草加の爺の親世代へ対するボヤキ

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草加の爺(じじ)

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2026年04月22日
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あら、不思議、今日は仏生日(釈迦の誕生日)とて、心有るも心なきも灌仏の水に心を澄まし、供花

(ぐげ)焼香に経を翻して、捨悪修善を事とする習いなのに、時日も多いのに齎日(さいじつ、精

進・身を清め心を慎む すべき一定の日)にして合戦を始め、天魔波旬の道を学ぶ條は心得難しと

人々は舌を翻した(非難した)。

 さて、敵味方の士卒、源平が互いに交わっている。笠符(かさしるし)が無くては同士討ちもある

だろうと白絹を一尺づつ切って風と言う文字を書いて、鎧の袖に付けさせられた。

 これは孔子の言葉に、君子の徳は風である。小人の徳は草せある。草に風を加える時には、靡か

ずと言う事はない、と言う心であろう。

 六波羅では敵を西に待ちける故に、三条から九条まで大宮面(大宮通りに面したところ)に塀を塗



をぞ謀(はか)ったのだ。

 寄せ手の大将は誰であるか、と問うと、前帝の第六の若宮、副将軍は千種頭中将忠顯の朝臣と聞

こえければ、さては軍の成敗、心憎からず。源は同じ流れであるとは言え、江南の橘、江北に移さ

れて、枳(からたち)となる習いである。弓馬の道を守る武家の輩と風月の才を事とする、朝廷の臣

とが戦いを決すれば武家がかたずと言うことは有るべからず。と、各々が勇み進んで、七千余騎が

大宮面に打ち寄せて、寄せ手は遅いぞと待ち懸けたのだ。

        忠顯の軍勢 破れて引き退く 
         名和次郎 児島高徳の 力戦

 さる程に、忠顯朝臣は神祇官の前に控えて兵を分け、上は大舎人から下は七条まで、小路毎に千

余騎づつを差し向けて、責めさせなされた。

 武士は要害を拵えて、射打ちを面に立て、馬武者を後ろに置いたので、敵の疼(ひる)むところを



 官軍は二重三重に荒手を立てていたので、一陣が引けば二陣が入れ替わり、二陣が打ち負ければ

三陣が入れ替わって人馬に息を継がせて、煙塵天を掠めて(砂塵が天を覆って)責め戦った。

 官軍も武士も諸共に、義に依って命を軽んじ、名を惜しんで死を爭ったので味方を助けて進むの

はあるが、敵に遇って退くのはなかったのだ。

 かくては勝負は何時つくのか見えない所に、但馬・丹波の勢共の中から兼ねて京中に人を忍んで



 折節に風が烈しく吹いて猛煙が後ろに立ち覆いければ、一陣で支えていた武士共は大宮面を引き

退いて、尚京中に控えていた。

 六波羅はこれを聞いて、弱いであろうと思われる場所に向けようと用意の残し留めたのだ。

 佐々木判官時信・隅田(すだ)・高橋・南部・下山・河野・陶山(すやま)・富樫・小早川等に五千

騎を差し副えて、一条・二条の口に向けらる。この荒手に懸け合って但馬の守護太田三郎左衛門が

打たれてしまった。

 丹波の国の住人・荻野彦六と足立三郎は五百余騎にて四条油小路まで攻め入りたるに、備前の国

の住人・薬師寺八郎・中吉(なかぎりの)十郎・丹・児玉の勢共、七百余騎が相支え合って戦ったの

だが二条にてが破られると見えたので、荻野・足立も諸共に味方の負けと一緒に引き返した。

 金持(かなぢ)三郎は七百騎にて七条東洞院まで責め云ったのだが、深手(重傷)を負って引きかね

ていたのを播磨の国の住人・肥塚(こいづか)の一族、三百余騎が中に取り籠めて、出し抜いて(他

の軍勢の隙を伺って先んじ)生捕りにしてしまった。

 丹波の国神池(みいけ)の衆徒は八十余騎で五条西の洞院まで責め入って、味方が引くのも知らず

に戦ったのだ。それを備中の国の住人・庄(しょうの)三郎・真壁四郎、三百余騎で取り籠めて、一

人も残さずに討ち果たした。

 方々の寄せ手は、或いは打たれ、或いは破られて、皆が桂川の辺まで引いたのだが、名和小次郎

と小嶋備後三郎とが向かいたりける一条の寄せ手はいまだに引かずに、懸けつ返しつ時が移るまで

戦ったのだ。

 防ぐのは陶山と河野で、責めるのは名和と小嶋である。河野と小嶋は一族であり、名和と陶山と

は知人である。

 日頃の詞を恥じたのだろうか、後日の難を思ったのか、死しては尸を曝すとも、逃げて名をば失

うまいと互いに命を惜しまずに喚き叫んで戦ったのだ。

 大将の頭中将は内野まで引いたのであるが、一条の手がなお相支えて戦いが半ばであると聞こえ

たので、又神祇官の前に引き返して、使いを立て、小嶋と名和とを呼び返されたのだ。

 彼等二人は陶山と河野とに向って、今日は既に日が暮れてしまった。後日にこそまた見参に入る

であろう、と色代(しきだい、挨拶)して両陣共に引き別れておのおの東西に去りにけり。

          忠顯 京都を退き 再挙を図らんとする
          高徳がこれを諫めた 忠顯は遂に京都を落ちた
            高徳は これに続いた

 夕陽に及んで軍が散じたので、千種(ちくさ)殿は本陣の峯の堂に帰って、味方の手負い、討ち死

にを註(しる)されるに七千人に余った。

 その内に、宗と頼んでいた太田・金持の一族以下(いげ)数百人が打たれてしまっていた。よって

一方の侍大将ともなるべき者とや思われたのか、小嶋備後三郎高徳を呼び寄せて、敗軍の士は力疲

れて再び戦い難し。都に近い陣は都合が悪いと覚えるので、少し国境を隔てて陣を取り、重ねて近

国の勢を集め、又京都を攻めようと思うのだ。どう致すつもりであるか、と宣えば、小嶋三郎は聞

きもあえずに、軍の勝負は鬨の運によることで候ゆえに、負けるのも必ずしも恥ではない。ただ引

くまじき所を引き、懸けるべき所を駆けないのは大将の不覚とは申すのでありまする。いかなれば

赤松入道は僅かに千余騎の勢を以て三箇度まで京都に攻め入り、叶わなければ引き退いて遂には八

幡・山崎の陣を去らないのでありましょうか。

 御勢がたとえ過半打たれて候えども、残る所の兵はまだ六波羅の勢よりは多いでありましょう。

この御陣は後ろが深山であり、前は大河でありまする。敵がもし寄せて来たならば好む所の砦(好

都合の要害堅固の城砦」でありましょうに。

 あな、畏(かしこ)。この陣を引こうと思召す事はしかるべからず候。但しは、御方の疲れたる弊

(ついえ)に乗って敵が夜討ちに寄せる事もあるかもしれませぬ。高徳は七条の橋爪に陣を取って相

待ち候べし。御心安くある(信頼できる)兵共を四五百騎程、梅津・法輪に差し向けて警固なされて

下さいませ、と申し置いて、即ち小嶋三郎高徳は三百余騎で七条の橋から西に陣を固めたのだ。





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最終更新日  2026年04月22日 11時05分42秒
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