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2024年01月03日
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テーマ: 日本の歴史(1070)
カテゴリ: 日本史
第96代後醍醐天皇の執念により、初めての武家政権:鎌倉幕府は滅亡しました。
しかし、その後の建武の新政は、倒幕に貢献した武士たちに報いるものではなかったため、早速反乱が起こります。
その中心人物が足利尊氏でした。
彼は後醍醐天皇と対立し、吉野へ追いやります。天皇を抱えない足利幕府は、正当性を得るために天皇をこしらえます。
ここに南朝(後醍醐天皇)と北朝(初代は崇光天皇、足利幕府がバックアップ)の二つの朝廷が誕生し、時代は南北朝大動乱を迎えるのです。

●南朝天皇(第97代後村上天皇、第98代長慶天皇、第99代後亀山天皇)
後醍醐天皇は京都への帰還を夢見て、1339年崩御します。
後を継いだ皇子の 第97代後村上天皇も、北朝・足利幕府と戦います。
その最中、足利幕府は内部分裂をします。足利尊氏と弟の直義の兄弟げんかです。(観応の擾乱)
ここで直義は南朝に下ります。
北朝・足利尊氏VS南朝・足利直義 の構図です。

追い詰められた尊氏でしたが、なんと 尊氏は南朝に和議を申込み直義を降伏させます。
この時に、北朝から南朝へ三種の神器が引き渡されたと云います。



このため直義を倒した後 、再び尊氏は後村上天皇と袂を分かちます。
再び正当性を失った尊氏。尊氏の息子で二代将軍:義詮は、再度北朝から天皇を立てます。
北朝四代後光厳天皇の誕生です。
三種の神器もなく、治天の君もいない状態です。それまでの三人の北朝天皇は、この時、南朝側に捕らえられていました。
ここで、義詮は、皇族ではない人(第93代後伏見天皇の女御、北朝三代崇光天皇・四代後光厳天皇の祖母)を治天の君として、後光厳天皇を即位させたのです。
後にも先にも、この時だけの前代未聞のことでした。



●南北朝合一(第100代後小松天皇の誕生)と国体の危機
後村上天皇は、あくまで正当性は南朝にある!と北朝と戦い、5度までも京都を制圧し善戦しました。
続く第98代長慶天皇も強硬路線で北朝と戦いますが、善戦していた九州戦線が崩れ、更に三代将軍足利義満の力が増していき、和平派の第99代後亀山天皇の即位も相まって、1392年明徳の和約が結ばれます。

即ち、三種の神器を北朝に返還し、鎌倉末期の時のように両統迭立として、南北朝合一を図るというものでした。
北朝6代の後小松天皇が、第100代の天皇として即位し、朝廷が一つになったのです。


南北朝合一を成し遂げた足利義満は強大な権力を握ります。
・天皇の許可なく明と勝手に冊封関係を結ぶ(古代から日本が中国に冊封したことは一度もない)
 →894年の遣唐使廃止を決定して以降、中国とは関わりがなかった(元寇で戦争はしましたが)
・後小松天皇を自分の住まいの北山第に呼び、隣に座る
・正室を後小松天皇の准母に
・息子を立太子の礼で元服させ、自分は太上天皇のように振る舞う
などの暴挙を行い、天皇家乗っ取りの動きをします。

古来から続く万世一系の天皇の皇統を繋いでいくという伝統を犯すものでした。
まさに国体の危機でしたが、息子の立太子の礼のわずか11日後に義満が急死したのです。
次の四代将軍義持は、父の治世を否定。
朝廷からの太上法皇の追号も拒否。そして明との勘合貿易も中止し、冊封関係の否定と断交をします。

こうして、 古来から日本の天皇を中心とした政治体制:国体の危機は去ったのです。



●両統迭立の反故と後南朝(第101代称光天皇、第102代後花園)
​​幕府は両統迭立を約束しましたが、反故にされ、後小松天皇の皇子:第101代称光天皇が即位します。
これに反感を持った南朝の残党勢力が決起します。後南朝です。
更に称光天皇の後が途絶えると、4代遡った北朝初代:光厳天皇を共通の祖とする、遠い親戚の第102代後花園天皇が即位します。
これに後南朝側は再度反乱を起こします。
二度に渡る反乱は失敗に終わりますが、1443年に三種の神器の剣・勾玉が後南朝勢力に奪われる禁闕の変(剣はすぐに奪還)、勾玉を取り返す長録の変が起こります(1457~58年)。


朝廷が2つに分かれてしまったことは、長く日本を混乱に貶めたのです。
そして日本に無秩序をもたらし、戦国時代に突入していくのです。


●困窮する天皇家(第103代後土御門天皇、第104代後柏原天皇、第105代後奈良天皇)
戦国時代は天皇家も困窮させました。
第103代後土御門天皇は崩御後、40日間もご遺体が安置されていたと云います。


第105代後奈良天皇も即位の儀が、即位11年後であったと云います。

初代神武天皇以来、最も貧しかった時と言えるでしょう。


●終わる戦国時代、復権する天皇(第106代正親町天皇、第107代後陽成天皇)
そんな戦国時代も、織田信長、豊臣秀吉によって終焉します。
両名は天下統一の過程で、天皇の権威に着目し、これを活用します。
これに伴い、第106代正親町天皇、その孫の第107代後陽成天皇の御代には、天皇が大きく復権します。



​​
​●江戸幕府による天皇抑圧策と尊王思想(第108代後水尾天皇、第112代霊元天皇、第115代桜町天皇、第116代桃園天皇、第117代後桜町天皇、第119代光格天皇)

豊臣秀吉の死後、天下を制したのは徳川家康でした。 家康は、信長・秀吉による天皇の権威を活用していたのを近くで見ていて、改めて日本が天皇を中心とした国家であるということを痛感したのでしょう。
天皇の権威を恐れ、信長・秀吉とは真逆で抑圧政策を進めます。
禁中並公家諸法度を1615年に制定し、法で天皇を抑えつけます。
これを盾に、 幕府は天皇の裁定などに口を出し、第108代後水尾天皇に徹底的に嫌がらせをします。
この意趣返しとして、後水尾天皇は徳川将軍家から送られた娘との子を天皇に即位させます。
第109代明正天皇です。一見すると、徳川家にとってはめでたいことに見えますが、女帝を誕生させたということは、「今後、明正天皇系統から天皇が即位することはない」ということを意味します。
女系になるからです。
後水尾天皇は幕府に最大限の抵抗・意地を見せたのです。




後水尾天皇の子:第112代霊元天皇は、自身の息子(後の第113代東山天皇)の即位後の初めての新嘗祭(大嘗祭)を復活させます。
第103代後土御門天皇以来、221年ぶりの復活でした。
これは朝廷内部でも慎重な姿勢があったようで、再度中断し、飛んで第115代桜町天皇の御代で、再復活しました。
徳川家に抑圧されながらも、朝議を復活させ、天皇家の権威が復活してきたのです。

第116代桃園天皇の御代では宝暦事件(1758年)、第117代後桜町天皇の御代では明和事件(1767年)が起こり、尊王思想の拡大と共に幕府の警戒が強くなってきます。


決定的だったのは第119代光格天皇の御代でしょう。
1782年の明暦の大火、1787年の天明の飢饉では、光格天皇が幕府に申し入れをし、これを受け入れさせています。(御所の再建、民衆の救済を実施させる)
特に天明の飢饉は、民衆は幕府ではなく御所に助けを求めたということで、 民衆も日本の中心は天皇であるということに気づき始めていたのです。


●迫る欧米列強、幕末大動乱(第120代仁孝天皇、第121代孝明天皇)
尊王思想が拡大する中、欧米列強がいよいよ日本に開国を迫ってやってきました。
幕府は列強との国力の差を痛感していたので、開国やむなしで考えていましたが、諸藩は情報が少なかったので、列強を打ち払う攘夷が大半を占めていました。
幕府が和親条約、通商条約を結んでいくのを見て、世論は反発します。更に幕府は反対派を粛正する(安政の大獄)ので、余計に国内で反発が起こり混乱をしていきます。


当初は攘夷を訴えていた長州藩・薩摩藩も列強と戦争をおこない、列強の力を思い知ります。
しかし長州・薩摩は幕府と協力するのではなく、幕府を倒して、自分たちで新しい日本を作ろうとします。(1866年1月:薩長同盟)
第121代孝明天皇も、薩長同様、当初は外国嫌いで攘夷派でしたが、次第に攘夷の不可を知ります。
ただ、薩長と違い、幕府と協力して国難に当たろうとしていました。(公武合体派)
そんな孝明天皇が1866年12月、突然崩御されるのです。
そして世の流れは倒幕に傾き、江戸幕府は崩壊。
鎌倉時代から続いた武家の時代は終わり、新しい時代が始まるのです。







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最終更新日  2024年01月03日 18時53分49秒
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