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2024年01月23日
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テーマ: 日本の歴史(1070)
カテゴリ: 日本史
近代国家になるために、中央集権国家を目指していきますが、列強の仲間入りするために解決しなければならない問題がありました。
領土問題です。

解決すべきところは
◎琉球(沖縄)
◎小笠原諸島
◎樺太・千島列島

でした。

◆琉球:沖縄(1874年国際的に日本領と認めさせる)
1871年11月、琉球船が嵐により台湾南部へ漂着。ここで原住民に殺害されます。
日本政府は清に責任を問います。当時、清が台湾を領土としていたからです。

これを受け、台湾征伐をしても清は関与せず問題ない として、軍が台湾出兵をします。
しかし、台湾に利権のあるイギリス・アメリカが干渉してきます。

そんな折、欧米視察から帰国した大久保利通が、慌ててこれを抑えにかかります。
イギリスに調停を依頼し、清と話し合いで解決することになりました。

<1874年10月日清互換条款>
◎台湾を支配するつもりはないが、出兵は正当であった
◎賠償金(日本が求めた1/4の金額で決着)

琉球人が殺害されたことに対する出兵は、琉球人が日本人であるということを他国へ認めさせたことになります。これが大きかったです。
琉球は、14世紀に明(清の前)の冊封を受け、17世紀に薩摩藩の属国となり、両国に属した曖昧な状態でした。
その意味で、日清互換条款の意義は大変大きなものでした。
全国の廃藩置県から遅ればせながら、1879年沖縄県になりました。
国民を守る、領土を守るという気概がいかに大切か、今の政治家は歴史に学んで欲しいです。


◆小笠原諸島(1875年領有確定)
小笠原諸島には1825年、イギリス船が父島に上陸して1827年に領有を宣言しました。

1851年には、アメリカのペリーが上陸し、日本開国のための前線基地にして、領有宣言をします。
お互い、先に見つけたぜ! と勝手に領有宣言しています。いずれの国からも遠いので、とりあえず領有宣言して、互いに抗議程度はしていますが、父島を巡って戦うまではいかなかったのです。

しかし、実は日本はそれより遥か昔、1675年に父島・母島に上陸しています。1670年に紀州のみかん船が遭難し、母島に上陸して幕府に報告していたのです。(この時、遭難者の島谷市左衛門は探検記録を残しています。)
それだけに、列強に小笠原諸島を見つけられ、領有宣言までされ、幕府は焦ります。
1862年、幕府の外国奉行:水野忠徳が咸臨丸に乗り、小野友五郎を使って小笠原付近の海図を作成します。


老中の安藤信正は米英に開拓を通告。
米ハリス「本国に確認する。 ただし住民の既得権益を要求する
英オールコック「 管理を怠った 日本に権利はない。帰属先は米英露に委ねるべき。 それでも開拓するなら外国船の自由な停泊を認めよ。それであれば干渉はしない

という反応を受け、開拓を決断、1862年に領有宣言をしました。
この辺の条件を読み取って領有宣言に動いたというのもありますが
・米は南北戦争という内戦に突入していたこと
・露は1861年の対馬事件でイギリスに追い返され、清や朝鮮の方に目を向けていた
・英は現地人が米寄りで、遅れを取っていたし、幕府との交易もあり動かなかった
動けないだろうという読みもありました。
島民も、遠い米英露よりは、近い日本に保護してもらった方が安心でした。

幕末大動乱に突入し放置されますが、その後の1875年、明治政府が領有宣言をしましたが、反対されませんでした。
一番は1670年の遭難者の島谷市左衛門も探索記録、1862年の幕府による海図作成。
これが大きな根拠となりました。幕府の残した遺産は大きかったのです。
※新政府軍の海軍も、元は幕府の長崎海軍伝習所が前身ですし、講武所はやがて陸軍に変貌を遂げます。
※幕臣小栗上野介が残した横須賀製鉄所・造船所もです。
 日露戦争の日本海海戦に勝利した東郷平八郎は、この造船所のおかげで勝てたと言っていたそうです。

幕府は敗れはしましたが、日本国を守りたいという「国を思う気持ち」は新政府軍と同じだったのです。
幕府の行動力・功績は大きく、明治新政府は幕府の遺産の恩恵を受けて発展しました。

今の日本の政治家にも、選挙の勝敗がどうだとかではなく、日本の将来を考えた人が増えていくことを願ってやみません。



◆樺太・千島列島(1875年ロシアとの国境確定)
幕末におけるロシアの進出は脅威でした。
列強の中でも一番最初に日本に現れていたのがロシアでした。
1770年代には北方四島や北海道の霧多布に現れ始め、通称を求めてきます。
この時、ロシア人の持ってきた地図には国後島がロシア領とされており、松前藩は抗議、通商を拒否します。(1715年、既に松前藩は幕府に北海道、樺太、千島列島、カムチャッカは松前藩領と報告していました)
北千島に現れた時は、抵抗者のアイヌ人を武力制圧、重税を課すなどして、アイヌ人が南下して逃げてくるなど、幕府に脅威が伝わってきていました。


1853年の日米和親条約を受け、 ロシアとも1854年に日露和親条約を締結。
その時は、
千島列島:今の北方領土最東端の択捉島までが日本、その先の得撫島から北はロシア領
樺太:日本人とロシア人の混在の地として、解決を先延ばし
になります。
そして ロシアは樺太に多くのロシア人を送り込みます(特にクリミア戦争が終結した1856年以降)。
今の北方領土に対してと同じですね。

1867年、これではまずいと、日露間樺太島仮規則を作り、樺太を南北で分ける案を日本が提案するも、結実しませんでした。むしろ、更に大量のロシア人を送ります。
明治新政府も負けじと日本人を送りますが、1875年、国力を鑑み樺太を諦めます。
しかし、代わりに千島列島全部を手に入れます。
ここでようやくロシアとの国境が画定しますが、その過程で受けた脅威が大きすぎて、その先の戦争の歴史はロシアの脅威によるものです。

ただ、現代の北方領土問題を考えた時、この時の日本政府の交渉力はすごいなと感じます。


いずれにせよ、1875年、琉球・小笠原諸島・千島列島と本土から離れた離島の領土が確定し、日本の国際的な領土が認知されました。

それは、幕府の残した遺産と明治新政府の努力・胆力によるものでした。​





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最終更新日  2024年01月23日 23時01分47秒
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