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これは待っていた夜であるので、城中に人を一人残し止めて、我等が落ち延びる事四五町にもなったろうと思われる際に、城に火をかけよ。と、言い置いて皆が物の具を脱いで、寄せ手に紛れて五人三人と別々になり、敵の役所の前、軍勢の枕の上を越えて静々と落ちたのだ。 正成が長崎の厩の前を通る時に、敵がこれを見付けて、何者であるから御役所の前を案内も申さずに忍びやかに通るのであるか、と咎めたので、これは大将の内の者でありまするが、道を踏み間違えて候、と言い捨てて足早にぞ通ったのだ。 咎めた者は、さればこそ怪しい者である。いかさま、馬盗人と覚えるぞ。ただ射殺せ、と言い、近々と走り寄って真直中を射たのだった。 その矢は正成の臂の懸かりに答えて、したたかに立ったと覚えたが、素肌である身には少しも立たないで、筈を返して飛び翻(か)える。 後にその矢の痕(あと)を見れば、正成が年来信じよみ奉って来た観音経を入れた肌の守りに矢が当たって、一心称名の二句の偈に矢先が留まったのは不思議である。 正成は必死の鏃に死を逃れ、二十余町を落ち延びて跡を顧みれば、約束に違えずに早城の役所に火を懸けてある。 寄せ手の軍勢は火に驚いて、しはや、城は落ちたぞ、とて勝鬨を作り、余すな、漏らすな、と騒動した。 焼け鎮まってから城中を見れば、大きな穴の中に炭を積んで、焼け死んでいる死骸が多い。皆はこれを見て、あな、哀れやな、正成は早や自害をしたぞ。敵ながら弓矢取って尋常に死にたる者かなと、誉めない人はいなかった。 櫻山 自害の事 櫻山四郎入道 備後一の宮の社壇を焼いて自害する さるほどに、櫻山四郎入道は備後の国半国ばかりを討ち従えて備中へと越え、安藝を退治しようと案じていた所に、笠置城も落ちさせ、楠も自害したと聞こえたので、一旦の付き勢は皆落ち失せてしまった。 今は身を離れない一族、年来の若党二十余人が残ったのだ。最近は兎に角として、その昔は武家が権を執って四海九州(日本全国)の内の尺地も残らざりければ、親しき者も我々を隠し切れずに、疎い者はまして頼まれず、人手にかかって尸(かばね)を晒すよりはと言うので、當国の一の宮に参りて、八歳になった最愛の子と、二十七になる年来の女房とを刺し殺して、社壇に火をかけて、己の身も腹掻き切って一族若党二十三人を皆灰燼となして失いけり。 櫻山が 一宮を焼いた 理由 そもそも所も多い中で、わざと社壇に火をつけ焼け死んだ桜山の所存をどうであるのかと尋ねると、この入道は当社に首(こうべ)を傾けて、年久しかりけるが、社頭が余りに破損してしまったのを歎いて造営し奉らんと大願を発しけるが事は大営(大事業)なので志だけあって力はない。 今度の謀反に与力したのも、もっぱらこの大願を遂げようためであった。さえども神は非礼を享け給わらなかったのであろうか、所願は空しくして討ち死にしようとしたが、我等がこの社殿を焼き払ったならば公家武家共に止むことなくを得ずして如何様造営の沙汰があるだろう。 その身はたとえ奈落の底に堕在するとも、この願さえ成就するならば、悲しむべきではない。 勇猛の心を発して、社頭にて焼死したのだ。情垂迹和光の悲願を思えば、順逆の二様、いずれも済度利生の方便であるから、今生の逆悪を翻して当来の値遇とやならんと、これも頼みは浅くないとぞ思われる。 巻 第 四 笠置の囚人 死罪流刑 の事 付 藤房卿の事 東使が上洛して 人々の処刑を定める 笠置の城が攻め落された刻(きざみ、時)、召し取られ給いし人々の事、去年は歳末を計会(物事が一度に落ち合う事。取り込むこと)に依りてしばらく差置かれた。 新玉の新年が立ち廻ったので、公家の朝拝武家の沙汰が始まって以来、東使の工藤次郎左衛門尉・二階堂信濃入道行珍(ぎょうちん)の二人が上洛して、死罪に行わっるべき人々、流罪の処すべき国々、関東評定の趣を六波羅にして定められた。 足助重範を斬罪とする 万里小路宣房の悲嘆 山門・南都の諸門跡、月卿・雲客・諸衛の司等に至るまで罪の軽重に依って禁獄流罪に処したのだが、足助次郎重範をば六条の河原に引き出して、頸を刎ねるべくと定められた。 万里小路大納言宣房卿は子息藤房・季房(すえふさ)二人の罪科に依って武家に召し取られ、これも召人(めしうど、捕えられて獄にいる人、囚人)にてぞおわしける。 齢は既に七旬(七十歳)に傾いて、万乗の聖主は遠嶋に遷されてさせ給うべしと聞こえている。 二人の賢息は死罪にぞ行われんずらんと覚えて、わが身さえまた楚の囚人(囚われて他郷にある者を言う)となってしまわれたので、ただ今まで命を長らえてかかる憂き事をのみ見聞くことは悲しいので、一方ならぬ思いに一首の歌を詠じたのだ。 長かれと 何おもひけん 世の中の 憂きを見するは 命なりけり 源具行を 近江の柏原に 斬る 罪科あるもあらざるも、先朝拝趨(後醍醐天皇に伺候した)の月卿・雲客(公卿・殿上人)、或る者は出仕を停(と)められ、陶原の迹(跡)(仙境を言う)を尋ね、或る者は官職を解かれて首陽の愁い(餓死の心配。周の武王が殷を亡ぼした後、伯夷と叔祭とは周の粟を食むのを不義として、首陽山に隠れて蕨を採って食べ遂に餓死した故事による)を懐(いだ)く。 運の通塞(つうそく、運が上手くいくことと塞がる事)、時の否泰(ひたい、易の二の卦の名、否は塞がる、泰は通であると言う)夢としようか幻となそうか、時が遷り事が去って哀楽が互いに相替わる。 憂きが習いの世の中で、楽しんでもなんとしようか。歎いても由がないではないか。源中納言具行(ともゆき)卿をば、佐々木佐渡判官入道道誉(どうよ)が路次(途中)を警固し仕りて鎌倉に下し奉る。道にて失われる由が兼ねて告げ申す事があったのか、會坂(大津市の西部の逢坂山)の関を越え給うとて、 帰るべき 時しなければ これやこの 行くをかぎりの 會坂の関 勢多(せた)の橋を渡ると言うので、 けふ(今日)のみと 思ふわが身の 夢の世を わたるものかは せたの長橋(ながはし) この卿をば道にて失い奉るべしとは兼ねて定めた事であるから、近江の柏原で斬り奉るべき由を探使が襲来して急き立てたので、道誉は中納言殿の御前に来て、どうゆう前世での宿習によるものか多くの人の中から入道が預かり参らせて、今さらに斯様に申し候えば且は情けを知らぬに相似て候どもかかる身には力ない次第で候。今までは随分と天下の赦しを日数を過ごし候えつれども、関東より失い参らせるべき由を固く仰せられ候えば、何事も先世の為す所と、思し召し給い候え。と、申しもあえず袖を顔に押し当てたので、中納言殿も不覚の涙が進んだのだ。
2026年01月30日
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釣り塀 の奇計 さしもの東国勢も思いの外に仕損じて、初度の合戦に負けたので、楠の武略は侮りがたいと思ったのであろう、吐田(はんだ、千早赤坂村に東接する)・楢原辺に各々打ち寄せたのだが、やがて(直ぐに)又押し寄せようとはせずに、此処に暫く控えて、畿内の案内者を先に立てて、後攻め(背後を襲う伏兵」がないようにと、山を刈り廻り、家を焼き払って心安く城を攻めるべきだと評定しありけるが、本間・渋谷(共に相模の国の地名)の者共の中に、親を打たれ子を討たれた者が多かったので、命が生きていたとしてもどうにもならないぞ、よしや、我等が勢だけでも馳せ向って討ち死にせん。と憤る間に、諸人が皆これに動かされて、我も我もと馳せ向かったのだ。 かの赤坂城と申すのは、東の一方こそ山田の畔が重なって高く、少し難所のようであるが、三方はみな平地に続いていおり、堀が一重に塀を一重塗っているので、如何なる鬼神が籠っていたとしても何ほどのことかあらん。と、寄せ手の皆がこれを侮り、又寄せると等しく、堀の中や塀の切り岸の下まで攻め寄せて、逆茂木を引き退け、打って入らんとしたのだが、城中には音もしない。 これはいかさま昨日の如く、手負いを多く出だして漂う所に、後攻めの勢を出して揉み合わそうとの目論見だろうと心得て、寄せ手の十万余騎を分けて、後ろの山に差し向けて、残る二十万余騎を稲麻竹韋(とうまちくい、稲・麻・竹・韋が群生しているように大軍が隙間なく)の如く城を取り巻いて責めたのだ。 そうではあったが、城の中からは矢の一筋も射出さず、更に人有とも見えなかったので、寄せ手はいよいよ気に乗って(勢いづいて、調子づいて)四方の塀に手を掛けて同時に登り越えようとしたところを、本より塀を二重に塗って(造って)、外側の塀を切って落とすように拵えてあったので、城の中から四方の塀の釣り縄を一度に切って落としたので、塀に取り付いた寄せ手の千人余人は重しに打たれた様で目ばかりが働いて身體は動けずにいる所を、大木・大石を投げかけ、投げかけしたので、寄せ手は今日の軍にも七百余人が討たれてしまった。 熱湯 を注いで 寄せ手を 悩ます 東国の勢共は両日の合戦に手懲りをして、今は城を攻めようとする者は一人もいない。ただ、その近辺に陣々を取って遠攻めにこそしたのである。 四五日ほどはこうしていたが、余りに暗然として守っているのも言う甲斐がないので、方四町(一町は約百九メートル)に足りない平城に敵が四五百人が籠っているのに、東国八か国の勢共が責め兼ねて、遠攻めしたる事の浅ましさよと後の世までも人に笑われる事は残念である。 さき先は逸りのままに楯をもつかず、責め具足をも支度しないで責めたのでそぞろに人をも損じたのだ。今度は攻め手を変えて、責めるべきだと面々に持ち楯を身に着けさせ、その面にいため皮(膠・にかわ水にしたし皮を鉄鎚で打ち堅め乾かしたもの)を当てさせ、容易く打ち破られぬように拵えて、頭上にかざして続いて行き、責めたのだ。 切り岸の高さ、堀の深さ、幾程もないので走り懸かって塀に取り付く事はいと易く覚えたが、これもまた釣り塀であろうかと危ぶんで、左右(そう)なく塀には取り付かないで、皆堀の中に下り浸かって熊手を懸けて塀を引いた間、既に引き破れるように見えた所に、城の中から柄の一二丈の長さの柄杓で熱湯の沸き返りたるを汲んで懸けたので、兜の天返(てへん、甲の頂上の穴の在る所)、綿嚙(わたかみ、鎧の肩の幅の細い所)の外れから熱湯が沁みとおって焼けただれたので、寄せ手は堪えかねて楯も熊手も打ち捨て、ぱっと引いた見苦しさ。矢庭に死ぬほどではないけれども、或いは手足を焼かれ、立ちも上がらず、或いは五体を損じて病み伏す者、二三百人に及んだ。 寄せ手は手立てを替えて攻めれば、城の中は巧みを代えて防ぎける間、今はともかくも為すすべもなくてただ食責めにするべく議せられける。かかりし後は、ひたすら軍を止めて、己の陣に櫓を築き、逆茂木を引き廻して遠攻めにこそしたのだった。 これによって、なかなか城中の兵は慰める術もなくて機(き、気分)も疲れてしまう心地がした。 正成 将士を諭し 城を捨てて 走る 観世音菩薩の霊験により 危難を免れる 楠がこの城を構えたのは暫時のことであるから、はかばかしく兵糧なんどの用意もしなかったので、合戦が始まって城を囲まれた事、僅かに二十日余りに城中の兵糧が尽き、今は僅かに四五日の食を遺すだけになった。 そうであるから、正成は諸卒に向って言ったことには、この間数か度の合戦に打ち勝って敵を滅ぼす事数を知らずとは言え、敵は大勢であるから、敢えて物の数ともしない。城中は既に食が尽きて助けの兵はいない。 もとより天下の士卒に先だって、草創の功を志とする上は、節に当たり義に臨んでは命を惜しむべきにあらず。 然りと言えども、事に臨んで恐れ、謀を好んでなすのは勇士のする所である。さればしばらくこの城を落ちて、正成が自害したる体を敵に知らせんと思うのだ。 その故は、正成が自害したと見及べば、東国勢定めて悦びを為して下向すべし。下るならば正成が打って出て、又上るならば深山に引き入って四五度ほど東国勢を悩ましたならば、どうして退屈するだろうか。 これ身をまっとうして敵を欺く計略である。面々はどのように計らい給うか。と、言いければ諸人が皆、しかるべしとぞ同じたのだ。 さらばとて、城中に二畳ばかりの大きな穴を掘って、この間堀の中に多く討って臥している死人を二三十人穴の中に取り入れて、その上に炭・薪積んで雨風の吹き灌ぐ夜をぞ待ったのだ。 正成の運命が天の命に叶ったのであろうか、吹く風俄かに砂子(いさご)を吹き上げて、降る雨は更に篠を突くが如し。 夜色窈溟(暗い様)氈城(せんぜい、陣営)皆巾偏の惟幕(いばく)を低(た)る。
2026年01月28日
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翌日に龍駕(天子が召しなさる御車)を廻らして六波羅になり参らせんとしけるを、前々(さきざき)臨幸の儀式ならでは還幸なるまじき由を、強いて仰せ出だされける間、力なく鳳輦を用意し、袞衣を調進しける間、三日まで平等院に御逗留有りてぞ六波羅に入らせ給いける。 日頃の行幸に事替わりて鳳輦は数万の武士に打ち囲まれて月卿雲客は怪しげなる駕籠・輿・傳馬に扶け乗せられて、七条を東に河原を上りに、六波羅へと急がせなされば、見る人は涙を流し、聞く人は心を傷ませるのだ。 悲しいではないか、昨日は紫宸北極の高きに坐じて、百司礼儀の装いを繕いなされたのに、今は白屋(はくおく、茅葺の家、賎人の家)東夷の卑しきに下らせ給いて、万卒守禦の厳しさに御心を悩ませられる。 時移り、事去り、楽しみが尽きて、悲しみ来る。天上の五衰、人間の一炊はただ夢かとのみ覚える。程遠からぬ雲の上の御住まい、いつしかと思召し出だす御事多い時節に時雨の音が一通り、軒端の月を過ぎていくのを御覧なされて、 住み慣れぬ 板屋の軒の むら時雨 音を聞くにも 袖は濡れかり 四五日があって、中宮の御方から御琵琶を参らされけるに御文があった。御覧なされると、 思いやれ 塵のみ積もる 四つの弦(を)に 払いもあへず かかる泪を 引き返して御返事ありけるに、 涙故 半ばの月は 陰(かく、くも)るとも 共に見る夜の 影は忘れじ 生捕りの人々を 諸大名に預ける 神器を渡される 光巌天皇の 御践祚 同じ八日、両検断、高橋刑部左衛門・粕谷三郎宗秋が六波羅に参じて、今度生け捕られなされた人々を一人(いちにん)づつ大名に預けられる。 一宮中務卿親王をば佐々木判官時信、妙法院二品親王をば長井左近大夫将監高廣、源中納言具行をば筑後前司貞知、東南院僧正をば常陸前司時朝、万里小路中納言藤房・六條少将忠顯の二人をば主上に近侍し奉るべしとて放召人(はなちめしうど、武家時代の刑名。刑具を用いずに一定の所に拘置して置く事)の如くに六波羅に留め置かれた。 同じ九日に、三種の神器を持明院の新帝の御方に御渡しなされた。 堀河大納言具親・日野中納言資名、これを受け取って長講堂に送り奉る。その御警固には長井弾正蔵人・水谷兵衛蔵人・但馬民部大夫・佐々木隠岐判官清高をぞおかれける。 同(おなじき)十三日には新帝登極(即位)の由にて長講堂から内裏に入らせなされた。 供奉の諸卿は花を折って行装を引き繕い、隋兵の武士は甲冑を帯して非常を誡(いま)しめた。 いつしか前帝奉公の方様には、咎が有る者も咎なきも如何なる憂き目をみることであろうかと、事に触れて身を危ぶみ、心を砕くので當今(とうぎん)拝趨の人々は忠あるも忠無きも今に栄花を開いたと、目を喜ばしめ耳を肥やした。 子(み)結んで陰をなし、花落ちて枝を辞す。(時勢の変転を言っている) 窮達(困窮と栄達)時を替え、栄辱(名誉と恥辱)は道を分かつ。 今に始めない憂き世ではあるが、殊更に夢と幻とを分け兼ねたのは、この時ではあるよ。 赤坂城 軍(軍)の事 東国より上れる幕府の軍勢 転じて赤阪城に 向かう 正成 初度の合戦に 勝つ 遥々と東国から上った大勢共は未だ近江に入らぬ先に笠置の城が既に落ちたので、無念の事に思って一人も京都には入らず、或いは伊賀・伊勢の山を越えて、或いは宇治・醍醐の道を横切って楠兵衛正成が立てこもっている赤坂城へと向かったのだ。 石河河原(大和川の支流)を打ち過ぎて、城の有様を見遣りければ、俄かに拵えたと覚えて、はかばかしく(しっかりと)堀も掘らずに、僅かに塀を一重塗って、方一二町には過ぎないと見えるその内に櫓を二三十ほど書き並べている。 これを見る人毎に、あな、哀れな敵の有様であるよ。この城は我らが片手に乗せて投げるとしても投げられる。哀れ、如何なる不思議にも楠よ、一日でも堪えて見せよかし。 分捕り高名して恩賞に預からんと、思わぬ者はいなかった。 されば、寄せ手の三十万騎の勢共、打ち寄せると同時に馬を踏み放ち踏み放ちして堀の中に飛び入り、櫓の下に立ち並んで我先に打ち入らんと争った。 正成は元来、策を帷握(いあく、幕)の中に廻らして勝つことを千里の外に決しようと陳平(ちんぺい)・張良(ちょうりょう)(共に漢の高祖に仕えた謀将)の肺肝の間から流出する如き者であるから屈強の射手を二百余人を城中に込めて舎弟の七郎と和田五郎正遠とに二百余騎を差し添えてよその山にぞ置いたのだ。 寄せ手は是を思いもよらず、心を一片に取って(一方にだけ注いで)ただひと揉みに揉んで攻め落とさんと同時に四方の切り崖の下に着いた所を、櫓の上、さまの陰から指し詰めひっつめ鏃を支えて射たる間、時の程に死人手負いが千余人に及んだ。 東国の者共は案に相違して、いやいや、この城の体たらく(有様)は一日や二日で落ちる気配ではないぞ。暫く陣々を置いて、役所を構え、手分けをして合戦を致せ。とて、攻め口を少し引き退いて馬の鞍を下し、物の具を脱いで、皆が帷幕の中にぞ休みいたりける。 楠七郎と和田五郎が遥かな山からこの様子を見下ろして、時刻はよしと思いければ、三百余騎を二手に分けて、東西の山の陰から菊水の旗二流れを松の嵐に葺き靡かせて、静かに馬を歩ませ煙嵐(えんらん、山中の靄のこと)を捲いて(巻きあがらせて)押し寄せた。 東国の勢はこれを見て、敵か味方かと躊躇い怪しむ所に、三百余騎の者共は両方から鬨をどっと作って雲霞の如くに棚引いている三十万騎の中へぞ魚鱗懸かり(懸かりは攻める事、魚鱗の陣は先を細く中を太くする魚鱗の形になって、敵陣を突破する隊形。此の反対で、敵陣を包囲する隊形を鶴翼の陣と言う)に懸かり入った。 東西南北に破って通り、四方八面に切って廻る。寄せ手の大勢はあきれて陣を為しかねたのだ。 城中から三の木戸をさっと開いて、二百余騎が切っ先を並べて打ち出で、手先を回して散々に射た。寄せ手はさしもの大勢ではあるが、僅かの敵に驚き騒いで、或いはつないだ馬に乗って煽るが進まず、或いは外した弓に矢をつがえて射んとしたが射ることが出来ず、物の具一領に二三人が取りついて我がものよ、人の物よと引き合いけるその間に、主が討たれても従者は知らず親が討たれても、子はそれを助けず。蜘蛛の子を散らすように石川々原に引き退く。 その道は五十町が程で。馬・物の具を捨てたので足の踏みどころもなかったのだ。東條(赤坂千早村の西隣)一郡の者は俄かに徳を付けたように見えた。
2026年01月27日
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主上 御没落 笠置の事 天皇 藤房等さんにんを従えて、笠置を逃れさせ給う さる程に、類火が東南から吹いて余煙が皇居に懸かったので、主上を始め参らせて、宮々・卿相・雲客(てんじょうびと)が皆徒歩裸足のままに、何処を目指すと言う当てもなく、足に任せて落ちて行った。 この人々、始めの一二町が程は主上を扶け奉りて前後にお供を申されける。南風が烈しく路険しく暗くして敵の鬨の声がこれかれ聞こえるので、次第に別々になって後にはただ藤房・季房の二人より他は主上の御手を助け参らせる人もいない。 忝くも十善の天子、玉体を田夫野人の形に替えさせ給いて、行く先が何処と言う当ても無しに出でさせ給いける、御有様こそは浅ましかりける。如何にもして夜の内に赤坂城にと御心ばかりをくさせ給うのだが、仮にも未だ習わせなさらぬ御歩行なので、夢路を辿る御心地がして、一足には休み、二足には立ち止まり、昼は道の側にある青塚(青い草の繁った塚・墓)の陰に身を隠され給いて、寒草の疎かなるを御座の茵(しとね)として、夜には人も通わぬの野原の露に分け迷わせなさる。羅榖(らこく、薄い絹布)の御袖を干し敢えず(草の露と涙で濡れて乾かすことが出来ない」。 とかくして夜昼三日で山城の多賀郡(たがのこおり)にある有王山(ありおうやま)の麓まで落ちさせなされた。 藤房も季房も三日まで口中(くちなか)の食(じき)を断っていたので、足が弛(たゆ)み身疲れて、今はどのような目に遭ったとしても逃げられる気がしないので、仕方なくて幽谷の岩を枕にして君臣兄弟諸共に現(うつつ)の夢に臥しなされた。 梢を払う松の風を雨が降るかと聞し召して、木の陰に立ち寄りなされると下草がはらはらと御袖にかかぅたのを、主上がご覧あそばされて、 さしてゆく 笠置の山を い出しより あめが下には 隠れ家もなし 藤房卿は涙を抑えて、 いかにせん 憑(たの)む陰とて 立ち寄れば 猶(なほ)袖濡らす 松の下露 深須入道等の手に移り 南都に入らせらる 山城の国の住人、深須(みす)入道・松井蔵人の二人はこの辺の案内者であるので、山々峰々を残る隈なく探した所、皇居を隠れなく探しい出させなされた。 主上は実に恐ろし気なる御景色にて、汝等が心有る者ならば天恩(天皇の恩恵)を頂いて一家の繁栄を期せよと仰せなされた。 さしもの深須入道は俄かに心変じて、哀れこの君を助け参らせて義兵を挙げようと思っていたが、後に続ける松井の所存が知り難いので、事は漏れやすくして事のなり難い事を測るって沈黙したのはうたて(甚だ残念)である。 俄かの事なので網代輿でさえないので、張輿の怪しげなるに扶け乗せ奉り、先ず南都の内山に入れさせなされた。その體ただ殷湯夏臺(殷の桀王は始め夏の桀王の臣であり、桀王のため夏台に幽閉されたが後に桀王を撃ち亡ぼした。夏台は獄の名で、陽翟即ち今の河南封府禹州に遇ったと言う)に囚われ越王会稽(越王句践は呉王夫差に敗れて会稽山で降人・降伏者となったが後に復讐した)に下した昔の夢と異ならない。 これを聞き、是を見る人毎に袖を濡らさないと言う事は無かったのだ。 生け捕られたる人々 この時に此処かしこで生け捕られ給いける人々には、先ず、一宮中務(いちのみやなかつかさ)卿親王・第二の宮妙法院尊澄法親王・峯の僧正春雅(しゅんが)・東南院僧正聖尋(しょうじん)・萬里小路(までのこうじ)大納言宣房(のぶふさ)・花山院大納言師賢(もろかた)・按察(あぜち)大納言公敏きんとし)・源中納言具行(ともゆき)・侍従(中務省に属し、天皇に諌を奉り、遺忘・過失を拾補する役、従二位藤原実仲の子)中納言公明(きんあき)・別當左衛門督實世(さねよ)・中納言藤房・宰相季房(さいしょうすえふさ)・平宰相成輔(成輔)・左衛門督為明(ためあきら)・左中将行房(ゆきふさ)・左少将忠顯(ただあき)・源(みなもと)少将能定(よしさだ)・四條の少将隆兼(たかかね)・妙法院執事澄俊法印・北面・諸家の侍共には、左衛門大夫氏信・右兵衛大夫有清・對馬兵衛重貞・大夫将監兼秋・左近将監宗秋・雅楽(うた)兵衛尉則秋(のりあき)・大学助長明(ながあきら)・足助次郎重範・宮内丞能行・大河原源七左衛門有重、奈良の法師(興福寺や東大寺に属した僧兵)に、俊増・教密・行海・滋賀良木治部房圓實・近藤三郎左衛門尉宗光・國村三郎入道定法・源左衛門入道慈願・奥入道如圓・六郎兵衛入道淨圓、山徒(比叡山延暦寺の属した僧兵、山法師)には勝行房定快・習禅坊淨運・淨實坊實尊、都合六十一人、その所従眷属共に至るまでは数えるに暇がない。 或いは籠輿に召され、或いは傳馬に乗せられ、白昼に京都に入り給いければその様方かと覚えたる男女が巷に立ち並び、人目をも憚らずに泣き悲しんでいる。浅ましい有様なのだ。 宇治の平等院に行幸 六波羅の 入御 御和歌 十月二日、六波羅の北方、常盤駿河守範貞が三千余騎で路を警固仕りて、主上を宇治の平等院に成し奉る。 その日、関東の両大将が京には入らないで、直ぐに宇治に参り向って龍願に閲し奉りて、先ず三種の神器を渡し給いて、持明院新帝に参らするべき由を奏聞した。 主上は藤房を以て仰せ出だされた事には、三種の神器は古より継體の君が位を天に受けさせ賜う時に自ずからこれを授け賜う者也。四海に威を振い、逆臣が有って暫く天下を掌に握る者ありと言えども、いまだこの三種の重器(宝器)をみずからほしいままにして、新帝に渡し奉る例を知らない。その上に内侍所をば笠置の本堂に捨て置き奉りしかば、定めて戦場の灰燼にこそ落ちさせ給いつらめ。 神璽は山中に迷った時に木の枝に懸けて置いたので、遂にはよもわが国の守りとならせ給わぬことはあるまい。宝剣は武家のともがらもしも天罰を顧みずして、玉體に近づき奉ることがあれば、みずからその刃の上に伏し給わんずる為に、暫くも御身を放たんことは有ってはならない、と仰せられければ、東使の両人も言葉なくして退出した。
2026年01月23日
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陶山、小宮山が先駆けして城中に忍び入り 火をつける 城 遂に陥落した ここに備中の住人、陶山(すやま)藤三義高・小宮山次郎某(なにがし)が六波羅の催促に随って、笠置の城の城の寄せ手の中に加わって、河向かいに陣を取っていたのだが、東国の大勢が既に近江に着いたと聞こえたので、一族若党どもを集めて申したのは、御辺達、如何思うぞや、この間の数日の戦いで石に打たれ、遠矢に当たって死ぬ者は幾千万と言う数を知らず。これは皆さして爲出しこともなく死んだので、骸骨が未だ乾かないのに名は先だって消え去ってしまった。 同じく死ぬ命を人目に余る程の軍を一度してから死ぬのであれば、名誉は千載に留まって、恩賞は子孫の家に栄えるだろう。 つらつら平家の乱から以来、大剛の者として名を古今に揚げたる者共を案ずるに、いずれもそれ程の高名とは覚えない。 先ず熊谷・平山の一の谷での先懸けは、後陣の大勢を頼んだ故である。 梶原平三の二度の懸けは源太を助ける為である。佐々木三郎が藤戸を渡れたのは案内者の手柄。同じく四郎高綱が宇治川で先陣をきったのは、名馬いけずきの故である。 これらをさえ、今の世に語り伝えて名を天下の人口に残しているぞ。 如何に況や、日本国の武士共が集まって、数日攻めても落ちないこの城を我等が勢だけで攻め落としたならば、名は古今の間に並びなく、忠は万人の上に立つに違いないぞ。 いざや、殿原、今宵の雨風に紛れて、城中に忍んで紛れ入り、一夜討ちして天下の人に目を覚まさせよう。と、言った所、五十余人一族若党が最もしかるべしと、同じたのだ。 これ皆、千に一つも生きて帰る者はあるまいと、思い切った事であるから、兼ねての死への出立に皆が曼陀羅を書いてぞ付けたのだ。 差し縄の十丈ばかりの長さの物を二筋、一尺ばかりおいて結び合わせ、結び合わせして、その端に熊手を結い付けて持たせた。これは岩石などで登れない場所を木の枝や岩の稜に討ちかけて、登ろう為の支度である。 その夜は九月晦日(つごもり)の事であるから、目指すさきも知れない暗い夜で、雨風が激しく吹いて面を向けるべき様のなかったが、五十余人の者共太刀を背中に負い、刀を後ろに差して城の北に当たる石壁(せきへき)の数百丈聳えて居る鳥も翔けり難い所から登ったのだ。 二町ばかりをとかくして上ったのだが、その上に一段高い所がある。屏風を立てた如くである岩石が重なって、古松が枝を垂れて、蒼苔は道にすべらかえある。 此処に到って人は皆如何とも致すすべがなくて、遥かに見上げて立っていた所に、陶山藤三が岩の上をさらさらと走り上って、件の差し縄を上に有る木の枝に打ちかけて、岩の上から下したものに跡に続く兵共が各々これに取り付いて、第一の難所を易々と全員が登り切ってしまった。 そこから登るにはさしたる険阻が無かったので、或いは葛の寝に取り付き、或いは苔の上を爪立て二時(四時間)ばかりを辛苦して屏際までたどり着いた。 此処で一息休み、各々が屏を登り越えて、夜廻りが通った後について、先ず城の中の案内を見たのだ。追手の木戸・西の坂口をば伊賀・伊勢の兵千余騎で固めている。 搦手に対する東の出屏の口をば、大和・河内の勢五百余騎にて固めている。 南の坂、二王堂の前を和泉・紀伊国の勢七百余騎で堅めている。 北の口一方は険しいのを頼みにしているからか、警護の兵を一人も置かずに、ただ言い甲斐の無いなげな下部二三人が櫓の下に薦を張り、篝を焼いて眠っている。 陶山と小見山は城を廻り、四方の陣をば早見済ました。 皇居は何処であろうかと伺って、本堂の方に行く所に、或る役所の者がこれを聞きつけて、夜中に大勢の足音がして、潜(ひそか)に通るのは怪しき物かな。誰人ぞと問いかけた所、陶山が取りもあえずに、これは大和勢にて候が今夜は余りに雨風が烈しくて物騒がしく候間、夜討ちが忍び込み候やらんと存じ候いて、夜廻り致し候。と答えた。 げにと言う音がして、又問う事も無かった。是より後は、中々に忍んだ様子もなく、面々の御陣に御用心候江と高らかに呼ばわって、閑々(しづしづ)と本堂に上って見れば、これが皇居と覚えて蝋燭が数多くの所に燃えて、振聆の音が幽かである。 衣冠を正したる人が三四人大床(おおゆか、広縁)に伺候して、警護の武士に、誰か候かとたずねられければ、某(それの)国の某々(なにがしなにがし)ご名乗って回廊にしかと(ぎっしりと)並んで居る。 陶山は皇居の様子を見澄まして、今はこうと(もうこれで大丈夫だ)思いければ、鎮守(ちんじゅ、寺院の境内に勧請した諸神、又はその神社)の前で一札を致し、本堂の上の峰に上って、人がいない坊があったので火を懸け同音に鬨の声を挙げた。 四方の寄せ手は是を聞いて、すはや(それ)城中に返り忠の者が出て、火をつけたぞ。鬨の声を合わせよや、と言って追手搦手七万余騎が声々に時を合わせて喚(おめ)き叫んだ。 その声が天地を響かせて、如何なる須弥(しゅみ、須弥山で、仏経の世界説では世界の中心に聳えると言う高山)の八万由旬(ゆじゅん、古代インドで長さを測る単位の称で、六町一里で四十里又は三十里、或いは十六里などと異説が有る)であっても崩れるだろうと聞こえた。 陶山の五十余人の兵共、城の案内はただ今委しく見置いた。ここの役所に火を懸けてはかしこに鬨の声を挙げ、かしこに鬨を作っては此処の櫓に火を懸け、四角八方に走り回ってその勢城中充満たる様に聞こえたので、陣々を固めた官軍共は、城内に敵が大勢攻め入ったと心得て、物の具(鎧)を脱ぎ捨て、弓矢をかな繰り棄てて、崖堀とも言わずに倒れまろびて、落ちて逃げていく。 錦秋判官代がこれを見て、きたなき人々の振る舞いかな。十善の君に憑まれ参らせて武家を敵に受ける程の者共が、敵が大勢と言うことで戦わずして逃亡するのは、何たる醜態ぞや。何時の為に惜しかるべき命ぞや。とて向う敵に走り懸かり、大肌脱ぎになって戦ったので、矢種を射尽くして太刀を打ち折ってしまったので、父子二人と郎党十三人、各々は同じ枕に腹を掻き切って死に伏した。
2026年01月22日
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足助はこれを聞いて、この者の言い様は如何様、鎧の下に腹巻か金偏に巢(くさり。鎖帷子。小さい鎖を重ね合わせて襦袢のようにして鎧や衣服の下に着込んだもの)かを重ねて着ているので、前の矢を見ながらここを射よと叩くのであろう。 もしも鎧の上を射たなら、どうして砕いて通さない事が有ろうか。箆が砕けて鏃が折れて通らない事があったとしても、兜の真向を射たならば、どうして砕いて通らない事が有ろうか。と、思案して胡籙(箙・えびら、矢を盛って背負う物)から金磁頭(かなじんどう、磁頭は神頭とも書き、鏃の一種。多く木で造る、箆口・のぐちが小さく、次第に膨らみ、まら、次第に細く、更に先に至って太くなるもの。それが鉄製であるのを金磁頭と言う)を一つ抜き出して、鼻油を引いて、さらば一矢仕らん、受けてご覧じ候えと言うままに、しばらく鎧の高紐を外して十三束三伏を前よりもなお引き絞って手答え高く(射てた時に、手元にこたえる感覚)はたと射た。 思う矢坪を外さずに、荒尾弥五郎の兜の真向を金物(兜の真向に打ってある金具)の上二寸ばかりを射砕いて、眉間の真ん中をくつまき(矢の柄の本の巻いた所。矢竹の鏃をつけた所に糸を巻き付けた部分。くつまきまで強く射込んだので)責めて、ぐさりと射籠めたので二言とも言わずに兄弟は同じ枕に逆様に倒れ重なり死んでしまった。 これを軍の始めとして、追手・搦手の城の内は喚(おめ)き叫びして責め戦った。 箭叫び(世を射当てた時に射手が上げる叫び声、又矢を射合う時の敵味方の叫び声)の音が休む時がなかったので、大山も崩れて海に入り、坤軸(こんじく、地軸、大地は三千六百の軸で支えられていると言う)も折れて、忽ちに地に沈むかとぞ覚えた。 晩景(ばんけい、有景色、夕方)になったので、寄せ手は益々重なって、持ち楯を突き寄せ突き寄せして木戸口の所まで攻めて来た所に、ここに南都の般若寺から巻数(経巻の目録)を持参した使・本性房(本庄坊)と言う大力の律僧(りっそう、律宗の僧侶)がいたが、褊衫(へんさん、袈裟にるいした法衣。左肩から右脇にかけて体の上半部を覆う。北魏の時から始まり僧衣きげんとなったが、ここは単に僧侶の衣の意)の袖を結んで引き違え(袖口は縫わずに広いので、その袖を背中の辺りで結び合わせた)、尋常の人が百人でも動かし難い大盤石を軽々と脇に挟んで、鞠(まり)の勢で引き缺き引き缺きして二三十続け打ちに投げたのだ。 数万の寄せ手は楯の板を微塵に打ち砕かれただけではなくて、少しでもこの石に触れた者は尻居に打ち据えられたので、東西の坂に人雪崩を築いて、人馬諸共に打ち重なった。あれ程に深かった二つの谷が死人でこそ埋められてしまったのだ。 されば、軍は散じて、後までも木津河の流れが血になって、紅葉の陰を行く水の紅に深いに異ならず。 是より後は寄せ手が雲霞の如くであると言えども、城を攻めようと言う者は一人もいない。ただ城を囲んで遠見にだけしているのだった。 楠正成 及び 桜山四郎入道 の挙兵 高塒が二十万の大軍を遣わして笠置城に向わしむ かくて日数を経ている所に、同じ月の十一日に河内の国から早馬を立てて、楠兵衛正成と言う者が御所方(ごしょがた、天皇方)になって旗を揚げる間、近辺の者共の志しある者が同心して、志なき者は逃げ隠れた。 則ち、国中の民屋(民家)を追捕(没収)して、兵糧の為に運び取り、おのれの舘の上にある赤坂山に城郭を構えて、その勢は五百騎で立てこもり候。御退治が延引するならば、事は御難儀に候らん。急ぎ御勢を向かわせられ候え、とぞ告げ申したのだ。 これをこそ珍事であると騒ぐ所に、又同じ十三日の晩景に、備後の国から早馬が到来して、櫻山四郎入道、同じ一族等が御所方に参りて機を挙げ、當国の一宮(いちのみや、広島県蘆品・あしな郡新市町宮内にある吉備津宮)を城郭として立てこもる間、近国の逆徒(謀反人)等が少々馳せ加わってその勢は早くも七百余騎、国中に打ち靡き(うち従え)、あまつさえ他国に打ち越さんと企て候。夜を日についで討っ手を下されず候えば御大事が出で来ることは必定と覚え候。御油断あるべからずとぞ告げたのだ。 前には笠置の城が強く、国々の軍勢が日夜に責めるが未だ落ちず、後ろにはまた楠・櫻山の逆徒が大いに起こって、使者は日々に急を告げている。南蛮(楠氏)西戎(櫻山氏)は既に乱れてしまっている。東夷北狄もまたいかがあらんずらんと、六波羅の北方(きたのかた)駿河の守、安い心も無いので日々に早馬を討たせて、東国勢を乞いなされたのだ。 相模入道は大いに驚いてさらばやがて討っ手をさしのぼせよ、とて一門の他家宗徒(むねと)の人々六十三人までぞ催されける。 大将軍には大佛陸奥の守貞直(さだなお)・同遠江守・普恩寺相模守・塩田越前守・櫻田参河守・赤橋尾張守・江馬越前守・糸田佐馬頭・印具兵庫助・佐介上総介・名越右馬助・金澤右馬助・遠江左近大夫将監治時・足利治部大輔高氏、侍大将には、長崎四郎左衛門尉、相随う侍には三浦介入道、武田甲斐次郎左衛門入道・小山出羽入道・氏家美作守・佐竹上総入道・長沼四郎左衛門入道・土屋安芸権守・那須加賀権守・梶原上野太郎左衛門尉・岩城次郎入道・佐野安房彌太郎・木村次郎左衛門尉・相馬右衛門次郎・南部三郎二郎・毛利丹後善亊司、那波左近太夫将監・一宮善(いぐせ)民部太夫・土肥佐渡前司・宇都宮安芸前司・宇都宮安芸前司・同肥後権前司・葛西三郎兵衛尉・寒河弥四郎・上野七郎三郎・大内(おほち)山城前司・長井治部少輔(じぶのしょう)・同備前太郎・同因幡民部大輔入道・筑後前司・下総入道・山城左衛門大夫・宇都宮美濃入道・岩崎弾正左衛門尉・高久同孫三郎・同彦三郎・伊達入道・田村形部大輔(刑部省の次官。刑部省は刑罰・訴訟に関することを掌る)入道・入江蒲原の一族・横山猪俣の両党、この他に武蔵・相模・伊豆・駿河・上野(こうずけ)五か国の軍勢、都合二十万七千六百余騎が九月ニ十日に鎌倉を発って、同じ晦日に前陣既に美濃・尾張両国に到着したが、後陣はまだ高志(たかし)・二村(ふたむら)(共に愛知県)の峠で支えている。
2026年01月21日
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城に籠っていた官軍はそれほどには大勢ではないとは言え、勇気いまだ怠らず、天下の機を呑んで回天の力を出ださんと思える者共なので、僅かの小勢を見て、どうして打ってかからないでいようかと、その勢は三千余騎、木津河の辺りで降り合って(山を下って落ち合って)、高橋の勢を中に取り込んで一人も余すまいと責め戦った。 高橋は始めの勢いにも似ずに、敵の大勢を見て、返りもせずに捨て鞭を打って引いたので、木津河の逆巻く水に追い浸されて討たれる者が数は若干、僅かに命ばかりを助かった者も馬や物具を捨てて赤裸になり、白昼に京都に逃げ上ってのだ。見苦しかりし有様である。 これを憎いと思う者がしたのであろう、平等院の橋詰めに一首の歌をぞ立てたりける。 木津川の 瀬々の岩波 早ければ 懸けて程なく 落ちる高橋 高橋の抜け駆けを聞いて、引くならば入れ替わって高名しようと、跡に続いた小早河も一度に皆がおったてられて一返しも返さずに宇治まで退却したと聞こえたので、また札を立てかけて、 懸けも得ぬ 高橋落ちて 行く水に 憂き名を流す 小早河かな 幕府の軍勢が 笠置を攻める 昨日の合戦で、官軍が打ち勝ったと評判が立って、国々の勢が馳せ参って難儀なることもあったが時日を移すべからずとて、両検断が宇治で四方の手分けを定めて、九月二日に笠置の城をめざして発向した。 南の手には五畿内五か国の兵を向けられる。その勢は七千六百余騎、光明山(こうみょうせん)の後ろを廻って搦め手に向う。 東の手には東海道十五か国の内、伊賀・伊勢・尾張・三河・遠江(とうとうみ)の兵を向けられた。 その勢、二万五千余騎、伊賀路を経て金剛山(大阪府と奈良県にの間にそびえる金剛山脈の最高峰、西麓に千剣破城があった)越えに越えに越えに越えに向った。 北の手には、山陰道八か国の兵共一万二千余騎、梨間の宿のはずれから、市野邊山の麓を廻り、追っ手(城の表門)に向った。 西の手には、山陽道八か国の兵を向けられた。その勢は三万二千余騎が木津川を登って崖の上にある岨通(そばみち、険しい山道)を二手に分けて押し寄せた。 追手・搦手、都合七万五千余騎、笠置の山の四方二三里の間は尺地も残さず充満したのだ。 足助重範 の 奮戦 明ければ九月三日、の卯の刻(午前六時)に、東西南北の寄せ手が相近づいて鬨(とき)を作った。その声は百千の雷(いかづち)が鳴り落ちるが如きであり、天地も動くかと思わればかりだ。 鬨の声を三度上げて、矢合わせの流鏑(かぶら、木または鹿の角で蕪(かぶら)の形につくる、中えお空にして数個の穴をあけて、矢に取り付けたもの。射るとその穴に風が入って響きを発する]を射かけたのだが、城の中は静まり返って鬨の声にも合わせようとしない。當の矢(返答の矢、報復の矢)をも射ようとはしない。 かの笠置の城と申すのは、山が高くて一片の白雲が峰を埋めて、谷は深くして萬仭の青岩が路を遮っている。攀折(つづらおり、曲折した坂道)の道を廻って上がる事十八町、岩を切って堀とし、石を畳んで塀としている。 であるから、誰も戦う者がいなくても、容易く上ることは得難い。されども城中は鳴りを静めて、人がいるようには見えないので、敵は早くも落ちたのだと心得て四方の寄せ手七万五千余騎は掘り崖と言わず葛のかづら(蔓草)に取り付いて、岩の上を伝わって、一の木戸口(城の外側に造った門を言う。内の方に入るにしたがって順次に二の木戸、三の木戸と言う)の辺、二王(寺門の両脇に安置した一対の金剛力士)堂の前まで寄せたのだ。 ここで一息休んで、城の中をきっと見上げれば、錦の御旗に日月を金銀で打ち付けたものが白日の下に輝いて光り渡っているの陰に、隙間もなく鎧っている武者が三千余人が甲の星を耀かせ、鎧お袖を連ねて、雲霞の如くに並み居るのだった。 その外に、櫓の上、さま(城壁や櫓などに設けた、外を伺い、矢・石・弾丸などを放つための窓)の陰には射手(いて)と思しき者共が弓の弦を喰い湿して、彌束を解き、押し寛げ、中差し(箙・えびらの征矢・そや・実戦用の矢に指し添える二本の矢)に鼻油を塗って、待機している。 その勢は決然として、敢えて攻めようとする様子もない。 寄せ手の一万余騎は進もうとしても叶わず、後退しようとしても出来ない。不本意ながら立ち止まっていた。 やや暫くあってから、木戸の上の櫓から、矢間の板を押し開いて名乗ったのは、三河の国の住人足助次郎重範(しげのり)、忝くも一天の君に頼まれ参らせて、この城の一の木戸を固めている。前陣に進んだ旗は、美濃・尾張の人々と見たのは僻目か。十善の君のおわします城であるから、六波羅殿が御向かわれ候かと心得て、御儲け(予めの準備、支度)の為に大和鍛冶(当時は奈良に刀の名工が多かった)が鍛え打った鏃を少々用意して仕り候、 一筋受けてごろうじろと、言うままに三人張(三人で張る矢)の弓十三束三伏せ(矢の長さ、束は一握り、即ち指四本の幅、伏は指一本の幅)箆(へら、矢竹)が鏃の中に入って潜(かづ)く部分の上まで引き絞ってから、ちょうと放った。 その矢は遥かなる谷を隔てた、二町ほど離れた場所に控えていた荒尾九郎の鎧の栴檀の板を右の小腋まで箆深くぐさりと射貫いた。 一矢であるとは言え、屈強の箭坪であるので、荒尾は馬から逆様に落ちて起きも直らないで死んでしまった。舎弟の弥五郎はこれを敵に見せまいと、矢面に立ち隠して、楯の外れから進み出て言った、足助殿の御弓勢は日頃に承っていた程にはなかった。これを遊ばし候え、御矢を受けて一筋受けて、物の具の實(さね)の程を試みよう。と欺いて弦走り(鎧の腹に当たる所)を叩いてぞ立ったのだ。
2026年01月19日
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巻の 第三 主上 御夢 の事 付けたり 楠の事 天皇 武士の参るのが稀で 愁いなされ 御夢を御覧あらせらる 元弘元年八月二十七日に、主上は笠置に臨幸なされ、本堂を皇居となされた。 初めの一両日の程は、武威を恐れて参り仕え奉る人は一人もなかったのだが、叡山東坂本の合戦に六波羅勢が打ち負けたと評判が立ったので、当寺(笠置寺)の衆徒を始めとして近国の兵共がここかしこから馳せ参じた。 けれどもまだ名の有る武士、手下の軍勢百騎、二百騎とも騎馬隊を引き連れた大名は一人も参らない。 この軍勢だけでは皇居の警護はどうであろうかと覚束ない。そう主上が思し召し煩われてすこし御まどろまれた御夢に、所は紫宸殿の庭前と覚えたる地に、大きな常盤木(一年中緑の葉を保つ木、ここは楠である)がある。緑の陰が繁って、南に指した枝が特に栄えてはびこっている。その下に三公(さんこう、中国の三公に準えて太政大臣、左右大臣を言う)百官(諸々の官吏)が位に応じて列座している。 南に向いた上座には御座の畳を高く敷いて、いまだ坐したる人はいない。主上は御夢心地に、誰を設ける為の座席であろうか、と怪しく思召して、立たせ給いたるところに、鬟(かん、びんずら、童子の髪の結い方の一種。髪を頂きで左右に分けて結んだもの」を結った童子二人が忽然として来たって、主上の御前に跪き、涙を袖に懸けて、一天下の間に、暫くも御身を隠れさす所はない。但し、あの樹の陰に南に向かえる座席がある。これは御為に設けたる玉戸に衣(ぎょくたい、天子の御座の後ろに立てる屏風、ここは玉座の意)で御座いますので、暫くここに御座候え。と申して童子は遥かな天上に上り去りぬと御覧じて、御ゆめはやがて醒めた。 御夢に対する御解釈と 楠 正成 主上は是は天が朕に告げた夢と思召されて、文字につきて御料簡あるに、木に南と書くのは楠(くすのき)と言う字である。その陰に南に向かって坐せよと二人の童子が教えたのは、朕が再び南面の徳を治めて、天下の士を朝せしめんずる所を日光月光が示されけるよと、自ら御夢を合わせられて頼もしくこそ思し召されける。 夜が明けたので、当寺の衆徒の成就房(じょうじゅにぼう)律師を召されて、もしやこの辺に楠と言う武士がいるでろうか、とお尋ねなされたところ、近い辺りにそのような名字をつけた者があるとも未だ聞き及ばず候。河内の国金剛山の西にこそ楠多門兵衛正成とて、弓矢を取って名を得たる者が候なる。是は敏達天王(びたつてんのう)四代の孫、井出左大臣橘諸兄公の後裔であるとは申せ民間に下って年久しく、その母が若かりし時に志貴(しぎ、奈良県生駒郡の西南隅、平群・へぐり村信貴畑にある山)の毘沙門に百日詣でをして夢想を感じ、設けたる子であり候い、稚名(わかな)を多門とは申し候と、御答申し上げたのだった。 主上はさては今夜の夢の告げはこれであったかと、思召されて、直ぐにこれを召せ、と仰せ下されければ藤房卿が勅を奉じて楠正成を召されたのだった。 正成 の参上 と その勅答 勅使宣旨を帯して、楠の館に行き向かい、事の仔細を述べられたので、正成は弓矢取る身の面目(めんぼく)、何事かこれに過ぎるだろうかと思ったので、是非の思案にも及ばず、先ず忍びで笠置に参上したのだ。 主上が萬里小路(までのこうじ)中納言藤房卿を以て仰せられけるには、東夷征伐の事、正成を頼み思し召しなされたるには仔細がある。勅使を立てられたところ時を移さずに馳せ参って条は叡感浅からざる所である。 そもそも天下創草の事は如何なる謀を廻らしてか、勝つことを一時に決して、太平を四海に致せられるべき所存を遺さずに申すべきと勅諚があったので、正成が畏まって申し上げたのは、東夷の近日の大逆がただ天の責めを招き候上は、衰亂の弊(ついえ)に乗じて天誅を致されんに、何の仔細が候べき。但し、天下草創の功は武略と智謀との二つで御座いましょう。もし勢を合わせて戦うならば六十余州の兵を集めて武蔵・相模の両国に対するとも、勝つことは得難いでありましょう。 もし謀を以て争うならば、東夷の武力はただ利を砕き、堅いのを破る内を出でず。これは欺くのに安くして恐れるに足りない所である。 合戦の習いであるますから、一旦の勝負をば必ずしも御覧ぜられるべからず。 正成一人がまだ生きてあると聞し召されたならば、聖運遂に開かれるべしと思召し候え、と頼もし気に申して、正成は河内に帰ったのだ。 笠置軍事の事 付 陶山(すやま)小見山 夜討ちの事 幕府の軍勢が笠置に向かう、高橋又四郎の敗走 さるほどに主上は笠置に御座有りて、近国の官軍は付き従う奉るとの由、京都に聞こえたので、山門の大徒がまた力を得て、六波羅に寄せる事もあるかもしれないとて、佐々木判官時信に近江一国の勢を相添えて大津に向わせられた。 是も猶小勢で叶わない由を申したので、重ねて丹波国の住人久下(くげ)・長澤らの一族等を差し副えて八百余騎、大津東西の宿に陣を取った。 九月一日、六波羅の両検断(けんだん、巡察、警備、拷問、決罰を掌り、戦時には在京の軍勢を率いて戦争をしたり、又は軍奉行となって士卒の到着を記した役)、粕谷三郎宗秋・隅田次郎左衛門が五百余騎で宇治の平等院に打ち出して軍勢の到着を帳簿に記入した。 催促をも待たずに、諸国の軍勢が夜昼にひきも切らずに馳せ集まって、十万余騎に及んだ。 既に明日の二日の巳の刻(午前十時)に押し寄せて矢合わせ(合戦開始の合図として両軍が互いに矢を射合わすこと)が有ると定めたその前の日に、高橋又四郎が抜け駆けして独り高名に供えようと思ったのか、僅かに一族の勢三百騎を率して笠置の麓に寄せたのだ。
2026年01月15日
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主上臨幸 依非実事 山門變事 付けたり 紀信の事 臨幸が偽りだぅた事で、大衆が離反し 師賢(もろかた)は笠置に移る 山門の大衆は唐崎の合戦に打ち勝って、事始めよしと悦びあったことは斜めではない。ここに西塔を皇居と定められる条、本院は面目無きに似たり。 寿永の古、後白川院山門を御憑(おんたのみ)有った時にも、先ず横川(よかわ)に御登山あったのだが、やがて東塔の南谷の圓融房に御移りあったのだ。且(かつ)は先蹤である。且は吉例である。 早く臨幸を本院になりたてまつるべしと、西塔院に触れ送る。 西塔の衆徒は理に折れて仙足偏の嗶(せんひつ、さきばらい)を促す為に皇居に参列した。 折節に深山おろしが激しくて、御簾を吹き上げて龍願を拝し奉りければ、主上にてはおわしまさず。伊(ゐんの)大納言師賢(もろかた)が天子の袞衣(こんえ)を着(ちゃく)し賜えるのであった。 大衆はこれを見て、これはどうした事であるか。天狗の所業ぞや、と興を冷ました(呆れた)。 その後は参る大衆(だいしゅ)は一人も無かった。 かくては山門がどのような野心を存ぜんずらんと覚えければ、その夜の夜半ばかりに伊(ゐんの)大納言師賢(もろかた)・四条中納言隆資(たかすけ)・二条中将為明(為昭)等が忍んで山門を落ちて笠置の石室(いわや)に参られた。 さるほどに、上林房(じょうりんぼう)阿闍梨豪誉(ごうよ)はもとから武家に心を寄せていたので大塔の宮(護良親王)の執事(貴人の側に有って事を執行する者)・殿法印良忠が安居院(あぐゐ)の中納言法印澄俊(ちょうしゅん)を生け捕って六波羅にこれを出した。 護正院僧都猷全(ゆうぜん)は御門徒の中の大名で、八王子(はちおうじ、比叡の東続きの小山)の一の木戸を固めていたので、こうなっては戦えないと思ったのであろうか、同宿(どうしゅく、同じ宿に住む層)や手の者(手下の者)を引き連れて六波羅に降参したのだ。 是を始めとして、一人が落ち、二人落ちして落ちて行ったので今では光林房律師現存・妙光坊の小相模・中房(なかのぼう)悪(あく、豪勇な)律師等、三四人より外は落止まる衆徒もないのであった。 尊澄法親王 及び 護良親王 叡山を落ちさせ給う 妙法院(宗良親王)と大塔宮とはその夜までなお八王子に御坐ありけるが、かくては悪しかるべしと一まども(一先ず、一応)落ち延びて、君の御行く末を承わらばやと思召しければ、二十九日の夜半ばかりに、八王子に篝火をあまたの所に焼かせて、未だ大勢が籠っていると見せて、戸津の浜から小舟にめされ、落ちとまる所の衆徒を召し具されて、先ず石山に落ちさせなされた。 これで両門主が一緒に落ちさせなされた事は、計略が遠くないのに似ているう上に、妙法院は御行歩(おんぎょうぶ)も甲斐甲斐しからねば、ただしばらくはこの辺に御座あるべしとて、石山から二人は引き別れさせ給いて、妙法院は笠置に越えさせなされたので、大塔宮は十津河の奥へと志して先ずは南都の方へと落ちさせなされた。 さしもやんごとなき一山の貫首(かんじゅ、主立つ者、天台宗の座主)の位を捨て、いまだ習わせなさらない万里漂泊の旅に浮かれさせ給えば、醫王(叡山の根本中堂に本尊として祀る薬師如来)山王(叡山の東麓滋賀県大津市坂本にある日吉神社に祀る山王権現。醫王と共に叡山の守護)の結縁も此れが限りであると名残惜しく、竹園(皇族)連枝(兄弟)の再会も今は何をか期すべきと御心細くぞ思召されたので、互いに隔たった御影が隠れるまで顧みては泣く泣く東西に別れさせ給う。御心の中こそ悲しいのであったよ。 漢楚の故事 との比較 そもそも今度の主上が誠に山門に臨幸なされなかったことで、衆徒の意が忽ちに変じた事は、一旦事はならなかったけれども、つらうらと事の様を按ずるに、これは叡智の淺からざる所からでているのだ。 昔、強秦が滅びて後、楚の項羽と漢の高祖とが国を爭うこと八箇年、軍を挑む事は七十余箇度である。その戦いの度毎に項羽が常に勝ちに乗じて、高祖ははなはだ苦しむことが多かった。 或る時に高祖は栄陽城に籠った。項羽は兵(つわもの)を以って城を囲む事数百重であった。日を経て城中に粮(兵糧)が尽きて兵が疲れたので、高祖は戦わんとするのに力は無くて逃れようとしても道がない。 ここに高祖の臣に紀信といいける兵が高祖に向って申しけるには、項羽が今城を囲んでいるのは数百重、漢は既に食が尽きて士卒はみな疲れてしまった。もしも兵を出して戦うならば、漢は必ず楚の虜になってしまうでしょう。ただ敵を欺いて、密かに城を逃げ出すのが最上の方策かと思われまする。願わくは臣が今漢王の忌み名を犯して(漢王の実名を名乗って)楚の陣に投降しましょう。楚がここに囲みを解いて臣を得れば、漢王は速やかに城を出て、重ねて大軍を起こし却って楚を亡ぼし給え、と申した。 紀信が忽ち楚に下り、殺されることは悲しいけれども、高祖は社稷(土地の神と穀物の神と、国家)の為に身を軽くすべきではないので、力なく涙を抑えて、別れを慕いながら紀信の謀に随い給う。 紀信は大いに悦んで、自ら漢王の御衣を着して黄屋(こうおく、天子の車。蓋裏が黄繒・黄色の布)の車に乗って左纛(さとう、黒牛の尾で作った天子の旗。車の左上に立てる。纛は羽毛の幡)を付けて、高祖が罪を謝して楚の大王に降す、と呼ばわり城の東の門から出たのである。 楚の兵はこれを聞いて、四面の囲みを解き、一所に集まった。 軍勢が皆万歳を唱えた。その間に、高祖は三十余騎を従えて、城の西門から出て、成皐(せいこう、洛州・河南省開封府さんずいの已水県西南二里にある)にぞ落ち給いける。 項羽は大いに怒って遂に紀信を刺し殺した。 高祖はやがて成皐の兵を率いて却って項羽を攻めた。項羽の勢いが尽きて後、遂に烏江で討たれたので高祖は長く漢の王業を起こして天下の主となったのだ。 今、主上もこのようであった吉例を思召して、師賢もこのような忠節を存じられたのであろう。彼紀信は敵の囲みを解かせる為に偽り、これは敵の兵を遮る為に謀ったのだ。 和漢で時は異なるが、君臣が體を合わせた、誠に千載一遇の忠貞、暫くの間に変化する智謀であったよ。
2026年01月14日
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ここに何者とは知れず、見物衆の中から。年十五六歳ばかりの小稚児で、髪を唐輪(からわ、童形の髪の結い方、髷から上を二つに分け、額の上で二つの輪を作ったもの)に上げて、麴塵(きじん、淡黄色を帯びた青色)の筒丸(どうまる、鎧の一種、竹筒の如く胴を丸く囲み、右わき下で合わすように造った物)に大口(おおくち、大口袴、束帯の時、表袴・おもてはかまの下に穿いた。紅の生絹・平絹・張絹などで製し、裾の口が大きく広いもの。武家時代には直垂・水干の下に用いた)のそば(端、股立ち)高く取り、金作り(かねつくり、金の金具で装飾した)の小立ち抜いて快實に走り懸かり、兜の鉢をしたたかに三打ち四打ちと打ったのだ。 快實は屹と振り返ってこれを見ると、齢は二八十六歳くらいの小稚児が、大眉(おおまゆ、眉を太く描き)に鉄漿黒(かねくろ、歯をお歯黒で黒く)染めている。 これほどの小児を討ちとめたとしても、法師の身に取っては情けがない。打つまいとすれば、走り懸かかり走り懸かりして、手繁く切り廻すのでよしよし、それならば長刀の柄で太刀を打ち落として組止めようとしたところ、比叡辻の者共が田の畔(くろ)に立ち渡って射た横矢(側面から飛んできた矢にこの稚児は胸板をつと射貫かれて、矢庭に(その場に、直ちに)伏して死んでしまった。 後に誰であるかと尋ねて見た所、海東の嫡子幸若丸と言う小児で、父が止めて置いたので軍の伴をしなかったので、やはり思足りなく思ったのであろう、見物衆に紛れて後についてきたのだった。 幸若は幼いとは言えども武士の家に生まれたせいであろうか、父が討たれたのを見て、同じく戦場に討ち死にして名を残したのは哀れである。 海東の郎党たちはこれを見て、二人の主を目の前に討たれて、あまつさえ頸を敵に取られたのは生きて帰るべきではないと、三十六騎は矕(くつばみ、馬の口に含ませる金属製の具)並べて(馬の首を揃えて)懸け入り主の死骸を枕にして討ち死にしようと相争う。 快實はこれを見てからからと打ち笑って、心得ぬ物かな、御辺達は敵の首をこそ獲ろうとあうるものであるのに、味方の首を欲しがるとは武家自滅の瑞相が現れている。欲しいのならば、すは(ほら)呉れてやるぞと言うなり持っていた海東の首を敵の中にがばと投げかけ、坂本様の拝み切り(坂本で叡山を拝むように真向から太刀を振りかざして斬る事)、八方を払って火を散らす。 三十六騎の者共は快實一人に切り立てられて、馬の脚をぞ立てかねている。 佐々木三郎判官時信が後ろに控えて、味方を打たすな、続けやと下知したところ、伊庭(いば)・目賀多(めかだ)・木村・馬淵等が三百余騎に喚いてかかった。 快實が危うく討たれようとした際に、桂林房の悪讃岐・中の坊の小相模・勝行房の侍従竪者定快(じょうかい)・金蓮房の伯耆直源(ほうきじきげん)の四人が左右から渡り合って、切っ先を差し合わせて切って廻る。 讃岐と直源とが同じ所で討たれたので、後陣の衆徒五十余人連れてまた打ってかかった。 唐崎の浜と申すのは東は湖で、その汀が崩れている。西は深田で馬の脚も立たない。平沙(へいしゃ、平らで広々とした砂原が広がり、道は狭い。後ろに回って取り囲もうとしても出来ない。中に取り込めようとしても叶わない。 それで衆徒も寄せ手も互いに間に立った者とばかり戦い、後陣の勢は徒に見物をして控えている。 六波羅 の 敗北 既に唐崎で軍が始まったと聞こえたので、延暦寺の御門徒の勢三千余騎、白井の前を今路(いまみち、雲母・きらら坂から延暦寺東塔を経て滋賀県大津市坂本に出る路を今路越えと言卯。雲母坂とは京都市左京区修学院に下る坂道)へ向かった。 本院(東塔、根本中堂とも本院とも言う)の衆徒七千余人が三宮林(さんのみやはやし)を下り降る。 和仁(わに)・竪田(かただ)の者共は小舟三百余艘に取り乗って敵の後ろを遮ろうと大津を指して漕ぎまわした。 六波羅勢はこれを見て、叶わないとでも思ったのか、志賀の焔魔堂の前を横切って、今路に懸かり引き返した。衆徒は案内者であるから、これ彼と言わず要所要所に落ち合って散々に射った。 武士は皆無案内であるから堀や崖を厭わずに馬を駆け倒して退却しかねていた。その間に、後陣に引いていた海東の若党の八騎・波多野の郎党十三騎。真野入道父子二人、平井九郎主従の二騎が谷底で討たれてしまった。 佐々木判官も馬を射られて乗り換えを待つ間に、大敵が左右から取り巻いて危うく討たれると見えたのだ。名を惜しみ命を軽んずる若党共、帰り合わせ、帰り合わせして所々で討ち死にしてしまった。その間に、万死を出でて一生に遇う者達は白昼に京に引き返したのだ。 この頃までは天下は久しく静かにして、軍と言う事は敢えて耳にしなかったのに、俄かなる不思議が出で来て人皆が慌て騒ぐ。天地もただ今は打ち返って沙汰(噂」をしない所もないのだった。 持明院殿 御幸 六波羅の事 御伏見天皇等 六波羅 北の方に入御 世上が乱れたる時節であるから、野心(謀反)の者共が取り参らせることもやと、昨日二十七日の巳の刻(御前十時)に持明院(じみょういん、御深草天皇の御系統を指す)本院(後伏見上皇、平安中期以後は上皇・本院が幾人もおられたので区別するために年代順に本院・一の院・中院・新院などと称した)・春宮(とうぐう、皇太子である量仁親王・光巌天皇)両御所が六条殿(光明寺残篇によれば、春宮は持明院殿から六条院に行啓して直ぐ六波羅北方に御入りである。六条殿は六条の北、西の洞院の西にあった。もと大膳大夫平業忠・なりただの邸で、後白河上皇が寿永二年1183年十二月に移住、上皇御所としたのに始まる。しばしば消失したがそのたびごとに直ぐ建造した。御深草上皇が文永十二年1275年四月に六条殿を造営、移住されてからは長講堂とともに持明院流に伝わった)に御幸なる。 供奉の人々には、今出川前(さき)の右大臣兼季(かねすえ)公・三条大納言通顕(みちあき)・西園寺大納言公宗(きんむね)・日野前中納言資名(すけな)・防城(ぼうじょう)宰相経顕(つねあき)・日野宰相資明(すけあきら)、皆が衣冠を正して御車で前後に相随う。 その他の北面、諸司・挌勤(かくご、各役所に勤番する勇士)は大略(たいりゃく、おおよそ)狩衣の下に腹巻(はらまき、軽便略式の鎧の一種。胴丸に似て、腹に巻き背で合わせるように造ったもの)を着輝かした者もいる。 洛中は須庾(しゅゆ、暫くの間)に変化して、六軍(りくぐん、天子の軍隊。六軍は中国周代の制で天子が統率した六軍を言う。一軍の数は一万二千五百人。総計で七万五千人)が翠花(すいか、天子の旗。中国で昔、天子の旗はカワセミの羽で飾ったから言う)を警護し奉る。 見聞したる者は耳目を驚かした。
2026年01月13日
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供奉の諸卿は皆衣冠を脱いで、折烏帽子に下垂れを着し、七大寺(奈良の東大・興福・薬師・法隆・西大・元興・大安の七寺)詣でする京家の青侍なんどの女性(にょしょう)を具足したる體(てい)に見せて御輿の前後に供奉したのであぅた。 古津(こづ、京都府相良郡木津町木津、木津川の南)の石地蔵を過ぎさせ給いた時に、夜はほのぼのと明けたのある。 ここで朝食偏に向(あさかれい、天皇の朝食)の供御(ぐご)を進め参らせて、先ず南都の東南院にお入りなされた。 かの僧正は元から二心の無い忠義を存知であったから、先ず臨幸なさたのを披露しないで、衆徒の心を伺い聞くに、西室(仏殿の北にあった。東大寺の院家・門跡寺の別院で本寺を扶養するものの一つで顕実僧正は関東の一族であり権勢の門主であったから、皆その権威を恐れたのであろう与力する衆徒はいなかった。 かくては南都での皇居は叶うまいと、翌日の二十六日に和東の鷲峯山(京都府相良郡和東町原山にある)に入られた。 ここは又余りに草深く里が遠いので、どんな計略も叶わないであろうと思われる所なので、要害(味方にとって肝要であり敵には害となる地)に御陣を召さるべきだと、同じく二十七日に潜考(せんこう、忍びの行幸の儀式をひきつくろい、南都の衆徒少々を召し具されて笠置(かさぎ、相良郡笠置町の笠置山)の石室(いわや)に臨幸された。 師賢(もろかた)登山の事 付 唐崎濵合戦の事 師賢が臨幸と称して 叡山に登る 伊(ゐんの)大納言師賢卿は、主上が内裏をお出になられた夜に、三条河原まで供奉されたが、大塔の宮から様々な仰せがの仔細があったので、臨幸の由にて山門に登り、衆徒の心をも伺い、叉勢いをもつけて合戦を致せとの仰せがあったので、師賢は法勝寺の前からさんずいなしの滾龍の御衣(おんぞ、天子の礼服、色赤く、日月星等の模様を縫い取った)を着して瑶輿(ようよ、天子の乗る輿)に乗り換えて、山門の西塔院に登りなされた。 四条中納言隆資(たかすけ)二条中将為明(ためあき)・中の院(具平親王八代の子孫、陸奥の守源定成・さだなりの子、別名を良定と言う)左中将貞平(さだひら)、皆が衣冠を正して供奉の体に相随った。事の儀式はまことしくぞ見えたのだ。 西塔の釈迦堂を皇居となされて、主上は山門を御憑(おんたのみ)有って臨幸なされた由を披露したので、山上・坂本は申すに及ばず、大津・松本・戸津・比叡辻(ひえつじ)。仰木(あふぎ)・絹河(きぬがわ)・和仁(わに)・堅田(かただ)の者までが我先にと馳せ参じた。 その勢は東西の両塔に充満して雲霞の如くみえたのである。 六波羅勢が 叡山に 発向する かかりけれども、六波羅ではいまだに此の状況を知らないでいた。 夜が明けたので、東使の両人が内裏へ参って、先ずは行幸を六波羅になり奉(松)らんとて打ち立った所に、浄林房阿闍梨(じょうりんぼうあじゃり)豪誉(ごうよ)の許から六波羅に使者を立てて、今夜の寅の刻に、主上は山門を御憑みありて臨幸なりける間、三千の衆徒が悉く馳せ参じ候。 近江・越前の御勢を待ちて、明日には六波羅に寄せられるべき由評定あり。 事が大に楢に先に、急ぎ坂本に御勢を向けられ候え。豪誉が後攻めを仕りて、主上をば取り奉るべし。とぞ申したりける。 両六波羅は大いに驚いて、先ず内裡に参じて見奉るに、主上は御座なくてただ局町女房連がこれかれ泣く声だけがしていたのだ。 扨ては山門に落ちさせ給いたる事仔細無し。勢(せい)つかぬ先に山門を攻めよ。とて、四十八か所の篝に畿内五か国の勢を指し添えて、五千余騎追っ手の寄せ手として、赤山(せきさん、京都市左京区修学院に鎮座する天台宗の守護神、赤山禅院。慈覚大師円仁が唐土から将来した大山府君神を祀る)の麓、下がり松の辺りに差し向けられ、搦め手へは佐々木三郎判官時信・海東左近将監・長井丹後守宗衡(むねひら)筑後前司貞知(さだとも)波多野(はだの)上野前司宣道(のぶみち)・常陸前司時朝(ときとも)に、美濃・尾張・丹波・但馬の勢を差し添えて七千騎が大津、松本を経て唐崎の松の辺りまで寄りかけた。 天皇方の軍勢 坂本には兼ねてより相図を指したる事であるから、妙法院(みょうほういん、京都市東山区にある天台宗の門跡寺院、元比叡山三千坊の一つ。後白河法皇が京都に移して工を興させ、高倉天皇の皇子尊性法親王の入寺以来天台座主三院の一つとなり、日吉・ひえ門跡t五勝した。ここは尊澄・還俗して宗良親王)・大塔宮の両門主が宵から八王子に御上がりあって、御旗を掲げられたところ御門徒(その宗門の信徒)の護正院(ごしょういん)の僧都祐全(ゆうぜん)・妙光坊の阿闍梨玄尊(げんそん)を始めとして、三百騎五百騎がここかしこから馳せ参じて、一夜にして御勢六千余騎になったのである。 天台座主を始めとして皆が解脱同相の御衣(おんころも)を脱ぎ給いて、堅甲利兵の御貌(おんかたち)に替わった。 垂迹和光の砌(みぎり)忽ちに変じて、勇士守禦(しゅぎょ)の場になったので、神慮もいかに有らんと図り難く覚えたのだ。 両軍 唐崎の浜で 合戦する さるほどに、六波羅勢既に戸津の宿(宿場)辺まで寄せたりと坂本の内で騒動したので、南岸圓宗院・中の房・勝行房(かつぎょうぼう)・早雄の同宿共、取る物も取り敢えずに唐崎(滋賀県大津市)の浜辺へ出で合いける(迎え撃った)。 その勢は皆徒歩立ちで、しかも三百人には過ぎていない。海東(かいとう)はこれを見て、敵は小勢である。御陣の勢が重ならぬ先に駈け散らさないでは置くまいよ。続けや者共、と言うままに三尺四寸の太刀を抜いて、兜の射向け(左)の袖を差しかざし、敵が渦を巻いて控えている真ん中に懸け入って、敵の三人を切り伏せて、波打ち際に控えて続く味方を待ったのだ。 岡本房の播磨竪者快實は遥かにこれを見て、前につき並べたる持ち楯一帖をがっぱと踏み倒して、二尺八寸小長刀を水車のように廻して躍りかかった。 海東はこれを弓手に受けて、兜の鉢を真っ二つに打ち破らんと、片手打ちに打ったのだが、打ち外して袖の冠板(かむりいた、鎧のそでの板)から菱縫いの板(鎧の最下の菱縫い・×形に綴じつけるを施した板)まで片筋交いに(斜めに)懸けず(訳もなく、無造作に)切り落とした。 二の太刀を余りに強く切らんとて弓手の鐙(あぶみ、馬具の一つ、鞍の下の両側で乗り手の足を支える支える物。鉄製または木)を踏み折、危うく馬から真っ逆さまに落ちるところであぅたが、乗り直った所を、海東は過たずに喉笛を突かれて、頭から落馬した。 快實は直ぐに海東の上に乗り懸かって鬢の髪を掴んで、引き懸け、頸を掻き切って長刀に貫き、武家の大将を一人討ち取ったぞ。 物の始めよし、と喜んで嘲笑いながら立っている。
2026年01月09日
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岡本房の幡磨竪者(はりまのりっしゃ)快實が遥かにこれを見て、前につき並べたる持ち楯一帖をがっぱと踏み倒して、二尺八寸の小長刀を水車に回して、躍り掛かる。 海東はこれを弓手(ゆんで、弓を持つ手、左手)に受けて、兜の鉢を真っ二つに打ち破らんと片手打ちに打ったのだが、打ち外して袖の冠(かふり)板(鎧の袖の上の板)から菱縫いの板(鎧の最下の×形に綴じ付けた菱縫いを施した板)まで片筋かい(斜め)に懸けず(わけもなく、無造作に)切って落とした。 二の太刀をあまりに強く斬ろうとして、弓手の鐙(あぶみ、馬具の一つ、鞍の下の両側で乗り手の足を支える物。鉄または木で作る)を踏み折り、既に馬から落ちようとしたが、乗り直った所を快實が長刀の柄を取り延べて、内兜に切っ先上がりに二つ、三つと隙間もなく(続けざまに)入れたところ海東はあやまたずに喉笛を突かれて馬から真っ逆様に落ちてしまった。 快實はそのまま海東の上巻(うわまき、鎧の上巻付け上巻・あげまき付けの略。鎧の背部の紐をつける部分)に乗り懸かって、鬢の髪を掴んでひっかけて頸を掻き切って長刀に貫き、武家の大将を一人討ち取ったり、物始めよし(幸先がよい)と悦び、嘲笑いながら立っている。 ここに、何者とも知れず、見物衆の中から、年十五六ばかりの小児が髪を唐輪(からわ、童形の髪の結い方、髷から上を二つに分け、額の上で二つの輪に分けた物)に上げている者が麴塵(きじん、淡黄色を帯びた青色)の筒丸(つつまろ、鎧の一種。竹筒の如くに胴を丸く囲み、右わき下で合わせるように作った物)に大口(おおくち、大口袴、束帯の時に表袴・うえのはかまの下に穿いた、紅の生絹・平絹・張絹などで製し裾の口が広く大きなもの。武家時代には直垂・水干の下に用いた)のそばを高く取り、金造りの小太刀を抜いて快實に走り懸かり、兜の鉢をしたたかに三打ち四打ちに打ったのだ。 快實がきっと振り返ってこれを見ると、齢は二八十六歳程の小児(こちご)で大眉に鐵漿黒(かねくろ)である(眉を太くかきお歯黒である)。これほどの小児を討ちとめたなら法師の身にとっては情けがない。討つまいとすれば走り懸かっては手繁く切り廻りける間、よしよしそれなrばと長刀の柄で太刀を打ち落として、組みとどめようとした所、比叡辻(えいつじ)の者どもが田の畔(くろ)に立ち渡って射った横矢(側面から飛んできた矢)でこの稚児は胸板をつと射貫かれて、矢庭(ただち、その場で)に臥して死んでしまぅた。 後に誰であるかと穿鑿したところ、海東の嫡子の幸若丸と言った小児で、父が留め置いたので軍の供をしなかったが、それでも覚束なく思ったのか、見物衆に紛れて後について来ていたのだった。 幸若は幼いとは言えども武士の家に生まれた故であろうか、父が討たれたのを見ては同じく戦場に討ち死にして名を遺したのは哀れであるよ。 海東の郎党がこれを見て、二人の主を目の前に討たせて、あまつさえ頸を敵に取られては生きて帰る者があってよいであろうか、と三十六騎の者共が轡(くつばみ、馬の口に含ませる金属製の具、馬の首を立て並べる意)を並べて駆け入り、主の死骸を枕にして討ち死にしようと相争う。 快實はこれを見てからからと打ち笑い、心得ぬ物かな、御辺たちは敵の首を獲るのが本筋であるのに、味方の首を欲しがるとは武家自滅の瑞相がおのずと現れたり。欲しいのであれば、すは(ほら)取らせようぞ、と言ったままで持っていた海東の首を敵の中にがばと投げ入れた。 坂本様(さかもとよう)の拝み切り、八方に払って火を散らす。 三十六騎の者共は快實一人に切り立てられ、馬の足を立てかねている。 佐々木三郎判官時信、後ろに控えて、御味方を討たすな、続けやと下知したところ、伊庭(いば)・目賀多(めかだ)・木村・馬淵(まぶち)などの三百余騎がおめいてかかる。 快實が既に討たれようとした所に、桂林房の悪讃岐(あくさぬき)・中房の小相模・勝行房・侍従竪者定快・金蓮房の伯耆直源の四人が左右から渡り合って、切っ先を差し合わせて切って廻る。 讃岐と直源とが同じ所で討たれたので、御陣の衆徒五十余人が連れてまた討ってかかる。 唐崎の浜と申すのは、東は湖(みずうみ)であり、その汀が崩れている。西は深い田であり、馬の足も立たない。平沙(平らで広々とした砂原)は渺々(びょうびょう)として道は狭い。 後ろに取り廻さんとすれども叶わず。中に取り籠めんとするがそれも叶わない。されば衆徒も寄せ手も互いに面に立ったる者ばかりと戦って、後陣の勢は徒に見物してぞ控えている。
2026年01月08日
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供奉の諸卿は皆衣冠を脱いで、折烏帽子に下垂れを着し、七大寺(奈良の東大・興福・薬師・法隆・西大・元興・大安の七寺)詣でする京家の青侍なんどの女性(にょしょう)を具足したる體(てい)に見せて御輿の前後に供奉したのであぅた。 古津(こづ、京都府相良郡木津町木津、木津川の南)の石地蔵を過ぎさせ給いた時に、夜はほのぼのと明けたのある。 ここで朝食偏に向(あさかれい、天皇の朝食)の供御(ぐご)を進め参らせて、先ず南都の東南院にお入りなされた。 かの僧正は元から二心の無い忠義を存知であったから、先ず臨幸なさたのを披露しないで、衆徒の心を伺い聞くに、西室(仏殿の北にあった。東大寺の院家・門跡寺の別院で本寺を扶養するものの一つで顕実僧正は関東の一族であり権勢の門主であったから、皆その権威を恐れたのであろう与力する衆徒はいなかった。 かくては南都での皇居は叶うまいと、翌日の二十六日に和東の鷲峯山(京都府相良郡和東町原山にある)に入られた。 ここは又余りに草深く里が遠いので、どんな計略も叶わないであろうと思われる所なので、要害(味方にとって肝要であり敵には害となる地)に御陣を召さるべきだと、同じく二十七日に潜考(せんこう、忍びの行幸の儀式をひきつくろい、南都の衆徒少々を召し具されて笠置(かさぎ、相良郡笠置町の笠置山)の石室(いわや)に臨幸された。 師賢(もろかた)登山の事 付 唐崎濵合戦の事 師賢が臨幸と称して 叡山に登る 伊(ゐんの)大納言師賢卿は、主上が内裏をお出になられた夜に、三条河原まで供奉されたが、大塔の宮から様々な仰せがの仔細があったので、臨幸の由にて山門に登り、衆徒の心をも伺い、叉勢いをもつけて合戦を致せとの仰せがあったので、師賢は法勝寺の前からさんずいなしの滾龍の御衣(おんぞ、天子の礼服、色赤く、日月星等の模様を縫い取った)を着して瑶輿(ようよ、天子の乗る輿)に乗り換えて、山門の西塔院に登りなされた。 四条中納言隆資(たかすけ)二条中将為明(ためあき)・中の院(具平親王八代の子孫、陸奥の守源定成・さだなりの子、別名を良定と言う)左中将貞平(さだひら)、皆が衣冠を正して供奉の体に相随った。事の儀式はまことしくぞ見えたのだ。 西塔の釈迦堂を皇居となされて、主上は山門を御憑(おんたのみ)有って臨幸なされた由を披露したので、山上・坂本は申すに及ばず、大津・松本・戸津・比叡辻(ひえつじ)。仰木(あふぎ)・絹河(きぬがわ)・和仁(わに)・堅田(かただ)の者までが我先にと馳せ参じた。 その勢は東西の両塔に充満して雲霞の如くみえたのである。 六波羅勢が 叡山に 発向する かかりけれども、六波羅ではいまだに此の状況を知らないでいた。 夜が明けたので、東使の両人が内裏へ参って、先ずは行幸を六波羅になり奉(松)らんとて打ち立った所に、浄林房阿闍梨(じょうりんぼうあじゃり)豪誉(ごうよ)の許から六波羅に使者を立てて、今夜の寅の刻に、主上は山門を御憑みありて臨幸なりける間、三千の衆徒が悉く馳せ参じ候。 近江・越前の御勢を待ちて、明日には六波羅に寄せられるべき由評定あり。 事が大に楢に先に、急ぎ坂本に御勢を向けられ候え。豪誉が後攻めを仕りて、主上をば取り奉るべし。とぞ申したりける。 両六波羅は大いに驚いて、先ず内裡に参じて見奉るに、主上は御座なくてただ局町女房連がこれかれ泣く声だけがしていたのだ。 扨ては山門に落ちさせ給いたる事仔細無し。勢(せい)つかぬ先に山門を攻めよ。とて、四十八か所の篝に畿内五か国の勢を指し添えて、五千余騎追っ手の寄せ手として、赤山(せきさん、京都市左京区修学院に鎮座する天台宗の守護神、赤山禅院。慈覚大師円仁が唐土から将来した大山府君神を祀る)の麓、下がり松の辺りに差し向けられ、搦め手へは佐々木三郎判官時信・海東左近将監・長井丹後守宗衡(むねひら)筑後前司貞知(さだとも)波多野(はだの)上野前司宣道(のぶみち)・常陸前司時朝(ときとも)に、美濃・尾張・丹波・但馬の勢を差し添えて七千騎が大津、松本を経て唐崎の松の辺りまで寄りかけた。 天皇方の軍勢 坂本には兼ねてより相図を指したる事であるから、妙法院(みょうほういん、京都市東山区にある天台宗の門跡寺院、元比叡山三千坊の一つ。後白河法皇が京都に移して工を興させ、高倉天皇の皇子尊性法親王の入寺以来天台座主三院の一つとなり、日吉・ひえ門跡t五勝した。ここは尊澄・還俗して宗良親王)・大塔宮の両門主が宵から八王子に御上がりあって、御旗を掲げられたところ御門徒(その宗門の信徒)の護正院(ごしょういん)の僧都祐全(ゆうぜん)・妙光坊の阿闍梨玄尊(げんそん)を始めとして、三百騎五百騎がここかしこから馳せ参じて、一夜にして御勢六千余騎になったのである。 天台座主を始めとして皆が解脱同相の御衣(おんころも)を脱ぎ給いて、堅甲利兵の御貌(おんかたち)に替わった。 垂迹和光の砌(みぎり)忽ちに変じて、勇士守禦(しゅぎょ)の場になったので、神慮もいかに有らんと図り難く覚えたのだ。 両軍 唐崎の浜で 合戦する さるほどに、六波羅勢既に戸津の宿(宿場)辺まで寄せたりと坂本の内で騒動したので、南岸圓宗院・中の房・勝行房(かつぎょうぼう)・早雄の同宿共、取る物も取り敢えずに唐崎(滋賀県大津市)の浜辺へ出で合いける(迎え撃った)。 その勢は皆徒歩立ちで、しかも三百人には過ぎていない。海東(かいとう)はこれを見て、敵は小勢である。御陣の勢が重ならぬ先に駈け散らさないでは置くまいよ。続けや者共、と言うままに三尺四寸の太刀を抜いて、兜の射向け(左)の袖を差しかざし、敵が渦を巻いて控えている真ん中に懸け入って、敵の三人を切り伏せて、波打ち際に控えて続く味方を待ったのだ。
2026年01月08日
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北の方 及び 助光の出家 北の方は助光を待ちつけて、辨殿(右小辨俊基)の行くへを聞くことが嬉しいので、人目も憚らずに御簾より外に出迎えて、どうであったか、辨殿は、何時頃に御上りあるとの御返事であるか、と問いなさると助光ははらはらと涙を流して、はや、斬られさせ給い候、これこそは今わの際の御返事にて候、と言って鬢の髪と消息とを取り出して声も惜しまずに、泣きければ、北の方は形見の文と白骨を見給いて、内へも入りなさらず縁に倒れ伏して、消え入りなされたかと心配するほどに見えなさる。理(ことわり)であるよ。 一樹の陰に宿り、一河の流れを汲むほども、知られず知らぬ人でさえ、別れとなれば名残を惜しむ習いであるが、況や連理の契り浅からずして、十年余りになりぬるのに夢より他には叉もあい見ぬ。この世の外の別れと聞いて、絶え入り悲しみ給うのは理である。 四十九日と申すに形の如くに仏事を営んで、北の方は様を変えて、濃い墨染に身をやつし柴の扉(とぼそ)の明け暮れは、亡き夫の菩提をぞ弔いなされたのだ。 助光も髻(もとどり)を切って、永く高野山に閉じこもってひとえに亡君の後生菩提をぞ弔い奉った。夫婦の契り、君臣の儀、亡きあとまでも留まって哀れである事共であるよ。 天下 怪異 の事 兵火と地震 嘉暦二年の春の事、南都大乗院禅師房(奈良市の興福寺に属する法相宗の寺」と六方の大衆(興福寺の六方の末寺」とが確執の事が有って合戦に及んだ。 金堂、講堂、南圓堂、西金(精根)堂、忽ちに兵火の余煙で焼失した。 叉、元弘元年、山門東塔の北谷から兵火がい出来て、四王院、延命院、大講堂、法華寺、常行堂が一時に灰燼に帰した。 これらをこそ、天下の災難を兼ねて知らせる所の前相(前兆)かと人は皆魂を冷やしたのだ。 同じ年の七月三日に大地震があって、紀伊国の千里濵の遠干潟俄かに陸地になること二十余町である。 又、同じ七日の酉の刻に地震が有って富士の絶頂が崩れることが百丈であると、卜部の宿祢が大亀を焼いて占い、陰陽の博士が占文を啓(ひら)いて見るに、国王が位を易え、大臣は禍に遭う、と言った。 勘文(かんぶん、𠮷凶を案じた文)の表おだやかならず、尤も御慎みあるべし、と密奏した。 寺々の火災、所々の地震、ただ事ではない。今や不思議が出来と人々が心を驚かしている所に、果たしてその年の八月二十二日に東使(鎌倉の使者)の両人が三千余騎にて上洛すると聞こえたので、何事とは知らず、京にまたどんなことが起こるのであろうかと、近国の軍勢が我も我もと馳せ集まった。京中が何となく以外に騒動した。 東使上洛 護良親王の奏聞 笠置への出陣 両使が既に京着していまだ文箱(ふみばこ、書状を入れて往復する箱)をも開けない先に、何とかして聞こえたのか、今度の東使の上洛は主上を遠国に遷し参らせ、大塔の宮を死罪に行ない奉る為であると、山門に披露があったので、八月二十四日の夜に入って、大塔の宮から密かに御使いを以て主上に申させ給いけるは、今度東使が上洛の事を内々に承り候ければ皇居を遠国に遷し奉り、尊雲(そんうん、大塔宮尊雲法親王、即ち護良親王の自称)を死罪に行わん為である。今夜急いで南都の方に御忍びなされるべきでありまする。 城郭は未だ整わず、官軍が馳せ参じない先にもしや凶徒らが皇居に寄せ来らば、味方は防戦に利を失うでありましょう。且は(一方では)京都の敵を遮り止めんが為に、又は衆徒(僧兵)の心を見る為に、近臣を一人天子の號を許されて山門に上させ、臨幸の由を披露候わば敵軍はきっと叡山に向って合戦を仕掛ける事は綯いでありましょう。 さるほどならば、衆徒は我が山を思う故に、防戦に身命を軽んじ候べし。 凶徒が力疲れ、合戦が数日に及べば、伊賀・伊勢・大和・河内の官軍を以て却って京都を攻められれば、凶徒の誅戮踝(くびす)を廻らすべからず(かかとの向きを変える少しの間もかからない)。 国家の安危、ただこの一擧に有るべく候。と、申されたる間、主上はただあきれさせ給うばかりにて、何の御沙汰にも及び給わず。 伊大納言師賢・万里小路中納言藤房・同じく舎弟季房等三四人が上臥していたのを御前に召されて、この事は如何にしたらよいであろうか、と仰せ出だされければ、藤房卿が進んで申されたのは、逆臣が君を犯し奉らんとする時に、暫くその難を避け還りて国家を保つのは、前足偏に緃(ぜんしょう、前例)は皆佳例にて候。とかくの御思案に及び候はば夜の深く候らん。所謂重耳(じゅうじ、晋の献公の子。献公の愛する馬偏に麗姫の讒言を恐れて蒲に逃げたが、蒲を伐ったので遂に母の本国である翟に奔った。後に覇者となって晋の文王と言う)は翟(てき)に奔って大王(周の吉公木偏なしの檟父の尊称)は豩(ひん)行った。共に王業をなして子孫は無窮に光を輝かし候。とかくの思案に及び候えば、夜も深くなり候わん、早く御忍び候えとて、御車を指し寄せ、三種の神器を乗せ奉り、下簾からい出絹を出して、女車の体(てい)に見せて主上を扶け乗らせ奉りて、陽明門から出御なされた。 御門守護の武士共御車を抑えて、何方が御渡りなされるのでしょうか、と問いければればれば、藤房と季房の二人が御車に随いて供奉していたのだが、これは中宮が夜に紛れて北山殿へ行啓なさるのであると宣わせ給えば、されば仔細はないと、御車を通したのだ。 兼ねて用意をしたのであろう、源中納言具行・按察大納言公敏・六条少将忠明等が三条河原で追いつき奉った。これより御車を止められて、怪しげなる張輿に召し返させまいらせたが、俄かの事で駕籠丁(駕籠を舁く人夫)もいなかったので、大膳太夫重康・樂人豊原兼秋・隋人秦久武なんどぞ御輿を舁き奉りける。
2026年01月06日
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阿親はその日は麻の中で日を暮らし、夜になれば湊へと志して、そことも知らずに(当てもなく)行く程に、孝行の志しに感じてか、仏神擁護の眦(まなじり)をや廻らされけん、年老いたる一人の山臥に行き会った。 この稚児の有様を見て、労(いたわ)しく思いけん、これはいずくよりいずくを指して御渡り候ぞ。と問いかけた所、阿親は事の有様をありのままに語ったのだ。 山臥はこれを聞いて、我がこの人を助けなければただ今の程に可哀そうな目に遭うであろうと思って、御心安く思し召し候え、湊には商人船が多く候えば、乗せ奉りて越後・越中の方へ送りつけ参らすると言って、阿親の足が疲れればこの稚児を肩に乗せ、背中に負い、程なく湊にぞ行き着いた。 夜が明けてから、便船があるだろうかと伺うと、折節、湊の中に船は一艘もなかった。 どうしようかと探していると、遥かの沖に乗り浮かべたる大船、順風になったと見えて、帆柱を立てて蓬(とま、菅や茅などを編んで屋根なそを蔽う物。船に葺いて宿る)を巻く。 山臥は手を挙げて、その船ここへ寄って下されよかし、と便船申さん、と呼ばわりけれどもかつて耳にも聞き入れず、舟人は声を帆に挙げて、湊の外に漕ぎ出した。 山臥は大いに腹を立て、柿の衣の露を結んで肩に掛け、沖を行く舟に向候っていらたか(玉の稜・かどのある平たい珠)数珠をさらさらと押し揉んで、一持秘密咒(いちじひみつじゅ)、生々而加護(しょうしょうにかご)、奉仕修行者(ほうししゅぎょうしゃ)、猶如薄人偏に加梵(ゆうにょかぼん)(不動経の末の偈、意味は、一度秘密の経文を持てば、生が変わっても加護が有り、奉仕修行する者は薄人偏に加梵・仏如来の尊号 の如くである)と言った。 況や、多年の勤行においておや。明王の本尊本誓が誤らないならば、権現金剛童子(ごんげんこんごうどうじ、金剛童子は護法の神の名、童形で憤怒の相を現す。手に金剛杵をとるので金剛童子と言う)・天龍夜叉(てんりゅうやしゃ、諸天と龍神と夜叉と。八部衆・仏法を守る八種の生類。天・竜・夜叉・乾門に達婆・阿修蘿・しんにゅうに加楼蘿・緊那蘿・摩口偏の候蘿人偏の加のうちの三)・八大龍王(はちだいりゅうおう、八体の竜神、難陀・跋難陀・婆人偏の加羅・和修吉・徳叉しんにゅうの加・阿那婆達多・摩那斯・優鉢羅)よ、その船をこちらに漕ぎ戻させ給え。と、跳び上がり、跳び上がりして肝胆を砕いてぞ祈ったのだ。 行者の祈りが神に通じたのか、明王が擁護をなされたのか、沖の方からにわかに悪風が吹き来ってこの船が急に転覆しそうになった。 舟人達が慌てて、山臥の御坊、先ず我等を助け給え、と手を合わせ膝をかがめて手に手に船を漕ぎ戻し始めた。 渚近くになった際に、船頭が船から飛び降りて、稚児を肩に乗せて、山臥の手を引いて屋形の内に入れたので、風はまた元の如くに戻って、船は湊を出たのである。 その後で、追っ手の百四五十騎が馳せ来たって、遠浅に馬を控えて、あの船よ、止まれ、招けども舟人はこれを見ぬ由で、順風に帆を揚げたので、船はその日の暮程に越後の府(国府お役所ある所在地)に着いたのだ。 阿新が山臥に助けられて、鰐の口の死を逃れられたのも、明王の加護の御誓いが掲焉(けいえん、著しい」なりける験(しるし)である。 俊基 被誅事 並びに 助光の事 法華 読誦の 大願 俊基朝臣は殊更に陰謀の張本であるから、遠国に流すまでもなくて近日に鎌倉中で斬り申しべしとぞ定められける。 この人には多年の所願があって法華経を六百部を自らが読誦し奉らんとしていたが、まだ二百部が残っていたので、六百部に満ちるまで相待たれ候がこの後は兎に角もなってしまえと、頻りに所望あったのだが、げにもその程の大願を相果たさせざらんも罪であると、後の二百部が終わるほどに僅かの日数を待ち暮らした。その命の程ぞ哀れではあるよ。 後藤助光 北の方の御文を賜いて 鎌倉に下向する この朝臣が多年召し抱えた青侍に、後藤左衛門の尉助光と言う者がいた。 主(あるじ)の俊基が召し取られた後は、北の方に付き参らせて嵯峨の奥に忍んで候けるが、俊基が関東に召し下され給いし由を聞きなされて、北の方は堪えぬ思いに伏し沈んで、歎き悲しみ給うのを見奉るに、悲しみに耐えられずに北の方の御文を給わりて、助光こっそりと忍んで鎌倉へぞ下ったのだ。 助光 俊基に対面す、俊基の死 今日明日と聞いていたので、今はもう斬られてしまわれたかと、行き会う人毎に問い問いして程なく鎌倉に到着した。 右小辨俊基がおわする傍(あたり)に宿を取って、どのような手づるでもよいから何か便りは無いかと伺ったが、叶わずして日を過ごしている所に、今日こそは京都からの召人(めしうど、囚人。捕えられて獄につながれている人)は斬られなさるそうだ、ああ、悲しい事であるよ、などと噂している。 助光はどうしようかと肝を潰して、ここかしこに立って見聞していると、俊基は既に張り輿に乗せられて粧坂(けはいざか)に出で給う。 ここにて工藤二郎左衛門尉が請け取って、葛原岡(粧坂の西の坂下)に大幕を引いて、敷き皮の上に座し給えり。 是を目撃した助光の心中は譬え様もない。目は昏(くれ)足は萎えて、絶え入るばかりになってしまったが、泣く泣くも工藤殿の前に進み出でて、私は右小辨殿に伺候する者でございまするが、最後の様子を見奉り候わんと遥々(はるばる)と参る候。然るべくは、御免を蒙りて御前に参り、北の方の御文をも見参に入れ候わん。と、申しもあえずに、涙をはらはらと流したので、工藤も見て哀れを催されて不覚の涙を堰き留めきれない。 仔細は候まじ、早や、幕の内に御参り候え、とぞ許したのだ。 助光は幕の内に入り、御前に跪いた。俊基は助光を見て、どうしたことであるぞ、とだけ言ってやがて涙に咽ぶのだった。 助光も、これは北の方の御文で御座いまする、とだけ言って御前に差し置いただけで、これも涙に昏れて顔も持ち上げられずに泣いている。 やや暫くあってから、俊基は涙を押し拭い、文を見給えば、消えかかる露の身の置きどころが無いにつけても、如何なる暮れにか無き世の別れと承りそうらわんずらんと、心を砕く涙の程御推量りもなお浅くなんと、詞に余って思いの色は深く、黒み過ぎる程に書かれている。 俊基はいとど涙に暮れて、読みかね給える気色(けしき、景色)は見る人袖を濡らさない人はいないのだ。
2026年01月05日
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阿親はその日は麻の中で日を暮らし、夜になれば湊へと志して、そことも知らずに(当てもなく)行く程に、孝行の志しに感じてか、仏神擁護の眦(まなじり)をや廻らされけん、年老いたる一人の山臥に行き会った。 この稚児の有様を見て、労(いたわ)しく思いけん、これはいずくよりいずくを指して御渡り候ぞ。と問いかけた所、阿親は事の有様をありのままに語ったのだ。 山臥はこれを聞いて、我がこの人を助けなければただ今の程に可哀そうな目に遭うであろうと思って、御心安く思し召し候え、湊には商人船が多く候えば、乗せ奉りて越後・越中の方へ送りつけ参らすると言って、阿親の足が疲れればこの稚児を肩に乗せ、背中に負い、程なく湊にぞ行き着いた。 夜が明けてから、便船があるだろうかと伺うと、折節、湊の中に船は一艘もなかった。 どうしようかと探していると、遥かの沖に乗り浮かべたる大船、順風になったと見えて、帆柱を立てて蓬(とま、菅や茅などを編んで屋根なそを蔽う物。船に葺いて宿る)を巻く。 山臥は手を挙げて、その船ここへ寄って下されよかし、と便船申さん、と呼ばわりけれどもかつて耳にも聞き入れず、舟人は声を帆に挙げて、湊の外に漕ぎ出した。 山臥は大いに腹を立て、柿の衣の露を結んで肩に掛け、沖を行く舟に向候っていらたか(玉の稜・かどのある平たい珠)数珠をさらさらと押し揉んで、一持秘密咒(いちじひみつじゅ)、生々而加護(しょうしょうにかご)、奉仕修行者(ほうししゅぎょうしゃ)、猶如薄人偏に加梵(ゆうにょかぼん)(不動経の末の偈、意味は、一度秘密の経文を持てば、生が変わっても加護が有り、奉仕修行する者は薄人偏に加梵・仏如来の尊号 の如くである)と言った。 況や、多年の勤行においておや。明王の本尊本誓が誤らないならば、権現金剛童子(ごんげんこんごうどうじ、金剛童子は護法の神の名、童形で憤怒の相を現す。手に金剛杵をとるので金剛童子と言う)・天龍夜叉(てんりゅうやしゃ、諸天と龍神と夜叉と。八部衆・仏法を守る八種の生類。天・竜・夜叉・乾門に達婆・阿修蘿・しんにゅうに加楼蘿・緊那蘿・摩口偏の候蘿人偏の加のうちの三)・八大龍王(はちだいりゅうおう、八体の竜神、難陀・跋難陀・婆人偏の加羅・和修吉・徳叉しんにゅうの加・阿那婆達多・摩那斯・優鉢羅)よ、その船をこちらに漕ぎ戻させ給え。と、跳び上がり、跳び上がりして肝胆を砕いてぞ祈ったのだ。 行者の祈りが神に通じたのか、明王が擁護をなされたのか、沖の方からにわかに悪風が吹き来ってこの船が急に転覆しそうになった。 舟人達が慌てて、山臥の御坊、先ず我等を助け給え、と手を合わせ膝をかがめて手に手に船を漕ぎ戻し始めた。 渚近くになった際に、船頭が船から飛び降りて、稚児を肩に乗せて、山臥の手を引いて屋形の内に入れたので、風はまた元の如くに戻って、船は湊を出たのである。 その後で、追っ手の百四五十騎が馳せ来たって、遠浅に馬を控えて、あの船よ、止まれ、招けども舟人はこれを見ぬ由で、順風に帆を揚げたので、船はその日の暮程に越後の府(国府お役所ある所在地)に着いたのだ。 阿新が山臥に助けられて、鰐の口の死を逃れられたのも、明王の加護の御誓いが掲焉(けいえん、著しい」なりける験(しるし)である。 俊基 被誅事 並びに 助光の事 法華 読誦の 大願 俊基朝臣は殊更に陰謀の張本であるから、遠国に流すまでもなくて近日に鎌倉中で斬り申しべしとぞ定められける。 この人には多年の所願があって法華経を六百部を自らが読誦し奉らんとしていたが、まだ二百部が残っていたので、六百部に満ちるまで相待たれ候がこの後は兎に角もなってしまえと、頻りに所望あったのだが、げにもその程の大願を相果たさせざらんも罪であると、後の二百部が終わるほどに僅かの日数を待ち暮らした。その命の程ぞ哀れではあるよ。 後藤助光 北の方の御文を賜いて 鎌倉に下向する この朝臣が多年召し抱えた青侍に、後藤左衛門の尉助光と言う者がいた。 主(あるじ)の俊基が召し取られた後は、北の方に付き参らせて嵯峨の奥に忍んで候けるが、俊基が関東に召し下され給いし由を聞きなされて、北の方は堪えぬ思いに伏し沈んで、歎き悲しみ給うのを見奉るに、悲しみに耐えられずに北の方の御文を給わりて、助光こっそりと忍んで鎌倉へぞ下ったのだ。 助光 俊基に対面す、俊基の死 今日明日と聞いていたので、今はもう斬られてしまわれたかと、行き会う人毎に問い問いして程なく鎌倉に到着した。 右小辨俊基がおわする傍(あたり)に宿を取って、どのような手づるでもよいから何か便りは無いかと伺ったが、叶わずして日を過ごしている所に、今日こそは京都からの召人(めしうど、囚人。捕えられて獄につながれている人)は斬られなさるそうだ、ああ、悲しい事であるよ、などと噂している。 助光はどうしようかと肝を潰して、ここかしこに立って見聞していると、俊基は既に張り輿に乗せられて粧坂(けはいざか)に出で給う。 ここにて工藤二郎左衛門尉が請け取って、葛原岡(粧坂の西の坂下)に大幕を引いて、敷き皮の上に座し給えり。 是を目撃した助光の心中は譬え様もない。目は昏(くれ)足は萎えて、絶え入るばかりになってしまったが、泣く泣くも工藤殿の前に進み出でて、私は右小辨殿に伺候する者でございまするが、最後の様子を見奉り候わんと遥々(はるばる)と参る候。然るべくは、御免を蒙りて御前に参り、北の方の御文をも見参に入れ候わん。と、申しもあえずに、涙をはらはらと流したので、工藤も見て哀れを催されて不覚の涙を堰き留めきれない。 仔細は候まじ、早や、幕の内に御参り候え、とぞ許したのだ。 助光は幕の内に入り、御前に跪いた。俊基は助光を見て、どうしたことであるぞ、とだけ言ってやがて涙に咽ぶのだった。 助光も、これは北の方の御文で御座いまする、とだけ言って御前に差し置いただけで、これも涙に昏れて顔も持ち上げられずに泣いている。
2026年01月02日
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