そのような彼が、プロレス史に残るサクセス・ストーリーのスタートを切ったのは、平成元年に最初の現役復帰を果たし、FMW(Frontier Martial Arts Wrestling)なるプロレス団体を興した時である。この時の元手資金は、たった5万円であり、この資金を使って電話線を引くところから会社としての活動を開始したのは、有名な話である。お金もない、プロレスラーとしての強靭さもない大仁田は、「何でもあり」のプロレスで勝負した。有刺鉄線爆破マッチなど、既存の新日本プロレス、全日本プロレスなどが決して行なわないようなプロレス方式を考案し、自らの体が傷つくことと引き換えに、FMWの人気を高めていき、自らの価値を高めていった。FMWで一度引退し、再度復帰した後には、業界最大手の新日本プロレスに喧嘩を売り、新日の東京ドーム登場、現場トップで既に引退していた長州力を復帰させた上で横浜アリーナのメイン・イベントを務めるなど、新しい大仁田像を作り上げた。また、プロレスラーとしての限界が近づいてくると、今までの実績を活かして国会議員に立候補して当選、今では先生と呼ばれるようになった。