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…さまざまな「巨匠」と「名曲」によって織りなされる価値の秩序は、音楽を「芸術」の名に恥じない「高級」なものに仕立て上げていくための防波堤であった。その防波堤は、音楽文化が流行にながされる「低俗」なものに堕落してしまわないように、商業主義の荒波から音楽を守り続けてきた。つまるところ、「売れない」クラシック演奏家や演奏団体がその苦しい境遇に耐える「よすが」であるところの「自分は芸術をやっている」という自負すらも、サブカル化した聴衆(とそれに乗っかる興行ビジネス)の前では単なる「自己満足」と切り捨てられる状況になってしまった、というわけです。
「不滅の巨匠」と「永遠の名曲」によって形作られる価値秩序が保たれる限り、「高級音楽」は安泰であった。なぜなら、この価値秩序は一時的な人気や流行とは無縁な「普遍的」なものであり、たとえ誰も聴かなくても消滅する気遣いはないからである。それは”sollen”(「〜すべきである」引用者注)の論理の相関者であり、たとえ100人中99人が演歌やロックを好んでいても、音楽が「高級」な芸術たらんとする限り、聴き手はそのような価値秩序を規範とせねばならなかった。そういう形で「クラシック」の世界は商業主義の荒波から自らの身を守ってきたのである。ただしその代償として、この価値秩序の根源にある「音楽の自律性」の思想が、一方で自立した職業音楽家という存在を生み出しながら、他方でそれがほとんど空手形となることによって、 ごく一握りの「超エリート」音楽家を除いた大半の音楽家たちに「商業主義」から絶縁された「純粋」な芸術音楽の世界の中での食うや食わずの生活を強いることになった のである。
しかしこういう状況が保たれているのも、「巨匠」と「名曲」の価値秩序の「普遍性」が保証されている限りにおいてであった。文化のカタログ化の進行によって「人気がないにもかかわらず永遠の価値を持つ」ような存在が失われてしまうことによって、 音楽文化は商業主義に抗するための切り札を失ってしまった のである。(同書pp.170-172、強調は引用者、以下略)

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