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昨日のスーパームーンのきれいだったこと。もうGW終わりです。いい出会いもあり、本も読めましたし、ゆっくりできたGWでした。って、今日はまだGWかあ。
2012.05.06
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ども、おおにぴです。東京からあと数時間でおさらばであります。さて、最近自問自答している問いがこれ。「足りないものはなんですか?」今まで、強みを活かすなんていう言葉で、それをランチェスター戦略などいいわけまでかましてどこかしら逃げていたんでしょう。いま、まったく違う世界にきて、久しぶりに、自分の足りないものにたくさん気づいています。「事実把握の正確さ」がまるでできていない。財務分析のレベルの低さ。リーダーシップの根底となるエビデンスの弱さ。妥協という、弱さ。いっちゃえば、数字や事実という、もっともシンプルな部分への「執着のなさ」が、浮き彫りになってきています。確かに、これまでの絶対的な強みの部分であるコミュニケーションスキルについては、異なる業界では圧倒的な武器として使えています。製薬業界の知識も常識を知らなくとも、営業で案件をとってくるのですから。これは昨日まで行われてきたアジア最大の医薬品イベントでも実証できました。製薬業界の営業は、スマートで紳士的ではありますが、圧倒的に熱意に欠けている業界です。生保や食品でならした営業の人間なら、もっともっととることができるでしょう。しかし、僕が思うに、強みには、ギラギラとした成長への野心は感じられないのです。弱みによって、自分の欠けたパーツのありかを徹底的にほじりだし、屈辱と苛立ちで夜を奪われることによってしか、さらなる強みは生まれないのかもしれません。もっともっと勉強がしたくなりました。ギラギラとした”内なるもの”が日々強くなってきています。来週から、イベントでいただいた全国の会社さんへのご挨拶営業の日々です。また、みなさんのエリアに行くこともありますので、ぜひ、お会いしましょう。一緒に、またギラギラと、同じ時間をともに。おおにぴ拝
2010.07.03
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ども、おおにしです。製薬会社に移り、日々出張です。徳島・香川・神戸・大阪・東京とかけまわっています。来週は伊賀上野に奈良、大阪再来週は東京1週間滞在となります。その出張のあいまに 出会ったプロのお話です。昨日は東京から高松への最終便にのって帰ってきましたANAでした。離陸前にかなり団体客が押し寄せていたので、まだ離陸時間があるとおもってipadでメールを確認していました。すると、笑顔のいいフライトアテンダントさんが、「ipadですねー 初めて見ました~」と話しかけてくれました。これは当然のことながら、ipadを初めて見た訳もなく、電子機器をストップさせるための口実なのですが、とてもスマートに話しかけてくれました振ってくれました。すぐに、「電源落としますね」といってから、片付けたんですが、こちらを慮って、「意外と思っていたより薄いですね」といってくれて電子機器の指摘ができていたわけです。そのあとも、そのかたの活躍ブリを見ていると、ひじょうにクレーバーに対応されていました。子供がうるさい時には、さりげなく違う遊び道具をすっと渡したり、団体客には率先して、行動のコントロールをさりげなくおこなっており、なかなかいいものを見せてもらいました。以前にもjalで、素晴らしい接客を受けたこともあるのですが、気配りのできるかどうかサービスはそれだけで気分を高揚させてくれます。自分も、さらにプロを目指さねばと感じるよい出張になりました。おおにし
2010.06.12
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久しぶりに、ブログをアップします。まあ、告知なんですけど。ベンチャーゲノムが行います今年最期の講座です。いま、ディベートに変わる新たな対話ツールとして広がっている”ワールドカフェ”を行います。テーマは、”勝間和代さん” いまやベストセラー作家である勝間さんをテーマにいろいろな話題をお話ししましょう。詳細 http://www.venturegenome.com/item/705いま話題のワールドカフェですが、正否を議論しロジカルシンキングを身につけるためのディベートと違い、対話や新たな気づきを誘発させる会議の仕方として注目されています。 詳細 http://www.humanvalue.co.jp/service/wcafe/?gclid=CMrLx4ns1J4CFYctpAodF17jqw 簡単に説明すると、ワールド・カフェは、4~5人の集まりで、設定したテーマに関して、話し合いをします。それぞれのテーブル毎に机上の模造紙に自由にメモを描きながら、20分から30分程度の話し合いを行います。これをメンバーを変えながら3回程度行うことで、そこで出たアイデアが他花受粉するようなイメージで、テーマに対するコンテクストが短時間で深まり、大変盛り上がる効果があります。どんな状況でも利用できて、かけた時間の割には高い満足感を得られますし、ファシリテーションや事前準備が極めて簡単だという良さがあります。その際、テーブルクロスや花、カラフルなマーカーなどを用意して、「カフェ」的なくつろぎの空間を創り出すことで、より効果を高めることができます。 今回は、テーマとして、カツマー現象なるものまで生み出した、勝間和代さんを取り上げます。 勝間さんの本を読んだことがあるならば、ぜひ参加してみてください。 残り3名のみ定員あきです!!
2009.12.18
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ども、福の神です。最近というか近くの神社にお参りにいくのが日課になっています。いい行いを続けていくと、なにかいいことが起きそうな感じがしますものね。さて、明日なんですが、エステサロンの茉莉花の代表で、めっちゃ笑顔の素敵な松本さんのお話をきく機会を作りました。松本さんhttp://www.matsurica.jp/staff.htmlホームページhttp://www.matsurica.jp/ブログhttp://matsurica.ashita-sanuki.jp/最近いろんなところで創業にかかわるお仕事でいろいろな経営者にお会いしますが、松本さんの自然体の魅力は素敵です。立ち上げ時の苦労従業員さんとの衝突主婦としての顔と経営者としての葛藤いろいろな事件とそれを乗り越えてきたからこそ湧き出てくる「感謝」「笑顔」「謙虚」なんだかしらないけれども、あたたかいものを感じさせる経営者です。ちょっと前の女性経営者だと、「男社会に負けるな~」「女性の地位向上~」という田嶋陽子先生のような感じのかたが多かったのですが、こういう自然体の経営者ができてきてくれるのはほんと、いいなあと思います。ぜひ、気軽にお話を聞きながらすすめていくのはいかがでしょうか?この日は、懇親会でワインソムリエのお話を聞きながらワインもでます。ぜひお楽しみください。*1ドリンクは参加費に含まれています。 2はい目からはワインは別途費用になります。◆タイトル 「こんな私でも経営者になれました。 ~ええー こんな話でもいいんですか~」 生きることは誰にもできますが、幸せになる ことはなかなか難しいですよね(笑)。 今回の講師松本さんは、いつも楽しそうです。 経営者として、女性として大変なこともあったと 思います。 いつもあんなに幸せそうな笑顔で過ごされているのは 自分に正直に生きてこられているからだと思います。 正直に生きることが難しいと考えている男性の 方には、特に松本さんの生き方や起業スタイルが 参考になると思います。 「ええーこんな私でいいの?」、そんなコメントが 素敵な松本さんの講演をお聞きください。 今回は、Bar葡萄塾のワインソムリエのご協力を 得まして、懇親会はワインをつまみにいろいろ お話しできます。ノンアルコールもご用意しています ので講師や参加者の皆様との歓談をご期待くださいませ。 ****************** 日程 2月27日水曜日 19時~21時 ・19時~20時 トーク会 20時~ 懇親会 会場 高松市丸亀町7-10水神市場2F ・丸い亀さん駐車場から徒歩1分 ・丸亀町商店街入り口の角のビルです。 参加費 1500円(懇親会費別) 講師 松本美帆さん エステサロン「癒し空間茉莉花」オーナー 有限会社茉莉花代表 高松市松島町2丁目7-39フレンディービル1F http://www.matsurica.jp シデスコ国際インターナショナルエステシャン AEA認定インターナショナルエステシャン 整体エステ協会認定整体師お問い合わせ・お申込みはとなきちさんまで(#^.^#)http://tonakiti.ashita-sanuki.jp/e11650.html
2008.02.26
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おひさしぶりです!!mixiでブログを書くようにしてからというもの、とんと書いておりません。近況を知りたい方はmixiにてご確認ください。なお、このサイトに関しては、コンサルティングの目線で思いついたことをちらちらと書くようにしていきます。お楽しみに。
2007.07.03
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感動とはけだし名言です いまテレビを、いわゆるありがたや日本国営放送を みているわけですが、感動の話で名言です。 「感じて動く」 つまり、感動というのは、サービスを行う側の問題ではなく 感じる側の問題なのだということ。 これって、顧客満足度どうのこうの以前に、 実に大事な言葉ですね。 感動できるセンスを磨かなければならない。 そういえば、なかなか年をとっていくと感動が減ると いいますが、ぼくはけっこう感動多いです(笑) 昨日も松山にて「ナニワトモアレ」という漫画を読んで 切なく感動してきました。 27巻 あれは反則です。 なんて、漫画喫茶で感動できるんですから。 それとカフェをしようと考えてから、やたらに カフェの内装やコンテンツに目がいく目がいく(笑) 松山でもマルブンさんという有名な町家を改造した カフェにいきましたが、もう見て見てですね。 そういう目線を作れただけで、なんと感動することの 多いことか。 起業家的資質をもつって、こういう感動を得られる 喜びがありますね。 なにかジブンがはじめようと思ったときに、 いろんなひとの「資産」から学ぼうと思いますよね。 それが、すごさを理解するキーワードになったりして。 それがいまだに勉強ですね。 どうやってこんなサービスを作り上げたのだろう とか どうやってこの内装費用を捻出したのかな なんて。 そうみていくと、ちょっとした商店街でも ストーリーの塊ですよね。 いっぱいそんなドラマをもった お店いっぱいあります。 ほんと、みんな頑張っているな、って思えますもん。 そういういみで、起業家的資質に 「感動できる」 っていう要素を含めたいなと思いました。
2006.11.25
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みなさんといっしょに四国を盛り上げたい。そんな想いで、おおにし四国を駆けめぐります。 冬と言えば、またドリームゲート挑戦者祭の季節。応募者をいま募っています。創業前の人から、創業3年未満のかた。チャンスです。販路が一気に広がります!!そしておおにしとアドバイザーによるカフェスタイルでのビジネスブラッシュアップ講座を無料で受けてみませんか? *コーヒー代は自己負担です(笑)定員5名以内で1時間じっくり時間をかけて行う予定です。すべておおにしもいます。じっくりお話ししましょう!!○11月8日水曜日(高知) 19時~21時 会場;新阪急ホテル1Fにて 講師;アドバイザー 有限会社生活創造工房 おおのかえさん (2年前の四国エリアリーダー) ○11月13日月曜日(高松)19時~21時 会場;タリーズコーヒー サンポート高松店 講師;アドバイザー 有限会社ジャパンライフマネジメント うえたけんじさん 玉岡智博社会保険労務士・行政書士事務所 たまおかともひろさん○11月15日水曜日(徳島)19時~21時 会場;東横イン(眉山口)1F 講師;おおにしのみ ○11月22日水曜日(松山)19時~21時 会場;松山JALシティホテル1F 講師;おおにしのみということで、みなさんのご来場をお待ちしております。すべて無料。いきづまったビジネスのアドバイスもいたします。ぜひぜひ、創業前のかたも、創業後の方も来てくださいね!!お待ちしております。あ、大学生で起業も考えてみたい方もぜひぜひに。それと、ぜひグランプリの応募用紙を一度書いてからお越し下さいね。http://www.dreamgate.gr.jp/gp参加申し込み おおにしまで mohnishi@dreamgate.gr.jp
2006.10.25
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今日からまた一日が始まる。すべては調和の中で動き、ときに衝突と再生が同時に起こり、そしてまた調和へと戻っていく。起業とは、己を走らせる<起>からはじまる。その想いなくして始まらない。想いが己を走らし、そして想いがまた膨らむ。形にするとはそういうこと。会社と社会の関係。同じ漢字をともに使う、順序違いの言の葉。社会の社は、やしろ。夢を願う、お祈りをする場所。そこに会いに行く場所が社会。夢を願う場所を作ることが会社ということ。我々は夢を願い、夢を実現化させるサガに生きている。それが調和を、衝突を、そしてさらなる調和を生み出す。そのあくなき運動体に自分はあり続けようと思う。小さなこと。日々のこと。そこからまた、一日が始まる。36歳で逝った友人に、捧げたい。
2006.10.14
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スキな言葉に<非凡の凡 凡の非>という言葉がある。一見すると、<非凡は凡よりも上>であると思われがち。けれども、実に凡が凡であり続けることが非凡となる。結婚は?子育ては?仕事は?心ならずも結婚や、子育てや、仕事をしている人は、その凡の非が理解できず苦しんでいる。野心回路を燃やし、上へ上へと登り続けようとする人々は非凡を目指そうとする。そして非凡の凡に陥り、自分を見失う。実に、非凡の凡と凡の非は、陰陽、表裏の関係なのだ。それが最近つくづくわかる。
2006.10.02
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埼玉で、また不幸な事故がおきた。MDのカセットを変えているあいだに、保育園児の列に突入。脇見運転で二人の死亡(17人死傷者)を出す事故。死んだのは3歳と4歳。この二人の人生は、たった3年で、4年で終了した。そして轢いた人間も、終わった。彼は結婚も再就職の道も絶たれたといって良いだろう。業務上過失致死でも10年以上ムショにはいる。次に出てきたときは40歳前後。いまのこの厳しい中年の就職環境では、おわりだ。これで被害者側の両親・親族が苦しみ、加害者側の親族も苦しみ、たった一夜にして、すべての人生が狂ったのだ。なんの因果がありようか。前世でもわるかったのか。それとも死んだ二人は、早く神の世界にでも呼ばれたのか。。。。こんな人生に神の論理など思いもつかない。神がいるならば、こんなむごたらしい仕打ちをしないでほしい。そうでなければ、救われない。合掌。
2006.09.25
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最近ミクシに完全移行し、なかなか書いていませんでしたが、とりあえず日程はここに載せていこうと思います!!いやあ、ほんと久しぶりに書いた!!
2006.09.19
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皆さん、来てくださいね
2006.08.08
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今日は、香川県の坂出に近い、宇多津にて創業講座に行ってきました!!タイトルは【会社は9割見た目で決まる!!】どっかで聞いたタイトルですが、 会社=社長=見た目がポイント 見た目とは、自分のキャラクターに応じて 声やトーク、トークのコンテンツをうまく 見せる方法をおおにしが60分しゃべりました。 最初に恋愛のスタイルと、起業スタイルの相関性に気づいてもらうあやしげなアンケートからはじまり、思わぬ起業スタイルや自分のキャラクターに気づいてもらいました。 次に、キャラクター診断テスト(オオニシオリジナル)をいくつかやってもらい、グループで楽しみながら、自分のキャラクターを活かす方法を習得していきます。 そんなこんなで、全員でさざえさんを歌って、声を鍛えたり、目力テストをやってみたりと、さんざん楽しんでもらって、終わりました。 後半の45分を起業119.LLPでビジネスパートナーである株式会社ビットコミュニケーションズの川西さんが、Webでいかに会社をうまく見せるのか、どのように構成すれば見た目も良く、売れるのかを講義してもらいました。 中身の濃い120分コースの創業塾でした。 皆さん、お疲れ様でした!!
2006.08.05
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○DG四国キックオフ 及び DG四国挑戦祭 ☆日時 平成18年7月22日土曜日 キックオフ(関係諸機関のみ) 10:00~11:30 四国挑戦祭(一般参加あり) 13:00~17:00 ☆場所 高松市芸術文化ホール61会議室☆スケジュール <キックオフ> 10:00 あいさつ 四国経済産業局様 DG四国エリアリーダー 大西正泰 10:10 DG理念と今年度方針について DG本部 籾倉宏哉 DG四国の年間スケジュールについて DG四国 大西正泰 10:45 各エリアの支援事例 『県全体で挑戦者を支援する沖縄の事例』 DG沖縄エリアリーダー 安里香織 『連携で支援する九州の事例』 DG九州エリアリーダー 池元正美 『アドバイザーを使っての中部の事例』 DG中部エリアリーダー 林公一 11:30 DG四国エリア宣言 11:30 *ランチ交流会を予定しております。 飲食費は別途必要となります。 <四国挑戦祭>12:30 受付開始 13:00 DREEAMGATE四国挑戦祭 あいさつ DG四国エリアリーダー 大西正泰13:10 パネルディスカッション 起業家賞 ああ頑張ります株式会社 樺沢潤氏 DG賞 有限会社藍色工房 板東未来氏 司会 DG本部 籾倉宏哉14:15~14:30 名刺交換会(前半) 会場舞台替え 14:30~15:45 DGエリア分科会(前半) <自分の街をおもしろくしたいとき~コミュニティビジネスのツボ~> 担当;北海道・東北エリアリーダー <地方からビジネス成長させたいとき~IPO公開の秘訣~> 担当;中部・中国エリアリーダー<人生に会社に迷ったとき~起業家としての対話力~> 担当;九州・沖縄エリアリーダー15:45~16:00 名刺交換会(後半)16:00~16:45 分科会(後半) <コネなしキャリアなしのとき~ゼロから学生起業のエッセンス~> 担当;東北・北海道エリアリーダー <アイデアなしで起業を決めたとき~アイデア発想法のコツ~> 担当;中国・中部エリアリーダー<女性が1人で起業をはじめるとき~女性で年商2000万に至る道~> 担当;沖縄・九州エリアリーダー 16:45~ DG四国エリア宣言17:00 終了*交流会を17:30~19:00まで予定しています。
2006.07.06
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今日は朝9時から阪急ホテルで起業相談。FCビジネスへの展開を考えられているかたのご相談でした。。。FCというのは、アントレという雑誌にも多く取り上げられていますが、なかなかひとくせもふたくせもあるビジネスでして。多くのモノが、本部はもうけてFC店は非常にきびしい、けれども、借金がある以上やめれない。。。なんていうのも多く、大変なのです。今回の案件は、FCの本部になりたいとのことでしたがなかなかハードルがお高いようです。。その次は、ネットショップのご相談。ネットショップ開業までの道筋と適切なプロのアドバイスをもらうべく費用を最低限におさえておこなうようなモデルをいっしょに1時間ぐらいの間に作らせてもらいました。。。まあ、ぼくの強みは人脈でしてわからんことはすぐに電話で聞けるという贅沢なポジションであります。。。ですんで、僕が知らなくても、ぼくがかわりにするぐらいの気持ちで根掘り葉掘り聞けばだいたいのことは見えてくるということです、はい。ネットショップも人の話ばかりですが、しっかりと成功されている事例ですので安心してしゃべってきました。。。ただ、計画していた分の半分以下です。。こころのこりその次は、高知大へ。。たけしちゃん。はまちゃんじょにー どりあん、みやわきちゃんと懐かしい面々に会いました。その後、喫茶店で新しいビジネスモデルづくりに、しばし妄想し、バスで空港へ。そのあと、飛行機でさらに妄想してついても妄想して さっそく3つの動きだしをしました。。。ついに、大西動き出します。。なかみは ひ み ちゅ
2006.06.29
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ども、おおにしです。日々仕事しています。ただいま、3時37分。まだ資料を作っております。起業家に取って一番大事なこと。それは、健康。つくづく感じますな。みなさんは健康に気を遣っていますか?さあ、寝よう(笑)
2006.06.19
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2006年06月06日06:20 AKさん 昨日テレビで見てびっくりしました。 マスコミってなんでこういう 報道すきなんですかね。 ほんと人事だと思って。。。。 2006年06月06日15:55 Fさん ホリエもんLDも村上Fもルールの中でやったことを批判されているというのはみんながわかっていると思う。彼らの敗因はヤリ過ぎたことというなら、この国にはヤリ過ぎになる前にビジネスから身を引け、または手を抜くようにという原理があることになる。悲しいことだが、この国にはそれがある。 二人とも才能もあったし、努力もした。成功した。そして成功し過ぎた。それが悪で留置所に入れられるなら、もうこの国では頑張らないでおこうと思う。 ビジネスマンは政治家を遥かに超えている。それが政治家(完了も含めて)の逆鱗に触れただけ。税金払うのが嫌になる! 2006年06月06日17:41 OKさん >さらに不安なのは、もっと巧みに動いて東京の >一等地を買いまくった、株も買いまくった >人々には、どうなんだろうかと。。。。 こんな人達たくさんいると思う。 日本は所詮同質社会だなというのを今回の経緯からまざまざと痛感する。 まあとにかく「コンプライアンス=法律遵守」はビジネスの肝ですから。 これが守れない人はビジネスをやってはいけない。 法律家がますます栄える世の中になりそう?(苦笑) 2006年06月06日21:20 おおにし@福の神 今回の事例はまだ詳細まででていませんが、今回のインサイダー取引の定義が広まると、なかなかコンプライアンスを保つのは難しいかもしれません。 おちおちとしゃべったり、うんぬんすらも公式には できないわけですから。。。言質を取られないように することに必死にならざるをえないですね。。 2006年06月06日22:31 tさん 村上氏・堀江氏のおかげで多くの株主は配当などを手にして、 国全体として潤ったと思います。 そして、日本のたくさんの企業もそのことにより、 外資による買収から逃れられたと思います。 最後になって東証であんなにしゃべるより、 個人的にはもっと以前よりいろいろと話して欲しかったです。 自分と同じように活動できる投資家を育てて、 起業、社会をよくするように持っていくのもいい方法でなかったのかと思います。 2006年06月06日23:01 mちゃん この事件でプロとは何か?を考えさせられました。 村上氏は最後のみっともない会見で、「自分が儲けすぎるから嫌われる・・・」とか言っていましたが、だれがそんなことを思いますか。正々堂々と投資ファンドに徹し稼げばだれも文句はないはずです。ルールの中でやっていればいいものを彼はルールを破っただけのことです。プロだからインサイダーなんか知らないはずはない。だから市場から退場させられたんですよね。サッカーやほかのスポーツだって同じで、神のような有名な選手だから反則を何回しても退場しなくていいというわけにはいかないですからね。 会見の時の言い訳と潔さは、裁判で刑を斟酌して欲しいというみえみえの極めて利己的な会見にしか映りませんでした。 株(投資)のプロならプロらしくだまって稼いだら良かったのですが、彼は表に出すぎた(マスコミが時代の寵児として騒ぎすぎた面も)。ソロスだってだれだって、プロは表には絶対に出てこないものです。出たときには相場は終わっていますよ。それに何を勘違いしたか、経営にまで口を出そうとした。彼自身が自らプロの掟を破ったのです。資本と経営の分離、この線引き(機能分担)を越権してしまったんですね。彼は投資のプロであって経営のプロではない。 それともう時代の風が変わっています。小泉+竹中コンビはすでに求心力を失っている証拠でしょうね。最近はことごとく竹中政策はバッシングを受けていますよね。違った意味で不透明感がまた出てきました。 2006年06月06日23:39 nさん いつもたのしく読ませていただいています。 おおにしさんのおっしゃること理解できるところもあるのですが、今回の件はやはりいいんじゃないかな、って思います。 極論かもしれませんが、周りのルールに合わせないのってのは「シューマッハだったら運転が上手だからスピード違反してもいい」ってことになっちゃうんじゃないかな?結構キケンな考えになっちゃう気がします。 旧官僚で政財界にコネクションのあると言われる村上氏に手をつけたのは検察もがんばった方かな~とも思います。(阪神電鉄株の件が効いているのかもしれませんが・・・) 2006年06月06日23:39 おおにし@福の神 mちゃんさん、こんばんわ。 ぼくは、村上さんの会見は、そんなに悪く思わなかったですね。 思っているとおりのことをいっているなあと思いました(笑) それと、彼の賢さで言うと、メディアにでない戦略も十分 あり得たと思います。 自己顕示欲だけででたわけでもないでしょう。。 なんだかんだいっても、あのクラスの賢さを発揮する 人たちの賢さは、尋常ではないです。 灘でもずば抜けた人らしいですから。 そういう意味では、ぼくには、彼がメディアに 登場してきた理由には、何らかの<意図>が あったと思います。 ほりえもんには、株価を上昇させるため、YAHOOに 勝つための知名度を上げるというのは至上命題ですが、 ファンドマネージャーの彼には、知名度を上げる必要性は ないようにおもいます。 その点のわだかまりがあるので、単純に、インサイダー取引 違反という事象だけで、彼の現象を捉えるのはもったいない 気がします。 mちゃんさん曰く「プロは表に出ない」ですよね。 だから、そこに何らかの彼なりの主張を感じるのですが。。 彼自身が理解される、嫌われるのは、ぼくは両方ありだと 思います。 けれども、その功罪はきちんとみていかないといけないな とも思います。 資本と経営の分離。 これについては、議論の余地が残すところですね。 株主への還元が少ないならば、当然株主がものいうのは あたりまえのこと。 ただ、それが短期売買目的での攪乱であるならば それは長期的観点からみれば会社の損を生み出す。 その評価を下すのも、裁くのも実は別のロジックだった というところに、ちょっとした怖さも感じる今日 このごろです。 2006年06月06日23:49 おおにし@福の神 nさん、どうもこんにちは。 ぼくの主眼は、村上さんの評価そのものでなく、 検察の意図的な権力の行使 鈴木宗男 ライブドア 村上ファンド ときた検察の行動パターンはいろいろ考えさせられる ところがあります。 第四権力とされるメディアの狡猾さ そして、我々世論。 最近検察が取り締まりをしている事例は非常に 興味深いです。 そこをきちんと議論せずに、村上ファンド悪しでは あまり生産的ではないですよね。。 政治家がしきりに言っている、法整備の隙をついて という言い回しがありますが、これは罪刑法定主義の 内部矛盾です。法に書いていないことは、法的悪とは 認定できないわけですから。。 さきほどのシューマッハの話もありましたが、 あれは比喩違いかなと。 スピード表示されていない場所がたまたまあった。 そこをほかの法定速度よりも速く走ってしまった。 けれども、そこの道路が40キロなのか60キロなのか 定まっていない。 そこをどのように判断するかという事かと思いますが。。 そのあたり、道徳と法違反とをからめて、ごっちゃに 議論するのはどうかなと思います。 政治家の言う民主主義における法とは、罪刑法定主義であり 事後的に裁くモノではない。 それは東京裁判のように、強者が勝者が弱者をあとから 裁くのと同じです。 そのあたりの冷静な議論も大事かなと思います。 2006年06月06日23:56 mちゃん こんばんは。 >mちゃんさん曰く「プロは表に出ない」ですよね。 というか、私は辞書で言うような定義とかを調べたことはないですが・・・。 バカみたいな話ですが、ゴルゴ13って知っていますか?漫画の(笑)あれ好きなんですよ~。 あれを引き合いに出すと笑われるかもしれませんが、プロは自分がやるべきことを「ほぼ」ではなく「何があっても絶対に」やり遂げるような人、それが当たり前と思っている人だと思います。そのためには努力を惜しまない、言い訳はしない人だと思います。 (偉そうに勝手な思想と憧れをしゃべっただけですみません。m(_ _)m) つづく~~
2006.06.07
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村上ファンドについてのヒトコト 基本的に、村上さんよりも、検察のほうが ぼくはあまり好きではない。。。 検察のロジックは実に、マスコミチックで ほんまに突き進まないといけないところを 避けて、目立った人間のミスを見つけて 閉じこめる。。 村上さんの阪神電鉄へのやり方は、確かに、気に入らない というか、人の心を知らない方法だったかもしれない。 阪神ファンがおこるのはむりない。 ただ、彼はルールの中で、生きてきた。 資本主義のルールの中で生きてきた。 彼は彼なりの、ルールに従って生きた結果だろうと 思う。 経済の土俵に置いて、間接的に、<目立つ人間を疎外する> 文化を検察が作り上げている点に、ぼくは危機感を覚える。 さらに不安なのは、もっと巧みに動いて東京の 一等地を買いまくった、株も買いまくった 人々には、どうなんだろうかと。。。。 結局、時代の寵児を許さない文化では、おもしろい 人間が育たないかもしれない。。 それは結果の平等の悪作用ではないだろうか。。 少しだけ、そんな違和感を感じた事件だった。 コメント コメントを書く 2006年06月05日23:46sさん 「会社は、株主のもの~」 これを推進できる株主の中でスターだったのに残念。 これで、日本は沈没に拍車がかかった。 世界に遅れをとる老人の国日本。 老害から一歩ぬきでるチャンスを検察がつんでしまった。 2006年06月05日23:59 mさん 私も非常にむかつきます。 ルールを破った?くらいの人間を ルールを破りまくった人が裁いているようにしか思えない。 この日本を変えてやる!! とメラメラしてきました。 2006年06月06日00:02 aさん 村上ファンドは嫌い! もち、ほりえもんも嫌い! でも、頑張る、学生は好き♪ な~んて言っても、伝わらないんだろうなぁ。 私が、ただのおばさんじゃ無きゃ、そんな気持ちにも成らないんだろうけど。。。 大西先生のお気持ちを受け入れたくも、駄目駄目状況の私です!(笑 2006年06月06日00:22 mさん 他に追及するべき人が、もっといるはずなことを国民が知らないとでも思っているのでしょうか… 2006年06月06日00:39 oさん 検察の裏に何かいるとおもいますか? 2006年06月06日00:40 yさん おおにしさんと比べたら、何もわかっていない私ですが、 それでも共感してしまいました。 ほりえもんと言い、村上代表といい、 目立って気に入らないと、あら捜しをしている感じが、 なんだかな~と思ってしまいます。 2006年06月06日00:46 おおにし@福の神 思った以上に共感を得たようで、びっくりです!! なんか違和感ありますね。。。 ほりえもんも、村上さんも、たしかに、あくの強い人間ですし、近くにいたら嫌いになるかもしれない(笑) また、M&Aで仕事を失った人たちも多く、彼らの所業に関して 悪い側面もよくわかります。 aさんのいうこともわかるんですよね。。 けれども、なんかね~ 違和感というか、のどごしの悪さとでも いいましょうか。。。 なんかあります。。 2006年06月06日00:54 おおにし@福の神 参照 http://news.livedoor.com/webapp/journal/cid__2046669/detail?rd 2006年06月06日01:14 Pさん おおにし@福の神さん、ごめん。 村上さんとか言う人、ごめんね。 ここはシンガポールでも、頭デッカチの国でも、 ガリバーの国でも、東欧でも、東京でもない。 ここはね、大阪というタイガースオーナーの国やねん。 ファンじゃないよ。皆オーナー。 いややな~、あんな人の拘置所の昼ごはんを税金で払うの。 大阪人が全部そう思ってるわけではないよ。 事実ジャイアンツファンはようさん いてる。 でも我が町のチームで、プロは福岡と名古屋と広島と大阪にしかおらんのとちゃうやろか。 しかもタイガースは、兵庫県西宮市甲子園の球場なのにね。 村上さんのこと、残念でもなんでもないねん。 最後にはシンガに逃げるという快挙! サイテー!僕にとってはね。 すまん!おおにし@福の神。 これ以上スレッドをつけると日本沈没になりかねんほど、 村上さんのやり方に腹が立ってる。 ごめんね~。 タイガースとブレーブスが一緒になったら、それこそ拘置所を襲撃するで。 でもそれはもうない。 だって阪急ブレーブスなんてチームがないからね。 安心してね。 2006年06月06日01:19 おおにし@福の神 いえいえ、ここは自由な酒場ですから(笑) 僕の場合は、検察のほうに興味があります。 つづく~
2006.06.06
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ども、おおにしです。1日まで四国営業いってまいります。 5月29日 徳島 5月30日 高松 31日 高松 6月 1日 高松 31日、1日など時間ありますので、ぜひ四国のみなさまランチなり、ビジネストークなどあれば、ご連絡下さい!! ぜひ、ビジネスの話ができるとありがたいです。 ぜひ、たわいもない話が出来ると幸いです。++++++++ ちなみに、shibu@ezweb.ne.jp までご連絡下さい!!++++++++++++++そうそうブログしばらく放置気味です。夜にならないとみれませんので、ご連絡は上のアドレスにて。ではでは!!
2006.05.28
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友人というのにははばかれますが、コームーエンさんが本を出しました!!ちょっとだけ、気楽にいきていないあなたにお勧めの本です。【新刊のお知らせ】 『気持ちが少しだけ軽くなる本』コー・ムーエン著(ゴマブックス刊) http://tinyurl.com/hm5km■ポイっぽい仙人こと、コー・ムーエンの新刊が緊急発売になりました。 今回は、とてもソフトなヒーリングエッセイ。■あなたが、ピュアになるための本です。■誰もが悩む親子関係、夫婦関係など人間関係をバッチリサポート。 ゆったりとした気分で読んで、見失っていたものを見つけてください。■そして、ソフトなだけではありません。ポイっぽい仙人のショートストーリー も入ってます。Qちゃんは、また仙人にしてやられるのか!お楽しみに!■「笑顔のイメージ」、「スゴイの法則」など怒濤のハウツーがギッシリ 詰め込まれた魂のための魂が軽~くなる一冊。『気持ちが少しだけ軽くなる本』コー・ムーエン著(ゴマブックス刊) http://tinyurl.com/hm5km■全国の有名書店レジにてお待ちしています!====================================【ポイっぽい仙人バージョン】===============================『気持ちが少しだけ軽くなる本』 コー・ムーエン著 (ゴマブックス刊) http://tinyurl.com/hm5km(Q)仙人、つ、遂に発売になりました!(仙)何じゃ?うるさいなー。(Q)うるさくて結構ですよ。それよりも出たんですよ!(仙)ウンコか!(Q)ウンコが出て、こんな所まで報告に来るヤツがいますか!(仙)おぬしなら、わからぬ。(Q)本が出たんですよ。(仙)何、遂に出たか!人類救済の特効薬本が! 当然、ワシも出ておるのだろうな。(Q)もちろんです!今回は、要所を押さえるかたちで眠気覚ましに…じゃなかった。 オシャレに出ています。(仙)どれどれ、オオ! 良いじゃないか。サラッと目を通しても心が軽くなる感じじゃ。 「気持ちが少しだけ軽くなる本」なんて、ちょっと謙遜し過ぎではないのか?(Q)そこが良いのですよ。仙人。(仙)そうかね。そんなものかね。 ワシはズバリ「気持ちがバクバクする本」とか、良いんじゃないか?(Q)それじゃ、エロ本みたいですよ。(仙)そっかなー。ま、いいや。 そうか、そうか。喜ばしいな。 これは、さっそくご先祖様と読者の皆様に報告せなアカンな。 オホ、オホン! この度、新刊「気持ちが少しだけ軽くなる本」が 発売になりました。これもひとえに皆様方のおかげでございます。 今回も魂の一冊をかわいがってやってください!(Q)今回は、ヒーリングエッセイという形式で、仙人本の続編ではありませんが、 ソフトタッチで皆様の心の奥深く染み入る本に仕上がっています。 さらに、ときどき眠気覚ましに…じゃなかった、要所には「ポイっぽい仙人」も 登場するサービスアリ! さらにさらに、「スゴイの法則」や「笑顔のイメージ」など」究極のハウツー もギッシリ満載しています!■全国有名無名書店にも随時配本になる予定ですが、お急ぎの方は 「読書のすすめ」「アマゾン」などネット販売可能な書店様から ご購入ください。『気持ちが少しだけ軽くなる本』コー・ムーエン著(ゴマブックス刊) http://tinyurl.com/hm5km=======================================
2006.05.28
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講演会終了 今日はほぼ徹夜で、とにかく、講演の内容を満足させるために いろいろな案を考えて、とにかく挑みました。 関西大の教志netのみんな。 よくがんばってくれました。 集客方法などは、これからなんでしょうが、 アイスブレーキングに30分使ったり、 人の配置なども、いろいろ考えた結果のようで うれしくおもいました。 講演のほうはというと、僕自身は、まだまだ 不完全燃焼というか、想いを伝えきれずに 下手くそな講演会となってしまいましたが、 教師を目指す各大学のみんなが、ぼくを コンテンツとして利用することで、活性化 できているようで、一つ先に教師をしている 人間として、ちょっとだけ役立つことが出来たと 思っています。 みんなみんな、純粋に、教師を目指しています。 このモチベーションをちょっとだけ応援できれば なにかできそうです。 ぼくら先に歩むものが踏み台になって、 ****** こんな教師が育つ時代なんや。 ************ って彼らが身につけてくれれば、ほんとうに うれしいことやと思っています。 関西おもしろくなるんちゃいますかね。 起業家精神を持った教師を育てることができるシステム 本格的にカリキュラムを作りたいなと思います。 おおよそは、考えできているんですがね。。 ふふ。
2006.05.13
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今日、講演する内容のレジュメです・・僕の嫌いな教師は、いわゆる<バカ教師>でした。 4時45分頃になるとそわそわし始める教師。 生徒が怖くて視聴覚室に閉じこもり800マン 近くもらっているベテラン教師。 昨日も明日も工夫のない授業。。。 そんな、教師として尊敬できない人がいる。 けれども、24歳の上司に罵声を浴び、同い年の課長に 圧迫研修を受け続けたとき、自分の勉強不足に気がつきました。 そして、バカ教師と言われる人たちのおかげで、 たいした努力も工夫もしていない自分に気がつきました。 それ以来、バカ教師と呼ぶことを辞めました。 けれども、担任を選べず、1年間もの間、 もっとも子どもが接する大人である我々は バカなままでいいわけがありません。 我々はプロフェッショナルとして、 誇りを持って仕事をするためには どうすればいいのか。 それが僕のテーマです。 ○ぼくなりのプロ教師論 (1)おもしろい授業はワクワクさせる ・アイスブレーキング 「右脳アイスブレーキング」 ・ゴジラ「ゴ○○+○ジラ」の造語 ・ゴジラとセブンの平和論 ・何故に授業にこだわるのか? (2)ライバルは、映画とでんじろうさん、そして ・映画を見て泣ける・笑える・考えさせられる。 ・夜回り先生でもヤンキー先生でもなく、ぼくの ライバルはでんじろう先生 ・2000年間魅惑する宗教ロジック ・ビジネスは教育と通ずる コンピテンシー経営理論 SWOT分析 ・プロフェショナルとしての教師論を考えよう 『プロフェッショナル仕事の流儀』鑑賞 ワークショップ”教師とは○○のプロである” ○プロになるための歩み 自伝的回顧 (1)教師を目指したのは小学2年生 テレビっこならではの理由。。。 (2)自ら機会を作り、機会によって自らを変えよ。 ・公立高校→工業高校→山村小学校 →ベッドタウン中学校→大手予備校 →私立中高校→私立高校→会社設立 ・根っこの起業家精神 両親の転職イズム サラリーマン→脱サラ・どさん子 →飲食店経営→花屋 美容師→クリーニング代理店→飲食 →花屋 貧乏長屋暮らしで学んだこと (2)リーダーとしての素養を鍛える。 小学校役職なしの、学級委員長なし 肥満を武器に変える~サッカーから柔道へ~ 自己改革は、あえて<やる> ~応援団に、柔道部主将~ 大学祭実行委員長で価値観偏差に悩む 名刺を渡しても捨てられる大学院 場を作らなければ人は集まらない。 集まらない場はおもしろくない。 論文で、言論で、注目を集める視点の応用 キャバクラ・スナック・ショットバーで 自己表現スキルを伸ばす自己改造 (3)本当のリーダーを学ぶ~己を滅して他に生きる 講師として日々生徒に向き合う 壮絶の終劇のあとは、自分が責任者 30歳で中学校改革に挑む。 英語と生徒指導、そして起業家教育 誰もついてこない、そして結果を求められる1年 1人でチラシをまき、1人で企画し、 1人で戦った1年 <大西死ね>と書かれた天井を見たとき。 管理職失格の烙印を押された1時間。 「モラルがない」「指導力不足」と言われた 校長室 落ちて気づかされたエゴと、人間力 そこからはい上がるまでの3年間。 天につば吐く行為で作った組織力 逃げない、腹の据わることで証明する人間力 ○プロ教師としての教育論 我々の目的は、子どもを<大人になりたい>と変えること。 大人になりたいと思う、モチベーションマネジメント。 大人とは、社会を支える、社会を楽しめ、作る人。 生理的出産と社会的出産で、社会を支える人を育てる。 学校は、大人変換装置でなければならない。 昨日と明日が同じ人になってはいけない 半眼の思想~おごった気持ちで教えない~ needsとwantsとmustをつかむ。 ティーチング・コーチング・カウンセリングの3つが必要 授業は、まず白帯の技術を身につけること。 自分を知る・ネタとエピソード・5/10/15の法則 人間力を高めなければ、意味がない。
2006.05.12
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GW満喫してきました。 実家の四国に帰りました。 なんばから和歌山港へと行き、 和歌山港から徳島港へ。。。。 GWラッシュのなか、人人のなかをかきわけ、 徳島では電車といわず、汽車にのる。 高校以来の汽車。 ありふれた自然。 田舎人にとって凡庸たる自然。 その美しさに、しばし、納得。 吉野川のエメラルドグリーンのみなも。 やはり、これが財産。 なにもないのが財産。 家に帰るまでの間が至福のときだった。。。 実家に帰ってからは、家のパソコン環境の調整。 それで二日終了。 よめさんもリフレッシュしたかな。。。 5日には高知へ。。。。 久しぶりに、マイミクのドリアンとしゃべりながら、 恋愛話に没頭。。。(笑) そのあいまに、DGで編集している地域起業の 取材もかねて、ドライブ見学。 高知にはいって、思った以上に疲れていることに気づき、 少々ガストでお休み。 ドリアンと途中合流したのんちゃんとも別れて、しばし 高知散策。 高知もあいかわらず、といった感じ。 元気だ。 はかとなく元気だ。 人に笑顔さえあればいい。。 そしておもむろに徳島へ。。 高速は大渋滞。。 げんなりして、下の道を。。 自然自然のみちを登ると、またこれがいい。 そして、2時間近くかけて、実家へ。 つかのまの休日は之で終わり。 帰路はまた汽車とフェリー 自然を満喫できたいいGWとなった。 みなさんのGWはいかに?
2006.05.05
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今週はばてました。。 四月の健康調査で、肝機能低下ということもあり、ずいぶんと 体には気をつけているんですが、さすがに、今週はばてました。。。 水曜日木曜日と東京で会議 金曜日は朝からしゃべって昼から四国へ移動。 移動直後に、オフ会。50名もの熱気のなかで 行われました。 http://mixi.jp/view_diary.pl?id=125601782&owner_id=432 http://plaza.rakuten.co.jp/tamaoka/diary/200604290000/ http://oshikoku.com/weblog+details.blog_id+101.htm http://mixi.jp/view_diary.pl?id=125521545&owner_id=3990942 ドコイコ http://doiko.net/?m=pc&a=page_fh_diary&target_c_diary_id=2657 http://doiko.net/?m=pc&a=page_fh_diary&target_c_diary_id=2630 http://doiko.net/?m=pc&a=page_c_event_detail&target_c_commu_topic_id=271 その後、二次会で2時まで飲んで 朝8時に高速バスで徳島へ移動。 移動して資料作成して、親子での起業脳トレーニングの 講演。 http://blog.livedoor.jp/entre_jgs/ http://blog.livedoor.jp/partners2006/ http://blog.livedoor.jp/masters0914/ そのあと、第1次のみかかいでお世話になっている お店のオーナー夫妻と地域snsをしている友人とで ごはん、そしてもちろん、お世話になっている人と 飲み会。 ちょっと抜けて、徳島のカリスマビューティー ディレクターと歓談。 そして、また再び飲み会へ。。。 終わったのは3時。。 そしてその足で徳島港向かい、フェリーで 和歌山港へ。 和歌山港から始発で大阪へ。。。 そのあと帰ってきて10時までお礼のメールを書いて 爆睡。。 3時に起きて、ご飯食べて、また爆睡。。 5時過ぎには起きて、またお礼メールと仕事。。 さすがにこれでは体壊しますわな~~(笑) 13日はこんなんもあります。 http://mixi.jp/view_diary.pl?id=126188420&owner_id=2369078
2006.04.30
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ぼくは、思想的にはでたらめなのですが、 日本という国については、肯定的にとらえる立場に なります。 かつて「新しい歴史教科書を作る会」という会が 引き起こした教科書運動がありました。 今も続いています。 その教科書運動に、ぼくは立ち上げ時のころから 携わり、最初の教育雑誌デビューもこの運動を 教育から支えようという 『近現代史の授業改革』(明治図書) からでした。 僕は、いわゆる保守派とも異なるし、革新派でも ない。でたらめな立場なのですが、この教科書や 日本についての教科書の記述あるいは教育に おける人権派の行き過ぎた行為や行動には激しく 批判をしていました。 なぜ日本人が日本をスキになってはいけないのか? なにゆえに、事後立法で裁かれた東京裁判を 罪刑法定主義違反の裁判を支持しなければならないのか? 20世紀初頭までの帝国主義のさなかに、明治以降 において、あのような解決手段しかなかったことに 対して、歴史の糾弾を行える立場に我々はあるのか。 ぼくの疑問はそこにありました。 そして、教科書会社しか、教科書を作ってはいけない という論理に猛反発しました。 国語なら新潮社や講談社、文芸春秋社が作ったらいい。 家庭科の服飾をJJやcancamが作ってもいい。 体育をベースボールマガジン社が作ってもいい。 岩波が道徳の教科書を作ってもいい。 教科書が無理なら、副読本を作ったっていい。 それをなぜダメと言われなければならないのか? 教科書を豊かにし、教科書の内容に関心をもつ 出版会社が作ってもいいはず。 それを批判する左翼、韓国、中国。 ぼくにとって、教育の最前線にたつものとして しっかりいうべきことだ、ということで、取り組み始めたこと。 これがS学園との縁となりました。 もとのS学園(くしくも同じですが)は、この教科書を採択した全国7校のうちの 1校です。そしてS学園も同じ採択校。 勉強会で出会った先生方が、S学園の先生で、 その縁で、新天地が開かれたわけです。 そして現在の職場に至るわけです。 ここで、改めて問いましょう。 経営と教育の論理は両立しているのか。 S学園は、両立しているほうだとおもいます。 しかし、教育の論理が弱まっている。 つまり、バランスがかけ始めている時期だといって いいでしょう。 この問題は、私立ならば、常に葛藤するものであり、 それ故に、つねに、そのバランスが崩れる不安定な要素 のものです。 そのバランスをとるのは、どうすればいいのか、 まだ悩んでいるさなかです。。 <続く>
2006.04.23
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ども、おおにしです。日頃、一緒に仕事をしている仲間のビジネスモデルというのは意外と診断しやすいのですが、自分のこととなると、とたんに怪しくなります(笑)自分の夢は、あきらかに、ビジネスモデルにしにくい、もんだというのがわかっています。そこをどうにかして、モデル化したい。どうせやるならば、おもしろくてたまんないものをやりたい!!狂おしいほどの狂喜にゆだねたい。そんなことをしてみたいなあと思います。<今日の動き> 前日 四国での営業 仕事1ゲット。 今日 午前中仕事 午後、打ち合わせ1つゲット もうちょい仕事を増やしたい!!<今日の格言> やってみるもんだな、いってみるもんだな。
2006.04.21
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自伝(第7章9)新天地へ 子どもも楽しそう。 生徒指導ももんだいなし。 職員間のコミュニケーションもとれる。 ++ けれども、生徒の人数は増えない。。 +++++ つまり、この組織は、生徒数の増加を結果として 引き起こせない組織。 ひょっとすれば、後数年がんばれば、口コミで増えた かもしれない。 けれども、ぼくには「増える」とは思えなかった。 それは「経営者と現場の乖離」にある。 創業者から二代目経営者になるとき、 理念が変わる。 創業者は理念の体現者。 S学園の理念は 「己を滅して他に生きる。他が生かされる道は我の生きる 道なり。」 戦後すぐに塾を開き、幼稚園から高校までの総合学園を 作り上げた創立者は、ほんとうに人のために生きた人だった そうです。 その人柄にほれて多くのかたが、学園を支えたとのこと。 そして創立者の奥様が切り盛りをされて、ここまで大きくなってきた。 そういう歴史があり、理念はその歴史そのものをさしている わけです。 学園の創立者とは、創業者であり、教育者であり、経営者 であるという3つの顔を持ちます。 けれども、二代目は、とかく3つめの経営者の顔だけに なりがちです。 どうしても、数字が目に入り、教育者であり続けられない。 それよりも、経営者としての顔が目立つ。 そうなると、 「経営者の見る教育」 と、 「教育者の見る経営」 では全く視点が異なります。 その差が、結局 +++++++ 経営の論理で生きる「経営者サイド」 と 教育の論理で生きる「現場サイド」 +++++++ の溝を生み出します。 この溝は、ほんとうに根深いのです。 ぼくがそもそも最初の年に嫌われることになったのは まさに「経営者サイドの視点」からリストラを断行し、 戦える組織にしようと考えていたからです。 まさに、予備校の体験でつちかった、厳しさと競争の 要素をふまえたものを想定したからです。 ところが、子どもと向き会い続けた教師にとって、 経営者マインドは、顧客満足度を下げるものにしか 見えてきません。 経営者マインドなら当たり前の「悪いものは排除する」 それは、「教育をあきらめる」に写り、不誠実な態度に 見える。 そう、かつての飲酒事件で起こった問題について 「退学」・・・・・・経営者マインド 「引き留める」・・・教育者マインド の2つの対立軸が現場にとまどいを生むからです。 ぼくは、最終的に組織をまとめるために、教育者マインドで 経営者マインドを批判することで組織をまとめ上げました。 しかしながら、経営マインドのない教育では、私立は 運営できないし、教育マインドのない経営では未来が ないこともよくわかっていました。 ++ この二つのバランスをいかにとるべきか。 +++++++ ぼくはその答えを大阪に求めました。 そう、これが現在非常勤でいっているS学園 というマンモス進学校に。 <続く>
2006.04.13
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管理職3年目。 京大出身でスキルも高いH先生とのコンビは うまくいったと思います。 ぼくは書類やきっちりとしたことを遂行できる能力は 低いのはよくわかっているので、H先生とのバランスは よかったと思います。 ただ、ますます上からの締め付けは厳しくなってきました。 学園自体の存亡もかかってきますから、悠長なことも言えないわけです。 つまり、結果なくして存続ないわけです。 相変わらず営業しても結果は出ず、そして停滞し続ける 状況。 組織に関しては、どんどんよくなってきました。 教師同士もお互いのカバーにはいり、そして生徒指導面でも 岩野先生を筆頭に、きっちりとできるようになってきました。 保護者対策は僕が担当し、起業家教育もレールに乗り始めて、 新聞にも多く取り上げられたり、雑誌でも発表できる ほどの成果も出始めていました。 ところが、ぼくの運営したい組織とは、こういう組織では ありませんでした。 一見すればうまくいっているように見えるのですが、 厳しさのない、職員同士のモチベーションをさらにあげる ものがない組織は、結果を生み出せません。 そして、ワンマンである校長の悪口をいうことで 組織がまとまり始める。 新しく、小学校の校長が中学校にスライドしてなってもらい、 中学をいかにもりたてていくかの組織になったときに、 組織はまとまりますが、トップである経営陣を批判することで まとまり始めました。 これでは、中学校はうまくいっても、経営がよくなるわけは ありません。 そのことが明らかになるにつれ、そしてぼくもそれを いうことで、組織をまとめるたやすさを利用し始めたとき、 自分がこの場所から去らなければならないと思い始めました。 そして、給料もまたさらに減俸になったことも拍車を かけました。 そう、この学校から巣立ちの時がやってきたわけです。 <続く>
2006.04.11
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自伝(第7章7)組織をマネジメントする難しさ組織作りに失敗。 そして結果を出せなかった。 ++ 実はぼくは一人年俸制にしてもらってました。 理事長と校長にお願いして、やるなら、能力主義に してほしいと。。そのほうが頑張れるからと。。 しかし、結果が之ですから、10%ダウン となりました。。 現実は非常にきびしい。 そして、ぼくの降格も決まりました。 次に来たのは、高校で人格がすぐれて、情熱的な 指導を行っていたI先生。 I先生が中学校部長となり、ぼくが中学校主任を するという、形式上降格なしの人事でした。 僕ともめたM先生。 M先生とは職員室で大げんかをしたこともあるし、 皮肉たっぷりにいわれたこともありましたが、彼が ヒラに降格になったとき。 これまた寂しいものがありました。 ++++ 自分もそうなるかもしれない。 ++++++++ 管理職2年めがスタートします。 スムーズな組織運営を目指しました。 ぼくは、自分を殺し、表にはI先生にでてもらい、 すべてのクッションになってもらうようにしました。 とにかく、大西カラーが目立たないようにする ぐらいでちょうどいい。 しかし、I先生もはじめての管理職。 そして中学校の中身はわからない。 だから、黒子として、自分が再び運営せざるをえない 状況になりました。 痛い目にあった故に、アンテナの感度は上がってました。 子どもの家庭状況もすべて把握しているし、之までの 痛い経験が役立つようになりました。 たいていの事件事故の兆候はおおよそ、見えてきます。そこで、ちょんと芽を摘む。あるいは、事前に、防御網をはっておく。。自分に情報を持ってきてくれる子どももどんどんでてくるように問題解決を速やかに行う。僕自身、右腕がいなくて本当に苦労したので、 今年1年はI先生の右腕としてのポジションで いこうと考えて行動しました。 2年目から、じょじょに組織の歯車が回り始めマス。 硬直化していたほかの職員も、僕に対して少しずつ ココロをひらき始めました。 ぼくにはトップに立つ技量がないのかなと思う ことも多かったのですが、一人では何もできないし、 誰とでもチームを組めるほど、まだまだ自分に技量が 備わっていない。。 それがよくわかりました。 2年目は、独自性のある学校にし、 管理職としては調整役に徹し、 そして生徒募集に 力を尽くして結果を出すこと。 これにかけました。 まず、独自性は、昨年から起業家教育を 総合的な学習の時間に設定し、週2回とるようにし、 さらに本来の特色である英語教育に力を いれました。 管理職としては、できるかぎり、生徒指導の問題が 起きないように。 生徒募集のために、何が効果的か。 いろいろ取り組みました。 ところが、人数の頼みとなる野球部。 この苦戦が2年続きました。 担当の先生も、どうにもこうにもしようがないという 感じでした。 そしてI先生。 この中学校のトップというのは、かなり圧力のかかる ところで、ほんとうにいろいろ結果をすぐに求められる だれもが「なりたがらない」役職です。 小学校を見れば英語エリートを作る方向性だし、 高校を見れば、そこまでの準備が出来ず、 進学校とも言えない、その学園の矛盾を 一番感じる場所でもあったわけです。。 1年間、その矛盾に耐えかねたんでしょうね。。。だから、I先生は1年で退職を決意してしまいます。 精神的にも苦労したのでしょう。。 ぼくにとってはこの2年目は、 ぼくを最も支えてくれた学年が 卒業する年で、大変卒業式に力が入った年でもあるし、 いまでも交流のある学年でもあります。 そして、2年の時にはオーストラリアに修学旅行を連れていって、あの9.11をブリスベンで体験。余波で航空会社も倒産、3日間日本に帰るのを延期せざるを得なかったという大変な思いをした学年でもあります。 *いまでも修学旅行としては最高の旅行だったと思いま す。 そして、以前副部長もしていたことのあるH先生に 3年目バトンタッチされ、管理職として3年目の 春を迎えることになります。 <続く>
2006.04.10
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自伝(第7章6)ついにリストラ迷惑に迷惑をかけた1年。 年度末に近づき、ぼくをおろすための動きも 盛んになってきました。 一番思い出ぶかい会議がありました。 二人の女性教師と校長先生と4人での会議です。 校長「お二人からいろいろ先生の勤務のことを聞いて、 大西先生を呼んだのだけど。。」 大西「・・・」 K先生「大西先生には人をまとめる力がなく、ついていく ことができません。ぜひ変わって頂きたい。」 もうひとりのK先生 「大西先生には、モラルがありません。私が・・・ (以下憶えてません)」 という会議でして。 ぼくは、よっぽど女性に嫌われる才能に恵まれていたのでしょう(笑)。 このとき、特別進学コースの生徒でボス的女性が掃除を しなかったり、我が儘に振る舞うので、かなりきつく指導 していたら1年間一切取り巻きも含めて「しゃべってもらえない」ところまでいきましたから。 さて会議に戻りますが、校長も絶句です。。 ここで現場からの支持も取り付けられず、 結果を出せなかったぼくのリストラ(降格)は決定的と なりました。 今思っても、僕自身悪いところがたくさんありました。 そして、うまく人を使うこともできず、独断で決定し 動いたこともあり、ここまで言われることも重々 わかることもあります。 新しい転地で動く始めたとき、ぼくは必ず失敗するのです。 ただ、この時の孤軍奮闘は自分の大きな糧であり、財産 であります。 営業も協力してもらえなかったので、U先生と一緒に 車で走り、そして、一人で営業し続けるつらさ。 一人で駅前でチラシを配り、塾にも一人で営業しました。 それでもこの有様です。 むなしさが立ちこめる3月を迎えました。 <続く>
2006.04.09
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自伝(第7章)不幸の悪循環幸運も不幸も循環もの。 悪い巡り合わせのときには悪いことが やってきます。 ついに二人目の転校希望。 このときには、中1全体が悪い循環に 入りました。。 C子をコントロールできないのは、小学校のときからの 継続問題だったのですが、これに小学校の先生も巻き こんで、大きな自体に発展していきました。。 C子をとるか、それとも我々を大事にするのか。。 C子を転校させるように、他の保護者がいいます。 C子の保護者は保護者で、思いがあります。 すべての保護者と教員で会議が行われましたが、 結局、ぼくの力不足。 どうにもこうにもまとまらず、結局転校の キモチを変えることはできませんでした。 ぼくは会議で大泣きする失態まで犯しました。 力のなさ。 そう、僕にはこの事態を切り返す「チカラ」が なかったのです。 そのころには、すべてが悪です。 ココロよりも体が参ってきました。。 そして、職員室では、女性教師ともめ、 いすを蹴り、暴言を吐くところまでいきました。 誰も味方がいない。 四面楚歌の苦しみは、毎月ある部長会議でも つるし上げられます。 小学校校長からしめあげられ、 高校からもいわれ。。。 裏でも言われ、そしてそれを改善できるだけの 「結果」をだせない。 その毎日。 ココロだけは崩れまいとがんばった1年でしたが、 ココロもおれそうになり始めるころ、また 3年生の保護者にどなられ、保護者とも 大げんかをするところまで行きます。 毎回毎回校長に叱責され、成長させてもらう きっかけをいただいのですが、 そう、ここまで来ました。 人を「使う」こともできず、 「徹底」できる情熱も結果も伴わない。 それを思い知らされた、自分にとって 忘れられない1年となったのです。 <続く>
2006.04.08
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3月末の人事。 校長をはじめ、幼稚園・小学校・中学校・高校 の4部門の部門長とともに人事が決定されます。 ぼくは、正採用を考えていたのもあって、 実は、こうなる前の布石が他にもあったのです。 まず、校長先生が作っていた経営改善タスクチーム に夏頃から入っていました。 おもしろい人間がいるとのS先生とのご推薦 があったからです。 多くの経営改善案が、ここから発信していきます。。 そこで、多くの意見を求められたり、広告や 営業方法などを必死で提案していました。 ときには、幼稚園の募集をお手伝いし、営業も 廻っていました。 そして入学の時には、中学校の募集広告デザインまで タスクチームのなかで任されるようになりました。。 そのことなども大きく影響したようです。 さて、こういういきさつがあったにせよ、ぼくが 急にトップになることで、大きな問題点が生じました。 それは、中学校と特別進学コースがこれまで S先生が受け持っていたのに、これが ぼくとM先生の二人に分かれたということ ですから、どちらが意志決定権を持つのか。 朝礼もいっしょにやっており、カリキュラムも 連携しておこなっていましたから、このことは 大きな裁量権にわたる重大な決定事項なのです。 もっとも、最終決定権は高校の部長である i先生、事務面は副の先生に最終決定を 聞けばいいとのだんどりでしたが、実際の現場では そうもいきません。 最初に 「M先生とぼくとどちらが意志決定権をもてば いいのですか?」 と中学主任が決まった時点の会議で問いました。 すると、高校の先生方から 「協力してやったらいい」 ということであっさりと却下されました。。 ぼくは、このことが気になって仕方がなかったのです。 それでも、年長者であり、ベテランのM先生だから まあ、うまくいくかなと高をくくっておりました。 部長席をM先生にゆずり、副部長席である 職員室の窓際に座り、中学・特進コースのスタートが スタートが切られたわけです。 このことがすべての問題の始まりでした。。 ○問題の発生 早速入学式の準備。 担任の人事、そして校務分掌に。 とめまぐるしく動きます。。。 まず中学校の人事では 中1にM先生 中2にU先生(ベテラン国語教師) 中3にW先生(ベテラン体育教師 野球部兼任) になりました。 この人事、すべて僕よりもベテランの先生方。 ぼくは1年しかいないので、派閥もない。 つまり、僕一人が大西派閥なわけです。 *ただ、U先生だけは、理解を示してくれる 立場の人でした。。僕自身、だれか教務をできる 人が必要であったので、高校から呼び戻してもらった 先生でもあったからです。 W先生は、ベテランもベテランで生徒指導では これまで高校畑で実績ある先生でしたが、野球の 方針や、いろいろな面で、高校では冷や飯を食わ されつつある先生でした。 そして、他の先生は当然、ぼくがなったことを快く 思うわけがありません。特に、ぼくに職員会議で 卑怯だといわれた女性教師には、ほんとうに苦々しい 人事だったと思います。 そして、講師も同じく。 同じ講師だったのが、4月からは上司と部下の関係 ですから。そんなこと、受け入れられる訳がないです。 四面楚歌。 さあ、波乱含みの4月が始まります。。 ○5月の問題発生 5月、今でも忌まわしい事件が起きます。 中1の野外研修にて、いじめが起きます。 ひ弱な感じの子で、小学校の時から、どうやらちょくちょく いじめられていたようです。。 それが、研修先の宿泊所で集団でいじめられたと。。。 「いじめのない学校」 それがうちの「ウリ」でした。 少人数で、先生の目もしっかり行き届いている。 礼儀作法もしっかりできる。 それはぼくの前までの「こと」 過去のものになっているものでした。。 ぼくの指揮に関して、ココロから支えようとしない 先生方は、当然、指導も甘くなります。 そして礼儀作法の面でも、僕自身そこが弱い。。 右腕となる生徒指導の先生もいない。 海千百戦のW先生をどうのこうのできる指導力が ぼくにあるわけもなく、ずるずると前年度のカラーが 薄れていきます。 というか、前年度のカラーを壊そうとしていたのは 僕の方なのかもしれません。 去年学級崩壊を犯したベテランの先生をリストラ しました。そして講師の先生も選抜を始めました。 前年度まで、Sイズムで培われたチームワークを なし崩しにしている「破壊者」が僕であったろうし、 指導力のない男であったでしょうから。。 さっそく、M先生を信頼して、早急に対応して もらうこと、そして学級経営に関して、立て直しを お願いしました。 みなさんもおわかりでしょう。 このとき「お願い」しているようでは、甘いのです。。 この「甘さ」が命取りとなります。。。 ○「柔らかな権力」と「甘い平和」 M先生は、子どもに強くでられない先生でした。。 S先生が彼を中学部長に押さなかった点はここでした。 つまり、教師として必要な権力、それがかけていたのです。 クラスの子どもたちは、増長を始めます。。 曖昧な権力のもとでは、「秩序」などあり得ません。 最低限、「柔らかな権力」のないところに、学級の秩序など あり得ないわけですから。。 問題となったのは、K男とC子。 問題がどんどん発生し、我が儘がのさばり始めます。 C子は、小学校の時にもいろいろと問題を起こす、我が儘な 性格で、この子をコントロールできないことがさらなる問題を起こしていきました。 ところが、先に、問題は夏に起こります。 研修時いじめられた子どもが転校を決意します。。 そう、いじめの根本的な解決ができなかった。 そして、クラスをコントロールできなかった。 それが最大の要因でした。 校長から激しく叱責されます。 一人の生徒の転校は、収入源の減収をさします。 年間補助金を含めて100万以上の減収になります。 ぼくには、この問題を立て直す方法はわかっていました。 そうM先生を担任から外すこと。 これしかないのはわかっていました。 しかし、それは、旧派閥の人間たちすべてを敵にまわす ことになります。M先生を中心に、ほかの先生方はまとまっていたからです。特に反抗したのが女性の先生たちで かつてからいるK先生ほか、かなりの抵抗勢力となりつつ ありました。 つまり、動きようがなかったわけです。。。 未だに、あのときにどうすればいいのか。 四面楚歌での打開策は、結局、自分の力量なしには あり得ないなと、今でも思います。 再びのこの「甘さ」が命取りになりました。 徐々に徐々に、ぼくとM先生の火種は増え、 子どもたちにも目に見える形で対立構造がはっきり してきます。 朝礼では特別進学コースが別朝礼に変わるし、 中3は、ぼくを支持しない体制になってくる。 唯一の味方は、何も知らない外国人教師と 一緒に入ってきた2年生のみ。 *外国人教師には、絶大な人気があったので、 幼稚園から中学校までの英語教師はすべてヘルプ してくれました。 また問題が起きました。。 つぎは中1のC子でした。。。 <続く>
2006.04.07
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自伝(第7章)30歳で教頭になる。。部長S先生と副部長の退職。 このセンセーショナルな事件は、1年間の 問題点をすべて浮き彫りにしました。 なぜ学級崩壊のときに、もっと陣頭指揮を とれるはずなのに、縛りがきかなかったのか。 なぜ、生徒指導に置いて力量のある副部長が 遠慮がちに指導するように変化したのか。。 なぜあのときの職員会議が全体で行われたのか。 すべては、「この退職」に関わっていたわけです。。 退職するのを二人が決めていたからこそ、 少しずつ少しずつ手を引いていた。 というよりも、次年度辞めるのに、腹をくくった ことはいえません。面倒をみれないのですから。。。 力量ある二人の退職は、大きな波紋を投げかけました。。 次年度からどうすべきなのか。 だれが部長をするのか。。 だれが。。。 その答えは3月末の人事に驚愕の事実となって 現れます。 そう。 あの職員会議が 実は次年度の人事の面接で あったかのように そう。 はじめて正採用される、この僕に 部長という名前ではなく 「中学主任」という新たな名前で ポストが作られたのです。。 *S先生が退職時に、ぼくを推薦して いたことが後にわかります。 そう、30歳の事実上「教頭」の誕生です。。 このときの人事は、いまもって大変な人事でした。 ぼくが中学主任。 そして、3年生の担任をしていた M先生が特別進学主任 という二人体制になったのです。 *特別進学コースと中学は進学の面で 共通しているので、S先生が担当していました。 正採用にもなっていない自分が、 いわゆる末席からトップへの昇進。 このことは、この1年間が壮絶な戦いの 幕開けを物語るスタートとなったのです。。 <続く>
2006.04.06
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自伝(第7章)始まりはいつも波乱・・・スタートの出だしはよかった。 授業もまずは無難にスタート。 特に、中学1年と高1の学年とはいっしょに 1年生を迎えると言うこともあり、仲がよかった。 ところが波乱が起きる。 この仲がよかった中1。 担任はベテランの女性教師。 穏やかで、人のよい先生なのだが、 学級崩壊。 女の子たちが波乱を起こす。 もともと私学の子どもたちは、良くも悪くも 自我がしっかりしている。 まあ、我が儘といった方が早いだろうか。。 これを制するには、結構、やさしさよりも 「力量」が必要となる。 ところが、日が進めば進むほど、 崩壊は進行する。。 対応策を部長S先生以下矢継ぎ早にうっていく。 しかし、こういう問題の時は、いっこうに 静まらないもので、 選択肢とすれば 担任を変える ダブル担任にする(担任一人にさせない) 他教師による指導のてこいれ とあるが、担任の変更は、子どもの我が儘を 認めることになるので、ここはダブル担任 という選択肢と、てこいれしかない。 これは前任校でもあったことで、基本的には そのあたりの妥協点をみながら行わざるを得ない。 これでいったんは収まったかのように思えるが 火種が消えたわけではない。 ++++ あ、ここで一つ付け加えておきたいのですが、 学校で問題が起きるのは、ぼくは基本的に当たり前 のことだと思っています。 ただ、起こしてもいい問題と、起きてはならない問題の 2つがあって、生徒同士のトラブルは人間なので 当然起きうること。ところが、そのトラブルの解決方法や 事前に察知して、それなりに見守りつつ問題に対応するのでは 大きく異なります。 ベテランになればなるほど、事前察知がうまくなり、早い 場面で芽を摘むことが可能なんですが、結局周囲の問題解決能力の高い大人がいないと、うまくコミュニケーションとれない子どもを育てる可能性があるので、ほどほどの「加減」が大事です。ところが、このさじ加減は、いつまでたっても難しいとこなんですが。。 「今日も何事も起きずに、問題がなくてよかった。」 じゃなくて 「今日も問題が起きて、いい学びが出来た。」 と思える姿勢で行きたいものだと常に心がけています。 けど、この姿勢が後に問題となるのです・・・ ++++++++ さて、冬になると、3年生が問題を起こします。 この3年生の学年は、非常にパワフルな学年で 元気なんですが、ちょこちょこ問題をおこしていたんです。 実は、それのきっかけは、後になって知る 思いもよらないところにも原因があったわけ なんですが・・・ 冬にある生徒(仮にM男とします)の飲酒問題が発生します。 それも校内での飲酒です。 下で見たときには、すでに顔も赤く、酒臭い ところまでチューハイを飲んでいました。 この問題。 いろいろな背景がありました。 M男の家庭環境。 そんなによくありません。 母親との愛情に飢えていたと思います。 彼自身、悪ぶる事で、注目を浴びたがっている 寂しがり屋です。 しかし、これまでにも小さな事件を起こしています。 そして飲酒。 私学では、即刻「退学」です。 この「退学」を巡る職員会議が開かれます。 *ここで職員会議が行われる時点で、実は後にわかる 問題点が潜伏していたのです。。 3年生の進学や卒業前に、大きな事件を引き起こす。 部長S先生そして担任M先生を中心に会議が始まります。 *この担任がのちにぼくにとってキーパーソン となります。ぼくも末席に座り、議論の行く末を聞いていました。 ところが、ここのポイントは ++++ 「退学」が教育効果を持つのか? ++++++++ です。 議論は、紛糾します。というよりも問題点ははっきり しています。 M男に関して、家庭環境の問題や理解できる点もある。 しかし、「退学」は避けられない。 職員会議での実質の議論は、 「みんなが退学させるという強い判断に対して、 罪悪感なく納得できる理由を探している」 あるいは、 「退学させないで、彼を更正される方法を中学全体、 あるいは校長に対して説得できる方法があるのか」 の2点です。 校長は、はっきりいってワンマンです。 熱い情熱もありますが、逆鱗に触れれば大変なことに なります。 *創立者を慕ってやってきている創立者派閥の部下と 平成以降に二代目となったワンマン校長との確執は ずっと続き、平成以降生徒募集で苦戦しています。 このことがさらなるワンマン経営にして陣頭指揮を とらなくてはならない悪循環をもたらすわけなのです が。。 そして、打算的なところもあります。経営もありますから。 飲酒を起こした生徒を残すことは、すなわち、他の生徒へ 示しがつかず、また来年度の未来の生徒への悪影響がでます。 つまり、生徒募集に直接関わります。 飲酒する生徒を放置するだけの余裕は私立にはありません。 その校長を説得できる要素を見つけなければ、退学という 事に対して「良心の納得」をいくための「論理」が必要になるわけです。 教師は、基本的に、「善人」です。 また教育力のある人間ほど、「どうにかなる」と考えて しまう性格です。 だから、判断に揺るぎが生じてしまいやすい。。 そこで職員会議は硬直します。 ぼくは、そこで、沈黙や長い会議に耐えられず 2つのことをいいました。 1つは、黙っている先生方は「卑怯」であるということ。 意見をいわないということは、M男の人生に対して 何もしないといっているのに等しい。 2つめに、解決は2つ。 ひとつは、「退学」か否かで決断すべき。 ぼくは「退学」を支持する。彼にとってこれ 以上の甘えはなんの役に立たない。 そのかわり、ぼくが家で卒業まで面倒見る。 それぐらいの覚悟がなければ、ならない。 ふたつめに、「退学」を選ばないとしたら、彼を家から だして、こちらで徹底的に面倒見る。 とにもかくにも、それぐらいの覚悟がなければ 彼のためにも、学校のためにもならない。 そう言い切りました。。。 結局、S先生は、「退学」を選ばず、謹慎処分。 そして、徹底的な指導を行うことで、収拾をつけました。 校長も、覚悟の入ったS先生の態度で腹をくくったようでした。 さて、 そして、卒業式。 晴れ晴れとした天気のなか。 3年生は羽ばたいていきました。。 そして、この問題に対する僕の対応が、実は4月にぼくの人生が大きく変わる転換点になったのです。。 そう、部長S先生と副部長がそろって退職したのです。。 <続く>
2006.04.05
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カリスマS田校長の口添えで入ったS中学校。。。 ほとんど予備知識もなく、ただ教師がデキルという 思いだけで選択。 S田校長とともに、車にのり、学園の実力者であり、 高校野球部監督I部長と面接。 そして、中学部長のS先生と面接。 合格。。 ぼくの教師人生は皮一枚つながった。 29歳崖っぷちの転職となった。。 ぼくが担当したのは、中学校の社会と 高校の日本史ほか。 中学校は、S部長を中心とした組織体制で がっちりとできあがっている組織。 S先生は、とにかく誠実な姿勢ときびしい 態度が両立した、私立らしい先生だった。 とにかく、判断が的確。 S先生のために、という組織ができあがっている というのが印象だった。 これに生徒指導を野球部監督である副部長(年は1つ上) のコンビでまとめあげていた。 きちんと挨拶もデキルし、少数精鋭を地でいく 学校だと思った。 高校はというと、特別進学・普通・スポーツコースがあるが、 勉強の方はそれほどできるところでなく、いわゆる格差が激しい。 だから、高校ではチャイムが鳴ってもなかなか教室に入らないし、時には、廊下を歩いてくちゃくちゃとやっているヤツも いるようなこともある。 高校はというと、I部長・M副部長体制で 強固な基盤が出来ており、一枚岩の組織体制を 作り上げていた。 *あと幼稚園と小学校があるが、少しずつ紹介。 そして、その上に創立者の子息である M理事長(弟 経営者CEO) M校長(姉 運営者COO) M事務局長(弟の妻) という経営陣の柱で運営されている組織だ。 とりあえず、組織の背景はわかって頂けただろうか。 ここで再スタートが始まる。 <続く>
2006.04.04
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M中学校の最後の年。 これはぼくにとって、教員採用試験最後の年。 そして、ぼくの公立への道は絶たれた。。。 4月からどうしようかと考えたときに、 塾の募集欄があった。。 四国で一番大きい大手予備校。 そこそこ通用するのではないか。。 逆に、「渡りに船ではないか」 と考えていった。。。 それは大きな誤解であった。。。 全く通用しない自分のしゃべりにテクニック。 そして公立から来ていると言うことで、まず まっしろな状態に戻ってもらうために、一番 きつく指導される毎日。 研修担当は、同い年の課長。 そして最初に割り振られたところでは24歳の 女の子が上司。 怒られる。 日々楽しくもなく、愉快でもなく。 ただ、たんたんとキツイ研修で日々を過ごす。。 120人ぐらいはいる教室での発声練習 「蝉になれ」 「おまえなんかいらない、もしいたかったら全校舎の ぞうきんがけをしろ。。」 とか研修担当のN田の冷ややかな声で日々指導が入る。 +++ 通用しない自分の能力。 ++++++++ この経験が自分を大きく変えたと思います。 そして、前もって休むことをつげていたのに、 研修課長のN田のミスで、「逃げて辞める」ような 手はずになっていた。。 このことがきっかけで、あほらしくなって辞める 訳ですが。。この大手予備校での厳しい研修が 「しょせん、自分は公立のぬるま湯に使っていた」 ことに気づかされるのです。。 授業のテクニックやしゃべりかた、黒板の清掃などなど いろいろな面で参考になった時期でした。。。 さて、そこを辞めてしまい、次の行き場所がない。。 カリスマ校長再度の登場です。。。 S田校長先生のおかげで、私立S学園の講師の 口を紹介してくれました。。 この口添えがぼくにとって、怒濤の人生を送ることになる 前触れとなったのです。。。 <続く>
2006.04.03
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通用しない。 M中学校での2年間。 とにかく、うまくいかなかった点があった。 一つは、不良対策 二つは、女の子対策 とにかく、この2つで新人教師らしい失敗を多く 犯した。 まず、不良対策。 ぼくに刃向かってきたのは、のちにとある高校で 4番バッターともなり、甲子園で優勝もした子ども。 母校のときでもそうでしたが、基本的に 野球が強いときはみんな「悪い」(笑) 悪いぐらいで度胸が点いているから、たぶん 強いんでしょうが。。 まあ、彼とそのとりまきについて、いろいろ苦労しました。 授業中に言うことは聞かない。 昼休みのコンピュータールームでも無謀なことをする。 ちょうど、このころ、外国人教師のランスとともに ネットで英単語のチカラを身につけてもらおうと昼休みに ゲームをさせていました。 すると彼らがやってきました。 いつも態度が悪く、ポルノ系の内容を見るので、 「最初から、使うな。出て行ってくれ。」 ということで取り巻きたちを出て行かしたら、案の定 部屋の壁を蹴りながら帰る。 ここで、若かったせいでしょう。 「ぶちっ」 とキレて、思わず首根っこつかんで 職員室横の生徒指導室へ。。 6人だったでしょうか。。 思いっきり怒って、いやがる彼らを正座させて、 「おのれらー、ふざけたことしとったらゆるさんぞ、こら」 で怒号の嵐。 それでも、4番バッターは、ここでもさすがに度胸満点。 けっこう受け流すわけですよ。 それがまたおもしろくないから、火が点く。 周りの先生も集まってきますから、どうやって 収拾をつけようかと思いましたが、ベテランの先生 と一緒に指導するということで、示しをつけましたが。 ここからが大変です。。。 ことあるごとに、隙を見たら反抗しようとする。。 特にめんどくさいのが、体育の時に、 ちらりちらりと弱いヤツに対していじめを見えない ところでやるんですね。。。 それをきっちりとコントロールできないと信用が されない。 ここで、例え不良の子どもたちと仲違いになろうと なんだろうと、ぜったいに譲れない部分を示さないと いけない。 だから、当然、怒る。 お互いに胸ぐらつかみ合いになろうとも、残りの 子どもを大事にしないと秩序が保てない。。。 そういう思いで正面からぶつかっていきました。。 これが今思えば、「若い」んですね。。 いまなら、もっと賢くできます。 不良には不良へのアプローチがあって、正面からでなく 横から後ろからと攻め手を変えながら、決して正面に たつ機会を減らして、ここぞと言うときにしか、正面に はつかないというやり方。。。 けど、これは若いときに同じ事をやると、結局 おかしくなるんで。 しったかぶりして、理解しようとすると 彼らはめちゃくちゃそういうところのセンスが いいですから、見透かされます。 若い時には、上のやり方で良かったと思う反面、 苦労しました。 本当に気を抜けない毎日でしたから。 ところがもっと苦労するのが女の子です。。 初年度の問題は、不良でしたが、2年目に苦労したのは、 女の子です。。 とにかく「扱いがわからない」 ぼくは偶然社会だけでなく、体育も一クラスだけ 教えていたんですが、これがいうこと聞かない。。 まったく、思い通りにならない。。 列を作るところから、まず成立しない。。 怒ろうが何しようが、なかなか早く動かない。。 同じメンバーがソフトボール部ですから、 これまた同じ。。。 それがですね、僕の尊敬するS田先生というベテランの 教師がいました。 S田先生は、野球部の監督でもあり、豪快で 繊細。ほんとうにオヤジ的なキャラで誰もから愛される 先生なんですね。 このS田先生のすごいところは、タクトを振るが如く、 この彼女たちを操るわけですよ。。 いまだに体育の普通の授業であれだけすごい授業は みたことがありません。。。 *特別な授業とか、そういうのでもいっさいなく 普段の授業です。 不満もあるんでしょうが、たとえば、体育館で バレーボールをさせていて、ミスが出たら全員で 走るということをさせていたんですが、それも だまってみんなやるんですね~ 怒るときは、ほんとうに怖いんですよ。。 また。 ぼくはこの人のまねが出来ないか、当時一生懸命 みてました。仲もよかったので。。 ただ、S田先生は、学年主任でもあったのですが、 女の先生からはクレームが多くて(笑)。 女のひとって、ほんとうにむずかしいんです。。 このS田先生がまたタクトを振られるが如く 動かされていたのが、S田校長先生です。 この校長先生こそ、カリスマです。。 ぼくが出会った先生では、ナンバー1の指導力です。 ずば抜けていました。。 それもそのはず。 荒れに荒れた学校を5年で建て直し、町の教育委員会をして 「日本一の学校」といわしめた男です。。 そして、お坊さんでもあり、普通の教師を普通にさせない 先生でもありました。 豪放磊落で、お酒をこよなく愛し、飲んだら朝まで 飲むが、次の日は朝一番に校区の見回りを行っている という。 不良たちが卒業しても、まずはさきに校長のところに 挨拶に訪れるというぐらい、徹底して愛された校長です。 この校長先生と、夜に飲んだことがあって、 いろいろ質問させてもらったことがあります。。 そのときに教えて頂いたのが、 ++++ S田校長も先生不適格として辞めようと 思ったことがある。 +++++++ 昔、S田校長も生徒とうまくいかなかった時期が あったんだということを教えて頂きました。 つまり、悩み抜いた教師だからこそ、いまがある、 ということなんでしょうね。。。 そうそう、ある時に、とある罪を犯した生徒がいて 学年主任が職員室で迷惑をかけた先生のところを 廻って、謝罪をさせていました。。 そこに訪れた校長はいきなり「先生はそれはストップ。」 と急に止めさせて、 「先生、子どもに必要以上に恥をかかせたらいかん。」 と一言。 周りの教師にとっては、謝罪は当然かな、という雰囲気が あったのですが、このエピソード一つにしても校長先生の すごさがわかるというものです。。 このS田先生。さらにスゴイエピソードがあります。 S田先生は、ちょうど、退職の年でした。 ぼくも2年間お世話になって、いい卒業式ができれば いいなあと思っていました。 この中学校の卒業式は、ぼくの体験してきた卒業式 のなかでも最高の卒業式で、卒業式が終わってから生徒から 先生方へ全体で一言挨拶してお別れの歌を歌うんですね。 つい5年前には荒れてあり得なかった卒業式なんですから。。。 ですから、毎年感動の涙があふれるのですが、 このときの校長先生の祝辞はすごかったです。 「死ぬなー」 で終わりです。 生徒が死ぬことほどつらいことはない。 そして自分よりも先に死なれることほどつらいことはない。 だから、とにかく生きていてほしい。 そういう願いを込めて、最後の祝辞の締めが、 「死ぬなー」 です。 翌日の新聞にもでたぐらいです。。(笑) 僕自身、本当に通用しなかった時代ですが 周りの先生のすごさを学べた修行の時代でした。 いまでも、ぼくの目指すべき指導力のモデルは、 この時代です。 組織マネジメントでリーダーが果たすべきこと そのことはすべて、ここで学べた気がします。 <続く>
2006.04.01
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次は、まさに山奥の小学校。Y小学校といいます。 まさに学校行事が村の行事。 すべての子どもを村全体で育てるような理想的な 環境。 学校の前には、小川が流れ、夏になると、飛び込みも でき、魚も釣れるような場所。 裏手には、山が広がり、学校の畑もある。 本当に、これが理想の教育現場だとでもいえる場所。 ここでは、ほんとうに教師が一生懸命働くことのできる 環境でした。 ここで出会ったのが、M先生というカリスマ教頭。 50歳にして、サーフィンをこよなく愛し、 バタフライで子どもを追いかけ、趣味の絵画でも 受賞するほどの腕前、パソコンもLANをひくほど。 そう、何でもデキル人だったんですよ、そしてイケメン なんですわ。。 奥さんも娘もめちゃくちゃ美人で、家もでかい(笑) ほんまに笑いたくなるような人なんですが、すごく 気に入ってもらえて、一緒にタイや台湾を一周したり、 職員旅行で韓国行ったりと。。ツーといえばカーな 二人です。 校長先生もよくてですね。本当にいいとこでした。 そこで最初にもったのが小学4年生。 生徒数は11人。 これがまた腕白坊主たちばかりで、ほんとうにおもしろい 学年でした。このときは音楽の先生の産休でいっていたので 音楽も担当したり。。 *ちなみに音楽はいっさいできないので、すべて 小6の女の子に、指導を任せていました。 音楽は合同だったもので(笑) この学年は思い出深いです。。 11人が11人なりに、ドラマを持ち、そして 一生懸命生きていましたね。。 よくけんかもし、遊び、一緒に釣りにいったり、 飛び込みもさせたり。 いつも給食の時間は、天気が良ければベランダにむしろを しいて、全員横並びで、山をみながらご飯を食べてました。 いいでしょ、こんな体験。 ぼくの教員人生でもベストでしたね。 運動会も村々からみんなやってきて、村祭りですよ。 そして、村々のひとがみんな先生を囲んで、一緒に 飲んでくれます。ああ、いま思い出してもいい思い出です。 そして、1年たって、もう一年更新となりました。 2年目も同じ小学4年生。 次はたったの3人。すべて男。 この3人がまたよくケンカし、また問題を起こす。 ここに東京からの転校生がはいってさらにややこしく なる(笑)。 この学年は未だによく憶えています。 それは一人ADHDと予測される子どもがいたからです。 機嫌が良ければ、いいのですが、少しでもうまくいかないと そして教師からの承認欲求を満たされないと、じっとできないし、無理難題を言う。 保護者参観日でも、授業が崩壊したことがあります。。。 とうの保護者は、「教師がうちの子を理解できないというスタンス」でしたから、怒ることもなく、兄のクラスへ。。 僕の参観授業は悲惨なものでした。 そんなこんなもあって、よくこの保護者のかたに クレームをつけられることがありました。 高齢で出産されてからの子どもだったからでしょう。 本当にかわいくてしょうがなかったのでしょう、その子どもが学校でのストレスを話せば、とうぜん教師側の問題として とらえます。同級生とのケンカも、それを調整できない教師の 問題だととらえるからです。 けれども、事の問題は本人の我が儘にあるわけですから、 それの調整のしようもない。。 一度校長室で、謝罪を要求されたこともあります。 それは非常に理不尽な、子どもを守っているのは実は僕なのに、ぼくが怒られる立場に回される。。 そんな思い出もあります。。。 よく保護者と話し合う機会をもった時期でした。 このことは僕の保護者に対するアマちゃんな考え方を たたき直してくれた、良い時期でした。 そんなこんなで1年たって、産休の先生も戻ってきて ぼくの任期も終わります。 卒業式では涙が止まりませんでした。。 たしか歌はevery little thingでした。 半年後、遊びに行ったときに、全校の生徒が運動場に 飛び出てきてくれたときは本当に嬉しい出来事でした。。 採用試験に受からない、次の勤務地は、 全く正反対のベッドタウンの中学校、M中学校への転出 となったのです。 <続く>
2006.03.31
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大学院を出まして、教員採用試験も受けまして、 あとすこしのところまで行きましたが、残念賞。 さあ、現場にでると、最初の赴任地が母校である I高校。。。そしてS工業高校の二校。 最高のスタートです。 とにかく母校ではいろいろな授業を駆使して 遊びました。 これまで勉強し、そして学んできた授業を これでもかと実施(笑) いかに列挙すると、 日本史・・・「加曽利貝塚の犬」 現代社会・・「貿易ゲーム」 「救命艇状況」 「銀河鉄道999とデカルト」 などなど 憶えていないですが、毎回これでもかこれでもかと やりました。 最初は、かたくなにマジメぶっていた進学クラスの 連中も怒濤の渦に巻き込み、そして体育クラスは 興奮のるつぼに陥れました(笑) この当時の教え子には、かなり印象深かったらしく 今でも教え子が実家の花屋でしゃべっているようです。。 さらに、S工業高校では、ドラッグに手を出しかねた ような悪いヤツもいましたが、そういう連中とも 授業中に「鍋」を作って食べたり、青春していました。。 あ、そうそう、生徒からラブレターをもらったのも このころでしたが、これが最初で最後だった気がします(笑) ええ、美人でしたよ。ちなみに。 1年だけの契約であったのでそれで去りましたが、 卒業式は涙がでてくるし、いい思い出ばかりです。 最近もこの当時の教え子と再会して一緒に飲みましたが 彼に言わせると、やっぱりおもしろかった教師だそうです。。 さて、その次は、教育委員会より小学校のリクエストが 来ました。 山奥の学校で、どうやら採用試験に支障が出るということで 敬遠されたようですが、ぼくは、すぐに諾ということで、次は 小学校4年生の担任となりました。。 <続く>
2006.03.30
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○8代大学祭実行委員長になる~組織をまとめる難しさ~ ぼくがなんといっても組織マネジメントにおいて 失敗経験を積ませてもらったのが、2年のときの 大学祭実行委員長です。 前年度の実行委員と中のよかったぼくは、あれよあれよ と言う前に実行委員長になりました。 大学祭まで春から秋までの半年間、毎週毎週 集まって、段取りをすすめ、練り上げていくイベントです。 中身もそうですが、同級生や下級生、そして先輩にも 協力してもらって、そして大学側とも折衝。段取りを つけて行うというものです。 これがですね。 恋愛沙汰も含めて、いろいろな問題を抱え込みました。 まずは、スタッフ。 お祭り好きの同級生たちと、寮で親しくしている後輩 でチームをくみました。 ところが、このお祭り好きの同級生とですね、縁の下の 力持ち的価値観のぼくと後輩では、水と油なんです。 これ、年齢が同じというより、力関係の似ている ものが上下関係になるっていうのが一番だめなところです。 組織であれば、かならず、「最終意志決定権」「人事権」の 二つがなければ、それは形だけのマネジメントになります。 この二つにおいて、弱かったのが、当時の事務局でした。 祭りを楽しむことだけを考えている同級生。 そうとしか当時の僕の目には同級生たちの姿は映りませんでした。 そして、ケツをふかないのに、いろんな意見をああだこうだという。無責任なやつらめ。。 そう思い始めたら、組織は空中分解へと走り始めます。 ぼくの派閥と、同級生の派閥。 価値観の違いが、すべてにおいてでてきました。 そして、あることが起きました。 当時スキだった彼女に振られ、どん底にいたときに いろいろと優しくしてくれた女の子がいたのですが、 その子に恋心をもってしまったのですが、そのことを 知っていながら、向こうの派閥の人間とその子がつきあって しまうようになる、というアクシデントが起きました。 まあ、踏んだり蹴ったりの時期でして、組織はうまくいかない、私生活もぼろぼろ、そして、是かと。。 歯車が狂い始めると、おかしくなります。 最初の彼女の別れ方も、当時の自分としては、とても 信じられない別れ方で(いまだに詳細は棺にもっていこう と思っていますが)、そしてダブルパンチを夏以降続いた ものですから、内心荒れました。。 今ならば、メンタルトレーニングできそうですが、 あのころは浴びるように酒を飲んだ時期でした。。。 このころの記録が「日本酒1升半」です。 ウイスキーを15分で一本あける。 というのもやりました。。 さすがに記憶も何も残ったものではありませんが、 恋愛の消失感というのは大変な想いをするもんだなあと 思いました。 またその次の恋愛相手もその派閥の人間につきあわれるという連戦連敗状態に陥り、どうにもこうにもしようがないところで、ギリギリの状態で、とにかく日々マネジメントしていこう ということで最後の最期までやり遂げました。。 今ではかわいいなあと思えるエピソードなんですが、当時は 本当に、女性不信になったし、またその寂しさをどうにかして 補おうとしていた時期でした。 大学祭本番。 怒鳴りあいで、組織崩壊しかけた実行委員会も、最後に どうにか間に合って、すべて大成功で終わりました。 捨てる神あれば拾う神あり いろいろな人に助けられて、『太陽の子』などの児童文学で金字塔をつくっていた灰谷健次郎の講演会などもできたり、 他大学や神戸からも遊びに来てくれるような祭りになって 大成功でした。 最後、締めの挨拶を、まぶしいスポットライトを浴びながら 涙ながらにしたとき。 ほんとうに苦労してもここまできてよかった、という思い でした。 このあとは号泣して、みんなで抱き合ってエンディング。 最後に残ったのは、大学の寮のメンバーに支えられての フィニッシュでした。 このやり遂げた感は、大学最高の思い出でしたが、 組織マネジメントの難しさも体験した思い出でした。 この後、組織マネジメントに幾ばくかの自信を持ちながら ラグビー部のマネジメントに副主将として関わるわけですが これまた、主将をはじめ、主戦力が体育科ということで、 価値観の異なるグループが出来てしまい、「ノリ」が違う違和感を感じつつやってました。 ラグビー部では、「怖い先輩」としてイメージづけられていた せいもあって(試合になると、どうしてもイケイケになるので 不正なんかが起こると、よく乱闘するタイプでした)なかなか うまくいかないイメージでした。 ラグビーというのも、「縁の下のフォワード」と 「檜舞台のバックス」というのがもともとあり、 どうしても対立を引き起こしやすい構造になっている んですね。 「なんであんなミスするバックスにボールを出して 怒られないかんの?」 とフォワードは思い、 「とろとろボールをとられて、しっかりボールを 出せよ、簡単に」 みたいにバックスは思うわけです。 だから、その違和感を埋めるべく、統一された戦略と お互いをたたえ合うキモチがなければ、とてもうまく いくわけがないスポーツなんですね。 そのことは、本当に、このあとのマネジメントを考える よい体験となりました。 誠実に取り組み、なおかつ、いうべきタイミングに 「思いを込めた重いコトバをがつんと述べる」 みたいなのをタイミング良く言えるかどうかで 組織が固まるか否かが決まってくる。 ただし、これもプレーで実力があればこそで、 社会人ラグビーになって、体力が落ち始めた頃には もっと下の実力のある人間よりも、周囲の人間からすれば 説得力が落ち始めている自分のポジションとか、なかなか 寂しい思いをするのもラグビーでの良い学びでした。 そんなこんなで、たぶん、自分が殻をもっていたから 当時はマネジメントがうまくいかないことに気づきはじめ、 いろいろと模索する日々でもありました。 それが大学4年まで続きます。 <続く>
2006.03.29
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ぼくの教師人生を決める大きな出来事が起きたのも この大学にはいってのことでしたが、3つの大きな 出来事がありました。 1つは、社会科教育に出会ったこと。 2つめに、メンターとなる小西正雄先生に出会ったこと。 3つめに、大学祭実行委員長になる。 ○衝撃的な授業~最初に出会ったスゴイ授業~ ぼくは社会科専攻でしたから、当然、日本史や 世界史、地理などから自分の専攻講座を決めるつもりで いましたが、不思議と、「社会科教育学」という分野に 興味を引かれました。 なぜなら、ぼくらは「日本史」教師や「地理」教師 でもなく、「社会科」教師だから。。というのが なんとなくあったからです。 日本史のおもしろさを伝えるのでもなく、地理の おもしろさをつたえるのでなく、「社会科」という 名前をつけるのであるならば、そこに何らかの意味が あるはずです。 そこで、大学院のゼミに大学1年の時から参加させて もらいました。 ある意味、小2から教師を目指しているわけですから、 すでに大学1年生で10年のキャリアです(笑)。 大学院に来られている現場の先生方と、ゼミで いろいろ話をする機会を得ることが出来て、いい きっかけになりました。。 そこから、少しずつ「社会科」というものに興味が 出始めます。 「社会科とはなにか。。」「学校とは子どもにとって そういう装置なのか。。」「なぜ歴史と地理と公民の3つ から構成されているのか」などなど。。 暗記物と呼ばれている社会科を覆すためには どうすればいいのか? そういうのを考えるようになりました。 そんなさなか、大学2年生のときに衝撃的な 授業に出会います。 それは付属で行われた、すべての授業でした。 手がこんだ準備物。 しゃべりのうまい教師の実力。 板書の美しさ。 そして何よりも「子どものすごさ」 とにかく質問に対する反応がすごい。 「鍛えられている。」 これだけ変わるのかと・・・ *** これが「教師力」なのかと・・・ ******** 違いは、なんなのか。。。。 「衝撃的」でした。 そう、リーダーたる教師の<力量> このあと、小学校、中学校で県下でカリスマと呼ばれた 教頭、校長と出会うことでますますその想いを強くさせるのですが、一人では何もできないというのが一つの真理である反面 リーダー一人でここまで変わるのかという事例も見てきました。 また、リーダー一人の独走で崩壊していく組織も見ました。 そして自分でも組織を崩壊させたし、また再生させる 体験もしました。。 リーダーシップの「チカラ」 このことに気づかされたのがこのときの出来事でした。 それからは「社会科教育学」に専攻を決めます。 ここからビジネス風に言うと「マネジメント」として 教育をとらえるようになってきたのです。。。 *当時はこんなコトバではとらえてなくて、とにかく 教師力の源を知りたくて選んだのですが。。 <続く>
2006.03.28
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○入学式直後のラグビー部入部 ~後ろに投げて前進する競技との出会い~ 大学にはいり、入学式を迎えました。 入学式は、たんたんと進みましたが、式を終えて 外に出たところ、入部を勧める先輩たちの輪。輪。輪。 体の大きい僕は早速ラグビー部に捕まり、そして その後お世話になるo先輩が池田高校と言うこともあり、 すんなり、拒否も出来ず、入部決定。 しかし、この出会いが、ぼくにとって、大きな考え方の 転換となる競技との出会いとなりました。 スポーツには、何らかの形で「理念」にあたるコトバがあります。 ぼくがしていたものだと柔道には、「柔よく剛を制す」 とか、サッカーだと「トータルフットボール」とか。 ラグビーというスポーツは、「one for all、all for one」という理念が非常に有名なんですが、実は「仕組み自体」が非常に変わったスポーツなんです。 +++++ 「後ろにボールを投げながら、前進する」 +++++++ というものです。 ボールゲームの本質は、「陣地取り」が基本で その証として「ボールをゴールに入れる」という行為が あります。 サッカーもそうですし、ホッケーも同じくです。 だから、「前に攻めることが最も効率のいい攻め方」 なんです。 ***** けれども、ラグビーでは、後ろにボールを投げることが ルールとして決まっています。 ******** なぜそうなったのか。 エリス少年がボールを持って走ったラグビーの起源や 楕円球の起源などははっきりわかるのですが、後ろに なぜ投げるのかは、あまりはっきりしていませんが、 僕の解釈はこうです。 後ろに投げることの方が「効率の良い攻めがある」 という理念なんだと考えています。 結局、陣地取りですから、「狭い隙間」を強引に抜くか、 「広い隙間を作って」進まないといけません。 では、その隙間を作る方法というのが、いったん後ろに 下げることで、前後左右に「隙間を作らせる」という理念 だと思うのです。 前に進むには、投げる前に「隙間を作る」ことを考えてからでないと始まらないのが、ラグビーというスポーツなのです。 このラグビーとの出会いは、自分にとって大きな出会いと なりました。 仲間もたくさんできたし、勝利の喜びを共有できる ことなど、たくさんの贈り物をもらいましたが、なによりも ぼくに刺激を与えたのは、こういう発想でした。 ラグビーの戦略を考えると、どうやって「隙間」をこじ開けていくか、そしてどうやってボールを相手にとられずに「継続」していくか、それがテーマです。 これは人間関係でも同じだし、行動する前に、 いかに人が気持ちよく「隙間を空けてくれる」 「人間関係を継続してくれる」というのにも つながってきます。 ラグビーの哲学をいろいろ考えるようになるのは 指導することになった大学院からですが、いいスポーツに 巡り会ったと思っています。 <続く>
2006.03.27
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ぼくは、集団競技サッカーで落ちこぼれたので、 個人競技である柔道に切り替えたことはお話ししたと 思います。 ぼくがいまの「戦う原点」「教える原点」を学んだのは いまでも柔道が原点だと思っています。 そのお話しをここではしましょう。 まず、ぼくと柔道との出会いは、学校帰りの謎の 米屋のじいちゃん。 内田米穀店というお店があったのですが、そこの おじいちゃんが体の大きい人間をみると必ず スカウトするということがありまして、ぼくもご多分に もれず、何度となく、柔道に誘われていた訳です。。 「へんなじいちゃんがいるなあ。。」 サッカーではぼくが成功しないのは明らかでしたし、 サッカー部の連中には、「サッカーが下手」ということで 思われていたので、やたらと冷たい想いもしましたし。 だから、躊躇もありましたが、柔道部に入ります。 そのころの柔道部には、主将の川西さん(体のでっかい 中学生でした、すでにおっさんみたいでしたから)、それと 副将の大西さん(細いのに、この人がまた内股がうまくて、 よく投げられました)、そして怖い先輩複数という感じで えらく怖かったのを憶えています。 まず、ぼくは小学校からの経験で、どういうふうに やれば自分がそれなりの成功を手に入れることが 出来るのかを知っていますから、とにかく初めての競技 でも、いろいろ分析して、とにかく「投げられない」ように するためにはどうすればいいのかを一生懸命考えました。 ** 投げるより投げられない。。 *** とにかく3年生がすこんすこん投げるので、これがいやでいやでしょうがなかったので、できるだけ、投げられないように するのを一生懸命考えました。 そうすると、コツがあるんですよね、投げられないコツ。 とにかく、体重移動を頻繁に繰り返されたり、体を崩されると 重心が「ふらふら」するんですよね。 この「ふらふら」を止めることが出来れば、実は投げられないというよりは「投げられにくい」んです。 あと、投げるという行為は、自分の重心と相手の重心を 重ね合わせることなんですよ。 それが「一つにあわさる」と、投げることが出来るんですよ。 *これは払い腰、内股などの腰技系のコツです。 だから、投げられないために、とにかく、重心を一つに せずに、体重移動をさせられない、崩されない。 そういうことを必死に体で覚えさせるわけですね。。 だから、相手の腰が近づけば、自分の腰をずらすか、あえて ぶつけて、反発力で無力にさせたり、いろいろな方法を 見たり、考えたりしながら、身につけました。 ま、当時はここまできちんと合理的に解説できるほど わかっていなかったわけですが、こういうふうに丁寧に 一つ一つの「つかむ」「崩す」「投げる」という行為に 対して、自分の体をどうやってどのようにすれば力学が うまく働くのかを、よく考えていました。 一番よく考えたのは、高校の時で、進学クラスだった わけですから、部活は原則してほしくないというのが 進学クラスの暗黙のルールみたいで、練習時間も とれず、なかなかできる環境もない。そういうなかで どうやってやれば、勝てるのか。それを本当によく考えました。だから、高校3年のときにはベスト8まで行くことが できました。 このよく考えるきっかけを作ってくれたのが、柔道では 同じ大西という名前のライバルでした。 こいつはいまでも仲がいいので、たまにのみに行くのですが、やたらと強いんですよ。 僕と同じ研究好きなんですが、どっちかといえば、体を 鍛えるのがスキというタイプ。 いつも、決勝で当たるのが、この大西でした。 *県でも3位でした。 だから、いっつもこいつに勝つことを考えて、いっつも 練習せざるを得ない。 そして、またこいつがですね、となりのとなりの町の 道場でやたらと鍛えられているもんだから、ちょっと7やそっとで勝てないんですわ。。。 結局、3勝7敗ぐらいの感じでしょうか。。。 「戦う原点」でもあったし。 いやあ、ほんとよく勝負しました。 またまた。 これが団体戦がからむじゃないないですか。。 そうなると、トータルで強く組織をマネジメントしとかないといけない。 ライバル大西がいる三加茂中学校には、他に檜という強い ヤツがいまして、大西が少し抜け出ていましたが、ぼくと檜は似たようなもんでした。。 また、もう一つ。東祖谷中学校というのがありまして、ここは3人やたらと強いのがいるんですよ。。これまた、ほぼ僕らと実力伯仲でして。 これにぼくの所属する池田中学校が三つどもえの戦いを するわけです。 うちは、僕以外では、軽量級の粟飯原(ポイントゲッター) がいましたが、なかなか勝てない。。 団体戦では結局ウエの二つにいっつも負けてしまい、 いろいろと「組織マネジメント」しました。 振り返ると、強くなるために一生懸命主将として 取り組んだのが「教える原点」になった気がします。 このころから教えるのは結構上手でして、高校に あがって、道場がないものだから、中学校で練習を させてもらうことも多々あったのですが、僕が指導した 弟の学年は郡でも優勝し、県でも上位に入る成績を残した こともあります。 教え方は自分でいうのもなんなんですが、うまかったと 思います(笑)。 先述の内田先生は高齢でしたので、実質先輩が指導する というのが慣例でしたので、本当に、これがいい経験に つながりました。 <続く>
2006.03.26
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さて、この成功体験から、いろいろと物事を 深く考えるようになります。 運動出来るヤツと出来ないヤツの違い 勉強出来るヤツと出来ないヤツの違い もてるヤツともてないヤツの違い ・・・ とにかく、そういう風に一人で「違い探し」したり、 「人間観察」したり。 ** なんか、暗い子ですね。。(笑) **** いまの僕を知る人は、たぶん想像つかないでしょうが ++++ 基本路線は「マジメ」「誠実」「おとなしい」 「恥ずかしがり屋」 ++++++++ これが僕の18歳ごろまでのメンタリティなんです。。。 だから、人前でしゃべるのも、カラオケで歌うのも 人が大勢いるところに行くのも実はスキでないタイプ だったんですね。。 さて、次の成長が訪れます。 中学校に入ると、いくつかの小学校から上がってきますので、生徒の数も増えます。 そうなると、出来るヤツも増えることになります。 なかなか成績上位に上がれなくなるわけですね。 中学校入学当初なんて、たしか、150人中50番ぐらいでしょうか。。 これ、どうにかして、あげないといけないわけですよ。 負けず嫌いですから。 また、小学校と同じ事の繰り返しです。 またひつこくやるわけですね。 コンピテンシーとベンチマーク。 最終的には、校内では5番まで上がり、 郡では15番まであがった記憶があります。 ま、トップはとれなかったわけです。 なかなか「抜けない壁」があるんですよね、ほんと。 これが部活でもおきるんです。。 <続く>
2006.03.25
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○ココロへの興味・・・ ぼくが神秘的な世界にやたらと興味があった 子ども時代を迎えていたのは説明しましたが、 ココロについてすごく考えるようになったのも このころでした。 とにかく、よく考えるたちでした。 きっかけはたぶん勉強と部活でしょうね。 小学校からバランスのとれた視点を持たないと 「いい教師になれない」と思いこんでいましたから 当然このころのテーマは「文武両道」。 勉強もでき、そしてスポーツも出来なければ ならない、なんていう、妙にモチベーションの高い 子どもでした。 ところがですね。 ぼくは小学校なんかは、ほんとうに落第生で 音楽で1(5段階の最低)をとったこともある強者です。 小4ぐらいまでは、3以上のものがないという成績で して、担任の中本先生から、保護者面談で「この子の 国語のチカラではラブレターも書けないですよ」と 言われたほどの男ですから。。 いかに、勉強嫌いだったか。。 保育所時代では、あまりにも悪ガキで先生に納屋に閉じこめられたり、僕がいるせいで、登園を見合わせるというわんぱくであったことも付け加えておきましょう。。。 それがですね。 小学校3,4年ぐらいから、塾に通うようになりました。 この塾は、法華経を信心し、たぶん創価学会にも 入っていたと思うのですが、非常に道徳心厚い安田先生 という先生に指導を受けていました。 この先生との出会いがぼくの教師人生を一つ作り上げたと いっても過言ではない先生です。 勉強もさることながら、非常にモラルについて、 何度も何度も語るひとだったので、だんだん、その影響を 受け始め、非常に「まじめ」「誠実」に生きることが最高の 生き方なんだということを「自分のモラル」かのように 体得し始めました。 すごいでしょ? 一種の宗教的教育を受けたんですね。。 ただし、最初は毛嫌いして、いかなかったこともずいぶんと ありましたし、本当に行きたくないので、よく精神的腹痛に 襲われて、休むこともしばしばでした。。。 まあ、ところが、こういうことを繰り返すことで、ちょっとづつ人間変わるわけです。。。 さらに、ある転機が5年生のときに起きます。 5年生になると、ずいぶんと成績も上がり始めて ましたが、あることがきっかけでさらに上がるように なりました。 +++ それは、「勉強できるやつとできないやつの徹底比較」です。 +++++++ 今思えば、よっぽどくやしかったんでしょうね。 当時5年生のころ、算数の時間でよく行われていたのが 「最短時間でドリルをとく」。 これの競い合いだったんですよ。 ぼくは、一人ライバル視していた友達がいまして。 名前を西岡といいます。 こいつがですね、いっつもドリルトクのがやたらと早いんですよ。 それもそのはずで、こいつのちに明徳義塾にいくことに なる秀才だったんですが、よく遊んだ友達だし、やっぱり 男って負けず嫌いじゃないですか。。。 どっからか、負けることのいいわけを考えて傷つかないようにしたり、そもそも土俵に乗るのをいやがったりして。。。 そういう大人びたことができない、子どもですから(笑) 当然、ライバル心むき出しですよ。。。 そっから、自分と出来る人の違いを、ちっちゃなところから 大きなところまで、よく比較考察する癖がつきました。 まず、一番劇的に違ったのは、 **** 出来る人の机は整理整頓されている。 出来ない人間の机の中は、汚い。。。。 ************ ぼくはもちろん、「汚い派」です、はい。 いまも「汚い」派かもしれません。。 そこで、当時、真っ先に考えたのは、机の中を 整理整頓する、でした。 これ、「掃除が基本」という会社の 従業員教育で行われているのとまったく同じです。 そっからですよ、ぼくの快進撃は!!(笑) まず、とにかく「出来るヤツのものまね」から 入ります。 それも「自分に似たタイプの成功者をまねする」 ようになりました。 なぜか勉強できるヤツは、小学生ぐらいの頃って 何でもできるんですよ、ほんと。 図工とかもうまくてね。。 女の子にももてるんですよ、これまた。。 だから、少しずつ、ちょっとずつ。。 自分の得意な「社会」から。。 これまた、なかなか一番になれないんですけどね。。。 ただ、自分は社会が好きで、歴史なら、子どもレベルには 負けないという自負心がありましたので、とにかく 一点突破だと思ってました。 *これって実はよくよく考えれば、コンピテンシーとベンチ マークという手法で、まず、成功者のモデルを抽出してそ のモデルのいいところをまねしていく(コンピテンシ ー)、そして比較対象となるターゲットを決めて、それを 数値化して力関係を明らかにして、追いつこうとする(ベ ンチマーク)の手法そのものでした。。。実は、なかなか やり手のこどもだったんですね~~ ただ、ですね。 ぼく自身は、そんなに「素の能力」(ポテンシャル)は 高くないと思っていました。 これはいまでも同じですが、ポテンシャルが低い分、なにか 突破口を見つけないと、同じスタート地点に立てないというのはよくわかっていたので、いろいろと不器用に考えることが非常に多かったのを憶えています。 とにかく、不器用なんですよ。。 ドリル一つするにしても、合理的に友達がやっているんですよ。まさに、憶えるだけであれば、先生がでるという箇所を しっかりとやればいいし、憶えやすいように、自分で考えずに答えを憶えておればいい、というやり方もありますよね。 ぼくは不器用だし、宗教教育を受けていますから(笑) +++ 苦労をともなわない、最短のやり方 ++++++++ っていうものに、違和感を憶えていたんですね。 だから、もう何時間も不器用に一生懸命にやります。 それでも、なかなか勝てない。。 小学校時代の能力差というのは、簡単に埋まる部分も あれば、とても「埋まらない」差を感じることもあります。 そこを必死に埋めていく。 この体験が、ほんとうに良かったといま思いますね。 このひたむきな努力が成果を生み、6年生ではほとんど 5と4になったんですね。 これが大きな成功体験となります。 とにかく「なせばなる」「努力すればなんとかなる」 みたいなポジティブシンキングを身につけていく わけです。。 <続く>
2006.03.24
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みなさんもご承知の通り、ぼくは「でかい」です。 173センチ 98キロ ヘビー級です。 服はサイズに合うものから選ぶ。 風呂は少なめでも十分。 夏は近くにいてほしくないが、冬は人間ストーブ。 という体型であります。 しかし。 実は高校からほとんど変わってません(笑)。 ですから、制服はいまでも着れます。 うれしくもない事実ですが、真実です、はい。 けど、これって実は「薬による副作用」 で小4で太った結果です。 小2のころの写真なんか、さっそうとかけっこ一番ですよ。 それが小4になると、ビリのビリですよ。。 こういう劇的な変化を子どもの時に迎えたので 本当に、いろいろ体験しました。 サッカーが好きでサッカーをしていましたが 太ってきたらキーパーしか出来ず、 「飛べないキーパー」 なんて言われ、いじめられたもんです。 そして小5ぐらいには「焼き肉定食」 なんていういやな悪口もことあるごとにいわれ、 まだ多少ケンカが強かったので、いたずら型の いじめをうけたのですが、いろいろといやな 事をされましたね。。。 これは、いろいろありました。 中学でも、まっすぐなことしかすきでなかったので えらく不良グループというかと対立したり、集団で からかわれたり、その手下が日記帳にいろいろと 悪口雑言を書くこともよくありました。 毎日毎日ですね。。 本人はあまり気にしてなかったですが、あるとき お袋が見つけて、先生にいってもらったときが ありました。 このときの担任は 「おまえ一人大人やから、我慢してくれよ」 えらく、解決したようなしてないような 複雑な解決方法ですが、そのときは妙に納得しましたね。。 しかし、中1でサッカーでなくて、自分の体型を 活かす柔道に変更してからは、あれよあれよと 1年で町や郡では優勝か二位を争うようになり、 県でもベスト16ぐらいには残っていたような 実力までなりました。 肥満が武器になるので、自転車で30分もかかる 隣町の道場に通ったり、毎日走ったりと本当に 努力していた時期です。 ++++ こういう、弱点が強みとなり、 自分を活かしてくれる環境に 身を置くこと。 +++++++++ これによって、「強みを活かす」ことを 知ったのは今の財産となっています。 だから、変化すること、居場所を変えることに対して 何の躊躇もなくできるのは、このあたりからの 変化だろうと自分では分析します。
2006.03.23
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みなさん、告知です。ドリームゲートでお世話になっている香取貴信さんの講演会を島根にて行います!!以下、知人の佐藤さん@日本一のプレゼンテーション よりご紹介頂きました!!ご興味のあるかたはぜひ足を運んでみて下さい、ほんとうに感動することまちがいなしです。ぼくが連れていった大学生や高校生は涙流して聞いてましたから。絶品です!!++++++来る3月29日(水)浜田市いわみ-るにおきまして、http://www.iwamiru.pref.shimane.jp/annai/newpage2.htm現在ベストセラ-の「社会人として大切なことはみんなディズニ-ランドで教わった」の著者香取貴信さんの講演会が行われます。ドリ-ムゲ-ト紹介ペ-ジ→http://www.dreamgate.gr.jp/area/event/katori/香取さんは、現在34歳。元々不良・ヤンキ-少年だった香取氏がアルバイト先に選んだディズニ-ランドで、働くこと・教えること・本当のサ-ビスとは、なにか?不良少年が、如何に更正して社会人に成長したかを講演されます。現在人気の香取さんのご講演は、全国でも半年待ちの会場がでるほどです。☆☆こんな方にオススメです!!☆☆○春休み中、これからの進路を考えている中・高校生○子供達の夢を本気で応援したい親御さん○何か新しいことをはじめたい若者○教育現場に携る皆様には、特にオススメ致します。ぜひご家族お誘いあわせのうえ、ご参加ください。香取さんの体験を通したお話は、とってもわかりやすくて元気になれます♪~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~「私の体験したディズニ-マジック・感動を呼ぶサ-ビス!!」香取 貴信 講演会主催 ジョブカフェしまね浜田ブランチ NPO法人GASSHO設立発起人会日時 3月29日(水)時間 14:00~16:00場所 浜田市「いわみ-る」 入場無料です。※なお講演終了後香取さんを囲んでの交流会を予定しております。(別途参加費が必要です。)お問い合わせお申込ジョブカフェ浜田ブランチTEL 0855-25-1600FAX 0855-25-1630iwami@teiju.or.jp担当 高橋 まで
2006.03.22
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ぼくの属性はオタクでなく、マニアレベルです。 はっきりいって、「オタク」をリスペクトしている 僕としては、まだまだマニアレベルなんです。。。 そのぼくが唯一昔熱心に読んでいた本が、 学研『ムー』http://www.gakken.co.jp/mu/ と 新人物往来社『歴史読本』 http://jinbutsu.jp/rekidoku/index.htm です。 |【心霊科学講座】霊体の謎をさぐる |【UFOミステリー】謎を語るか?墜落UFOの写真 |【現地取材】超古代巨石文明発祥の地? ティアワナコ ムーの特集は、こんなんばっかりです。 めちゃくちゃ、こういう神秘世界に興味をもっていました。 小4ぐらいから定期購読していまして、創刊まもないころからの愛読者でした。 ぼくは未だに、そういう世界がスキというか。 寝ているときに、僕とは違う寝息がしたり。 実家では、誰も一階にいないのに、階段を上がる音がしたり。 大学院時代には、かなしばり、起きたら顔の真ん前に ひげ面オヤジの顔があって、にやりと笑われたこともあったり。。 そういえば、父親も朝飯の時に、「今日ばあさんに首を絞められた」とか、激白する男ですから。。。 *予備語録 うちのオヤジは、華厳宗東大寺で托鉢を受けている 在家の坊さんでもあります。 そんな不思議世界に興味ありますから、いろいろな 不可思議な事が未だにスキです。。 だから、エヴァンゲリオンなんかでたときには 『ムー』なら当然の世界観だなあなんて思いました。 次は歴史への世界ですが、これまた不思議系と歴史が あわさって、小4から購読です。 渋いでしょう。。 小4でこの2冊を購読ですからね。。 *うちの両親の偉いところは、ここなんですよね。。 勉強に関しては本当にいろいろ努力してくれました。 この2冊の購読は、ぼくのなかで、かなり原体験を 作り上げていると思いますね。 僕自身の発想の源が、こういう不可思議な世界なんで、 基本的に、発想に「枠がない」。 だから、いつでも夢想します。。 <続く>
2006.03.21
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小2で教師になることに覚醒していらい、妙に先生に対して 分析的に「冷めた目線で見ている子ども」だったように思います。 いろいろともめ事が多かったせいか。中学の時には 「彼一人大人ですから」 というコメントで、慰められた事もあります。。 さて、この冷めた目線で教師の怒り方を子どもなりに 見ていると、教師の怒り方って、子どもからはけっこう 感情的とかそうでないとか、よく見えますよね。 僕が怒り方でよく覚えているのは、 小2と小5の先生で、二人ともベテランの先生でしたが タイミング良く、ずばっと怒るタイプでした。 *余分語録 僕が教えて頂いた先生は、すべて校長先生に なりましたね。そういえば。。 だから、よく怒られたのを覚えています。 あと、小4、6年の先生は優しいタイプの先生で 怒り方も独特な間合いでやっていたことを覚えています。 小4の担任は、じっくり話し込んで怒るタイプで 小6の担任は、冷酷な宣告を行うような 怒り方をするので、非常に記憶に残っています。 先生それぞれの怒り方ってあるんだなあと 自分なりに怒り方を解析し、バランスの悪さを 考えたりと、いろいろ工夫するなんていう、 いま思えば、変わった子どもでした。 いま、自分の怒り方をみると、あんまりうまくないなあと 思っています。 怒るよりも、ほめたいし、お互い気持ちよくやりたい ほうがいいだろうと思うので、あまり怒るのはスキでは ありません。 体罰に関しても、中学勤務の時に、 「体罰でキモチは治るんか!!」 って言われたときから、体罰は一切やってません。 どんなことがあっても、体罰はしないように 心がけています。 怒るなら、ココロに染み渡る怒り方をしたいなあと おもっていますが、未だにへたくそです。。 皆さんは、どんな怒られ方したんでしょうかね。。
2006.03.20
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