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2006/02/18
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カテゴリ: 環境問題について

指先の感覚だけで、机の上の髪の毛を発見することなどは朝飯前だ。
熟練した旋盤工は0.00何ミリという高精度の機械でしか測れない世界を、指先の感触で見分けるという。

動物が五感を発達させるのは、「生きるため」である。
危険を察知し、生きることに有効なものとそうでないものを見分けることが必要になる。
住む場所、天敵の種類などによって、触覚を発達されるもの、聴覚を発達させるもの、嗅覚を発達させるもの、
様々である。
人間もその例外ではない。

私は生物学者でもなんでもない一般人なので、あくまでも「私見」として読んでいただければありがたい。


生きるために必要な以上の感覚、プラスαの部分こそが人間を人間らしくさせているのではないか。
そのプラスαが、人間の「創造力」の源に違いない。
人間は、生きることのみを目的にするのではなく、「生きがい」を求める。

生きることだけに精一杯では創造力は生まれない。
生きることに精一杯でも、秋になれば祭りを行い、正月になれば新年を祝い、折に触れ暮らしの中に楽しみを見出してきたのが人間の営みだ。
そしてそれは弥生時代でも、縄文時代でも、あるいはもっと古い時代でも同じだったと思う。
指先の絶妙な感覚が数々の道具や工芸品を生み、視覚が芸術性を高め、味覚の発達が「生きるために食べること」を楽しみに変えた。
聴覚は「音楽」を生み、嗅覚は味覚とも一緒になって、暮らしにふくらみを与えた。

五感というのは、自分自身と外界との接点に違いないが、人間はそれを自分の中に取り込んで「自分のもの」にしてしまう能力を持っている。
すばらしい景色を見たり、すばらしい音楽を聴いたりすれば感動する。
それは、五感を通して入ってくる情報を「こころ」が処理するからなのだろう。


と、ここで、現代の日本社会を見てみよう。

テレビはどんどん大型化し、目からの情報は溢れんばかり。
若者は常に耳元にスピーカーを置き、お気に入りのナンバーを口ずさむ。
グルメ情報も街に溢れ、A級B級の差はあっても、誰もが料理評論家だ。
まさに、「中毒」ではないかと思われるくらい、視覚や聴覚や味覚を刺激するものが溢れている。


情報の過多は、情報に対する人間の繊細な感覚を奪ってしまうのではないだろうか?
積極的に情報を取りに行かなくても、強制的に与えられてしまう。
特に目と耳から入ってくる情報の多さは異常なほどだ。
このことが、かえって鈍感な人間を作り出すことに繋がっていないだろうか?

また、情報過多の一方で、「直接体験」は減っている。

直接体験とは、読んで字の如く自分自身の体験である。
現代の社会は、情報が過多である一方で、人間の行動だけを抑制しようとする。
危ないと思われる場所には近づかない。
危ないことはしない。
自分自身で判断して選択しているのならまだいいが、実際には親や教師がそうさせている。
危ないと思われる場所には近づかせない。
危ないかもしれないことはさせない。
結果的に、危険であることを自分自身では判断できないようになってしまうのではないかと心配になる。

学習で最も効果的なのは「痛い目にあう」ということだ。
まさしく直接体験である。
小さな痛い目を重ねて学習していくから、「大きな痛い目」を避けることが出来る。
今の人間は「過保護」な世の中で生きているので、痛い目にあったときには取り返しがつかなくなってしまう。
手を切ったこともない子どもたちが突然手首を切ったりする。

氾濫する情報を自分なりに整理する力は「直接体験」からこそ生まれると思う。
そう、肌で感じること。
寒さ、痛み、温もり・・・・。
情報過多の時代だからこそ、自分の手の感触を大切にしたい。


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Last updated  2006/02/18 01:52:47 PM
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