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【2017年3月19日(日)】 去年、東寺の五重の塔のガイドを担当したとき、東寺のことを勉強するために、東寺の売店で2冊の本を買いました。 一冊は「東寺行こう」という本で、去年12月に読み終わり、こちらに投稿しました。 引き続き読んだもう一冊の本がこの本です。買ったときの投稿はこちら。 以前はガイドの行き帰りのバスでは、本を読んでいましたが、最近は溜まったDVDを観ているので、読書時間はベッドに入ってから眠くなるまでの僅かの時間です。ですので、読み終えるのに3ヵ月近くかかってしまいました。読了は3月12日でした。題名 :東寺の謎著者 :三浦俊良(しゅんりょう)発行所 :祥伝社(祥伝社黄金文庫)発行日 :2001年4月21日 初版第一刷ページ数:364ページ価格 :本体619円+税読書期間:2016年12月25日~2017年3月12日 著者は東寺の塔頭・宝菩提院の住職。僧によって書かれた本で、一般の観光ガイドブックとは違って、宗教的に彫り下げられた内容です。東寺の歴史を、詳しく学ぶことができました。 特に廃仏毀釈、戦後の荒廃、学校運営、著者の生い立ちなどは、この本ならではの内容です。これからの観光ガイドにも大いに役に立つと思います。 今日は、家内は高槻の実家の両親・義姉といっしょに吹田のほうにお墓参りでした。私は散歩以外は外出なしのOFFの日でした。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2017/03/19
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今回の第5クール後の入院は、左手薬指の傷の治療も兼ねている。原因は、4月26日(日)に、庭いじりをしたことにある。昨年の暑さで枯れてしまった低木を花壇から取り去る作業をした。その作業中は、ゴム手袋をしていたので、そのときは大丈夫だったと思うが、取り去った後、ゴミ袋に入れるとき、手袋を外した状態でやってしまったのだろう。そのとき、小さな枝が指に刺さったのだと思う。それが、翌々日には大きく腫れ上がり、39度を超える熱まで出てしまった。普通なら、こんなにはならないのだろうけれど、白血球、血小板が、第5クール治療で大幅に下がったので、こうなってしまったのだろう。4月28日から、形成外科の先生に来てもらって治療してもらうと同時に、毎日、看護師さんに消毒剤を交換してもらっている。下記、写真は今日(5月1日)、治療開始4日目の消毒剤交換時の写真である。こんな、ひどい手足の傷は私も初めてである。←前回「闘病記」 次回「闘病記」→
2026/05/01
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朝日新聞朝刊 2014年8月5日の記事です。 (写真)入院中のSさん。ベッドの上からブログを更新していった=2010年10月、妻提供(掲載を控えました。) 尿膜管がんで49歳で亡くなるまでの4年近く、本にして4千ページを超える、膨大な情報をブログにつづった患者がいる。 広島市の公務員だったSさん。2007年4月、米ニューヨークの公益法人に出向する予定だった。3月には現地に荷物を送り、あいさつ回りに忙しかった。妻(52)は晴れがましい気持ちだった。深夜コツコツと英語を学ぶ夫の姿を見てきた。 3月29日朝、ひどい腹痛に襲われた。広島市民病院で精密検査をしたところ、膀胱(ぼうこう)付近にがんが見つかった。点滴を打ちながら携帯電話で職場に報告した。「2年間の米国勤務というまばゆいばかりの閃光(せんこう)のキャリアは、一瞬の夢か幻になりました」。Sさんは後に書いたブログで振り返った。 入院してすぐ内視鏡手術をした。細胞を調べると、胎児の時に膀胱とへそを結んでいた「尿膜管」にがんができ、膀胱と直腸に広がっていた。国内では数百人しか見つかっていない非常に珍しいがん。確立された治療法がなく、進行してから発見されることが多い。Sさんも末期だった。 尿膜管は膀胱のそばにあるが、尿膜管がんは膀胱がんとはタイプが異なり、膀胱がんの抗がん剤では効かない。このため、同じタイプが多い胃がんに使われている抗がん剤で治療することになった。 Sさんは手術後、インターネットで尿膜管がんを知ろうとしたが、あまりの情報の少なさに絶望した。「治療指針に確立されたものはない」とある程度だった。 がん告知の1カ月後、「すごいのを見つけた」。Sさんは妻にパソコン画面を指した。尿膜管がんの英語名「Urachal carcinoma」で検索し、「膀胱がんウェブカフェ」(http://blcwebcafe.org/別ウインドウで開きます)にたどりついた。英語版の患者運営サイトだ。 最新の研究や薬の開発、患者や家族の生活の心構え……。患者目線の情報が、患者自身の手で集められていた。専門医も助言し、米国がん研究所の患者向けの本でも「価値ある情報源」として紹介されている。尿膜管がんの論文や治療情報も載っていた。 「ここに載っている情報を翻訳する」。Sさんは宣言した。(原文はご本名で書かれていましたが、ここでは頭文字表記にさせていただきました。) 去年の8月上旬からの連載です。ちょうど私が、悪性後腹膜腫瘍で入院して抗癌剤治療を受け始めたころの連載です。 私も症例が少ない癌で、専用の抗癌剤がなく、他の癌の抗癌剤を流用するかたちでした。それでもインターネットには、そこそこの情報がありました。 この方の場合は、さらに症例が少なく、インターネットで情報が皆無だったようです。英語のサイトの翻訳を決意されます。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/05/20
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【2016年5月15日(日)】 4月16日撮影の「イモカタバミ(芋片喰)」@ご近所散歩。 カタバミ科カタバミ属。開花時期は4月から9月。南アメリカ原産で、日本へは戦後に渡来し、現在では、栽培されていたものが逸出して各地で野生化し、道ばたなどに生えています。ムラサキカタバミに似ているが、こちらは花の真ん中は黄緑色です。 和名の由来は、芋のような塊茎によって増えるところからきているます。別名をフシネハナカタバミ(節根花片喰)といいいます。塊茎が節のように別れることからです。 カタバミは「傍食」「片食」とも書きます。「かたばみ」の名の由来は諸説あります。 1.葉が、何かに食べられたように欠けているところから。 2.「片葉三」片葉が3つなところから。 3.葉が、茎の上の方にだけ伸びて、下の方には伸びないことから。 「かたばみ」を「酢漿草」と書くこともあります。葉や茎に蓚酸(しゅうさん)を含み酸味があることからです。 別名に「雀の袴(スズメノハカマ)」もあります。夜になると葉を小さくたたむことに由来するといわれます。 今日(5月15日(日))は、昨日の京都歩きと飲み会の疲れが朝は残っていましたが、気温は高いものの、風もあって湿度も高くなく、体調回復しました。右腹部の皮膚のピリピリ感はありますが。昨日色々あったので、今日はルーティーンの一日でした。明日、一度近所の皮膚科に行ってみようと思います。 テニスのイタリアローマのマスターズ大会準決勝惜しかったですね。深夜で放送は見ていませんが、スコアからいくと接戦だったようですね。1-2で最後はタイブレークだったのですね。ジョコビッチがメディカルタイムアウトをとったと聞きましたが。それがなかっても接戦に持ち込めたのではないかと想像します。少し前までは、同じ負けるにしても、ジョコビッチとは格が違うと思わざるを得なかったのですが、ここに来て錦織が強くなってきて、互角に持ちこめているのではないかと思います。ランク下位選手との試合も取りこぼしがなくなりました。全仏が期待できそうです。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村____________________________「散歩・草花記」カテゴリー 色んな花が登場します。http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=34
2016/05/15
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【2016年11月2日(水)】 今日は、東寺五重塔に続き2つ目の仕事となる修学旅行ガイドの第1回でした。過去2度、先輩ガイドに同行しての研修がありましたが、そのときは基本的には観光ガイドはせず、先輩の行動から学ぶだけでしたが、今回は、単独でガイドをします。 東寺五重塔の初日同様緊張するかなと思いましたが、そうでもありませんでした。東寺のガイドである程度度胸がついたこと、修学旅行研修を2度していること、生徒が対象なので説明すべき内容が平易なことなど色んな要因があるのだと思います。 ただ子供たちの命を預かっているということが、東寺でのガイドとの最大の違い。さらに終了後の集合時間に絶対遅れてはいけないというプレッシャーもあります。また研修では2回とも中学生だったのですが、今回初めて小学生というのが未経験要素でした。 今回第1回めの担当学校は、東海地方の市立小学校6年生。午前8時15分までに、宿泊先であにガイドは集合です。10月18日に下見に行っており(こちら)、五条通を通るバスを大宮五条で降車して、問題なく30分弱前には宿舎前に到着。 ところが仲間のガイドの姿が一人も見えません。普通は30分前には、かなりの人数が集まるのですが。今日は特別かなと思い、5分ほど待ちましたがやはり誰も来ません。これはおかしい、同じ名前の宿舎がもう一つあるのではないかと不安になり、先輩の一人に電話。「まだ、どなたも来ていないのですが・・・」「もう、皆さん集まっているよ。どこにいんの?」「駐車場のあるところです。」「それ裏側と違うか?東側やで。」 しまったぁ・・・下見で裏側から入って、そこがちゃんとした入り口だったので、表玄関だと思いこんでいました。あわてて東側に回り、皆さんに合流することができました。 ≪気付き≫宿舎の表玄関を下見でしっかり要確認 リーダーから各ガイドに市バス一日乗車券と昼食代が配られました。普通は昼食代は報酬とともに後日銀行振り込みなのですが、この日は現金渡しでした。続いてこの日の世話役ガイドから、諸注意事項の説明があり、準備が整いました。 出発前にホテルのロビーに生徒全員がクラス班別に並んで座っていて、その班の前に我々ガイドが班名を書いた紙を持って立ちました。代表の子の音頭で「よろしくお願いします。」との全員そろっての挨拶がありました。礼儀正しい学校のようです。(小学校は初めてなので他との比較はできませんが)私の用意したプレート。これを見て、私の班のメンバーがくすっと笑ってくれました。 集団での挨拶が終わり、班別に出発前の打ち合わせ。次のようなチェックシートを準備していました。 これに基づき打ち合わせを進めました。 まず私の自己紹介。気軽にニックネームで呼んでとお願い。同じ県の出身で父が当該学校のある市に勤務していたことも紹介。少し距離を縮められたかな? 続いて、生徒たちの自己紹介。私の班は男の子2人、女の子3人の合計5人。各人、係があり、班長、タイムナビ、保健、レク、美化。チェックシートに特徴欄を設けましたが、何も書けず仕舞い。 次に行き先の確認。返信レターにも書いた下記の地図と予定表を使いました。 ここで、返信レター(こちら)は生徒が手元まで届いていないことが判明。研修のときもそうだったので、返信レターは書いても生徒まで届いていないこともあるようです。 ルートは、東寺⇒京都タワー⇒銀閣寺⇒平安神宮⇒(建仁寺)⇒清水寺でOK。建仁寺が( )で書いてあったのは、予想通り、時間が恐らく足らないだろうから、その場合は外すということのよう。京都タワーは、中に入らず外から見るだけでよいとのこと。割引きチケットについて色々調べて準備はしたのですが・・・。また平安神宮は時間がなければバスの窓から社殿や鳥居を見るだけでもいいとのこと。一番驚いたのは、男の子に一人鉄道ファンがいて、移動にできるだけ、電車を使って欲しいとのこと。余分に交通費がかかることは承知で、班のメンバーも了解済みとのこと。東寺から京都駅を近鉄を使い、京都駅から銀閣寺を部分的に地下鉄を使うことでまとまりました。≪気付き≫訪問先は中に入らず見るだけでもいい、車窓から眺めるだけでもいいという場合もある。 昼食は本能寺近くで食べたいと言います。本能寺はルートから大きく外れています。何か指定のお店があるのかと聞いたらそうでもないようです。京都らしいところで食べたいということのようです。それなら時間があれば祇園あたりで食べ、時間がなければ清水寺近くで食べるということにしました。 スイーツもどこかで食べたいとのこと。銀閣寺近辺で食べようかということにしました。 建仁寺に行かなくても時間がギリギリだったのです。しかし、京都タワーは外から見るだけなので、その分時間ができます。一方でスイーツを食べたいということなので、ここで想定していなかった時間が生じます。結局プラスマイナスで、建仁寺はむつかしそうです。 市バス一日乗車券、修学旅行パスポートを持っていることを確認。飲み物は各自持っており、カメラは持っていないので写真は自分たちでは撮らないとのこと。体調は全員良好。京都は家族で来たことがあり、初めてという子はいませんでした。 あまり時間をかけてもいけないので、ますは出発。バス停まで歩きながら、注意事項を説明しましたが、全部網羅はできませんでした。≪気付き≫時間活用のため歩きながらの注意事項説明は有効。ただし、チェックシートを確認しながら。 班は行きたい場所がよく似ている人を集めて構成されているとのこと。なるほどこういう方法もありかという感じ。 社会の教科書は事前調査通り、私の買った日本文京出版のを使っているとのこと。すでに江戸時代まで習い終わったとのこと。上卷の歴史が終わってから、下巻の政治経済を勉強するそうです。 ホテルから島原口のバス停まで歩き、バス停で待っている間に一日乗車券の使い方を説明。バスに乗って東寺東門前で下車。 バスに乗る時に基本的なミスをしてしまいました。私が先に乗ってしまいました。交通機関に乗る時、降りるときはガイドが一番最後というのが鉄則です。置き去りを防ぐためです。冷静さを欠いていました。≪気付き≫交通機関での最後乗り、最後降りを忘れないこと。(続きます) 家内は友達に誘われてゴルフ練習に行ったとのこと。私が「がん」を発病して遠ざかっていましたので、1年4ヵ月ぶりにクラブを握ったことになるでしょうか。以前買ったレッスン回数券が残っていて、友達がそれが今でも使えるかどうか聞いてくれて、使えるとのことで行ったようです。結構うまく飛んだらしいですが、さすがに身がいったとのこと。 また以前のように、家内とゴルフラウンドに行くことができれば嬉しいことです。テニスも頻繁にやっているので、両立できるかどうかですが。(内容再考版。原文は非公開日記に移動済み。)-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2016/11/02
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【2020年10月30日(土)】 良いお天気ですが、日に日に寒くなっているような気がします。 だいぶ前の新聞記事からです。10月8日読売夕刊です。 「棋(き)になることば」のコラム記事で、「封じ手」という言葉が紹介されていました。「封じ手」とは、格闘技などのスポーツで禁止されている技という意味しかないと思っていましたが、もう一つの意味があることをこの記事で知りました。 将棋などの対局が2日間に及ぶ場合、初日の最後の手を実際に打たずに、その手を紙に書いて封筒に入れ、立会人に渡すそうで、それを「封じ手」といいます。最後に打った手が相手に特定できると、翌日の第一手まで長考できてしまいます。有利不利の差を最小限に留めるために考え出されたのが「封じ手」です。昭和のはじめに、チェスでやっていたこの方法を取り入れたとのことです。 最近では、「封じ手」がチャリティーオークションに出品されることも多く、藤井二冠の王位戦の「封じ手」のうち1通に1500万円の値がついたそうです。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2020/10/30
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【2017年7月4日(火)】 2014年8月に後腹膜悪性腫瘍の抗がん剤治療を始めましたが、その前にCVポートの埋め込み手術をしました(こちら)。長期間抗がん剤を点滴する計画でしたので、より安全に、より快適に点滴ができるようにというのが目的でした。確かに、針の抜き差しの痛みもほとんどないし、液漏れによる皮膚炎のリスクも小さいし、何よりも両手が自由に使えるというのがありがたかったです。 5ヵ月に渡りCVポートを使っての抗がん剤治療後、粒子線治療を受け、治療は2015年5月1日終わりました。その後、CTで経過観察してきましたが、腫瘍は劇的に小さくなり、2年経過した今も少しずつ小さくなっています。再発の可能性が小さく、抗がん剤を近々に使うこともないだろうとのことから、CVポートを取ってしまう(「抜去」というそうです)手術を受けることになりました。 M病院に午前10時に出向き、なつかしい5階の病棟へ。リスクの少ない手術なので、家族の付き添いもなしです。担当医はすでに2回も替わっていますが、当時の看護師さんは多く残っておられて、なつかしく再会できました。長期間入院したこともあって、皆さん私のことを憶えていてくださいました。なつかしい4人部屋の病室 手術は午後1時からでした。埋め込むときは、外科担当だったと記憶していますが、抜去手術は、泌尿器科担当でした。執刀医は、新しく来られた先生2名で、主担当が女医さんでした。それと看護師2名を加え、4人体制。局所麻酔ですので、音も聞こえるし、目も見えますし(ただし顔はシートで覆われているので、視界はありません)、匂いも感じることができます。抗生物質を点滴しながらの手術です。 手術といっても、鎖骨近辺のポートが埋まっているところの皮膚を切って、皮膚下のポートと、それに繋がって中心静脈に入っているカテーテルとを取りだして、皮膚を縫合するだけです。先生たちの「もうちょっと切ったほうがいいよ。」とか「もう、ごそっと抜けるでしょう。」とか生々しい言葉を聞きながらの手術でした。ほとんど痛みはなかったです。 30分程度で、無事完了。途中で焦げ臭いにおいがしたので、先生に尋ねたら、止血のために血管を焦がした匂いだとのこと。車椅子に乗って病室に戻るとのことでしたが、歩いて病室に戻りました。 麻酔が切れてきたとき痛みがあるかもとのことでしたが、ほとんど痛みはなく、切ったところからの術後の出血も想定内で、今のところ順調です。持ってきた二条城関係で図書館から借りている本をベッドに座って読んだりして時間を過ごしています。 このまま異常がなければ、明日退院です。 よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村_________________________________過去の治療履歴は下記を参考にしてください。がん治療日記:http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=10がん治療振り返り:http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=11
2017/07/04
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朝日新聞「患者を生きる」の記事を引用し、私の意見・感想・気づきなどを述べさせていただいています。≪2015年7月18日の記事≫ メラノーマ(悪性黒色腫)は、皮膚の色素を作るメラノサイトと呼ばれる細胞や、ほくろの細胞ががん化して起こる。患者は人口10万人あたり1~2人と少ない。60~70代が多いが、20~40代で発症する人もいる。他の臓器に転移すると5年生存率は1割程と低いため、悪性度が高いと言われる。 日本人の場合、足の裏やかかとなどが約3割を占め、顔や背中、腹、爪のほか、粘膜にできる場合もある。良性のしみやほくろと比べ、形が非対称で、縁も不規則な形をしている。また、色調にむらがある。1、2年のうちに形や色に変化があれば、注意が必要だ。 信州大医学部の宇原久(うはらひさし)准教授(55)は「大人になってから気づいたもので、鉛筆の太さより大きくなるようなら、皮膚科専門医に相談した方が良い」と話す。 治療は手術で切除するのが基本となる。手術では、転移した場合の転移先となるリンパ節を1~4個取って調べる。そこで転移が見つかれば、さらに周辺のリンパ節やリンパ管も摘出する。 病状の進行具合は、腫瘍の厚さで判断する。厚くなるほど転移しやすくなるため、早い段階で見つけて、治療することが肝心だ。 これまで、他の臓器に転移している場合、延命効果が期待できる治療法は乏しかったが、新薬が相次いで発売された。 今年2月に発売された分子標的薬の「ベムラフェニブ」は、「BRAF」と呼ばれる細胞の増殖に関連する遺伝子に変異がある患者に有効とされる。国内の患者で、この遺伝子に変異がある人は2~3割程度という。 がん細胞の影響で抑え込まれていた免疫の力を再び活性化させるタイプの新薬も開発されている。昨年、世界に先駆けて「ニボルマブ」が発売され、さらに今月、「イピリムマブ」も承認された。これらの薬は、従来の抗がん剤とは違う仕組みで効果を発揮する半面、下痢や間質性肺炎などの副作用に注意が必要だ。 新潟県立がんセンター新潟病院皮膚科の竹之内辰也(たけのうちたつや)部長(51)は「新薬の登場で、治療は劇的に変化している。メラノーマは将来、転移があっても長期の生存が望める病気になるだろう」と期待を寄せる。メラノーマの特徴>良性のしみやほくろと比べ、形が非対称で、縁も不規則な形をしている。>また、色調にむらがある。1、2年のうちに形や色に変化があれば、注意が必要だ。 単なる「ほくろ」とか「しみ」とかと判断してしまいがちだと思います。 私も気をつけたいと思います。でも、背中とかにできたら、なかなか気がつきにくいですよね。ときどき家内とかに見てもらったほうがいいのかもしれません。>新薬の登場で、治療は劇的に変化している。 前回分で紹介のあった患者会のホームページでも、「最近のメラノーマの治療は月単位で変化しているそうです。」との記述がありました。患者サイドの情報を得る努力が必要だということだと思います。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村___________________________________________________________________【関連カテゴリー記事一覧】◆がん治療情報http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=16◆がん治療日記http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=10◆がん治療振り返りhttp://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=11
2015/12/09
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2016年02月23日 京都新聞HP 国宝の建造物の棟数は京都府が1番! 今月、石清水八幡宮(八幡市)の本殿などの国宝昇格で一気に10棟増えて京都府内は72棟となり、奈良県の71棟を抜いて全国1位に躍り出た。ただ、件数では奈良県(64件)に次いで京都府(51件)の2位は変わらぬまま。国宝数の実態を示すのは棟数だが、件数でもトップを目指して、さらなる国宝昇格が期待されている。 神社仏閣などで指定された建物件数の中で、指定時期が違うと件数が分かれたり、一つの施設が複数の国宝を持つ場合は棟数を分けたりするため、棟数のほうが実態が分かるとされる。昨秋の文化審議会の答申を受けた今月9日の官報告示では、京都から石清水八幡宮で1件10棟が正式に国宝に指定された。 石清水八幡宮の現在の社殿群は1634年の造営。国内最大の「八幡造」の建物で本殿や楼門、廻廊(かいろう)、摂社武内社本殿、瑞籬(みずがき)、幣殿および舞殿、東門、西門が国宝に昇格。今回指定がなかった奈良県の棟数をわずかに1棟上回った。 府内では、2014年にも西本願寺(浄土真宗本願寺派本山、京都市下京区)の御影(ごえい)堂と阿弥陀(あみだ)堂が昇格して西本願寺の国宝建造物は計8棟になったばかり。府教委文化財保護課は「石清水八幡宮社殿の10棟まとめての国宝指定は全国的にも極めて異例だった。04~11年度にわたる社殿の保存修理事業を契機とした調査が実を結び、一気に国宝昇格に結びついた。今後も府内の文化財の重要文化財指定が進み、さらに国宝へ昇格できるように努力していきたい」と話している。本殿など、境内の建物10棟が一斉に国宝へ昇格した石清水八幡宮(八幡市) よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村_____________________________________________________「京都のニュース」カテゴリーhttp://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=20「京都の行事・お祭り案内」カテゴリーhttp://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=32「京都検定過去問」カテゴリーhttp://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=28
2016/02/26
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【2020年5月12日(火)】 事務所の予定でしたが、コロナの影響で在宅です。 一昨日の読売朝刊から。たまにはコロナ禍と全く関係のない記事もいいのではないかと思い、取り上げました。 気象予報士、松元梓さんのコラム記事を抜粋、編集しました。 雪が解けて現われる山肌や、残雪が作る模様から人間や動物などの形をイメージして名前をつけたものを「雪形」という。昔、まだ天気予報というものがなかったとき、雪形で田植えや種まきの時期を知った。そんな雪形は全国に約300あり、やはり農業に関係したものが多い。例えば農作業をする人の姿や、馬や牛といいった家畜、鍬や鎌の農耕具などがある。有名なのが、北アルプスの「代(しろ)かき馬」。「代かき」とは、田植えの前に田に水を入れて、土をかき混ぜて平にする作業。5月の大型連休のときに行うが、ちょうどその頃に、山に馬の姿が現れるのでこの名前がついた。昔、地図を作る際に、「代かき馬が現われる山」ということで、「代馬岳」と記するところを誤って「白馬岳」としてしまい、それが「ハクバ」と読まれ「白馬(はくば)村」となった。その他、飯縄山の「種まき爺さん」、白馬五竜岳の「武田菱」などがある。代かき馬武田菱種まき爺さんよろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2020/05/12
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2016年12月28日 京都新聞ホームページから 京都市伏見区の京阪淀駅に、「淀の水車」のモニュメントが完成した。水車は駅近くにあった淀城の象徴として知られ、新たな待ち合わせスポットにと期待されている。 淀の水車は、城の庭園に水を引くために設けたとされる。京都と大阪を結ぶ水路として淀川が活用されていた江戸時代、船頭たちが「淀の川瀬の水車 誰をまつやら くるくると」と歌うなど、地元の風物詩だった。 同区の京都淀ライオンズクラブが850万円かけて整備した。直径4メートルのスギ製で、駅の利用者が水車を見上げながら、淀の歴史に思いをはせている。 同クラブの浦井秀男会長(62)は「淀駅の高架化を機に、水車の復元を目指した。淀地域の活性化につながるよう願っている」と話している。京阪淀駅前に設置されたモニュメント「淀の水車」+(京都市伏見区)よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村_____________________________________________________「京都のニュース」カテゴリーhttp://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=20「京都の行事・お祭り案内」カテゴリーhttp://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=32「京都検定過去問」カテゴリーhttp://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=28
2016/12/29
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【2017年2月10日(金)】 2月10日(金)、朝M病院での定期経過観察の診察(こちら)、夕刻にガイド会のエリア会議があるので、その間の時間を利用して、京都を歩きました。 M病院の診察後、最寄りの京阪電車で京都に向かいました。「京の冬の旅」で公開中の寺社のうち東山にあるいくつかを巡る予定です。●聖護院 神宮道駅で降りて、東に歩き、最初の目的地「聖護院」へ。現在、「京の冬の旅」で公開中です。ここは、以前京都歩きをしたとき特別公開をしていると思い訪問しましたが、まだ公開してなくて、拝観しそびれたところです(こちら)。 我がガイド会が受付も案内も担当しているので、研修扱いで無料で入れます。ちょうど、同じエリア会の先輩女性が受付をしておられたので、挨拶をして入場させていただきました。ガイド会に入る前に、やはり特別公開で拝観していますので、2回目の拝観になりますが、前回は、純粋な観光客として、今回は、将来のガイドに備えての下見が目的ですので、大きく位置づけが違います。山門前の「冬の旅」特別拝観案内山門長屋門表玄関◆沿革 山伏で知られる、本山修験宗総本山。平安時代の寛治4年(1090)に白河上皇が紀州(現在の和歌山県)の熊野三山を参詣する際、修験者(山伏)として有名であった三井寺の増誉大僧正が、先達(案内役)を努めた功績により寺を賜り、聖体護持の意味から聖護院と名付けたとう。修験道とは、日本古来の山岳信仰と、仏教の密教、道教などが結び付いて平安末期に成立した宗教で、役行者(634~701)を開祖とする。増誉大僧正はさらに「熊野三山検校職」を任命され、修験者を統括し、全国に2万余の末寺をかかえる一大修験集団となった。しかし、明治政府によって「修験道廃止令」が出され、多くの山伏は還俗し、寺は衰退した。 後白河天皇の皇子・静恵(じょうえ)法親王が宮門跡として入寺(4代目)して以来、明治維新まで37代のうち25代は皇室により、12代は摂家より入寺した。代々皇室や摂家より門主を迎えた由緒ある門跡寺院。周りは「聖護院の森」と呼ばれる森が広がっていたので、「森御殿」とも呼ばれた。この森の紅葉は錦の織物の様に美しいため、錦の林・「錦林」と呼ばれ、森が無くなった現在も地名として残っている。 応仁の乱をはじめ、度重なる火災に遭い、各地を転々とした後、延宝4年(1676)に再興されたのが現在の主な建物で書院(重要文化財)は京都御所の御殿を移したものである。聖護院相続で入寺されていた祐宮兼仁親王が安永8年、光格天皇として皇位を継承。天明8年(1788)の大火で御所が炎上した際、光格天皇が一時、仮皇居として使用した。幕末の安政元年(1854)の御所の炎上に際しては、孝明天皇が一時仮皇居として使用した。これらの歴史から、「聖護院旧仮皇居」として国の史跡に指定されている。境内図(お寺のパンフから)◆宸殿 宸殿の上段の間は、天明の大火で御所が炎上した際に、光格天皇が仮御所として政務を行った場所。「花鳥図」「老松図」「波濤図」「鶴の図」など170面に及ぶ金地彩色の障壁画は、狩野(洞雲)益信・永納をはじめとする狩野派の絵師によって描かれた。仏間には修験道の開祖・役行者像、蔵王権現や不動妙王像などが祀られている。宸殿と前庭上段の間https://www.okeihan.net/navi/event/detail.php?eventno=1350障壁画http://kyotoshunju.com/?temple=shogoin内陣http://koimaiko.com/onair/?id=140401手摺の菊の御紋◆本堂 智証大師円珍作と伝わる本尊・不動明王立像(重文)、智証大師像(重文)が安置されている。本堂と十三重石塔十三重石塔不動明王立像http://kyotoshunju.com/?temple=shogoin智証大師像お寺のパンフから◆書院【重文】 御所から移築された江戸時代初期の書院。書院造に数寄屋造を取り入れた瀟洒な建物で、凝った造りの欄間や釘隠し、蝋燭の明かりで影が揺れる風雅なすかし彫りなどみどころが多い。床の間や天袋・地袋の絵は、江戸時代後期の絵師・松村呉春と弟の景文が描いたもの。書院内部http://kyotoshunju.com/?temple=shogoin書院と書院前庭松の枝ぶりが見事中庭◆聖護院の寺宝 明治時代、伝統的な「神仏習合」の考えが否定され修験道が廃止されたため、聖護院の末寺も多くが廃寺になった。しかし、破却された多くの仏像や仏具が伝えられている。 今回公開の「弁財天尊」は旧才智院の本尊で、往時は春と秋に御着替がなされていた美しい像である。明治以降、その伝統は途絶えていたが、近年新調のため着用していた衣を除いたところ、造られた当時の鮮やかな彩色が現れた。そのほか、財運・金運の蛇神で頭は老翁、体は蛇の姿をした「宇賀神像」などが公開されている。 こららは拝観の最初の部分にあります。弁財天像https://kyokanko.or.jp/huyu2016/huyutabi16_01.html#03 今回の「京の冬の旅」の特別公開のなかでも、部屋・絵画・仏像・寺宝など、見どころの多いお寺です。お庭は開け放しですので、寒さは厳しいです。受付は小屋の中ですので、私の行っている養徳院よりは、ましだと思われます。寒さを別にすれば(基本的にどこも寒いのですが)、ガイドをしてみたいなぁと思わせる場所です。 門を出る頃には激しい雪。如意ヶ岳の大文字にも雪。歩いて、次の目的地である知恩院に向かいます。(続きます)-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2017/02/10
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山本周五郎「樅の木は残った」に続き、母が遺していった本の一つです。「樅の木・・・」と違って、一気に読めました。前半が短編小説、後半がエッセイになっています。「おどき めどき」と読むそうです。 毎晩ベッドに就くと眠る前に本を読むことが多いですが、こういう読みやすい短編やエッセイはちょうどいいです。「樅の木・・・」のような小説は、眠くなって登場人物や筋があいまいになったまま読み続けると、わけが分からなくなってしまいますが、このような短編小説やエッセイは登場 人物も少ないし、寝ぼけ眼でもストーリーは理解できるます。理解できないまま読み終わっても、翌日リセットして次の話を読めます。それから、エッセイや世相を反映した昔の小説は、プラスαの楽しみがあるのも分かりました。この本は主に昭和50年代に書かれた小説やエッセイを集めたものです。私が会社に入社して、結婚して、子供ができてという頃です。そのころに向田さんが、そのときの世相を書いたり、昔のことを振り返ったりしています。そのとき読んでいたら、今はこう、昔はこうという受け止め方になります。しかし、今読むと、これが書かれた頃はこう、もっと昔はこうだった、と2つの時代を振り返ることができます。また、この本が出版された頃、母はちょうど今の私と同じくらいの年齢のはず。母はこんな気持ちで読んでいたのかなぁと色々想像して、亡き母を偲ぶこともできました。 中身は、さすが向田邦子さんという感じで、どの小説もエッセイも逸品です。お薦めの一冊です。 画家の風間完さんの解説で、台湾の飛行機い事故で亡くなられたと書いてありました。そういえば、そういうことあったなぁと思い出しました。Wikiには、「1981年(昭和56年)8月22日、旅行中の台湾苗栗県三義郷で遠東航空機墜落事故にて死去。享年51。」とありました。読書期間:2015年9月7日~2015年9月11日発行所:新潮文庫発売:S60年5月25日発行ページ数:197ページ価格:280円(当時)(現在は税抜き400円)よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/09/11
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【2021年8月9日(月・祝)】 今日は在宅。会の諸事なかなか思うようにはかどらず気持ちが落ち着きません。お天気も台風接近で朝から雨で、朝の散歩は無しです。気温は高くないようですが、蒸し蒸ししています。 「若冲と応挙」第32回。応挙の晩期の続きです。◆第3章 円山応挙(続き)3-6 晩期(続き) 図1 悟真寺 応挙は大乗寺の「松に孔雀図」を描いた3ヶ月後、寛政7年(1795)7月17日、63歳で亡くなります。応挙は菩提寺である浄土宗の寺院・悟真寺に葬られました。悟真寺は元々は四条大宮(大宮東映のあった場所)に在りましたが、1951年に太秦の現在地に移転しました(図1)。応挙の墓は悟真寺の墓地に子孫の墓とともに建っています(図2)。墓地の向こう側に見える建物は東映太秦映画村です。 図2 応挙とその子孫の墓@悟真寺(左から応誠、応震、応挙、応瑞、応立) 右の写真は応挙の墓の拡大 墓碑は妙法院真仁法親王揮毫 中央が応挙の墓で、墓碑は応挙のパトロンの一人であった妙法院宮真仁(まさひと)法親王(光格天皇の兄)揮毫です。応挙の墓の向かって右が円山派2代応瑞、応挙の向かって左が3代応震、一番右が4代応立(おうりゅう)、一番左が5代応誠です。 図3 円山応挙家系図(再掲) もう一度、応挙の家系図を図3に示します。応挙の次男・応受も画家になりましたが、母方の祖父木下萱斎の養子となって木下家をついだので、木下応受とも名乗っていました。養子として出たため、ここには応受の墓がないわけです。2代応瑞は子に恵まれなかったのか、応受の子の応震が応瑞の養子になって円山派3代を継いでいます。しかし、この応震も子がなく、友禅工寺井久次郎の子が養子に入って応立として4代を継ぎます。5代は応誠ですが、4代応立との血縁的な関係を調べましたが、よく分かりませんでした。そしてこの5代応誠のあとは、円山家による円山派は続かなったようで、3代応震の妹(国井家に嫁いだ)の子が国井(円山)応文として、円山派一門の後継者となり(応誠同様5代を名乗った)、その子国井(円山)応陽(6代)に引き継がれました。家系図には書かれていませんが、応陽の子・国井(円山)応祥が7代として継ぎ、現在は応祥の縁戚にあたる駒池(円山)慶祥氏(本名駒池慶子)が8代として活躍されています。近年、悟真寺の天井画や襖絵を、慶祥氏の弟子(恐らくご子息)円山真祥氏(本名駒池真)といっしょに描いています。 図4「応挙誕生地」碑 図5「応挙誕生地」碑 @太秦・悟真寺 @亀岡・穴太寺近く (「もっと知りたい円山応挙」から) さて、この悟真寺で「応挙誕生地」と書いた大きな石碑を見つけました(図4)。そのときは、新しく建てられたもののように見えました。応挙は亀岡で生まれたので奇異ですが、京都府生まれという意味では合っているので、悟真寺なりの解釈によるものなのだろうと、そのときは理解しました。その後、亀岡の穴太寺近くの「応挙誕生地」の碑を訪ねたときに、以前の回で述べたように、近年どここかに移築されて無くなってしまったことを知りました。そのときは気付かなかったのですが、あとでひょっとしてと思って、美術書に掲載された亀岡の碑(図5・再掲)と悟真寺の碑(図4)を比べると全く同じ形、全く同じ字形であるのが分かりました。亀岡の碑が移築された先は、太秦の悟真寺だったのです。悟真寺の碑の近くには何も説明書きがなく、これを見た亀岡市民は「応挙は悟真寺近くで生まれたと誤解するじゃないか」とクレームをつけるのではないかと心配しています(続きます)●前回はこちら ●次回はこちらよろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2021/08/09
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2016年9月9日 京都新聞ホームページから 「重陽の節句」の9日、京都市北区の上賀茂神社で厄払いや豊作を祈る烏相撲が行われた。カラスの鳴きまねをする神事の後、子どもたちが元気よく相撲を取った。 葵祭の斎王代西村和香さん(26)が見守る中、本殿南側の細殿前で神事が行われた。白装束の氏子2人が、ご神体の山をかたどった「立砂」の前に鳥のように横飛びで移動。立砂に太刀や弓を供え、「カーカーカー」「コーコーコー」と三度鳴きまねをした。 立砂前の土俵では、真夏を思わせる強い日差しの中、地元の小学1~6年生計22人が2組に分かれて相撲を取った。勝負がつくと集まった見物客からは大きな拍手が起こった。土俵の砂を巻き上げ、力いっぱいに相撲を取る小学生たち(9日午前、京都市北区・上賀茂神社)よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村_____________________________________________________「京都のニュース」カテゴリーhttp://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=20「京都の行事・お祭り案内」カテゴリーhttp://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=32「京都検定過去問」カテゴリーhttp://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=28
2016/09/10
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4月25日撮影の「ツボミオオバコ(蕾大葉子)」@ご近所散歩 です。 オオバコ科オオバコ属の越年草。花期は5~8月。北アメリカからの帰化植物。 別名「タチオオバコ」 他のオオバコの仲間と比べると、硬そうな花穂が特徴。曲がりくねらずに直立します。別名の「タチオオバコ」はここから来ています。 「いつまでも硬い蕾のままのように見える」ので「ツボミ」オオバコと名付けられた、とされています。しかし実際には、花は開きます。 「オオバコ」は「大きな葉」から。 「オオバコ」は、別名ガエルッパ、ゲーロッパ、オンバコともよばれ、弱ったカエルをこの葉陰におくと元気になるという俗説からカエルバともいわれます。 中国では「車前(しゃぜん)草」と呼ばれ、車(牛車・馬車)が多く通る轍(わだち)によく生えることからこの名がつきました。 踏みつけに強く、人などがよく踏む道端などの場所でよく見られる。踏みつけが弱い場所では、高くのびる性質を持たないので、他の草に負けてしまいます。まさに逆境を成長に転じる植物ですね。 葉や種子は咳止めなど薬用になり、若い芽は食用になります。また子供たちの遊びでは、花柄を根本から取り、2つ折りにして、2人が互いに引っかけあって引っ張り合い、どちらが切れないかを競うオオバコ相撲が知られ、スモトリグサ(相撲取り草)の別名もあります。「みんなの花図鑑」サイトで、この草花の名前を教えていただきました。ドラゴンズさんkayu-さん秀さんだよさんうっかりかさごさんオレちゃんさんリンゴちゃんさんありがとうございました。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村____________________________「散歩・草花記」カテゴリー 色んな花が登場します。http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=34
2016/05/24
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2016年5月16日 京都新聞ホームページから 奈良時代に日本に仏教の戒律を伝えた中国の僧、鑑真(688~763年)の像が中国で完成し、16日、鑑真が創建した奈良市の律宗総本山唐招提寺を経て、京都市中京区の律宗寺院壬生寺に安置された。 壬生寺と、鑑真が日本に渡航する前に通ったという中国の文峰寺が「姉妹寺院」にある関係から、日中双方の寺院で鑑真像を安置して遺徳をしのぼうと、日中文化交流協会(事務局・東京都千代田区)の創立60年に合わせて制作された。 像のモデルは、唐招提寺所蔵の鑑真和上坐像(国宝)で、同じ技法を用いて中国で2体を制作。1体は文峰寺に安置し、もう1体は鑑真が日本海を渡ったように、船で日本に運んだ。 壬生寺では、到着した鑑真像を輿(こし)に乗せて本堂に運び入れ、本尊の地蔵菩薩(ぼさつ)立像の脇に安置。中国の僧侶ら約100人を含む計約200人が参列し、中国語による読経もあった。松浦俊海・壬生寺貫主(81)は「鑑真和上は日中友好のパイオニア。その精神を引き継いでいきたい」と話した。来年一般公開する予定。 鑑真は中国の律宗の僧で日本の要請を受けて渡航を試み、6度目の挑戦で日本に渡った。戒律を伝え、奈良・東大寺に戒壇院を建立、唐招提寺を創建した。壬生寺に到着し、輿に担がれて本堂に向かう鑑真和上像(16日午後2時55分、京都市中京区・壬生寺)よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村_____________________________________________________「京都のニュース」カテゴリーhttp://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=20「京都の行事・お祭り案内」カテゴリーhttp://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=32「京都検定過去問」カテゴリーhttp://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=28
2016/05/17
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【2021年5月10日(月)】 今日は修学旅行の予定でしたが、コロナでキャンセルとなり、フリー日となりました。午前中、予約してあった歯医者へ。右上奥歯の被せが完了です。これで終わりではなく、本来治療予定だった、左上奥歯(親知らず)の治療が続きます。 続いてこちらは予約ではないA眼科へ。コロナで空いているかと思ったら、結構混んでいました。GWで休診が長かったからでしょうか。緑内症予備群で3カ月か4ヵ月に一度診てもらっていますが、バラツキが大きいので、断定はできないそうですが、悪くなっていることはなそうです。 帰宅したら、ワクチンの申込案内と予診票が、二人分届いていました。近所の掛かりつけ医に電話での予約を試みました。繋がりにくかったですが、家内が2時間の間、根気よく電話してくれて何とか予約できました。6月には2回目打ち終えることができます。 昨日の読売朝刊から。英国がEUから離脱して、構成国の独立への動きが出ているとのこと。そのニュースの解説として、英国の国旗ユニオンジャックの成り立ちが書かれていました。イングランド、スコットランド、アイルランド3国の国旗の合成だったんですね。よく知れられていることかもしれませんが、私は知りませんでした。「ユニオン」=「連合」ですものね。「ジャック」は船首につける「船首旗」だそうです。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2021/05/10
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【2021年8月11日(水)】 昨日は、午前中、事務所で関係の組織の方々の打ち合わせ。午後からは外に出てお世話になる組織へのご挨拶でした。それが終わって、事務所で諸事。終日外出していました。今日は、終日在宅で、会の諸事です。 「若冲と応挙」の第33回。生涯のお話しを前回で終え、今回は、雅号の由来、肖像画、ゆかりの地についてです。◆第3章 円山応挙(続き)3-7 雅号の由来、肖像画、ゆかりの地 応挙という雅号の由来について触れておきます。 以前の回で、応挙が私淑した一人が、宋から元にかけての中国の画家である銭舜挙(せんしゅんきょ)であると書きました。応挙はその精密な描写力を高く評価し、彼を目標とし、彼に近づこうと努力を重ねたといわれています。それだけではなく、写実を追い求めた円満院祐常も銭舜挙を高く評価していたようです。パトロンとなった祐常が銭舜挙の画力に近づこうとする応挙を見て、「銭舜挙の筆意に応ぜむ」という意味で与えたのが「応挙」という雅号であったといわれています。銭舜挙は銭選とも呼ばれます。応挙は「仲選」という落款印も多く押しています。「仲選」は「銭選に伯仲せむ」という意味だといわれています。図1「雪松図屏風」の落款上の印:応挙之印 下の印:仲選 落款のことについてさらに付け加えると、応挙の作品には「応挙冩」(冩=写)の款記を記したものが多くあります。一般的には「――筆」「――画」「――之図」が使われますが、応挙の作品では圧倒的にこの「写」が書かれたものが多くなっています。「写」には「えがく」という意味もあるので、応挙は「筆」という意味で「写」を使ったとも考えられますが、いわゆる「うつす」という意味で「写」を使ったと考えたいところです。ただ、応挙の「写」は、実物をそのまま写すという意味の「写」ではなく、対象を対象らしく描くという意味の「写」であることは、今まで述べてきたことで推し量ることができます。図1に「雪松図屏風」(以前の回で紹介)の落款を示します。「応挙之印」、「仲選」の落款印と「応挙冩」の款記を見ることができます。 図2 応挙肖像画 山跡鶴礼筆 さて、若冲の肖像画については、生前時に描かれたものは存在しないことを書きました。応挙はどうでしょう。実存します。応挙の弟子の一人である山跡鶴嶺(やまあとかくれい)が晩年の応挙を描いたものです。図2に示します。生前の肖像画なので、こんな風貌だったのでしょう。まじめな人柄のように見えます。 応挙ゆかりの地は、ポイントポイントで説明してきましたが、地図を使って説明したのは、誕生・幼少期の亀岡のみでしたので、ここで現京都市中心部のゆかりの地をプロットした地図を図3に示します。図3 京都市中心部の応挙ゆかりの地(若冲生家、若冲親族菩提寺・宝蔵寺を含む)図4 円山応挙宅跡碑 四条堺町西入ル南側 その中に若冲の生家や親族の菩提寺「宝蔵寺」もプロットしました。若冲生家は錦小路高倉、応挙の自邸はその目と鼻の先にありました(1782年以降は四条堺町。図4の碑が建つ)。応挙のアトリエは浄土宗寺院大雲院にありました。大雲院は現在東山の高台寺に近い「ねねの道」沿いにありますが、当時は今の京都高島屋の場所にありました(図5の碑が残る)。昭和48年、高島屋の拡張で現在地に移転したのです。図5 大雲院跡地碑 四条寺町下ル東側(高島屋裏側) 右端は現・大雲院 東山高台寺近く 「ねねの道」沿い 若冲のアトリエの場所ははっきり分かっていませんが、生家に近い場所だったとすると、応挙と若冲は、1キロも離れていないところで絵を描いていたことになります。ただ、文献上では、応挙と若冲が会ったという記録は残っていません。以前の若冲のところで述べたように、若冲、応挙両名と交流のあった著名人の一人儒学者皆川淇園(みながわきえん)(応挙の絵の弟子でもありました)が、天明8年(1788)に応挙、呉春らとともに石峰寺の石像群を観覧しましたが、そのとき若冲は石峰寺にいなかったと、自ら著した「淇園文集」に書いています。しかし、別の機会に二人が顔を合わせ、言葉を交わした可能性は大きいと筆者は思っています。仮に会わないまでも、互いの絵を目にする機会は多かったと思います。「平安人物志」でも、常に上位を争ってきた2人ですので、互いにリスぺクトし、互いに影響を受けたものと思います。それを窺わせる作品もありますので後述します。 応挙の弟子でもあり、四条派の始祖である呉春の自邸跡が、錦小路東洞院上ル西側にあり、碑が建っています。その碑の建つ場所には、低層マンションがあり、何と「Shamaison 呉春」という名が付いています(図6)。呉春やその弟子たちの多くが四条通付近に住んだので「四条派」と呼ばれます。図6 呉春宅址 次回は、円山派、応挙の一風変わった絵などを紹介します。(続きます)●前回はこちら ●次回はこちらよろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2021/08/11
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第5クール退院後1週間経過しても、食欲不振・味覚異常が戻らない。散歩もちょっとした坂道がしんどい。過去自宅療養中は旧東海道歩きもしていたし、美食を求めて有馬温泉旅行をしたり、娘家族たちとも会食したりしていたのに、雲泥の差である。このままでは快復しないと思ったので、K病院に電話して4月27日(月)急遽診察してもらった。血液検査でとんでもない異常が出た。白血球数は3300/μℓ下限に対して210、ヘモグロビンは下限13.7g/dℓに対して6.6、血小板数が下限15.8x10^4/μℓに対して4.1とズタズタの状態だった。急遽、白血球を増やすための注射と、赤血球(ヘモグロビン)を増やすための輸血をしてもらった。輸血を受けるのは人生初めての経験。その後、CT(造影剤なしの単純CT)撮影。もともとCT撮影は次の第6クール直後に行う予定だったが、第6クールを実施しても同じように血液が危険状態になる可能性も高く、腫瘍を小さくする効果も限られているであろうから、現時点で見極めておこうとのY先生の判断。これには私も賛同。翌日4月28日(火)もK病院に出頭、再度血液検査。ヘモグロビンは若干増えたものの、血小板はさらに減少し、そのうえ、この血小板減少が災いしてか、4月26日(日)の庭いじりで左手薬指にできた傷がひどい状態になっており、形成外科による治療も必要とのことで急遽入院となった。この傷のためであろう、39度を超える体温となっていた。自分では感じてなかったけど。昨晩それほど寒くもないのに、ガタガタ震えたり、ファンヒーターを点けてみたりしたのはそのためだったのだ。前日に撮ったCTの結果だが、「気持ち小さくなっているかな」という程度とのことだった。ショックだが、そんなものかもと思っていたので、あまり気持ちにダメージはなかった。白血球増量の注射を1回、赤血球輸血を1回、血小板輸血を2回してもらった。また形成外科の先生に左手薬指の治療をしてもらった。4月29日(祝)になって、今の血液状態では免疫力が極端に低く、4人部屋では色んな感染リスクが高いので、1人部屋に移りなさいとの指示があり、1人部屋に移った。好中球(白血球の大部分)増量注射、抗生剤の点滴1h×2。左手指の消毒治療があった。4月30日(水)朝採血。その結果を見て、Y先生が来てくださり、血液検査では危険水域は脱したとのこと(下記グラフ参照。でもまだ低い)。で、再び4人部屋に戻った。形成外科の先生による、左手薬指の治療があった。抗生剤の点滴1h×2。夕刻にようやく平熱に戻った。2週間の抗生剤点滴が必要とのことで、5月12日退院の予定。それまで、毎日抗生剤点滴午前中1回、夜1回、左手薬指の消毒剤交換が続く。退院直前に造影CTを撮影し、外科の先生と手術での摘出の可能性も含めて検討するとY先生。でも、手術での摘出は多層腫瘍が小さくなっても臓器に近接していてむつかしいと思う。粒子線治療も消化器に近接していてむつかしい。果たして、どんな解があるのだろうか。食欲や味覚異常は、少しずつ改善している気がするが、まだ、しんどい。←前回「闘病記」 次回「闘病記」→
2026/04/30
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【2015年8月13日(木)】 雨が時折り降る天気でした。三重へのお墓参りを11日にしておいてよかったです。気温はそれほど高くなかったと思いますが、湿度がものすごく高いと感じました。2階で寝室兼書斎でPCを叩いてましたが、温度計は32度でした。32度ならエアコンなしでいけるのですが、今日は汗びっしょりでした。湿度が高かったのでしょう。 京都に数珠巡礼のお寺巡りがあります。加盟しているお寺にお参りしたときに、お寺の名前を彫った数珠玉を買い、それを集めて数珠やブレスレッドにするというものです。二人で洛陽三十三所観音霊場巡りを満願した後、この数珠巡礼を始めたのですが、私の癌発病とともに中断していました。5月初めに粒子線治療を終え、会社も辞めたし、体調もいいし、体力的にも問題ないので再開しました。108で割れる個数で数珠やブレスレッドを作るようです。この前の廬山寺参拝で18個になりました。ビーズ手芸をやっている長女に、ブレスレッドにしてもらいました。 その写真です。これは私用のツゲの数珠玉を使ったものですが、家内用にもメノウの数珠玉を使ったものを作ってもらいました。数珠玉にはお寺の名前が刻まれています。六角堂(頂法寺)、直指庵、廬山寺(2個)、吉峯寺、大報恩寺(千本釈迦堂)黄檗山(萬福寺)、愛宕念仏寺、清浄華院、穴太寺三室戸寺、勝持寺、虚空蔵(法輪寺)、達磨寺(法輪寺)聖護院、化野念仏寺、妙顕寺 マリーンズの岩隈、ノーヒット・ノーランやりましたね。 錦織、もう次の試合ですか。トップ選手のほとんどが出場する、マスターズと呼ばれるシリーズのひとつロジャーズ杯。2回戦で世界ランキング48位のパブロ・アンドゥハール(29=スペイン)と対戦。6―3、6―3で下し、順当に3回戦進出を決めました。マスターズ初優勝を期待します。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/08/13
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京都市民新聞 第880号 平成27年8月1日8月1日~10日 鴨川会場と堀川会場よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/08/04
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【2017年1月17日(火)】月イチの津軽三味線レッスン日。別の投稿に詳しく書きますが、3ヵ月に一度の歯医者の後、車の定期点検で車を預けておいて、レッスンに行きました。 今日で、津軽三味線始めてほぼ1年、13回目のレッスンになります。最初は狙った弦を叩くことができず、本当に弾けるようになるのだろうかと思ったこともありましたが、一日30分から1時間の練習を欠かさず(丸一日外出の日以外)頑張ったためか、何とか弾けるようになりました。 レッスン前の自宅での練習の録音です。・津軽曲弾き(最初の課題曲) ・じょんがら節(2つめの課題曲) ・さくらさくら変奏曲(3つめの課題曲) ・津軽よされ節(4つめの課題曲) 「津軽よされ節」は前回レッスンで楽譜をいただいたもの。前回教えてもらったのは最初の部分だけなので、あとは楽譜と他の生徒さんの前回レッスンの録音を頼りに練習しました。やはり、全く違うところが、多くありました。「津軽よされ節」楽譜 今日は女性の一人(ヤングミセス?)がお休み。小学生の女の子も、だんだん上手になってきました。 いつもはレンタルの三味線を持って帰るのですが、実はネットでマイ三味線を買い、それがもうすぐ来るので、今回は借りて帰りませんでした。 帰りにトヨタディーラーに寄って、車をピックアップして帰宅。帰宅したら、そのネットで頼んでいた津軽三味線が到着していました。 「和楽器市場」というサイトで買いました。本当は、先生経由で買ったほうが確かなのでしょうが、ネットのほうが安いようだし、サイトの内容を読む限りでは、信頼のおける会社のようですので、この「和楽器市場」で買いました。 最初は花梨材の8万円程度の初心者向けと思っていたのですが、これから長く続けていけそうだし、長く続けたいし、良い音で楽しみたいので、少し奮発しました。紫檀材の中級品を買いました。それに調子笛とハードケース。三味線:146,250円調子笛: 1,600円ケース: 12,800円合計: 160,650円 家内に正直に16万円したというと、ちょっと反応が怖いので、家内には8万円くらいと言ってあります。クレジットカードでも決済できたのですが、クレジットカードを使うと家内のスマホにも連絡が入るようにしてあるので、家内がタッチしないネット銀行から振り込みました。手が込んでいるでしょう。私の本名をご存知の方は、家内には是非内密でお願いします。レンタルは月2000円でしたので、約7年続けば元がとれる勘定です。絶対続けてうまくなるぞ~。三味線中央下にあるL字型の白い4つの木片は、三味線は持ち運びするとき、3つに分解できるようになっており、分解したとき、接合部にあてがうものです。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村-------------------------------------------------------------------津軽三味線練習カテゴリー投稿一覧http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=33
2017/01/17
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2016年04月30日 京都新聞ホームページから 急増する外国人観光客を外国語で案内する「京都市ビジターズホスト」の第1期受講生が、研修に励んでいる。定員の10倍の応募者から選ばれた58人で、観光関連の仕事に就く人から主婦まで多彩な顔ぶれ。接客対応や京都の伝統産業や文化財への知識を深めている。■競争率10倍突破の58人 市ビジターズホストは、市内限定で活動できる通訳ガイド。通訳ガイド不足を解消するため、市が育成する。通訳ガイドには通訳案内士の国家資格が必要だが、昨年11月に市が国から独自制度で認定できる「構造改革特区」に認められた。 第1期受講生の定員50人程度に対して555人の応募があった。書類審査と面接を経て、10~60代の男女58人が1月から研修を受けている。対象言語は英語と中国語。 3月には、ガイドを体験する実地講習が行われた。伏見区の伏見稲荷大社や、東山区の祇園周辺で、受講生4、5人がグループとなり、外国人観光客に扮(ふん)した留学生らを英語で案内した。清水寺(東山区)では基礎講習で学んだ歴史などの一般知識に加え、「清水の舞台から飛び降りた人の大半が死ななかったといわれています」など、受講生が自ら調べてきた豆知識も交えながら紹介した。 ホテルコンシェルジュの河上満栄さん(44)=山科区=は、「これまでもお客様には観光プランを提案してきたが、認定を受ければ同行して、より高度な案内ができる」と、おもてなしに磨きをかける。出産前まで英語を使う仕事に就いていた主婦一谷さや佳さん(29)=亀岡市=は、「また英語を使った仕事をしたい。研修は効率よく進むので、時間がない主婦にはありがたい」と話す。 今月から、「文化財」「伝統産業」の分野で専門講習が始まった。受講生は7月の口述試験を経て京都市認定通訳ガイド(ビジターズホスト)に認定される。その後、市がホームページでガイドを紹介し、案内を希望する旅行客や観光事業者とのマッチングに役立ててもらう予定だ。自分で調べた豆知識を交えて英語で案内する「市ビジターズホスト」の1期生受講生ら(3月、京都市東山区・清水寺)ワルディーのコメント 私も応募しましたがあえなく書類選考で落ちました。やはり若い方やガイド経験者が多いようですね。皆さんがんばってください。日本語ですがシニアガイド協会の選考に合格しましたので、私はそちらのほうで頑張ります。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村_____________________________________________________「京都のニュース」カテゴリーhttp://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=20「京都の行事・お祭り案内」カテゴリーhttp://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=32「京都検定過去問」カテゴリーhttp://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=28
2016/05/01
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「京都市内全寺社巡り」2016年6月15日(土)山科区第11日です。 この日は、山科区の最終日のつもりで出かけましたが、出足が1時間くらい遅れてしまいました。◆この日の行程、ルート地図、歩行データを示します。http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/201606150003/ ◆この日の訪問スポットのプロットhttps://drive.google.com/open?id=1wqRukJgmJMZ1ZA79woke1ox4UUs&usp=sharing=============================== それでは山科区第11日の第1回です。 11:10、京阪京津線四宮駅からスタートです。●京阪四宮駅●音羽水路記念碑 三条通を東に歩き、滋賀県から来た国道1号線が南下しだすところを横断して、音羽病院の北側に出ます。 第10日で音羽水路を紹介しましたが、その後ネットで調べたとき、この付近に新しい記念碑があることを発見しました。位置はおおよそしか分からなかったので、少しグルグル歩き回りましたが、ようやく見つけることができました。 第10日で紹介した音羽病院敷地内の北側にある紀功碑の全文(漢文)とその訳文が書いてありました。訳文は次のようになっています。音羽水路 紀功碑文(訳文) 山科村は山城国宇治郡に位置し、その中に23地区があり、東北の2地区を四宮・音羽という。 土地が高く水が乏しく、夏に雨が10日も降らなければ収穫を望めないほどでした。 明治24年5月も日照りが続いた。この時は琵琶湖疏水工事の完成を控え、3つの水門を設けて 灌漑用水に充当した。しかし高い土地はこの利便を受けることができなかった。 音羽地区の長谷川伊之助・中山安次郎・福井清左衛門・粟津太兵衛の四人は協議し、 第1水門から水を四宮・音羽の両地区の田に引きとりあえず間に合った。 しかしこの程度では一時しのぎにしかならないので、四人は自ら折衝して計画を実行した。 明治25年7月15日に起工、工期40日と3,200人の労力を費やし竣工した。 延長60間2分(約1.1km)である。完成するころには誰もが納得し,四人の功績を称えた。 これにより長年の心労から解き放たれたである。 四宮・音羽両地区の南は東野・大塚・大宅の3地区である。 ここに林平治・平井友右衛門という人がいた。 二人は3地区にも用水を引き四宮・音羽両地区と利便を共有したいと四人に相談した。 四人はこれに賛同し翌年に用水路が竣工した。延長1,500間(約2.7km)で数十町を灌漑した。 用水計画の最初からの費用は3,000円にのぼり、田地所有者が負担した。 地区への恩恵は大きなものがある。さらに林・平井の二人がその事業を継承した。 この事業からすでに十年余が経過した。村民は石碑を建てて功績を子孫に伝えたいと考えた。 そこで私に碑文を依頼した。私はこれらの人と事業の功績に感じ筆をとった次第である。 明治41年2月 京都府知事従三位勲一等 大森鐘一…題字 京都府第一中学校教諭 生駒章……文章 発起人 五地区水利関係者建設委員 福井幸次郎 中村濱太郎 福井亀吉 林繁次郎 溝川長左衛門 澤野井勇吉 粟津文之助 阿口政 設置:音羽水路碑を守る会 2002年3月吉日 琵琶湖疏水は、京都市街区の灌漑だけでなく、山科地区の灌漑にも役立っているわけです。近くをその水路が南に向かって流れています。 すぐ上流には名神高速の京都東インターに続く道路が走っていて、その手前で一旦地下にもぐっています。 この道路の北に回ると大きなパイプがありました。おそらくこの道路の建設工事で、水路が地下化され、このパイプで一旦地下に入り、道路を横切ったところで、ポンプにより揚水されているのだと思います。 滋賀県方向の国道1号線から名神高速の京都東インターに入る道路に沿って北に進むと、滋賀県大津市のエリアに入り、旧東海道に出ます。この旧東海道の西進は国道1号線と交差しており、歩道橋を渡ります。●旧東海道 電柱に旧東海道の看板があります。●東海道の車石の説明板と車石 この家の方が自費で立てられたもののようです。●三井寺観音道・小関越道標 この道を北上すると、比叡山の南の小関越という峠を越えて、三井寺に至ります。●再び京都市へ入ります。旧東海道からスタート地点の京阪四宮駅に向かい北に入ります。駅東の踏切を横切ったところに道標があります。●波切不動尊【道標】 [西]波切不動尊参道是ヨリ北へ四丁余 [東]昭和十二年四月不動會 字に赤い朱が入れてあるのが特徴です。北へ四丁(約400メートル)この通り行くと、あとで出てくる一燈園の中を通って山すそまで行きますが、過去、一燈園境内の北方藪の中に「不動尊石仏」がまつられていました。JR東海道線の下をくぐってさらに歩くと、琵琶湖疎水に出ます。東に進むと再び滋賀県大津市に入りますが、疏水第1トンネルの出口が見たいので、東に歩きます。●藤尾橋 琵琶湖疎水にかかる橋ですが、開通当初のものと思われるレンガ造りの部分が見えます。下流側上流側。水門があります。下流の琵琶湖疏水は山裾を流れるところが多いですが、この辺りはいかにも山をU字型に削ったという感じです。●琵琶湖疏水第1トンネル出口 琵琶湖側の三保ヶ崎で琵琶湖から取水され、この出口で京都側に出ます。京都検定の試験にはよく出題される、トンネル出入り口の扁額がこの出口にもあります。「廓其有容」(かくとしてそれいるところあり)。「疏水をたたえる大地は奥深くてひろびろとしている」という意味です。揮毫は山縣有朋。 季節がら草が茂っていて扁額は見にくいです。トンネル出口上から疏水を眺めます。 さらに東に行くと、第1トンネルの中間部に掘った竪坑(たてこう)がありますが、いつか滋賀県側から琵琶湖疎水に沿って山科まで歩くことにして、この日は西に引き返しました。 京阪四宮駅の方向には戻らずに疏水沿いを歩きます。 この辺りになると、疏水は山に沿って流れていくという感じになります。 疏水の北側に一燈園があります。●一燈園本部 一燈園とは、西田天香によって明治末期に設立された懺悔奉仕団体。本部では二百数十人の同人が共同生活しています。また、組織形態としては、財団法人懺悔奉仕光泉林として、建築、出版、農業などの就労をしています。 全国各地で家庭や学校、事業所等を訪問して無償で便所の掃除をすることを活動としていますが、近年は治安も悪くなり一見の客をすんなりと家に入れることが少なくなったため、活動がやりにくくなってきているそうです。 一般企業の新人研修等として、年に数回「智徳研修会」を開いています。私の勤務していたM社でも、ここの方に来ていただいての講演会があったように記憶しています。 ダスキンの創業者鈴木清一が西田天香に師事していたそうです。 作家の倉田百三は一時期、この園で修行し、その体験を元に書いた『出家とその弟子』がベストセラーになりました。一燈園の前をさらに疏水に沿っていくと、トンネルがあります。●諸羽トンネル 第2トンネルではなく、この先の疏水部分の近くを湖西線が通過することになり、山に沿って流れていた疏水をトンネルを掘って流れを変えました。したがって、疏水誕生当時のものではなく、新しいトンネルです。ですので、第1トンネルのように、有力者の揮毫による扁額はありません。以前の流れは埋め立てられて、道になっており、東山自然公園ジョギングコースの一部になっています。●第2疏水トンネル試作物 途中にコンクリートのアーチがあります。明治43年に琵琶湖疏水の北側に第2疏水が造られましたが、水が濁らないように埋め立てトンネルとされました。 このアーチは、第2疏水の建設や維持管理に従事していた作業員が建設技術習得のために、埋め立てトンネルの上部の複製を製作したものだといわれています。●諸羽トンネル出口 右に釣り糸を垂れる人が写っています。 これは何のための構造物なのでしょうか。毘沙門堂に向かう道と交差するところに、安朱三角橋があります。ここで一旦琵琶湖疏水と別れ、南下して諸羽神社に向かいます。(続きます)-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2016/06/18
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2016年7月14日撮影の「タイサンボク(泰山木)」の花後@ご近所散歩 です。 モクレン科、モクレン属。北アメリカの東南部原産。明治初期に日本へ渡来。 花期は6~7月。大輪の「おわん」形のクリーム色の花を咲かせます。芳香があります。 樹高は大きいものは20メートルにもなります。 大きな花や葉を付け大木になる姿を大きな山になぞらえた、山のような泰然とした姿から名付けられたと言われます。また、花が大きな盞(さかずき)の形をしているから「大盞木」と書いてタイサンボクと読む、という説もあります。 「大山木」とも書きます。 残念ながら、開花時期のものは、タイミングを逃して撮れていません。「みんなの花図鑑」サイトに写真を投稿して、名前を教えていただきました。そうじいちゃんさんkayu-さんオレちゃんさん寒がりたー坊さん秀さんだよさんpuramuroiyaruさんこねこさんみぃぷぅさんsazankaさんこだっくさんありがとうございました。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村____________________________「散歩・草花記」カテゴリー 色んな花が登場します。http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=34
2016/08/23
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2016年9月4日 京都新聞ホームページから 中世・戦国時代に京都府乙訓地域の自治を担った武士集団「西岡衆」について学ぶ講演会が3日、向日市文化資料館(同市寺戸町)で開かれた。市民ら約90人が、たくましく時代を駆け抜けた西岡衆の実像に聞き入った。 11月の向日市まつりで「西岡衆武者行列」が行われるのを前に、地元の歴史を知ってもらおうと、市や地元住民らでつくる「むこうし歴史行列絵巻実行委員会」が昨年に続いて開いた。 「戦国・西岡衆の足跡を辿(たど)る」と題して講演した大山崎町歴史資料館の福島克彦館長は、長岡京市調子付近を拠点にしていた調子氏が丹波で別の武将の戦いに協力したことや、現在の阪急電鉄桂駅付近の城主だった革嶋氏が、政変により丹後に逃れたものの、織田信長の越前攻めでの功績が認められて、再び元の領地に復帰したことなどを紹介。「丹波や丹後との関わりの中から、西岡衆のねばり強さがうかがえる」と述べた。 その後、京都乙訓ふるさと歴史研究会の中西昌史さんが歴史紙芝居「西岡衆の活躍」を、スライドで上演。西岡衆の武士たちが、話し合いなどで地域の問題を調整していた様子や、物集女宗入が戦国武将細川藤孝に暗殺された物語を情感込めて語り、会場からは大きな拍手が送られた。丹波や丹後地域との関わりの中から、西岡衆の実像に迫った講演会(向日市寺戸町・市文化資料館)よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村_____________________________________________________「京都のニュース」カテゴリーhttp://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=20「京都の行事・お祭り案内」カテゴリーhttp://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=32「京都検定過去問」カテゴリーhttp://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=28
2016/09/05
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【2016年9月5日(月)】 今日は、多分私の最初の公式の仕事になる、東寺五重塔のガイドの事前説明会に行ってきました。 この秋、東寺が特別拝観をする中で、五重塔と小子房を我々の会が担当するようです。そのうち、五重塔が10月28日~12月4日。勤務は8時から17時ですので、拘束9時間と長いガイドです。 本番のとき、バスで通う予定なので、バスと徒歩で行ってきました。バスは終点の京都駅まで、約45分。そこから徒歩で約1.5キロ。合計1時間15分程度はみておかないといけません。朝6時過ぎのバスに乗らないといけません。N社に通勤していたときと同じような時間に起きないといけないようです。身体がついていってくれるでしょうか。 集まったうち先輩方はほとんどの方が、五重塔のガイドをすでに経験されておられます。概要や注意事項やガイドのポイントは事前に郵送いただいていたので確認済みでした。 最初に先輩責任者の方から、説明を受けたあと、お寺の方に案内いただいて、我々ガイド用の控え室、そして五重塔の中を見せていただきました。その後、昼食をお世話いただくお寺の食堂にも案内いただき、昼食のいただき方を教えていただきました。 団体さんが来られたら要望に応じて5分程度で説明をするようですが、一般の方に対しては、安全の確保と文化財の監視が主で、質問があれば答えるというかたちの案内とのことです。とはいうものの、やはりちゃんと勉強して臨まないといけません。一通り勉強はしましたが、言葉にしてちゃんと案内できるよう、これから訓練していきます。 それから、東寺に行く途中、京都駅のバス総合案内書で、「市バス・地下鉄路線図」と「市バス観光マップ・バスなび」を各2部いただいて来ました。修学旅行のガイドのツールです。 今日の京都は最高気温32.1度と昨日ほどは暑くなかったですが、蒸し蒸しした感じでした。雨が往き帰りに少しだけ降りましたが、大したことはありませんでした。往復と東寺の中を行ったり来たりで、8500歩歩いてました。 家内は一日在宅で、のんびりでした。 【東寺五重塔の勉強】・国宝。 東寺の他の建物の国宝は、 金堂~慶長8年(1603年)、豊臣秀頼の寄進、奉行は片桐且元。 大師堂(御影堂)~1300年代の再建 蓮花門~鎌倉時代再建の八脚門 観智院客殿 - 慶長11年(1606年)の建立。 重要文化財の建造物は 講堂・慶賀門・東大門・南大門・北大門・北総門・宝蔵・灌頂院、同北門、同東門・五重小塔・空海が嵯峨天皇から東寺を勅賜されたとき、塔はまだ建ってなかった。・天長3年(826)空海が創建着手したが、御神木事件などで竣工は遅れた。 御神木事件とは、時の天皇・淳和天皇が病に臥したのは、 東寺造営用の木材を稲荷山から神木を伐り出したことによる祟りとされた。 このため稲荷大明神に位を授け、東寺と伏見稲荷大社の間に御旅所が造られた。 ようやく元慶7年(883)に竣工。 天喜3年(1055)焼亡。応徳3年(1086)再建 文永7年(1270)焼亡。永仁元年(1293)再建 永禄6年(1563)焼亡。文禄3年(1594)再建 寛永12年(1653)焼亡、寛永12年(1644)再建。 徳川家光が寄進。五代目。3年の歳月をかけて再建。棟梁は近江蒲生郡の 大工頭「高木作右衛門」・高さ55メートル。現存五重塔で高さ日本一。2位は奈良興福寺(50.8m)、 3位法観寺(八坂の塔)(38.8m) 最古は法隆寺(34m)、最美は醍醐寺(38m) 京都タワー131m、京都ホテル60m、京都駅ビル59.5m。 相輪は15m。下から、露盤、伏鉢(ふくはち)、受花、九輪、水煙、竜舎、宝珠。相輪(写真は東寺の五重塔ではない)。「受花」が「請花」となっている。出典~http://blogs.yahoo.co.jp/kassy1946/52927953.html・塔とは、古代インドのサンスクリット語のストウバが語源。 中国に伝わり、ソトバ、トウバになり、日本に伝わって「塔」になった。・本来は釈迦如来の遺骨、仏舎利をおさめるためのもの。すなわちお墓。遠くから拝めるよう、 高くしたもの。・中心の一本の四角い柱は「心柱」という。大黒柱ではなく、内部の構造とは独立。 従って柱を抜いても倒れることはない。塔の上の相輪を支える目的のもの。 各層が乾燥で収縮するが、独立した心柱はあまり収縮しない。 そのズレを直すため、元禄5年(1692)に一尺五寸(約50センチ)ほど心柱を切り下げたため、 須弥壇下の心柱の彩色が少しずれている。・地震では倒壊したことがない。一体構造に見えるが、一層の建物を五段に積み木のように 積み上げ。 柱は各層で分かれていて、地震のときに各層ごと互い違いに揺れ動き、倒れる力より、 元に戻る力のほうが強く働く構造。いわゆる「柔構造」 ・心柱を大日如来に見立て、その周囲の須弥壇上に4つの如来(下記)。合わせて五智如来。 阿シュク如来、宝生如来、阿弥陀如来、不空成就如来。 (シュクは門ガマエに人3つ)・四隅の柱の脇に、八大菩薩 普賢、文殊、観音、地蔵、弥勒、虚空蔵、金剛蔵、除蓋障・現在は剥落しているが、須弥壇の回りの四天柱には金剛界曼荼羅諸尊が描かれている。・壁面に「真言八祖像」 龍猛菩薩、龍智菩薩、金剛智三蔵、不空三蔵、善無畏、一行禅師、恵果阿闍梨、弘法大師・その下段には蓮池が描かれている。・四方の扉の内面に護法八方天が描かれている。 扉の左右の柱には仏法を守る、八体の「龍神」が描かれている。 護法八方天 帝釈天(東)、火天(東南)、焔摩天(南)、羅刹天(西南) 水天(西)、風天(西北)、毘沙門天(北)伊舎那天(東北)・天井は折上小組格天井。・長押等にも全面にわたって極彩色の文様装飾。 初層内部出典~http://www.asahi.com/and_M/information/OSK201310010032.html・外側一層めの屋根廂柱間の四隅の「邪鬼」は天邪鬼(あまのじゃく)。 人の言うことの反対をする、人に反発するという性質を利用し、邪鬼の反発する力で初層の 屋根を支える。当時の匠の洒落かもしれないと伝わる。邪鬼出典~http://members.jcom.home.ne.jp/okamoto.n/kotou/kinki/kyoto/toji/toji2.html(内容再考版。原文は非公開日記に移動済み。)-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2016/09/05
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2016年12月21日 京都新聞ホームページから 江戸時代前期の天皇の葬送をめぐり、火葬から土葬への変更に大きな役割を果たしたとされる奥八兵衛を題材にした講演や報告会が、今月と来年2月に京都市内で相次いで開かれる。近年は存在が忘れられていた八兵衛の頌徳(しょうとく)碑が今夏、知恩院(東山区)の境内で確認されたのが契機となり、再び注目を集めている。 天皇の葬送は室町時代中期から火葬が定着していたが、土葬を重んじる儒教を信仰していた後光明天皇が1654(承応3)年に崩御した際、御所に出入りしていた魚屋の八兵衛が火葬に反対。仙洞御所や役所を回って懇願し続けた結果、火葬が中止されたとの逸話が残る。以降、歴代の天皇は土葬が続けられてきた。 頌徳碑は1882(明治15)年に知恩院の境内に建てられた。確認できる記録では、京都新聞社発行の「京都かくれた史跡100選」(1972年)に記述があるが、近年は周辺に建物などが設置された影響で、人目につかず所在が分からない状態になっていた。 京都歴史研究会の吉平裕美代表(59)が今年7月、2回にわたり境内を探し歩いた結果、建立当時の状態で碑が残っていることを確認した。京都の石碑研究の第一人者で元京都市歴史資料館歴史調査担当課長の伊東宗裕・佛教大学非常勤講師(65)は「私も八兵衛の碑を探したことがあったが、結局分からなかった。やっと見つかって、うれしい」と話す。 碑文には、八兵衛の功績とともに、明治期に入って子孫に菊紋入りの銀杯や下賜金が贈られたことなどが記されている。建立主は不明で、有志が建てた可能性がある。 吉平代表による報告会は23日午後1時半から、京都市下京区河原町通五条下ルのひと・まち交流館京都で開催。伊東さんの講演は2月18日午前10時から、中京区丸太町通七本松西入ルの京都アスニーである(要予約)。吉平さんは「現代まで続く天皇の葬送の歴史を変えたとされる八兵衛ゆかりの貴重な碑。多くの人に存在を知ってもらいたい」と話している。奥八兵衛の頌徳碑とその存在を確認した吉平さん(京都市東山区・知恩院)よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村_____________________________________________________「京都のニュース」カテゴリーhttp://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=20「京都の行事・お祭り案内」カテゴリーhttp://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=32「京都検定過去問」カテゴリーhttp://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=28
2016/12/22
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【2017年3月30日(木)】 今日は、「八木邸」の第17日。私の最終勤務日です。 春らしい暖かな一日でした。春休みに入って、ご家族連れや中高生が多く来られました。中高生や小学生は大人と違って、お抹茶なしの選択もできるので、受付でその説明もしなければなりません。修学旅行の場合は、生徒ということは分かるのですが、家族連れや友達同士であれば、ちょっと見では、なかなか判断できません。失礼になる場合もありますが、確認せざるを得ません。大学生だと思ったのに、「えっ、高校生?」ということもあれば、高校生と思ったのに、「えっ、大学生?」という場合もあります。 京都でボランティアガイドをしているという4、5人連れのお客様が来られました。新選組のこともよくご存知だと思いますが、ガイドが終わって、「とてもよく分かりました。金戒光明寺や壬生寺、角屋も訪問して、最後にここを訪れて説明を聞いて、それらの繋がりがよく分かりました。ありがとうございました。」とのお言葉をいただきました。一般のお客様に喜んでいただくのはもちろん嬉しいですが、プロの方に評価いただけるというのは、違った視点で嬉しいものがあります。 さて、ガイド内容の続きです、前回(こちら)、芹沢鴨暗殺のところを書きました。今日は、最終回で、芹沢暗殺後のことです。 毎回書いていますが、新選組については、史実が明確ではないことも多く、ここに書いているのも、諸説あるうちの一つに過ぎない場合もあるということをご承知おきください。【近藤・土方中心の運営】 新見切腹、芹沢・平山暗殺、平間行方不明、そしてその後、野口切腹で水戸系(芹沢一派)は誰もいなくなります。その後は、近藤・土方のラインがきっちり出来、新選組の全盛時代を迎えます。 彼らが八木邸に寝泊まりして、出て行って活躍したのが、池田屋事件、蛤御門の変です。新選組が最も活躍した時期です。しかし、やがて隊士の数が200人を超え、もはや壬生村では収容しきれなくなり、収容能力のある大きなお寺・西本願寺に屯所を移します。元治2年(1865)3月10日のことです。ですので、新選組が壬生村を屯所にしたのは、2年間だけです。しかし、その2年間が新選組が最も活躍した時期です。西本願寺の後、慶応3年(1867)6月15日に不動堂村へ屯所を移します。【江戸幕府消滅・戊辰戦争】 第一次長州征討くらいまでは、幕府側が優勢でしたが、坂本龍馬が仲介するなどして、それまで犬猿の仲だった薩摩と長州が薩長同盟を結び形勢は逆転します。やがて慶応3年(1867)10月14日、大政奉還を経て江戸幕府は消滅します。 しかし、戦いはそこで終わらず、慶応5年(1869)に京都の南で鳥羽・伏見の戦いが起こり、戊辰戦争に突入します。 鳥羽伏見の戦いでは、井上源三郎が40歳で戦死しています。戦いは東に移り、江戸城は無血開城されましたが、上野戦争では原田佐之助が負傷し、それがもとで29歳で亡くなっています。 近藤勇は、甲州勝沼の戦いで敗走し、捕縛され、処刑されます。35歳でした。さらに戦いは北に移り、白虎隊で有名な会津戦争があります。そして、最後は北海道函館の五稜郭の戦い(1869年5月)で幕府軍は壊滅します。土方歳三が、35歳で戦死します。 沖田総司は25歳で病死。藤堂平助は隊を離脱し、油小路事件(慶応3年(1867)12月13日)で暗殺されます。24歳でした。山南敬助も隊を離脱し、新選組の仲間により捕えられ、元治2年(1865年)2月23日切腹。32歳でした。山南敬助のお墓は、八木邸のすぐ北の通りを東に行ったところにある光縁寺という小さなお寺にあり、入ってお参りしていただくことができます。 永倉新八は会津戦争で会津藩が降伏したのを知り、松前藩士に帰参します。結成当初の新選組メンバーの中で唯一人長生きし、77歳まで生きます。明治時代は国賊扱いだった新選組の復権運動をし、東京板橋に近藤・土方のお墓を建てています。【「無事楽太平」の額】 ガイドをする座敷に「無事楽太平」という額がかかっています。書いたのは明治から昭和にかけて活躍した著名な日本画家・橋本関雪です。「無事太平を楽しむ」と読みますが、いつどのような目的で掛けられたものかは伺っていません。私の勝手な想像を書いてみます。 橋本関雪は、明治16年生まれ、昭和20年没です。ということは、少なくとも、太平洋戦争が終わる以前に書かれたものです。恐らく、太平洋戦争が始まる前に書かれたのではないでしょうか。 この部屋は、芹沢鴨の暗殺事件を見ています。そして、八木家に寝泊まりしていた隊士の多くが、戊辰戦争や暗殺、切腹で若くして亡くなっています。二度とこのような悲惨なことが起こらないようにという願いを込めて、八木家の過去の代の方がこの額を掛けられたのではないかと推測します。 しかし、その願いは叶えられず、太平洋戦争では、多くの若い命が犠牲になっています。今度こそ、この額が願うことを、日本だけでなく、世界が実現できるときが来ることを祈願します。(ガイド内容の説明は一旦終わりますが、書き漏らしたことを後日投稿予定です。) 1月10日に始まった計17日に及ぶ八木邸のガイドが終了しました。寒い中での気候的には厳しいガイドでしたが、実に楽しくやりがいのあるガイドでした。養徳院でのガイドも含め、スキルを向上させることができましたし、度胸もつきました。新選組や幕末史の知識を深めることもできました。 いっしょにペアを組んでいただいた仲間の皆さん、総括責任者の方に感謝です。4月から担当の皆さんにも、私が使った「紙芝居」や注意事項、気付き事項をまとめたものを配信でき、区切りもつけました。 季節は移ろい、受付前の桜はまだですが、蕾だった馬酔木(あせび)の花は可愛く咲いています。(内容再考版。原文は非公開日記に移動済み。)-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2017/03/30
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【2017年6月9日(金)】 午後からアスニーセミナー出席でしたので、その前に、6月22日の修学旅行で昼食場所の指定のあった北野天満宮門前の「たわらや」さんに下見に行ってきました。「たわらや」外観私が注文したのは、定番のきつねうどん。混んでいましたが、10分くらいで出てきました。一本うどんが有名です。https://www.athome.co.jp/vox/series/life/23625/pages2/壁には、多くの芸能人のサインメニュースイーツもあります コスパOK。11時半ごろに行ったのに混んでいましたが、料理が出てくるのも早く、回転も速いので、待ちがあっても、それほど待つ必要もないようです。生徒を同伴していれば、ガイドやタクシー運転手は無料になるようです。 私がお店を出た12時頃には、待つ人もいませんでした。あとで北野天満宮で出会った同期の方は11時頃入店したそうで、11時15分には一杯になり、待ちが発生したとのこと。11時開店と同時に入店するか、その一団が食べ終わる12時前が狙い目かもしれません。 お隣の「CASA GRIGIO 914」というお店もオムライスが美味しそうです。 セミナーまで時間があったので、北野天満宮から金閣寺に移動するとき、バスを使わずに、北野天満宮の裏門を抜けて歩いたらどうれくらいかかるか歩いてみました。平野神社や「わら天神」も見ることができるし、ルートを変えれば御土居の史跡も見ることができます。しかし、本殿から金閣寺入り口まで1.4キロあり、25分程度の歩きになり、バスと同じような時間ですが、疲れを考えると控えたほうがよさそうです。紙屋川沿いの史跡御土居御土居から出土した石造物 阿弥陀仏、二尊仏、地蔵仏、五輪塔など 製作時期は室町時代まで遡ると推定される-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2017/06/09
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【2021年7月22日(木・祝)】 今日はもともとから在宅のみの予定で、静養の為、散歩も出かけずです。 「若冲と応挙」の第23回、応挙の円満院時代と呼ばれる時期です。◆第3章 円山応挙(続き)3-3 円満院時代 前回で玩具商尾張屋への奉公がその後の応挙に大きな影響を与えたことを述べました。その一つが「眼鏡絵」を描くことで、西洋の遠近法や細密に描く画技を会得したこということでした。もう一つが円満院祐常の知遇を得たことです。この円満院祐常というパトロンを得て活躍した応挙34歳から41歳にかけての時期は「円満院時代」と呼ばれています。その円満院時代のお話しの前に、応挙が石田幽汀に学ぶ以外にどのように絵を学んでいったかについて述べます。 まず渡辺始興(しこう)の絵を学んだことがあげられますが、円満院時代との関わりが深いので、そのときに述べます。 渡辺始興以外では、沈南蘋(しんなんぴん)があげられます。江戸時代の絵画史のところで、沈南蘋が清から招かれて3年間日本に滞在し、江戸、大坂、京都の三都の画家に大きな衝撃と影響を与え、上方では応挙、蕪村、若冲らが、その影響を受けたと述べました。南蘋の花鳥画には、当時の日本絵画にはなかった独特の写実性があったためです。そのときにも示した南蘋の「枇杷寿帯」をもう一度図1に示します。応挙が南蘋の画法をどこで学んだかはよく分かっていませんが、明和7年(1770)、応挙38歳の頃に描かれた「青鸚哥図(あおいんこず)」(図2)の桐箱の底には、大徳寺孤蓬庵(こほうあん)にあった南蘋の絵を模写したものだと記されています。その他にも南蘋の影響を受けたと思われる作品が多くあります。 図1 沈南蘋「枇杷寿帯」 図2 「青鸚哥図」群馬県立近代美術館 三井記念美術館蔵 戸方庵井上コレクション 図3「花鳥図」 (二幅中の左福) 大英博物館蔵 清より前の宋~元時代の画家である銭舜挙(せんしゅんきょ)の絵にも学んだといわれています。応挙は若い頃ある人の依頼で銭舜挙の花鳥画を模写したところ、本物と見まがうほど精巧な絵を描いて、それがきっかけで彼の名が世に知れるようになったとも伝わります。その片鱗をうかがわせるのが図3の「花鳥図」です。なお応挙という雅号は、この銭舜挙が由来だといわれています。これについては後の回で述べます。 そして応挙は円満院時代へと繋がる1765年(明和2年)、33歳の頃、最初の大作といわれる「淀川両岸図巻」を描いています。図4にその一部を示します。原作は長さ17メートルにもぶ巻物で、京の伏見の舟着き場から大坂城辺りまでの淀川の両岸の景色を流れに沿って描いたものです。途中には雨の降っている場面もあり、大坂城付近では夜の帳(とばり)が下りる頃が表されています。四次元絵画ともいえる作品なのです。そしてよく見ると、巻頭から少し進んだところから、左岸の風景が上下反転しており、図4では左岸の淀城が逆立ちしているのがわかります。上下反転の絵は淀川を舟旅する人の視点で描いたためです。「眼鏡絵」は観察者をあたかもその場にいるような錯覚に陥らせます。この作品は細密な描写も含め「眼鏡絵」の経験が生み出した作品といえるでしょう。これぞ応挙という作品です。図4「淀川両岸図巻」(部分)アルカンシエール美術財団蔵(下は部分拡大) では「円満院時代」のお話しに入っていきましょう。応挙は宝暦13年(1763)31歳のときに、尾張屋に出入りしていた京都宝鏡寺の蓮池院尼公(れんちいんにこう)の知遇を得ます。宝鏡寺は皇女や王女が入寺した尼門跡寺院で、蓮池院尼公は入寺した皇女や王女のための人形など玩具の買い入れのために尾張屋に出入りしていたものと思われます。宝鏡寺には、そういった人形などが今も残されていて「人形の寺」とも呼ばれ、毎年春と秋には特別公開が行われています。 この蓮池院尼公は桜町天皇とその皇后・青綺門院(せいきもんいん)に仕えました。この青綺門院の弟が円満院祐常です。この姉弟の父は、関白を務めた二条吉忠で、祖父が二条綱平です。綱平も関白を務め、尾形光琳、乾山のパトロンでもありました。図5に、これらの人々の関係を示します(後に登場する渡辺始興との関係も含めています)。このような環境に育った祐常は12歳のときに得度して、門跡寺院(皇族・公家出身者が住職を務める寺院)である円満院に入寺しました。円満院は今も滋賀県大津市園城寺町に天台宗系の単立寺院として残っています。祐常は当時流行した本草学(薬用に重点をおいて、植物やその他の自然物を研究した、中国古来の学問)を学び、動植物の写生を行うことで、写実の重要性を身をもって知ることになります。そこに写実を得意とする応挙という画家が尾張屋にいるという情報が、蓮池院尼公、青綺門院のルートで祐常にもたらされたのでしょう。応挙は明和2年(1765)に10歳年上のこの祐常の知遇を得ることになり、祐常は安永2年(1773)に51歳で他界するまで10年近くパトロンとして応挙を支えました。この時代を「円満院時代」と呼んでいます。 図5 応挙と円満院祐常の関係 次回は円満院時代の続きです。●前回はこちら ●次回はこちらよろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2021/07/22
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今日は、私の実家のある三重県への今年初のお墓参り。2人で行ってきました。抗がん剤治療を控えていますが、お墓参りに行くくらいは体力的に問題ありません。15年にわたって、仏壇に祀っていた分骨でしたが、そろそろ本山に納めようということになり、前もって申し込んであった、納骨式も執り行いました。土地・建物・駐車場用地は、一昨年売却しました。母から引き継いだ銀行、証券会社の口座もすべて解約し、資産はこちらの銀行に移しました。あとは墓じまいだけです。以前だったらお墓参りにいくときは、空き家にしていた実家の様子を見て空気を入れ替えたり、駐車場のへの除草剤散布やゴミ拾いをする時間が必要でしたが、今はそれがなくなり、ずいぶん楽になりました。帰りに初詣で、三重県内の椿大神社に参拝に行きました。帰ってから、昨年義母が亡くなったので、初詣に行ってはいけなかったのではと思ったのですが、ネットで「イオンのお葬式」のサイトを見たら次のように書いてありました。************************************そもそも喪中・忌中とは?期間や意味の違いを解説喪中の初詣について考える上で、まず「喪中」と「忌中」の違いを理解することが不可欠です。この二つは混同されがちですが、その意味合いや過ごし方、期間は異なります。特に神道において、死は「穢れ」と捉えられるため、「忌」の期間中は神社への参拝といった神事を控えるというルールが存在します。忌中がいつまで続くのか、神式の考え方に基づいた期間を把握することが、初詣に行けるかどうかを判断する鍵となります。故人を偲び喪に服す期間が「喪中」喪中とは、近親者が亡くなった際に、故人を偲び、自身の身を慎む期間のことを指します。一般的に、期間は故人が亡くなってから約1年間とされており、この間はお祝い事や派手な行事への参加を控えるのが習わしです。具体的には、結婚式への出席や年賀状の送付、新年の挨拶回りなど、慶事を避けて静かに過ごします。神事への参加を控える期間が「忌中」忌中とは、神道の考え方に基づき、死による穢れを他に移さないようにするため、外部との接触を避け、身を清める期間を指します。この期間は故人が亡くなってから50日間とされており、神棚へのお参りや神社への参拝はいけないこととされています。仏教における四十九日(49日)と期間が近いため混同されやすいですが、意味合いは異なります。神道では死を穢れと捉えるため、忌中の間は神域である神社の鳥居をくぐることも控えるべきとされています。この期間が明けることを「忌明け」と呼び、それ以降は通常の生活に戻ることができるようになります。【結論】喪中の初詣は忌中が明ければ問題ない喪中に初詣へ行けるかという疑問への結論は、忌明けであれば問題ありません。したがって、重要なのは忌中がいつ明けるのかという点になります。喪中であっても、忌明けしてさえいれば初詣に行くことは可能です。神社への初詣は忌明けの50日後からが目安神社への初詣は、神道の教えに則り、忌明け後に行うのが基本です。神道における忌中の期間は、故人が亡くなってから50日間と定められています。この50日目に行われる「五十日祭」という儀式をもって忌明けとなり、それ以降は神社への参拝が可能になります。実際に、全国の神社を包括する神社庁も、忌明け後のお参りであれば差し支えないという見解を示しています。伊勢神宮のような格式高い神宮への参拝も同様です。忌中の間は、神域への入り口である鳥居をくぐることも避けるべきとされているため、初詣は必ず五十日祭を終えてからにしましょう。**************************************義母が亡くなって50日以上は経っているので、初詣してもよかったのです。お守りを授かったりするの問題ないとのこと。椿大神社では私の病気平癒を祈ってお守りをいただき、ご朱印もいただきました。私の病気が平癒しますように、そして家族が健康でありますように。
2026/01/06
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前回の「闘病記」で、K病院での第1クールの体重増加は約8kgで、以前のM病院での体重増加は、約2kgであることを示した。この違いはどかから来るのか。M病院での抗がん剤投与プログラムを図式化したデータがあったので、それと同じようにK病院第1クールでの抗がん剤投与プルグラムを図式化してみた。M病院投与プログラムK病院第1クール投与プログラム2つのプログラムの大きな違いを列挙してみる。・M病院の輸液も含めた投与日数は9間であるのに対し、K病院では5日間と短い。 M病院では、抗がん剤投与の前に輸液の投与が16時間程度あるのに対し、K病院では1時間半 しかない。 M病院では抗がん剤投与後、約3日間の輸液投与があるが、K病院では約半日しかない。・M病院では、ドキソルビシン投与時間は1回1時間であるが、K病院では15分と短い M病院では、イホマイドは連続投与で、少しずつ投与するのに対し、K病院では、1日2時間 のみ。・M病院では投与が夜間も含め連続するが、K病院は20:30~10:30は投与はなし。累計投与量の時間推移を比較してみた。M病院の投与時間がK病院に比べ大幅に長いのがこのグラフからも分かるが、K病院の投与期間だけを見ると累計の投与量に大差はない。ただ、M病院は連続投与に対し、K病院は間歇投与なので、M病院はコンスタントに累計投与量が増えていくのに対し、K病院では量が急に増える時間帯が存在する。私はこのK病院の急激な投与量の増加に排尿が追いつかなくて、「むくみ」に繋がっているのではないかと考えた。しかし、脂肪肉腫は希少癌であるため、M病院のときは、ドキソルビシン+イホマイドは初めて使うと言っていた。K病院でも、私がいた病棟では初めて使う抗がん剤だと言っていた。第2クールに向けてK病院に何か提案するにしても、症例の多い病院との比較もしたうえで考察することが必要と考えた。症例の多い病院のプログラムも調べてみる。←前回「闘病記」 次回「闘病記」→
2026/01/26
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K病院での抗がん剤治療第2クールは、2月3日(火)入院、2月9日(月)退院で受けました。第1クールは「むくみ」が酷く、2週間入院1週間自宅でしたが、今回は計画通り1週間入院、2週間自宅のサイクルになりました。とはいっても「むくみ」の状況が大幅に改善した訳ではありません。1月29日の腫瘍内科Y先生の診察時に、できるだけゆっくり点滴投与して、排尿が追いつくようにして欲しいと要望しましたが、第2クールで長くなったのは抗がん剤治療後の3回の輸液投与が、90分から180分(下図の赤丸部分)になっただけで、合計で4時間半延びただけでした。ドキソルビシンやイホマイドの投与時間も短いままなので聞いてみたら、この部分は変えられないとのことでした。病院独自の基準があるのでしょう。これ以上のプッシュは止めました。K病院第2クールのプログラム大きな変更はないといえ、下図のようにK病院第2クール抗がん剤投与終了直後の累計投与量はM病院でのそれより小さくなっていますし、勾配はK病院第1クールより弱くなっています。点滴累計投与量の大阪国際がんセンター、K病院第1C、第2Cの比較体重変化の比較体重の増加量は、K病院第1クール、第2クールとも8kgで変わらずです。ただ、出だしの体重が第2クールが2kgほど減っているので、ピーク時の絶対体重も約2kg減り、第1クールよりはだいぶ楽で、又ズレが起こるほどではありませんでした。あと、第1クールからそうなんですが、口内炎予防のために、ドキソルビシンを投与する際は、口の中を冷たく保つために、氷を舐めながら投与を受けることが推奨されています。第1クール同様、コンビニで氷を買って、ナースステーションで預かってもらって、ドキソルビシン投与のときは氷を舐めながら投与を受けました。そのためにもドキソルビシン投与時間は短いほうがいいのかもしれません。M病院での治療では、こういう話は一切ありませんでした。この方法はクライオセラピー(冷却療法)という療法とのこと。公益社団法人日本薬学会 医療薬科学部会によると、薬物投与開始5分前から30分間程度氷片を口に含み、口腔内を冷やす方法で、口腔内を冷却することで末梢血管を収縮させ、抗がん剤が粘膜細胞に達する量を減少させるのだそうです。今回も口内炎、膀胱炎とも問題ありませんでした。また、食欲不振も苦しむことなく、すべての食事を完食でした。まだ「むくみ」がひどかったですが、第1クールで様子が分かっているので、自宅で早く体重が戻せるよう、錠剤のフロセミドを処方してもらって退院しました。入院日と退院日に血液検査と尿検査があり、副作用で心配される白血球数、血小板数とも問題なく良好でした。節分にはちらし寿司と豆がでましたナースステーションにはかわいい鬼が第3クール入院は、2月24日の予定です。←前回「闘病記」 次回「闘病記」→
2026/02/09
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2016年5月5日 京都新聞ホームページから 天王山中に本殿を構える酒解(さかとけ)神社(京都府大山崎町大山崎)の例祭「神幸祭」が4日、同町内で営まれた。約200人が神輿(みこし)を担ぎ、西国街道沿いを約3時間かけて勇壮に練り歩いた。 神輿巡行は2年に1度。地元の青年たちでつくる「敬神会」を中心に、御旅所(大山崎区民会館)を発着地に西国街道沿いを往復する。トラックや台座で巡行する祭りが多い中、伝統に倣って今なお全行程を人の手で担ぐ。より多くの人に見てもらおうと、今回からコースにJR山崎駅を追加した。 「ワッショイ」の掛け声とともに、約20人の担ぎ手が20~30秒ごとに入れ替わって神輿を進め、大山崎小、阪急大山崎駅前、離宮八幡宮などを回った。沿道の人たちは、写真を撮ったり、手拍子をしたりして巡行を見守った。 敬神会の筒井憲行会長(51)は「習わしを守って続けてきた祭り。町民たちが久しぶりに顔を合わせる交流の場でもある」と話す。約10年前から担ぎ手として参加する今村忠隆さん(29)=同町大山崎=は「父が神輿を担ぐ姿を見て育った。先祖代々参加している人も多いんです」と笑顔を見せた。JR山崎駅前で神輿を高々と持ち上げる担ぎ手たち(大山崎町大山崎)「ワッショイ」の掛け声とともに西国街道を練る神輿(大山崎町大山崎)よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村_____________________________________________________「京都のニュース」カテゴリーhttp://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=20「京都の行事・お祭り案内」カテゴリーhttp://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=32「京都検定過去問」カテゴリーhttp://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=28
2016/05/06
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