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あちこち寄り道をしてやっと目的地に到着しました「茨城県天心記念五浦美術館 HP」天心記念五浦美術館は、岡倉天心や横山大観をはじめとする五浦の作家たちの業績を顕彰するとともに、優れた作品が鑑賞できる美術館として平成9年11月8日に開館しました。 五浦海岸は、日本美術院第一部(絵画)が移転し、岡倉天心や五浦の作家たちが活躍した歴史的な地です。五浦海岸近くには、今でも当時をほうふつする六角堂や日本美術院跡地をはじめとする史跡が点在しており、散策を楽しむことができます。と、まぁ、天心記念美術館の説明ですが横山大観、菱田春草、木村武山、下村観山と明治から大正、昭和へと美しい日本画を描いた超有名な作家たちの作品や生涯が分かる美術館です。今回の企画展は「顔」なかなか面白い展示でしたよ。何が良いのかは分かりませんが、こうして美術館賞をしているといろいろな事が見えてきます。その時代背景や当時の人々の思いなど‥芸術の秋ですから美術館巡りは私に何かを教えてくれる特別な季節です。岡倉天心は、近代日本画の発展に大きく貢献しました。その足跡がよく分かる岡倉天心の展示室もあります。この美術館が好きな理由があります。それは‥絵画用の画材がいつで見る事ができるからです。こうした絵の具や紙、筆、容器など流石に、日本画を本格的に描くとなると用意する道具だけでも大変な高価なものを使うことになります。小学生のお絵かきとは全然、違うのですね〜まぁ、当然と言えば当然ですが‥絵の具だけ見ても手が出ないほど高価ですよ。美術館巡りのお楽しみは館内に掲げられているポスターです。今まで、こんなのを企画したとか今、近隣の美術館ではこんなのを開催してますよとかそういう情報が得られるのがとても嬉しくて今度は県外に行ってみようかしらと思います。美術館は丘の上に建っていて庭に出ると太平洋が一望できます。館内から外を見るとき窓に必ず付いているのがこのマークです。岡倉天心の横顔です。大凡、海へ向かっている窓には全部、付いています。外に出るとハマギクが満開に咲いていました。美術館を見てから少し周囲を散策しましょうか‥少し歩けばまた何かと遭遇するかもです展望台を見つけました。上まで上がれるようです。風が強いけれど登ってみることにしました。絶景ですね〜〜〜しかし、海風が強くて飛ばされそうです。誰もいないしもし、万が一、落ちたらどうしましょう凄い波が岩に打ち寄せて轟音が足元からやって来ます。遠くに「六角堂」が見えています。ごつごつとした岩がそびえる五浦の、崖の上の赤い小さな建物。岡倉天心の六角堂です。それは松のかげにひっそりとたたずむようにも、太平洋に向かって誇り高くおのれを主張するようにも映ります。この六角堂も3.11で流されてしまいようやく再建されました。しかし、ここは、夏場は涼しくて良いのかもしれないけれど冬は凍りついてしまうほど寒く荒く冷たい海の飛沫がかかる場所でもあります。日本美術院のロケセットが見えてきました。この写真はとても有名ですがロケセットの中にはほとんど同じように人形が展示されていました。ここで「映画 天心」は作られたのですね。五浦海岸は荒々しい‥でも美しいところです。日本美術に触れながらだいぶ歩きましたおっと‥ランチタイムをかなり逃してしまいましたよ〜どこかでいわゆる「美味しい地元の料理」を頂きましょう‥まずは、そういうお店を探さなくちゃ‥明日につづく‥にほんブログ村
2024.10.14
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「天璋院」は江戸幕府第13代将軍「徳川家定」の正室で、「篤姫」の名で知られる人物です。2008年(平成20年)に放送されたNHK大河ドラマ「篤姫」の主人公で、女性層から支持を得て高視聴率を記録したことでも大変話題となりました。ところで、江戸幕府は第3代将軍「徳川家光」以降、将軍の正室には皇族か公家の娘を迎えるというのが慣習になっていました。では、なぜ篤姫は、大名家の出身でありながら将軍家に嫁ぐことができたのでしょうか。その前に篤姫の生い立ちを軽く説明しておきます。1835年(天保6年)に薩摩国(現在の鹿児島県)の今和泉(現在の鹿児島県指宿市)の領主である「島津忠剛」の長女として誕生しました。生母は島津一門出身の「お幸」で、幼名は「一子」(かつこ)と名付けられています。外様である島津家には特殊な前例があり、第11代将軍「徳川家斉」の御台所である「広大院」は、もともとは「茂姫」という薩摩藩島津家の娘でした。島津家は五摂家、筆頭の近衛家と、鎌倉時代から深い関係を築いていました。そこで、茂姫は近衛家の養女となり、将軍家に嫁ぐのにふさわしい家柄となったことで輿入りを成立させます。篤姫も茂姫と同様の手順を踏みました。大河ドラマの中でも篤姫の台詞にありますが「私は父上が3度も変わるのですね。」そうですね。島津今泉家の長女から島津本家島津斉彬の養女、そして、京都の近衛家の養女です。あっそうそう「広大院」はあの、たっくさん子供を産ませた11代将軍家斉の正室です。さて、篤姫が縁談の準備をしていた頃、世の中では黒船来航や、天保の改革、蘭学者弾圧、第12代将軍の「徳川家慶」が亡くなるという混乱が続いていました。これは、大混乱ですね。縁談話が持ち上がってから5年が経った1856年(安政3年)11月にようやく篤姫は正式に将軍である徳川家定の正室となりました。こうして、篤姫は22歳で将軍家へ嫁ぎました。嫁いでからも慣れない大奥生活を送るうちに1858年(安政5年)7月に将軍の徳川家定が急死し、この直後に養父の島津斉彬も亡くなってしまいます。篤姫が輿入りしてから、まだ1年9ヵ月しか経っていませんでした。悲しみに暮れる篤姫は、24歳という若さで落飾し「天璋院」となるわけです。そして、あの井伊直弼がこう唱えるのです。「公武合体」1862年(文久2年)には将軍職を継いだ「徳川家茂」が正室を迎え、大奥に新たな波乱を巻き起こしります。幕府の公武合体政策の一環で輿入りした「和宮」は、「仁孝天皇」の皇女であり、姑である天璋院は家柄の差から和宮との関係に悩やむことになります。この辺りがよくドラマで演出されて面白く演じられます。第14代将軍 家茂も若くして1867年(慶応3年)に病死してしまいます。徳川家茂の跡を継いだ最後の将軍「徳川慶喜」が「大政奉還」を行い、大奥の天璋院と和宮は薩摩や朝廷へ徳川救済の嘆願に奔走しました。そのあと、江戸城の開城を前に大奥から立ち退き、34歳の天璋院は幕府解体後も江戸に残る選択をしました。一橋家の屋敷内で暮らし13代将軍の実母 本寿院14代将軍の実母、実成院の面倒もよく見ていたと記録されています。篤姫は大奥最後の日まで大御台所として江戸城の最後を見届けることになりました。まぁ、こんなにも波乱の人生を送った女性も少ないと思います。時代が大きく変わる、その一番の要因は「身分制度」が無くなったことのように思います。江戸時代もいよいよ終盤です。大奥は13代将軍、14第将軍、最後の将軍とあっという間に過ぎてゆきます。次回は、公武合体や桜田門外ノ変なども交えながら、江戸時代を学んでいきたいと思っています。にほんブログ村
2024.10.04
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カマキリ「拝虫」「蟷螂の斧」「鎌切」かまきりが庭の躑躅の木に隠れるようにじっとしていた。カマキリは、他の昆虫などの小動物を捕食する肉食性の昆虫である。おやもう1匹色違いのカマキリが隣のサツキの木に潜んでいた。我が家の庭にはつつじ、サツキが交互に植っている。Blogを書いていてふと、ひらめいたツツジとサツキは花が咲くと見分けにくい花。咲く順番から言えばツツジが先に咲いてそのあとサツキが咲く。まっ、文字通り「サツキ」は「皐月」の頃近くに咲く。最初のカマキリはツツジの上。2番目の茶色のカマキリはサツキの上。お気づきだろうかツツジの葉は少し毛羽立っていて葉に照りが無い。サツキの葉は毛羽立っていないが葉に照りがある。ツツジとサツキの見分け方は葉っぱだけでもよく分かる。この隣同士の木の上に居たカマキリが移動したのです。おやおや同じツツジの木に移動してきて何をするのやら‥ず〜〜っとカマキリを観察するほど私も暇ではありません。出来るだけ、桜の葉っぱを掃き出さなくてはならないので、そこから離れてしばらくすると茶色のカマキリだけになっていました。昆虫‥虫ってどれくらいの数が地球上にいるのだろう‥ちょっと調べてみました自然科学は大好きですので大凡の見当は付きましたが今、分かっているだけでも地球上に生きている生物の数は物凄い数。その中でも「昆虫」は膨大な数でした。さて、ちょっと難しいかもしれませんがこれから私の得意分野のお話です。(上の写真は小学館のHPからお借りました)これまでの地球創生46億年の歴史の中で、多数の生物種が生存できなくなる「大量絶滅」の時代が何度かありました。主なものとして、オルドビス紀末(約4億3500万年前)、デボン紀末(約3億6000万年前)、ペルム紀末(約2億5千万年前)、三畳紀末(約2億1200万年前)、白亜期末(約6500万年前)の5つが知られています。通称「BIC 5」と呼ばれています。 地球上の約9割以上の生物種が絶滅したペルム紀末や、隕石や彗星などの天体の衝突が原因として有力視されている恐竜の大量絶滅がありました。白亜紀末などをはじめ、自然状態で起こった絶滅はいずれも数万年から数十万年の時間がかかっており、その絶滅速度は年に『0.001種程度』であったと考えられています。 これに対して、現在の人間活動によって引き起こされている種の絶滅は、過去とは比較にならない速度で起きていることをご存知でしょうか1600年~1900年には1年で「0.25種」だった生物種の絶滅速度は、1975年以降、1年に「40,000種」と急激に上昇し続けています。ちなみに今の地球上の生物の総数は分かっているだけで870万種。植物がこの内の400000種で哺乳類は6000種、昆虫は、なんと1000000種です。人間の総数は地球の総生物量の0.01%にすぎず、誤差として無視できるほど僅かです。昆虫は100万種もあるのですから哺乳類とは桁が三桁も違うと言うことになります。苦手な虫たちの暮らしの上に私たちの暮らしがあると言っても過言ではありません。また、この中には菌類は含まれていませんから本当にヒトの数など取るに足らない数です。そのヒトが地球上の多様な生物を絶滅に追いやっています。地震、噴火、台風、津波、潮の満ち欠け高気圧、低気圧、偏西風、貿易風などこうしたものは地球の最初の頃からあった地球本来の営みとも言えるでしょう。地球の営みの凄さは今、皆様も感じている筈です。たった一夜で猛暑の夏から秋めく季節がやってきました。日中はまだ暑いかも知れませんが朝晩は、めっきり秋になっています。自然の営みとはこういうことです。人間はどうしたことか自然と共存することが大の苦手なようで自分勝手に他の種を絶滅させていることは間違いのないことで世界中が問題視している「地球温暖化」「地球沸騰化」も人類が地球に対して故意に行っている所業の積み重ねです。昆虫の数の多さを見ているといずれ、人類が絶滅しても昆虫たちは、この地球で生きていけるのような気がします。植物も同様に生きていくことが出来ると思います。人類が絶滅しても地球にとって悪いことはないと思いますし大した数の絶滅ではないと思っています。構造的に見てもヒトは自ら己を守る装置を持ち合わせていません。飛ぶことも泳ぐことも走ることも危険を察知することも得意とせず身体能力的にもかなり程度の低い動物です。せっかく大きな大脳を持つことが出来たのだから、せいぜい頭を使って地球に住むのに相応しい存在に進化していって欲しいと思います。(まっ、無理だと思うけれど‥)電気毛虫もカマキリも我が家のニャンズも私よりずっとずっと優れていると思う。全身を毒針で我が身を守ったり‥上手に擬態して木の葉に似せてみたり‥瞬発力が高くどんな形にも添う体の柔らかさだったり‥みんな、スゴいなぁ〜みんな、素晴らしいなぁ〜小さな我が家の庭で起きていることはきっと宇宙のように暗黒で複雑で無限の未来が待っているような気がする‥ただ、私はそれを未遂げけることは出来ません。にほんブログ村
2024.09.28
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動くアート‥つくる展‥よく分かりリませんが取り敢えず、近代美術館に行ってきました。「茨城県近代美術館HP」なんだか何を言わんとしているのかやっぱり分かりませんでした赤い四角が動く白い猿がピアノを弾く光の三原則‥文字色が変わり文字が大きくなったり小さくなったり‥香りの違いで音色が違う部屋‥香りなのか音色なのかよく分かりません。こういうのって多分、どこかのカッコイイビルのエトランスなどに飾られると興味を引く人もいるやもって感じ‥ワークショップでは‥紙コップで何かを作る子供がいっぱいでしたもしかしたら‥もしかしたら‥夢ですが‥この中の誰かが芸術家とかデザイナーになるとか頑張ってねーしかし、美術館なのに非常に騒がしい‥子供はどこでも走り回って騒がしい親は全然怒らないし叱らない‥早々にこの場所から私は退散です静かな常設展のエリアに移動しましょうか‥明日はほとんど人のいない常設展をご紹介です。あ〜〜静か‥芸術、美術は素晴らしいつづく‥にほんブログ村
2024.09.22
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自然博物館ですから今現在、身近に居る動植物も展示されています。とは云え‥そうそう、間近に見られるものでもありませんね〜例えば狸とか‥狐とか‥梟とか‥日本カモシカとか‥それから蝶々の標本もありました。キノコのコーナーもありますよーギンリョウソウも見頃でした。ちょっと変わっている動物もありました。これは、羊歯類ではありません。これは動物です。海羊歯の仲間です。どう見ても動物には見えませんねでも動くのでやっぱり動物ですね〜皇帝グソクムシもいます。これは、とても大きくて50センチぐらいはありました。これは、グソクムシの裏側です。この自然博物館は茨城県にあるので茨城県の自然の成り立ちも紹介しています。私が写真をよく撮る筑波山のことも詳細に研究されていました。地形や地質を学ぶことは災害に対してもハザードマップよりもずっと奥深く知ることが出来ますね。さぁ、そろそろランチタイムにしましょうか‥館内には飲食出来るスペースが2種類あります。レストランとセミナーハウスです。私はレストランでランチです。12時を回ったところですからきっと混んでいると思いました。おや完全にセルフですね〜食券はタブレットで購入します。その番号が店内に何箇所も表示されているので自分の番号が表示されたらカウンターに取りに行きます。11時にオープンして1時間余りで、もう1300食以上もオーダーが入っているのですね私は、特製の冷やし中華を注文しました。外の庭がこう見えるのねーとてもロケーションの良いレストランです。野菜も鶏肉も地元のものを使って作られています。お味は、少し薄味でしたが野菜や筑波地鶏の滋味がよく出ていました。お腹もいっぱいになったしまた、博物館内をゆっくり見て知らないことを知りたいと思います。と言うことで自然博物館でのテクテクウロウロフムフムは取り敢えず、お終いですお付き合いいただきましてありがとうございました。にほんブログ村
2024.08.28
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植物は10億年前の海にいた緑藻類という藻の仲間がおよそ5億年かけてコケ類や羊歯植物に進化し、水辺に広がりました。海から陸への進化です。だいぶ以前に「地球環境学」という学問をしたことがありました。地球の環境今、この言葉を耳にすれば地球沸騰化とか気候変動とかを思い浮かべますが私が学んだ「地球環境学」は陸上に酸素が満ちた時までの学問でまだ、恐竜が生まれる前の地球のダイナミックな環境変化のことを言います。自然博物館ではちょうど「羊歯」を企画展示していました。シダ‥イイですね〜地球の歴史は約46億年、地球に生物が現れてから40億年、陸上に住むようになってからは、まだ5億年くらいだと言われています。生物にとって、陸上での歴史は思っているよりも非常に短いのです。その生物全体の生活を支えているのは植物です。植物の歴史を知ることは、ヒトを含めたすべての生物の歴史を知ることになります。光合成によって酸素を生産するバクテリアは、およそ27億年前から活動を始め、最初は水中に、それから大気中に酸素が蓄積されました。シアノバクテリア、あるいはランソウ類と呼ばれる、光合成をするバクテリアが酸素を作ったのです。現在シダ植物は1万種あり、中には巨大な木生シダもあります。シダとコケは胞子で増える植物です。陸上の植物の分かりやすい進化の仕方が図に表されていました。改めてこうした図を見ると私たち動物は植物が無くては生きてゆけないことを知ることが出来ます。恐竜が栄華を誇った中生代は大凡1億7千万年も続きました。この時代に、生物も生態系も大きな変化を遂げました。恐竜の時代にはまだ被子植物が進化していないため、草食恐竜たちのエサは、すべて、シダ植物と裸子植物ということになります。つまり、まだ花は咲いていないのです今ではこんな風にコケやシダを楽しむ方法も展示されていました。素敵なインテリアになりますね。シダやコケは我が家にも勝手に育っています。ガラスの器に入れて水分を与えて薄暗くしておけば良いのかしら作ってみようかな〜なんて思いました。またまた明日へ続く‥にほんブログ村
2024.08.27
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中生代は、陸海空、それぞれに生息エリアを広げる様々な生物たちの生態が進化してゆく時代です。そして、主役となるのは、人気の高いスター勢揃いの恐竜時代。恐竜の名前はかなり読みにくいし覚えづらいのに子供達は全部知っているほどで今、流行りの言葉でえ云えば子供達は、それぞれ「推し」の恐竜がいるらしいですね〜ティラノサウルス、トリケラトプスにプテラノドン、ブラキオサウルスやステゴサウルスなど。ここに展示されている恐竜は動いて声も出すので子供達がいっぱいおりました。恐竜とは何かそれは、「直立する爬虫類」である。と、今では定義されています。そこに「鳥類を含む」と加えれば、より今日的な定義になります。海の生物で巨大なサメ。サメは、約4億年前の古生代デボン紀に遡ります。恐竜よりも古いのですよ。現代のサメの原型は中生代に現れたといわれています。サメは出現したときと現在とほぼ同じような姿をしていて以来あまり大きく変化していないので生きた化石と呼ばれることもあるそうです。海の中は陸よりも多様な生物が進化を繰り返しているのはご存知の通りです。中生代の陸上が恐竜で代表されるように、古生代から中生代の海を代表する人気の高い生物はアンモナイトです。それとオウムガイも人気が高いです。人類が登場するのはまだまだ先の話で毎度、Blogでも書いている通り人類など出現したのはついこの間のことでそれほど、歴史も持ち合わせていません。ヒトは地球の環境を自分勝手に変えている他のモノと共生共存が出来ない生き物ではないかと‥不安要素の多い動物ですねーちなみに皆さんがお嫌いなゴキブリが出現したのは、今から約3億年前の古生代石炭紀でよく考えてみれば私たちよりも随分な大先輩になる生きた化石と言っても過言ではありませんね。古生代&中生代の生物を堪能しました。次は、私たちがこうして生きていける根幹を成してくれている植物の世界を垣間見ましょう。つづくにほんブログ村
2024.08.26
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昨夜の台風通過時は少々怖かったです朝から気温がぐんぐん上がってまたもや猛暑で酷暑が戻ってきました。今日の最高気温は36度‥ただ、湿度が高いのです。雨がたくさん降ったので湿気に覆われていて体感温度がものすごく高いのですよ〜盆飾りを片付けました。これを全部、解体してまた箱に入れて軽いけれど大きな箱を3つも納戸に仕舞う作業はなかなかに面倒ですが来年は出来るかどうか分かりませんね〜キレイに片付けが終わるといやはや、広間がサッパリしました。今日は暑くて外へ出る気はしないのでこのまま、お床の室礼を「送り火」からまた違うものに変えます。その前に‥8月15日の友人との話を少し書こうと思います。戦争のことを書くのは8月6日〜15日ぐらいまででしょうか‥TVやその他のメディアでも取り上げられるのはこの期間ですね。我が家には「終戦の御詔勅 写」があります。友人と一緒にこれを最初から声に出して読んでみようと思い立ちました。が‥漢字も旧漢字ですしとてもとてもスラスラと言うわけにはいきませんでした。「国立公文書館デジタルアーカイブ HP」というページに残されているものと全く同じものです。読みやすい原文をネットで見つけました。改めてここにそれを載せます。原文朕(チン)深ク世界ノ大勢ト帝国ノ現状トニ鑑(カンガ)ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ収拾セムト欲シ茲(ココ)ニ忠良ナル爾(ナンジ)臣民ニ告ク朕ハ帝国政府ヲシテ米英支蘇四国ニ対シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ抑々(ソモソモ)帝国臣民ノ康寧(コウネイ)ヲ図リ万邦共栄ノ楽ヲ偕(トモ)ニスルハ皇祖皇宗ノ遺範ニシテ朕ノ拳々(ケンケン)措カサル所曩(サキ)ニ米英二国ニ宣戦セル所以(ユエン)モ亦(マタ)実ニ帝国ノ自存ト東亜ノ安定トヲ庶幾スルニ出テ他国ノ主権ヲ排シ領土ヲ侵スカ如キハ固(モト)ヨリ朕カ志ニアラス然ルニ交戦已(スデ)ニ四歳(シサイ)ヲ閲(ケミ)シ朕カ陸海将兵ノ勇戦朕カ百僚有司ノ励精朕カ一億衆庶ノ奉公各々(オノオノ)最善ヲ尽セルニ拘ラス戦局必スシモ好転セス世界ノ大勢亦我ニ利アラス加之(シカノミナラズ)敵ハ新ニ残虐ナル爆弾ヲ使用シテ頻(シキリ)ニ無辜(ムコ)ヲ殺傷シ惨害ノ及フ所真(シン)ニ測ルヘカラサルニ至ル而(シカ)モ尚交戦ヲ継続セムカ終(ツイ)ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招来スルノミナラス延(ヒイ)テ人類ノ文明ヲモ破却スヘシ斯(カク)ノ如クムハ朕何ヲ以テカ億兆ノ赤子(セキシ)ヲ保(ホ)シ皇祖皇宗ノ神霊ニ謝セムヤ是レ朕カ帝国政府ヲシテ共同宣言ニ応セシムルニ至レル所以ナリ朕ハ帝国ト共ニ終始東亜ノ解放ニ協力セル諸盟邦ニ対シ遺憾ノ意ヲ表セサルヲ得ス帝国臣民ニシテ戦陣ニ死シ職域ニ殉シ悲命ニ斃(タオ)レタル者及其ノ遺族ニ想(オモイ)ヲ致セハ五内(ゴナイ)為ニ裂ク且(カツ)戦傷ヲ負ヒ災禍ヲ蒙(コウム)リ家業ヲ失ヒタル者ノ厚生ニ至リテハ朕ノ深ク軫念(シンネン)スル所ナリ惟(オモ)フニ今後帝国ノ受クヘキ苦難ハ固ヨリ尋常ニアラス爾臣民ノ衷情モ朕善ク之ヲ知ル然レトモ朕ハ時運ノ趨(オモム)ク所堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ万世ノ為ニ太平ヲ開カムト欲スでもやっぱり全然、スラスラとは読めません。友人も私も思ったことは当時、玉音放送を聞いた人たちはこれを聞いて深く意味を理解したのでしょうか‥【終戦の詔書(現代語訳)】私は、世界の情勢とわが国の現状とを十分に考え合わせ、非常の手立てをもってこの事態を収拾しようと思い、私の忠義で善良な国民に告げる。私は政府に対し、アメリカ、イギリス、中国、ソ連の4カ国に、四国共同宣言(ポツダム宣言)を受諾することを通告させた。そもそもわが国民が健やかに、安らかに生活できるよう心がけ、世界の国々とともに栄えその喜びを共有することは、歴代天皇が手本として残してきた教えで、私も常に念じてきたところでもある。したがって、さきに、アメリカとイギリスの二国に宣戦布告した理由もまた実に、わが国の自存とアジアの安定を心から願ったためであって、他国の主権を押し除けたり、領土を侵したりするようなことは、もちろん私の意志とは異なる。しかしながら、この戦争が始まってすでに4年がたった。陸海軍の将兵は勇戦奮闘し、多くの役人たちも職務に励み、一億国民も各職域に奉公してきた。それぞれが最善を尽くしてきたが、戦局は必ずしも好転せず、世界の情勢もまた我々に不利である。そればかりでなく、敵は新たに残虐な爆弾(原子爆弾)を使用して、多くの罪なき人々を殺傷し、惨害がどこまで広がるかはかり知れない。なおも戦争を続けるなら、ついには我が民族の滅亡を招くだけでなく、ひいては人類の文明をも打ち壊すことになるであろう。そのような事態になれば、私はどうして我が子のような国民を保護し、歴代天皇のみたまにお詫びできようか。これこそ、私が政府に対し、ポツダム宣言に応じるようにさせた理由である。私は、わが国とともに終始アジアの解放に協力した友好諸国に対し、遺憾の意を表明しないわけにはいかない。わが国民のうちで戦死し、職場で殉職し、不幸な運命で命を落とした人々やその遺族に思いをはせると、まことに悲しみに耐えない。また、戦争で傷を負い、戦禍に遭い、家業を失った人々の厚生を考えると深く心が痛む。思うに、これからわが国が受ける苦難は尋常ではないだろう。わが国民の心中も私はよくわかっている。しかし、時世の移り変わりはやむを得ないところで、耐えがたいことを耐えて、忍び難いことも忍んで、未来の平和を実現するために道を拓いていきたい。私は今ここに、国体(天皇を中心とする秩序)を護持し得て、忠良な国民の真心を信じ、常に国民とともにある。もし激情にかられて、みだりに問題を起こしたり、同胞が互いに相手をけなし、おとしいれたりして時局を混乱させ、そのために人間の行うべき大道を誤って世界から信義を失うようなことがあれば、それは私が最も戒めたいことだ。全国民が家族のように仲良く分かち合い、長く子孫に受け継ぎ、わが国が不滅であることを固く信じ、国の再建と繁栄への任務は重く、その道のりは遠いことを心に刻み、持てる力の全てを未来の建設のために注ごう。道義心を大切にし、志を強固にして、わが国の美点を発揮して、世界の進歩に遅れないよう努力しなければならない。わが国民よ、私の意のあるところを十分汲み取って身につけてほしい。天皇陛下はどんな思いでこれを読まれたのでしょう‥この「写」を見ると余程、慌てて作成されたような文面であり行間や文字列、かなり推敲された箇所が見受けられ、紙質も悪く驚くのが「御璽」の刻印の左端が判が上手に押されていないことです。つまり、非常に慌てて大急ぎで作成されたと考えられるのですよ天皇陛下がご自分で御璽を押印されることはありません。どれだけ逼迫していたのかがよく解ります。終戦記念日にこうした事を語り合える友人がいて感慨深い一日を過ごしました。台風が関東を直撃してお盆休みの予定が変更されてしまった人がたくさんいます。今日も各地で40度近い気温になっています。「お〜〜いあきーーーー秋」ぐずぐずしないで早くやって来い何夏がドヤ顔で威張りくさって居座っているって深き霧まとう処暑になるぞー夏と選手交代して下さいよ〜お願いしますよにほんブログ村
2024.08.17
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徳川家定は嘉永6年(1853)父の家慶の病死により、30歳で13代将軍に就任します。「嘉永6年」この年は我が国にとって歴史的に大変な年です。「ペリーの浦賀来航」黒船の来航のまさにその直後に家定は13代将軍になったのです。今までにも江戸幕府は対外政策を少しはしていたのですがこれほどに対外問題がクローズアップされたことはありませんし、幕藩体制が崩れてゆく大きな出来事でした。13代将軍は元来、病弱であったとされています。疱瘡を患ったとか‥脳性小児麻痺とか‥家定は「うつけ」とか「暗愚」とか言われていますが実際はそうではなく病弱だったのでそのような噂が出たのかもしれません。それでも将軍職に就く以前に2人の女性を正室に迎えています。一人目は「鷹司任子」しかし、1848年(弘化5年/嘉永元年)6月に疱瘡を患ったことにより、26歳の若さで逝去。そのため徳川家定は翌年の11月に、左大臣を務めていた「一条忠良」の十四女「一条秀子」と2度目の婚姻関係を結びますが、半年余りあとに一条秀子も急死。そのあとに正室となるのが大河ドラマで有名になった「篤姫」です。家定の実母は「本寿院」で大奥での権力を握っていました。夫の家慶然り、大御所の家斉然りたくさんの「お手つき」がいて大勢の子供を産ませておりました。上様の子供を産むということは大奥の女人にとっては大出世なのです。勿論、「世子」ともなれば話は別です。例えば、五代将軍綱吉の生母は京都の八百屋の娘「お玉」でのちの「桂昌院」ですし、七代将軍家継の生母は僧侶の娘「お喜世」のちの「月光院」です。ものすごい権力ですよ。余談ですが、現代の京都の寺社の数多くを桂昌院が寄進して建てています。家定は将軍職に就いていながら身体が弱かったせいか政務よりもお菓子作りが好きでした。これは、ものすごく珍しいことでそもそも将軍様が自ら料理をするなど有り得ないことです。カステラやボーロ、炒り豆や餅を焼いて家臣に食べさせたとかそういったエピソードが残っています。確か、ドラマでもそんな手作りお菓子を食べるところが演じられていますね。ともあれ、13代将軍の大問題はお世継ぎと外交です。ここで改めて徳川家の系図を見てみましょう。家康から始まり15代将軍慶喜まで徳川家は260年余り連綿と続いてきたわけです。この時に政務の中核を担っていたのが老中阿部正弘です。阿部正弘は水野忠邦と違って大奥でも人気があり外様大名との交流もあり大奥にも出入りが出来たようでした。老中阿部正弘は薩摩藩主・島津斉彬や、越前藩主・松平慶永などの雄藩大名と協調を図り、前水戸藩主・徳川斉昭に幕政参与を要請しました。「開国」という、従来の幕政では考えられない急進的な政策を遂行するには、権力者の協力が必要だったのです。その頃の大奥自体は「外交問題」よりも「お世継ぎ」の方が重大事項なのは当然のことでこの13代将軍が病がちであることを懸念していました。家定と篤姫の関係は今までの将軍と正室とは違い割と仲睦まじく暮らしていたと言われています。ただ、子供が出来ることはありませんでした。家定は、祖父、父とは違い側室は一人だったと言われていて残念ながら、子は持てませんでした。嘉永7年安政元年アメリカのマシュー・ペリー提督が2度目の来航。アメリカ船が日本沿岸で燃料や食料を補給することを受け入れる内容の「日米和親条約」を結びます。安政4年初代駐日アメリカ領事となるタウンゼント・ハリスが江戸城に登城して徳川家定に謁見。この時の逸話がいろいろと面白く描かれているところから「暗愚」や「うつけ」と言われた所以ではないかと思います。そして、13代将軍家定の時のお世継ぎ問題は完全に二派に分かれて鎬を削っていたのでした。歴史が詳しくない人でも聞いたことのある有名人がたくさん登場する頃で世の中が大きく変わろうとしていました。幕府の力が弱くなってきたのですね。阿部正弘は「将軍継嗣問題」にも頭を悩ませながら、安政4年(1857年)に39年の生涯に幕を閉じてしまいます。このあと、大老に就任したのがあの「井伊直弼」です。「安政の大獄」という時を迎えます。大奥は上様ご逝去で大混乱になります。篤姫の結婚生活は2年にも満たなく篤姫は24歳の若さで落飾してしまいます。大体、歴史ドラマや歴史小説が一段と興味深くなってくる頃ですが日本は混迷の深い闇の中へと突き進んでいくのです。大奥のことが何度も描かれるこの時代ですので次回も篤姫がどう大奥に存在したかを紐解いてみたいと思います。(浮世絵や系図等々はネットからお借りしました)にほんブログ村
2024.07.24
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「茨城県近代美術館 HP」<石岡瑛子 I デザイン>を鑑賞少しご年配の方ならHPにあるこれらのポスターやこの画像に見覚えるある筈。今日は、高校生女子を連れてデザインの美術鑑賞に行ってきました。何度も行っている水戸市にある近代美術館‥おやおや何でしょうなんでもない土曜日なのに‥この混雑は‥隣にある文化会館で有名な人のコンサートでもあるのかしら駐車場へと続く道の脇には車がいっぱいハザードランプを点けて停まっています。水戸の駅前ならいざ知らずこの千波湖の文化エリアではまずこんなに車が路上に停車していることなど出会ったことがありません。そして、私たちが行く美術館の方に目を遣ると大勢の人集り‥えっこの展示会にこんなに多くの人が来る筈もないし大体、どうして皆、外にいるのか‥美術館で何か催し物でも特別にやっていて入場規制があるのか「もしかして‥」と女子高生のUちゃんが言った‥「ゲームのイベントかな」「ゲームのイベントって何」と私。もう一人の女子高生MHちゃんがこう言った。「ポケモンとか‥」面倒なので大勢の人たちが集まっているところで尋ねてみた‥『Pokémon GO』です。「ほ〜らやっぱりねー」「やっぱポケモンだよねー」なにやら、ここでポケモンの何かがGET出来るらしい‥まぁ、私には全く意味不明で何が良いのか全然理解が出来ませんでした。女子高生たちも自分たちはポケモンGOはやっていないから分からないとのこと‥そんなことよりも美術館に入りましょう‥これから社会に出ていく女子たちの何かヒントになれば良いと思っての今回もまぁ言ってみれば「課外授業」です広告をはじめ、舞台美術、衣装デザインなど多岐にわたる分野で世界的に活躍したデザイナー・石岡瑛子(1938-2012)。本展では、没後10 年を経て国内外から改めて注目が集まる石岡の、キャリア初期における資生堂やセンセーションを巻き起こしたPARCO の代表作をはじめ、東京を拠点にしていた1960-80 年代の仕事を中心に、アートディレクターとして采配を振るったポスターやCM、グラフィックアートからスケッチまで、約500点を一挙公開します。と‥WEBデザイナーになりたい女子、絵を描くのが好きな女子、見ておいて損のない展示会だと思いました。私にとっては見たことのあるデザインやポスター、CMばかりですが17歳の高校生には初めて見るものばかり‥「これってほとんど50年ぐらい前の作品よ。」と、私が言うと‥「今じゃないんですか‥超カッコイイし可愛いし素敵だぁ〜〜」展示作品は撮影は出来ませんが1970年後半から1990年ぐらいまでの作品群。その頃、日本がいかに成長期で裕福に暮らし、お金をいっぱい使っていっぱい何かを捨てていった時代を思い出しましたねぇ〜〜美術館めぐりの後は千波湖を散策して美味しいものを食べてたっくさんお喋りして帰りました。有意義な1日でしたよ。で‥女子高生の展示会を見ての感想は‥「え”〜〜デザインって難しい‥」にほんブログ村
2024.06.29
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徳川将軍家も十二代家慶の頃から翳りを見せて来ます。十二代代将軍「徳川家慶」は、1793年(寛政5年)、十一代将軍「徳川家斉」と側室「香琳院との間に次男「敏次郎」として生まれました。兄の「竹千代」が早世したことから、徳川家慶は若くして将軍の後継となったのですが父である十一代将軍・徳川家斉は江戸幕府歴代将軍のなかで最も長期間将軍の地位に就いていたためその長い治世の間に幕閣内では賄賂が横行し、政治は腐敗。徳川家斉は贅沢な生活を送り、幕府の財政を逼迫させてしまうことに繋がりました。(何しろ、側室が多くて子供が多い)しかし、皮肉にもこの贅沢な気風が徳川家斉の治世に影響を及ぼし、「化政文化」と言われる華やかな町人文化が花開くきっかけにもなったのです。1837年(天保8年)、徳川家慶は歴代最高齢の45歳で12代将軍に就任。しかし、父・徳川家斉は「大御所」として実権を握り続けたため、徳川家慶の発言力はほとんどなく、政務に深く携わることもありませんでした。父・徳川家斉は大御所となってからも贅沢な暮らしを続け、幕府の財政を圧迫。このことから考えても徳川家慶と父・徳川家斉の仲は良好ではなかったとされています。家慶の時代は天保12年閏正月30日に、家斉が69歳で亡くなってからと言っても過言ではありません。そしてここから始まるのが、老中首座水野忠邦が主導する「天保の改革」です。(天保の改革は江戸時代における3つの改革の最後の改革ですがこの3つの改革は全部失敗に終わっています)幕府は文政期以降、財政を立て直すため、貨幣鋳造を続けていて金銀の含有量を減らすことで、これまでの貨幣との差額を幕府の収入としました。品質を下げた貨幣が世の中に多く流通するすることでインフレを招き、物価は上昇することになります。忠邦は、その原因を奢侈に求め、徹底的な贅沢の取り締まりや倹約令を庶民から武士に至るまで科すのです。 また、株仲間を解散させ、自由に取引をさせることで、物価上昇に歯止めがかかると考えました。さらに江戸の人口を減らし、農村の人口を回復させるために、「人返しの法」を発布しましたが、この忠邦のやり方に反対したのが、TVの「遠山の金さん」で有名な当時の北町奉行、遠山景元です。水野忠邦が「人返しの法」でその日稼ぎの者を江戸から減らすことによって、飢饉の際の一揆や打ちこわしを防ぐことを考えたのに対して、遠山は、町会所に設置する囲米などの救済措置であらかじめ飢饉に備えようとしました。 また、江戸の人口が減少することで、武家や町家の奉公人のなり手が減り、労働力不足から彼らの賃金が上昇し、物価上昇にもつながると指摘し、贅沢の取り締まりについても水野忠邦と悉く対立するのです。水野忠邦は老中遠山景元は町奉行なんだか、あまりにも役職の違いがあるにもかかわらず、何故対立出来たのか?それは、将軍家慶の存在が大きい。将軍は一代に一度、三奉行(寺社奉行・町奉行・勘定奉行)の裁判を上覧する公事上聴(くじじょうちょう)という儀式を行っていました。家慶の時には8人の奉行が2件ずつ将軍の前で裁いたのですが、その中で遠山だけ、家慶からお褒めの言葉を賜ったと言われています。家慶が認めた名奉行に、水野忠邦もうかつに手出しができなかったのではないかと考えてます。さて、 そしてもう一人、忠邦が悩まされた相手として、大奥の上臈年寄姉小路が挙げられます。姉小路は、楽宮喬子が家慶の正室になる際に京都から同行した人物で、家慶政権期の大奥で最大の実力者といわれました。 贅沢は敵だみたいに言っている水野忠邦が大奥に経費削減を求めたところ姉小路は「男性から隔離された環境にいる大奥の女性たちから、美味しいものを食べ、美しい着物を着るという楽しみを奪うのか。また、御老中様もお妾が4~5人いるのでは。」などと言って黙らせたというエピソードが伝わり今に残っています。 大奥は、表面上は「表」の幕府や政治とは関係を深く持たず口出ししてもいけないのですが「裏」では相当な「力」を持っていました。将軍の母親や将軍の正室と側室それを取り巻く多くのお女中たち。一筋縄ではいかない大規模な女性の組織です。徳川家慶には、14男13女の子供達がいましたが、次代将軍となる「徳川家定」を除く、すべての子供が20歳を前に亡くなっています。なんだか、これも怪しい陰謀があったような無かったような気もします。家慶の家系図は以下の通りです。「内憂外患」の当時の日本。18世期末から19世紀にかけて、徐々に外国の船が日本近海に現れ、日本を取り巻く環境は変化していきます。財政面などの内憂だけではなく、諸外国の力が日本にも手を伸ばして来ようとする、外患とも戦わなければいけませんでした。だんだん、幕藩体制が崩れてゆく兆しですね。(浮世絵や家系図はネットからお借りいたしました)にほんブログ村
2024.06.12
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以前のBlogにも少し書きましたが本日は「松平定信」のことを少し詳しく書いてみます。九代徳川家重は、病弱で政務を執れる状態ではなかったため徳川吉宗が大御所としてまだ政権を握っている頃です。徳川吉宗の次男「徳川宗武」と、四男「徳川宗尹」の2人が、江戸幕府将軍の座を巡って争わせないようにする一つの策として2人をそれぞれ「田安家、「一橋家」として独立させます。また、九代徳川家重の息子「徳川重好」を「清水家」として独立させ、この三家が「御三卿」と呼ばれるようになりました。そして御三卿のなかの田安家に生まれたのが松平定信。つまり、松平定信は徳川吉宗の孫であり、江戸幕府将軍になれる資格のある人物でした。松平定信には、「田安治察」という兄がいたのですが病弱だったため、田安家の家臣は万一に備えて聡明として知られる松平定信(当時は田安定信)に大いに期待してましたが1774年(安永3年)、江戸幕府第10代将軍「徳川家治」の命令で白河藩の藩主「松平定邦」の養子へ出されてしまいます。これを企てたのがあの「田辺意次」だったと言われていて以来、この二人は犬猿の仲になってゆくのです。松平定信は八代将軍吉宗の質素倹約を大事に守り田沼意次の重商主義を嫌っていたとも言われていますがそもそもは、松平家に養子に出されたことが八代将軍の孫というプライドに深い傷を負わせたのかも知れません。10代将軍・徳川家治には「徳川家基」という跡継ぎがいましたが、1779年(安永8年)に若くして他界したため、御三卿の中から次の江戸幕府将軍にふさわしい人物選びが始まります。歴史に「もし」は無いのですがもしこの時、松平定信が田安家の当主であったなら将軍候補に選ばれた可能性は極めて高かったと思います。定信は、白河家の家督を継ぎ、白河藩主として天明の飢饉を乗り切り、藩政を立て直した功績によって名君と称えられました。田沼意次が失脚し十一代将軍家斉の治世に定信は1787年には老中首座、翌年には将軍の補佐役にして、あの寛政の改革に取り組みます。松平定信は、祖父徳川吉宗の「享保の改革」を手本として幕藩体制の立て直しを目指しました。松平定信が老中に就任した頃の幕府は、凶作や飢饉対策など深刻な経済危機に面していたため、徹底した倹約令が出されました。大奥の予算もだいぶ削り、朝廷にも経費の節約を要請します。これが、だんだん窮屈だと大奥も宮中も感じてしまうのです。大奥に「質素倹約」などを言っても毛嫌いされるだけだと思いますし一生を籠の鳥で暮らす女人たちには華美な暮らし以外に楽しみなど持てなかったと私は思うのです。何しろ、11代将軍の時代が一番贅沢だったのですから「質素倹約」などもっての外の大奥だったに違いありません。大奥や朝廷‥それだけではありません。民衆に対しても厳しい倹約を求めました。都市部では田沼時代には、庶民に至るまで華やかな生活が定着していたため、厳しく贅沢を禁止してしまいます。これが多くの人々からの反感を買うことになります。将軍徳川家斉との対立もあり、松平定信は1793年に老中の座を解かれます。松平定信の失脚によって寛政の改革も終了。寛政の改革後は、欧米諸国の接近や「天明の飢饉」によって幕藩体制は大きく揺らいでいきます。このような狂歌が残っています。「白河の清きに魚も住みかねて もとの濁りの田沼恋しき」質素倹約で、これもダメ!あれもダメ!とあまり厳しいルールは、反感を招いてしまうのですね。まぁ、結果は「享保の改革」と同様に失敗してしまいました。その後、幕藩体制は少しずつ傾いてゆくのですがこの贅沢禁止令のおかげ?と言うか良いことも時代を受け継いで今日に至っているものもあります。その一つに「お洒落の文化」があります。例えば、洋服や着物などの裏地に意匠を凝らしたり‥下着のデザインや色柄に凝ったり‥表面には見えないものに「お洒落」を見出すようになったのも定信の贅沢禁止令があったからとも言えます。ゴテゴテに盛り盛りに着飾ることは罪になることでしたから見えない部分にお金をかけたり気を遣ったりするようになった訳です。現代でもこうしたちょっとした「オシャレ」は根強く残っています。殺風景な箱を開けると箱の蓋の裏に綺麗な絵が施されていたりTシャツの下の方に小さな刺繍があったり‥あっそうそう「リバーシブル」って生地がありますね。裏表、どちらでもOKな生地で作られた洋服。これって松平定信の時代から日本にはあったオシャレ文化です。表は綿の着物で裏地は絹の羽二重や縮緬だったり‥帯も両面使える丸帯だったり‥庶民は賢いと言うか‥うまく切り抜ける術と言うか‥江戸時代は、大きな戦いも無く260年ほども続いた時代です。一口に260年と言っても江戸幕府は全ての日本国民に様々な文化の記憶を残し、伝統となり令和の新しい風の中で息づいています。こんな街並みが残っている場所が全国各地にあります。新しく作られたところもあります。(下記の写真はネットよりお借り致しました)まるで、映画村のセットの様な佇まいの江戸情緒あふれる街並みです。どこかは、ご覧になっている皆様が当ててくださいね。さて、松平定信が残した絶景の公園。美しい南湖公園です。南湖は、白河藩主・松平定信により、身分の差に関係なく誰もが楽しめる「士民共楽」という理念のもと、享和元年(1801)に築造されました。私は、桜と紅葉の季節に南湖公園に行きました。とても綺麗な公園でした。にほんブログ村
2024.05.03
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「迎賓館赤坂離宮 HP」国宝に指定されている迎賓館の正門。一般の人たちは正門からは入ることが出来ません。この正門を横目に右手に向かい歩きます明治42年(1909年)に東宮御所として建設されましたが大正天皇はお使いになることはほとんどありませんでした。この素晴らしい門を左に見ながら参観入り口の西門へと歩きます。白いフェンスが終わると左に曲がります。今度は、白塀が続きます。塀の横には春蘭、鳴子百合、龍の髭が植えられていてちょうど今、春蘭の花が咲いていました。西門を入り、受付まで行きます。広いので西門にタクシーを横付けにしてもかなり歩きますよ〜受付では空港と同じようなチェックがあります。而も2回あります。まぁ、何かあったら大変ですからチェック体制は厳しく、警備も普段から多い離宮です。濃いピンクのトキワマンサクの花が満開を迎えていました。左手が宮殿の入り口ですがここでも、カメラやスマホ、携帯のチェックがあります。ちゃんと、バッグやリュック、袋の中に撮影機器は、仕舞い込まないとダメなのです。宮殿の中は完全に撮影禁止ですし、飲み物も飲んではいけません。受付を通ると迎賓館の冊子を頂くことができます。その冊子をご紹介しますね。今回は、開館50周年を迎えた記念事業として、普段は非公開の「西の間」が26日まで公開されているので私はそれを拝見するために迎賓館を訪れました。「西の間」の特別公開は史上初めてで元々は、皇太子時代の大正天皇の学習用図書を収蔵する「御書房」として造られた部屋です。今は、壁面のガラス戸付きの棚に、各都道府県から寄贈された民芸品や工芸品が所狭しと並んでいました。こちらは、本館の前庭です。何しろ、広い!!敷地面積はザッと3万5000坪ぐらい。宮殿は豪華絢爛で素晴らしいのですがお住まいになるには些か使い勝手が良くなかったと言われています。そうは言っても、これだけの豪華極まりない宮殿は日本にはありませんから一度ぐらいは見ておいた方が良いかもしれません。宮殿の中は、HPや写真で楽しんでください。さぁ、お庭に出ましょうか‥本館の前を行きますが大きいので、なかなか主庭の真ん中には行き着けません立派ですね赤松によく似たタギョウショウがいつでも緑を放っていてとても良い感じです。大噴水(国宝)の前には大勢の人が写真を撮っていました。本館側から見ればこうですが噴水を後ろに写真を撮れば本館が映り込みます。なので、なかなか誰もいない時を狙うのは一苦労でした迎賓館はツアーでも個人でも何も行事が入っていなければ誰でも参観できます。私も記念に一枚噴水には4体のグリフォンが守護神のように噴水を守っています。大庭園を歩いて、ひと回りして元の入り口付近まで歩きます。本館の前提で一休みです。冷たい飲み物を買ってここでしばし休憩です前庭にはキッチンカーが2台止まっていて飲食が可能ですが持ち込んだものはダメみたいでした。私は、この本館の前庭の後ろの方に座っているのですが椅子もテーブルも映りません。広い証拠ですねー予約しておけばアフタヌーンティーも楽しめるのですがすでに完売でした。(この写真はネットからお借りいたしました)で、この前庭で足の悪いご高齢のお婆さんに出くわしたのです。写真でお分かりになるかと思いますが、前庭は全部が石畳風なのでシルバーカーや杖では歩きにくのです。たぶん、ヒールの高い靴やミュールも歩きにくいと思います。出口の正門横まではこんなに遠い‥そして、奥の奥の一番奥にある樹木のところまでは車は入ることが出来ません。出口は一つですから嫌でも自分で歩かなければ大通りには出ることが出来ないのです。そうして、昨日のBlogに書いたようになり私は、上皇后陛下と1.5メートルも無いくらいの至近距離で拝謁することが出来たのでした。佳き日でございましたにほんブログ村にほんブログ村
2024.04.21
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お花見を兼ねてまた、近代美術館にやってきました。水戸の千波湖の桜がちょうど満開でした。前回鑑賞した「ボタニカルアート」です。今回は、知り合いのお孫ちゃん二人を連れてのまぁ、美術の課外授業みたいなものです二人の高校生ですが私と一緒に行くというだけで嬉しいじゃありませんかどうやら、水戸の美術館は初めてらしくて思った以上にじっくり鑑賞していました。展示されているものは前回と同じですから作品をご覧になりたい方は今一度、Blogを振り返ってみて下さい。過去Blog「ボタニカルアート展」過去Blog「近代美術館 常設展」テラスでお弁当を食べたりちょっと面白い塗り絵をしたり美術に触れてとても楽しそうにしてくれたのが幸いでした。千波湖の桜も満開でとても綺麗で桜もずいぶん喜んでくれました。美術館は当日券の半券を持っていれば再入場が可能なのでいろいろなところで賑やかに過ごしました。高校生ともバッチリ話が弾んで私も楽しい1日を過ごしました。最後に美術館に戻ってカフェでクリームソーダとシフォンケーキをご馳走しました。私は珈琲ですけれど‥朝から夕方まで充実の一日でした。高校生のお嬢さんかたから「また、連れてきて欲しい誘って欲しい」のリクエストを頂きましたまた、一緒に遊びましょうねにほんブログ村にほんブログ村
2024.04.11
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「武陵桃源 小野竹喬」なんと、春らしい屏風絵なのでしょう常設展示場に入るとすぐに目に飛び込んできました。<春らしい〜>素晴らしい六曲一双の屏風絵です。長い屏風の前を歩いてゆくとどんどんと風景が変わりまるでそこに居るかのような流れを感じます。この屏風絵を広げて見るとこういう絵なのだそうです。この写真は美術館のHPからお借りしています。でも、こうやって全面的に広げて見るよりも屏風として見た方がずっとその素晴らしさを感じます。きっと、巧妙に設計されて描いているのだと思いました。次に、水戸らしく「梅」の絵画「紅白梅図 那波多目 功一」イイですね〜この「梅」は‥それから巨匠と呼ばれる方々の作品もあります。「大原之露 下村観山」「阿房劫火 木村武山」「落葉 菱田春草」「流燈 横山大観」(全部、写真が撮れるわけではないので美術館のHPから上記4点もお借りしています)「熊野 木村武山」朦朧体と呼ばれる四人の巨匠の絵画をたくさん所蔵している近代美術館で五浦にある「茨城県岡倉天心記念美術館」も縁の地なので多くの朦朧画家の絵画を所蔵しています。「海島秋来 小川 芋銭」西洋画もあります。「ポール=ドモワの洞窟 モネ」「マドモワゼル・フランソワ ルノワール」常設展の方がずっと「美術館に来たー」って感じでした。そして、もう一つ特別展が開催されておりました。それは‥これは、本当に素晴らしかった須磨御殿の杉戸の絵は息の飲むほどに美しかった‥こちらは、写真は全面的に禁止なのでもう一回、観に行こうかしら‥なんて思っています。写真は無いけれど松の杉戸富士山の杉戸などもっともっと多くの人々に見てもらいと心から思いました。あっそうでした昨日のBlogの最後の写真の容器は何かという問題の答え。<点火用こより入れ>です。展示品の左横にちゃんと書いてありました。キャンドルに火を灯して食事をしていた時代ですものね。雨の美術館でしたがまたもや「目の保養」が出来ました。にほんブログ村
2024.03.29
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「おいしいボタニカルアート展」の続きのお話です。18世紀19世紀の貧しい英国の農家の様子と野菜や果物の絵を見てから「お茶」のコーナーにやってきました。そもそも「茶」は中国から‥その中国で始まったお茶文化がオランダやフランスに渡り、次に伝わったのがイギリスです。イギリスで紅茶文化が浸透し始めたのは、1662年にポルトガルの女王キャサリンがイギリス王室へ嫁いだことがきっかけだと言われています。時代は流れて1823年。イギリスの冒険家であるロバート・ブルースという人が、インドのアッサム地方で新種の茶樹を発見しました。この新種は現在のアッサム種となる茶樹で、1839年にアッサムティーが誕生します。ミルクティーに合う濃厚な味わいと深い香りが人気の紅茶となり大流行します。「茶」は、その国の生活様式さえも変えてしまうくらいに大人気な飲み物へと変貌してゆくですね。食事の盛り付けやセッティングなどの絵が飾られており今でもこのような盛り付け方が定番となっていると思いました。次は、テーブルセッティングの様式です。今もあまり変わっていませんがこれが、定着したと云うことがすごいなぁ〜と感じました。見本に展示されていたテーブルセッティングです。食事を美味しく頂くには食器や花など、いろいろ考慮することによってより美味しい食事になるわけです。私は、日本人ですからこんなにゴチャゴチャと飾り立てられたテーブルで而も一人分のスペースが狭いのはあまり嬉しくはありませんけれど‥ただ、どの国でもそうでしょうけれど今の時代、パック詰にされたものが多くそれって、美しさからはかけ離れているように思います。お腹いっぱいになればそれで良いと云うのはねーどうでしょう‥さて、ここで、問題ですこれは、何に使うものでしょう高さは11センチぐらい直径6センチぐらいのこれは、何でしょうか答えは明日のBlogにUPしますさぁ、心落ち着く「常設展」へとゆきましょうつづくにほんブログ村
2024.03.28
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一日中、雨の日。そして、ものすごく寒いです。憂鬱になるくらいのお天気なので気分を変えるために美術館に行きました。雨の「茨城県近代美術館」です。今、美術館では「おいしいボタニカル.アート」食を彩る植物ものがたり英国キュー王立植物園の植物画が展示されています。さすがに、今日は人が少ないですね〜「今日は、やってますか」と問うてみたくなるくらいに誰にも会わずに受付を通りました。ボタニカル.アートは随分前から知っていましたがNHKの朝ドラの「らんまん」で植物画が人気を呼んだようです。美術館に展示されているものは英国のものですが撮影禁止の展示物もあり企画展は、写真はNGなのが当然なのですよ第二章のところからは少しだけ写真を撮ることができる作品もありました。リンゴの絵が多いのには驚きでした。桃やサクランボもありました。ハーブやお茶も描かれていました。折角の「英国キューガーデン」の植物画ですが「らんまん」のモデルになった牧野富太郎の植物画を何回か見てしまった後なのでそれほど、精密に描かれているとは思いませんでした。こんなことを言ってなんですが‥リンゴも桃も今現代ならB級品にもならないほどの形でした。100年〜150年くらいの間に農業はびっくりするほど美しい果実や野菜を作り出し、次々に品種改良されたことに気づきました。農夫や農業の絵画もありましたがこれも1800年〜1900年代は英国でも随分貧しく過酷な生活を強いられていたのだと感じちょっと、古い映像のウクライナを思い出してしまいます。ランチタイムは近代美術館のレストランの「プティ・ポワル」でボタニカル.ランチを注文しました。ポークフィレ肉のソテー ポメリー粒マスタード風味プレート及第点ってところでしょうか‥しかし、お昼時なのに誰もいませんでした。雨はこのあとどんどん酷くなってゆくのですよーランチのあと、常設展を見てまわります。つづくにほんブログ村
2024.03.26
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十代将軍家治には家基という後継がいたが18歳で急病で亡くなっている。そこで天明元年(1781年)閏5月18日に一橋家の治済の四男豊千代を養子とし諱を家斉と定める。家斉は14歳で新将軍となるがこの時、すでに田沼意次は失脚している。天明の大飢饉は年を逐うて甚大な被害を農村に与え続けていた。幕府内は幕府の要職や大奥に根を張る田沼派の勢力が松平定信を中心とする反田沼派と依然対立をしていた。松平定信は御三卿の一つの田安宗武の息子でつまり、八代将軍吉宗の孫になります。ちなみに「御三卿」とは‥徳川将軍家や徳川御三家に後継ぎが生まれなかった際に、後継者を提供する役目を果たす「お家」です、田安徳川家、一橋徳川家、清水徳川家の三つ。徳川御三家と異なり、創始されてから明治時代になるまで藩を持たずに江戸城内の屋敷で暮らしていたといわれています。さて家斉は、生まれた時から大奥と特殊な関係にありました。母はお富の方と言い、御三卿の一橋家当主・一橋治済の側室でありお富は、そもそもは10代将軍・徳川家治時代の大奥の女中だったらしい。それを治済が見初め、大奥から譲り受けて側室に迎えたという。先代将軍家治の実子でもない家斉が若干14歳で将軍に就けたのは父の治済の政治工作が大きかったとも言えます。家斉が若年であったために父の治済と実力者だった白河藩主の松平定信とで若い将軍を支えてゆく体制となりました。ちなみに治済と定信は二人ともにあの8代将軍吉宗の「孫」にあたります。11代将軍家斉は健康に恵まれ歓楽を極め尽くして69歳まで生きます。側室の数と子供は江戸時代の将軍の中では断然トップでその数なんと男女合わせて53人にも子供を産ませました。この子供達を全員、江戸城内で育ててゆくことは大変なことですから各大名へ養子に出したり嫁入りさせたのですがその為には、ずいぶん無理なことをしなければなりませんでした。政治的にもまた、大奥でも日々、落ち着いてなどいられなかったことと思います。養子や嫁を貰うにしても出すにしても双方、多額の金子が掛かるわけです。尾州家などは4回も家斉の子女を押し付けられています。その度にまぁ所謂、人事異動があったり出世したい人は裏金工作したり表と大奥では今では考えられないほどの醜い争いがあったことは否めません。さて、酒池肉林のような生活を送っていた家斉は吹上御苑の中に吉原の茶屋を真似した建物を設け、豪奢を極めた日々でありましたがそれは、一般の武士も庶民も乱脈の中で衣装風俗は繊巧精密で箱庭、点茶盆栽、園芸などの趣味が流行しまた、迷信も盛んになって行きました。色町の繁盛も劇壇も盛んになり「文化文政時代」とのちに呼ばれることになります。文化.文政期は260年余り続いた江戸幕府の中でも「泰平の世」であったと言われています。「大奥」が映画、ドラマ、舞台で演じられる際特にこの「家斉11代将軍」の時代が多いと思われます。これだけ子供の数が多ければ問題が次々と起こったとしても不思議ではありません。だから、物語をどうにでも脚色できるしまた、庶民文化が花開いていることもドラマ化、映画化するのに打ってつけの時代なのでしょうね。今、放送されている「大奥」では田沼意次も松平定信も気の毒なほどに悪者に描かれていますね〜次回は松平定信のことを書いてみます。にほんブログ村
2024.03.23
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暇があったら美術館や博物館によく行く私昔、伯母に言われた事があります。「良いものだけを見ていれば本物と偽物が判るようになる。」先輩に言われた事は「美術とか芸術は本物を見てみないとその良さが判らない。だから、一週間に一度ぐらいは行かなくちゃダメねー」と、言う事で「茨城県陶芸美術館」に行って来ました。グラスアート展が開催されていました。ガラス工芸ですね。何が良いのかは分からないしこれらの作品を作った人を知る由もないのですがまぁ、とりあえず、美術館に展示されているものですから良いものなのでしょう‥観ての感想はと‥聞かれても「ん〜〜」ですが‥いっぱいいろいろなガラスで作られたものが展示されていました。藤田喬平(アップル)同じく、藤田喬平の筺ダンテマリオーニ(アンタイトルドレッド)(オパールグリーンの現象)さっぱり意味不明ですがきっとその内に「これは良いものだ」と私にも判る時が来るのでしょう。そうした美術芸術品を見極められるようになる目を養うことが美術館. 芸術館通いですあっ、これぐらいは本物とすぐに分かります。エミールガレですよ。これもエミールガレの作品。ザぁ〜っと美術館を見て回ってはい美術館はお終いそして、その帰り道で‥笠間と言えば日本三大稲荷の「笠間稲荷神社」が有名。その次はと問えば栽培面積・収穫量ともに全国1位を誇る栗の産地なので〜〜すそれと地元で「ひたち姫」と名付けられた苺と笠間の栗で作ったモンブランを買いました。細〜〜いモンブランモンブランは「白い山」という意味なのでこちらの苺モンブランの栗のクリームは色が薄くてとっても人気が高いのです。家でゆっくり頂きま〜〜す桜のお皿に盛り付けてなんか「春」「春」してるでしょう中には生クリームが入っているだけで土台が無いのです。普通はタルトの上にマロンクリームなのですがこれは、栗たっぷりのマロンクリームだけです。洋菓子は、自分で買うことなど滅多に無いのですのがこれは、本当に上品な味で買って良かった‥口の中に春と秋が混在してまろやかでしたさぁ、夕暮れにならない内に今日も日帰り温泉に行きます。今週は、温泉通いが続きそうですにほんブログ村
2024.03.20
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奈良斑鳩にある法隆寺は世界遺産であり国宝、重要文化財も2300余所蔵しています。その内の300点を超す宝物が明治11年に当時の皇室に献納されました。第二次世界大戦後には大部分が「東京国立博物館」の所蔵となっているのです。この宝物館に入ると目にするものは国宝か重要文化財ばかり小さな仏像ですが静寂の中にスクッと立っておられます。伎楽面も多数展示されています。伎楽面を拝見するとデフォルメされているとは云えこれは、明らかに日本人の面とはだいぶ違います。鼻が高いですよね。鬼の面もありました。大迫力です。光背も沢山展示されていますがこれも全部、重要文化財でした。阿弥陀如来、釈迦如来、薬師如来や菩薩など仏様にはそれぞれに役割があって光背のデザインも決まってゆくのです。法隆寺の宝物は正倉院よりも古い歴史を持っています。あっ教科書にも出てくる国宝がありました。「竜首水瓶」(りゅうしゅすいびょう)銀製鍍金・鍍銀 高49.9径18.9 飛鳥時代・7世紀 見たことあると思います。国宝や重要文化財は文化庁の管轄になります。ちなみに、日本の国宝の数の総数や重要文化財の数も文化庁のHPで知ることが出来ます。「文化庁 都道府県市町村等文化財の件数」一番、多いのは東京都二番は京都府で三番は奈良県です。この順位は私が小さい頃から変わっていません。三つとも「都」があったところです。国宝や重文は誰が所蔵しているかでその場所が指定されます。小さな国宝から動かせない神社仏閣お城までだれが、どこが、今、所蔵しているかなのです。にほんブログ村
2024.03.13
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上野公園巡りの続きです国立博物館を出て明治建築の代表作として重要文化財に指定された「東京国立博物館 表慶館」の前を通り過ぎて「法隆寺宝物館」へと向かいます。表慶館の詳細は下の写真を見てくださいね。表慶館の前には二頭のライオン像があり阿吽のライオン像と云われているそうでちょうど、狛犬のようでもあります。ライオン像から見た国立博物館。博物館の正面にある大きな樹木は「ユリの木」です。表慶館を回り込んでゆくと「法隆寺宝物館」が見えてきます。白木蓮の蕾が白く膨らんでいましたよ。宝物館の大きなガラス戸に映り込む表慶館の姿。振り返ると東京大学の赤門と並び称される「黒門」がよく見えます。旧因州池田屋敷表門。旧丸の内大名小路(現在の丸の内3丁目)にあった鳥取藩池田家江戸上屋敷の正門です。法隆寺宝物館に入ります。ここには、法隆寺の国宝11点、重要文化財182点が展示されています。もっと、たくさん有るらしいけれど今回はこれだけの美術品を拝むことが出来ました。こんなに数多くの仏教美術を一度に見られる場所はそうそう無いので私は何度来ても楽しい場所なのです。「灌頂幡」 幡(ばん)は寺院の堂の内外を飾る荘厳具の一つですがとっても大きく長いのです。階段を上ってこれを見ると、飛鳥時代の人たちの技術の高さに脱帽です。さて、余談ですが国立博物館の隣の東洋館の脇に「ホテルオークラレストランゆりの木」があります。私は、ここでお昼を頂きました。山海丼鮭とキノコ類といくらのお味がオークラらしいなぁ〜って‥上品な味付けでした。食後にお茶と和菓子のセットを注文しました。この和菓子、桜餅なんですよ。中の餡は鶯餡でこれまた、とても美味しかった本題の「法隆寺宝物館」はまた明日、UP致します。今日は、雨で寒いので日帰り温泉に行ってきますつづくにほんブログ村
2024.03.12
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「常陸風土記の丘」枝垂れ桜では茨城県内でも有名な常陸風土記の丘です。今は、梅の花が満開を過ぎて散り初めています。風土記の丘には古代の家屋を復元した広場があります。縄文時代から江戸時代後期まで古民家がずらりと並んでいます。復元広場に入園料を支払って入ってゆきます遥かなる歴史の時空を超えて‥って感じかな現代の家とは全然違う土と茅、竹や木材などいろいろな自然のもので手に入れやすいもので作られていたのがよく分かります。復元して、それを保ってゆくのも大変な作業だと思いました。今日は、お日様が顔を出してくれたので日中でも気温は8度しか上がりませんがやっぱり、お日様は暖かかったです。「連房式」初めて聞く竪穴式住居でしたこ〜〜んなに細長いのですよぉ〜〜入り口は右の方からでした。中には、なんにもありませんけれどねーこの住居を裏側から見ると‥こんなでした。早くも「まんさく」の花が咲いていました。今年も「豊年満作」になるかしらね〜白梅の香りがイイですね〜今夜は「満月」2024年のなかでも今宵の月は「地球から最も遠い位置で起こる満月」となるそうで‥「スノームーン」とも云うそうです。青い色だとネットに書いてありましたがどちらかと言えばオレンジ色でした。風土記の丘は明日に続きますにほんブログ村
2024.02.24
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八代将軍吉宗は大御所様へ九代将軍は家重にそして、吉宗の頃から家重の小姓として仕えていた田沼意次が九代将軍、十代将軍へと続いてゆく。吉宗の没後、世の中は「側用人」の政治の時代へとなってゆく。家重の頃から腐敗政治は続き、天明2年から7年間にわたるいわゆる「天明の大飢饉」「浅間山の大噴火」「農民一揆」の大型化。1745年(延享2年)、徳川家重は9代将軍に就任すると田沼意次の有能さを見抜き、将軍の住まいである本丸を守る本丸仕えに大抜擢。政治の表舞台への第一歩を歩み出す。田沼意次が如何に優秀だったか?その出世街道を見れば一目瞭然。1748年(寛延元年)には1,400石を、4年後には3,000石を加増され、1758年(宝暦8年)には、将軍と老中を取り次ぐ御側御用取次から10,000石の大名に取り立てらる。田沼意次も享保の改革を踏まえて倹約を奨励しますがなかなかうまくはいかない政治の世界。田沼は、幕府の財政赤字を食い止めるために重商主義政策を採る。株仲間の結成、銅座などの専売制の実施、鉱山の開発、蝦夷地の開発計画、俵物などの専売による外国との貿易の拡大、下総国印旛沼の干拓に着手すなどの政策を実施した。 その結果、幕府の財政は改善に向かい、景気もよくなった。 しかし、社会の初期資本主義化によって、町人も役人の生活が金銭中心のものとなり、そのために贈収賄が横行したのである。浅間山の大噴火と飢饉により疫病は蔓延し、景気が悪化し、田沼の打ち出す政策は失敗し、それによる都市部の治安は益々悪くなり、一揆や打ち壊しの激化が起こり江戸商人への権益を図りすぎたことを理由に贈収賄疑惑が高まり田沼意次への批判が集中する。田沼意次は蘭学を保護し、平賀源内などとも親交を持ち、士農工商の別なく実力主義に基づく人材登用もおこなった。この田沼意次と犬猿の仲と言われるのがあの「松平定信」である。その頃に流行った「狂歌」<田や沼や 濁れる御世をあらためて清く澄ませ 白河の水><白河の 清きに魚も 住みかねてもとの濁りの 田沼恋しき>松平定信もまた、吉宗と同様に「質素倹約」を旨としたことは田沼意次と変わりはないが生まれの差でしょうか‥田沼意次は、紀州藩の足軽の子供で松平定信は、吉宗の孫だから‥仲良くは成れないかもですね。それと結果論から言えば意次も定信も政治改革には失敗したことになるのです。田沼意次は賄賂政治の「ドン」みたいに言われているけれどそんなに悪い人ではないように私は思うのである。:追記:今、フジテレビで「大奥」が放送されています。このドラマの田沼意次はあまりに悪者に描かれていますねー気の毒なくらいな悪役ですにほんブログ村
2024.02.17
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「徳川家重」(とくがわいえしげ)は、1711年(正徳元年)に八代将軍吉宗の長子として紀州藩赤坂中屋敷にて生まれ、幼名は「長福丸」と言う。1716年(享保元年)、父の徳川吉宗が八代将軍に就任することとなり、長福丸も父に付き従って「江戸城二の丸」へ入る。1725年(享保10年)に14歳で元服。そして20歳になった1731年(享保16年)には、皇族である「伏見宮邦永親王」の第4王女「増子女王」と結婚。徳川家重は生まれながらの虚弱体質で、障がいのために発する言葉が不明瞭でありそのせいか多くの人との交流を好まず、大奥に籠りがちで、青年となってからは酒色にふけり猿楽能楽を好み益々健康を損なっていくことになる。どこの家でも現代もそうであるかも知れないが長男があまりに頼りなく酒と女と道楽に溺れていたら「後を継がせる」のを躊躇うかも知れない。それは、八代将軍吉宗も同じであった。家重の弟の徳川宗武は幼い頃より勉学に励み、聡明であったと伝えられている。ここに「継嗣問題」が頭をもたげてくるのである。徳川家の基本は「直系の長男による相続」これを破ることで兄弟間や親族、さらには派閥に与する家臣らによる後継者争いにより徳川家内部の秩序が乱れるのは避けたい。いろいろあって残念ながら徳川宗武の擁立にはならず1745年(延享2年)、徳川吉宗は隠居して「大御所」となり、徳川家重は36歳で九代将軍に就任。さて、徳川家の話の中でよく出てくる言葉に「御三家」がある。「尾張徳川家」「紀伊徳川家」「水戸徳川家」そして吉宗が定めた「御三卿」がある。田安徳川家(田安家) - 始祖は徳川宗武(第8代将軍徳川吉宗の次男)一橋徳川家(一橋家) - 始祖は徳川宗尹(第8代将軍徳川吉宗の四男)清水徳川家(清水家) - 始祖は徳川重好(第9代将軍徳川家重の次男)これは、九代将軍を決める時に生まれ出た結果とも言える。さて、この頃の「大奥」であるが‥家重は父 吉宗が大御所として後見役をしていた間は勿論ものことであるが宝暦元年吉宗が亡くなってからも将軍としての政治は行なっていない。と言うことは「大奥」で過ごすことが多く特に側室お幸の方を寵愛した。元文2年、まだ家重が世子時代に徳川本家の第一子として嫡子誕生。幼名は家康ゆかりの「竹千代」と名付けられてのちに「家治」と名乗る。吉宗はこの孫の家治を寵愛し期待をを寄せる。この間、家重のもっぱらの近習は大岡忠光である。忠光は16歳で家重の小姓となり家重に気に入られ宝暦元年には一万石の大名に取り立てられ、同6年には武州岩槻二万石の城主となる。忠光は家重の不明瞭で聞き取りにくい言葉をよくよく聞き分けることができたことから巧みに家重の気分を察することが出来たと言う。当然ながら家重のとのコンタクトとは忠光無しではうまく行かないので忠光は表使いも大奥でも権勢を持ったと言える。この忠光に認められたのがあの「田沼意次」であった。大奥でもこの時代はかなり乱れていたことは想像するに難く無いが大御所吉宗や大岡忠光などの支えがあり享保の改革期よりも幕府財政は少しは安定し幕府の貯金銀も増加している。九代将軍家重は徳川将軍の中で最も暗愚な将軍と言われているが暗君を擁して専権をふるうような人物も出てこない。酒と女色に溺れてはいたが元来、病弱のためそんなに多くの子も成していないのが平穏を保てた一つの理由であったやも知れぬ。1745年、八代将軍吉宗が逝き1760年、大岡忠光が逝きいよいよ側用人「田沼意次」の時代がやってくる。にほんブログ村
2024.01.25
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昨夜、「大河ドラマ」を見ていました。よく皆が云うところの「王朝時代」って何時の辺りのことを言うのか‥日本史に詳しくない方のためにちょっと「王朝時代」のさわりだけ書いてみることにしました。平安京は桓武天皇の延暦13年(794年)の遷都によって始まりましたが「万代宮(よろずよのみや)」と宣せられたのは平城天皇を経て嵯峨天皇の御代になってからのことでした。嵯峨天皇は、すべて「唐風」によって儀式を行うことを本旨とされました。嵯峨天皇の弘仁時代はまさしく唐風文化の最盛期でもありました。しかし、日本を取り巻く東洋の政治は動乱機に向かいやがて、中国の「唐」も衰退してゆきます。宇多天皇の寛平6年(894年)に菅原道真の献言により遣唐使の廃止され朝鮮半島の新羅が滅び渤海も滅亡してしまいました。日本も唐にならった律令の制度が崩壊に向かい新しい令外(りょうげ.令に規定されていないこと)の官や組織が生じてきます。朝廷の人たちの生活も唐風な瓦葺の建物から木造で板の間に畳を敷いて座る形式となってゆきます。これに伴い服装の形態も変化し「今様」と呼ばれる女性の唐衣、裳、五つ衣、十二単、男性の、束帯、衣冠などへと変化してゆきます。「王朝時代」と呼ばれるのは平安時代の内、前期を除いて藤原氏による摂政、関白としての行政体制が中心であった10世紀から11世紀後半までの時代でありこれに続く「白河法皇」の院政時代へと続いてゆくのです。さて、大河ドラマ「光る君へ」に登場してくる女性の中で主役の「紫式部」と同様に大変に教養溢れる女性があと、二人います。紫式部さんよりも先輩格になる女性です。今週の大河に初登場した女性。「赤染衛門」です。詳しくは上記をクリックしてください。百人一首59番 「やすらはで 寝なましものを さ夜ふけてかたぶくまでの 月を見しかな」現代語訳をするとあなたが来ないと分かっていたらためらわずにさっさと寝ていただろうに。あなたを待ってるうちに夜が更けてしまい、とうとう明け方に西に傾こうとする月を眺めてしまいました。これは、代作と言われています。赤染衛門の姉妹さんのどちらかのために代わりに詠んだと伝えられています。そして紫式部と言ったらこの女性は外せませんねー「清少納言」です。上の図は「香炉峰の雪」の場面ですね。清少納言の「枕草子」は「源氏物語」と並び称されますが「枕草子」は随筆の最高峰ですし「源氏物語」は物語の最高峰で比べようもありません。王朝時代には多くの女流歌人がその魅力を一気に爆発させました。今、現代においてもこれだけ素晴らしい文章、和歌、物語を書けるうら若き女性はそうそう居ないと思います。紫式部の書き残した「源氏物語」は世界各国の40以上の言語に翻訳されているそうです。平安時代、鎌倉時代、室町時代安土桃山時代、江戸時代、明治、大正、昭和、平成、そして令和へと連綿と続いている「王朝の雅」への憧れ。それは、宮中で行われたきた儀式が私たち庶民の間にも定着していったからかも知れませんね。大寒を過ぎれば春を告げる「立春」がやってきます。その立春の前日が「節分」ですから今でも、やはり宮中行事は少しづつ姿を変えながら繋いで続いているのですね。にほんブログ村
2024.01.22
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江戸時代の将軍の中で徳川吉宗ほど、映画やドラマ、TVでトップスターの座を独り占めしていた将軍様は他にいないだろう。さて、将軍職などその立場的に到底無理だった吉宗は紀州藩主として財政再建の手腕をふるっている最中、将軍職を継ぐ話がもたらされます。1716年(享保元年)に7代将軍「徳川家継」が、わずか8歳の若さで病没したからです。本来であれば、徳川御三家筆頭の尾張徳川家から次の将軍を輩出するところですが、尾張徳川家は「尾張藩は将軍位を争うべからず」と言う不文律が立ててあったため、積極的に将軍位就任運動を行なうことはありませんでした。その結果、紀州藩で財政を立て直すことに尽力していた徳川吉宗が、8代将軍に就任することになったといわれています。「徳川吉宗」といえばいわゆる「享保の改革」ですが長くなるので‥詳しくは上記をクリックしてください。吉宗は将軍職に就くと真っ先に、間部詮房と新井白石など家宣以来の権臣を罷免。この時、大奥は困ったでしょうね。何しろ、「諸事倹約」「武事奨励」を命令し自らもそれを実践したのですから。「一汁一菜、酒一献、木綿の着物」吉宗は、紀州藩の財政改革と同じく、まず幕府の財政改革に着手。贅沢の限りを尽くしていた幕府の財政は、もはや破産寸前。そして、そこへ持ってきて大勢の夫人や女中が生活していた大奥が、財政難にさらに拍車をかけていたわけです。吉宗は質素倹約を徹底し、幕臣の贅沢を禁じ、さらに、大奥の女中たちを大量に解雇して、大奥にかかる費用を大幅削減することになるのです。吉宗はこのほかにも有名な改革の一つとして「目安箱」や「小石川養生所」の設置。火事の多かった江戸の庶民の家の屋根を藁葺き、板葺から瓦葺に改め、広小路や火除け地を増やし、更には、新田開発も吉宗の時代から始まります。お庭番、つまりは隠密をそばに置き町奉行として「大岡越前守忠相」の抜擢、荻生徂徠、青木昆陽など異色の学者も登用しました。それとなんと言っても吉宗は「米」である。農民対策であり、吉宗の時代には米の価格が激しい変動をみせていました。天災が非常に多く、疫病も蔓延し吉宗はこれらを「倹約」によって切り抜けようとしたがそれは出来ませんでした。米価調節の困難、財政逼迫の結果、幕府はついには貨幣改鋳を行わざるを得ませんでした。簡単に言ってしまえば、「享保の改革」は失敗したのです。江戸時代における<三大改革>「享保の改革」「寛政の改革」「天保の改革」いずれも失敗だったと言うことになります。徳川の時代に「大奥」のことがあまり取り沙汰されないのもこの吉宗の時代です。江戸幕府における「中興の祖」と呼ばれた吉宗。時代はこの辺りから江戸庶民が作り出す風俗、文化も変わってゆくのです。ちなみに徳川家将軍の家系図を9代将軍まで載せておきます。(見えにくくて申し訳ない)思っていたよりも子供の数が少ないのです。吉宗には5人の子供しかいませんでした。その内、源三と芳姫は幼くして他界しているので成人したのは、3人だけなのです。吉宗は長男「家重」に家督を譲り自身は「大御所」として9代将軍の行末を見守ることになります。にほんブログ村
2024.01.09
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12月になり今年も「毎日都々一」のお正月の兼題を発表しました。毎年、兼題を考えるのは悩ましいことです。毎日新聞の水戸支局長と一緒にいろいろな「文字」を選出します。今年話題の文字ではなく、お正月に相応しい文字を選び出すのは、案外、時間がかかります。今年も考えて、考えた結果、次の文字に決定!「信 如 易 遊 翔」新聞に発表してから三週間‥だいぶ、作品が集まって来ています。この文字の中から2文字以上を使ってお正月らしい「都々逸」を作って応募していただきます。そして、12月23日(土)の朝刊には「毎日都々一」のことが大きく紙面に載りました。お正月の作品募集もまた、掲載して頂きました。私、二十年以上も選者をしているんですね〜〜〜自分のことは気づかないものです。にほんブログ村
2023.12.26
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徳川七代将軍家継。わずか5歳で徳川七代将軍になった家継。幼い時から病弱で在職期間は約3年で8歳で亡くなった歴代最年少の将軍でした。 家継の生母として月光院の大奥での権勢は大きくなり、側用人の間部詮房や新井白石ともども老中や天英院など反月光院派の反感を買うようになりました。それが形となったのがあの有名な「絵島・生島事件」です。江戸を騒然とさせた大奥の大スキャンダル。今までに、どれだけ映画やドラマになったか分かりません。内容は、簡単に言えば月光院付きの御年寄絵島が役者の生島新五郎と密通したとして信州高遠に流され、生島新五郎も島流しになったのです。この事件は老中派の策謀だったとも言われていますが、いずれにしても幼い将軍ゆえの悲劇が起きたのです。映画で女優の仲間由紀恵が絵島を演じましたが映像が美しくて良かったですね。「大奥」その映画の中で幼い七代将軍が間部詮房にこう云う場面がありました。「越は偉いのう‥」間部詮房は宝永元年に従五位の下 越前守に任ぜられているのです。幼い将軍に代わって間部詮房は実質的な国政の最高責任者だったと言われています。七代将軍は、あまりに幼く何か政治を司ることはなかったと思いますが月光院VS天英院の争いの犠牲になったのが絵島生島であり、次の将軍が徳川吉宗に決まったのも結局、月光院が負けて天英院が勝った結果なのです。七代将軍家継は今も増上寺で静かに眠っておられます。増上寺は、浄土宗の七大本山の一つです。東京の一等地にありますが後ろに「東京タワー」向かって右横に「東京プリンスホテル」があります。増上寺 HP クリックしてみて下さい。浮世絵の増上寺と今の増上寺、解脱門からの景色は然程、変わっていないあたりが増上寺のスゴさかも知れません。写真や系図、浮世絵などはネットからお借りしました。あっそうそう、今日はChristmas Eve特段、何も無い日曜日です。にほんブログ村
2023.12.24
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元禄15年12月14日(1703年1月30日)、大石内蔵助率いる赤穂浪士が、吉良上野介邸に討ち入りました。芝居やドラマで有名な「忠臣蔵」です。討ち入りの日が12月14日に決まったのは、吉良上野介が14日に年忘れの茶会を催すという情報を得たからだと言われています。奇しくも14日は亡君・浅野内匠頭の月命日。時の将軍は徳川綱吉、犬公方様ですね。この事件は「松の廊下刃傷事件」から「吉良邸討ち入り」へと続いてゆくのですがあれから320年もの歳月が流れているというのに芝居、映画、ドラマ化されているところが実に興味深いですね〜ちなみに「忠臣蔵」の初上演は‥寛延元年(1748)、大坂竹本座での人形浄瑠璃でした。時代は元禄時代から八代将軍の時代になっっておりました。そうですよねーいくらなんでも片手落ちのお裁きを下した幕府を悪くは描くことはできませんものねー今、ちょうどBSで過去の忠臣蔵のドラマが一挙放送されています。忠臣蔵の面白さは俳優が誰であっても10年前、20年前、30年前の映像であっても多少、内容や登場人物が全員描かれていなくてどれも皆、よく出来ているところです。先日の横浜のBlogにも「赤い靴」を知らない世代もいましたが今や、30代40代下手すると50代の人でも「今日は討ち入りね。」と言うと「何、それ」と言われます。年末なのでいろいろな映画やスペシャルドラマが見られる時期ですがこの頃、ふと思うのです。一回限りの映画やドラマではなく「忠臣蔵」のようにもう300年も演じ続けられている作品は、一度は観た方が良いと思います。内容が面白いというだけではなく当時の江戸時代の文化を知るため幕府の政策や武士の有り様を知り江戸庶民の暮らしを垣間見るのも歴女の私には多方面に興味が湧く「忠臣蔵」です。東京高輪にある「泉岳寺」今日は、大きなイベントがあるらしいですよ。この時期は「泉岳寺」はとても混雑しています。線香を手向けるにもものスゴイ列になります。(泉岳寺と義士祭の写真はネットからお借りました)今夜も「忠臣蔵」の一挙放送の続きを観ます。あったかい炬燵に熱燗やら、酒の肴を何品も並べてドラマを見る。忠臣蔵の良いところの一番はちょっとぐらい席を外しても「あ〜〜見損ねてしまった〜」と言うことが一切無いことが実に良いのですよ何十回、忠臣蔵を観て来たのでしょうか‥知らない内容は、ほとんど無いから席がはずせるのですにほんブログ村
2023.12.14
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昨日は「漢字の日」なのです。毎年、清水寺で「今年の漢字」が発表されます。「漢字の日」の制定は、京都府京都市東山区に本部を置き、日本語・漢字に関する普及啓発・支援、調査・研究などを行う公益財団法人・日本漢字能力検定協会(漢検)が1995年(平成7年)に制定しました。日付は「いい(1)じ(2)いち(1)じ(2)」(いい字一字)と読む語呂合わせから12.12になったのだそうです。 昨日のTVのLIVEで清水寺が映し出されました。この清水の舞台の上にいる人の数がスゴイびっしりですよーさすが、清水の舞台ですね〜びくともしない舞台。音羽山清水寺の開創は778年。もう1200年以上も此処にある清水の舞台。この舞台や伽藍のために清水寺は500年計画で檜の木を京都のとある山で育てています。さて、昨年、2022年の「今年の漢字」は「戦う」でした。此処10年間に書かれた「今年の漢字」一文字は2022年 戦2021年 金2020年 密2019年 令2018年 災2017年 北2016年 金2015年 安2014年 税2013年 輪で、「2023年 今年の漢字」は又しても「税」でした。世相を表すと言うかその年々で全国の人の思いを感じる一文字ですね。私がちょっと驚いたのは森 清範 貫主が使った筆です。ネットで検索すると筆も紙も全部、記載されていました。そのまま、載せます。「今年の漢字」揮毫について揮毫者:清水寺 森 清範 貫主 (きよみずでら もり せいはん かんす)筆 :牛耳兼毫筆(ぎゅうじけんごうふで) ※広島県熊野産 毛…白天尾(しろあまお)長さ11.5cm 直径4.5cm、 軸…長さ26cm (一番太いところの直径は約5.5cm)墨 :奈良県産紙 :黒谷和紙協同組合の講師による指導のもと、 京都伝統工芸大学校の学生たちが手漉きをした和紙(縦150cm×横130cm) 牛耳兼毫筆という筆は牛耳毛だけで作った筆と違い、かなり柔らかい筆になっています。羊毛筆と似た感じですが、腰には馬尾を使用していますので腰は強く、書きやすい筆になっています。外側に巻いてある上毛は赤毛(馬胴毛)です。行、草書に良い。こうして、「師走」を感じてゆくのですね〜しかし、私は「税」ではなく今年の漢字を一文字で言うなら「沸」ですね。「温暖化」から「沸騰化」への2023年。強烈な印象でした。にほんブログ村
2023.12.13
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今年の気候はいったいどうしたことなのでしょう‥秋を追い抜いて冬になってしまったような気温です。今日は全国各地にある山に「初冠雪」が見られたようですよ。あまりにいきなりですがもう一日中、着物を着ていても汗もかかない季節になりました。「浅野榮一の江戸小紋」上の写真はネットからお借りしています。江戸小紋とは、江戸時代から伝わる「型染め」による染めもののことです。江戸小紋の特徴は、遠目だと一見無地にも見えるほど、ごく小さな柄を染め上げています。江戸小紋は、江戸時代に武家の礼装である裃に用いられるようになったのが始まりです。各藩の武士は、本来無地であった裃に藩の独自の文様の「定め柄」を入れて、その柄の豪華さを競うようになりました。江戸中期になると江戸小紋は町人にも広まり、各藩が定めた「定め小紋」に対して、幾何文様、縞模様、自然・動物など身の回りのものをモチーフにした「いわれ小紋」という柄が生まれ、黒や色の無地に次ぐ男性の略服として用いられるようになりました。そして次第に女性の着ものとしても使われるようになりました。江戸小紋の着物は私も2〜3枚持っていますが普通の小紋よりもオシャレな感じがするものです。浅野榮一の着物はとても上品な色合いに仕上がっています。特に「縞模様」がイイですね〜もうすぐ、本格的な冬がやって来ます。背中と腰を暖かく包んでくれる着物を着なくちゃね‥腰痛は帯を締めている時にはまったく痛みを感じないのが不思議です。「目の保養」も出来ました。にほんブログ村
2023.11.13
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先月、「大奥‥六代将軍家宣」のことをBlogに書きました。今回は、家宣の優秀な部下についてです。家宣の治世下において特に重用されたのはふたり。ひとりは間部詮房(まなべ あきふさ)で、猿楽師から小姓を経て大名にまでなった人物である。仕事熱心な無私の人であり、また人柄も温厚で、大出世を遂げながらそれに溺れることもなかったという。いまひとりが新井白石。こちらは儒学者で、頭の回転が速すぎる人物だったようだ。人々は彼のことを「鬼」と呼んで恐れ、また嫌ったと伝わる。のちに政治の一線から退いた後は執筆に没頭し、自伝『折たく柴の記』、諸藩記録『藩翰譜(はんかんふ)』、海外事情をまとめた『西洋紀聞』『采覧異言(さいらんいげん)』など多数の著作を残した。この対照的なふたりが進めた一連の政治を「正徳の治(しょうとくのち)」と呼ぶ。と、モノの本には書いてあります。五代将軍綱吉の時には「柳沢吉保と荻生徂徠」六代将軍家宣の時は「間部詮房と新井白石」まぁ、こういう側用人や学者が将軍様には侍っているのですね。六代将軍の治世は3年5ヶ月ほどでしたから当然ながら、後継者問題が大体的に江戸城内で持ち上がってくるのです。正徳2年(1712年)、家宣が病に倒れた。同年9月23日、家宣は新井白石と間部詮房を呼び寄せて、「次期将軍は尾張の徳川吉通にせよ。鍋松の処遇は吉通に任せよ」と「鍋松を将軍にして、吉通を鍋松の世子として政務を代行せよ」の2案を遺言したと『折たく柴の記』には記されている。そして家宣が死去すると新井白石は、「吉通公を将軍に迎えたら、尾張からやって来る家臣と幕臣との間で争いが起こり、諸大名を巻き込んでの天下騒乱になりかねぬ。鍋松君を将軍として我らが後見すれば、少なくとも争いが起こることはない」として、鍋松の擁立を推進した。これに対して、幕閣の間では、「鍋松君は幼少であり、もし継嗣無く亡くなられたらどうするおつもりか」という反対意見もあったが、白石は「そのときは、それこそ御三家の吉通公を迎えればよい」と説得したという。また一説に家宣が、「鍋松の成長が見込めなかった場合は、吉通の子・五郎太か徳川吉宗の嫡男・長福丸を養子として、吉通か吉宗に後見させよ」と遺言したという。ウィキペディアから引用。後継者問題が揉めに揉めるとこの二人のブレーンも何かと策謀をめぐらしてゆくのです。大奥での出来事は実に興味深いです。それと「大奥」は「女の園」であるわけですが「政治」と密接に繋がっていて「奥」の方でひっそりとしている訳でもないのです。家宣の死後、七代将軍からあの八代将軍に至るまで天英院と月光院の対決が待っているのです。今の江戸城(皇居)の写真はネットからお借りました。にほんブログ村
2023.11.11
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江戸時代の中でも強烈な印象を与える五代将軍「綱吉」と八代将軍「吉宗」との間に挟まれてなんとなく影が薄い六代将軍「家宣」彼は将軍になった時の年齢が48歳であった。何しろ、綱吉とその母「桂昌院」の影響がものすごく強い大奥でも綱吉の後の将軍、つまり後継者争いが熾烈にも関わらずやけに物静かに澱みながら蠢いていたとされている。結局、綱吉、桂昌院の思惑は届かずあれだけ、京都や江戸のお寺に寄進しても綱吉は男子を授かることはなかった。すんたもんだした挙句、甲府宰相「家宣」が綱吉の養子となり綱吉の死後、六代将軍となる。綱吉の発令した「生類憐みの令」も後継の子を得ようとする哀れな母息子の一途な祈りでもあったのかと思うほどである。家宣の治世は「生類憐みの令」の廃止に始まった。当時、江戸の人々は「万代の亀の甲府が代となりて宝永事よ 民の喜び」という落首が出たくらいである。現代的に訳してみると(甲府)家宣の代となって<ほう、ええことよ>と年号の「宝永」を合わせ「甲府」の甲と亀の甲とかけて祝福したのである。家宣を補佐した二人の有名人がいる。御側用人の間部詮房侍講(じこう)役の新井白石である。間部詮房は能役者の弟子であったとか貰い子であったとか言われているが能楽好きの家宣に寵愛され六代様の御代になると老中格の側用人となる。新井白石は甲府時代より侍講として仕えた。家宣が将軍になると間もなく幕政についてもしばしば諮問にあずかるようになり家宣、詮房、白石、三者の固い結びつきによって幕政の改革に乗り出す事となる。まずは、財政改革である。五代様と桂昌院、そして大奥が使い果たした幕府の収入。貨幣改鋳というもっとも安易でしかも弊害の多い政策を選び貨幣価値の暴落、物価高騰を招いた前政権を痛烈に非難した。しかし、一度失われた貨幣への信頼は取り戻せず終いで長崎における貿易収支も赤字続きであった。六代将軍家宣はあまり目立たず、語られることも少ないが八代将軍よりも「誠実」な人だったのではないか?と思う。家宣曰く才あるものは徳あらず。徳あるものは才あらず。真材誠に得がたし。在任年数は、約3年5ヶ月と短いが理想的な政治を真面目に目指したところが多く見受けられる。さぁ、そして六代将軍が病に伏せるとまた、大奥ではドラマになるような事が次々に鎌首をもたげてくるのである。ドラマの「大奥」は「医療編」ですね。にほんブログ村
2023.10.17
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朝早くから地震や津波の注意報が相次いでいる。鳥島あたりでは10月に入ってからずっと地震が続いている。今日の注意報は地震の規模が判らないままに津波注意報が出た。今、世界中で大きな地震が起きている。只事ではありません。日本は「地震大国」何故、日本は地震国日本の国土は地球上の陸地面積の約400分の1にしか過ぎないのに日本列島およびその周辺からの地震や火山噴火エネルギーが地球全体の約10分の1も発散している。これは日本列島が世界でも有数の変動地帯に位置しているからにほかなりません。以前にも何度もBlogにも書いてはいるが日本およびその周辺は北米プレートユーラシアプレート太平洋プレートフィリピン海プレートという4つのプレートがひしめき合っている。日本列島の東の沖合には千島海溝、日本海溝がありそこは太平洋プレートが東日本を乗せている北米プレートの下に沈みこんでいる。よく耳にする「南海トラフ」というのはフィリピン海プレート辺りで起きる巨大地震と言われている。世界のあちこちで大きな地震が起きている今。世界のプレートテクトニクスの位置把握ぐらいは知っているのも生きてゆく上での重要なことの一つと思う。プレートテクトニクスとは 地球の様々な変動の 原動力を地球の全表面を覆う十数枚の厚さ数十kmほ どの岩盤(プレート)の運動に求め、そのプレートの 境界部に様々な変動が生じることにより、地震や火山をはじめとする様々な地学現象を統一的に解釈し ようという考え方であり、1960年代の後期に登場した。プレートはそれぞれ別々の方向に年間数cm程度の速さで移動している。したがって、それぞれのプレー ト境界では、プレートが離れ合ったり、近づき合っ たり、あるいはすれ違ったりする。世界のプレート大学、大学院の時に習ったことではあるがネット上で調べるとさほどの大差はないが写真やイラストがカラーになっていて分かり易くなっているので今回の地震やプレートのイラストや文章はネットから拝借しているものもある。これは、地球全体に関わる問題で「わたしのところは関係ない」などとは言っていられないことである。ましてや日本は四方海に囲まれているのだから日本を囲む4枚のプレートのどれが動いても大変なことになる。大きな地震には付随してくるものに津波と噴火がある。日本は「火山大国」でもある。避けて通れれば良いがどこでも起きる地震なので避けようもなく、防御することもまったく出来ない。そして、地震も津波も噴火も前もって予報することはまだ出来ていない。とにかく、日頃の危機管理を高めておくことが肝要。それに付け加えて地球温暖化、沸騰化感染症の蔓延、戦争、経済の混迷と悪いことばかり続いてゆく。そんな今朝、津波のニュースのあとは歓声に湧くスポーツの中継が放送されている。メディアの考えは理解し難く一時の夢に歓声をあげる多くの人の心も理解し難い。今日は一日、本降りの雨ですにほんブログ村
2023.10.09
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煎茶道も然り‥抹茶の茶道も然り‥私の人生の大半を占めています。古いアルバムの整理をしていてそれがよく分かります。下の写真は高校一年生の時のお茶会の写真。自分でふっと思った‥「呉服屋の娘はいいね〜毎回、着物が違っていて‥」自慢ではないが本当に父は何枚も振袖も小振袖も私に作ってくれた。成人式までいったい何枚の振袖を着たことだろう‥次の写真は煎茶の茶会の時の写真。これは、高校2年生の時。この着物は珍しく私のお気に入りの着物で薄いピンク色に椿の柄で今でも染め直しをして道中着としてたまに袖を通している。「茶道」は敷居が高いと言われる。少しぐらいなら習ったことがある人も多いとは思うがず〜〜っと何十年も止めずに続けている人はそんな多くはないのでは‥と。きっと人生のどこかの年代でストップしたか止めてしまっっていると思う。今でも私は抹茶も煎茶も続けている。もう軽く60年以上にもなる。今の私も若い時の私も「茶の道」を学んできてそれが私を心の何かを形成していると思う。日本の四季、日本の礼儀日本人の美意識、日本の歴史等々多くのことを学んでいる。茶道は室町文化の一つと言われてそれが信長、秀吉の安土桃山時代に確立された。女性が茶の湯に親しむようになるのはず〜っとあとの時代で一般女性が茶道を習うようになるのは明治になってからと言われている。さぁ、今日も我が家を含めて周囲が工事の音で騒がしいけれど今日は今日で出来ることをしたいと思っている。まずは、病院ですねにほんブログ村
2023.09.26
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こちらの人物は五代将軍綱吉。前回の四代将軍家綱の弟さんです。犬公方と呼ばれあの「生類憐れみの令」を制定した物語がたくさん出てくる元禄時代の将軍様です。あまりに有名な将軍ですので今更、言うべきにあらずと思い、本日は、その綱吉に寵愛された「柳沢吉保」を取り上げてみました。綱吉が最初に御側用人として重用したのは牧野成貞ですがその後、吉保が綱吉の恩寵の第一人者となります。吉保は綱吉が将軍になると御小納戸役になり670石の加増を受けてとんとん拍子に出世してゆく。元禄時代に入ると御側用人として一万石の大名となりました。同年三年には三万三千石。七年には川越城主となり七万二千石、十年には更に二万石を加増されます。そして、十四年には「松平」の称号を許され宝永元年には甲府に封ぜられて十五万二千石を領しました。ものすごい、出世のスピードに驚愕です。柳沢吉保は特別な政治的見識とか他より秀でた行政手腕があった訳ではありません。偏に最も忠実に綱吉の意向を迎え進んでそれを推察し誠に持って誠実に代弁した人でありそれで成功してこんな出世をしたのだと思うのです。東京の文京区に「六義園」と言う庭園があります。門をくぐるとすぐに大きな枝垂れ桜があります。当然ながら「桜人」の私はこの桜を何度か観ております。吉保が綱吉から賜った場所に下屋敷を造り、御殿を六義館、庭園を六義園と称したそうです。『詩経』の六義(りくぎ)から園名が名付けられています。江戸初期に完成した桂離宮の庭園の様式を採用した回遊式築山泉水庭園であり元禄時代の明るいおおらかな気風を反映した江戸大名庭園の最も代表的なお庭です。夏景色も涼やかです。秋の紅葉の頃にはライトアップが人気ではとバスも訪れるほどの美しさですよ。五代将軍綱吉はあまり良くは言われませんがとても「理想家」だったとも言われています。吉保は綱吉の心の奥底にある美しく華やかで平和な日本国の在り方を実現しようとした人でもあります。生類憐みの令はちょっとやり過ぎかしらと思うけれど今、現代には「動物の愛護及び管理に関する法律」があります。その法律の第一章「総則」にはこう書かれています。第一章 総則(目的)第一条 この法律は、動物の虐待及び遺棄の防止、動物の適正な取扱いその他動物の健康及び安全の保持等の動物の愛護に関する事項を定めて国民の間に動物を愛護する気風を招来し、生命尊重、友愛及び平和の情操の涵かん養に資するとともに、動物の管理に関する事項を定めて動物による人の生命、身体及び財産に対する侵害並びに生活環境の保全上の支障を防止し、もつて人と動物の共生する社会の実現を図ることを目的とする。(基本原則)第二条 動物が命あるものであることにかんがみ、何人も、動物をみだりに殺し、傷つけ、又は苦しめることのないようにするのみでなく、人と動物の共生に配慮しつつ、その習性を考慮して適正に取り扱うようにしなければならない。 何人も、動物を取り扱う場合には、その飼養又は保管の目的の達成に支障を及ぼさない範囲で、適切な給餌及び給水、必要な健康の管理並びにその動物の種類、習性等を考慮した飼養又は保管を行うための環境の確保を行わなければならない。あっそうそう‥この法律の44条にはこうも書いてあります。第四十四条 愛護動物をみだりに殺し、又は傷つけた者は、五年以下の懲役又は五百万円以下の罰金に処する。戦国時代には考えられなかった動物愛護。五代将軍綱吉さんの考え方も間違っていた訳ではないと言うことになります。「争いの無い世の中」をつくる。時は元禄、戦国の殺伐とした気風を排除して徳を重んずる文治政治が花開くのですね〜(六義園の写真はネットからお借りました)にほんブログ村
2023.09.24
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江戸時代の将軍の中で四代将軍家綱ってあまり取り上げられませんね。映画化、ドラマ化もされません。ただ、この四代将軍の時代には江戸に起きた有名な事件があります。それは‥「由井正雪の乱」「慶安の変」「振袖火事」「明暦の大火」「佐倉惣五郎の一揆」などがあります。一つぐらいは耳にしたことがあるかと思います。四代将軍 家綱の時代は幕府の在り方、将軍家の在り方を深く考える時代でもありました。家綱は三代将軍 家光の長男で生母は側室のお楽の方であり寛永四年(1641年)8月3日に江戸城本丸で生まれました。幼名は「竹千代」4歳で「家綱」と名のり同年4月に元服し、正二位権大納言になりました。 17歳を迎えた明暦3年に伏見宮貞清親王の娘・顕子(高巌院)を正室に迎えました。宮家との縁組は、摂家の鷹司家と緑組した家光の時よりも高い家柄を望んでのことであったようです。10歳で征夷大将軍、内大臣に任命されるのですが幼少のため家光の異母兄弟で奥州会津藩主の保科正之が家光の遺言により家綱の後見人となるのです。これを保科家はずっと「恩義」に感じていてこれがあの幕末の会津戦争への悲劇と繋がるわけです。この時、大奥はすでに厳格に整えられており大奥総取締役は「お万の方」でした。家綱は、子に恵まれずに後継者として末弟である松平綱吉を養子に迎えることになります。家綱は生まれつき病弱で三代将軍家光の子であったためより一層、影が薄くみえてしまうのは致し方の無いこととも思えます。1680年に40歳の若さでこの世を去ることになりました。されど、天性が慈悲深く、罪人をも憐れむ善政を布きまた、武芸を奨励し、軍学の普及にも尽力したと言われています。しかし、病弱のせいか家綱は「さようせい様」と呼ばれ政治の表舞台にはあまり関わりを深く持たなかったとも言われています。明暦の大火で江戸城も燃えてしまい大奥もてんやわんやの騒ぎであったことは間違いなく、お城の再建も話し合われましたが天守閣だけは再建されませんでした。それは戦いの無い世の中になり、徳川家の軍事力を出す必要はないと考えた保科正之は、天守閣を治すよりも、城下町の復興を選択したのです。天守閣が無いということは、平和な世の中を象徴するものになったと後世に伝わっています。そうして、時代は「元禄」へ五代将軍 綱吉 犬公方へと移ってゆき、ドラマや映画などで描かれ、皆さんの知るところになるのです。余談昨夜9/12遅くの某TV局のニュースの内容ですが‥先ず、一番最初に報じられたのは1、北朝鮮とロシアの会談はどこで行われるのか2、今年のハロウィンには<渋谷に来ないで>の渋谷区長の発言3、内閣人事のことそうなのねー岸田さんは人気がないのかもねーハロウィーンはまだ先なのに内閣人事よりも重要だということなのか〜〜にほんブログ村
2023.09.13
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「辻が花」という名称は、15世紀後半に初めて文献上に現れる。1596年には豊臣秀吉が明国の使者へ、帰国時の餞別として辻が花を贈ったという記述もある。辻が花は誕生からおよそ一世紀余りの間に、素朴な絞り染めから刺繍や摺箔を施した豪華なものまで各階層の人に広がった。上の写真の「葵の御紋」も辻が花染めである。江戸幕府初代将軍となった「徳川家康」には、11人の息子と5人の娘がいたと言われている。家康は、征夷大将軍になるとわずか在位2年で慶長10年4月に、その職を秀忠に譲ってしまい自分は「大御所」として駿府に移り住む。「武家諸法度」簡単に言ってしまえばこの13箇条である。1、文武両道に励むこと。2、酒におぼれ遊びに呆けてはならない。3、法令に背いた者を匿ってはならない。4、国に反逆人や殺害者がいたら,追い出さなくてはいけない。5、領地に他国の者を住まわせてはならない。6、居城の補修時は、必ず届け出をすること。新築することはかたく禁止する。7、隣国で変化があれば江戸幕府に報告する義務がある。8、幕府に許可のない婚姻は禁止する。9、参勤交代時に、既定人数以上の随身は禁止する。10、身分を弁えた服飾をすること。11、身分の低い者の駕籠の使用を禁止する。12、質素倹約に努めること。13、善き政を敷くこと。武家諸法度の草案は、「金地院崇伝」という僧が徳川家康の命令で作成。そして、大坂夏の陣終息後の1ヵ月後である1615年(慶長20年)6月に「一国一城令」を定め、大名の居城以外の城は取り壊すことを決定した。13条からなる武家諸法度を発布。このお披露目には「伏見城」に諸大名を集め、2代将軍徳川秀忠の前で、金地院崇伝が朗読したと言われている。武家諸法度に従わなければ所領を没収され、改易・減封・転封と処分されるようになった。この法度があったために三代将軍、四大将軍を経て五代将軍綱吉の時も取り潰しが多く行われた。その一つにあの有名な「赤穂藩」がある。二代将軍秀忠はとにかく真面目な人で側室も一人しかいない。秀忠は家康の三男でありまだ、この時は「大奥」は誕生していなかった。家康は、信長や秀吉とはだいぶ異なる性格であり戦いはあまり上手ではなく兎に角、ケチであったとも言われている。「大奥」は三代将軍の時代に「春日局」と「お万の方」が作ったと言っても過言ではないだろう。「大奥」から学ぶ江戸時代は興味を覚えることがたくさんある。それは、現代にもず〜っと受け継がれている。にほんブログ村
2023.08.18
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朝から元気に鳴いている蝉たち。八重桜の木にいっぱい止まっています。八重桜の根元あたりが蝉たちのゆりかご。そこから、這い出て来て蝉になるのでゆりかごの木の八重桜で精一杯に毎日鳴いています。朝よりも昼間、昼間よりも午後の3時ごろあたりがより大きな声で鳴いています。おや羽が破けている蝉がおりました。蝉の一生は、幼虫7年+成虫7日=7年7日程度と言われています。地上で過ごす時間が短いので蝉の亡骸も毎日、たくさん落ちています。昨日、午後に大雨警報が出て1時間に50ミリ程度の雨が降ると予報では言っていました。雨雲の動きをネットで見るとまさに当市を通過するようになっていました。庭に出ると空が暗くなって冷たい北からの風が吹いていました。これは、本当に一雨来ると思いましたし、遠雷の音も聞こえていました。小鳥たちは低く飛んでどこかへ避難をしているかのようでした。それなのにそんなこと、一向に気にせずに蝉は鳴いていました。ところが今にも雨が降りそうなのに雨はひつ粒も降って来ません。蝉はずっと鳴き続けています。雨が降れば蝉の鳴き声は止まります。雨が降らないと分かれば蝉は鳴き続けるのですね〜いやはや、天気予報よりもずっと正確にピンポイントを教えてくれているのです。賢い結局、曇って北風が吹いただけで雨の恵みは受けられませんでした。なかなか日が暮れない夏の夕方。まだまだ、蝉は元気よく鳴いています。日が差し込んできてまた、気温が高くなりました。すると八重桜の木にアオスジアゲハがひらひらと飛んできました。6回目のコロナワクチンの副反応も出ておりません。良かったでも、今日1日は家でのんびりしていましょう。用心に用心を重ねることはとても大事な事ですものね。にほんブログ村
2023.08.05
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京都、江戸、大坂は歴史的都市を担ってきました。京都は「貴族文化」大阪は「町人文化」江戸は「武士文化」「大奥」を読んでいると自然にその役割が分かってきます。何しろ、260年もある江戸時代ですから将軍様がいるというだけで江戸が成り立っていたわけではありません。ドラマ仕立てで見ればその内容は権力闘争や愛憎劇ですが私が特に興味を持つのはその周囲にある文化です。貴族、武士、町人はそれぞれの役割と機能を持ち歴史的に形成された歴史を持っています。その性格は長所もあれば短所もあります。貴族は、高貴であり洗練されており武力を否定して平和な生活様式を作り上げて来ました。それだけに力がなく無責任で依存心が強い。武士は、身命を賭して戦い共同体のために忠誠を尽くし実力で統治する経験があるので責任感が強いがそれがゆえに建前に生きて見栄っ張りである。町人は、モノを作ることや商取引を通して生活の実態を知っており、この世の中の利害損得を身をもって学んでいる。しかし、ともすれば利害損得以上のものが世にあることを忘れがちである。三者三様、良いところも悪いところもあるがこの三者の良いところを全部持ち合わせることはそう簡単には出来ないのである。これは、令和の御代になってもあまり変わっていないと思います。東京は政治都市大阪は商業都市京都は今もお公家さんお寺さん都市です。「大奥」ではこうした三者の関係が面白く描かれています。私は物語の内容よりもその時に後ろに描かれている調度品や衣装、言葉遣い、街の様子などに目が行ってしまいます。その「大奥」があった江戸城も昨日は突然の「ゲリラ豪雨」に襲われていました。これから、毎年、こんなような気候になってゆくのかと思うとエアコンも電気も無かった時のほうが良かったのではと思うこの頃です昨日の涼しさはどこへやら、今朝も早よから30度を超え予想最高気温は35度ですにほんブログ村
2023.08.02
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小説も映画もドラマも漫画本も一気に全作読み切るのは余程、面白くなければなかなか出来ませんが「大奥」は読み切りました。昨夜、NHKBSでドラマの「大奥」を放送していました。が、こちらは、録画してありますがまだ見ていません。今夜、ゆっくり見ようかと思っています。漫画の「大奥」を読み切って気づいたこと‥私を含め皆さんがご覧になった時代劇は今までたくさんあると思います。時代劇には必ず登場してくるのが時の権力者です。主人公と権力者が直接関係することは描かれなくともその時代、時代の背景や風俗、衣装や髪型で時の権力者が分かります。「大奥」は三代将軍家光の時代から十五代将軍徳川慶喜までの長い時代が書かれています。世の中が戦国時代の面影を残しつつ江戸時代に入ってゆきそして、ついにはペリー来航で幕末から明治へと大きく時代が変わってゆきます。衣食住文化、芸能、庶民生活士農工商の変わり行く様などその変化を垣間見るだけでも面白いかったですよ。令和5年の大河ドラマは「どうする家康」ですが徳川家康は、争いのない平和な時代を作った人でもありますが、それはあまり戦が上手でなかったからかも知れませんね。江戸時代の初代から最後の将軍まで十五代の将軍で皆さんの耳に慣れているいる将軍様は何人おられるでしょう①徳川家康(いえやす)②徳川秀忠(ひでただ)③徳川家光(いえみつ)④徳川家綱(いえつな)⑤徳川綱吉(つなよし)⑥徳川家宣(いえのぶ)⑦徳川家継(いえつぐ)⑧徳川吉宗(よしむね)⑨徳川家重(いえしげ)⑩徳川家治(いえはる)⑪徳川家斉(いえなり)⑫徳川家慶(いえよし)⑬徳川家定(いえさだ)⑭徳川家茂(いえもち)⑮徳川慶喜(よしのぶ)この中から読み物に登場してくる将軍様は大体決まっております。よく描かれるベスト3は三代将軍家光五代将軍綱吉八代将軍吉宗ですねーちなみに茨城県で一番の有名人はなんと言っても「水戸黄門の水戸光圀公」ですね。「水戸黄門」はTVでシリーズ化されていました。水戸黄門は天下の副将軍でしたがその時は江戸城の将軍は誰だったでしょうこれが意外と知らない人が多いのです。それは五代将軍綱吉です。「暴れん坊将軍」で有名なのは吉宗ですね。今回の「大奥」の八代将軍も初登場の際には海辺を白い馬に乗って駆けてゆきました。「漫画」からいろいろなことが学べます。男女が逆転していることは今の時代の問題にも繋がっていますね。益々、江戸時代が面白いこの260年余りの江戸時代に今の日本の大元が形成されていったのだと思いますね〜一番上の写真以外はネットからお借りいたしました。にほんブログ村
2023.07.31
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「幸せホルモン」数あるホルモンの中でも人の心を安定させる効果をもたらすものはこんなふうに呼ばれています。「幸せホルモン」と呼ばれるホルモンは3種類あり、それがオキシトシン、セロトニン、ドーパミンです。特に「オキシトシン」は愛情ホルモンとも呼ばれています。哺乳動物にとってオキシトシンは非常に重要なホルモンで「お乳」の中に含まれています。オキシトシンの分泌は母子がスキンシップをとることで増え、双方に良い影響がもたらされているのです。と言っても母乳だけに含まれているわけではありませんから家族や恋人や友人、動物とのスキンシップによっても分泌を増やすことが可能なのです。オキシトシンは、分泌が増えることによって心が穏やかになり、精神的にも安定になります。また、これらのホルモンは「幸せ」ばかりでなく「協力」という思考を導いてくれます。人類が繁栄してきたその源には「協力」することがとても重要だったように感じています。「愛情」「幸せ」「協力」など良いことづくめですが実はそうでもありません。「愛情」には「憎しみ」が付いて回り「幸せ」の隣には「不幸」があり「協力」の対義語は「敵対」でもある。3つの幸せホルモンがほかの動物のようにあまり分泌されなければ人間は「争い事」を起こさなかったかも知れませんし貪欲に何かを追求し自然のリズムを壊してでもやり遂げたいなどとは思わなかったかも知れません。今日も36度越えの炎暑ですニャンズと一緒で部屋の中で「幸せホルモン」プラス「涼感」と「大奥」のコミック本を読んでます。あ〜〜佳きかなにほんブログ村
2023.07.29
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昭和の時代から「大奥」は映画でもドラマでも小説でも描かれている。令和になっても「男女逆転」の世界を舞台に「大奥」がNHKで放送されている。男女逆転の「大奥」の元はこのコミックスである。「大奥」は実際に江戸城に存在していた場所であり江戸幕府は1603年から1868年まで続いた。その間、ずっと江戸城の中では一番、大きな面積を占めていた場所が「大奥」である。現在は皇居東御苑の一部で、往時を偲ぶものは無い。「大奥」の映像化はいつの時代でも面白くもしかしたら‥私の歴史好きは「大奥」から始まっていたのかもしれない。NHKの大奥を見て感じたことは衣装が派手なこと、それとコミック本とほとんど台詞も変わらずに演じられていることである。「大奥」から改めて江戸時代を紐解いてみようと思った。何故かと言うと‥「よしながふみ」の「大奥」以外に江戸時代を全般に捉えている「大奥」が他に映像では見当たらないからである。「大奥 考察」まずは、コミックスを今一度、読み返してみることにする。では‥(写真等々はネットから拝借致しました)にほんブログ村
2023.07.28
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「中世ヨーロッパ」とは西洋史における時代区分の一つです。西ローマ帝国の崩壊から、ルネサンスや宗教改革に至るまでを指し、5世紀から15世紀までの約1千年の期間です。1千年もありますから今、現在の私たちの暮らしに欠かせない様々のものの原型が生み出された時代とも言えます。例えば、どんなものの原型?それは都市の成り立ち、国の成り立ち銀行、大学、宗教の拡大。今とは違うのは主君と臣下という封建的主従関係、農奴、領主、荘園、貴族、騎士などそういったものが確立しシステム化していった時代でもある。新しい時代へ突入する時には何か一つの大きなきっかけがある。日本では磐井の乱、儒教、仏教、蘇我氏と物部氏の対立神仏習合、大和政権などの頃。中世のヨーロッパの社会のしくみは封建制度が基本であり国王→司教→バロン→領主→農民と階級がしっかりと分かれており封建制度は社会の頂点から底辺にまで及んだが、実際に大地を耕し働くのは農民であった。彼らには、なんの権利も財産もなく家来も持たなかった。田舎の人々の多くは荘園に住んでいた。荘園は集落であり、領主の城や邸宅、教会、周囲の農地からできていた。領主は住民全体を支配し農民がそれぞれの義務を果たすように荘園役人に監督させた。「私見」中世ヨーロッパの歴史を学ぶ時にいつも感じることはと〜っても嫌な時代だなぁ〜ってこと。深く根付いている歪んだ宗教の悪影響もすご〜く嫌であるが歴史を学ぶ時には嫌でも一応、それを読み解かなくてはいけないのが苦だと思っている。さて、話を戻そう。中世の頃には夕食は大事な食事であった。ディナーには「客」が来る。そこで、このテーブルに上座と下座というしきたりが生まれてくる。上座、下座はどこの国でも大事な場所として21世紀でも重要視されている。だれがどこに座るか‥その座る位置で自分がどのように評価されているかが明らかになるからである。「宮廷」というものは王国の中心であり王国を象徴するところである。王は、壮大な儀式、宴会を行なって権力を誇示し、税を徴収し、争いを裁き法律をつくった。現在では世界中に王国は27ある。教会、大聖堂の建設。10~11世紀には大きな教会は古代ローマ風に建てられ、これをロマネスク様式と呼んでいる。12世紀になると暗いイメージのある教会からゴシック様式に変わり巡礼者の目が天井に向くように聖堂の中に光を溢れるように作られていった。中世の人たちは一生に一度は聖地への巡礼に出かけたいと考えていたようである。神への献身の証として自分の罪への償いとして病気の治癒を願ってとして理由は様々である。特に聖地エルサレムは人気の高い巡礼地である。ここでエルサレムの紹介。エルサレムは、イスラエル国の東部に位置する都市。その長い歴史から、世界最古の都市のひとつであるといわれている。エルサレムが世界から注目される理由は、その異様な?特殊性です。ユダヤ教の聖地「嘆きの壁」、キリスト教の聖地「聖墳墓教会」、イスラム教の聖地「岩のドーム」がある。3つの宗教の聖地は、城壁に囲まれた0.9平方キロメートルの旧市街区の中に共存している。不思議に感じますがそれは、この3つの宗教が同一の神を信仰しており、根本は同じであるためである。歴史的には、ユダヤ教の経典であるタナハ(旧約聖書)からキリスト教の新約聖書やイスラム教のコーランが生まれたといわれている。イスラム教の開祖ムハンマドは632年に没している。今ではキリスト教に次ぐ2番目に多い信者を獲得しているが今世紀末にはキリスト教を超える最大勢力になるといわれている。中世の時代も15世紀になると科学と芸術に対する関心が復活してくる。「ルネッサンス」と呼ばれる動きである。ヨーロッパでは1453年、オスマン帝国により東ローマ帝国が滅ぼされ、古代から続いてきたローマ帝国は完全に滅亡した。そして、世界は「大航海時代」へと入ってゆくである。「図鑑から学ぶ」はこれにて終了です。全25巻、改めての世界観を学ぶことが出来ました。歴史は世界史でも日本史でも知っている方が人生に奥行きと幅が出来ます。何故、今、世界が分裂を起こしているのか?この根源は各国の歴史の中に内包されていることもなんとなく分かってくるものです。平和が一番に決まっていますがなかなかそうはいかない世界情勢です。にほんブログ村
2023.03.22
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「図鑑から学ぶ」から本日は「古城」です。「お城」洋の東西を問わず、興味をそそるお城ですね。この図鑑はヨーロッパのことが多く書かれているのは著者が、クリストファーグラウ”エットという方なのでアジアの事などはあまり詳しくは書かれていません。そもそも「お城」とは‥領主の防備を固めた私的な館である。中世の大要塞の多くが今も残り周囲を地を圧するように立っている。城は住まいであると共に家職を抱えた生活共同体であった。城代は建造物群の維持と防衛、騎兵隊、守備隊外働使用人、地所と財産の管理運営など様々の事が行われていた。城が登場し始めたのは9世紀から10世紀のことである。カール大帝が興し、現在のフランスと北イタリアを支配した一大帝国がバイキングとマジャール族の侵入によって崩壊に向かってゆく時代である。フランスのロワール川沿いに多くの城郭が築かれた。スペインは711年からキリスト教徒がグラナダで最終的勝利をおさめた1492年までイスラム教徒ムーア人に支配されてきた。その頃、日本は平城京に遷都し平安京に遷都し平安時代、鎌倉時代、室町時代、そして、応仁の乱までの頃になります。ヨーロッパのキリスト教は200年以上にわたって十字軍と呼ばれる遠征軍を派遣してイスラム教と戦い聖地パレスチナの奪回をめざした。現在もパレスチナは、ユダヤ教・キリスト教・イスラーム教の聖地でありまだ、いろいろと揉めていますね。日本のお城に関してはこの事典ではなく「日本100名城ガイド HP」こちらの方がずっと身近に感じますよ大広間はお城の中心をなす部屋。どこの国でも王様や貴族、領主などは大きな広間が必要なのですね。お城を建てる人大工の存在は重要。お城を建てることによって多くの効率的、能率的、利便性など分散して仕事が出来る職人が育ってゆく。日本も江戸時代にお城を建てた職人たちの技術がのちに数奇屋作りなどの洒脱な家屋のデザインなってゆくのです。15世紀の末には城は軍事上の重要性を失ってゆく。日本においても江戸幕府になると軍事上の城の役目は無くなってゆきますね。海外のお城の歴史はさておき、昨夜9時ごろ、お月様がとても綺麗でした。昨夜は「居待月」辺りかしら‥星空もスッキリとしていて北の空には大きな北斗七星がすっかり昇っていました。しかし、今日は急激な冷え込みと雨です。雪は、ほんの少しでどうやら、今夜いっぱいの雨のようです。
2023.02.10
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年が明けて初めての「図鑑から学ぶ」です。第23巻は「中国の文化と歴史」私は、かなり以前から中国に関心がありました。そもそも、日本の文化の源になっている部分がかなりあるからです。今の中国は「人口減 少子化」が危ぶまれていますが、中国は21世紀においても偉大な国であることには変わりがありません。中国はインド、西アジア、ヨーロッパと他の文化圏から切り離されて発展してきている。それは、広大な砂漠と山脈とによって地理的に古代中国は外界からの影響を受けずに大帝国を築けたと言われている。紀元前221年から1912年まで一つの大帝国の下に統合されていた中国である。大中国帝国は社会不安と分裂、そして夷狄による侵略の時代を経て近代に至るまで一つの強固な国家として存続して来た。始皇帝によって始められた中央集権支配は2000年以上も続いた。大帝国の長い歴史を通じて多くの偉大な革新、技術の進歩があり火薬、紙、印刷、工業機械の発明などは中国全域に渡り影響を及ぼした。にも関わらずとりわけ、農民の習慣と伝統は驚くほど不変であり続けそれは、今も慣習として残っている地域も存在している。歴史を残した最古の中国王朝は「商」である。「商」の王たちは紀元前1650年から1027年にかけて中国北部の大部分を支配していた。「孔子の教え」孔子は「周王朝」の時代の人。「王子は王子、大臣は大臣、父は父、息子は息子たるべし」と云う孔子の言葉には彼の哲学が集約している。孔子は釈迦、キリスト、ソクラテスと並び四聖人(四聖)に数えられている。紀元前221年、中国帝国が形成された。秦王、政のもとに「戦い合う国々」を統一し、配下に下った諸王の頂上に君臨する最高権力者であることを示すため、政は秦国初代皇帝、すなわち、「秦の始皇帝」と称した。帝国の宮仕えがどんな風なのかはここ、3年ほどTVで中国の時代劇ドラマを見ているおかげで大凡見当が付くようになってきている私である。科挙制度、官職など立身出世の道筋が完全に出来上がり、宮中に仕える多くの男女の身分、衣装、教育程度もよく解るようになってきてこの図鑑で学ぶことよりも多くのことを見知ったような気がしている自分がいることが面白いと思っている。中国大帝国は「発明」の国でもある。皇帝たちは科学と技術、天文、医学など奨励した。中でも紙と印刷術は劇的に伝達手段を向上させ、火薬は戦法を一変させ牽引力のある動物の利用は農業に革命をもたらした。そして羅針盤と船尾舵と浮力のある防水船室を備えた船は大航海へと乗り出してゆく。そのほかにも世界を一変させる中国の発明品には紙幣、時計、絹織物、磁器、花火凧、傘、一輪車などがある。紙と印刷、そして書籍。これらは、もっとも重要な中国の発明と言っても過言ではない。私は、以前に書誌学を学んだ時に中国の技術の素晴らしさには感服してしまった。日本も大きな影響を受けて平安時代には、紙、筆、墨、文字、書籍が確立する。帝国時代の中国では宗教は三つに分かれていた。「儒教、道教、仏教」の三教である。孔子は(儒教)人々に互いに敬意を払うように諭した。老子は(道教)人は自然と調和を保って生きていくべきと。仏陀は(仏教)生涯をかけて悟りを追い求めた。その思想は今でも変わらずに現代に生きているがどれも今でも難しい問題を抱えている。「書、詩、画」は「三絶」として知られる。この三つの芸術の組み合わせが芸術表現の極地とされてきた。文字をあまり書かなくなった今現代の人たち。やっぱり、文字は美しい方がイイですよ。「シルクロード」紀元前2世紀から15世紀半ばまで活躍したユーラシア大陸の交易路網である。全長6,400キロメートル以上、東西の経済・文化・政治・宗教の交流に中心的な役割を果たした。モンゴル人は華北からアジアを横切って伸びる貿易ルートであるシルクロードの全域を支配下に置き隊商が危険なく旅することが出来たと言われている。もし、この3年の間中国の時代劇ドラマを見ていなかったらこの図鑑の内容もあまり分からなかったかも知れない。ドラマの中にはその時代、時代の文化全般が織り込めれている。そんな大帝国の中国もやがて終焉を迎える時が来る。中国帝国末期の250年間、皇位は万里の長城の北からやってきた非漢民族である満州族によって占められた。清朝は(1644〜1912年)前半の150年間、繁栄を極めた。康熙帝と乾隆帝は帝国の行政機構を維持した。その後、中国の技術は他の国々に遅れをとることとなりイギリス、フランス、ロシア、そして後に日本も貿易特権を手に入れようとする。1900年にはイギリスを始めとする連合軍によって北京は占領されてしまう。1911年、中国は弱体化した満州族の支配者を倒し共和国を打ち立てた。清朝最後の皇帝となった溥儀は1912年に退位させられて2000年に及ぶ大帝国の歴史は終焉を迎えた。図鑑で見る中国の文化、歴史よりも中国ドラマの方がずっち勉強になると思った。文化は、これと言った定義は無いが細かなところでドラマはその時代時代の文化や歴史の隅を映してくれているのを改めて感じ入った。にほんブログ村
2023.01.19
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今夜は「討ち入り」と言っても最近の人には通じない‥「赤穂事件」江戸城の松の廊下で起きた刃傷事件である。元禄14年3月14日 (旧暦)(1701年4月21日)に江戸時代を代表する事件が起きた。「忠臣蔵」は寛延元年(1748年)8月、大坂竹本座で人形浄瑠璃として初演された。松の廊下から吉良邸討ち入りから45年以上も経ってからの上演である。時の権力者は五代将軍 綱吉から九代将軍 家重に時代は移っていた。時は流れに流れて「令和の時代」320年余りの時の経過があるが初演以来、暮れになると歌舞伎や映画、ドラマなどで演じられて来ている。いつの時代の「忠臣蔵」も面白い。「忠臣蔵」の内容は、ほとんどが、フィクションであるが四十七名、全員に物語がありそのほかにもオイシイ役処がたくさんある。私が思うに浅野内匠頭は、絶対にその時代の二枚目の若手スターで線の細い役者が良い。それから‥脇坂淡路守多門伝八郎垣見五郎兵衛色部又四郎宝井其角畳屋の頭領天野屋利兵衛隣家 土屋主税など‥どれもこれも役者だったら一度は演じてみたい役処だと思うのである。忠臣蔵がスゴイと思う理由はどこから見てもいつの時代に見てもどの場面でもすぐに理解できる私が居る事である今日は「討ち入り」雪が止んで深夜には月が昇る。あ〜そうですね。14日、15日は満月‥だから、江戸時代でもそんなに暗くはなかったと思える。「忠臣蔵」は学ぶことが多い物語。今、BS朝日で一挙放送やってますにほんブログ村
2022.12.14
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日本の文化を語る上でとても重要な位置にある「米」と「繭」先日の笠間稲荷神社でこんなものが展示されていました。現在、いったいどれくらいの数や種類の献上品があるのでしょう‥検索しましたが分かりませんでした農林水産関連が多いのは当然と言えば当然ですがその中でも抜けて多いのが「米」と「繭」です。献上されるであろう米と繭が小さなケースに収められて並んでおりました。そして、思い出したことがありました。私の従兄弟はその昔、美しい繭を作る名人でした。もうとっくに他界してしまいましたがいろんな色をした繭玉をもらったことがありました。秋から育てる蚕を「秋子」と言ったり「お子さま」と言ったりしていました。「米」は、今では完全にブランド化されて各都道府県、全部美味しいと思いますがほんの3〜40年前まではお米の品種と言えば「コシヒカリ」と「ササニシキ」ぐらいだったように記憶しています。秋は、収穫実りの秋で新嘗祭が行われたばかりですが当市でも多くのものを献上しています。例えば「米」「繭」「柿」「栗」「蓮」等々その中でも「米」と「繭」はきっと特別な物なのでしょう。稲作と共に養蚕は国の繁栄と豊穣を支える重要なもので宮中では大昔からこれを大切にしています。天皇陛下、皇后陛下が育てているのですものね。お米は小麦と違って「米」だけで栄養価が高く小麦は「乳」がプラスされないと「米」の栄養価までには達しないと聞いた事があります。蚕から繭へ、そして絹へと‥絹のその肌触り、その温もり、その匂い他の繊維では比べようもありません。この品評会を見た時私は「日本人」だなぁ〜と感じ入りました。にほんブログ村
2022.11.26
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こんなに素敵な小学校があったのですよ。明治の遺構です。>水海道小学校本館は、1881(明治14)年に建築されました。1921(大正10)年、同校の校舎移転にともない本館も移築され、玄関部などが一部改造されました。1958(昭和33)年、建築当時の面影を伝え、明治初期の小学校建築の形態を保存しているので、茨城県文化財に指定されました。1971(昭和46)年、本館は水海道市(現常総市)から当館に寄贈されました。そして、1973(昭和48)年建築当時の設計図などをもとに、当初の姿に復元しました。1974(昭和49)年、茨城県立歴史館が開館し、旧水海道小学校本館も公開しました。1976(昭和51)年からは、旧本館内部に展示室を設け、教育資料及び水海道小学校関係の資料を展示しています。<何回かここを訪れたことがありますが何時見ても、このような建造物は郷愁を感じてしまいます。秋晴れの中でゆっくり空を見上げながら近くのパン屋さんで買ったコロッケサンドを頬張りました。ベンチに座ってあったかいコーヒーを一緒にパンを食べるのも良いものですね〜明治の小学校の中に入るとなんか好い感じでしょう‥映画のセットみたいです。ここで勉強した子どもたちはどんな思いでこの小学校に通ったのでしょう‥教室のライトはシャンデリアです。当時、明治14年ごろの日本のほとんどは江戸時代を引きずっての街並みだったに違いありません。きっと子どもたちは嬉しかったのではと思いました。教科書も残されておりどんな勉強をしていたのかも分かります。この教科書は尋常小学校のものですね。祖母が持っておりました。昔は、国定教科書なので全国、同じものが使われていたそうです。再現された昭和の時代の給食もありました。見学は自由ですが見学出来るのは一階のみです。素敵な学校だと思いますね〜ステンドグラスの窓がイイですね〜階段が狭いのは小学生が使うものだからなのでしょうね。楽しい秋散歩でした。にほんブログ村
2022.10.22
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「知りたい」‥そんな思いがこの膨大な書物や絵画を今に残したのだと思いました。>東洋世界の中での融合や西洋世界との化学反応が、グローバルな世界に生きる我々にはどのように見えるでしょうか。実は知らないことは世にたくさんあります。「知への渇望」サインを出してみましょう。本展での知の大冒険を終えたあなたに、書物や絵図のもつあふれるほどの「知の実感」を持っていただけたら幸いです<と、この展示に際して歴史館は言っています。日本は、かなり昔から海外との交流があったことがこの書物群からよく分かります。見たことのない文字。鮮明に描かれた絵画。驚いたのは「拷問」の道具まで絵に描かれているのです。日本のものではなくお隣の大国のものでしたが‥写真でなくて良かった‥今年は「鉄道」が出来て150年。「国立博物館」も同じく150年。ヒトは群れから邑になり言葉を絵として表しそして文字を作り情報伝達手段として後世に残して文化を築いてゆく。それは、人類にしか成し得なかったこと。なんか‥スゴイね会場を出て常設展の場所へと移動しました。ダイダラボッチ、日本の各地で伝承される巨人でダイダラボッチは「大人(おおひと)」を意味する「大太郎」に法師を付加した「大太郎法師」で、一寸法師の反対の意味であるとしている。一寸法師の反対語なのね〜縄文時代の生活。縄文時代ってとても長いのですよ。はっきりは判っていませんが1万3000年〜1万5000年ぐらいは続いたと言われていますねー(知っておりました)日本の歴史を順々に見てゆくことは兎に角面白いです。縄文、弥生、古墳飛鳥、奈良、平安鎌倉、室町、安土桃山江戸、明治、大正、昭和、平成、令和となりますが懐かしレトロのな暮らしを再現したコーナーがありました。あっ氷の冷蔵庫‥私、見た事がありますよ氷冷蔵庫は明治40年ごろに作られたようです。ちゃぶ台ですね〜そういえば「ちゃぶ台返し」なんて言葉も流行りましたね〜歴史館の本館を出て明治に作られた小学校へと向かいますわぁ〜大きな銀杏です。木の下に人がいるのですがこんなに小さく見えます。黄色く色づいたら青い空と好く似合うことでしょうね。つづく‥にほんブログ村
2022.10.21
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