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組織作りに失敗。
そして結果を出せなかった。
++
実はぼくは一人年俸制にしてもらってました。
理事長と校長にお願いして、やるなら、能力主義に
してほしいと。。そのほうが頑張れるからと。。
しかし、結果が之ですから、10%ダウン
となりました。。
現実は非常にきびしい。
そして、ぼくの降格も決まりました。
次に来たのは、高校で人格がすぐれて、情熱的な
指導を行っていたI先生。
I先生が中学校部長となり、ぼくが中学校主任を
するという、形式上降格なしの人事でした。
僕ともめたM先生。
M先生とは職員室で大げんかをしたこともあるし、
皮肉たっぷりにいわれたこともありましたが、彼が
ヒラに降格になったとき。
これまた寂しいものがありました。
++++
自分もそうなるかもしれない。
++++++++
管理職2年めがスタートします。
スムーズな組織運営を目指しました。
ぼくは、自分を殺し、表にはI先生にでてもらい、
すべてのクッションになってもらうようにしました。
とにかく、大西カラーが目立たないようにする
ぐらいでちょうどいい。
しかし、I先生もはじめての管理職。
そして中学校の中身はわからない。
だから、黒子として、自分が再び運営せざるをえない
状況になりました。
痛い目にあった故に、アンテナの感度は上がってました。
子どもの家庭状況もすべて把握しているし、之までの
痛い経験が役立つようになりました。
たいていの事件事故の兆候はおおよそ、見えてきます。
そこで、ちょんと芽を摘む。
あるいは、事前に、防御網をはっておく。。
自分に情報を持ってきてくれる子どももどんどんでてくるように問題解決を速やかに行う。
僕自身、右腕がいなくて本当に苦労したので、
今年1年はI先生の右腕としてのポジションで
いこうと考えて行動しました。
2年目から、じょじょに組織の歯車が回り始めマス。
硬直化していたほかの職員も、僕に対して少しずつ
ココロをひらき始めました。
ぼくにはトップに立つ技量がないのかなと思う
ことも多かったのですが、一人では何もできないし、
誰とでもチームを組めるほど、まだまだ自分に技量が
備わっていない。。
それがよくわかりました。
2年目は、独自性のある学校にし、
管理職としては調整役に徹し、
そして生徒募集に
力を尽くして結果を出すこと。
これにかけました。
まず、独自性は、昨年から起業家教育を
総合的な学習の時間に設定し、週2回とるようにし、
さらに本来の特色である英語教育に力を
いれました。
管理職としては、できるかぎり、生徒指導の問題が
起きないように。
生徒募集のために、何が効果的か。
いろいろ取り組みました。
ところが、人数の頼みとなる野球部。
この苦戦が2年続きました。
担当の先生も、どうにもこうにもしようがないという
感じでした。
そしてI先生。
この中学校のトップというのは、かなり圧力のかかる
ところで、ほんとうにいろいろ結果をすぐに求められる
だれもが「なりたがらない」役職です。
小学校を見れば英語エリートを作る方向性だし、
高校を見れば、そこまでの準備が出来ず、
進学校とも言えない、その学園の矛盾を
一番感じる場所でもあったわけです。。
1年間、その矛盾に耐えかねたんでしょうね。。。
だから、I先生は1年で退職を決意してしまいます。
精神的にも苦労したのでしょう。。
ぼくにとってはこの2年目は、
ぼくを最も支えてくれた学年が
卒業する年で、大変卒業式に力が入った年でもあるし、
いまでも交流のある学年でもあります。
そして、2年の時にはオーストラリアに修学旅行を連れていって、あの9.11をブリスベンで体験。余波で航空会社も倒産、3日間日本に帰るのを延期せざるを得なかったという大変な思いをした学年でもあります。
*いまでも修学旅行としては最高の旅行だったと思いま す。
そして、以前副部長もしていたことのあるH先生に
3年目バトンタッチされ、管理職として3年目の
春を迎えることになります。
<続く>
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