い値段で泊まれたころが懐かしい…もっともペテルブルクの物価高は著しく、まぁそんなに無体な価格ではなかったと思います。(ペテルブルク行きを計画していて 賃料情報を知りたい同業の方は、 個人的にメールください。)おもしろいのは、かつてドル体制が堅牢だった頃は大家さんの求める決済通貨はドルだったのが、2007年、ロシア経済が好調だったときはルーブリ払いで、ところが今回はユーロでの支払いが求められたことです。90年代のルーブリ暴落の経験者は、経済動向に敏感です。我々も「お金といえば円」と一つの通貨を盲信していてはいけないのかもしれません。
2009/03/31
2009年3月中旬、久々にサンクトペテルブルクにやってきました。約1年半ぶりのロシアです。3月のロシア…それは雪がとけはじめ、現れた地表から各種病原菌が活動を再開し、長い冬にビタミン不足に陥った人々が次々にインフルエンザに罹患する時期…と、ろくなイメージがなかったのですが、日本の春休みは3月だから仕方ないの。もしかしたら間違った思い込みかもしれないし。と思ってロシアの大地の北端に降り立つと、3月のロシアは雪がとけはじめ、泥土がぬかるみ、そこに水気の多い雪がなおも降り、野菜果物は元気なくしおれ、気圧だか磁力だかのせいで会う人みんな「具合が悪いの…」とおっしゃる、実にイメージ通りの季節でありました。今回はさらに、「いま経済危機でしょ!」というのがみんな一様に口にするフレーズ。新しい自動車専用道路が何本も作られ、渋滞と駐車場不足の問題が連日テレビや新聞を賑わすほど自家用車が普及してはいましたが、消費は徐々に冷え込みつつあるのかもしれません。さてそんな3月のロシアでの2週間の滞在から、いくつかトピックを綴っていきましょう…
2009/03/30
2007年秋以来の、久々のロシアに行ってまいりました。そのときのネタ&写真、近日公開予定。ロシアもいろいろ変わっていましたが、このブログの書き込み機能も一年半放置しているうちにいろいろ変わっていてビックリ。
2009/03/29
うーあまりの忙しさに、つい更新が滞ってしまった…さて、ロシア再訪にあたり、最重要イベントといえば…白猫たちとの再会でありました。(…それでいいのか?)昨夏の三匹揃い踏み。左からプーシカ、ディオゲン、ティモーシャこの一年、飼い主であるロシア語の先生ご一家、特に娘さんからメールで彼らの消息を写真つきで聞いてはいたのです。すなわち…三兄妹でいちばんの元気者だったティモーシャはある日マンションから出かけていったきり、帰ってこず。餅のようなティモーシャ。アウトドアライフ大好き。そして残されたトロいディオゲンと賢いプーシカは愛を育んでしまった!同母兄妹なのに…左がディオゲン。右がプーシカ。結果、彼らの間には、3月に子猫が生まれました。母と子ご一家子猫この子猫は早々に友だちにもらわれ、また二匹きりになったご兄妹兼ご夫婦。すると7月にまた1匹生まれました。ところがこのメスの子猫が問題だったのです。どうやら脊椎に障害があるようで体が痙攣してしまい、頭を支えて皿からエサを食べることもできない状態。先生一家は同母兄妹婚によって障害猫が生まれたことに大変なショックを受け、速攻ディオゲンを去勢手術送りに。ディオゲン。手術後はヨロヨロしていて、可哀想だったそうですしかし生まれてしまった子猫をどうするかは別問題です。獣医に相談したところ、「薬殺しますか?」と言われ、「ありえない!」とブチ切れて帰ってきた一家。とはいえ、野性の掟なのでしょうか、子猫に障害があると見てとったプーシカは、授乳だけはするものの、子供の面倒を見なくなりました。そのとき、娘さんのダンナがふと一言。「この子猫、遊ばない。 ふつう子猫ってたくさん遊ぶよね。 遊びが足りないんじゃない?」そこでためしに、ダンナの実家にいた黒い子猫を連れてきてみました。すると二匹は取っ組み合って遊ぶようになり、黒子猫が皿からエサを食べたり、猫トイレを使ったりするのを見て白子猫は一生懸命真似して、いつしかできるように。猫プロレスしたおかげで、体もだいぶ丈夫になりました。だから私が会いに行ったときは、こんなに元気な様子でした。名前はムーシャでもまだ痙攣はあるようです。また、子猫時代の親猫三兄妹が部屋中を飛び回っていたことを思い出すと、明らかにおとなしいと言えます。動いているものに関心を示すのは子猫一般の特性ですが、親猫三兄妹が動いているものにまっしぐらに飛びついていったのに対して、彼女はそれが動きをやめてから手を出す、という慎重さでした。(もっともそれは、トロいディオゲンに似たのかも…)そういうわけで、先生の家の白猫一家はまた三匹になりました。今回、キミたち私のこと全然覚えててくれなかったけど日本産キャットフードを大喜びで食べてくれたから嬉しかったよ。ところでティモーシャの行方は?先生が言うには、「最寄り駅の近くの一戸建ての家の窓に、 巨大な白猫が座っていた。 どうもあれがティモーシャみたい。」きっと戸建て庭付きという、より快適な環境を発見して自分でお引越ししたのね!
2007/11/21
最近、陶磁器に興味あります。数年前にウズベキスタンに旅行したときにサマルカンド地方名産の青い紋様皿を見て以来、へーやきものっておもしろいなぁと思っていたのですが、7月に九州国立博物館でやきもの展を見てから俄然マイブームに。この夏休みは自由研究よろしく、本を読んだり美術館に行ったりしてみました。中でもおもしろいなと思うのは、中国や日本の磁器を見た職人が試行錯誤の末に製法を開発したことによって17世紀以降、西欧各地で作られるようになった洋食器です。マイセン(独)とかセーヴル(仏)とかウェッジウッド(英)とかってやつですね。デパートの上の方の階に行くとある類の。(ちなみに私のいちばん好きなのはヘレンド(ハンガリー)。 あぁいつか一個くらい持てる身分になりたいものですわ。)ところで、こうした今に続く西欧洋食器ブランドは、もともとは各国の宮廷に附属した工房でした。王族や貴族からの注文を生産することで、宮廷の食卓文化の道具立てを整えていたわけです。ちょっと待てよ。ロシアにも宮廷ってあったよね。じゃあロシアにも陶磁器工房があったの?あったんです。留学中は興味なかったので完全にスルーしていましたが、実は今に至るまで工場も直営店も博物館もあるんです。というわけで今回、いそいそと行ってきました。ロシアの陶磁器工房。1744年、女帝エリザヴェータによって設立されて、「帝室陶磁器工場」と呼ばれていたのが、ソ連期に「帝室」はマズかろうと、ロシアの大学者の名をとって「ロモノーソフ陶磁器工場」と改称されました。HPはこちら。ごく初期、エリザヴェータに供された食器セットにはじまり宮廷の様々な磁器を生産してきました。その様式は、時代に応じていろいろあるようですが、中でも19世紀中頃、ネオ・ロココの時代のこの花瓶は素晴らしかった。浮き彫りになった花がとても細かくて、その彩色も、花びらの先までグラデーションになっていてとてもきれいでした。20世紀初頭、アール・ヌーヴォーの時代になるとこんな感じ。だいぶ雰囲気が違います。革命後、工場がソ連政府に接収されて以降は、こういう作品が現れます。クレーンや労働者が模様になっていることがわかるでしょうか?一方、民話調のもあります。コミカルなニワトリや馬が並んでいて、けっこうかわいい。見えるかな?そしてソ連磁器の行き着いた究極のシンプリシティは、これだったようです。初期の女帝エリザヴェータの食器と対になるようなデザインなのですね。と、まあ、写真が多くなってしまいましたが、総じてお高いので手が出るわけもなく、私はでっかいカタログを買って満足することにしたのでした。(上の写真はそのカタログから。)おっ。今ためしに検索してみたら、このロシア磁器、日本でも銀座の三越で扱っているらしい。世界でマイセン、セーヴル、ウェッジウッドと、「ロモノーソフ」が並び称される日が来るのかな?私の予算で唯一買えた、民話調のコケコッコ絵皿。うちの玄関を飾っています。
2007/11/09
今回の訪ロの目的の一つは、ある学会に参加することでした。もっとも、自分が発表したわけではなくただ聞いていただけだったので、その点は気楽。ロシアの学会は、日本よりもだいぶアットホームな雰囲気です。報告者も質問者も、ごく自然に話しているといいますか。一つ不思議だったのは、プログラムに報告者として名前が記載されているのに実際には来ていない人が多数いたこと。「では次は○○・○○さん。」「え、もうボク?」「あなたの前の報告者も、その前の報告者も来ていないので」こんなやりとり、日本では滅多にないだろうなぁ。しかし、ロシア語がわからなくて悲しかった…どうしてこんなに外国語が下手なのかしら、私、と凹むことしきり。この外国語苦手癖は、今後の活動において私のハンディになることでしょう…以前からお世話になっているナイスミドルのマダムは「どうして今回は発表しなかったの?」「いや、私のロシア語では、 ちょっと自信が…」「だったらあなたが書いてきた原稿を 私が隣で読みあげてあげるわよ」ひゃー、そりゃむしろ恥ずかしいよ(汗)でもやっぱり、逃げてはいけません。学会でいくぶん顔見知りが増えた今、現地の研究者に会うのが最も苦手だったけれどもそれなりに続けてみた2年間の苦行留学は、やはり無駄ではなかったのだと思うからです。不得意でも、話したり、読んだり、書いたりすることで自分の世界を少しずつ広げていく努力はやめてはいけないのでしょうね。(と言いつつ、今回の滞在では 新規開拓をあんまり頑張らなかったかも…)研究とは関係ないですが、ペテルブルクには大変よい女友だちがいます。かつて私は、外国人との人間関係って「表面的になりそう。だって究極のところでは言葉通じないじゃん?」と思っていました。しかし彼女と不自由ながらロシア語でいろいろ喋り、互いに価値観がとても合うことがわかって信頼関係ができる、という経験をしてみると、人と人との関係の、「究極のところ」ではむしろ、言葉は最重要ではないのかもしれない、と考えを改めつつあります。ということは、言葉が下手でも国際恋愛だってできちゃうかもしれない?その勢いで外国語での研究活動もゴーイングマイウェー、爆走だぜ!?なんか書いててよくわからなくなってきたぞ。ともあれ、いろいろ考えられるようになったことを留学の成果と思うことにしましょうか。
2007/11/06
今回もまた、以前と同じ大家さんのお宅にお世話になりました。大家さん…人生をヒロインとして生きている人。この春、70歳に。その武勇談は数知れないが、たとえばこちら。そのエネルギーは、一年やそこらでは衰えることを知らず。いやむしろ、去年より元気なのでは…?「私、いま、新しい恋人がいるのよ!」…空港で私を出迎えるなりの一言。女のエネルギーの源泉は、いくつになっても恋でありました。昨年、私がお世話になっていた時点では二人目のダンナさんがいましたが、仲はあまりよろしくなく、始終ケンカして、追い出したりしていました。(そこらへんの顛末は、たとえばこちら。)それが、ついに、「今年の5月に最終的に夫を追い出した。 そうしたらその後すぐに、 私の去年亡くなった女友達のダンナが電話してきて “一人で寂しい”と言うから、 “あら、私も一人よ!”と言って 意気投合した」ということらしい。同年輩である新しい彼氏は、会社経営をしているなかなかリッチな人で、ペテルブルクの南のほうの部屋が5つもある新しいマンションに住んでいるらしい。大家さんは始終そちらに外泊しにいったため、今回の滞在中、半分は、私、一人でお留守番。ロシア人の友人に「うちの70歳の大家さんには今、 恋人(リュボヴニク)がいるらしい」と話したら、「70で? それは単なるボーイフレンド(ドゥルーク)じゃないの?」と言われましたが、いや、そんなもんじゃないと思う。だって私、生々しい話をかなり聞かされたもんね。(ウブな私には、とても書けません。)「これが人生で最後のオトコよ」と言う大家さん。いや、世間の70歳はいざ知らず、あなたならばまだ、次も、その次もあるかもしれません!
2007/11/01
一年ぶりのペテルブルク。飛行機が陽射しの強い空の上から高度を下げて雲をくぐると、そこには陰鬱な曇り空に覆われた北の大地が広がっています。茶色い土とところどころの緑の草と黄色や赤の紅葉。まだ雪は降っていません。あー久々にほんもののロシアだ、と嬉しくなり、日本での生活のことがいちどきに頭から抜けて行くワタシ。ところで、地上のあちこちに見えるあの光の筋はなんだろう?黄色かったり、赤かったり、十字だったり……あ、車のヘッドライトとテールランプか!ということは、あれは渋滞。えー車がそんなに増えたのー。一年ぶりのペテルブルクには、本格的な自動車社会が到来していました。今や「一家に一台」が普通になりつつあるとのこと。日本から輸入された中古車もたくさん走っています。さらに、ペテルブルクに工場を開いたトヨタは、もう間もなく現地生産を開始するそうです。自家用車で行く郊外型大ショッピングセンターもずいぶんたくさんできていました。そしてその大型駐車場にはおびただしい数の車。きっとロシア人ファミリーの週末の過ごし方は変わりつつあるんでしょうねぇ。自動車の普及にともなって、当然のごとく発生するのが渋滞。以前は週に1回聞く程度だった「プロプキ(渋滞)」という語を、今回は毎日のように耳にし、そして私も、幾度となく巻き込まれました。ところで最近、ペテルブルクのトヨタに、ペテルブルク市長マトヴィエンコが視察にくることになったんだとか。ところが社員一同、朝から準備したのに待てど暮らせどやってこない。けっきょく数時間遅刻してやってきたその理由は、「車が渋滞したから」自動車工場にくるのに渋滞で遅刻ですか、うーん、責任の所在はどこにあるのかなんというか…というか、マトヴィエンコの車だったら「そこをおどき!」と優先通行できないんですかね。 女傑マトヴィエンコ。あだ名は「ママ」。
2007/10/30
2006年9月に留学を終えて帰国し、今また、2週間の予定でペテルブルクに来ています。1年経ったペテルブルクでは、またいろいろなことがありました。来週以降、後日談として何回か書き足そうと思います。期間限定でブログ復活です。
2007/10/26
おかげさまで約2年間のロシア留学生活を無事に終え、これから日本に帰ります。長い間ブログにお付き合いいただき、どうもありがとうございました。家族に近況を知らせるのがめんどくさいという理由で始めたこのブログでしたが、思いがけず読んでいただく範囲が広がり、新しく知己が増えるきっかけともなりました。生活のテンションを保つにも、ちょこちょこ文章を書くというのはなかなかよかったようです。「ロシア生活」と題したブログはこれで終わりです。また何か、まとまって書くべきテーマができたらやってみるのもいいかもしれません。猫をもらってきて、「猫の飼育日記」とかね!でも私、長毛白猫じゃないと萌えないかも。ともあれ、どうもありがとうございました。ド・フストレーチ(また会う日まで)。-----------------------------------------技術的追記) ・更新は終了しましたが、ブログは閉鎖せず このまま浮かべておきます。 コメント、掲示板等書き込みは、 スパム防止のため 時期を見て停止する予定です。
2006/09/29
2年間のロシア留学生活で、何ができて何ができなかったでしょうか。研究に関しては…最後まで研究者との交流に苦しみました。数は少ないながら継続して会った人がいて、ほんとうの終わり際になって、ある程度まとまったコメントというか指導を受けられたので「終わりよければ…」と考えることもできますが、しかし外国語で自分の研究内容を表現するという点では大いに課題が残った感があります。また、史料はたくさん集めましたが、コピーしたばかりでなにしろ読んでいない。帰ってからが大変です。日本語、英語の研究書からもだいぶ遠ざかっているので帰国後の勉強は波乱含みです。しかしロシアで出歩いていろいろ見たおかげで、本を読むにあたっても少し楽になるんじゃないか、という気もします。一方、生活はとても楽しかったです。ハッピーに国際交流するにはやや斜に構えた人間なので、それほどロシア人と人付き合いすることがあろうとは思っていなかったのですが、ロシア人日本人とかいうことを抜きにしてこれぞ、と気の合う友人ができ、熱心に支えてくれる人たちがいたのはほんとうにありがたいことでした。彼らとのお付き合いの中でロシア語もうまく……はなってない気がするけど、勉強しないから…でもともかく、話したり聞いたりするのは慣れました。帰ってからひきつづき頑張ろう。雪の夜のマリインスキー劇場でバレエを観たこと、-25℃のネフスキー通りをとぼとぼ歩いたこと、ネヴァ河の氷がとけてきしむ音を聞いたこと、数々の宮殿めぐり、サルトゥイコフ・シチェドリン図書館、運河クルーズ、緑のパーヴロフスクやツァールスコエ・セロー、そして白猫…これから先きっと、夢の中にいたかのように思い出すことでしょう。感謝と、帰ってからもめげずにガンバルぞという気持ちと共に日本へ戻ろうと思います。(あれっ、モスクワでの思い出がないな…!)
2006/09/28
ついに3匹の白猫とのお別れの日がやってきてしまいました。ティモーシャさんはタイミングよく、二日間の遠征を終えて前日朝に帰宅していたところ。相当お疲れだったらしく、帰ってきてから丸一日眠りこけていたそうです。いやしかしでかくなりましたな。見てくださいこの手足の太さ。彼はここのところ、近くの工事現場のおじさんたちを気に入ってしまったそうで、その宿泊所に入り浸っていたらしい。どうもマッチョなものに惹かれるようです。ちなみに3ネコのお父さんはワーシャというやはり真っ白で大きなネコでしたが、ある日突然ふらりと現れて母猫プーシカと恋に落ち、また急にどこかへ出て行って姿を消してしまったというアウトドア派でありました。出歩き大好きティモーシャはその血をよく引いているのでしょう。ということはあちらこちらで子孫を繁栄させているのかもしれません。プーシカは小さくきれいな猫に成長しています。毛並みの手入れは最もよく行き届いていて、つやつやしています。猫の毛って本人の性格が現れるのね。お母さんにますます似てきたね。しかしこの日、私がお別れに猫じゃらしのおもちゃをプレゼントしたら彼女は大フィーバー。猫じゃらしの毛の部分をくわえこみ、ボーイズ2匹には決して触らせず、ふうふう唸りながら猫じゃらしを引きずって部屋中を駆け回りました。その激しさは「こんなプーシカ初めて見た」と先生が絶句するほど。後から知りましたけど、メス猫のほうがハンター気質が強いんですってね。そして愛すべきトロいディオゲン。なんとこの日は、私が彼のほうにかがみこんだら、自分から私に抱きついてきました…!!実は彼はこの日、ものもらいか何かになって目が痛くてしょげていたらしいのです。なんだか情けない…目の周りが茶色いのは薬をつけているせい。しかし普段、人とは一歩距離を置くタイプの彼が、自分からくっついてくるなんてひどく珍しく、先生はビックリ、私は感涙。あぁ日頃のえこひいきの成果がようやく出たというのにこれっきり、これっきりでお別れですか~(号泣)それにしても、外歩きしまくりのティモーシャではなく、なぜ超インドア派のディオゲンがものもらいになるのか…つくづくドジな奴よ、と眺めていたら、やっと猫じゃらしを離したプーシカがディオゲンに近づき、いたわるように目の周りをぺろぺろ。優しいね、プーシカ…(でも薬がとれちゃうんだよ…)うるわしききょうだい愛ですが、猫は同母きょうだいでも異性愛を育んでしまうそうなので、我々人間は家中に白子猫が溢れかえる事態に陥らないかとヒヤヒヤしております。そんなきょうだいを眺めるティモーシャ。「オレは知らん」…オマエは餅か!私の留学生活を、ほとんどストレスフリー状態にまで楽しくしてくれたのはきみたちです。ほんとにどうもありがとう。遠からず、どっかから研究費もらってぜったいにまたペテルブルクに来るよ。そのときは日本から、特大お徳用煮干パックを担いでくるからね…!!
2006/09/27
自分でも気づいていなかったんですが、9月23日でこのブログ、開設からちょうど2年だったようです。(楽天は、1周年のときはお知らせメールをくれたが 今回は何も音沙汰なしだった…)よく2年続いたなぁ。皆さま、読んでくださってどうもありがとう。
2006/09/23
近代ロシアを代表する画家にイリヤ・レーピンがいます。(詳しい履歴はこちら)「ボルガ川の船曳人夫たち」(部分) …他にも、「クルスク県の十字架行進」など、下層民を描くことで 社会矛盾をあらわにする作品が多い。彼が住んだ家が、ペテルブルクから北へ1時間ほどレーピノというところにあります。(この地名はレーピンの名前から取ったもの。)あたりは静かな真緑の森。そこにとんがり屋根の、茶色い一軒家がたたずんでいます。至るところにガラスの天井や採光窓が設けられて、屋内はロシアの建物にしては珍しいほど明るい。おそらく冬は相当寒かったと思いますが(暖房器具がいくつもあった)描くための心地よい環境を追求したようです。レーピンはある時期から手を傷め、パレットを持てない状況に陥ったそうですが、そのときには腰巻きパレットを考案して描き続けたとか。と、ここまでなら偉人レーピン像をイメージするだけで終わったのですが。この旧居には、それ以上に彼のキャラを物語るものがありました。毎週水曜がお客を呼ぶ日だったそうなのですが、使用人のいないこちらのお宅の原則はともかく「自分でやれ!」ということ。まず玄関を入ると手書きの看板と大きな銅鑼が。そこに書かれているのは、「自分でコートと帽子を脱ぎ、 自分でコート掛けに掛けたら、 銅鑼を高らかに楽しげに タンタンタンと鳴らして主人を呼ぶこと」食堂にあるのは巨大な丸テーブル。おそらく中華料理屋のを真似て作ったのでしょう、真ん中がくるりと回るようになっており、さらに各々のお腹に当たる部分に引き出しが作られています。なぜかといえば、ここでも「自分でやれ!」だから。お料理は自分で丸テーブルを回して取るべし!使い終わった食器はひとまず引き出しの中に片付けるべし!もしうっかり「塩とって」とでも言ってしまったら、罰ゲームが待っています。罰ゲーム、それは、暖炉の上に作られたお立ち台に立って、「なにかオモシロイ話をすること」主人のレーピン自身ひっかかったらしく、一生懸命演説している写真がありました。その下で座っている女性二人がぜぇんぜん聞いてない風なのがなかなか笑える構図で。二階では生前のレーピンが雪の中を散歩する映像も公開されていました。オモシロいことがあったら見逃さないぞ、とでも言いたげな、茶目っ気たっぷりの瞳でニコニコ歩いていました。これまでレーピンについては重い主題の絵を見るばかりで、「きっと気難しい、暗い人だったんだろう」と思っていましたが、どうしてどうして。つらいもの、歪んだものを見つめて描きながら、生活をユーモアにくるんで生きたその姿勢に、逆に、重いものを見たような気がした一日でした。
2006/09/20
撮りためたペテルブルクの風景写真を何枚か。ネフスキー通り、ドーム・ジンゲル 帝政期はジンガーミシン社のビルで、 ソ連期に入ってから最近まではドーム・クニーギという 大型書店が入っていました。 ここ数年はずっと修理中。 この街のアール・ヌーヴォー建築の代表です。フォンタンカ、アニーチコフ橋付近から夏の庭園方面を眺める ここの風景がペテルブルク中でいちばん好きです。 ちなみに白猫3匹はこの先の先生の家で生まれました。フォンタンカ沿い、夏の庭園手前の建物 彩りが可愛らしくて、 何度も写真を撮ってしまいました。 雪の中でも映えます。ルビンシテイン通り、劇場の建物 青空、緑の葉とよく合う色。いたるところ絵になるのがペテルブルクの素敵なところです。
2006/09/18
全385件 (385件中 1-50件目)