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長崎二郎高重は久米川の合戦に、組んで討ったりし敵の頸が二つ、切って落としたる敵の首が十三、中間・下部(しもべ、身分の低い雑役に使う召使)に取り持たせて、鎧に立っている箭も未だに抜かずに、疵の口から流れる血に白絲の鎧を忽ちに火縅に染め成して、閑々(しづしづ)と鎌倉殿の御屋形に参り、中門に畏まりければ、祖父(おほぢ)の入道は世にも嬉し気に打ち見て、出迎え、自ら傷を吸い、血を含んで涙を流して申しけるは、古き諺に、子を見る事は父に如かず、と言うが我は先ず汝を以て上の語用には立ち難い者と思って、常に不孝(可愛がらぬ事)を加えていた事は大いなる誤りであったぞ。 汝が今、万死を出でて一生に遇い、堅く砕いた振舞は陳平(ちんぺい)・張良が難しとした所を極め得たるぞよ。相構えて今より後も我が一大事と合戦して、父祖の名をも表して、守殿(こうのとの、相模守殿の意で北条高塒)の御恩も報じ申し候え、と、日頃の庭訓を翻してただ今の武勇を感じければ、高重は頭を地に付けて両眼に涙を浮かべたのだ。 六波羅の敗報 鎌倉に 至る かかる所に、六波羅が没落して、近江(おうみ)の番馬にて悉く自害した由を告げ来ったので、ただ今大敵と戦いの中でこの事を聞いて、大火を打ち消して(途方に暮れる譬え)あきれ返る事は限りもない。 その所従(家来)・眷属(親族、又は部下)共がこれを聞いて泣き、歎き、憂え悲しむことは喩えを取ろうにも物がない。 如何に猛(たけ)く勇める人も足手も萎える心地がして、東西をも更に弁えず。然りと言えども、この大敵を退けてこそ京都へも討っ手を上せる事が可能だと、先ず鎌倉での戦評定がなされたのだ。 ここ事を敵に知られまいとしたのだが、隠れあるべきことではないので、やがては聞こえて、哀れ、潤色(光彩を添え飾ること)やと、悦び勇まない者はいなかったのだ。 鎌倉 合戦 の 事 義貞 の軍 益々 強大となる 三手に 分かち 鎌倉を 攻める さる程に、義貞は数か度の闘いに打ち勝ち給いぬと聞こえしかば、東八か国の武士共は随いつくことは雲霞の如し。 関戸にて一日逗留して、軍勢の着到を記録した所、六十万七千余騎とぞ注した(書き付けた)。 ここで、この勢を三手に分けて、各々二人の大将を差し副え三軍の帥を司(つかさど)らしめ、その一方には大館二郎宗氏を左将軍として、江田三郎行義を右将軍とした。 その勢はすべて十万余騎、極楽寺の切通しへと向かわれける。一方には堀口三郎貞満(さだみつ)を上将軍として、大嶋讃岐守々之(もりゆき)を裨将軍(ひしょうぐん、副将軍)として、その勢は都合十萬余騎が巨福呂坂へと指し向かわれた。 その一方には、新田義貞・義助が諸将の命を掌って、堀口・山名・岩松・大井田・桃井(もののゐ)・里美・鳥山・額田・一井(いちゐ)・羽川(はねかは)以下((いげ)の一族達を前後左右に囲ませてその勢は五十萬七千余騎が假粧坂(けはひさか)より寄せられた。 鎌倉中の人々の 周章 鎌倉中の人々は昨日・一昨日までも、分陪・関戸に合戦があって、味方が打ち負けたと聞こえたけれども、猶物の数共思わずに敵の分際さこそあらめ(程度は大したものではないどろうと)と慢(あなど)って強ちに周章(慌て)たる気色もなかりけり。 大手の大将として向かわれた四郎左近太夫入道は僅かに討ち成されて、昨日の晩景に山内(やまのうち)に引き返された。 搦手の大将として下河邊(しもこうべ)に向われた金澤武蔵守貞将(さだまさ)は、小山(をやま)判官・千葉介に打ち負けて下道(しもみち、巨福呂坂に発して武蔵・相模の国境を過ぎ平間・河崎市・池上・芝・忍岡・東京都上野を経て房総・奥州に通じる道)より鎌倉に引き返したので、思いの外の珍事であると人が皆周章した所に、結句(遂に)五月十八日の卯の刻(午前六時)に村岡・藤澤・片瀬・腰越・十間坂(じゅっけさか)など五十余箇所に火を懸けて、敵が三方から寄せかけたので武士が東西に馳せ違って、貴賤が山野に逃げ惑う・ これぞこの霓装(げいしょう、天人の着る紅の衣だが、ここは天上界の音楽に真似て作った楽曲の名)一曲の声の中に漁陽の鼙鼓(へいこ、攻め太鼓)が地を動かし来たり、烽火万里の詐(いつわり)の後に戎翟(じゅうてき、広く野蛮人のこと)の旌旗は天を掠めて、到りけん。 周の幽王滅亡せし有様は唐の玄宗が傾廃(けいはい、傾き、廃れた爲體(ていたらく)もかくこそは有りつらんと思い知らされるばかりにて涙も更に止まらない。浅ましかりける有様ではあるよ。 鎌倉軍の部署 合戦 開始 さる程に、義貞の兵が三方から寄せて来ると聞こえたので、鎌倉にも相模左馬助高成・城式部大輔景氏・丹波左近大夫将監時守を大将として、三手に分けてぞ防ぎける。 その一方には金澤越後左近太夫将監を差し副えて、安房・上総・下野の勢三萬余騎で假粧坂を固めたのだ。 一方には大佛(だいぶつ)陸奥守守貞道を大将として、甲斐・信濃・伊豆・駿河の勢を相随えて五萬余騎が極楽寺の切通しを堅めていた。 一方には、赤橋前相模守盛時を大将として、武蔵・相模・出羽・奥州の勢六萬余騎にて、洲崎の敵に向われた。 この外に末々の平氏八十余人が国々の兵十萬余騎を弱いと思われる方に向わせんと、鎌倉中に残された。 さる程に、同日の巳の刻(午前十時)から合戦が始まって、終日終夜を責め戦った。寄せ手は大勢であり、新手を入れ替え入れ替えして責め入りければ、鎌倉方には防ぎ場が殺所であるから、打ち出で、打ち出で、相支えて戦いける。 されば三方で作る鬨の声は両陣に呼び箭を叫び、天を響かせ地を動かす。 魚鱗にかかり、鶴翼に開いて、前後に当たり、左右を支え、義を重んじ命を軽んじて安否を一時に定め、剛臆(豪勇であるか臆病なのか)を累代に残すべき合戦であるから、子が討たれても扶けず親は乗り越えて前なる敵に懸り、主が射落されるとも引き起こさず、郎等はその馬に乗って駆け出で、或いは引き組んで勝負をするのもある。 或いは、打ち替わって共に死するもあるのだ。その猛卒の機を見るに、萬人が死して一人が残り、百陣が破れて一陣になるとも、何時果てとも知れぬ軍とは見えざりける。
2026年05月29日
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私の本当に言いたいこと、主張したい事は「ぼやく」事ではなく、励ますこと、またエールを送る事であります。そこで、これから暫くは本にして出版するつもりで書いた原稿を掲載するつもりです。貧乏人ですので大金を出して自費出版するだけのゆとりがありません。もし、気に入っていただける内容でしたら、ご自分で印刷してみて下さい。そんなに酷い文章とも思っておりませんので。本のタイトル:バカを磨け!― 『幸せという義務』 ―著者:最強のハッピーライフ請負人こと、草加の爺 まえがき 何故、私の様なズブの素人が一冊の本という形で、自分自身の考えを広く世間一般に発表しようと思い立ったのか?それはこの本を最後まで読んでいただければ、ご納得いただける筈なのですが、ここでは極手短にお話しします。 私は人生の半分以上をテレビドラマのプロデューサーとして、様々な職種・階層の人々、それも子供から大人まで、男女を問わず、大勢の方々と接してきました。そして現在は高校の講師として(*平成24年10月現在で69歳ですから、今は定年で辞めています)、また学習塾の一講師として毎日を生徒たち、つまり小学生から高校生、そして同僚講師である大学生や大学院生の皆さんと一緒に過ごしています。かつて私は、ある仲のよい脚本家に「自分は物書きではないが、ジャーナリストの端くれとして、人生という戦場の従軍記者のような心構えで、毎日を生きている」と発言して、「お前って奴は、面白いことを言うな」と呆れられたりした経験があります。つまり、私はその脚本家にこう言いたかったのです。私はあなたと同様に、今自分の人生を一日一日を、真剣に生きているのだと。私達はどう生きたところで、いい加減には自分自身の一回限りの人生を生きるわけにはいかない。自分は自分流の、はたから見れば滑稽だったり、ばかばかしく見えるかも知れないが、自分なりに一所懸命に全力を挙げて生きているのだ、という思いを吐露したに過ぎません。実に生き辛い、また大変な時代を真剣・懸命に生きている、現代にっぽんの同時代人に向けて、心から元気が涌くような応援の言葉を、わかり易いエールのメッセージを、どうにかして届けたいものだ。そうした心の底からの切なる強い願いが、この拙い文章を書かせた原動力だと、取敢えずご承知置き下さい。 (以上、まえがき部分終り) 次回以降に続く連載となりますが、今まで同様ご愛読下さいます様に衷心よりお願い申し上げます。
2012年10月24日
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新年、あけましておめでとう御座います。本年も相変わりませず宜しくお願い申し上げます。 私・草加の爺は昭和18年8月28日の生まれですから、羊年の年男であります。世のため、他人のため、東北「野辺地町」のために延いては全地球・全人類のために微力ながらお役に立ちたいと衷心より念願いたしておりますので、ご支援、ご鞭撻の程を重ねてお願い申し上げます。 さて、これからご紹介申し上げる「旅ゲー」(仮題)はまだたたき台の案を練りこんでいる真っ最中でありますので、皆様方のリアクションが是非とも必要であります故、非常に興味を惹かれたお方も、逆に余り関心を持てなかったお人も、どうぞご意見をお聞かせください。お願い致します、是非とも。 つまり、岩手県の盛岡から青森県の下北半島の一大霊場・恐山を直線で結んだコースを時に列車で、時に路線バスで、また徒歩やサイクリングで愉快に、のんびりと、またその土地々々での名物料理に舌鼓を打ち土地の初対面の方々と交流を深め、旅人の身体、心、魂に活力とリフレッシュを呼び込み、延いては人間的魅力を倍加させていく。そうした魅力満載の新感覚の「旅ゲーム」なのであります。そして、おまけに旅人である「あなた」は要所要所でポイントを獲得して、「入門に叶う」から「綱横 格」まで、最後には「親方 格相当位」までの人間的成長を遂げることができるというおまけ付きなのであります、如何!楽しそうでしょう、やってみたいでしょう!詳細については、おいおい、このブログでご披露致して参るつもりですのでご期待下さい。そして、あなたの貴重なご意見、ご感想をお聞かせください、是非とも。
2015年01月02日
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全く独立した男と女の、全く純粋な行為であったからこそ、俺は、そして恐らくは友子も、蕪雑さを排して純粋な陶酔の極に達し、絶対的な絶頂感を味わい得た。そう、今でも俺は信じている。 そうした二人の関係に、友子が 愛情 という手垢に塗れた感情を持ち込んだ瞬間から、二人の 楽園 は崩壊して、失われてしまったのだ…。 が、そういう彼女を、俺は咎め立てしようとは思わない。それどころか、俺は心の片隅では限りなく愛おしみ、過ぎ去ってしまった二人の楽園に熱い惜別の涙さえ流している。そして、この俺にはおよそ似つかわしくない感傷的な感慨に、ともすれば陥りそうになる。しかし、俺は夏以来知子とは別れようと考えている。 深夜、一日手厚い歓待を受けた松村邸を辞し、気持ちの良い秋風が夜の闇の中に落葉散らしている郊外の歩いて、俺は帰路についた。もうあたりはすっかり夜霧の深い海の中に沈んで、私鉄の駅までてくてく歩いて行く俺の影だけが、虚ろな実体のない存在のように感じられる。そこにはまだ自然が確かに実在していたからだ。俺は住み慣れた都会の喧騒と煤煙の中へ、人々と、重苦しく澱んだ空気のある大都会へと急いだ。 十二月から正月、二月にかけて俺は仕事に忙殺された。この三ヶ月間だけで、一時間物九本、内アクションもの四本、ホームドラマ三本に時代劇二本。三十分もの八本、内ホームドラマ四本、コメディ三本、それに十五分の昼帯を三週間分という、新人のライターとしては驚異的な分量をこなしたことになる。 おまけにどの作品も出来は悪くなく、評判も上々だった。俺は民放テレビドラマのシナリオを書く骨を完全にマスターしたという自信を深めた。 一月の末に珍しく近藤から電話があり、「シナリオ界に輝かしい新星が彗星のごとくに登場だね」などと皮肉を言っていた。電話の様子では、仕事の依頼がさいきんめっきり減ってしまったので、生活も窮迫し、ひどく苦悩している様子だった。 利用できるうちはトコトン利用され、用が無くなったら即座に切り捨てて、見向きもされない。シナリオライターばかりではない、流行歌手や芸能タレントなど、現代社会では才能も消耗品化されてしまう。ありとあらゆる利用価値がお金に換算されてしまう。 何も今に始まったことではない。昨今ではお金が全てだ。金銭が人や物や、その他の諸々もの全部を支配している。弱肉強食という生物界の掟は、原始の昔も、今もちっとも変わっちゃいないのだ。 近藤秀介はそのちょっとした才能に支えられて、一時的に流行作となり、強者の仲間入りが許された。然し、才能は消耗品だから、当然に激しい消費に耐えかねて、摩滅し尽くしてしまった。そして近藤は現在一個の弱者の立場に転落してしまった。謂わば自業自得なのだ。俺が少しばかり今の近藤に哀れみを掛けた所で、我々が現に生きている社会そのものの冷酷非情さの前では、何の役にも立つまい。 所詮、人は、人それぞれに己の宿命を背負って自分自身の人生を生きなければならにのだ。少しばかり強者になりかけている俺にした所で、より以上の本物の強者が出現したら、ノミかシラミ同然、強者等とは身の程を知らない、愚者の戯言にしかすぎない。 嘗て近藤から受けた恩義のことを他人は言うだろうか。しかし俺は、「恩義」などという時代錯誤も甚だしい死語に引け目などは感じていない。彼はあれの才能を自分の便宜のために利用しただけなのだから。俺はただ近藤の二の舞を踏むまいと自戒すれば事足りる。 三月のある日、松村氏と四月から始まる新番組のの脚本の打ち合わせの為に、氏に誘われて新宿の小料理屋「越後屋」に行った。
2021年06月21日
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